アメリカの大学の講義がどんどんオンライン化され、ついに単位もオンラインで取れるような流れが起きているようです。教育なんて最も保守的な世界に思えたけれど、あまりの変化のスピードの速さに我々の意識が追いついていません。
こんなことが可能になってくると、学校に通って何かを学ぶという行為自体をもう一回見直す必要があるのかもしれません。
例えば、義務教育の小中学校では、生徒間の意識にも結構差があるでしょう。ある子供は自分から興味を持ってどんどん新しいことを覚えていくのに、ある子供は「なぜ勉強しなきゃいけないの?」とかいって困らせて、大人が口うるさく「勉強しなさい」と言わなければならない。
オンラインでの勉強というのは、どこまでも自主的な行為です。
学校の授業においては、態度の悪い生徒を先生は怒ることもあるでしょう。しかしネットでオンライン授業の前では態度が悪くたって誰も怒る人はいません。
「家でオンライン授業を受けなさい」と命令されても、上の空で聞いていれば頭にも入らないでしょう。ちゃんと勉強しなければ、結局それらは全て試験の成績で明らかになってしまいます。
ネットだからこそ人々の性質が拡張され、丸裸にされるのかもしれません。
勉強したくない人はいつまでたっても勉強しないし、当然賢くはならない。その逆に、勉強が楽しくて仕方がない人は、どんどん勉強してどんどん頭が良くなっていく。もちろん、成績も上がる。
これらの成績は、全てネット上に記録されてしまうので、ある知識を得た人、あるスキルを得た人は、それを必要とする世界中の人々からオファーを受けることになるでしょう。
当然、ネットだから国境も関係無し。
なので最初から英語に親しんでいれば、全ての授業が英語で受けられるようになり、それだけ世界の最先端の技術や学問にアクセスすることが容易になっていきます。翻訳しなければ理解できない、というだけでコストがかかってしまうので、英語を理解できることがその人の教育の機会を拡げることに大きく繋がっていきます。
とはいえ、今の学校教育で育った人がたくさんいる限り、今のような学校の姿も簡単には消えそうもありません。
そうなると、既存の学校教育とオンラインで英語前提の最先端の教育がどんどん乖離し、ある一定レベルのクラスの人々は、最初から既存の学校教育ではなく、オンライン教育を選ぶようになっていくことでしょう。
もちろん、学校教育では社会性を学ぶ、という側面もあります。
が、いまの日本の学校がしっかりした社会性を子供に植え付けるのに役立っているか、というと疑問は感じるし、むしろ教育とは別に、子供に社会活動を行なせるような団体がその受け皿になれば、社会性を学ぶ目的も達成出来るかもしれません。
人々の格差が拡がれば拡がるほど、教育の格差も広がり、もはや底辺にいる人々にはアッパークラスの人が欲する教育方法自体を理解出来なくなるような気もします。
勉強を楽しいと思う人が集まれば、その中にいる人も楽しいと感じるようになります。そのフィードバックが、大人だけでなく子供の格差をどんどん拡げてしまうのではないでしょうか。
2013年2月22日金曜日
2011年12月25日日曜日
子供の想像力・創造力
まだ3歳にもならないウチの子ですが、少しずつ言葉を話すようになってきました。
さすがに自分には3歳の頃の記憶はないけれど(というか、学生の頃の記憶さえないけれど・・・)、周りのオモチャで遊びながら、ブツブツ言っているのを見ると、自分もそんなころの感覚を思い出したような気になってきます。
遊んでいる本人は、ちゃんとオモチャが偽物だと分かっているけれど、手元にあるモノを何かに見立てて、頭の中で想像しながら一人で会話したり、それを動かして模擬的な行動をさせたり。そうやって何かになりきることが大好きです。というか、自分が小さい頃もそういうことは好きだったし、うちの子も好きそうに見えます。
おもちゃを手にして何かを想像しながら遊ぶことは、恐らく子供の成長の過程で何らかの必要な行程なのでしょう。
いつかはそういう遊びを卒業して青春時代に入っていくのでしょうが、このように子供がオモチャを使って何かになりきって遊ぶことは、何かを創造することに繋がる感覚を覚えます。
ブロックを使って何かに見立ててものを組み立ててみたり、クレヨンで何かを書いてみたり、お人形で会話を楽しんだり・・・。これって、何か芸術的なオブジェを作ったり、絵を描いたり、小説を書いたりするようなクリエータとベクトルが全く同じに思えるわけです。
