2010年12月30日木曜日

コダーイ・システムとは何か

そもそも移動ド教育の大御所、コダーイが考えた音楽教育の方法ってどんなだろう、ということで買ってみた一冊。実は随分古い本で、初版は1975年。でも、アマゾンでも入手できるということは、それなりに買う人はいるということでしょうか。

値段の割に薄い本で、全体は100ページ程度。ならすぐに読めるかというと、譜例がたくさんあり、言葉の意味と楽譜の内容を理解しながら読み進めようと思うと、意外と骨が折れます。
また、精神論と技術論がごちゃごちゃになっていて、書物としては必ずしも読みやすいとは言いかねます。
それでも、恐らく国内できちんとコダーイ・システムの内容を知ることのできる唯一の本なので、それだけ価値のあるもの。Twitterでも面白かった一節をいくつか書きましたが、ところどころ膝を打つような面白い文言に出会えます。

詰まるところポイントは、音楽的文盲を無くそう、生まれたときから音楽教育、保育園から民謡を集団で歌わせる、歌・合唱が音楽教育の基本、楽譜を見て音楽が思い浮かぶようになる、楽器に触れるのは後になってから、といった辺りでしょうか。本書ではこれらのテーマが繰り返し主張されていきます。

具体的な移動ドの練習法や、リズムの練習法もところどころ記載されていて、実践にも役立ちます。
正直大人を相手にしたものでは無いので、自分の音楽レベルを高めるのには役立たないでしょう。自分の子供にいかに音楽を学ばせるか、あるいは学校で、児童合唱団などでどうやって音楽能力を高めるか、その方法論を考えている方には大いに参考になると思います。
もちろん、読む者の音楽的リテラシーはそれなりに要求されますし、コダーイが教育に求めているものも、ある程度技術的な能力なのです。しかし日本には、こういうシステムに合致した教材があまり無さそうなので、実際に現場で適用するのは簡単ではないと思われます。

2010年12月28日火曜日

演奏会をYouTubeで公開!

妄想するだけでは飽きたらないのが私。
先日の12/5のヴォア・ヴェール第四回演奏会の様子を、YouTubeにて全曲アップしてしまいました。ヴォアヴェールのチャンネルはこちら

ちなみに、昨年まで私も在籍していたアンサンブルグループ、ムジカチェレステのチャンネルも最近作られました。
たかだか二ヶ月ほど前から公開を始めたのにも関わらず、一部の曲は随分再生されているようです。特に海外の有名合唱曲。私の思うに、世界中の合唱マニアがYouTubeで検索して辿り着いたのでしょう。
ご期待に添える演奏かは保証できませんが、それでも楽譜を手元にした人がどんな音か聞いてみたい、という需要くらいは十分満たせるのではないでしょうか。

よく考えてみたら、私も何かとYouTubeのお世話になっています。良くないとは思いつつも、流行りの歌を手っ取り早く聴きたいと思ったら、YouTubeで検索するのが一番早い。しばらくして削除されるものも多いですが、タダで聴けるというだけでスゴい需要があるはず。コメント欄を見ると「歌ってみた、ばかりで困ってました」なんて平気で書く人もいたりして、もはや違法という意識も無いのでしょう。
まあ、この辺りは常識がどんどん変わる世界ですから、敢えて良い子的意見を書くつもりもありません。実際私を含めた多くの人がお世話になっているわけですから。

ヴォア・ヴェールの演奏会の曲目は、もうちょっとドメスティックで、かつマイナーなものなので、それほど再生回数が伸びるとは思えませんし、団員以上に自分たちの演奏に興味を持つ人もそう多くはないでしょう。
それでも画像をちょっと見るだけで、私たちについていろんなことが分かります。それで、少しでも多くの人が興味を持って頂いたりするきっかけになれば十分なのです。

世の中、情報のオープン化は重要なキーワードだと思っています。オープンしたくない理由はいくらでも探せるけれど、オープンしたものとしないものとでは、社会的認知度は明らかに変わっていきます。早いうちからオープン化戦略を取ることのメリットを実験的に体験してみたいと私は思っています。

こちらにもその一部を貼っておきます。(千原英喜作曲「お伽草子」より「一寸法師」、指揮は私)


2010年12月25日土曜日

Twitterの心理学

Twitterを本格的にやってみて、ここ数ヶ月で自分の心持ちがちょっと変わったかなあ、という気もしないではありません。
やってみなければ分からない、とはまさにこのこと。人によってTwitterの考え方はまた全然違うし、他人に聞いてみても自分に合う答えなのかどうかは分かりません。

私自身の想いを言うなら、Twitterは自分自身を先鋭化させます。
自分の興味あること、自分のふと想ったことが、形になることによって、自分自身に再影響を与えます。そうして興味への振れ幅はより強くなっていきます。
文字数制限により、言葉は短くなります。他人への意見だって、挨拶も出来ない。この不便さは、ますます個人の態度を明瞭にさせます。自分の発言が「反論」なのか、まあ曖昧に済ますのか、すぐに他人に同調するのか、その相手が嫌いな人か、好きな人か、嫌われたくない人か、思わず冷たくしてしまう人か、短さの中にその想いが詰まってしまうのです。
他人のつぶやきを見ても、一人一人がどれだけ違う価値観で違う人生を送っているのか、ということに気付きます。リアルでは決して交錯しなかった人生が、目の前に展開される面白さというのは、時間がたつほどにじわじわと自分の意識を浸食していきます。

私自身は、まあ予想してはいたけれど、あんまりフォロー数を増やさずに見たいつぶやきだけをじっくり見る感じになってきましたが、それでも一般では有名でなくても、その筋の論客のような人たちの発言を見るのは大変楽しいです。
閉塞感が拭えない昨今の日本にも、それぞれの立場で頑張りながら、すごく頭が切れていて、的確な論評をできる人たちがたくさんいる。自分も影響を受けるし、関係する本を読んだり、音楽を聴いてみようという気になります。

iPhoneで気軽に見れる便利さもあって、ついつい時間を潰してしまうけれど、これ以上時間をかけるのは難しいし、付き合い方にはもう少し工夫は必要。
しかし、一度先鋭化してしまった自分はもう元には戻れなくなります。自分に出来ることは多くはないけれど、人生に対する目的意識も少しずつ変わっていくかもしれません。
社会全体が組織から個人主体に移っていく大きな流れを感じます。もともと大規模組織が苦手な私には、望むべき未来でもあるのです。

2010年12月21日火曜日

TRON:LEGACY

ディズニーの3Dの最新SF映画。TRONというと、技術者的には国産OSのことを思い浮かべますが(μITRONにはいつもお世話になっています)、大昔にTRONという映画があったのですね。
今年前半くらいから何回か予告編を見ていて、この手のB級(の匂いを感ずる)SF好きの私としては、密かに興味を感じていました。

ということで、なぜか月曜の夜に映画を見に行ってきました。
率直に言うと、ストーリーは今ひとつ。というか、かなりダメな部類に入るかも。前半のセリフの一つ一つが素人くさくて、かなり幻滅。この手のリアリティのない説明的なSF脚本は日本のお家芸だと思っていましたが、アメリカ製でもやってしまうもんなんですね。
後半以降のアクションでは、それぞれの登場人物が何のためにどこにいるのか、ということが不明瞭。鉄道だと思っていたら、工場だったり、集会所だったり、でもやっぱり宇宙船だったみたいな。もちろん作る方は何らかの想定があるのだけど、ご都合的に脚本を作ると、一度見ただけの観客には理解しづらくなるもの。クリエータ的には反面教師で、勉強になりますよ。

それでも、全体の洗練されたデザインや、映像にはそれなりのクオリティを感じました。全体的に薄暗い中で、白い光とオレンジの光が交錯し、それぞれが明瞭に敵味方を示しているのは映像的に分かり易いです。戦国ものや中国映画なんかでもそんなのがあったような。
人物も漫画的で、女性も人格をはぎとって女性美だけを追求したようなモデル系美人ばかりなのは、電脳空間のイメージをうまく表現していたと思います。ただ、マスクをかぶると誰だか分からなくなる、というのはちょっと失敗だったかも。

ただ、プログラムを擬人化した電脳空間というモチーフ、もっといじりがいがありそうだし、うまく別にテーマ性を持たせたら内容の深い映画になるのになあ、と感じます。そういう意味では、やはりマトリクスは偉大でしたね。

2010年12月18日土曜日

PD合唱曲に「移動ド練習曲」シリーズ開始

先日、練習曲シリーズと題し、PD合唱曲内に、最初から練習用として使う曲をアップし始めました。今回は、そのシリーズ中に、さらに小シリーズ「Movable Do Etude(移動ド練習曲)」というのを作ってみました。

iPhoneで最初に作ったアプリが"MovableDo"、つまり移動ド練習用のアプリでした。もともと移動ド信仰者である私が練習用の曲を作るなら、移動ドによるソルフェージュ訓練用のものになることは、よく考えれば自明な成り行きです。
そう、いつかは私はこれらの一群の曲を作らねばならなかったのです。実は、これまでも何度もソルフェージュ訓練用の曲を作ったらどうか、という考えは持っていたのです。あれこれ曲集の中身を夢想する度に、なにやら壮大なモノになってしまいました。
もちろん、私は専門的に音楽教育に携わっているわけじゃないですし、そういうことをアカデミックに追求したこともないのですが、ソルフェージュ向上の方法については、合唱を始めた頃から大変興味を持っていました。

残念ながらソルフェージュに関していえば、現実の訓練の現場というのは、全然システマチックじゃないし、計画的なものでもありません。なら、ややゲーム感覚で、あわよくば自分の苦手な部分に気付いてくれればラッキー、程度の訓練用の曲で十分じゃないかと思ったわけです。取り上げる方も、多少の気楽さがないとなかなか手にとってもらえません。
そんなわけで、結局衝動的に作り始めました。
こちらから辿って下さい。すでに4曲ほど作ってみたところです。今後もなるべく、曲調、難易度をランダムに散らせて作っていきたいと考えています。
今のところ、各曲は二声で作ってあります。単純にソプラノ/テナーが上の段、アルト/ベースが下の段を歌えばよいでしょう。四声別々のパートだと、前に立つ人が合っているか間違っているか認識するのが難しくなるので、このくらいが妥当ではないかと考えました。

さて、練習で実際に使う際には、以下のような流れがよいでしょう。
1.練習するその日に初めて楽譜を配ります。
2.その場で、数分各自で音符を(歌わずに)見てもらいます。
3.最初の音だけ与え、一度も音符を弾かずにいきなり歌ってもらいます。
4.歌えなかった場所を、各自でもう一度歌わずに確認してもらいます。
5.歌う→歌えない場所確認、を繰り返します。

なお一度練習した楽譜は、それで用済み。曲を記憶してしまうと、ソルフェージュの練習にならないですから。

はた迷惑でしょうが、ウチの合唱団で何曲か実験してみて(歌ってもらって)、またいろいろ方向性を修正します。
これを読んでいる方で興味がありましたら、是非、皆さんの合唱団で試してみて下さい。ご意見ご要望がありましたら何なりとお知らせ下さい。
いろいろなところで使ってもらえるととても嬉しいです。

2010年12月12日日曜日

音楽と同期する演出

演奏会のプロジェクタの投影などの演出ネタ。もう少し考えてみましょう。

映像や照明を音楽に合わせる、という感じで演出してみようと思うと、だんだんシステムが大がかりになります。こういう状況を一言で言うと、演出が音楽と同期する、ということ。この同期システムをどう作るか、を考える必要があります。

まあ、考えるまでもなく、映像担当者と照明担当者が楽譜を見ながら操作するしかないじゃん、と思うかもしれません。いわば人力同期システムです。
今回、我々が演奏会でやった曲進行に合わせた紙芝居も、人力同期システムでした。
舞台で展開されている音楽を同期のマスターと考えれば、その他のものがそれに従属するしかありません。結果的に、それは人力で楽譜を見ながら機器を操作するということになります。

しかし、実際のショービジネスの現場では、曲に合わせた派手な照明・映像の変化は日常茶飯事。これは、担当者が音楽を聴きながら操作しているのでしょうか。
今のポピュラー系コンサートでそういった演出をする場合、恐らくほとんど音楽が同期のマスターになっていないと思います。
つまり、同期クロックは演奏とは別のところから出ていて、舞台上の演奏はそのクロックに合わせて演奏するのです。今どきのドラマーは、ほとんどイヤホンで「ピッピッピッピッ」というクリック音を聞きながら叩けなければ商売出来ません。
オーケストラでも、一昔前の映画音楽は、指揮者が映像を見ながら指揮をしていたそうです。一昔前、といっているのは、今ではオーケストラサウンドも生演奏ではなくコンピュータ上で作れてしまうからです。

もっともポピュラー音楽はほとんどの場合、BPMが一定で、アゴーギグの変化がありませんから、クロックに従って音楽が進行しても、音楽の質にそれほど影響しません。
テンポ感やアゴーギグが重要な音楽性の一つとなるクラシック系音楽では、なかなか同期のマスターが音楽以外にあるという状況を受け容れるのは難しいかもしれません。

それでも、私はそういうやり方ってあり得ないかなと夢想してしまいます。
アゴーギグがある場合そういうテンポの変化も含めて、全て事前に固定してしまいます。指揮者はクリック音を聞きながら指揮し、何度演奏しても同じ時間で演奏できるように指揮者も演奏家も練習します。(それを音楽的でない、と感じないことにするしかありません)
その上で、同期クロックに合わせて、映像機器や照明機器に指示を出すようなシステムを組みます。やろうと思えばプログラムを書いて、人が操作しなくても自動に動作するシステムを作ることは可能でしょう。
恐らく、ショービジネスの世界ではそういったシステムが、技術的にすでに出来上がっているものと想像します。
椎名林檎の08年の「林檎博」のDVDを見ると、オーケストラと指揮者がいるのに、音楽と演出と打ち込みが完全に同期しているのが見て取れます。どう考えても、指揮者がクロックを聴きながら振っています。

もちろん、生演奏は会場の残響やら、人の入りやら、いろんな要素に影響されるから面白いという側面もありますが、やや次元が低いと思われても、少々派手な演出のために音楽の時間軸を固定してしまうというのは個人的にはアリだし、いつかやってみたいという気持ちも持っています。

2010年12月9日木曜日

隠すより、出しちゃおう

ウィキリークスのニュースが毎日のように報道されています。
私なりに考えるならば、彼らにはあまり非がないように思えます。そもそもジャーナリズムって、場合によっては政治や公の場にいる人たちを告発したりすることだってあるもの。そうやって、権力を監視することで、社会の均衡を保っているという役割だってあるはずです。
そういう情報源は結局は内部告発者。それを大々的に、あまりに鮮やかに、莫大な量で公表したというだけのこと。やり方やその量を問わなければ、これまでのジャーナリストがやっていることと大して変わらないように思えます。

尖閣諸島のビデオ流出については、違法性はありそうですが、後になって、海上保安庁の人たちは誰でも見れたと聞くと、さもありなんという感じです。
そもそも社内でイントラネットを使って書類を共有するのは、業務の効率化のためです。みんなが見れるからこそ、昔に比べ情報伝達が速くなりました。
そんな時代「見られなくする」仕組みを考えることは至難の業です。なぜなら、組織内の人をランクで分け、公開の範囲を制御しなければいけないし、秘密文書がある度に、この文書はどのランクまで公開すべきか、個別に考えなければいけません。それだって、漏れさえしなければ何の意味もない作業です。

ネット時代、隠すことは非常に難しい、という教訓を私たちはまざまざと見せつけられました。
今や隠すことは、個々人の倫理観に頼るしか手がありません。しかし、組織に反逆者は付きもの。いつだってリークをしたい人はどこにでもいるし、彼らがその手段を手に入れてしまった以上、もう原理的には物事は隠せないと言えます。

その一方、公開することが力になる事例が増えています。
ソフトウェアの世界では、オープンソースという考えがかなり広まってきました。今や、多くの有名な技術はオープンソースで開発されています。オープンソースとは、プログラムを世の中に公表してしまおうという開発手法です。
公開してしまったら、重要な技術まで赤裸々になり、世間にばれてしまうかもしれません。今でも多くの人はそう考えます。ところが、事実は逆だったのです。少なくとも他人の技術を盗むために、数百万行のプログラムを読む、なんて効率が悪すぎます。どこに重要な技術が眠っているのかなんてわかるわけありません。そして、そんなもの解析しているうちに時間はどんどん過ぎ去ります。
むしろ、オープンソースのプログラムを喜んで読む人たちは、その製品や技術を愛している人たちです。彼らは自分の好きな製品を、もっと良くしたいと思うのです。そして、不具合があると、その不具合の元を調べて開発元に教えてくれます。あるいは、もっと性能を良くしたプログラムを送ってくれる人もいます。
そういう人たちがネット上で集まり、コミュニティを作ることによって、ますますその製品を愛する人が広まり、製品は品質を高め、そして世界的な広がりを得ていくのです。

また別の話。最近、向谷実氏&中西圭三氏がUSTREAMで、レコーディングの様子を全て公表するという試みを行いました。プロのミュージシャンにとって、レコーディング方法なんて企業秘密もいいところ。しかし、それを惜しげもなくさらすわけです。同業者が見るというより、音楽制作に興味を持つ音楽マニアがプロのレコーディング風景を見たがるという需要は確かにあります。それで興味を持った人はその曲を買いたくなることでしょう。曲の制作の様子が分かれば、曲への愛着も湧くというものです。

商品価値のあるものをタダで公表する、というのは一見、もうけを無視しているように見えます。ところが、その結果これまでの10倍、あるいは100倍の人から注目を得るようになり、結果的に大きな商売が出来るようになるという循環です。
何かを為し得たいのなら、世の中に広く知られる必要があるし、そのために多少の損失を覚悟しても価値のあるものをネットで公表してしまう、という方法は、今後いろいろなジャンルで顕在化するような気がしています。

2010年12月8日水曜日

わりと未来の演奏会

無事、演奏会終わりました。私は、今はもうヴォア・ヴェールでしか音楽活動してないので、3年に一度の今度の演奏会は一大イベントでした。なんとか終えてほっとしているところです。

何度もご紹介しているように、今回は舞台右に大きなスクリーンを置いて、いろいろな情報を投影してみるという演出を試みました。
実は我々のリハーサル時の写真が、こちらのブログに出ています。
スクリーンへの投影ですが、実は、本番までにいろいろ大変なことがありました。
一つは、スクリーンの設営がホールのスタッフの予想に反して簡単ではなかったみたい。最終的には、いろいろな詰め物をして何とか固定していたようです。
もう一つは、プロジェクタの設定を変えようとしたら、プロジェクタの状態がおかしくなってしまい、担当していた方は30分ほどパソコンやプロジェクタと格闘していたようです。結局、プロジェクタを初期化して事なきを得たみたい。こういうデジタルものははまると怖いですね。

幸い、今回スクリーン投影については、多くのお客さんから良かったとの感想を頂いています。絵もかわいかった、と好評でした。
一通り何に使ったか紹介しておきましょう。
・開場の間:挨拶、チラシ、注意、を時間で切り替え
・第一部:世界地図や写真を投影してMCで説明、曲中は曲の説明
・休憩:団員の一言、各パートの写真、を時間で切り替え
・第二部:歌詞、紙芝居(「お伽草子」のみ)
という感じです。

プログラムにたくさんの情報を載せても、演奏中は暗くて読みづらいし、舞台のほうを向けません。今回のように舞台の近いところに情報が見えるというのは、お客様にとっても分かり易い方向になったのではないかと思います。
歌詞の場合も、なぜ音楽がこういう表現なのか、歌詞の意味が分かればだいぶ理解してもらえるはず。舞台を見たまま、歌詞がわかるというメリットはかなり大きいのではと思います。

そんなわけで一度味をしめてしまった映像の投影。次の機会にも是非トライしてみたいですね。
そのときは、さらに音楽との同期を深め、お客さんの曲理解の補助に使いたいです。動画などを使えば、休み時間も楽しんでもらえるでしょうし、いっそのことCMを流して広告料をもらっちゃうとか、考えればいろいろネタがあるのではないでしょうか。
とりあえず、こんなことが出来ることが分かったのは収穫。音楽だけではない部分にもいろいろと工夫して、自分たちの演奏会を面白くしたいと思います。

2010年12月5日日曜日

未来の演奏会

演奏会の生中継、なんてキーワードが出てしまったので、自分の演奏会の前日に、もうちょっと妄想してみましょうか。
すごく単純化するなら、今一部のプロでしか出来ない技術が、今後だんだん一般的になっていくという流れになることは否定できないでしょう。

例えば、映像を投影する件。これはスクリーンにしても、プロジェクタにしても、だんだんとホール内に標準で設備化されていくことでしょう。例えば、合唱コンクールだとプラカードで団体名を表示するわけですが、こんなものは真っ先に電子化されるでしょうし、字幕系は軒並み投影可能になりますね。
今テレビ番組で頻繁に流れるようなテロップだって画像投影で出来るし、さらにお客さんが専用メガネをかければ、ARっぽいこととか、ニコニコ動画のように画面にテキストを流すことも出来るかもしれません。
ホール毎に、投影設備は多少は違うのでしょうが、そういうのが標準化されていけば、機材やツールも手の届く範囲に入っていきます。クラシックに限らず、バンド演奏や、カラオケ大会など、あらゆる発表会において、そういう需要はあると思います。

演奏の録画についても、誰かが自前のカメラを使うのでなく、ホールに作り付けのカメラが使えるようになっていくでしょう。複数のカメラを用いてマルチアングルで映像を(リモコンで)撮れるようになれば、その手のプロを一人頼むだけで結構いい感じの映像を作れるようになるのではないでしょうか。
これは、単なる記念のDVDを作る、という用途だけでなく、ネットを通じたリアルタイム生中継までが視野に入ります。不特定多数に見せるなら、なおのこと映像もそれなりに手の込んだものにしたくなるものです。

映像の次は音響。クラシックは生演奏だから関係ない、なんてことはありません。
司会がいればマイクが必要です。また、楽器が入ってくれば、PAで多少の補正もしたくなります。ステレオに落とすにしても、複数マイクで録ってミキシングすればより良い録音になるでしょう。今はまだ専用のPA屋さんが何人か必要ですが、もっとこの辺りの周辺技術が進歩すれば事前音響調整も不要になるかもしれないし、これもプロを一人頼めば出来るようになるかもしれません。もちろん、ここでもCD作成だけでなく、リアルタイムで音声を直接ネットに発信する用途を想定しています。

そして、このように誰でも今のプロ並みのことが出来るようになると、今度はそれを使って何をやるのか、というセンスが問われるようになります。センスもないのに思い付きのようなアイデアの塊で、こういった道具を使うとかなりみっともない結果になる可能性があります。

