2010年8月14日土曜日

歌と踊りのある生活

日頃、私たちは生活の中で歌や踊りを楽しむことは稀なことです。私に関して言えば、確かに合唱では歌っているけれど、カラオケにはもう最近全然行っていませんし、普段の生活で歌う機会はそう多くはありません。しかも踊りなんて恥ずかしくてそうそうやれるもんじゃありません。盆踊りだって最後にしたのはどれほど前のことか。今でも、大学生の頃(バブル全盛期)、研究室の面々でディスコに行った時のノレなかった感を思い出します。残念ながら、自分の周囲には踊って楽しむという文化は無かったようです。

しかし、最近、いろいろなことで「歌と踊り」の意味について再確認させられます。
少なくとも、私たちはプロフェッショナルな人々の歌と踊りを見るのは好きなようです。人間には、心の深い奥底に歌と踊りを求める遺伝子が存在しているのではないかとも思います。
ウチの1歳2ヶ月になる子は、もちろんまだまだ言葉なんて全然でないし、会話によるコミュニケーションは不可能ですが、「おかあさんといっしょ」のような番組で歌と踊りがテレビから流れてくると、食い入るように見つめています。
言葉よりも早い段階で、音楽は幼児の心を掴むのは確かだと思います。そうでなければ、幼児番組があれほど音楽を流している理由がありません。そして、その音楽に合わせて誰かが踊っている、というのは極めてストレートに人の心を刺激するように思えます。
考えてみれば、10代、20代が熱中するようなアイドルは、歌と踊りのカリスマであると言っていいでしょう。低俗だと冷ややかな視線を浴びせる人もいるでしょうが、舞台で歌と踊りを披露し、それを見て熱狂する、という風俗は時代、人種を問わずもう人類普遍のものではないかと私は思います。
ちょっと前に書いた南アフリカのカースニーカレッジのコンサートでも、歌と踊りのエンターテインメントで私たちを楽しませてくれました。まさに、歌と踊りは人種と文化を乗り越えて、直接人の心に響く表現手段なのではないでしょうか。

かなり前に、「歌うネアンデルタール」という本を読んで、その中に書いてあったのだけれど、人類が進化していく過程で、現在の言語よりも前に歌のようなコミュニケーション手段があったのではと推測しています。
もし、そうだとするならば、歌と踊りはもう本当に根源的な人間の基本的欲求であり、人々をエンターテインするのであれば、そこを究めねばならないということに繋がるのではないか、そしてそれはあらゆる表現者が立ち向かって行かねばならないことではないか、と最近感じています。

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