つまり、人間は生まれながらにして創造したい欲求を持っているクリエーターなのではないか、という推論が成り立ちます。
ということは、人は成長するに従って、だんだんとクリエーターで無くなっていくのではないでしょうか。
よく芸術家を評して「子供がそのまま大きくなったような」とか「子供のような感性を持った」などと言うことがありますが、それは一般的な真理としてあながち間違っていないのかもしれません。つまり、芸術家というのは、成長の過程で子供の頃に持っていたクリエイティビティを失わなかった人たちだということができると思います。
誰だってクリエイティブな人間になりたいと思うことでしょう。
それに今の世の中、いろいろなジャンルでクリエイティブな人材が必要とされています。
では、なぜ人は成長するに従ってクリエイティブで無くなっていくのか? それが重要な命題になります。
私見ですが、クリエイティビティを失わさせる原因は、どれだけ厳しくしつけをしたかにかかっている気もします。しつけそのものは、社会性を身につけるために必要なものです。しかし、それは幼児が感じた気持ちを抑え込んで、常識的な対応をするように強制することでもあります。
子供は大きくなるに従い、たくさんの規制を覚えていきます。もちろん人として生きていく以上、他人に迷惑をかけるわけにもいかないし、常識を逸脱して後ろ指をさされるのも良くはないことです。
しかし、そのように積み上げられた規制が一つ一つ、子供の創造性を失わせるのではないか、私にはそんな気がするのです。
まあ親としてはクリエイティビティを失わさせないために、しつけをしない、というわけにもいかないのですが、不用意にみんながやっているからといって行動に規制をかけるような言い方は慎みたい・・・とは思っています。
さすがに自分には3歳の頃の記憶はないけれど(というか、学生の頃の記憶さえないけれど・・・)、周りのオモチャで遊びながら、ブツブツ言っているのを見ると、自分もそんなころの感覚を思い出したような気になってきます。
遊んでいる本人は、ちゃんとオモチャが偽物だと分かっているけれど、手元にあるモノを何かに見立てて、頭の中で想像しながら一人で会話したり、それを動かして模擬的な行動をさせたり。そうやって何かになりきることが大好きです。というか、自分が小さい頃もそういうことは好きだったし、うちの子も好きそうに見えます。
おもちゃを手にして何かを想像しながら遊ぶことは、恐らく子供の成長の過程で何らかの必要な行程なのでしょう。
いつかはそういう遊びを卒業して青春時代に入っていくのでしょうが、このように子供がオモチャを使って何かになりきって遊ぶことは、何かを創造することに繋がる感覚を覚えます。
ブロックを使って何かに見立ててものを組み立ててみたり、クレヨンで何かを書いてみたり、お人形で会話を楽しんだり・・・。これって、何か芸術的なオブジェを作ったり、絵を描いたり、小説を書いたりするようなクリエータとベクトルが全く同じに思えるわけです。
つまり、人間は生まれながらにして創造したい欲求を持っているクリエーターなのではないか、という推論が成り立ちます。
ということは、人は成長するに従って、だんだんとクリエーターで無くなっていくのではないでしょうか。
よく芸術家を評して「子供がそのまま大きくなったような」とか「子供のような感性を持った」などと言うことがありますが、それは一般的な真理としてあながち間違っていないのかもしれません。つまり、芸術家というのは、成長の過程で子供の頃に持っていたクリエイティビティを失わなかった人たちだということができると思います。
誰だってクリエイティブな人間になりたいと思うことでしょう。
それに今の世の中、いろいろなジャンルでクリエイティブな人材が必要とされています。
では、なぜ人は成長するに従ってクリエイティブで無くなっていくのか? それが重要な命題になります。
私見ですが、クリエイティビティを失わさせる原因は、どれだけ厳しくしつけをしたかにかかっている気もします。しつけそのものは、社会性を身につけるために必要なものです。しかし、それは幼児が感じた気持ちを抑え込んで、常識的な対応をするように強制することでもあります。
子供は大きくなるに従い、たくさんの規制を覚えていきます。もちろん人として生きていく以上、他人に迷惑をかけるわけにもいかないし、常識を逸脱して後ろ指をさされるのも良くはないことです。