未来のとある日、ネット上では、例えば、毎日のようにいろいろな団体の演奏が生で流れています。その中で自分の興味のある事柄を検索し、該当する演奏会を自由に鑑賞できるようになっていくわけです。
団体にとっても、世界中でどれだけの人が見てくれたか、ということが再生数で分かります。再生回数の多い団体は、ランキングなどで目立つことになりますし、そうなればさらに世界中の注目を浴びるようになることでしょう。
ネットだとタダで見れるのでお客が減ってしまう、という危惧はむしろ逆で、ネットで評判になれば次の演奏会にはたくさんのリアルなお客が増えると思います。

このように誰でも世界中の演奏会が見れるようになる、というのは、10年くらいの内には認知度は高まるでしょうが、多くの演奏家が積極的にこの仕組みを使えるほど一般化するには、さらにもう20〜30年くらいかかるかもしれません。
しかし、着実に世の中はプロもアマも関係なく、同じような土俵に立つ流れになっています。そして、ますます純粋に音楽の質だけで、善し悪しが語られる、嬉しいような厳しいような世の中になっていくと私には思えます。

2010年11月29日月曜日

演奏会にプロジェクターを使う

一週間後に迫った我がヴォア・ヴェールの演奏会にて、今回初めてプロジェクターを使用します。
以前、こんな話題を書いたとき、結構コメントが盛り上がったりして、いつかやりたいとは思っていたのです。
今回、千原英喜の「お伽草子」をやるのですが、練習の最初の段階で「紙芝居にしたら面白いよね」みたいな話をしたら、じゃあやってみようか・・・みたいなノリで一気に決定。
演奏会場は決して新しいところではないのですが、ホールに相談してみたらスクリーンもプロジェクターも借りれるということで、思っていたより機材に苦労せずに出来ることが分かりました。

しかし、プロジェクタ投影ってあまりにも可能性があり過ぎて、逆にプレゼ側のセンスが非常に問われると思うのです。何を投影するか、ということだけでなく、どれだけ切り替わるかとか、字の大きさとか、配色とか、そういうことが見た印象を大きく左右します。
仕事の場でも、びっちり文章が書いてあって、読む気が失せるようなパワポ資料を良く見ます。グラフなんかも小さな字で余計なことがたくさん書いてあって、どこを見たらいいか一瞬では分からなかったりすると、やはり作り手のセンスを疑います。
今回は「紙芝居」が一つの目的だったので、絵もあんまりダサいものにするわけにはいきません。近場で書けそうな人が思い付かなかったので、実は今回こんなサイトで絵を描く人を募集したのです。
お金は多少使いますが、ある程度こちら側で人を選べますし、知らない人だから多少はビジネスライクに事を運べます。おかげさまで、なかなかいい絵を描いて頂くことができました。絵は当日のお楽しみ。

「お伽草子」以外は基本的に、歌詞か、訳詞か、曲の説明です。いずれも、なるべく文章が長くならないよう気をつけました。画面一枚、というと、本当にTwitterと同じ140文字くらいがちょうど良いのです。それじゃあ十分な説明が書けない、と思う人もいるでしょうが、読む側からすれば、短くてなおかつ的確な文章であればそれで十分。
また、休憩時には団員の一言(これも140文字以内)や、各パートの写真などを投影する予定です。

今回は、歌詞も曲説明もプロジェクターで行うので、その代わり大幅に印刷するプログラムの内容を減らしました。お客さんに配るプログラムは、本当に演奏する曲名程度の情報しかありません。
いちおうオペレータとは投影について何回か打ち合わせしましたが、実際にやってみると思いもしなかった問題点などがあるかもしれません。お客さんからいろいろ意見を頂ければ、また次回気を付けることも出来ますから、そうやって回数を重ねてノウハウを貯めていきたいと思っています。

まだまだ演奏会ではこういう仕掛けは主流ではありませんが、お客さんが楽しんでもらうことが第一ですから、個人的にはどんどん新しいことをやってみたいです。
この次はネットで演奏会の様子を生中継・・・なんてことも、必ずしも夢ではなくなってきました。こういう仕掛けをセンス良く、上手に使えるような団になりたいですね。

2010年11月25日木曜日

楽譜を読むー一寸法師(お伽草子)

千原英喜のお伽草子より、ヴォア・ヴェールの演奏会では2曲演奏します。
2曲目は「一寸法師」。意外とストーリーを覚えていない昔話。鬼退治に行く昔話は、金太郎とか桃太郎とかぐちゃぐちゃになっていて、どれがどれだか分からないもんですね。
で、一寸法師も鬼退治なのです。
しかし、オリジナルの一寸法師は上昇志向の強い、ややあくどいとも思えるキャラクター。なのに、最後に背は高くなるわ、金銀財宝を手に入れるわ、美しい姫と結婚するわで、おおよそ道徳的とは言い難いストーリーに思えてしまいます。

さて、この曲でまず目にとまるのは冒頭、一寸法師のテーマのアーティキュレーション記号の多さ。スタカート、アクセント、メゾスタカート、がたくさんついています。それほど、このフレーズにこだわりがあるのかは、ちょっと疑問。私は、たくさん付けること自体が目的のようにも思えます。つまり、テーマとしてフレーズに特徴を持たせようといった意志です。
この曲も紙芝居的にいろいろなフレーズが現れてきますが、そのような音楽に構造性を持たせるには繰り返しを強く意識させる必要があります。そのため、特定のフレーズを際立たせるため、わざと過剰な表情を付けさせるというのは、理にかなっているわけです。

もう一つ、細かいこだわり。練習番号7の微妙な音価の設定は何でしょう。普通考えれば「タッカ」のリズムなので、「付点八分+十六分」で書けばいいのに、わざわざ「八分+十六分休符+十六分」で書いています。行進曲風にとあるように、よほど柔らかく歌われるのが嫌だったのでしょう。間に十六分休符を入れることによって、心理的に音が硬くなるように歌うはず。ですから、何も考えずにここを「タッカタッカ」で歌ってしまわないように気をつけるべきです。

和声的には相変わらずのドライなほどのシンプルさ。だから、凝った音使いにはことさらに注意が向きます。例えば、26ページ頭の辺りの「くらわんとー」。変な音程は実は単なる半音進行。こういうところは変にしたいだけなのだから、それほど音程にこだわる必要もありません。
しかし、練習番号18の「どう、どう」は珍しく非常に多声に分かれ、旋法的な音の塊を作ります。このハモりはきれいだし、音程を外したくないところ。しかし、div.が多くて練習ではなかなかハモらず、苦労しています。

その後、大事なところはユニゾン、という千原節がここでも豊かに展開されます。
あぁ、この大胆さはとてもかないません。アカペラでこんなにユニゾンをうまく使える作曲家は、もう千原氏しか考えられません。同じようにやったら真似にしかならないし・・・
こういうユニゾンは、いわゆる教会音楽をやるような繊細さは必要ないかもしれません。聴き手を圧倒するような語り口こそ、求められます。

あと、ちょっと戻りますが、練習番号13からのアップテンポのフレーズも千原氏独特で気持ちいい。「おらしょ」にも出てきますが、男声と女声が掛け合いになり、男声内、女声内で反行形を作ります。適宜、男声のみ、女声のみ、同時に全員などを織り交ぜて変化を付けていき、クライマックスに向けてテンポと音域を高めていきます。シンプルな音使いだからこそ仕掛けが明瞭になり、効果が高くなります。

何度も言っていますが、千原英喜氏は現在の邦人作曲家で今私が最も尊敬する人です。大胆さと芸の細かさ、曲全体の構想と、シンプルかつ効果的な表現が、実に巧妙に織り上げられているのです。
12/5の演奏会では、どこまでうまく表現できるか分かりませんが、精一杯歌わさせて頂きます。

2010年11月21日日曜日

未来型サバイバル音楽論/津田大介+牧村憲一

Twitter伝道者である津田大介と80年代、90年代の音楽界仕掛け人?である牧村憲一の対談による日本の音楽業界論。
ここで述べられていることは、こういうことに興味ある人ならたいていは知っている内容なのですが、それがとてもシンプルに整理されていて、ここ十年くらいの音楽を取り巻く状況が俯瞰できるのが本書の嬉しいところ。また、実際に新しい取り組みをしているレーベルやアーティストの実例がたくさん挙げられているのも、大変興味深く読めます。

もちろん本書の中身は純粋な音楽論ではありません。音楽ビジネス論です。
しかし、芸術の有り様というのは「お金」の話抜きに語れないと、最近私は思っているし、だからこそ、音楽家、芸術家がもっとビジネス的な視点で自らの芸術家活動を行うべきなのです。
そして、本書もこれからのミュージシャンにそういう事業家としての視点が必要であることを説いています。

牧村氏からは「一人1レーベル」とか「村作りの発想」というアイデアが出されます。ネットで広く発信できる現在だからこそ、逆説的なのですが、閉鎖的なコミュニティを指向した方がむしろこれからは有利なのでは、とのこと。
これは大変、示唆に富んだ話です。グローバル化して市場がとてつもなく広くなったからこそ、方向性や嗜好が狭くなってもビジネスが成り立つということ。逆に広く売れようと思うと無個性的になり、芸術そのものの力が無くなってしまう、というような状況を言っているのだと思います。

この本を読んで思ったのは、今は大変な変革時期だというのは確かなのだけど、そもそも音楽業界自体が十年単位くらいでその有り様を変えていたのだと言うこと。
特に70年代、80年代までは、音楽の再生装置(オーディオ機器)がまだ高価な時代で、レコードを買って音楽を鑑賞すること自体が贅沢な趣味だったのは、思わず忘れかけていた事実。そんな時代と90年代以降の市場性は違って当然でしょう。
思い起こせば、私が高校生の頃、親に「ステレオ買って〜」とねだって20万もするようなセットを買ってもらったっけ。でも、レコードなんて全然買わずにレンタルばかりでした・・・
そして、90年代はCDがとてつもなく売れた時代。そして自分自身もCDを買いまくっていた時代です。そう考えると、音楽ビジネスってそもそも全然安定して無くて、10年単位くらいで常識が変わってるんですね。だからCDが売れなくなった、なんてほんとは大した話ではないのかも、という気がしてきました。

まあ、いずれにしても、音楽を作ったり流通したりする手間が極限まで下がったおかげで、アーティストが自分の力だけで世界に発信することが可能になっています。こういった時代に、新たに生まれるべき音楽ビジネス、あるいはビジネススキルとは何なのか、そういうことがしばらく暗中模索されるような時代になったと言えそうです。
そんな時代にちょっとばかり自分もプレーヤとして参加してみたくなってしまいました。

2010年11月17日水曜日

PD合唱曲に「練習曲」シリーズ開始

Twitterですでに紹介してますが、PD合唱曲内に「練習曲」というコーナーを設けました。
今のところ「超絶練習曲」と題した楽譜を三つほどアップしています。これも、少しずつ書き足していって、シリーズ化したいと考えています。
こちらから辿ってください。

なかなか大きな作品を作る余裕も、要求も無いので、今私が出来ることは、小さなものを小出しにすることかな、と考え始めています。PD合唱曲という形で、小品も書き足しているのだけど、それとは全然別の形で、作品として歌うのでなく、レッスンとか、気分転換とか、ソルフェージュの練習とか、そういう形で使えるのもいいかなと思い付きました。

ややおふざけ感も漂わせつつ、合唱の多面的な表現を開発するようなそんな一連の曲を作ってみたいと思ってます。手拍子とか、ステップ付きとか、かけ声とか・・・あんまり真面目に練習曲であることを極めるつもりも無く、いろいろ面白い楽譜を作りたいと思ってます。

皆さんのこんなのが欲しい、こんなのどう?とかいったアイデアがあれば、Twitterで @hasebems 宛までお寄せください。やりとりの中で何らかの形に発展するかもしれませんし、面白そうなアイデアなら即採用するかも。そんなコラボっぽいこともしてみたいです。

2010年11月14日日曜日

楽譜を読むー阿波踊り(三善晃「五つの日本民謡」)

私の指揮ではないですが、ここ2年ほどウチの団で練習しており、今度の演奏会でもちろん演奏いたします。
歌う立場から見れば、特に練習を始めた頃は、あまりの音の難しさに衝撃を感じたものです。練習を重ねるほどに音程が正確に・・・と言いたいところですが、まあいろんな意味で歌い慣れました。

それにしても、この曲の音程のハチャメチャぶりは何と言ったらよいのでしょう。
この曲の面白さ、スゴさを理解するには、このスケール外のとんでもない音程の数々の意味を考える必要があります。まあ、私なりの結論としては、いわゆる祭りの喧噪、躍動感のようなものをワイルドに表現するためのものと捉えています。そういう考え方をするのなら、これらの複雑な音程を完全に正確に歌わなくてもワイルドさが感じられれば良い、という曲作りの方針になるでしょう。

しかし、仮に私が、作曲前に全く同じアイデアを思いついたとしても、このような形で完成させることは不可能だったでしょう。まさにこれこそ、三善晃という天才のなせる技ではないかと思うわけです。
例えば、冒頭のページのアルトパート。長い音価の音はスケール外の音が多いのだけど、必ずスケール感を漂わせる音を点在させているのが分かります。また、あくまでメロディは半音階的で、祭りでのかけ声を旋律的にもじっており、とてつもなく前衛っぽいというわけではありません(例えば、十二音技法のモチーフとは全然違う)。
アルトと同じリズムで補助をするテナーパートは、アルトの非スケール音を決して仲間はずれにしないように、完全五度の音で補強していたりします。
つまり、とびきり現代的な非和声音を使っているように見えて、ヘンテコな旋律をハモりの力学で何とか繋ぎ止めているのです。

実はベースを歌っていると、その感覚はさらに強まります。このような非スケール音が乱舞する音楽の中にあって、ベースだけはとてもベース的な役割を捨てていません。強拍では、ほとんどスケール外の音が現れないし、トニック感、ドミナント感を一手に担うような音程が連続して現れます。

こんなにヘンテコな音を多用しているにも関わらず、誰が聞いても曲の雰囲気を理解出来るのは、こういった最低限の和声的な骨格を確保しているからなのです。
なお、非スケール音は和音の音とぶつかってしまうので、この曲ではほとんど和音がなりません。民謡の旋律とベースとヘンテコな音のお囃子、これだけ。各パートが同じEであっても、全く気にせず。
こういった大胆な作曲は出来るようでなかなか出来ません。それ故に、この曲は数多の合唱曲の中でも圧倒的に個性的であり、人々の興味を引きつけて止まないのだと思うのです。

2010年11月10日水曜日

PD合唱曲に混声合唱曲「わが背子は待てど来まさず」追加

��年半ほど前に途中まで作曲していて放置されていた断片を発見。
実際音を出して聞いてみると、結構悪くない感じ。なぜ途中でやめてしまったのか、今となっては全く思い浮かびません。そんなわけで、残りの部分を作曲し(というか前半部分を繰り返し、最後の5小節だけ新規に作曲)、表情の追加と歌詞割りを行って、完成させてみました。

テキストは万葉集から。詩人名は書いてないですが、恋人を待っているが現れない悲しさが歌われています。同じ頃作った「この月は君来まさむと」と、一緒にテキスト選びを行いました。

やや種を明かすと、断片の状態には全く歌詞割りが書かれておらず、音符と音節数が全く合わなくて、びっくり。恐らく当時の私のスタンスは、詩の抑揚よりも音楽のモチーフを強調した曲にしたかったのでしょう。
従って、後で歌詞を入れる際には、随分メリスマっぽく音節を引き延ばしてみました。なるべく自然になるように考えてみたところ、2年前の自分もきっと同じように考えていたのでは、というスイートスポットに収まった感じがしています。不思議なものです。

「オリジナル作品紹介」→「PD合唱曲シリーズ」→「混声合唱」のページの一番上にあります。楽譜はコレ。いつものようにMIDIファイルも置いてありますから、電子音で音を確認できます。楽譜を見ながら聴いてみて下さい。
またPublic Domain扱いですから、自由に楽譜をコピーして歌って頂いて構いません。

2010年11月8日月曜日

楽譜を読むーPater Noster(J・スヴィデル)

12月の演奏会の曲紹介シリーズということで、スヴィデルの「Pater Noster」の紹介をしましょう。
スヴィデルは1930年生まれのポーランドの作曲家。80歳ですから、もうかなりの高齢ですね。この人の曲からも私好みの論理的構築性、メカニカルな音の運びが感じられて、何作か曲を聴く度にどんどん好きになっていきました。

今回のステージで取り上げる作品「Pater Noster」は、ポリフォニックな要素が多い作品。
一般的にポリフォニックな音楽は古典和声的な世界の上に成り立つものですが、スヴィデルは現代的な響きと、ポリフォニックな構成をうまくブレンドさせています。こういう手腕は、情緒的というよりは極めて理知的な作業。
特に冒頭3ページは和声というより、旋法的な感覚で作られていて、その中で縦の響きに破綻をきたさないように作るのは、パズルを解くような楽しさだったかもしれません。16分音符の同音による小刻みのビートと四分音符ベースのフレーズの対比がとても面白く、演奏の際には二つのモチーフの性格をきちっと歌い分けたいものです。

その後、曲はffになって音量的な頂点を迎えます。この力強くかつ繊細な和声の流れもとても素晴らしい。でも、そんなにディヴィジも多くなくて、テンション音を多用しているわけでもありません。こういう和声展開って邦人曲ではなかなかお目にかかれない美しさだと感じます。
その後の andante のポリフォニーがまたメカニカル。きちんと和声のアナリーゼをすれば何らかの流れは見えてくるかもしれません。ちょっと面倒でそこまではしてませんが、響き的には減七和音の連続をベースに作られている感じはします。この緊迫感を持続させる音楽の展開は、この作曲家の真骨頂と言えるかもしれません。

それまでの厳しい雰囲気から、C-durの優しい響きに変わるところ(11ページ)、恐らく Pater Noster のグレゴリオ聖歌ではないかと思われる部分も美しい。ベース下とソプラノ下の対旋律の掛け合いが天国のような幻想を感じさせます。

全体として厳しい雰囲気の音が多く、どこまで緊迫感を湛えながら演奏できるか、というのが演奏の成否の鍵を握るのではないかと思います。細かい音程のズレが、曲の仕掛けを崩してしまいかねないので、曖昧な和音にならないよう、ピッチにも十分気をつける必要があるでしょう。

2010年11月2日火曜日

楽譜を読むー浦島太郎(お伽草子)

12月のヴォア・ヴェールの演奏会で私が指揮して演奏する予定の「浦島太郎」(千原英喜作曲「お伽草子」より)の楽譜を読んでみましょう。

ページ数はそれほど多くないように見えますが、1曲演奏すると6分を超える結構ヘビーな曲。
この曲は明らかに、浦島太郎のストーリーを追うようにテキストが構成されています。従って、この作品の演奏においては「ストーリーを伝えること」が大きな目的の一つとなるわけです。

そのストーリーを追う鍵は、作曲家が細かく入れたテヌートにありそうです。テヌートをかけたストーリを導きそうな言葉を挙げてみると「むかし」「かめに」「これは」「かたみ」「はこ」「じんせき」「とらふす」などなど。いずれも、ストーリ上の重要な言葉です。その他のテヌートは、フレーズの入りの明瞭さやシンプルなタメを意図しているようです。
このようにアーティキュレーションをざっと見ていても、その場の気持ちだけで付けるというよりは、何らかの法則性を想起させるような知的な印象を感じます。

練習番号2からのアップテンポのフレーズの作り方は、千原節全開という感じ。和声より、鋭角的なメロディと2声程度のポリフォニーでぐんぐん音楽を進めていきます。ズレの成分が少ないので、かえって追いかけっこ効果が良く出るはず。音の美しさより、バタ臭さを出すべき箇所。ここ一番の音域の設定も合唱を知り尽くした感があります。

作曲者のシャレに思えるのが、練習番号8からのメロディ。その後何回か現れ、この曲の中心的な役割を担うのですが、これがなぜか沖縄調(ドミファソシドの音階)。千原氏は竜宮沖縄説を唱えているのでしょうか。日本人からすれば晴れやかな南洋の海をイメージするこの旋律は、やはり沖縄チックな雰囲気を出すべきなのでしょう。

最後の2頁、美しく感動的です。ヴォカリーズに現代的な泣きのコード展開があって、一見古い題材なのにこういった響きが共存しているところが千原英喜の魅力。最後の沖縄旋律の2回くり返しは、楽譜の指示だけ見れば、かなりのアゴーギグを強要しています。旋律がきれいに流れてしまうので、ついついさらさらと演奏しがちですが、ここはしっかりと指示通りのタメを作るべきだと思います。

しかし、歌っている方が頑張っているほど、残念ながら曲のストーリーは伝わっていません。この前、合唱祭で聞いている人にも「ストーリーはわからなかった」と言われました。まだまだ精進の必要があるようです。
どうやったら言葉が伝わり、結果的にストーリーが伝わるのか、その技倆を試される曲だと思います。誰でも知っている昔話ですから、合唱団の表現力を高めるのに、とてもいい教材になるような気がするのです。

2010年10月30日土曜日

理系度から見る私の変遷

今回も何となく自分史の振り返り。
まあ、どう考えても私はこれまで理系人間として生きてきたわけですが、その気持ちはずっと一様だったわけではありません。
高校時代まで私は完全に理系人間でした。数学、物理は好きだけど、国語、社会は嫌いと公言していたくらい。今の私から見れば、国語や社会の大切さを説教したいくらいですが、頑なに私は理系でありたいと思ったし、曖昧な結論になりそうな学問を嫌っていたのです。
このときの気持ちがほとんど変わっていなければ、私は今でもごく一般的な理系技術者の一人であったことでしょう。

そんな私が大きく変わったのは大学時代。
大学時代、私は完全に文転していたと言っていいくらいなのです。工学部に入った私ですが、サークル活動に明け暮れ、受験から解放され勉強に興味を失った結果、授業に全くついて行けなくなりました。これマジです。高校の頃まで、授業が分からないなんてこと無かったのに、もう物理なんてさっぱりです。講義内容が分からない劣等感を感じながらも、残念ながらその頃の私は奮起することは無かった。

その一方、合唱団での活動が増えるにつれ、文系の人たちに影響され、それまでまるで興味がなかった文学や芸術の世界に目覚めます。もとより小説を読んだり、音楽を聴くのは好きだったけど、高校までの私は推理小説とか、ポップスとか、ごく一般的な流行りのものしか興味がなかったのです。
しかし大学入学後、古典文学や哲学、心理学といった文系学問に興味が移り、音楽もクラシックを多く聴くようになっていきました。理系に属しながら心は完全に文系になっていました。

その後、技術者として就職しましたが、幸か不幸か、私はコンピュータのソフトウェア技術者となります。いわゆるプログラマーですが、多くの人が誤解していると思うのだけど、プログラマーは必ずしもバリバリ理系的な仕事ではありません。
一応、今の世の中コンピュータに関する学問は理系に属していますが、プログラムを書くだけなら、理系文系はそれほど関係無いと思います。プログラミングとは論理思考の権化みたいな技術ですが、ロジカルな思考は文系であっても非常に重要なハズ。通常、コンピュータで解決したい問題領域が理系学問に多いから、理系っぽく思えるだけなのです。
私は、就職以来、プログラミングを覚えていきましたが、理系的な領域には苦手意識を持ったまま、大学時代に心に根ざした文系的生活を送っていました。

