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2019年9月29日日曜日

お金の回り方

大局的に見れば、自分の考えは筋が通っているとは思うけれど、結局、世の中がお金で回っている以上、それをうまく集められる人たちが力を持つことは避けられない。

だから、お金の回し方を変えていくか、そもそもお金を放棄するしかない。

私がずっと夢想しているのは、後者のお金を放棄する方法だ。

対価は欲しい人から与える人に直接届けられる。そんな、とてもシンプルなやり方が、今のお金では不可能になっていると思う。
お金を扱うときには、債権や証券のような仕組み、それを扱う金融機関が必要で、ルールに則った企業会計がきちんと管理され、それに従ってお金は回る。
お金は常に仕組み、システムの中で管理されており、そのシステムを回す(権限のある)立場の人たちにお金は流れる。

必要なモノを作ったり、サービスを提供したりする末端の労働者と、それに対価を支払う末端のお客様の間には、直接な価値のやり取りは存在しない。必ず、企業の売り上げに計上された後に、給料として労働者にお金は配られる。

お金である以上、この流れは当面変えようがない。

ただし、お金でないものであれば、全く新しい価値循環の方法をゼロから考えていけばいい。もっと今の時代に即した形で。
だからこそ、お金のようなものではない新しい物差しに、私は期待してしまう。


仮想通貨も基本はお金のアナロジーだ。
ただし、使っているうちにお金でなくなる可能性は秘めている。

もっと今のお金ではない何かは何か?
ちょっと前、個人に投資するようなサービスができたけれど、あういうのがより洗練されたような感じ。
多分、株が個人に適用されるようなものなのだと思う。

ただし、それを売り買いして儲けるとかそういうことではなく、どちらかというと、個人の評価システム的なもの。ちょっと考えると、超ダークな社会になりかねない話だけれども。

でも、そういう仕組みがなければ、今のままではスキルのある人に直接お金が届かない。そこが今後の大きな問題だと思う。

先日の、ファブ地球社会コンソーシアムで、スキルをバッジしたらどうか、というアイデアが出てきて、とても面白いと感じている。うまく運用していけば、これこそお金のない世界での、新しい世の中の回し方になってくれれば嬉しい。

2019年9月14日土曜日

さらに資本主義の終焉について

同じことを何度も考える。

地球上にフロンティアが無くなった時点で資本主義は終了する。
イースター島で起きたことと同じことが、世界全体で起きる可能性がある。だからこそ、SDGsが叫ばれる。でなければ、人間社会がどこかで文明崩壊する。

もう一つ、資本主義の限界の理由の一つとして、時間差、距離差が極限まで小さくなっていることが挙げられるかもしれない。
時間差や距離差があるからこそ、富の偏在が発生する。ある人は持っていて、ある人が持っていなければ、それを交換して両方がハッピーになる。これこそが資本主義の大元の原理だと思う。

ところが情報は瞬時に世界を駆け巡り、モビリティや運送の発達で、世界は非常に狭くなった。まだ文化や言語の壁はあるが、それらは少しずつ少しずつ崩れていくことは間違いない。
時間差、距離差が無くなることで、モノは瞬時に世界に流通し欲しいものを誰もが手にできるようになった。全てはコモディティ化し、珍しいものがなくなることで、価格は極限まで下がる圧力を受けるようになる。

逆にそのような社会ではコモディティにならないことが大きな戦略の一つとなる。
コモディティは博打のようなもので、当たらなければ大きな投資が無駄になる。だから誰もが買うような必需品は大きな会社が大規模な製造手段と流通手段で世界に販売し、薄利多売を目指す一方、ほとんどの小さな会社はコモディティにならないもの、よりアート性の高いものを販売するようになるだろう。

資本主義的な発想なら、たくさん売って利益を出すことが正義だけれど、たくさん売れなくても、自分を支持してくれる世界中の少数のファンが自分に必要な分だけ投資をしてくれればいいということになる。
自分の活動に世界中の人が投資、というより寄付してくれるような世界。これこそがポスト資本主義な世界だ。