しかし、そのように積み上げられた規制が一つ一つ、子供の創造性を失わせるのではないか、私にはそんな気がするのです。
まあ親としてはクリエイティビティを失わさせないために、しつけをしない、というわけにもいかないのですが、不用意にみんながやっているからといって行動に規制をかけるような言い方は慎みたい・・・とは思っています。
ラベル:
育児
2011年5月22日日曜日
育児から想像する人間機械論2
子供が生まれる前から、子供の成長には密かに興味を持っていました。
前回も言ったように、赤ちゃんが人間に成長する過程から、人間とはどのように作られているのかが発見できるのではないかと思っていたからです。(普通は、そんなことを考えている人は少ないんでしょうが)
しかし、一番人間として成長するこの2年間、結局わかったような、わからなかったような感じで終わってしまいました。取りあえず育児に手がかかるのに必死で、考えている間もなかったというか。
もう一つ言いたいのは、育児に関するノウハウはあまり科学的な裏付けが少なく、流行り廃りがあるという感じとか、科学的な裏付けがないために怪しい情報(トンデモ系)がまかり通りやすい、という点も感じました。抱っこはどんどんした方が良いとか、しないほうが良いとか。
どの時代に生まれた人だって、育て方のトレンドで人間が変わったとは思えませんから、まあ、所詮育児の常識なんてその後の成長にたいした影響はないんじゃないか、と私は冷ややかに見ています。
それから、赤ちゃんをあやすことについて。
よくテレビドラマなどで、赤ちゃんをあやすとニコニコしたりする場面がありますよね。
誰があやすといいとか、あやし方が上手いとか下手とか・・・。昔は、私もそういう技術は確かにあるものだと思っていました。しかし、今となってはその考えにも否定的です。
確かに多少の上手い下手はあるかもしれない。しかし、それでも乳児が泣く、泣き止むという理由は分からないことが多いです。また一度うまくいった方法が、次回にうまくいくとも限りません。そういう意味では、乳幼児の反応はほとんど予測不可能です。
そう思うのは、うまくあやせないからだ、とか、子供によって違う、という意見もあるでしょう。確かに事例としては少なすぎるので一般化は危険ですが、それでも、乳幼児の予測不可能性は、私の中では非常に意外なことでした。これは機械論に反するかもしれないけど、人間のより深い機械性を感じさせる事例です。
そして、人間として成長する、ということは、この予測不可能性がだんだん薄れていくことに他なりません。
実は今現在、ウチはまさにそのまっ只中にいます。
嫌なことをはっきり表現できるようになり、以前の嫌なことときちんと連続性があり、こちらの意図も少し汲んでくれるようになり、気がつくと知らないうちに人間に近づいてきました。もっとも、言葉はまだきちんとは話せていませんが。
特に満1歳以降の一年は、生物が人間に近づく過程だと言えます。言葉の前準備のような感じ。
それは、泣くことの理由がだんだん明確になること、身振りで指示が出来るようになること、毎日やっていることが習慣として記憶されるようになること、といったことが日々、出来るようになっていくのが良く分かったからです。
言葉が話せることは、上のような行為の肉付けに過ぎません。以前は、言葉が話せないとコミュニケーションが取れない、と思っていたけど、実はそれだけじゃないいろいろな要素があるんですね。
ある状況に対してそれなりにきちんと反応してくれる、そういう要素が一つ一つ確立してくるだけで、かなり人間的になってくることが体感できます。
前回も言ったように、赤ちゃんが人間に成長する過程から、人間とはどのように作られているのかが発見できるのではないかと思っていたからです。(普通は、そんなことを考えている人は少ないんでしょうが)
しかし、一番人間として成長するこの2年間、結局わかったような、わからなかったような感じで終わってしまいました。取りあえず育児に手がかかるのに必死で、考えている間もなかったというか。
もう一つ言いたいのは、育児に関するノウハウはあまり科学的な裏付けが少なく、流行り廃りがあるという感じとか、科学的な裏付けがないために怪しい情報(トンデモ系)がまかり通りやすい、という点も感じました。抱っこはどんどんした方が良いとか、しないほうが良いとか。