とはいえ、私のもともとの性向はやはり理系だったのでしょう。
私の理系としての能力的限界は、すでに大学時代に実証済み。しかし、それを肯定して、専門的なところは専門家に任せることにして、一般的な事柄についてはもっと理系的に処理できないかと思うようになりました。
その大きなきっかけは、たまたま社内の研修の一環でデジタル信号処理を再勉強したことにあります。大学でも多少触りはやっていたものの、当時はやる気もなかったので、全く身についていませんでした。
しかし、冒頭のオイラーの公式で私は目覚めました。えー何だって! 指数関数と三角関数が、自然対数と虚数によって結ばれるなんてスゴ−い、という理系のくせに今まで何してたんだと言われかねないような驚きを感じたわけです。
その後完全に身についたとは言わないまでも、フーリエ変換とかz変換を再勉強し、伝達関数を算出し、各種フィルタ計算を行う方法を知るにつれ、理系的な喜びが再び復活してきました。

とはいえ、日々業務の中でそのような知識を日常的に使うわけでもなく、専門家として習熟するというよりは、広範な知識としての理系への興味を常に持ち続けています。
しかし、思い返せば、今面白いと感じる理系学問は全て大学時代に一度はかじっていたわけで、今の私から見れば、当時の私に数学や物理の楽しさを説教したいくらいなのです。

2010年10月27日水曜日

そもそも合唱をなぜ始めたのか

今回は、ちょっと遠い記憶を掘り起こしてみようと思います。
そもそも、私はなぜ合唱を始めたのでしょう?
多分、あれは高校2年のときだったと思います。私は物理部という超カタそうな名前の部活をしていました。といっても、ほとんど活動の実態は無いに等しい状態でした(私はなぜか部長をやらされていた)。物理部の一年先輩のN氏の「ちょっと音楽部に遊びに来いよ」という言葉に特に何も考えずついていったが最後、ほとんど無理矢理音楽部に入れさせられてしまったのです。
ちなみに、このN氏は大学まで同じになり、大学の合唱団でも一緒に活動しました。昨年の委嘱作品初演のときに久しぶりに会えてとても嬉しかったです。しかしお互い歳をとりました・・・。

それにしても、まあ男が合唱を始めるなんてだいたいこんなものかもしれません。
当時の音楽部は十数人程度で、特に合唱有名校でも何でもない我々の学校は、先生が勝手に好きな曲を持ってきて、学園祭や定演でそれを発表するという活動でした。それでも毎週練習しているうちに、物理部には絶対いない女子もいるし、上級生や下級生とも親しくなっていって練習に行くことが楽しくなります。そして先生が弾くピアノの周りに集まって、音を取ってハーモニーを作っていく快感にだんだんと目覚めていきました。
折しもポップス風の作曲を始めた頃で、自分自身も音楽にのめり始めていました。当時練習したのは、廣瀬量平とか大中恩の合唱曲でしたが、これらの曲にコードネームをふって自分なりに曲研究をしたものです。

当時私が好きだった曲は、例えば廣瀬量平の「海の詩」の中の「航海」。歴史の教科書の中だけにあった邪馬台国がまるで生きた風景となって自分の前に現れ、古代日本に文明を伝えようと意気揚々と船を走らせた人々に想いを馳せることに、たまらない感動を覚えました。
その後にやった「山に祈る」も衝撃的。「誠、誠・・・」のナレーションを思い出します。出てくるのはヌーボー倉田だっけ。今となっては、こういう題材もやや品が無い感じがしますが、高校生の私には強烈な印象を残しました。
あと、思い出深いのは3年生のときにやった「屋上の狂人」というオペラ。なぜか主人公であるテナーの狂人役を、ベースの私がやらされることになったのです。後にも先にも、物心ついて人前で演技をしたのはこのときくらい。最後の山場のアリアでは、音が高くて声が出ず、先生から「適当にベースが歌えるように、音を変えて」とか言われました。今、楽譜を取り出すと三度とか五度とか下げて、私が歌えるように小さな音符が書き加えてあります・・・。

結局私は学生時代コンクールに出たことは無かったのですが、かえってそのおかげで、人数は少なく実力もボロボロだったけれど、合唱をいろいろな側面から楽しんでいたのかもしれません。そんな高校時代の経験が、今でも合唱を続ける源泉になっているような気がします。

2010年10月23日土曜日

モチベーション3.0/ダニエル・ピンク

話題の本「モチベーション3.0」を読みました。内容としては、以前紹介した太田肇氏の本とかなりかぶります。同様の考え方を、すでに世界の多くの学者たちが研究しているということなのでしょう。

この本の秀逸なところは、「やる気」論を「モチベーション3.0」というキャッチーな題名にしているところです。人間の心にもコンピュータと同じようにOSがあり、現在多くの人がモチベーション2.0に従って生きているけれど、これからは3.0の時代だからバージョンアップせよ、という主張です。
では、そのバージョン番号は何を意味しているのか。1.0は人間のプリミティブな生きていくのに必要な欲求です。つまり食欲、性欲です。2.0は、近代の工業化された社会において、仕事をすればお金を貰える、というアメとムチの社会です。多くの人に同じ仕事を効率よくさせるのに優れたやり方です。
しかし、近年になって創造的な仕事が重要になるにつれ、この2.0のやり方では良いアウトプットが出なくなってきました。仕事に対して報酬を与えると逆にクリエイティブな発想が生まれにくくなる、などの事例より、本当に創造的な仕事は、「やらされている」という外発的な要因でなくて「好きだからやっている」という内発的要因で行われている、ということを著者は主張します。

元々著者は専門の学者ではなく、ジャーナリスト的な立場の人であり、この本は多くの専門家のインタビューによって成り立っています。専門家が行った多くの心理学実験が紹介され、この考え方を非常に説得力のあるものにしています。
例えば、あるパズルを解かせる前に、うまく解けたら報酬を与える、といった条件を与えます。そのパズルが時間さえかければ解けるシンプルなものであれば、報酬を与えることによって早く解かれる場合もあるのですが、その答えにやや発想の転換が必要な場合には、報酬が逆に悪く作用し、パズルが解くのに時間がかかってしまうのです。

本書の中盤からは、このモチベーション3.0の三つの重要な要素が紹介されます。
「自立性(オートノミー)」「熟達(マスタリー)」「目的」です。
「自立性」とは、管理されずに自ら進んで行動する、ということ。有名なグーグルの20%ルールなどは、この応用です。会社にいる時間の20%は業務以外のことを好きにやっていい、というルールですが、現在のグーグルのサービスの中で、この20%ルールから生まれたものもたくさんあるのです。
企業がそれなりのコストを支払ってでも、自律に任せることによって素晴らしいアイデアが生まれる可能性があり、それは結局会社の成長に繋がるわけです。
「熟達」とは、一つのことに熱中することで、それがどんどん得意になっていく、ということ。スポーツ選手、芸術家、研究家などがある種のトランス状態の中で、優れた業績を残しています。このような心理状況のことを心理学者チクセントミハイはフローと名付けました(この件について、以前書いたことがあります)。熟達はときに苦痛でもあるのですが、このフローこそが個人が創造的なアウトプットを出すことの必要条件となるのです。
「目的」とは、個人が一生をかけて達成しようという誓いです。それは金銭的な成功ではなく、世界に対する貢献です。誰だってお金が欲しいし、そんな高邁なことを考えていない、と思うかもしれません。しかし、実は誰もが世に貢献したいという漠然とした希望は持っているし、それを顕在化させればいいだけなのです。それが達成できることは、個人の心に大きな充実感が得られることでしょう。

実は、ちょっと解せないのは、この本が一見組織や社会のあり方を見直すような方向性を見せながら、結局個人の生き方に落とし込んでいるという点。個人の生き方に対する提言はあるけれど、組織や社会はどうあるべきか、まで踏み込んでいません。だからよく読まないと、自己啓発本以上の効果が得られないのです。
しかし、多くの人がこの内容に共感を得るならば、社会は少しずつ良くなるのかもしれません。残念ながら、日本はアメリカ以上に2.0になっているように感じます。むしろ昔の日本は3.0に近かったような気さえしてきます。

世の中がグローバル化すればするほど、仕事がルール化され、定型化されてきています。それは効率化のためやむを得ないことなのだけど、日本ではそれが個人への押し付けとしか機能していません。全ての仕事がプラスを生み出すのではなく、マイナスを0にする仕事と化しているのです。
そういう意味で、この本は私にとって大変刺激的な内容でした。個々人が芸術家であることが求められる社会が目の前まで来ています。私は、もっと早く世の中がそのように変わって欲しいと心待ちにしているのです。

2010年10月18日月曜日

十三人の刺客

三池崇史監督、ベネチア映画祭で評判だったという「十三人の刺客」を観に行きました。
内容は、明石藩の暴君を暗殺するために結成された十三人の刺客と、それを守る家来との戦いを描いたもの。後半の1時間にわたるチャンバラアクションシーンがこの映画のウリです。
外国の映画祭で評判だったように、確かにこれは、時代劇なのに邦画離れした映画。普通に売れ線を狙って作られた映画とは一線を画します。私が行ったとき、レイトショーで男4人しか観客いなかったし。(at浜松ザザTOHOシネマズ)

どんなところが邦画離れしているかというと、北野武ばりの暴力や残虐シーン満載。切腹も首切りも、血しぶきも、その他おどろおどろしいシーンも写実的でリアル。というか、今やこういう暴力シーンは海外から見ると日本のお家芸らしい。売れ線ではそんな映画全然無いんですけどねぇ。
それから、ストーリーの容赦無さも売れ線映画とは一線を画します。嘘くさい正義感とか、よい子的なスローガン連呼(愛する人のために云々など)のような甘いセリフは一切無し。つまらない優しさも無し。どこまでも、リアルな人間描写。そしてリアルな生活感や、人、モノの汚さ。こういうところはやや洋画っぽくてちょっと嬉しかった。
時にややバカバカしいシーンを挟みつつも、全体を覆う、硬派なリアルさの追求は賞賛すべきことだと思いました。

しかし、それにしてもSMAP稲垣吾郎をここまでの汚れ役で使ったのはすごいです。もうジャニーズってSMAPの出る映画まで口は出さないのかなあ。この悪役ぶりは見事ですよ。
それから、村全体を戦場として仕掛けるのは面白かった。しかし仕掛けが派手な割には、敵へのダメージが少ないように見えたのは流れ上仕方ないのでしょうか。もう少し、互角になるところまで敵が減った方が、戦闘としてリアルな感じがします。
あと個人的には、無意味に不死身な伊勢谷のキャラは今ひとつ馴染めませんでした。シリアスな物語の中でどんな役回りをしていたのか、どうも分かりづらいのです。

基本的には、女性やお子様にはお奨めできません。男が一人で見る映画です。野蛮な題材ですが、シンプルな道徳観によるストーリー展開が心地よい映画でもありました。

2010年10月15日金曜日

再び piu f について

だいぶ前ですが、こんな話題を書きました。この中で私は、「piu f」「meno f」などは、音の相対的な指示である、と書いています。
しかし、楽譜の表記に正解、不正解は無いもの。自然言語と同じで、皆が違う使い方をしてしまえば、それが正しい使い方になってしまいます。
そして、この「piu f」の表記については、現在ではかなり多くの作曲家が絶対音量として利用している、と感じています。
例えば、f周辺で言えばこんな感じ。
mf < meno f < f < pif f < ff < fff
p周辺ならこんな感じ。
mp > meno p > p > piu p > pp > ppp

作曲家とすれば、f, ff, fff とか、p, pp, ppp といったように f, p の数のインフレーションを抑える、という利点もありますし、単純にフォルテを増やすより、中間を定義したほうが、音量制御に繊細なイメージを感じさせることができます。
ですから、現実には、絶対音量のバリエーションを増やす方向に使った方が誤解も少ないし、使いやすいのです。しかも元の定義からも、それほど間違った感じもしません。
とはいえ、相対音量の意味もある、ということを覚えておかないと、作曲家の国や時代によっては、間違った解釈をしてしまう可能性もあります。いずれにしても、この表記は絶対この意味、というように決めてかかるのは危険ということです。

ある意味、日本の作曲家の楽譜表記は繊細かつ過剰、な感じがします。洋物のほうがもっと淡泊な感じがするし、明瞭で潔いのです。だから、日本の作曲家の方が音量指示もきめ細かいし、アーティキュレーションも過剰。どちらかというと「事実を伝える」というより「気持ちを伝える」というニュアンスが強いのですが、その「気持ち」が実はなかなか伝わってなかったりするのです。
演奏の現場では、むしろ楽譜の表記についてあまり真剣に咀嚼されていないことが多く、こと細かい楽譜表記への対応は歌い手個人の裁量に任されています。たいてい指揮者より歌い手の方が音楽的知識は低いわけで、結果的に作曲家の「気持ち」が伝わっていないような気がするのです。
これは、演奏家の問題だけでは無いと思います。気持ちを伝えるために、過剰になり過ぎた指示が、逆に読み手の感覚を鈍らせている可能性もあります。いろいろ書いてあって良くわかんないけど、誰も何も言わないし、どうでもいいや、みたいな。

piu f のような指示はそういった微妙さを増やす要素にもなり、あまり多用するのは、楽譜を読む歌い手にとって必ずしも有効ではないような気もしています。そういうところにも、創作家としてのセンスが問われるのではと感じます。

2010年10月12日火曜日

好きな音楽ベスト50(2010年版) 第5位〜第1位

では残りです。1位までをご紹介します。やはり長くなりました。

5位:ピアノトリオ/ラヴェル
一般的には、ドビュッシーはピアノ曲、ラヴェルは管弦楽みたいなイメージがあるけど、私はわりと逆。ドビュッシーは管弦楽で、ラヴェルは室内楽。そして、このピアノトリオはラヴェルの室内楽曲の中でもとりわけ好きな作品。
何といっても冒頭のテーマが美しすぎる。音色で飾り立てられない素の音素材として、これほど透徹したものはないと思う。その後のヴィルトゥオーソ的な展開もラヴェルならでは。時間密度の濃さとその毅然とした必然性。全ての音が正しく配置されている、としか言いようがない。
2,3,4楽章とどれ一つ外れがなく、楽章の流れも見事。3楽章のゆったりしたフーガはそのまま声楽曲にしたいくらい。そこからアタッカでなだれ込む4楽章のアップテンポの5拍子が変拍子好きの心をくすぐる。

4位:交響曲第5番/プロコフィエフ
結局これを入れてプロコフィエフは50位以内に4つランクイン。ちょっと入れすぎたかなと後で密かに後悔。そんなに好きな作曲家か、と言われると、まあ好きなんだけど愛憎半ばって気もしないではない。
プロコフィエフはもともと抽象度の高い分かりにくい部分はあるものの、この交響曲第5番は前衛性と叙情性、そして音楽の美しさが見事に結合した素晴らしい作品であると思う。一般には、プロコフィエフなりに、多くの人に理解されるよう分かり易く書かれた音楽とも言われている。
第一楽章、主題がフーガっぽく畳み込まれるように盛り上がる壮大さ、そして第二楽章のロックのようなビート感、第三楽章の緊迫した叙情、そして再び軽やかなビート感を持つ第四楽章。いずれも、隙間無く構築された精密機械のごとき音楽空間が展開される。

3位:夢のあと/椎名林檎
もともと東京事変のアルバム「教育」の中の1曲だけれど、その後ソロアルバム「平成風俗」にも収録。大好きな曲なので単曲でのランクインとしました。
平和を歌うミュージシャンは多い。そりゃ誰だって、平和な世の中がいいに決まってる。そのような手垢がつきまくった主題に対して、アーティストはどのように対峙すべきか? そこで芸術家としての非凡さが試されるのだと思う。
「手を繋いで居て 悲しみで一杯の情景を握り返して この結び目で世界を護るのさ」
泣けるじゃないですか。繋がれる手は誰のものかは明らかではないけれど(恐らく自分の子供)、手と手が繋がれたその結び目こそ、悲しみで一杯の世界と戦う唯一の力なのだと訴える。世界の巨悪と比べるとあまりに小さい結び目。でも、それが世界と対比されることで、この上なく大事なことだと思い起こさせる。
この感受性は、凡百のJ-POPアーティストには求めるべくも無い。自分の身の回りにある小さくて大切なもの、それの集積こそが愛と平和の世界を実現するのだ、ということ。それは永遠に無理かもしれないけれど、そういう気持ちを持ち続けることの大切さが切々と心に刻まれる。

2位:牧神の午後の前奏曲/ドビュッシー
クラシックを聴くようになって最初期の頃によく聞いた想い出の曲。
神話と幻想の世界。そしてそのイメージを膨らませる美しい管弦楽法。ドビュッシーの作曲当時の音楽状況からすれば、技法の異端さは群を抜いていた。しかし、私にはその異端さは単純な音楽技法なのではなく、そこから醸し出される音風景総体のイメージが、当時多くの人が良しとしていたものと相当かけ離れていたのだと思う。
既存の価値観をひっくり返す天性の芸術性がドビュッシーにはあった。すでにドビュッシーの中に確立されていた芸術観があり、彼はただ自ら信ずる価値観のまま、自分の求める音風景を楽譜に書き連ねただけだった。そして、初めて世に出たその音風景はまた、多くの人の心を魅了するに足る音楽だったのだろう。

1位:鉄への呪い/トルミス
そしてついに好きな音楽第一位は・・・、合唱曲です。しかもかなりマイナーな。国内ではほとんど聞くことが出来ない。数年前に某男声合唱団が全国大会で演奏したのは驚いた。しかも、内容を咀嚼した素晴らしい演奏! いつか何らかの形で私もやってみたいけれど、これは無理そう。
この曲の難しさは、音やリズムの難しさではない。むしろトルミスだから、音素材は実にシンプル。しかし、曲があまりに過酷な世界観を表現しているため、その表現にアマチュアが追いつくことが大変難しいのである。もちろん、振り付きのこの曲で、大量のエストニア語を暗譜しなければいけない、ということもあるけれど。
この曲の主題は一言でいえば反戦である。しかし詩はかなり寓話っぽい(実はまだ内容をきちんと把握してないけど)。それをシャーマンドラム、叫び、所作など、一般的な合唱表現を超えた方法で表現しなければいけない。合唱と言うより、もはやパフォーマンスに近い。
そして、トルミスがこの曲で書いた音符には、複雑な和声は全く現れない。土俗的な荒々しい旋律と、半音進行のフレーズ、ほとんど四度、五度程度の単純なハモり。どちらかというと、音楽的というより音響的な作曲だと言える。
だから、私がこの曲を好きだということ自体、自己否定に繋がりかねないのだけど、私にとっては音楽の視野を広げることの重要性とか、合唱の根源的な力を思い起こさせるといった点で、敢えて自分に自戒の念を想起させるため、この曲を好きだと言いたい(なんかややこしいですか?)。

そんなわけで、50曲それぞれについて書き続けてまいりました。
多種多様とも、偏っているとも言える私の音楽の趣味です。クラシックもジャズもJ-POPもロックも全て中途半端に好きで、かつ好きなものだけが好きなんです。これから、私の趣味にどんな新しい音楽が加わっていくのか、それが楽しみです。

2010年10月10日日曜日

有村ちさとによると世界は/平山瑞穂

先日、平山瑞穂の「プロトコル」について書きましたが、この本はそのプロトコルの外伝的作品。プロトコルで出てくる魅力的な4人の登場人物のエピソードを拡大発展させ、それらをおのおの4つの小話にまとめています。
著者にとっても、読者にとっても、このまま放置するには惜しいほどの個性的なキャラたち。そんな彼(女)らのストーリを堪能するほど、プロトコルで示されたパラレルワールドへ読者の想いを誘います。

さて、その4つの小話とは、主人公有村ちさとの父、元女性上司、妹、そしてちさと自身の後日談、となります。
ちさとの父、騏一郎は十何年もアメリカを放浪して暮らしています。ブラントン将軍との二人旅なのですが、ブラントン将軍とは幻影であり、恐らく騏一郎の分身的存在です。最初の話は、騏一郎がアメリカ放浪を止めるときのエピソード。ここでは、口からでまかせの騏一郎の話を真面目に信じる田舎のアメリカ人のバカッぷりが笑えます。特にアメリカで超有名な日本人イチローとの関係を話すくだり、そのデタラメさ、それを「本当なのか?」と聞いてくるアメリカ人との会話のナンセンスさはこの著者の真骨頂と言えるかも。
��つめのちさとの後日談も思わぬ展開で楽しく読めました。プロトコルで、最後にハッピーエンドになったはずのちさと。その格好良さそうで博学な好青年は、実はマザコンでボンボンだったという話。そんな彼氏に疑問を抱いているさなか、ふとした弾みで知り合った彼氏の知り合いとちさとは・・・というふうに展開します。あれほど厳格で、ルーズなものを嫌っていたはずのちさとなのに・・・、というオチです。

何しろ、平山瑞穂は、神経症的なまでの人々に対する細かい観察眼が秀逸だと思うのです。特に今回、全く性格の違う4人のストーリを並置して読むことにより、この著者の人物描写のバラエティな引き出しに全く驚かされたのでした。妹ももかだけは、平山瑞穂的繊細さで描写するにはいろいろ無理があるところはちょっと感じたけれど、でも「頭が弱い感じ」の人の行動パターンや思考法を論理的に解釈するという作業には敬服します。
しかし、この著者の小説には面白さとともに、常に副作用が伴います。いつも次のような気持ちにさせられるのです。「あぁ、ダメ人間万歳! みんなルーズに、それでも逞しく生きているじゃないか。そんなダメな人生をみんなで謳歌しよう!」と。

2010年10月8日金曜日

好きな音楽ベスト50(2010年版) 第10位〜第6位

ちょっと引っ張ってゴメンなさい。この辺りから、語りたいことも増えてくるのです。

10位:氷の世界/井上陽水
まさにシュトルムウントドランク。どうしようもない衝動と焦燥感。世の中の現実は、強すぎる感受性にとってあまりに厳しい、そんな心の叫びが集約されている。優れた芸術として後世に残るアルバムだと私は思う。
表題作「氷の世界」のシュールさはすごい。記録的な寒さの冬に、窓の外でふざけて声を枯らして林檎売りの真似をしている人がいるだろうか? そんな歌詞を意味のまま解してはいけない。そこから感じられるのは、"氷の世界"にいる追い詰められた人間の妄想そのものである。「声を枯らす」「記録的」という言葉遣いも文字通りの意味ではなく、単なる気持ちの強調表現のように感ずる。最前線の現代詩のような、強い表現を持ったアート性のかたまり。

9位:太陽と戦慄/キング・クリムゾン
キング・クリムゾンは60年代末から活躍したプログレバンド。43位の「宮殿」もいいのだけど、私的には「太陽と戦慄」が一押し。何と言っても邦題の「太陽と戦慄」という言葉が秀逸。原題はなぜか、全く意味が違うのです。
特に終曲「太陽と戦慄 Part2」の変拍子による切迫感は大好き。恐らく、当時のミニマルな現代音楽にも影響を受けているのではないだろうか。ちなみに拙作「だるまさんがころんだ」冒頭の10/8拍子のリズムの原型は、実はこの曲だったりする。クリムゾンの方が、暗くて陰惨な感じだけど。

