2022年4月16日土曜日

マウントからの逃走とリバタリアニズム

 日々のもやもや、面倒なことのほとんどの原因は人間関係であり、またその人間関係の問題のほとんどは、相手より自分が高い立場でいたいと思うマウント取りに発していると思う。

これは性格的なものとしか言いようがないけれど、常に周りの人をディスることによって自分を高い立場に置きたいと思うタイプの人がいる。これは本当にイラっとするが、大抵の場合、そういう人は声が大きく、戦闘力が高い。もちろん、だからこそ、そういう性格になるのだろう。

常に逆接の言葉で他人の言葉をさえぎる人がいる。上記のようなタイプの人の一つの典型だ。ただ話すだけでイラッとするが、実は自分自身にも思い当たる節があるし、人のことは言えない部分は誰にでもある。

多くの人は、たくさんの経験の中でそういう振る舞いの愚かさに気づき、だんだんと態度を改めていく。生まれつき戦闘力の高い人が、そういう紳士的な振る舞いを身につけると、最強のリーダーになっていく。

しかし、そのような学習能力の低い人は、ただの嫌がられる人になっていく。

たまに、そういった態度を全く学習できないまま、言語能力だけが磨かれて、どこにいても最強のオピニオンリーダーになってしまうサイコな人もいる。憎まれっ子世に憚る的なリーダーとなり、場合によっては恐怖政治を実現する。


しかし、一方でSNSの発達でそのような人たちは簡単に可視化されやすくなった。

女性は常に、男性からのマウント取りに苛まれ、ときには性的搾取を受ける場合もある。しかし、SNSで過去の被害をカミングアウトすることで、逆に相手の社会的地位を剥奪する手段を手に入れた。もちろん、いつでもうまくいくわけではないけれど。


こういったSNSでの、マウント取りするやな奴の可視化は、それが拡散されることで、人々にそれが自分が抱えている問題だけではない安心感をもたらす。そして、その体験の克服は結局のところ、その環境から離脱したという当たり前の結論であったことを知るだろう。

多くの人は、今の環境から逃れられないと何となく思考停止しているのだが、実はいつでも嫌な環境から逃げられるという単純な事実に意外と人は思い至らない。

しかし我々はもっともっと嫌なことから逃げていいと思う。

私がそう思うだけでなく、現実に社会はどんどんそういう流れになっていっているとも思う。

職場が嫌なら会社を辞めて転職すればいい。

近所が嫌なら、引っ越しすればいい。

もちろん、それが出来ない理由はまだたくさんあるけれど、未来はもっともっとその理由は減っていくのではないだろうか。


社会や組織の設計の方法には二通りある。

一つは規律、ルールで人を縛る方法。

もう一つは快楽で人を惹きつける方法。

ほとんどの人は1番目の方法のみが、人を組織化する唯一の方法だと思っている。もちろん後者より効率的に、即効的に人を束縛し、統制することができる。

しかし、市場による競争原理は、むしろ後者の可能性を開拓してきた。特に昨今のIT化によるもろもろのサービスや、組織のパフォーマンスをDXによって可視化する流れは、人の意識や行動を統計的に処理することにつながり、それはつまるところ、人々の欲望の総計が見えることにつながった。

つまりサービス設計をきちんとすることで、人々の欲望を刺激し、人の行動を制御することは少しずつ実現しつつある。それを怖いと思う人もいるけれど。


人々が嫌なことから逃げる、ことは、欲望の現れの一つだ。

欲望とは、欲しいものを手に入れて楽しむことだけではなく、自分の嫌なことを遠ざけることでもある。その一方、規律やルールで人を縛ることは、嫌なことから逃げられずに束縛するための手段であり、結果的には人を幸せにはしない。

ある政治家が「最小不幸社会」と言って非難を浴びたが、私はその政治家の好き嫌いはともかく、全く言い得て妙だと思う。

私的な企業は人々の欲望を刺激するものを作り続ければいいが、政府の役割はむしろ、嫌なことから逃げられる社会を作ることにあるのではないだろうか。

規律を最低限にし、嫌なことから誰でもいつでも逃げることが出来る、完全市場社会こそ、これから我々が目指すべき社会だと思う。まさにリバタリアニズムだ。


もう少し、スコープを狭めて考えれば、他人にマウントを取って他者を不快にしてもその人が生きられる社会とは、人が組織から逃げられないという前提があるからに他ならない。

嫌な人間から人々が去っていけば、そのような人が活躍できる場は無くなる。

そうやって嫌な人が駆逐されていくことは、健全な人間関係における市場主義の実現であるように思う。


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