どの時代に生まれた人だって、育て方のトレンドで人間が変わったとは思えませんから、まあ、所詮育児の常識なんてその後の成長にたいした影響はないんじゃないか、と私は冷ややかに見ています。
それから、赤ちゃんをあやすことについて。
よくテレビドラマなどで、赤ちゃんをあやすとニコニコしたりする場面がありますよね。
誰があやすといいとか、あやし方が上手いとか下手とか・・・。昔は、私もそういう技術は確かにあるものだと思っていました。しかし、今となってはその考えにも否定的です。
確かに多少の上手い下手はあるかもしれない。しかし、それでも乳児が泣く、泣き止むという理由は分からないことが多いです。また一度うまくいった方法が、次回にうまくいくとも限りません。そういう意味では、乳幼児の反応はほとんど予測不可能です。
そう思うのは、うまくあやせないからだ、とか、子供によって違う、という意見もあるでしょう。確かに事例としては少なすぎるので一般化は危険ですが、それでも、乳幼児の予測不可能性は、私の中では非常に意外なことでした。これは機械論に反するかもしれないけど、人間のより深い機械性を感じさせる事例です。
そして、人間として成長する、ということは、この予測不可能性がだんだん薄れていくことに他なりません。
実は今現在、ウチはまさにそのまっ只中にいます。
嫌なことをはっきり表現できるようになり、以前の嫌なことときちんと連続性があり、こちらの意図も少し汲んでくれるようになり、気がつくと知らないうちに人間に近づいてきました。もっとも、言葉はまだきちんとは話せていませんが。
特に満1歳以降の一年は、生物が人間に近づく過程だと言えます。言葉の前準備のような感じ。
それは、泣くことの理由がだんだん明確になること、身振りで指示が出来るようになること、毎日やっていることが習慣として記憶されるようになること、といったことが日々、出来るようになっていくのが良く分かったからです。
言葉が話せることは、上のような行為の肉付けに過ぎません。以前は、言葉が話せないとコミュニケーションが取れない、と思っていたけど、実はそれだけじゃないいろいろな要素があるんですね。
ある状況に対してそれなりにきちんと反応してくれる、そういう要素が一つ一つ確立してくるだけで、かなり人間的になってくることが体感できます。
ラベル:
育児
2011年5月18日水曜日
育児から想像する人間機械論
なにやらヘンテコなタイトルです。しかも、本ブログ初めての育児カテゴリー。
これまで育児の話をあんまりしてなかったのですが、書きたくなかったわけではないのです。子供が生まれてから約2年、幼児の成長を心に刻みつけつつ、子育てを・・・と言いたいところですが、不思議なことにもう子供が生まれた頃のことを忘れつつあるのが正直なところ。ちなみに生まれたときの記事はこちら。
しかし、あくまで私は理系的にものごとを解析するのが大好きなのです。
もちろん、本当に学問で探求している人から見たら、私の推理、想像は突っ込みどころ満載なのですが、それでも私なりに育児からいろいろ人間の仕組みについて想像しています。
赤ちゃんが成長する過程、というのは人間が作られていく過程でもあります。人間がどのように作られていくか、を観察することによって、人間がどのような仕組みで作られているかを考えるきっかけになります。
ちなみに人間というのは、生まれた直後の子供があまりに無力だという点において、極めて特殊な動物です。馬だって生まれたばかりの赤ちゃん馬はいきなり歩き出します。ほとんどの動物は自ら母の乳を飲むくらいの動作は可能です。
ところが、人間の赤ちゃんは手足をばたばたさせるだけで、全く身動きできません。親の庇護がないと何も出来ないのです。また、実際に二足歩行出来るのに1年以上、言葉でコミュニケーションを取れるのに2〜3年くらいと、いわゆる生物的に自立するのに異常に時間がかかります。
子供が歩き始める瞬間というのは、実にたどたどしいものです。
本当に足の各筋肉をどのように動かしてよいか分からず、手探りで歩いている感じ。ちょっと歩いてもすぐにこけてしまったり、何でもないところで足がひっかかったり。
このような事実と経験より、人間は他の生物と違い、脳の可塑性が高く、常に書き換わることが出来るプログラマブルなシステムであると想像することができます。