8位:Place to be/上原ひろみ
今、私の好きな音楽を語る際に上原ひろみは外せない。ジャズピアニストではあるけれど、彼女の音楽はいかにもといったジャズでは全然無い。むしろ、私の好きなプログレテイストがふんだんに入っていて、それがたまらない。プログレ、上原ひろみ、プロコフィエフなどに共通するのは、メカニカルでメタリックな肌触りの無機的な構造性なのだろう。そしてそれを達成するための圧倒的なテクニックによって、上原ひろみの音楽は唯一無二なものになっている。
さて、このアルバムについての記事はこちら
この曲集の楽譜も入手。もちろん弾くためじゃないです。どちらかというと、ピアノの譜面を書くときの参考のため。

7位:月の光/冨田勲
高校の時、冨田勲を初めて聴いた。その時のアルバムがこの「月の光」。ドビュッシーのピアノ曲を独自の解釈によってシンセサイザーで編曲したこの音楽、当時の私は、すごく前衛的に思えてすぐには熱狂しなかったのだけど、何度も聴いているうちにだんだん好きになっていった。
何と言っても、その夢見心地なサウンドが、まるでこの世ではない別の世界にいるかのように響いた。今思うと、10代、20代の私の好みのキーワードは「幻想」だった。何しろ夢のような世界が好きだった。シンセサイザーはその世界に自分を誘う魔法の機械のように思えた。そして、その魔法の箱を自ら作ることになろうとは・・・

6位:ロ短調ミサ曲/バッハ
31位のマタイを遙かに超えてのランクイン! いくらマタイが名曲とは言え、出番の少ない合唱団は、どうしても曲全体を熱心に聞くことが出来ない。それに比べたらロ短調ミサは歌いっぱなし。ドイツ語に苦しめられることもなく、バッハの壮大かつ緊密な音の世界に浸れる、究極の合唱曲のように思える。
2001年のドイツ演奏旅行で、恐れ多くもこのロ短調ミサ曲を歌った。アカペラのところで、合唱団全体が半音ピッチが下がった事件が心に残る。そのときの旅行記はこちら

2010年10月5日火曜日

好きな音楽ベスト50(2010年版) 第20位〜第11位

20位から11位まで。私の趣味がだんだん明らかに・・・

20位:レクイエム/モーツァルト
モツレク、結局今まで4回歌いました。自慢するほどじゃないけど、浜松のような地方都市に住んでいて珍しいことじゃないかと思う。なぜか、いろいろなところで歌う機会に恵まれ、もう好きとか嫌いとかよく分からなくなった。

19位:バイオリン協奏曲第一番/プロコフィエフ
元はといえば、冨田勲のシンセバージョンを先に聞いてしまったのだけど、その時以来のお気に入り。とても幻想的な雰囲気。自分にとって、協奏曲的なヴィルトゥオーソの世界ではなく、きれいなメロディやふんわり漂うような和声がこの曲の魅力。

18位:ダフニスとクロエ/ラヴェル
20代の頃は、こういった幻想的な管弦楽曲が大好きだった。神話の世界、壮大なオーケストレーション、ヴォカリーズによる合唱・・・。しかし、映画の世界でバカみたいにファンタジーものが流行り、こういった世界観の粗悪品が氾濫するようになると、最近はファンタジックなものについつい反発したくなってしまう。

17位:スタバトマーテル/プーランク
これも歌ったことの無い曲(あるいは、歌いそこなった曲)だけど、いつかやってみたい、いや、良い演奏で聴いてみたい。(良くない演奏なら何回か聴いた)
プーランクの神髄が凝縮されているように感ずる。

16位:アマテラス/鼓童
鼓童は和太鼓のグループ。「アマテラス」は、坂東玉三郎とのコラボによる全体がストーリー性のある演目。これを聴きに京都まで行った。その時のことはこちら

15位:ティオの夜の旅/木下牧子
これも、青春時代の想い出の部類に入る曲。1曲目のアカペラの壮大さ、3曲目の音楽の彫りの深さ、5曲目の圧倒的なビート感! どれをとっても一級品の邦人組曲だと今でも思う。残念ながら、木下作品でこの曲を超えた、と感じるものはまだ無い。

14位:フルートソナタ/プーランク
小品なんだけど、忘れがたいほどの旋律の美しさ。力の入らない作曲、というものの価値を思い起こさせる。

13位:幻想交響曲/ベルリオーズ
この辺りも比較的ベタな曲とは言えるけれど・・・、こういう若気の至りのような、恥ずかしいほどのロマンチシズムは好きだし、そういう気持ちは忘れたくない。何が自分をそこまで激しく突き動かすのか、その感情を音楽で表現してしまったその心意気を感ずるだけで、私にとって永遠の名曲。

12位:OK COMPUTER/Radiohead
洋物ロックなど最近ほとんど聴かなくなったけれど、ちょっとしたきっかけで聴いた1997年発表のこのアルバムがすごい気に入った。そのとき書いた記事はこちら

11位:RingoEXPo08/椎名林檎
このコンサート行きたかったけど、この歳で一人で椎名林檎のコンサートなんて行けない・・・。DVDを買って何度も見ながら、コンサートの素晴らしさを堪能している。「神秘でできた美しい獣」衣装から始まり、「さよなら」で奈落の底に落ちる、といった演出も見物。大きな舞台、オーケストラ演奏、しつこいほどの化粧直し、そしていつもの林檎節。椎名林檎の魅力炸裂!
そういえばもうブログで書いてた

2010年10月1日金曜日

iPhoneアプリ "UmanoidVoice" をリリース!

Icn_114新しいiPhoneアプリ、"UmanoidVoice"(ユーマノイドボイス)をリリースしました。"Humanoid"(人間のような)と称するのはややおこがましい気がしたので、Hを取って"Umanoid"です。
これまで楽譜上での音程確認用のアプリばかりでしたが、ちょっとシンセサイザー的なアプリに挑戦です。今回は、アイコンも他の人に頼んで立派なものを作ってもらいました。正直、アプリの中身がアイコン負けしている感じもありますけど・・・

Umanoid_explain_2アプリの画面は一つだけです。
左にある画像は、アプリの画面に操作の説明をオレンジ色で書き込んだものです。赤い輪のような操作子が三つありますが、それぞれ Pitch(音程)、Formant(母音)、Volume(音量)に割り当てられていて、この三つのパラメータを音を鳴らしながら変更することができます。
特に、Formantのコントローラは二次元的に動かすことができます。またどの位置がどの母音に対応するかも記しておきました。ちなみに、このコントローラの理論的根拠ですが、例えばこのページをご覧ください。

一番下にあるスイッチをONにすれば、音が出ます。
また、ビブラートのコントロールも付けてみました。これがあると、ちょっと人っぽい歌声になってきます。
操作子はこれだけのいたってシンプルなアプリです。

音質的にまだまだな感じもありますし、もう少し立派な計算をすれば、もっとリアルな音が出るかもしれません。その辺りは、私自身ももうちょっと勉強してみようと思います。個人的には、人が発声するリクツを知りたいという気持ちで作ったアプリなので、今後も何か思い付く度に計算方法を変えたり、機能アップさせようと考えています。

ご意見、ご要望があれば何なりとお知らせ下さい。
iPhoneをお持ちの方は、是非ダウンロードしてみて下さい。おっと、言い忘れてましたが、もちろん無料です!

2010年9月30日木曜日

好きな音楽ベスト50(2010年版) 第30位〜第21位

では、30位から。今回は合唱系が多いかも。

30位:交響曲第9番「新世界より」/ドヴォルザーク
こんなベタな曲が・・・と思いますか?
正直言って、熱心なクラシックマニアとは言い難い私は、ベートーヴェンとかモーツァルトとかほとんど聞かないけど、結局巷でよく聞かれるきれいなメロディの曲は好き。聞き所満載で、音楽の気持ち良さに溢れている。

29位:ビートルズコレクション/キングスシンガーズ
キングスシンガーズの1986年のアルバム。先日、NHKで聴いたキングスのライブでも、このアレンジで歌っていて、ついついベースを口ずさんでしまった。大学の頃、合唱団の友人と耳コピして歌ったことを想い出す。

28位:レクイエム/フォーレ
言うまでもない、合唱マニアの永遠の憧れの曲。以前、こんな話題を書きました。

27位:惑星/冨田勲
冨田勲によるシンセ編曲のホルスト惑星。原曲とは違う、新しい魅力に溢れた素晴らしい編曲。これぞ、編曲のクリエイティヴィティ。往年のシンセ好きにはたまらないムーグシンセの音、そしていかにもという冨田サウンドは、聞く者を幻想の世界に誘う・・・

26位:おらしょ/千原英喜
個人的には、千原英喜は最も尊敬している現代邦人作曲家。このオリジナリティはただごとではないと思う。一見音運びはシンプルに見えるけれど、歌う側には徹底的にプロ意識を求められるタイプの曲。今やっている「お伽草子」も好きだけど、とりあえず一番有名な「おらしょ」を挙げておく。以前書いた話題はココ。あるいはココなど

25位:加爾基 精液 栗ノ花/椎名林檎
テレビとかでは、絶対アルバムのタイトルで紹介されない椎名林檎の3rdアルバム。ちょっとタイトル名はやり過ぎたかも。しかし、この凝りに凝ったサウンドと、歌詞に綴られる心象は、普通に聞かれているJ-POPと完全に一線を画している。世間では、まだ看護婦のコスプレをする、危険でアングラなアーティストと思われているのだろうか。このアルバムについて昔書いたのはココ

24位:人間の顔/プーランク
これもいつか歌いたい合唱曲。でも二重合唱だし、しかも6声。ただ、後半のむやみにソプラノが高いところはアマチュアにはほとんど無理で、これはプロ合唱団の演奏で聞かせてもらうのが、正解なのかもしれない。この多声な音楽で、軽快さを失わないプーランクのセンスが好き。

23位:マドリガーレ/モンテヴェルディ
超反則な項目ですいません。どの曲なんだよ〜とか言わないで。どれか一つには決められない。少人数で集まってモンテヴェルディを歌うっていうのは、合唱マニアなら一度は通るべき経験だと思う。端正な演奏である必要は無く、グチョグチョにテンポを揺らそう!

22位:火の鳥/ストラヴィンスキー
オーケストラ音楽の醍醐味を、私に知らしめてくれた曲と言えるかも。クラシックを聴き始めた当時、音楽それ自体が意味を持つ抽象性より、音楽が何らかの情景を描写しているような映像的な音楽が好きだった。スペクタクルなオーケストレーションこそ、作曲家に必要な技術だと思っていた。今は、もう少し複雑な想いを抱いているけれど。

21位:光る砂漠/萩原秀彦
大学で合唱団に入った直後に歌って「ゲ、ゲンダイ音楽だぁ〜」とか最初の頃は思っていた。でも、どんどんその世界に引き込まれていった。多感な大学生時代、詩の世界も強烈な印象を私に与えた。今の私の好みではあり得ないくらいピアニスティックだけど、私の好きな憂いを持っている音楽。

2010年9月27日月曜日

好きな音楽ベスト50(2010年版) 第40位〜第31位

今回は第40位から第31位まで。

40位:Nothing but THE REAL GROUP
スウェーデンのアカペラグループ・リアルグループの1989年のアルバム。私自身はリアルグループをそれほど熱心に追っかけているわけじゃないけれど、近年のアルバムはやや電子処理が多用されていて、アカペラのスゴさより聞きやすさを追求している感じ。この1989年のアルバムは、(もちろん多少の録音処理はされているとはいえ)素朴な録音で、その分リアルグループの歌唱力の素晴らしさがひしひしと伝わってくる。

39位:大天使のように/ヤプーズ
ヤプーズとは、主に90年代に活動していた戸川純ボーカルのロックバンド。戸川純の表現は一見キワモノではあるけれど、個人的には好きだった。この曲は戸川純が本質的に持つメランコリイとサウンドがよくマッチした泣ける曲。

38位:ミサ/F・マルタン
無伴奏の二重合唱で、div.が多く声部が多いため、実はまだ一度も歌う機会に恵まれていないのだけど、緊密でポリフォニックな書法と、メロディの美しさで多くの合唱マニアの間で愛されている曲。いつか、何とかして取り上げてみたいものです・・・

37位:やさしい魚/新実徳英
やや個人的な想い出のためランクイン。「やさしい魚」が表現するメタファが、自分に重なる感じがしてひりひり痛かった。

36位:マリニャンの戦い/C・ジャヌカン
同じく個人的な思い出が強い曲。10年前にKOVOXに出演するために暗譜に挑戦したけれど、繰り返しの多さにかなり苦労。直前のリハでベースが落ち、顔面蒼白に。でも何と最終的に総合2位を頂いた。当時、KingsSingersの爆発的な演奏をお手本に練習した。これほど、合唱団のクリエイティヴィティを問われる曲もなかなかないだろう。

35位:Another Mind/上原ひろみ
ジャズピアニスト上原ひろみのデビューアルバム。そしてアルバムタイトルは終曲から取られたもの。アルバム冒頭の変拍子を試聴コーナーで聞いて以来、上原ひろみのファンを続けている。終曲アナザーマインドは本当に美しい。こんなピアノ伴奏を書けたらいいのに。

34位:ピアノ協奏曲3番/プロコフィエフ
第一主題の気持ち良さが、多くの人を惹き付ける佳曲。プロコ独特の断層のある旋律と、古典的な形式がうまくブレンドされ、聞きやすい現代性を実現する。第二楽章の変奏曲形式は、個人的にアナリーゼをしてみたこともあって愛着がある。

33位:海/ドビュッシー
ドビュッシーの管弦楽曲。昔とても良く聞いた。なぜか浮世絵の海の絵が浮かぶ・・・と思ったら、レコードのジャケットがそうだったのを思い出した。夏のキラキラした海ではなくて、曇り空にちょっと湿り気のある生暖かい風が吹いているような情景。

32位:嫁ぐ娘に/三善晃
「地球へのバラード」同様、邦人無伴奏合唱曲の名作。詩の世界観と音楽が不可分であり、和声の甘さと緊迫した旋律とのせめぎ合いによるその音楽は、いまなお独自の地位を保っていると思う。

31位:マタイ受難曲/J・S・バッハ
言わずと知れたバッハ畢生の大作。あまりにメジャーな曲であるが故に、歌えただけで満足的なアマチュア演奏会も多いし、野心的なキワモノ演奏も多い。そういう玉石混淆さがまた魅力とも言える。音楽史を俯瞰するためにも、この音楽を勉強しておく意味はあると思う。

2010年9月24日金曜日

好きな音楽ベスト50(2010年版) 第50位〜第41位

突然ですが、自分の今現在好きな音楽を、ジャンルばらばらのまま50曲集めて、ランキングをしてみようと思います。
50曲といっても、一つが組曲だったり、一つのアルバムだったり、一枚のDVDだったり、単品の曲だったりしますが、その辺りは特に統一無く思い付くままに挙げてみることにします。
では、今回は第50位から第41位まで。

50位:富士山/多田武彦
合唱マニアならおなじみの男声合唱の名作。1995年の静岡県男声合唱の夕べを思い出す・・・(内輪な話ですいません)

49位:ノックスヴィル1915年の夏/バーバー
オーケストラ伴奏によるソプラノ歌曲。郷愁を誘う美しいメロディ。子供の頃の記憶を探る心の旅の描写。

48位:これでいいのだ/筋肉少女帯
超キワモノJ-POP。もうこの曲も20年くらい前の曲なんだよね。もちろん「天才バカボン」の台詞を元にしているのだけれど、この不条理さと、全体に漂う諦観はJ-POPの枠を超えていると思う。

47位:ピアノソナタ第7番/プロコフィエフ
この曲については以前ブログで書きました

46位:地球へのバラード/三善晃
三善晃の無伴奏混声合唱の不朽の名作。音の難しさに囚われがちだけれど、音楽が持っている軽快さに素直に乗れば気持ち良く歌える。邦人合唱曲の一つの様式を確立してしまった、と言えるかも。後続の作曲家に与えた影響も大きい。

45位:惑星/ホルスト
一発屋と言われようと、この曲で表現される宇宙的な壮大さ、幻想性は比類するものがない。表題が作曲に与える影響をとても良く示した例。

44位:ヴェスパタイン/ビョーク
映画ダンサーインザダークを観てビョークを知り、その後買ったアルバム。ガラスとハープとストリングスで独特の音世界を作り、粘り気のあるビョークのボーカルが纏わりつく。本当の音楽の美しさを追求している、希有なアーティストだと感じる。

43位:クリムゾンキングの宮殿/キング・クリムゾン
プログレの往年の名アルバム。イギリス的哀愁を漂わせつつも、テク追求のプログレ感がかっこいい。

42位:弦楽四重奏曲/ドビュッシー
ベートーヴェンとかじゃなくてすいません。オーケストラでない分、虚飾の無いドビュッシーのコアな音世界を堪能できる。4つのパートが独立した役割を持つというより、4つのパートが一つになってうねっている感じ。

41位:展覧会の絵/ELP
もちろんオリジナルはムソルグスキーなんだけど、この名曲をプログレ(ロック)にアレンジした、という事実だけで十分聞く価値があると思う。

2010年9月19日日曜日

Appleの何がスゴいのか?

何度かAppleネタ書いているような気がしますが、もう一度あらためてAppleのすごさについて書いてみたいのです。
というのは、こういう話をするとほとんどの方は、Apple社の特定の製品、技術、あるいはアプリの使い心地などの個別の話を始めてしまいます。個別の話になれば、Apple以外でもやっているところはあるし、Apple自身がゼロから作り上げた技術は実はそれほど多くはありません。そのような議論そのものが、どうも本質とかけ離れてしまうような気がするのです。(社内でもそういう議論が良くあります)
それでも、Appleは先進のデバイスで世に衝撃を与えているし、洗練された製品やサービスで多くの人から賞賛を受けていて、そのスゴさは誰もが認めるところ。では、その根本的なスゴさはどこにあるのでしょう。

こんなにバカ売れしている状況からは逆説的だけれど、彼らが「儲け」を第一に考えていないことではないか、と私には思えます。
それは日本人が好きな嫌儲主義とは数段違うレベルの話。アメリカなら、少なくとも経営者が利益を追求しないのは悪です。追求して簡単に利益が出るなら誰も苦労しません。利益を出すために、多くの人が頭を捻って、捻って・・・それでも出ないのが利益なのです。
しかし、本来企業が最も追求すべき利益を犠牲にしてでも、大事にしている何かがある、というのがAppleのやり方のように思えます。その何かとは「Apple的理想体験の実現」とでも言うしかない、特定の芸術的審美眼に基づいた生活感のようなもので、もっと端的に言えばスティーヴ・ジョブスが描く未来の体現ということでしょう。
無論、Appleの技術の何から何までをスティーヴ・ジョブスが決めているわけではないのでしょうが、Appleという会社全体がジョブスイズムとも言うべき、特定の審美眼に染まっているのだと思います。

そのように考えたとき、なぜアップルが、OS、主要アプリ、ハード(Mac,iPod,iPhone,iPad,その他アクセサリ)、そしてWebサービス、さらに販売店までを自前で揃えようとするのか理解出来ると思います。
お客の視点で見たとき、お店でパソコンを購入し、箱から出してセットアップし、Webに接続し、アプリを使って自分の作業を行う、あるいはコンテンツを製作する、これらの一連の作業が全て洗練された一つの世界観に統一されているべきです。その流れに、ひとつでも無粋なものが割り込んでくるだけで、その統一された世界観が崩れてしまいます。Appleはそれが嫌なように見えます。

Appleにとって無粋なこととは、例えば、DRM(著作権保護のためのプロテクト)だったり、Adobeのフラッシュだったり、ペアレンタルコントロールだったりします。
iPhoneのアプリ開発者なら良く知っていますが、ちょっと前にお色気アプリ一斉削除事件というのがありました。お色気系のアプリが審査中のものだけでなく、すでに販売済みだったものまで、一斉にApp Storeから削除されてしまったのです。妙なペアレンタルコントロールを入れるくらいなら、最初から青少年に害のあるアプリは一切認めない、ほうがAppleの美学にかなっているというわけです。
これは、利益を求めようとする企業なら、そう簡単に決断できる内容ではありません。作り手からは、表現の自由が奪われたと言って批判もされています。一般的な企業の論理からいえば、Appleの判断は理解しがたいものです。

それでも、そういった世界観に熱狂する人々は多いのです。Appleフリークがある種の宗教信者のように見えるのは、経済的合理性よりも特定の美学を追究しようとするその態度に由来するのでしょう。それはまさに新興宗教のようなものだからです。
だから、Appleのような洗練された製品やサービスを作りたいのなら、まず会社のあり方、組織のあり方から見直す必要があると私には思えるのです。

2010年9月16日木曜日

プロトコル/平山瑞穂

「プロトコル」といっても技術書ではありません。文芸書です。恋愛小説とも言えるし、家族の物語ともいえるし、IT社会の危険性を訴えている小説とも言えます。純文学のようでありながら、エンターテインメントとも言え,笑えつつ、かつ泣けます。
そんなわけでまたしても平山瑞穂の本を読んでしまいました。全く重厚感の無い、明日になればすぐに物語の内容を忘れてしまうような影の薄いストーリーながら(なんか貶しているみたい・・・)、この著者の、ささいな日常への観察眼とか、偏狭なこだわりとか、気になったことを捨てておけない神経質さとか、そういう社会を生き抜くのにマイナス要因になりそうな性格にとても共感を覚えてしまうのです。

主人公、有村ちさとは、そんな著者の分身的存在。彼女から見える世界において、がさつで、おおざっぱで、無神経なあらゆる行為は憎むべきものです。
そして、文法や綴り、読み方が間違っている英語、フランス語も彼女にとって(著者にとって)憎むべきものの一つ。日常見ることができる、間違った文法のレストラン名、意味不明な英語の歌詞、間違った読み方のフランス語の商品名をあげつらって、こと細かく記述するくだりは、どうしてここまで本筋と関係ないことを延々と書くのだろうと思い、そんな作者の感性がますます気に入ってしまいました。

さて肝心のストーリーですが、とあるネット通販会社に勤める主人公が、ひょんなことから社内抗争に巻き込まれ、それが個人情報漏洩事件に発展してしまうという話。結末は思わぬオチで終わるのだけれど、誰も傷つかない爽やかな読了感にやや拍子抜け。
それに、登場人物がいちいち愛らしい。平山瑞穂はダメ人間を記述させたら天下一品だと思うのです。影山次長の情けなさはまるで救いが無いのだけど、心のどこかに「こんな人いるいる」感が拭えません。ちさとのダメダメな妹も、最後の最後には救ってあげたくなるような気持ちにさせられるのです。
そして半ば精神障害者でもあるちさとの父の言動は、しかし、彼女の心のあらゆるところに根を生やしています。