アーティストであることが一番価値のある社会。
芸術作品を作ることだけがアートではない。人へのサービスにもアート性は宿る。というより、全ての人の行為には常にアート性が宿っていて、どのような職業であっても、そのようなアートセンスが必要とされるような社会になっていく。

このような社会のことを何と呼ぼうか。
ポスト資本主義でもいいけれど、とりあえずアート主義の時代とでも言うべきか。

アート性の高い人が評価され、そのような人はいろいろな職業で優遇されるようになる。
人の流動性は高まり、必要とされる人とそうでない人の格差は高まる。ただ、その格差は貧富の差というより、人間力の差だ。
貧者が富めるものに使われる時代から、少しずつ愚者が賢者を祀り上げる時代になっていきそう。

***

そういう時代には、そもそもお金がいらなくなる。
お金こそ、資本主義の象徴だ。
お金は、数量を増やすことを肯定する。お金は持っている人ほどお金がさらに集まりやすくなる。お金で時間差や距離の差も買うことができる。

ところが増えることが難しくなり、誰もが時間差や距離差を克服できる時代、お金を人間活動の唯一のものさしにするには都合が悪くなってきた。
アート主義の時代には、アート性の高い人が評価されなければならない。
現状では、そういう人にお金は流れない。

アート性の高さは、まさに評判を客観的に数値化して評価するしかない。数量では評価できない。
評判の数値化、これこそが未来の貨幣だ。と言いつつそれはもはや貨幣ではないのだろう。なぜなら、貨幣みたいに交換したくても評判は減らないからだ。むしろ、株価のようなものだ。
そういえば、個人を株式化するようなサービスがあったっけ。何となくわかる人にはわかっているのだと思う。

2019年8月11日日曜日

サステイナビリティ

サステイナビリティとかSDGsみたいな言葉は、単なる資本主義へのアンチテーゼではなく、本当に地球から資源が無くなっていく、あるいは資源の確保が難しくなっていく状況から生まれているっぽい。

資本主義というのは、未開のフロンティアがあり、そこから資源がどんどん採掘されるような状況において成り立つ経済システムであり、世界中からフロンティアがなくなりつつある今、資本主義自体が見直しを迫られているように思える。
お金はジャブジャブ作ることが出来るが、モノはある分しか使えないわけで、その限られた分量を世界中の人が取り合うわけである。

ある未来予測で、2025くらいまでは先進国はデフレが進むが(途上国での生産コストがやすいため)、それ以降はモノ不足が起きてインフレになるという。

あれー、限界費用ゼロ社会と逆の現象じゃん!
今まで信じていた話が微妙に崩れていく。
どこまでもモノの値段は安くなっていって、いずれゼロになるって話だったのに、どうも資源が足りなくなって、逆にモノの値段は高くなるのである。
もちろん、人は代替案をどんどん見つけるので、長い目で見れば、またコストダウンの方法を考えるだろうけど、限界費用ゼロ社会はそう簡単には起こりそうもない。

サステイナビリティとFabLab、あるいは個人によるFab活動は割りと相性がよい。
というのは、個人でFab活動することは、企業による大規模な生産のアンチテーゼであり、ハードウェアの地産地消という意味でも 、最適な生産が可能になる方向なのは確かだ。
であれば、長い目で見れば個人のFab活動はサステイナビリティを進めていくエンジンになる可能性はある。


2015年4月29日水曜日

いまさらながらIoT

IoTという言葉はここ数年、技術関係のトピックで良く聞かれるようになりましたが、最近では私の身の回りの仕事環境でさえも良く聞くようになってきました。

そもそもIoTという言葉の前にはユビキタスとかいう言葉もあったし、言いたいことはほぼ同じなわけで、それだけ一般性が高く、確実に未来に浸透するであろう技術だと私にも思えます。
そういう意味ではクラウドと同じ。今やクラウドは当たり前。セキュリティーがー、とか言っていた人も今では無批判にクラウドを使っています。
数年もすれば、IoT当たり前な世の中になっているでしょう。