プログラマブルの反対はワイヤード。ワイヤードとは、すでに脳の回路が配線終了されており、いつでも同じ動作が出来る状態のこと。逆に言えば、その動作以上のことは永遠に不可能です。例えば多くの昆虫のほとんどの動作はワイヤードで出来ていると思います。生まれながらにほぼ必要な動作が可能なのではないでしょうか。
その一方、人間の脳は、敢えてワイヤードな脳にせず、プログラマブルにしています。そしてある時期に発動する衝動のみがワイヤードで書かれているように思えます。
どういうことかというと、例えば生まれて1年くらい経ったら「歩きたい」という衝動が起きます。衝動が起きることはすでに決定されているのですが、「歩く」という能力自体は脳の中に書かれていません。そこで懸命に歩きながら、脳内の歩くプログラムを必死に作り上げ、歩く能力を獲得していきます。
万事がその調子でプログラムされていくので、人間らしい行動が一通り身につくまで非常に時間がかかりますし、そのために親が子供の世話をすることが前提になっています。
そういえば、生まれたばかりの頃に捨てられて狼に育てられた狼少女の話ってのがありますね。発見されたときには狼同様4本足で走り回っていたそうな。環境の違いで身体の基本的な動作まで変わってしまう非常に分かり易い例だと思います。
これまで育児の話をあんまりしてなかったのですが、書きたくなかったわけではないのです。子供が生まれてから約2年、幼児の成長を心に刻みつけつつ、子育てを・・・と言いたいところですが、不思議なことにもう子供が生まれた頃のことを忘れつつあるのが正直なところ。ちなみに生まれたときの記事はこちら。
しかし、あくまで私は理系的にものごとを解析するのが大好きなのです。
もちろん、本当に学問で探求している人から見たら、私の推理、想像は突っ込みどころ満載なのですが、それでも私なりに育児からいろいろ人間の仕組みについて想像しています。
赤ちゃんが成長する過程、というのは人間が作られていく過程でもあります。人間がどのように作られていくか、を観察することによって、人間がどのような仕組みで作られているかを考えるきっかけになります。
ちなみに人間というのは、生まれた直後の子供があまりに無力だという点において、極めて特殊な動物です。馬だって生まれたばかりの赤ちゃん馬はいきなり歩き出します。ほとんどの動物は自ら母の乳を飲むくらいの動作は可能です。
ところが、人間の赤ちゃんは手足をばたばたさせるだけで、全く身動きできません。親の庇護がないと何も出来ないのです。また、実際に二足歩行出来るのに1年以上、言葉でコミュニケーションを取れるのに2〜3年くらいと、いわゆる生物的に自立するのに異常に時間がかかります。
子供が歩き始める瞬間というのは、実にたどたどしいものです。
本当に足の各筋肉をどのように動かしてよいか分からず、手探りで歩いている感じ。ちょっと歩いてもすぐにこけてしまったり、何でもないところで足がひっかかったり。
このような事実と経験より、人間は他の生物と違い、脳の可塑性が高く、常に書き換わることが出来るプログラマブルなシステムであると想像することができます。
プログラマブルの反対はワイヤード。ワイヤードとは、すでに脳の回路が配線終了されており、いつでも同じ動作が出来る状態のこと。逆に言えば、その動作以上のことは永遠に不可能です。例えば多くの昆虫のほとんどの動作はワイヤードで出来ていると思います。生まれながらにほぼ必要な動作が可能なのではないでしょうか。
その一方、人間の脳は、敢えてワイヤードな脳にせず、プログラマブルにしています。そしてある時期に発動する衝動のみがワイヤードで書かれているように思えます。
どういうことかというと、例えば生まれて1年くらい経ったら「歩きたい」という衝動が起きます。衝動が起きることはすでに決定されているのですが、「歩く」という能力自体は脳の中に書かれていません。そこで懸命に歩きながら、脳内の歩くプログラムを必死に作り上げ、歩く能力を獲得していきます。
万事がその調子でプログラムされていくので、人間らしい行動が一通り身につくまで非常に時間がかかりますし、そのために親が子供の世話をすることが前提になっています。
そういえば、生まれたばかりの頃に捨てられて狼に育てられた狼少女の話ってのがありますね。発見されたときには狼同様4本足で走り回っていたそうな。環境の違いで身体の基本的な動作まで変わってしまう非常に分かり易い例だと思います。
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