というわけで、私にとってこの小説、本筋よりも人物描写や、著者の神経質さ、言語への拘り、のほうが楽しく読めてしまいました。途中、主人公が新しい顧客管理システムのチェックでへとへとになるくだり、ソフトのバグ取りと全く同じで思わず苦笑。結局、ソフト開発って几帳面さとの勝負で、まさにこの主人公こそ、システム開発をする側にいて欲しいと思いました。
そんなわけで、平山氏の今後の活躍を期待しています。
ちなみに、著者が本書の出版について語ったブログの記事はこちら。なかなか笑えます。

2010年9月13日月曜日

お金より名誉のモチベーション論/太田肇

なんだかビジネス書っぽいのですが、別の本で太田氏の著作に触れ、勢いで買ってしまいました。確かに、会社で社員をやる気にさせるにはどうしたら良いか、という視点で書かれているので、リーダー級のビジネスマンを対象にしているのでしょうが、本書では特に日本的組織についての一般論が多く、そのあたりは大変興味深く読めました。

もともと日本人論みたいな本は好きなのです。この中でも、日本人論の古き名著と呼ばれる「菊と刀」が何度も引用されていました。
特に著者は、組織内で人がやる気になるには、「承認の欲求」を満たすことが必要だと説きます。組織内の承認には「表の承認」と「裏の承認」があり、日本社会では「裏の承認」が重要視される風土があると言うのです。
「表の承認」とは、その人の能力や業績に対して周囲の人が認める、ごくストレートな意味の承認。ところが日本では「出る杭は打たれる」というように、この表の承認が組織の中ではうまく機能しません。「裏の承認」とは、組織の中で憎まれたり嫌われたり警戒されたりしないように振る舞う消極的な承認欲のこと。この裏の承認は、画一的な仕事をする時代ではうまく機能していたのですが、現在のように新規性、創造性が求められる時代には、逆に悪く機能してしまうのです。
そして、著者は、日本人もそろそろ「表の承認」でうまく組織を作っていくべきである、と論じているのです。

この本の題名だけ読むと、やっぱり大事なのはお金じゃないんだよね〜というように読めます。
確かに結論はそういうことなのですが、そこはきちんと本書の意図を読み解く必要があります。例えばプロ野球選手がなぜそれほど高額な報酬にこだわるのか、それだけもらっているんだから後1000万円上積みしなくたっていいのに、と普通の人々は思うのですが、彼らにとって金額が球団が考えている自分の価値であり、そこに拘ることが本人にとっての名誉、承認欲の現れなのです。
人は金額の多寡そのものを行動のモチベーションにするのではなく、お金が表す自分の価値、すなわち名誉をモチベーションとして行動するのだ、というのがこの題名の言いたいこと。

では、日本の風土を前提にしつつ、少しずつ組織を「表の承認」に変えていくにはどうしたら良いか、が後半でいくつか述べられます。なぜそれが表の承認に関わるか詳細な説明はおいといて、いくつか挙げてみましょう。
・「あなたはコレが一番」というように、各人の得意なことを認めてあげるような多様な承認の軸を作る。
・外の血を入れ、内部で硬直化した常識に疑問を持ってもらう。
・組織外に個人の名前を出す。
・担当者に裁量を与える。
・仕事のプロセスや組織内の功労を公開し、社内の曖昧な基準ではない形で人が評価されていることを担保する。
・客観的な評価に基づいて褒める。
他にもありますが、ざっとこのような内容が書かれています。
もちろん対象としては、会社組織を照準に入れているわけですが、より高いレベルを目指す音楽アンサンブルであっても応用は可能でしょう。
端的に言えば、怒っていても人は育たない、というか、怒る(怒鳴る)ことによって同質性を保とうとするのは「裏の承認」的方法ではないか、と感じました。上に立つ以上、ある程度の毅然さは必要だけど、どうやって人をうまく認めていくのか、そういう意識がリーダーには必要なのでしょう。


2010年9月12日日曜日

合唱団員のモチベーション

今、太田肇氏の著作を何冊か読んでいます。
人間の心理を元に組織をどのように作っていくべきか、について考察し、何冊か本を書かれている人です。詳細については、また別途書籍の紹介をしようと思いますが、今回はそのネタを元に、合唱団という組織について考えてみましょう。

私の見るところ、合唱団員に自発性のある人は少なく、確かに指導者の言うことは良く聞くのだけれど、それ以上の表現意欲を見せてくれない、という雰囲気を感じることは多いです。
こういう状態に対して、指導する側は「もっと表情豊かに、楽しそうに歌って」とか、ついつい言ってしまうのだけれど、そう言われてみんなが楽しそうになるのなら苦労は要りません。結局は、指導する側の注意も徒労と終わってしまうものです。
ところが、合唱コンクールなどでもう少しいろいろな合唱団を見てみると、上手な合唱団ほど楽しそうに歌っているし、表情も生き生きしているように感じるのです。それを聞いて、なぜウチは楽しそうに歌えないんだろう、と思い、演奏が上手くなくてもせめて楽しそうに歌えればいいのに、と指導する人は思います。

しかし、上手いからこそ楽しそうに歌えるのでは、と私には思えるのです。
これはどちらが先なのかは分かりません。しかし、表現意欲と、実際の演奏レベルの高さはある程度比例しているように思えます。
恐らく、それは団にある程度実力があることが団員の自負心となり、そのように世間から認められることが彼らをさらにやる気に駆り立てるのだと思います。いわば正のスパイラルが生じているわけです。

組織が生き生きとし活性化するには、そこに所属する人のモチベーションを高める仕組みが必要です。太田氏によると、そのためには個人は他人から認められるという「承認」が必要であると説きます。
すごく単純に言い換えてしまうと、個人がその団に所属して、合唱を続けるためのある種の優越感みたいなものを与える必要があるのだと思うのです。

団員が「優越感」を感じるのはどんな時でしょう。
一つは、団内で他の人より上手いと思う優越感。もう一つは、団そのものが他の団より実力が高いという優越感が考えられます。
上の二つをうまく使い分けるなら、団内の何人かの核になる力のある人には、あなたが団を引っ張っているという優越感を与え、団員全体に対しては、ウチはヨソとは違うんだという優越感を与えていくのが組織論的にうまい指導のやり方ではないでしょうか。

2010年9月8日水曜日

Twitterの続け方

夏休みの暇つぶしに(?)自分でもつぶやき始めたわけですが、早くも失速気味。
まあ、いずれにしてもやってみなけりゃ分からないこともあって、Twitterというサービスの面白さと同時に危うさ、怪しさも感じたりしています。

基本的なアイデアがシンプルなため、応用範囲が広く、使い方を特定することが出来ないという印象。有名人の日常がわかるとか、友達の連絡に使えるとか、趣味の仲間の繋がりが作れるとか、最新情報を手早く伝えるとか、そういった使い道がいくらでも考えられ、一括りに何に使うかという表現が難しい。
テレビではビジネスで活用し始めたり、ボランティア活動のきっかけになったり、社会的なツールとして機能しているといった例も報道されています。
しかし、当然ではあるのですが、メディアの紹介ではそういった良い面が強調され過ぎるきらいがあります。実際にはTwitterに費やす時間と、そこから得られる情報の質から考えると、決して利用効果は高くないのかもしれません。

Twitterの斬新なところは、相互関係の非対称性を前提にしたところだと考えています。
多くのSNSでは、お互いに友人の契りを結び、ネット上で対等な関係となる仕組みがほとんど。しかしTwitterでは、人と人の繋がりが一方向で、双方向が前提ではありません。だから、有名人はたくさんのfollowがついても、一人一人に相手をする必要も無いし、むしろfollow数が人気のバロメータにもなるわけです。
それはある種、非情なメディアとも言えます。もちろんTwitterとの関わり具合にもよるけれど、自分という人間のあり方をfollow/followerの人数が示してしまうからです。だから、ハマればハマるほど、follow数を増やすために、多くの人をfollowし、時には返信しながら大量の時間を費やすことになるのでは、と想像します。

バリバリやっている人から見れば、バカみたいなことを言っているように思われるかもしれないけど、私としては20程度のfollowでも暇なときに見続けるのが精一杯(まあ、無茶苦茶つぶやき数の多い有名人とか外せばいいのだけど)。100を超える人って、どの程度見ているんだろう、というのはささやかな疑問。
私から見ると、followされたら必ずfollow返しするのが当然という感覚は、Twitterの基本的思想と違うような気もします。全部見ないことが前提なら、followなんてしても仕方ない、と思うのは私の考えがドライ過ぎるのでしょうか。それとも、頑張ってみんなのつぶやきを全部追っているのかなぁ。

まあ、私のことですから、つかず離れずにダラダラやりながら、特に自分のfollow数を増やす努力もせず、自分に必要だと思う発言をする人だけをfollowするというスタンスで続けたいと思います。
つぶやく、ということも一つの自己表現であり、Twitterで発言することも、自分にとっては創造的活動の一つだと思っています。時に日常の様子を書きながらも、内容の面白さを追求したいとは密かに考えています。

2010年9月4日土曜日

指揮者への共感をもたらすもの

指揮者の魅力には、音楽的魅力、人格的魅力がある、というようなことを書きました。しかし、その二つの境界は曖昧です。例えば、音楽に対する態度とかは、音楽的魅力とも言えるし、人格的魅力の範疇にも入ります。
結局のところ、指揮者に対して好意的な感情を持つということは、歌い手がいかに共感できるか、あるいは刺激を受けたか、ということなのでしょう。では、練習のどのような局面で共感するか、刺激を受けるか、思い付くままに挙げてみたいと思います。

●音楽を極める、ということは崇高な行為であるという態度
これって個人的にすごく重要。場合によっては過剰な厳しさに発展しがちですが、優しい言い方でも十分に伝えることは可能だと思います。
つまり、我々が目指すべきものは非常に高いところにあり、自分たちの現状はそれからほど遠いことを仄めかします。音楽とは一生かかっても決して極めることは出来ない、というような崇高さ、音楽の理想を常に語りながら、その遥か遠い高みに少しずつでも近づいていこう、と歌い手に感じさせるということです。
私は練習における高圧的な態度は嫌いですが、このような高い理想を感じさせてくれる人には尊敬の念を感じます。遥か遠い理想を掲げることで、歌い手にモチベーションを与えることは指揮者の重要な役割ではないでしょうか。

●音楽的能力の高さ
言うまでもないことですが、音楽的能力の高さは指揮者の価値を高めます。
声楽家の場合、歌のうまさ、ということもあるのでしょうが、むしろ指揮者に必要な能力とはソルフェージュの確かさと音楽的な指示の効率の高さです。
例えば、ピアノが上手であるというのはシンプルですが、割と重要な要素。
それから、初見力。全パートへの指示を出すのですから、その場ですぐに各パートを歌えたほうが良いし、そもそも正しい音がわからなければ、合っているか、間違っているかの指摘も出来ません。間違っている音を放置する、というのは指揮者の信頼度を大きく損なうことになります。
もちろん指揮者ですから、指揮の的確さ、というのもあります。入りが明確に示せなかったり、リタルダンドの分割が不明瞭だったりすると歌い手もイライラします。残念ながら、かなり高名な指揮者でもこの辺りが怪しい人は多いです。前回の指揮者類型で言うなら、バリバリアカデミック指揮者の安定感は抜群で、やはりこういう方々の基本的素養の確かさには敬服します。

●本場の知識
これも正直言えば、留学経験のある人が圧倒的有利。
西洋音楽をやるのなら、言語や、発音への造詣の深さは指導者への信頼度を高めるでしょう。また、教会音楽における典礼の知識とか、本場の典礼の雰囲気とか、そこでしか感じられない空気感は、書物の勉強だけでは不可能な場合もあります。そういう経験を聞けるのは歌い手には単純に楽しいものです。
また、ルネサンスやバロック独特のアーティキュレーションなども、古楽の本場の経験のある方の指導はとても為になりますね。

●作曲家の視点で語る
音楽は崇高なものである、ということを語る反面、あまりにも遠い存在になりがちな作曲家を身近な存在に感じさせる、というのも大事な要素だと思います。現代の作曲家でない場合、上記の知識という側面もありますが、それでも例えばバッハ、ベートーヴェン、モーツァルトを単に偉大な作曲家として持ち上げるだけでなく、彼らの人間臭さなどを語ることによって、より歌い手が感情移入し易い状況が作れるのではないかと思うのです。
また、曲中の指示を歌い手に示す時も、作曲家はこのように考えたからこのような指示になっている、というような理由を示されると指示に説得力が増します。その指示が、単に指揮者の好みではなく、作曲家が考えたことなのだという権威付けをするということです。
もちろん、そのためにはたくさんの書物を読んだり、楽譜を見たり、合唱だけでなくオーケストラ音楽も参照したり、といった幅広い勉強が必要です。そういうバックボーンが無ければ、作曲者の想いを汲み取ることも難しくなるからです。

他にもまだありそうですが、とりあえずこんなところで。

2010年9月1日水曜日

日本の合唱指揮者類型

合唱指揮者ネタもう少し続けてみましょう。
基本的に合唱はアマチュア主体ですが、その指導者には本物のプロからアマチュア叩き上げまでいろいろなタイプが存在します。
もちろん、実際の指導の実力や音楽性だけで評価されるのであれば何の問題も無いのですが、アマチュアというのはどうしても経歴などに影響され易いし、そういったことから微妙な劣等感を感じる指導者もいることと思います。
そんなわけで、合唱指揮者として活躍されている方をちょっと類型化してみたいと思います。その出自によって、指揮者としての傾向はかなり違うような気がするからです。

●アマチュア叩き上げ派
音楽を専門に学ばず、趣味で合唱をしていた人がそのまま指揮者になってしまったというタイプ。その多くは、高校、大学と合唱経験があり、特に大学時代に学指揮などを経験して、音楽の魅力に取り憑かれ足を踏み外してしまった、みたいな人が多いです。
あくまで副業として指導する人もいますが、中には意を決して専業とする人も。専業化した場合、合唱団にあまり選り好みはできず、反骨心みたいなものが逆に削がれる可能性もありますが、そこから先はもうそれを肯定できるような人間力でやっていくしかないと思います。
いずれにしろ、強い情熱を持ち、高い理想を掲げている人が多く、全体を見渡せばこういう方々の活動には本当に敬意を表したいと思いますし、日本の合唱を牽引している大きな力となっています。

●学校の先生がコンクールで頑張った派
毎年のように、合唱コンクールの中学、高校の部で良い成績を取れる学校があります。そのほとんどは指導者の功績といって良いでしょう。日本全国、たくさんの学校がコンクールに参加する中、そういった指導者の何人かがカリスマ化し、有名な指導者として名を馳せるというのは日本特有の現象かと思います。
こういった方々が、学校だけでなく一般合唱団の指導をしたり、連盟の仕事をしているうちにプロ的な地位を得るというパターンはかなりあります。
普通考えれば、そういった方々は音楽の先生と思うのですが、そうでない人もたくさんいます。数学の先生とか、国語の先生とか、その人なりの背景で音楽を作っていくので、逆にそれが面白い感じもします。
アマチュア叩き上げと同様、ある種の上昇志向と、強い熱意を持った人が多いと感じます。

●地方の声楽家派
一般合唱団としては圧倒的な多数なのが、こういった指導者ではないでしょうか。特にコンクールに出ていないような団体においては。
もちろん、声楽家として活動していても、普段は学校の先生というパターンもあります。ただ上のコンクールで頑張った先生、というのと元々声楽家だった人というのは、その出自の違いは明白で、またその指導態度の違いもかけ離れているように思います。
声楽家指導者の良い点は、歌って指導できるということ。もうこれは素人に対して圧倒的な効果があります。プロが目の前で「こう歌って」と、そのまま歌ってしまうわけです。理屈じゃない説得力があります。
もちろんこれは裏返せば悪い点でもあって、歌い手を思考停止に陥らせ、合唱が単なるおうむ返しになる危険性を孕みます。それに気付ける指導者と気付けない指導者の違いが、合唱団の善し悪しの境目となるでしょう。
声楽家には温和な方が多く(あくまで私見ですが)、ほのぼのとした団となることが多そうです。

●バリバリアカデミック指揮者派
音大で音楽を学び、海外留学で専門的に音楽を学んで、音楽で生活するプロの指揮者。どんなに若くても、経歴だけで先生と呼ばれるだけの貫禄をもちます。
アマチュアは、上のように目の前で直接歌われる声楽家や、専門で勉強したという経歴にも弱いのです。やっぱり教えてもらうには、自分の師匠がどれだけ優れた人か、ということにこだわるからでしょう。「私の歌の先生は、芸大出てドイツで本場の音楽を学んできているのよ〜」みたいな。
叩き上げと正反対のその出自は、合唱団の方向性に大きく影響します。こういう人はたいていコンクールが嫌いです。恐らく、アマチュア叩き上げのパワーを良く知っていて、そういう人と同じ土俵で勝負することに微妙な違和感を感じるからでしょう。プロとしての自負とでも言うべきか。
また、オーケストラ共演ステージなど大規模な演奏会を行う団体ではこういう指導者が多いですね。人を束ねるのにやはり経歴が必要となるのでしょう。
個人的には、このタイプの方々はやや保守的で、だから安心できるという人も多いでしょうが、どん欲な表現意欲とか、斬新な音楽表現とかからはやや離れるイメージがあります。

他にもいくつかパターンがあるとは思いますが、大まかに言えば、上の四つの類型でかなりの指導者を網羅できるのではないでしょうか。

2010年8月28日土曜日

指揮者と合唱団の関係 学指揮篇

一般合唱団であれば、指揮者はいちおう先生という扱い。団員との立場の非対称性が前提となっていますが、この非対称性が弱く、指揮者の地位の低さが宿命的であるのが学指揮という存在。
私自身は学指揮の経験は無いわけですが、今回は学指揮が指揮者としてどう振る舞うべきか、私の思うところを書いてみましょう。あくまで、私個人の意見ですから、書かれた通りにやったけどうまくいかなかった、といっても責任は持ちませんが。

●怒らない
「怒る」ことが許されるのは、立場の違いが明瞭な場合です。学校で、先生が生徒を怒ってもよいのは、先生が怒っても許されることを社会が一般認識として許容しているからです(最近は、やや様相が異なっているようですけれど)。
学指揮が練習中に怒った場合、同じ学生の分際で、そこまで言われる筋合いは無い、という心理的な反発が起こるのは当然。まあ、とりあえずみんなを黙らせるくらいの空気を作れる人もいますが、団員の何人かは心の中で強い反発を抱いていますよ。
「怒らない」で、うまく問題点を指摘することこそ、前に立つ者が磨くべきスキルだと考えます。

●教えるのでなく下僕として振る舞う
実力がある者が教える、という態度ではなく、みんなを代表して調べたり研究したりして、その結果を伝えるのだという態度を示すべきだと思います。
指揮者という立場になったことで、他の団員より練習している曲のことを多く調べ、音楽全般やテキストの文学的価値について研究することは当然のことですが、自分はそのような係になったのだ、と思って欲しい。いわば、合唱団の下僕です。
それが自分の自尊心を傷つけるのであれば、むしろ学指揮にならないほうが合唱団のためにもよいと思います。合唱団は気持ち良く上手くなりたいのです。

●成果は小出しに
自分が調べたことを一覧にしてプリントして配っても良いのだけど、なかなかみんなは端から端まできっちり読んでくれません。すごいねぇとは言ってくれると思いますが。
外国語の歌詞の意味のように、まとめて配ることに意味がある場合はいいのだけど、自分が調べた成果は練習中に小出しに発言していったほうが、練習も効率的になるし、あなたへの尊敬も日増しに増えることでしょう。

●どうやってあなたらしさを出すのか
学指揮であっても、前に立つのであれば、何らかの芸術的審美眼を表現し、自分なりの音楽世界を構築すべきです。先生の代理、というだけでなく、あなたらしさをさりげなく伝えたい。
その前にあなたの芸術観とは何か、自分探しを最初にすることになるでしょう。あなたの好きな小説は、マンガは、映画は、作曲家は、J-POPは、絵画は、建築は、お笑い芸人は、そういうものを全部洗いざらい出してみる。そうすると、何らかの傾向が必ずあるはずです。自分は音楽で何を伝えたいのか、あるいはどんな表現が好みなのか、それをまず自覚すること。
とはいえ、それを練習中に直接言って強要すると、学指揮らしさを損ないます。練習中にさりげなく、あなたの好きなモノの例を出しながら指導するのです。「ここは、アバターで、鳥に乗って空を飛んでいる感じで〜」とか(まあセンスは問われますが)。あまりマニアックなのもいけませんが、団員の半分くらいは知らないことでも構いません。

学指揮の役割は、合唱団を上手くすることです。学指揮の自尊心を満たすことではないし、ひょうきん者として人気を博すことでもありません。
お金をいただく指揮者の先生はちょっとだけ違います。合唱団を上手くすることで自分の株を上げることが、指揮者としての自分の商品価値を高めることになります。それが本職の指揮者の目指していることです。
その辺りをきちんと理解した上で、学指揮は本職の指揮者を真似るのでなく、合唱団の下僕となる覚悟が必要なのではと思うわけです。

2010年8月26日木曜日

指揮者と合唱団の関係 その2

指揮者と合唱団の音楽性の違いについて考えてみましょう。
同じような年代の集まりとか、学生であるとか、逆に特定のジャンルしか歌わないとか、合唱団にはいろいろなタイプがあります。またそのような属性で合唱団の音楽性は変わってくるものです。例えば、古楽を中心に歌っている合唱団に、ピアノ伴奏の邦人合唱曲を歌わせても面白く感じない人は多いことでしょう。逆にピアノ伴奏が普通だと思っている人は、アカペラに異常に拒否反応を示したりします。
同じように、指揮者にもいろいろなタイプがいます。合唱連盟の中枢にいる有名指揮者、吹奏楽と兼任している音楽の先生、オペラ専門の声楽家、元々ピアニストなどなど。そういった出自によって、指揮者の音楽的傾向も異なるはず。

そういったもろもろの音楽性の要素をベクトルで表現してみましょう。音楽性をm次元のベクトルMで表現するものとします。合唱団の音楽性は各団員の音楽性の総和です。各団員の音楽性は、an×Mnで表すものとします。aは、ベクトルの強さ、すなわち影響度の大きさとでもいいましょうか。
合唱団は指揮者(指導者)があって初めて成り立つものとすると、合唱団全体の音楽の方向性は、指揮者の方向性と合唱団の方向性を足したものになります。
以上の状況を図に示してみます。
Cond
指揮者の影響度acと各団員の影響度anは、重みはだいぶ違います。指揮者は前に立って、指導するので、団員一人一人の影響度よりはるかに大きな値になるはずです。