といいつつも、IoTが当たり前の世の中とは一体どんな世の中でしょう。
個別の小さなサービスでは、こうなるとは言えても、そういったサービスによる小さな改善がつもりつもったとき、社会がどれほど大きな変革を遂げるか、私には想像も付きません。

また、法律や社会システムがIT, IoTサービスについて行けず、いずれこういう問題が技術イシューではなく政治イシューになっていく可能性は大いにあります。
恐らくその折には、数学的、論理的に当たり前のことを、理屈を知らない政治家が喧々諤々と議論するというかなり間抜けなシチュエーションが生まれるかもしれません。


そもそもIoTが政治そのものに与える影響は無視できなくなるのではないでしょうか。
例えば、住民投票をするのにさえ莫大な政治活動が必要なのに、重大な政治的アンケートもかなりの母集団で短期間で簡単に出来るようになったらどうでしょう?

あるいは政治家ごとの支持率がまるで株価のように日々変化する様子を確認できるようになったり、有権者の日々の行動と彼らが支持するであろう政治家とマッチングしたり、彼らに簡単に寄付できるような仕組みができたらどうでしょう?

政治そのものでなくても、議論の間じゅうIoT的に数分レベルで何らかの情報を集める仕組みを作れば、議論が非常に効率的に済むというようなことができたら嬉しいですね。


自分の興味の対象として、音楽活動とIoTって何か考えられないでしょうか。

楽器を使うシチュエーションを考えたとき、バンドやオーケストラでアンサンブルするだけではなく、家で一人で演奏を楽しむということも多いと思います。
というか、むしろ圧倒的多数の人が、人にも聴かせず、一人で家で楽器演奏しているのではないでしょうか。

彼らは今まで一人で家で演奏してそれで終わりでした。
でも、これをIoT的に繋げてみるとどんなことが可能でしょう。
例えば、いつ頃、何時間楽器を演奏したか、といった情報を集めることを考えてみましょう。もしかしたら世界のどこかで、自分と同じ曲を練習している人がいるか探せるかもしれません。
演奏のレベルを解析すれば、サーバー側で同じレベルのもの同士をマッチングすることも可能です。実際、演奏の現場では、演奏レベルの違う人たちが一緒に活動すると悲劇が起きることが多いのです。上手いもの同士、初心者同士が結びつく仕組みは(それと知られない程度に)うまく作ってあるとお互いに幸せです。

逆に演奏レベルの違いの情報をベースに、もっと簡易な楽器のレッスン、演奏アドバイスみたいな非対称な出会いの場を提供することも考えられます。


楽器演奏だけでもいろいろ考えられるのだから、他のいろいろな活動についてもいくらでもIoTのアイデアはありますね。

そう考えると、本当にこれから10年くらい世の中の変化はかなり大きなものになるのではないかと思えます。(相変わらず、無駄に壮大な予測ですが)

2015年4月25日土曜日

未来の戦争

戦争なんて物騒な・・・と思いつつも、思考実験というか、ある種のファンタジーだと思って読んでみてください。

ここ数日首相官邸で放射性物質を装着したドローンが見つかったという事件が世間を賑やかしています。
ドローンがこれだけ流行りだしていたにも関わらず、首相官邸をアタックしたという事件があって急激に法規制を始めようという議論が巻き上がるあたりに苦笑しますが、ドローンがこのような事件に使うことができるということを国民に知らしめたという意味で、今回は確かに象徴的な事件でした。

つまりドローンを使えば誰もがテロを行えるということです。
ドローンがどれだけ産業にメリットをもたらすかを考える以上に、社会にどれだけ不安を与えるかの方が先に立ち上がってしまった気がします。
かなりの人にドローンに対するマイナスイメージがついてしまったのは確かなことでしょう。