そのような前提で考えてみると、合唱団と指揮者の関係として、上図の1,2,3のような状況が考えつきます。
1は、合唱団の音楽性と指揮者の音楽性が非常に近い位置にあります。そのため、二つのベクトルが合わさって非常に強い音楽的効果を生むことが予想できます。
2は、合唱団の音楽性が弱い場合です。これは個々の団員にそれほど明確な音楽性が無いか、団員の指向性がバラバラな状態であると考えられます。このような団体では、指揮者の音楽的影響が強く表れ、合唱団が指揮者色に染められていくことでしょう。
さて、最悪なのは3のパターン。合唱団は比較的明確な音楽性を持っていますが、このベクトルが指揮者のベクトルとかなり違う方向を向いています。結果的に二つのベクトルを足し合わせたものは、誰もが望まない、しかもレベルの低いものになってしまう可能性があります。早晩、この関係は破綻するかもしれません。

もちろん、ベクトルの各次元の要素は何?とか、そういう細かいことは検討していません。純粋に概念的な思考です。しかし、ここに具体的なパラメータを入れて計測してみると、学術的に面白いデータが得られるかもしれません。

2010年8月22日日曜日

指揮者と合唱団の関係

まあ合唱団が人の集まりである以上、人間関係に関する問題はどこでも起きうる話ですが、ここでは特に指揮者と団員との関係について考察してみたいと思います。
特にアマチュア合唱団において、指揮者とはどんな役割を持っているのでしょう。当たり前ですが、合唱団の音楽的特徴を一手に握るわけですから、団の魅力の多くは指揮者に負うものが最も大きいはず。人によっては、指揮者の魅力そのものにそれほど価値を感じない人もいるだろうし、地方の場合、合唱団に選択の余地がないといった事情もあるかと思います。それでも、練習の面白さ、歌う楽しさの多くは指揮者に依存しているはずです。

指揮者の魅力とは何か、と考えたとき、一つには音楽的、芸術的な魅力であり、もう一つは人格的な魅力だと思います。まあ、見た目というのもあるかなぁ。
しかし、上記の二つの魅力は実は渾然一体を成していて、どこからが音楽的な魅力か、どこからが人格的な魅力かと分けることは難しいもの。私の見るところ、多くの人が人格的魅力を、音楽的魅力と解しているように見えます。具体例は挙げづらいんですが、ある指揮者を信仰している人は「あの人の音楽は素晴らしい」とたいてい言うでしょう。しかし、端から見ると実際はカリスマ的な振る舞いとか、親分肌的な性格に心酔しているようにも見えます。

それは結局、合唱団員一人一人の音楽観、人生観の反映でもあります。
私自身はちょっと苦手なのだけれど、中学、高校の合唱部などで顧問の先生をヒエラルキーの頂点とした、体育会系的な厳格な上下関係と、とにかくやれ的な圧力、しかし(音楽そのものより)そういった努力こそ美しいものと考えるようなノリってありますよね。テレビ番組なんかでもそういう部活特集も多いし。
このノリを意外と引きずっている人も多いです。自分が若い頃薫陶を受けた師匠をすべて基準にしていて、たいていの場合師匠は美化されているので、どの合唱団に行っても過去の体験を凌駕できない、と思ったりします。こういう人は、今の練習にもピリッとした規律や厳しさを求めます。

一方、そういうことと全く無縁に、毎週歌を歌いに来ることがシンプルに楽しいという方もいます。そういう人は自分が楽しめることを最優先事項とするので、楽しめない練習、には抵抗を示します。
むしろ厳しさよりも、学ぶ楽しさ、うまくなる楽しさ、が大事で、それを実感できるような練習である必要があります。こういう人にとって個人の吊るし上げなど最悪の練習法です。

上記は合唱団のタイプにもよります。厳しさ重視と楽しさ重視、と簡便に言うのなら、若い合唱団と実績のある指揮者なら厳しさ重視になるだろうし、地方の市民合唱団なら楽しさ重視となるでしょう。
率直に言えば、コンクールなどを見る限り厳しいほうが上手いことが多いです。ただ私が指揮をする場合は、練習での楽しさを忘れないように努力をしているつもりですし、そもそも厳しさはあまり似合いそうもありません。

2010年8月19日木曜日

編曲における著作権についての私見

編曲のとき、オリジナルの作曲者への許可が必要か、ということはネットでも多くの人が繰り返し質問しています。この件について、ややセンシティブな内容ですが、日頃思っていることを正直に書こうと思います。

ちなみに、ネット上にあるこうした質問への答えはほぼ「許可が必要」と書かれます。まあ、そのように聞かれれば、そう答えるしかないのも事実。しかし私流に、もう少し正直な言い方をするなら「許可を得ておけば絶対に間違いはありません」ということだと感じています。

まず編曲が、オリジナルの著作者のどのような権利を侵すかを考えてみます。
私は法律家では無いので、内容は保証しませんが、著作権とは言っても、財産が絡むものと絡まないものがあります。編曲して演奏しても原曲の著作権者には著作権料は入るのですから(ちゃんと申告してあれば)、編曲そのものが著作権者の財産権を侵すものではないことは理解できるはずです。
編曲を許可する権利とは、財産の絡まない著作権、一般に著作者人格権と呼ばれる権利によるものです。つまり、作品を勝手に変えられてスゴい傷ついた、とか腹が立った、といったときに申し立てることができる権利です。
もちろん、人格権は日本では有効ですから、勝手に編曲した後、著作権者から人格権の侵害だと告訴されれば裁判では負けることになるはず。
ただし、ここにはいくつかの「もし」があります。
もし、著作権者が勝手に編曲された事実を知ったら、
もし、著作権者がその編曲に腹が立ったら、
もし、著作権者が編曲者を告訴したら、
この条件が揃えば、編曲者の罪は確定します。

特に三つ目の条件は個人的に重要だと思うのですが、告訴できるのは著作権者のみ、ということです。こういった罪のことを親告罪と言います。例えば、演奏を聴いていたお客さんが「コレは良くない」といって訴えても、あるいは警察が許可を得ていない実態を知って訴えても、著作権者自身が訴えない限りは罪にならないのです。例えば、編曲を聞いたオリジナルの著作権者が「まぁ、なんて素晴らしい編曲なんでしょう」と思えば、罪どころか喜ばれます。
というようなことをつらつらと考えていくと、地方のアマチュア音楽家が勝手に編曲して、地方の演奏会でそれを取り上げたとしても、その行為自体が罪になる確率は極めて低いものであると考えられます。

もう一つ、文化的な側面で考えてみたいのです。
その昔の音楽では、「○○の主題による○○」みたいなタイトルの曲とか結構ありますし、原曲をリスペクトした上でその音楽を自由に編曲していた時代がありました。
あるメロディが別の創作家にインスピレーションを与え、それがまた新しい音楽の世界を生み出す、ということは極めて自然な行為だし、芸術的に何ら後ろめたいことは無いと私には思われるのです。
もちろん、中にはオリジナルよりダメダメになってしまった曲もあったかもしれません。でも、それはその音楽を聴いたお客さんが判断すれば良いだけのこと。少なくとも私は、自分の曲を別の人が編曲してくれるなんて、それだけ自分の曲が人に何らかの影響を与えたことを意味しているようで、とても嬉しく感じます。
自分の作品は一切編曲してはいけない、という創作家の態度を私は好みません。あまりにナルシスト過ぎます。芸術はもっと自由であるべきです。溢れ出る創作意欲を止めようとすることこそ悪ではないでしょうか。

と、ここまで書いてきましたが、私は許可なく編曲しても全然問題は無いと考えている、とここで断言するつもりはありませんよ。ブログに書く以上、公な意見ですからね。
後は、編曲したいと考えている皆さん一人一人が自分の行為を決定してください。

2010年8月16日月曜日

歌と踊りのある生活2

さて、実際に書きたいことって実は、今回の方。
前回も言ったように私には踊りを楽しむ文化はありませんでした。そして、多くの日本人もまた同じではないかと思います。もちろん各地で行われる祭りとか盆踊りとかあるけれど、それって若者が熱中するような踊りとはちょっと違う感じ。
生活に根付いた踊りというのは、伝統だからやらねばならぬものでは無くて、もう何しろ踊りたい、という基本的な欲求によるものです。若者が夜の街でハチャメチャになって踊り狂いたい、とか思う気持ちとほぼ同じというべきか。

日本にそういう文化があまり根付いていない一方、世界を見るとむしろ生活に踊りが根付いているほうが一般的。例えば欧米の国々にはパーティ文化があり、パーティには必ず音楽と踊りの時間がある。それは社交ダンスのようなものだけでなく、流行歌の場合もあるし、地方の民謡の場合もあるし、DJのようなクラブミュージックという場合もあるでしょう。TPOによって踊りの種類が違うだけです。
欧米だけでなく、中東のアラブ系、インド、中南米、そしてアフリカといずれも歌と踊りが生活に根付いているように思います。人が集まれば、必ず生バンドが演奏し、それに合わせて皆が踊るわけです。

なぜ、そんなことを感じているかというと、私が仕事で関わっている電子キーボード類は、そのようなパーティの場で使われることが多いからです。例えば中東で音楽のプロというのは、CDをリリースしてコンサートを開くようなアーティストというよりは、結婚式や祭りなどのイベントでお金で雇われて演奏する音楽家のことです。バンドだけではなく、予算に応じてリズム内蔵の電子キーボード一台でも生演奏は可能です。左手でコードを指定するような楽器は日本では全く用途がありませんが、外国では非常に大きな需要があるのです。
もちろん彼らは単に黙々と楽器を弾くだけでなく、様子を見ながら曲調を変えたり、踊りを盛り上げるように扇動したり、歌を歌ったりと、その場のエンターテインメントの中心にいる人になります。演奏家に要求される才能は音楽だけではないのです。

そんなことをいろいろ考えてみると、我々日本人の音楽には踊りが足りない、と思います。もちろん、だからと言って「さあ,みんな踊ろうよ」などといっても浮くだけ。我々が音楽で踊るようになるには、欧米的なパーティ文化が根付く必要がまずあるように思います。
日本では居酒屋で宴会、というのが人が集まった時の楽しみ方ですが、この状態で踊るのは難しいし、もしやったらかなり迷惑。
残念ながらそういう意味では、日本人が踊るようになるのは一朝一夕では無理そう。まだまだ何十年もかかるのではないでしょうか。それまでは、我々は外国の歌と踊りの文化を羨望の眼差しで見つめるしかないのかもしれません。
それとも果敢に、率先して踊ってみますか。(私は無理そうです)

2010年8月14日土曜日

歌と踊りのある生活

日頃、私たちは生活の中で歌や踊りを楽しむことは稀なことです。私に関して言えば、確かに合唱では歌っているけれど、カラオケにはもう最近全然行っていませんし、普段の生活で歌う機会はそう多くはありません。しかも踊りなんて恥ずかしくてそうそうやれるもんじゃありません。盆踊りだって最後にしたのはどれほど前のことか。今でも、大学生の頃(バブル全盛期)、研究室の面々でディスコに行った時のノレなかった感を思い出します。残念ながら、自分の周囲には踊って楽しむという文化は無かったようです。

しかし、最近、いろいろなことで「歌と踊り」の意味について再確認させられます。
少なくとも、私たちはプロフェッショナルな人々の歌と踊りを見るのは好きなようです。人間には、心の深い奥底に歌と踊りを求める遺伝子が存在しているのではないかとも思います。
ウチの1歳2ヶ月になる子は、もちろんまだまだ言葉なんて全然でないし、会話によるコミュニケーションは不可能ですが、「おかあさんといっしょ」のような番組で歌と踊りがテレビから流れてくると、食い入るように見つめています。
言葉よりも早い段階で、音楽は幼児の心を掴むのは確かだと思います。そうでなければ、幼児番組があれほど音楽を流している理由がありません。そして、その音楽に合わせて誰かが踊っている、というのは極めてストレートに人の心を刺激するように思えます。
考えてみれば、10代、20代が熱中するようなアイドルは、歌と踊りのカリスマであると言っていいでしょう。低俗だと冷ややかな視線を浴びせる人もいるでしょうが、舞台で歌と踊りを披露し、それを見て熱狂する、という風俗は時代、人種を問わずもう人類普遍のものではないかと私は思います。
ちょっと前に書いた南アフリカのカースニーカレッジのコンサートでも、歌と踊りのエンターテインメントで私たちを楽しませてくれました。まさに、歌と踊りは人種と文化を乗り越えて、直接人の心に響く表現手段なのではないでしょうか。

かなり前に、「歌うネアンデルタール」という本を読んで、その中に書いてあったのだけれど、人類が進化していく過程で、現在の言語よりも前に歌のようなコミュニケーション手段があったのではと推測しています。
もし、そうだとするならば、歌と踊りはもう本当に根源的な人間の基本的欲求であり、人々をエンターテインするのであれば、そこを究めねばならないということに繋がるのではないか、そしてそれはあらゆる表現者が立ち向かって行かねばならないことではないか、と最近感じています。

2010年8月9日月曜日

英語公用語化

楽天の社内英語公用語化って恐らくいろんなところで議論が巻き起こっていることでしょう。
当然、ほとんどの人が反対派でしょうから、あまのじゃくな私としては、ちょっと賛成してみたくなります。もちろん、基本英語苦手な私が賛成しても全く説得力無いですが。

まあ、誰もがそんなの無理だと心の中では思ってます。私もそう思います。だって、日本人が普通にたくさんいる場所で、英語で仕事しなきゃダメって言うのはかなり無理な話。
しかし、日本人は日本語しか話されない場所に慣れ過ぎていて、それが当たり前だと思い過ぎているというのもまた事実。マルチリンガルな環境であれば、取りあえず意思疎通を図るため、良い悪いはともかく英語で話すのが手っ取り早いという事実はあるでしょう。
実際、中国人や韓国人と話すのだって英語が一番簡単だと思います。

だから、無理矢理でも外国人が多い職場になれば、英語公用語化は議論するまでもなく起こりうる話です。社長が日本人だから日本語、なんて意味ないのです。
ただ楽天の全ての職場に外国人がいるわけでは無いでしょうから、日本人ばかりのところでどこまで英語を話すかっていうのは難しいところでしょう。現実には、なあなあで適度なところに落ち着かせるとは思いますが。

実際、普段しゃべる言葉を英語にしたら何が変わるでしょう?
まず、否定が簡単に言えるようになりそう。会議中、日本語なら「私はそうは思いません」とはなかなか言いづらいもの。もちろん状況にもよりますが、出来るだけ否定語を使わずに、発言しようと思ったりしませんか。英語なら、"I don't think so"とか、簡単に言えそう。っていうか、英語だと良く言われるし。他人の意見を否定する、という行為の敷居を下げるのに一役買うのでは、という期待はあります。
次に、大きな利点は敬語の問題。丁寧語とは違うのです。歳下に「〜だよね」とは言えても、部長には言えない。せいぜい「〜ですよね」。でも、そういう言葉を今度、歳下に言うとそれはそれで奇妙。私たちは組織の中での上下関係を知らず知らずのうちに言葉で表現している。でも、英語になればそれが無くなります。偉い人も、若い人もより対等の関係になるのでは無いかと思います。
いずれも文化的な問題なのですが、もう一つ文化的なことを言えば、日本では「沈黙は金」、でも海外では"Silence is evil"です。日本の会議でよく沈黙が流れることがある。ところが外人が混じった途端、しゃべりまくる外人、うなづくだけの日本人という構図になります。言ったが勝ちの世界。言わない方が悪い。「言わなくても分かる」文化からの決別です。だからこそ、より言葉の内容が重要な意味を帯びてきます。

どうせみんな、大してしゃべれないでしょうから、早急に自分の周りで英語公用語化は無さそうですが、そういうドタバタが起きるなら、英語公用語化も悪くないと密かに思っています。
あとそれから、日本語や日本文化が失われる・・・なんて議論もあるかと思いますが、別に日本語を話すな、と言っているわけじゃないのだから(公用語ってそういうことじゃないだろうし)、それは過剰反応かと私は考えます。むしろ、日本語を見直すいいきっかけになるんじゃないでしょうかね。

2010年8月7日土曜日

Twitterの始め方

Twitterは、随分前からアカウントだけは持っていたんですが、今の今まで、おおよそ使いこなしているとは言い難い状況です。
Twitterってシンプルそうなわりに、妙に難しいんですよね。実際に見てみると、何でこの発言が自分のタイムラインで読めるのか良く分からなかったり、返事なのにフォローされてないと読まれないとか、今ひとつ要領が飲み込めません。
そんなわけで、しばらく読むことに徹していました。当初は新聞社のニュースなどをフォローしていたら、とんでもない量のつぶやきがやってきて、他のものが読めなくなってしまったので、止めてしまいました。「名言」ってのも楽しかったんだけど、これもちょっと量が多すぎ。中身が濃いので、一日一回くらいにして欲しい。
結局今読んでいるのは、ブログも大変楽しく購読させて頂いているこの人。ここから派生して何人か有名人のつぶやきを読んでみようかと思っています。

しかし、人のを読んでいると、自分も何か書きたくなるもの。
サラリーマンの日常なんて全く面白くないし、子育てネタ書いてもしょうがないし・・・。なんて思っていたんですが、楽譜を書きながらそのとき考えたことをつぶやこうかなと思い付きました。自分にとっての備忘録になるし、孤独な作業だからこそ、ついつい独り言を言いたくなるっていうのがTwitter的な感じがします。
作曲の仕方は人それぞれでしょうが、どんなふうに楽譜が書かれているのか興味のある方もいるかもしれません。詩選びから、詩の読解、曲の構成の検討、実際の作曲作業・・・と、今自分がやっていることをちびちびと垂れ流していこうと思います。
いろいろと迷いながら考えているライブ感が伝わると幸いです。私のプロフィールページはこちら

2010年8月6日金曜日

楽譜のコピー方法

普通の合唱団なら、ほとんどの場合、市販の楽譜を練習で使っていると思いますが、それでも時々何らかの原因で楽譜をコピーして使うことがあると思います。
例えば以下のような場合です。
・市販楽譜のコピー(良くはないけど、現実よくあるハズ)
・誰かが編曲した楽譜を配る
・初演時の作曲家の直筆楽譜を配る
・古い記法を現代楽譜に書き直す
・小節やパートを削除した特製版
などなど・・・他にもいろいろありそうですね。

こういった状況で、やけに読みにくいコピー楽譜を手渡されることがあります。
読みづらい楽譜は、歌い手の集中力を欠くことになるので練習の効率が落ちますから、それは合唱団にとって立派な罪です。楽譜をコピーする時、どの用紙に、どのくらいの縮尺で、どのページと一緒にコピーするか、という点だけであなたのセンスを問われますよ。

例えば、ほとんどの楽譜は見開きで使うわけですから、配られたコピーも見開き状態であることを期待します。ところが、A4の紙に一ページ分コピーされた楽譜を、ページ数分だけ配られるとちょっと嫌になります。
それから、合唱団の年齢層にもよりますが、縮小コピーも考えものです。私も最近老眼気味なので、字が小さくて読めないとかなりフラストレーションが溜まります。もともと字が小さいのなら、それ以上の縮小コピーは止めたいものです。

例えば、4ページある楽譜をコピーして渡すとき、皆さんはどうしますか?
まあ、ほとんどの人は、1、2ページを見開きに、3、4ページを見開きにして、紙を2枚配ると思います。
ちなみに私は、4、1ページを見開きに、その裏に2、3ページを見開きに両面コピーして、紙1枚にして配ります。別にエコってわけじゃなくて、楽譜をもらった人にしてみれば、譜めくりも自然だし、製本もせずに済むし、そちらのほうが便利だと思うからです。
楽譜をコピーする時でさえ、そのような気配りが出来ると練習の密度が上がると思うのですが、いかがでしょうか。

2010年8月3日火曜日

街の編曲屋さん

このところ、嬉しいことにいろいろな方から編曲を依頼されることが多くなりました。昨日も、私の編曲モノを演奏会でやって頂けるというので聴きに行きました。(恐れ多くも)プーランクの歌曲を連弾に編曲してしまいました。編曲も本業の合唱はもちろんのこと、器楽の楽譜もいろいろと書かせて頂いています。すっかり街の編曲屋さんです。

今まで編曲した編成をざっと挙げてみると・・・
・歌&ピアノ
・ハープシコード&ヴィオラダガンバ&バロックバイオリン&ソプラノ
・チェロ&ピアノ
・マリンバ&ピアノ
・フルート&オーボエ&ピアノ
・馬頭琴&ピアノ&歌
いろいろ、風変わりな編成もあります。いずれも一度きりのものばかりですが、たまたま集まったメンツで好きな曲を自由に演奏出来るというのはイベンターにとって嬉しいはず。

実際いろいろな楽器の人が集まって何か曲をやろう、と言っても、編成に合った編曲が無いのは世の常。合唱でも、J-POPを歌いたいのに、編曲が無くてあきらめる方も多いことと思います。
自分がやるから言うわけではないけど、もっと皆さん、自分で編曲するなり、身近な人に編曲してもらえばいいと思うのです。クラシックの有名曲だって、オリジナルの編成でなくちゃいけない理由はありません。音楽はもっと自由だし、そんな自由さが巷に足りないと思います。やや危険な言い方ですけれど、著作権などお堅いことを言う人も多すぎます。

最近なら出来た楽譜をPDFファイルにしてメールでお渡しすることも可能ですから、楽譜のやり取りやら編曲者との連絡などもそんなに大変では無いでしょう(いまどき手書きで楽譜を書くアレンジャーはあまりお奨めできません。それは、かなりの化石な方です)。
編曲作業をめんどくさがったり、あきらめてありきたりな曲をやるより、面白い演目でお客様を楽しませたい、という気持ちを大事にすべきです。もっともっと編曲ステージを増やしましょう、皆さん。
もちろん、余力のある限り私もご協力いたしますよ。

2010年8月1日日曜日

終わりに

これまで「音のリクツ」を愛読して頂きありがとうございました。これにて、私が書きたかった内容は終わりです。

実際書いてみて、まだまだ説明が足りないところとか、文章が今ひとつ良くないところとか、たくさん心残りはあります。記事自体はネット上に残るわけですから、気がついたときに内容を少しずつ修正していきます。それから、なるべく図をたくさん入れるつもりでしたが、ちょっと面倒になって結局字が多くなってしまいました。これも、暇を見つけて図を足していこうかなと考えています。
そんなわけですので、一応終わりますが、まだまだ内容は修正していきます。今後もご意見ご要望がありましたら、何なりとご連絡頂きたいと思います。

私自身、音についてまだまだよく知らないことが多いですし、音声については研究も盛んですから、これから新しい事実がさらに出てくることでしょう。
一般の人が思っているほど、音声に関してはリクツが明瞭になっているわけではないのです。人の話した言葉をコンピュータが理解する(音声認識)という研究では、まだまだ人の理解力よりコンピュータの方が断然劣ります。
音楽を認識させようとしても、複数の音のピッチを取り出すこともコンピュータではまだ上手くできません。意外と基礎的なことも、まだ技術的には出来ていないことは多いのです。
まだまだ、音には私たちの理解出来ていない領域があります。そういう事実がこれからどんどん明らかにされるのを私は楽しみにしています。こういった情報も必要あれば、また追記したいと思います。

今まで書いた内容が皆様の音楽活動にプラスになることがあれば大変嬉しく思います。リクツを駆使して、良い音楽を奏でてください!

35.データの圧縮

同じように音声データを聴けるのなら、データ量は少ない方がダウンロードの時間も少なくても済むし、パソコンでコピーの時間も少なくて済むし、メモリの容量も食わなくて済みます。
特に動画、音声のデータは大きくなりがちなので、一般的にはこれらのデータは圧縮されることが多いのです。

これまで説明してきた音のデジタル化は全く圧縮されていない方法です。CDはこの方法です。これをそのままコンピュータのファイルにすると、WAVという形式になります。
圧縮したデータのファイルとしては、MP3AACWMV等があります。これらは非可逆変換といって、一度圧縮されたデータを元に戻すことは出来ません。
元に戻せない圧縮なんてアリなの、と驚く方もいるでしょう。音声の場合、人間の耳の特性を利用すると、元に戻せなくても(つまり情報を削っても)ほとんど違いが分からないくらいに音を再生することが出来ます。そうすることによって、データのサイズは1/10程度まで減らすことが可能なのです。

では、どうやって音声データを圧縮しているのでしょうか?
一つは、ラウドネスカーブを利用しています。「22.音の大きさ」でも書いたように、周波数の低いところと高いところではレベルが低いと人の耳には聞こえなくなります。この辺のデータを間引きます。聞こえないなら消しちゃえ、ということ。
もう一つは、マスキング効果を利用します。人間は同じ周波数くらいで鳴っている複数の音のうち、音量の大きいほうを聞くという特性があります。これを利用すると、大きな音の周波数周辺のデータを少しくらい削っても、人間は気付くことが出来ません。
とはいえ、圧縮の比率を大きくしていくと、やはり音はだんだん悪くなっていきます。WAVのままが一番良い状態です。自分で録音したデータを後で加工するつもりなら、保存用には非圧縮の状態で取っておくことをお勧めします。

2010年7月30日金曜日

リアル本は簡単には無くならない

iPad、Kindleのおかげで電子書籍の時代になるのではと言われています。
ニュースでも、電子書籍の流れに遅れまいと、電機メーカー、出版社、取次業者などの連携話が絶えません。確かにちょっとでも遅れると、アメリカ企業に全部おいしいところを取られるという危機感があるのでしょう。

しかし、電子データを買うという行為について、もう少し冷静に考えてみて欲しいのです。
50年後にあなたが買った電子データは一体どうなっているでしょうか? 50年経っても今のiPadやパソコンも持っているなんて無さそうです。そうこうしているうちに電子ファイルのフォーマットが変わったらどうなるでしょう?
ある程度大規模でしっかりした販売業者なら、販売記録もあるだろうし、データコンバートの仕組みも整えるでしょうが、そうでなければ、買ったデータはいつか読めなくなります。業者としても、過去に売ったデータのサポートまでは(利益にならないから)本当はしたくないはず。「お客様のデータはすでにサポートされていない形式です」みたいな。
ユーザだって、フォーマットが変わったり、自分が新しいハードを買う度に、データをコンバートするなんて面倒なことをしたくないはず。
こんなことを人に言うと、きっと技術が進歩してうまくやってくれる、みたいなことを言われますけど、これまでのPCの発展の歴史を見れば、それが無理なことは明白。
だいたい50年前にある人がある本を買った記録を残してくれることを、誰が保証してくれますか。多くの企業がそういう未来の負担を知ってか知らずか、データ販売をやりたがるというのは、私はかなり危険な香りを感じます。

全くの無料になればクラウド上のデータを落とせば良いので、問題は無いでしょう。それだって、過去に有料だったものをいつ無料化するかっていうのは悩ましいです。
結局、お金を払って買って、なおかつ長い間手元に置いておきたい本は、電子書籍には不向きだと思います。逆に新聞、雑誌などの情報誌は電子書籍に向いているかもしれません。
世の中の書籍データの価値がどう変わるか分かりませんが、あんまり早急に電子データを買って、後でデータを失って痛い目を見ないように気をつけたいものです。

2010年7月26日月曜日

34.デジタル信号の流れ

デジタルは単なる数字です。当たり前ですが、耳元で数値の羅列を囁かれても、それは音楽としては聞こえてきませんよね。空気の振動を数値に変えたり、また数値を空気の振動に戻してあげる必要があります。
実際の音をデジタルで取り込むには、マイクが必要になります。マイクで録音した音声をデジタルにすることをAD変換(アナログからデジタルへ)と言います。逆に、デジタルのデータをアナログにすることをDA変換と言います。DA変換されアナログになった音声はスピーカーで本物の音になります。

つまり、デジタル音声を扱うには、AD変換とDA変換の必要があり、アナログの部分に音を入力するときにはマイクを、アナログ音声を出力するときにはスピーカーが必要になるわけです。
上図の「デジタル各種処理」とは、実際どんな処理が考えられるでしょう。
録音時の場合、雑音の除去、音量の補正、曲の区切りなどのインデックス付けなど、再生時の場合は、再生装置の音響補正や、再生機器の機能としての残響付加、サラウンド効果、といった処理が考えられます。

デジタルな音声システムにおいては、どのようなマイクやスピーカーが重要でしょうか?
あくまで私見ですが、デジタル化が進むほど、入力側のマイクの性能が重要になり、むしろ出力側のスピーカーの品質は重要ではなくなると考えています。
スピーカーの場合、部品の品質の低さをデジタルで補正することがある程度可能です。一般に小さいスピーカーでは低音は出にくいのですが、上図のデジタル処理の中で、低域を多めにしてあげれば良いのです。また、周波数によって出力にムラがあるようなスピーカーでも、ピンポイントでデジタル補正してあげることも可能です(イコライジング)。
一方、マイクの場合、録音時に欠落してしまったデータはあとで追加することは出来ません。ある程度の補正は可能でしょうが、後でデータを加工するのなら、オリジナルの録音はとことん高品質で録られる必要があります。
昨今、音楽録音用のICレコーダが一つの製品ジャンルとなり、各社から発売されています。マイクも会議用のショボいものではなく、音楽用の結構立派なマイクになっていて、録音機材の環境はかなり良くなってきています。こういった機材で生演奏を録れば、高品質な録音データが得られます。

2010年7月24日土曜日

告白/湊かなえ

昨年の本屋大賞受賞作。なんか本屋大賞ウォッチャーみたいになってますが、この本、もともと妻が新幹線の中で読んで面白かったから読んだら、と手渡されたもの。
率直に言って、この小説、一言でいえば「不快」です。しかし、読まずにいられない不快さなのです。人の心の中のマイナス感情ばかりが増幅されます。嫉妬、嫌悪、蔑み、そして復讐。ディテールも細かく描かれ、内容のリアルさがまた薄気味悪さを醸し出すのです。
本書を貫く「熱血」嫌いな感性って、わかるわかる、と思う人も多いのでは。私も内心ほくそ笑みながら読みましたが、この著者自身、無闇な熱血礼賛傾向を嫌っているのでしょう。そういう、建前はそうだけど、でも本音は違うようね〜みたいな感じが赤裸裸に書かれていて痛快な反面、倫理的な危うさも伴います。

ちょっと前に書いた「天地明察」と正反対な小説。かたや、男のロマン追求、難事業成功物語ですが、この小説は、女の愛憎劇、救い難い陰惨な結末、という感じ。真逆でも心に何か刻まれる、という点では、いずれも強い力を持っているわけですが・・・。


2010年7月22日木曜日

iPhone4入手

ネットで予約してから2週間、ようやくiPhone4を入手。
自分でSIMカードを入れて、アクティベーションを行うという楽しい体験をさせてもらいました。こんなやり方で携帯の買い替えが出来るんだったら、お店もいらなくなるんじゃないでしょうか。まあ、iPhoneだから出来ることなんでしょうけど。

iPhone3Gを買ってから2年。当時は、スマートフォンが欲しかったと思っていたときに、ちょうど話題のiPhoneが日本で発売されたんで、これは面白そう、と飛びついたのがきっかけ。しかしこの2年でアップルの存在感はとてつもなく大きくなってしまいました。
特にiPadが出てから、今や世間はiPadの対応で右往左往状態。これだけ社会にインパクトのある商品を出せるアップルという企業の恐ろしさを多くの人が感じていると思います。今や、iPhone/iPadでどのようなアプリを作るか、ということが多くのビジネスシーンで重要なissueになっているような気がします。

そんなわけで、気がつけば私自身、すっかりiPhoneにハマってしまい、アプリを4つもリリースすることになっていました。iPhone3Gでは、iOS4でサポートされたマルチタスクが動作せず、買い替えざるを得ない状況にさせられたのはアップルの思うつぼ、という感じです。
実際にiPhone4を手にして思うのは「すべてを変えていきます」というキャッチコピーの割には、ただiOS4が載っている速くなったiPhoneという感じ。ゲームをする人ではないので、ジャイロとかあんまり必要だとも思えないし・・・。あ、でも動画が撮れるのはちょっとだけ嬉しいですね。
しかしまあ、速くなる、ということは良いことです。特に携帯の場合、それは使い易さに直結します。今まで8GBでしたが、今回は32GBにしたので、当面容量も気にすること無く、音楽や写真やたくさんのアプリを持ち運べます。
そんなわけで、しばらくはiPhone4で楽しめそうです。

2010年7月19日月曜日

辞世九首(in福島)をYouTubeにアップ

��月に福島市で行われた声楽アンサンブル全国大会に出場したことはお伝え致しましたが、このときの「辞世九首」の演奏をYouTubeにアップしました。
このページにも貼付けておきます。賞無しの演奏ではありますが、会場の素晴らしい音響に助けられてそこそこ聞けるのではと思います。よろしければご覧ください。
なお、YouTubeの大きな画面で見たい方は、右パネルの「YouTube-Myチャンネル」でどうぞ。








辞世九首の楽譜はコチラから購入頂けます。



インセプション

「ダークナイト」のクリストファー・ノーラン監督、ディカプリオ、渡辺謙が出演する「夢」を題材にした映画。久し振りに時間を作って何を観ようか迷った末に選んだ映画がコレ。
しかし、なかなか面白かったです。「ダークナイト」では正義と悪の微妙な境界線を描いたこの監督、今回は夢と現実の微妙な境界線に挑戦。
「うつつは夢、夢こそまこと」という江戸川乱歩の言葉を地でいくようなストーリー、"A Dream within a dream"なんてポーの詩の題名と同じ台詞も何度も出てきて(この詩に曲を付けています)、個人的にはこういった題材、とても共感します。

しかし、この映画を観ていない人にどう紹介するかは大変難しい。そもそも、映画の設定が大変複雑で、見終わっても?がいっぱい。やや強引にストーリーを進め過ぎて、難解な映画になっているのです。それでも敢えていうと、人の夢の中に共同で入り込み、人の意識から何かを盗んだり植え付けたりする仕事をしている主人公とその仲間たちが、ある依頼でチームを組んで目的を達成するまでを描いています。
夢の中に共同で入るっていうのが、またまた「マトリックス」っぽくて、面白い。みんなで同じ部屋で何か電極を付けて一緒に寝るわけです。こうすると、共同で別の世界に旅立てます。

そして、このストーリーに主人公のコブの個人的な恋愛の話が執拗に割り込みます。
この夢の世界にすっかり魅了され、二人だけの世界から離れられなくなったコブの奥さんは、現実の世界に戻ることを拒むのです。目的を達成するための派手なドンパチと、コブの退廃的な恋愛ストーリーが複雑に絡み合い、二人の過去が少しずつ暴かれます。ストーリーは最後の最後で、夢か現実かわざと曖昧にされていきます。

もう一つ、この映画の面白い点は、その映像芸術にあります。夢なら何でもあり、という幻想世界を描くには、それ相応のセンスが必要。序盤での日常に街に起きるあり得ない出来事はとてもシュールだし、主人公が設計したという夢の世界もとても幻想的。シュールレアリスム的芸術世界を堪能できるというのもこの映画の魅力でしょう。関係ないけど夢の中に迷路を作る女子大生の名が「アリアドネ」なんだよね〜。

しかし、見終わってもなお意味の分からないことがたくさんあります。
そもそも、チームを襲ってきた人たちは一体なんだったのかが良く分かりません。敵方も同じ夢に侵入してきたかと思えばそうでもなさそうだし・・・。それから、虚無に落ちる、とは何を言っているのでしょうか。意味分かりません。取りあえず爆弾を多用するのは、夢を一段階覚醒させるためだというのは何となく理解できましたけど。

2010年7月18日日曜日

33.横に区切る─量子化

次に波形を横に区切ってみます。波形を横に区切るということは、波形の振れ幅を調べるということになります。横に区切るのを細かくすればするほど、波形の振れ幅を正確に表現することが出来ます。

波形を横に区切ることを量子化といいます。サンプリングは時間を表しましたが、量子化では波形の振幅を扱います。

波形の振れ幅というと、どれだけ大きい音を記録できるか、というふうに捉える方も多いと思いますが、どちらかというとそれは逆です。つまり、どれだけ小さい音を記録できるか、というのが量子化の性能の高さを表します。
デジタルの特徴は、枠をはめるということです。
デジタルでは、最初から記録できる最大音量が決まってしまいます。ですから、どれだけ細かく量子化できるか、ということは、どれだけ小さな音が記録できるか、という性能になっていくのです。

一般に、記録できる最大音量と最小音量の差のことをダイナミックレンジと言います。現在のCDでは、横に区切る細かさは65536段階。ずいぶん中途半端な数字だと思うなかれ。コンピュータの世界では、非常に切りのいい数字なのですよ。一言でいえば2の16乗、つまり16[bit]のデータです。
ダイナミックレンジはデシベル[dB]という単位で表現します。振幅が2倍だと(つまり1[bit]あたり)6[dB]のダイナミックレンジを持つと表現します。従って16[bit]では、96[dB]。
つまり、CDのダイナミックレンジは96[dB]であると言うことが出来ます。

高音質なデジタル音声ということで2496(にーよんくんろく)などと、業界で言われる数値があります。これは、サンプリング周波数を96[kHz]に、量子化ビット数を24[bit]にするということです。これにより、情報(音声のデジタルデータ)は3倍にふくれあがりますが、縦横の区切りがより細かくなるので、音がさらに良くなるというわけです。

2010年7月17日土曜日

32.縦に区切る─サンプリング

波形を数字に変換するには、<図30-2>にあったように、グラフを縦にも横にも細かく分割しなければ(目盛りを入れなければ)いけません。ここでは、その分割の意味を考えてみましょう。

では、まず縦の線について。
波形は時間による波の位置なので、縦の線は時間の流れを表します。左側に行くほど時間は古く、右側に行くほど時間は新しくなります。



波形を縦に区切ることをサンプリング(標本化)といいます。もう少し丁寧にいうなら、サンプリングとは、時間を細かく区切って、その細かい単位で波形の位置を得ることを意味します。

問題は、その時間の細かさです。この細かさのことをサンプリング周波数といいます。サンプリングは一定間隔に周期的に行うので、それを行う頻度を周波数で表すわけです。
CDでは、サンプリング周波数は44.1[kHz]です。一秒間を44100回分割します。分割した時間の長さは割り算すると、約22.7[μsec]。一般的にはデジタル音声信号は44.1[kHz]のサンプリング周波数であることが多いですが、より高品質な音声信号が必要な場合、さらに細かく分割した96[kHz]が用いられる場合もあります。
サンプリング周波数については、サンプリング定理という重要な法則があります。デジタル化された音声は、サンプリング周波数の1/2までの周波数しか記録できないという定理です。
例えば、CDなら44.1[kHz]の半分、22.05[kHz]までの音が記録できます。96[kHz]なら48[kHz]までの音が記録できます。
以前も書いたように、人間の可聴域は20[kHz]程度と言われていますから、CDに記録できる周波数は人間の可聴域をカバーしていると言うことが出来るでしょう。

2010年7月16日金曜日

31.ビットとバイト

ややコンピュータの一般教養的な話になりますが、知らない人もいると思うので、デジタルの世界でよく使われる基本的な単位の紹介をしておきましょう。

これまで、コンピュータのデータは0と1の値で記録されると言ってきました。この0か1かが記録される一つの情報量をビット[bit]と呼びます。例えば、5ビットというのは、0か1かのセットが五つあります。数学的に言えば、5桁の二進数です。十進数で言うと2の5乗、すなわち32までの数を格納できるということになります。

バイト[byte]はビットが8つ集まったものです。つまり、8桁の二進数です。十進数で言うと256。1[byte]の情報は1〜256までの数字を格納できるということです。

このようにコンピュータの世界では二進数が大活躍します(コンピュータ関係のエンジニアは二進数の代わりに、より使いやすい十六進数を用います)。一般の方は、二進数なんて当然使わなくてもいいのですが、コンピュータを使っていると、ときどき二進数を意識することがあります。
十進数で切りのいい値は、1,10,100,1000,10000といった数値ですが、二進数で切りのいい値を十進数で言うと、1,2,4,8,16,32,64,128,256,512,1024といった倍々の数字になります。
確かにパソコンのスペックってこういう数字が多いですよね。USBメモリやヘッドフォンステレオなんかもこういう数字がよく使われます。これは、コンピュータの世界では容量が常に2倍単位で増えていくからです。

通常、純粋にデジタルデータの容量を表現するときには、ほとんどの場合バイトを使います。ではビットはどんなときに使うかというと、より技術的な話になるのですが、一度に処理できるデータの桁数を表現するという用途が多いようです。

2010年7月12日月曜日

アフリカの若き息吹ー南アフリカ・カースニーカレッジ合唱団交流コンサート

本日、表記のコンサートに出演してきました。公式HPはココ
ウチの合唱団(ヴォア・ヴェール)のO氏が実行委員として深く関わってきたコンサートで、一応ウチが主催団体の一つとなっています。とはいえ、マネージはO氏に任せきりで、コンサートの裏方は全て静岡文化芸術大学の学生さんたちが行いました。
という感じで、なかば合唱祭に歌いにいくような気持ちで参加しましたが、カースニーカレッジの演奏の素晴らしさに、残念ながら我々の演奏はお客さんにとっては休憩時間にしかならなかったかも。

そんなわけで、今回のイベント、カースニーカレッジの演奏があまりに圧倒的で、私は一聴衆として大いに楽しんで聞きました。(合唱団用の座席を確保しておいてくれて本当に良かった)
今まで私が聴いた合唱のコンサートの中で、10本の指に入るくらい印象的なコンサートだったと言っていいでしょう。
はっきり言ってカースニーカレッジの演奏は、合唱というよりは芸能に近いのです。歌だけじゃないです。楽器、踊り、小芝居を織り交ぜた、トータルなエンターテインメントです。声ももちろん良いのだけれど、一人一人がマイクを持ってポップスターさながらに歌います。団員が民族楽器やドラム、ベース、サックスなどを演奏し、そして全員が一糸乱れず踊ります。かなりハードな踊りです。もうアフリカっの一言。そして合唱なのにPAも使います。
合唱でなくまるでJ-POPのコンサートのような、ノリノリになれる感動のコンサートでした。

カースニーカレッジ合唱団はプロフィールによると、数々のコンクールで受賞し、Musica Mundiの世界ランキングで現在17位、フォークロア合唱団としては第1位だそうな。(音楽団体に世界ランキングなんてあるのか・・・!?)
男声合唱団で、白人と黒人が半々程度。大柄で貫禄があるように見える指揮者は何と29歳だそうな。この人も大した実力を持っていると思われます。

日本で南アフリカの宗教的・民族的な音楽を聞くことはほとんどないでしょうから、今回の演奏会は思いがけず大変記憶に残る楽しいイベントとなりました。関係された皆様がた(特に文芸大の裏方の学生さんたち)、本当にご苦労様でした。
しかし、こんな面白いコンサートを無料にしなくてもいいのにね・・・。

2010年7月10日土曜日

2010参院選で思うこと

日本の政治は三流とか、質が低いとか言われます。国民の多くが、投票したいと思うような良い政治家がいないと思っているのではないでしょうか。
しかし、私は政治の質は国民の質だと思うのです。それは言うまでもなく、政治家は我々が選挙で選んでいるからです。質が低くて選びようがないから仕方がない、という意見もあるでしょうが、本当にそうでしょうか。今立候補している人から選んでも、もっと政治の質が高くなる選択肢はあるのではないでしょうか。

具体的に思うこと。
選挙前に雨後の竹の子のように出現した少数政党のマスコミの扱いです。選挙前はマスコミは公平になるように、各党に平等に発言権を与えます。ところが、国会議員の数が全然違う政党を公平に扱うために、国会勢力以上に少数政党の意見が国民に届いてしまいます。
一見これは悪くないように見えます。しかし、私の思うに少数政党は政権を自力で取る覚悟が基本的にないため、あり得ないような美辞麗句を並び立てるのが常套です。少数政党が最も輝くのは選挙の時だけ。ワンイシューで理念は立派です。その政策に現実性が無くても、選挙で党勢を拡大するのが目的なので、彼らはそれで良いのです。選挙が終われば、国会で目立たず、ただ反対を唱えるだけの存在です。
巨大政党は議員が多いだけに意見をまとめるのが難しく、また政権を取る可能性があれば、めちゃくちゃなことを言うわけにもいきません。
それをもって、意見がぶれるとか、理念がない、というのはいささか可哀想にも思えます(もちろん、これは大政党の改善すべきことです)。
いずれにしても、よほど自分の政治信条と重なるということがなければ、このような少数政党に投票するのは死票になるだけだと私は思います。

もう一つは、選挙は人物本位で選ぶべきか、ということ。
そもそも、政治家として良い人物ってどういう人物なんでしょう? 声がでかい人? 演説が上手い人? 自転車で走り回る庶民派な人? 熱血漢で何事にも熱い人? 力強く握手してくれる人? でも問題なのはこういった人たちが国会に行って、どんな仕事をしたかということ。ところが実際には、党議拘束にしばられて、党の方針に従っていることがほとんどじゃないでしょうか。
選挙はもちろん本質的には人物を選ぶことにあるけれど、現実的な選択としては、現状では党に票に入れるという考え方の方が正しいと感じます。

誰もが国家財政が危ないと思っているのに、多くの政党が消費税を上げなくても出来ることはある、といわれると何となくそう思えてしまいます。でも、その「出来ること」って官僚や政治家のコスト削減だけでは間に合わなくて、公務員のリストラとか、公共事業の削除とか、結局自分たちに跳ね返ってくることだったりするわけです。
世論調査を見る限り、ますます日本人が危険な選択をしそうで不安になる今日この頃。

2010年7月8日木曜日

天地明察/沖方丁

2010年本屋大賞受賞で今よく売れているのだそうです。内容が面白そうなので、早速読んでみました。
素晴らしい! 面白い! 泣ける! これは良い本です。特に、理系の技術者、研究者なら涙無しに読めないほど感動できるのではないでしょうか。

ときは江戸時代初期。幕府で碁を打つのが仕事である渋川春海は、算術(数学)にも傾倒しています。そんな春海が、関孝和との算術勝負や、日本各地の測量の仕事を任されたりしながら、日本独自の新しい暦を作り上げるまでを描いた、壮大な大河ドラマ。
超高度な数学を駆使し、地球の軌道を求め、そこから新しい暦を作り上げていくその歩みは、研究者の醍醐味そのもの。周囲の人たちの献身的な努力、春海を取り巻く恋愛模様、日蝕の予想を外して新暦作りがストップしてしまうといった挫折や近親者の死など幾多の苦難を乗り越えながら、大きな仕事を成していくさまはまさに爽快の一語です。
とはいえ、春海は単なる理系バカなどではなく、幕府内の人間模様、朝廷での勢力関係などを冷静に分析しつつ、高度に政治的な行動を取っていくあたり、今の理系人間に足りない何かをうまく表現しているようにも思えました。

序盤、22歳の春海と60近くにもなって少年のような心を持った建部、伊藤との学問的な交流には何度も目頭を熱くさせられます。3人が測量の結果に対して、誰が一番近い値を出すか競争するくだり、春海が大正解するのですが、「そなた、星の申し子か?」「いかなる神のご加護でございますか!?」などと歳の差を超えて素直に驚いてくれるその純真さが何とも気持ちが良いのです。
死ぬ直前、建部が「わしにも、天球儀を作るという大願がある・・・」なんていうのも、死ぬまで夢を追いかける研究バカって感じで泣けてきますね。

しかし、よくよく読むと渋川春海の人生自体、ドラマチックであり、こんな題材を良く探してきたものだと思います。歴史の教科書なら、単なる偉人の一人が「新しい暦を作った」で終わってしまうのだけど、その中に潜む人間模様を浮き上がらせ、江戸初期の風俗、政治、そして神道等に関する蘊蓄がふんだんに語られたこの小説、かなりの秀作です。ストーリーだけでなく、読むものの知識欲まで満たしてくれますよ。テレビドラマ化されるかも。


2010年7月4日日曜日

30.デジタルで音を表す

結局デジタルとは、情報を数値化するということです。音の情報も数値化さえ出来ればデジタルにすることができます。

では、音はどうやって数値化するのでしょう?
これまで何度か音を波形で見てきました。そうです!この波形をそのままデジタルにすればよいのです。波形のグラフを小さなマス目に描き、その位置を数字に記録していきます。当然マス目が細かいほど、元の音に近くなっていきます。

では、試しに波形を数値化してみましょう。
ある瞬間の音の波形を録ってみました(図30-1)。特にこの波形の赤で囲った部分をデジタル化してみましょう。

<図30-1 ある音を録音する>

上記の波形を拡大し、それを縦と横に線が入った方眼紙の上に置いてみます(図30-2)。

<図30-2 方眼紙の上に波形を置く>

縦の線と波形が交わる部分に途中まで赤く点を付けてみました。
この点の横軸の値を読み込んでいき、その数値をひたすら並べればデジタルデータの完成。これが音をデジタル化する作業です。

CDの中には、この数字の羅列が延々70分以上記録できるようになっています。CDを顕微鏡で見れば、アルミ箔の上に小さな凹みが付けられているだけです。この凹凸が0か1かを表し、それを10進数化すると、上記の数値が現れるというわけです。

2010年7月3日土曜日

29.デジタルとは

デジタルという言葉の印象は巷では必ずしも良くありません。
IT技術や、コンピュータや、インターネットを想起させ、そのブラックボックス化したシステムの中で勝手に大事なものを触っているような印象があるのでしょう。しかし、10年後、20年後、確実に世の中は変わっています。あなたが望まなくても、世の中のデータは全てデジタル化されていくことでしょう。

じゃあ、そもそもデジタルって何?と聞かれると、結局、概念的な答えになります。単純に言えば、コンピュータが扱えるデータ、のことであり、定義通りに言えば、0と1のみで構成されたデータということになります。コンピュータの中では、電子回路内の電圧が高い、低い(つまり0と1)だけで情報をやり取りするからです。
通常私たちが使う数は、二進数にすれば0と1のみになります。つまり、デジタルとは数字のみで作られたデータと言い変えることが可能です。

では、どうして、文字や、画像や、音を数字だけで表現することが出来るのでしょう。
これは一見、想像を絶することのように思えます。しかし、文字って何? 画像って何? そして音って何? ということを純粋に技術的に考えていくと、それほど大変なことでもないのです。
例えば、文字の場合は分かり易いと思います。全ての文字に番号を割り振ればよいのです。この割り振り方にいろいろ流儀があるため、コンピュータではときどき文字化けなんてことが起きてしまいます。

画像では、デジタル化したいデータを小さな正方形(画素、ピクセル)に分割します。小さな正方形では、色は一つのみです。例えば300万画素のデジカメは、一枚の写真に小さな画素が300万個あるのです。色の表現はRGB(赤緑青)の組み合わせで表現します。一画素のRの量、Gの量、Bの量を数値で表せば、その画素の色が決まります。その値を画素数分だけ持てば一枚の画像をデジタル化したことになります。

2010年6月30日水曜日

古楽情報誌アントレ 2010 7&8月号

Entreeアントレという雑誌をご存じでしょうか。古楽関連の楽器や演奏会の情報を集めた専門誌。
実は、今回iPhoneのアプリ"Meantone"の紹介に、この雑誌の誌面1ページを割いて頂きました。古典調律に一番興味があるのはやはり古楽の愛好家、あるいは演奏家ではないかと思います。彼らがiPhoneを持っているかは定かではありませんけれど、ハイソな方が多い古楽関係者なら、意外な食いつきがあるかもしれないと密かに期待しております。(合唱連盟機関誌「ハーモニー」で、"MovableDo"を宣伝して頂いたときに、ほとんど広告効果が無かったのが思い出されます・・・)

よくよく読んでみると、妻が7月に行う演奏会の情報も載っていました。ここでも宣伝してあげましょう。
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古楽アンサンブル クロチェット 第3回コンサート 待ち焦がれて〜フランス宮廷文化の栄華
7月11日(日)名古屋宗次ホール 15:00〜 3000円

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名古屋にお住まいの方は、よろしければいらしてください。しかし、私はその日、浜松で別の演奏会に出ているのですけど・・・

2010年6月26日土曜日

28.音楽家とデジタル音声

さて、これまでは音の物理的なリクツについて話してきましたが、ここから基本的なデジタル音声のリクツについて解説してまいります。

なぜ、それが重要かって?
好むと好まざるに関わらず、コンピュータは私たちの生活に欠かせなくなりました。なぜそうなったかというと、インターネットの普及が大きく影響しているからだと思います。
インターネットを通じて、世界中の情報を瞬時に得ることが出来るようになりました。また、各個人が世界中に向けて情報を発信することも可能になりました。

クラシック演奏の現場では、いつだってその場での生演奏が最も重要であることはこれからも変わらないでしょう。しかし、インターネットを利用すれば、最高の音楽体験でなくても、今まで聞くことが出来なかった遠い国々での演奏の動画を見ることが出来るし、隠れた名曲を見つけることが出来るかもしれません。
あなたが演奏家であるなら、地道な演奏活動だけでなく、インターネットを介して自らの演奏を積極的に世界に伝えることも可能です。もし、あなたに少しでも何か光るものがあるのなら、世界の誰かが気に入ってくれるかもしれません。会ったこともない人から賞賛を頂けるということは、身近な人がお世辞で言ってくれる意見とは違います。逆に辛辣な意見をもらうこともあるかもしれません。しかし、赤の他人の評価を真摯に受け止める度量は、そもそも演奏家として必要な資質。インターネットは生の真摯な意見を集める重要な道具でもあるのです。

いずれにしても、これからの音楽家はインターネットを介して、世界中に自分の演奏活動を積極的に紹介していくべきだと私は考えます。それによって、ネット上に様々な音楽コンテンツが増えていくことが、音楽文化の発展に寄与することになると思うからです。
そのための大きな関門は、音楽家のコンピュータリテラシーです。特に、クラシック系の方はコンピュータが苦手という方が多く、自らの演奏の音声や動画を編集してネットにアップする、ということが誰でも出来るというわけではありません。
ここからは、ネットにアップするという具体的な方法の前に、どうやって音がコンピュータで処理されるのか、その基本的な理屈を解説します。基礎がわかっていれば、具体的な方法も分かり易くなり、何より日々変わっていく技術の変化にもついていきやすくなるからです。

2010年6月25日金曜日

作曲とプログラム

もう12年前、こんなエッセイを書いていました。
他の人から見れば、会社でプログラムを書いていて、家に帰ってまで(iPhoneの)プログラムを書くなんて信じられないと思われるのかもしれません。
私自身は全然凄腕のプログラマーなんかじゃないし、オープンソースコミュニティで大活躍するようなバリバリのプログラマーでもありません。それでも、プログラムを書いて何かを仕上げるという感覚が好きなのでしょう。そして、それは作曲し終えて、一つの曲を仕上げたという快感と非常に近いわけです。

冒頭にも紹介したように、確かに作曲することとプログラムを書くことは本質的に似ていると思います。だからこそ、この二つとも家に帰ってまでやることを厭わないのでしょう。
とはいえ、会社では単純にプログラムを書くだけの仕事も、最近は少なくなってきましたし、家では乳児の世話で作曲もままなりません。子供が寝静まったら音を立てるわけにもいかないので、ここのところは作曲よりもプログラムの方がはかどっているという始末です。いや、作曲が出来ないからその代わりにプログラムをしている、と言ってもいいかもしれません。

しかし、プログラムって書かない人にその面白さを伝えることはなかなか難しいのです。
というか、ぶっちゃけ言ってプログラミングそのものが楽しいというわけでは無いのです。例えばiPhoneなら、ちょこちょこっと書いて、コンパイルして、Simulatorが立ち上がって実際に動かせます。うまく動くとすごく嬉しいし、思った通りにならないと、何でうまくいかないのか考えます。それを何度も繰り返すわけです。上手く動くと、もっとこうやってみようか、とか、使い勝手が悪いなあ、とかいろいろ不満が出てきて、それを修正しないと気が済まなくなります。そして、動かしてみて思ったとおりの感じになると、それがまたとても嬉しいのです。
意外と行き当たりばったりです。しかし、仕事と違って趣味のプログラミングはそれが楽しいとも言えます。

そう考えると、作曲が楽しいのは、好きな曲を好きなときに書いているからであって、売れっ子になって様々な制限の中、短い納期で仕上げるようなことが常態化すると、自分にとって作曲という行為がどのように感じるか、ちょっと心配。いや、もちろん売れっ子になりたいですよ。今のままがいいわけじゃあ無いんです。

2010年6月21日月曜日

すばらしい新世界/ハックスリー

Brave新首相、菅直人氏が高校時代に読んで感銘を受けたという小説。就任演説などで「最小不幸社会」を目指すといった意味も、何となく分かってきます。なぜなら、本書は「最大幸福」を目指した結果、とんでもないディストピアが生まれてしまった、という架空の未来が語られており、人間の幸福とは何かということを読むものに考えさせるからです。

元はといえば、1984年を読んだ後、Amazonに勧められるがまま買ってしまったという本。確かに、この二つの本の根底に流れている思想は非常に近いのです。
つまり、人間から創造的な発想や、激しい感情や、それを引き起こすような情報を遠ざけ、無力無知にした上で、適度な快楽を与えてあげることによって社会を安定化させるような未来・・・を描いているという点です。
1984年は政治的な色が濃いのですが、この「すばらしい新世界」では、生物学的な方法で人を無力化します。遺伝子操作された人間は、アルファ、ベータ・・・といった形で5階級ほどに分けられます。階級が低いほど、身体的、頭脳的能力は低くなり単純作業といった労働しかできないようにさせられます。彼らにはソーマというある種の麻薬が配給され、束の間の快楽が政府から保証されます。人々の欲望はほぼ簡単に成就され、それ以上の欲望を持たないように綿密に社会はコントロールされているのです。

このような社会の中で、社会の仕組みに疑問を持ち始めた二人の男と、偶然にもインディアン社会からこの社会に来ることになった男(野蛮人)がさまざまな波乱を巻き起こす、といったストーリーですが、結末は1984年同様決して明るくはありません。
そして最後のくだり、ついに野蛮人は叫びます。「わたしは不幸になる権利を求めているんです!」
不幸が全くない、あるいは完全に排除された社会に、心が焦がれるような激しい感情は必要なくなります。そのとき、人間は人間であると言えるのか、そういった哲学的な問いを読む者に突きつけます。

2010年6月19日土曜日

ゼロ・ビートの再発見(復刻版)/平島達司

0beatその筋では名著と呼ばれている、古典調律の解説本。副題には『「平均律」への疑問と「古典調律」をめぐって』と書いてあります。
タイトルのゼロ・ビートとは、二つの音を出したときのうなりが無い、ということ。例えば、200Hzと203Hzの音を同時に出すと、3Hzのうなりが発生します。音程がきれいな倍音関係で出来ていれば、変な音のうなりは発生しないのです。(「音のリクツ」参照のこと)

この著者の方は基本的に平均律を敵視しています。うなりのない美しいハーモニーを求めて、様々な古典調律の数字的な内容、音楽的な意味、そしてその響きについて解説しています。自身も自分の家のピアノを古典調律で調律するほど。また、無伴奏合唱に平均律のピアノは有害、と断言するなど、純正音程信仰が全面に醸し出されます。

とはいえ、調律は常に妥協の産物です。
先人が、どのような不具合をどのように解決するために新しい音律を作ったのか、そういった営みを読むにつれ、調律とは深い世界だなあと感じることが出来ます。
私自身なるほど、と思ったのは、その昔なぜ平均律で調律していなかったかという点。平均律の理論自体はずいぶん昔からあったのです。しかし、チューナーが無かった時代、調律師はうなりが発生しないように調律するしか無く、理論的な平均律で調律すること自体が難しかったのです。
逆に工業化が進んだ現代では、音程によってうなりが違う楽器のほうが調律時の効率が下がります。そう言う意味では平均律は、工業化時代、効率化、画一化、汎用化、といった現代的な特徴を兼ね備えているわけですね。

実際、多くの古典調律を聞き分けるのは至難の業です。そんな思いもあって、iPhoneの古典調律アプリを作ってみたわけですが、私自身は平均律をそれほど敵視しているわけでもありません。
残念ながら、実際の合唱の現場では、平均律を云々する以前のピッチ精度の悪さがあります。多くの人が普段から美しいハーモニーを聴く機会があれば良いのですが、ピアノ伴奏で流行歌を歌うような世界観のままではそれもままなりません。

それでも、歴史的事実として、また美しいハーモニーを追求しようとしていた昔の人々の想いを知るという点で、この本を読む価値は十分あるでしょう。数字は多少出てきますが、理系でなくても何とか読める本だと思います。

2010年6月17日木曜日

27.音の聞こえる方向

巷では3Dが流行っています。専用メガネをかけると画像が浮いてくるというアレ。3Dの映画では臨場感溢れる映像を楽しむことが出来ます。
ところが、オーディオの世界では、すでに3Dは達成されていたのです。音における3Dのことを、ステレオと言います。
ステレオスピーカーで聴くと、音に広がりが生まれ、それが音の良さを感じさせるのです。

二つの目が映像に遠近感を与えるのと同様、二つの耳によって人間は音の遠近感や、音が来る方向を感じることが出来ます。
では、人間はどうやって二つの耳で音の来る方向を感じているのでしょうか。
実際には、たった一つの要因ではなく、これまで書いてきた音の性質を総合的に分析して方向を判断しています。
まず一つ目に、音には速さがありますから、左右の耳に届く音の時間もほんのわずかに違います。時間差は少なすぎますが、二つの音はわずかに波形がずれていて、そのズレが方向性を感じさせるとも言われています。
次に、当然音に近い耳の方が、音が大きく聞こえます。音源が近ければ音量でも判断できるでしょう。
さらに、音は回り込む際に高周波成分が失われます。音の聞こえる方向に近い耳と、そうでない方の耳で、やや聞こえる音の周波数成分が異なります。これによっても音の方向性が知覚できるようです。
さらに、もう一つ言うと、人間は常にかっちりと頭の位置を固定しているわけではありません。むしろ落ち着き無く、いろいろな方向を向いたりするものです。どこからか音が聞こえたときはなおさらです。そんなとき頭の位置を変えれば、音の聞こえ方も変わります。頭を固定している時に比べれば、頭を動かせば、音の方向性を判断するための多くの情報が得られるはずです。
人はそうやって、落ち着き無くきょろきょろと頭を動かすことによって、音が来る方向を察知しているのではないでしょうか。もちろん、これはすべて無意識に行われており、総合して判断した音の方向だけが人の意識に上ります。

音が聞こえる方向を音楽制作時に意図的に制御することをパンニングと呼びます。方向そのものはパン、あるいは音の定位とも言います。現在では、パンの操作も音楽作りの重要な要素の一つとなっています。
様々な方向から音が聞こえてくれば、音響は立体的になり、それ自体が何らかの意味を帯びてくるからです。

2010年6月13日日曜日

26.音の共鳴

共鳴があれば音は大きくなります。
だから、多くの人は音楽には共鳴があればいいと考えていると思います。
じゃあ、その共鳴って何?と問われると、豊かに響いている状態とか、音が満たされている状態とか、やや情緒的な答えが返ってきたりします。しかし共鳴とか、共振とかいう現象は、物理的にはもっと明確なものなのです。

身の回りで共鳴を感じやすいのは、お風呂場。お風呂場で低い音から少しずつピッチを上げて「あー」と声を出してみてください。ときどき、特定のピッチのときに音が大きくなることがあることに気付きませんか?
お風呂場はたいてい密閉度の高い空間なので、音が良く反射します。このような場で音を出すと、ちょうどお風呂場の寸法と音の速さが割りきれるような周波数で音が共鳴するのです。
中で共鳴している状態で生まれている音の波形のことを定在波と呼びます。管楽器では、この定在波を作って音を出しています。こういった音の実験は高校の物理の定番ですね。

ここでポイントなのは、閉ざされた空間という点。
音がある閉ざされた空間内に入ると、共鳴を起こしやすくなります。ギターやバイオリンが本体内に空洞を持っているのはまさに共鳴を起こすためです。もちろん、音楽ホールも同様の効果があります。
もう少し小さな例ならば、人間の口や鼻の中の空間。単なる声帯の震えが、口の中の空間を経ることで、人の声らしい音色に変わるような共鳴を起こします。

共鳴は空間ばかりではありません。
モノ(固体)も特定の周波数で震えやすくなったりします。この周波数のことを固有振動数と呼びます。そのモノの固有振動数と同じ周波数の音を与えると、そのモノは自分も震え始めます。
これも理科の実験の定番ですが、二つの同じ音叉を用意し、片方を叩くと、もう一つも共鳴して震え始める、というのがありましたよね。

2010年6月10日木曜日

新アプリ"JustIntonation"(純正律)リリース!

Justintonation_2またまたiPhoneアプリのご紹介。
新しいアプリ"JustIntonation"をリリースしました。日本語では「純正律」の意味。このアプリ、先日バージョンアップした古典調律アプリ"Meantone"の音律の中から、平均律と純正律の二つだけを取り上げ、一枚の画面で切り替えて聴けるようにしたものです。つまり"Meantone"の機能限定版。
アイコンは「純」の一文字。ちょっと和風です。

さて、このアプリ内での純正律の計算の仕方について、簡単に説明しておきます。
まず、このアプリの楽譜は調を選択できるので、純正律の音程も、調毎に全て計算し直しています。また、異名同音はなく、すべて異名異音です。例えば、C#とDbの音程は違います。
調毎に音程が違うので、音程の作り方を移動ド的な表現で説明しましょう。
Ji
上の図は、各音程の相関関係を表したものです。
黒い矢印は完全五度、赤い矢印は長三度を示します。ところどころ怪しい階名があります。"Mii"はミの半音上、"Tii"はシの半音上、"Faa"はファの半音下のつもりですのでご了承ください。
これにより、ドからシの7音と、それぞれの半音上と半音下の合計21音の位置が決定されます。この状態で、A=440Hzから主音(Do)の音程を求め、その他の音は黒い方向は周波数を1.5倍に、赤い方向は1.25倍にすれば、周波数が得られます。もちろん矢印の逆の方向は、逆数をかければ良いです。ちなみにピンクの印はその調のドミソの和音の位置を表しています。

このアプリでは、和音を入力して音が鳴った状態で、平均律と純正律の音の聞き比べが可能です。よく言われる純正の音程とはどのようなものなのか、数字や理論は苦手という方でも、音を聴くだけでも理解できます。ご興味がありましたら使ってみてください。
無料です。

2010年6月9日水曜日

いま合唱がやるべきことー実践編

前回の続き、合唱する高齢者を増やそうという話。
このブログを読んでいる人の中には、若者の話ではないこと、芸術を突き詰める話ではないこと、から興味を持てない方もいるかもしれません。
しかし、マニアックな人が道を究めようとすると、世の人がついてこれなくなります。どのようなジャンルであれ、底辺が拡がることがまず重要とも思えるのです。
私の想定する底辺拡大とは、20〜30%増というような小さな話ではないのです。高齢者をターゲットとすれば日本の合唱人口が2倍、3倍にならないか、くらいのイメージです。合唱産業とでも呼べる市場が成り立つ規模のことです。

では、上記の想定に基づいて、いま私たちが何をすべきか(勝手に)考えてみましょう。
<シルバーコーラスフェスティバル開催>
最低年齢が50歳以上の合唱団が参加する合唱祭。もちろん、芸能人などのゲストは欠かせません。
<団運営サポートのサービス>
合唱団は通常、団員がそのままマネージをしますが、何かと人間関係のトラブルも起こりがち。歌い手とマネージは同列でないほうが、逆にきめ細かい運営ができるのではないでしょうか。
<高齢者の指導法の確立>
柔軟な若者と違い、基礎訓練は厳しいでしょう。また指導者があまりに高圧的だと、若者なら従っても、高齢者なら反感を買うかもしれません。個人の能力アップを焦点におくよりも、その場を楽しむこと、知的な満足感を与えることといったことを主体にした指導が良いと思われます。
<専用レパートリーの拡充>
これが難しいのですが・・・、ポピュラー曲だけでなく、有名なクラシック曲をシンプルに編曲するなど、ある程度の文化レベルを保ちつつ、気軽に取り組めるレパートリーが欲しいですね。ルネサンスものでもオルガン伴奏付きで歌うなど、アイデアは考えられます。
<学生合唱団との交流>
高校、大学合唱団のイベントとして、シルバーコーラスと交流の機会があればいいですね。高齢者には刺激になるし、若者にはボランティア的な気持ちも目覚めるかもしれません。
<持ち運びできる伴奏楽器>
重いピアノは何かと不便。軽くて二人で持ち運べる鍵盤伴奏楽器が欲しいです。多分、電子楽器。タッチにこだわらなければ、機能を減らして、こういう用途に適したものが開発できると思うのですが・・・。
<楽譜は大きく読みやすく>
何で世の中、小さくて細かい楽譜が多いんでしょうね。最近私もつらいです。

高齢者の気持ちが分かってない!という批判は甘んじて受けます。何かの議論のきっかけになれば嬉しいです。