AI、ロボット、ドローンといった昨今話題の技術は、よく考えてみたら戦争に使うことに非常に経済的合理性があるような気がしてきたのです。

戦争は基本的に人の殺し合いです。とはいえ、今の世の中、兵士の命とて大事にしなければいけません。戦闘機を作れば、コクピットは頑丈に作るでしょうし、脱出装置は必要でしょう。戦車を作っても、同様に中で操縦する人を十分守るような設計をするはずです。
つまり戦争に使う道具も人が乗る以上、そのためのコストを払う必要があります。

そう考えると兵器の無人化は、兵器の低価格化を引き起こすと思うのです。
国防費に十分にお金をかける国であれば、兵士は死なず、低価格化する兵器は大歓迎ですから、どう考えても無人兵器を作るようになるはずです。


昨今の戦争は、国家対テロリストといった、立場的に非対称な者同士が戦うことが多くなりました。
上記のような無人兵器はまず大きな国家が作るでしょうから、戦争のある時点で、テロリスト対無人兵器、という戦争が始まると思います。

しかし、相手が無人ではテロ軍団は勝ち目がありません。兵士の士気も落ちます。

兵器の低価格化は兵器市場に新規参入を招く可能性があり、そういった企業のいくつかがテロ組織に兵器を安く売るような商売を始めたらどうでしょう。
もちろんテロリストも喜んで、その無人兵器を買うに違いありません。

そうなれば、どちらかが無人兵器を使い始めたら、その流れは一気に加速し、戦争はほぼ無人兵器同士が戦うものに変わっていくような気がするのです。
そして、もはやこれは戦争というより、ゲームの世界です。


無人化した兵器が、戦争をした場合、勝者は技術力、戦術が勝った方になるでしょう。
しかし、人が現場にいなくなった戦争は、果てしなく長く続く可能性もあります。

兵士が死ななくなる戦争はもちろんいいことではありますが、そのような地域紛争が何かのはずみで暴走したらと思うと、それはそれで怖い話です。搭載しているAIがもし暴走したらとか・・・
そんなわけで、ITや技術の進歩は、戦争のあり方も根本的に変えてしまう可能性があると私には思えるのです。


2015年4月4日土曜日

AIとシンギュラリティ

AI関係の話題が多い昨今。専門家でもAIを肯定的に捉える人もいれば、否定的に捉えている人もいて、私のようなAI技術の素人には予想もつきません。

それでも、私自身の率直な感想を言えば、仮にシンギュラリティのような事象が発生して、AIが人間を凌駕してしまったとしても、それはそれで受け入れてそういう未来を見てみたいという気持ちもあります。間違っても、科学の進歩に否定的になったりAIの存在を否定したりする気持ちにはなれません。


以前、AIについて、こんなことこんなことを書きました。
これは、人々が何となく思っている人間のように振る舞うAIなんてあり得ないんじゃないか、という主張です。もちろん、今でもその気持ちには変わりないです。

恐らくAIがまず我々の生活に入り込むのは、エキスパートシステムからだと私は思います。
例えば、ラーメンを作るロボットを作って、あるラーメン職人の仕事をサンプリングし、AIに学習させたとします。どの程度の間学習させるか、ということについては私は詳しくないですが、ある時点で、AIはこの職人のラーメン作りをほぼ完全に模倣できるようになるでしょう。
学習を徹底的に進めることによって、その職人自体が持っている出力の振れ幅より(毎日の微妙な味の違いというような)、さらに振れ幅が少なく、均質な味を作り続けることが可能になることでしょう。

その人にしか作れなかった味は、その学習結果を他のロボットに転送することで、どこでも手に入れることが可能になります。
料理ロボットが家庭で一般的になれば、ラーメン職人だけでなく、世界中の有名シェフの味を家庭でも堪能することが可能になるかもしれません。


料理は非常に分かりやすい例だと思いますが、世の中には、何年もの間同じ仕事をし続けて、熟練してその人にしかできない、といった職人ワザがたくさんあると思います。
機械的にその人と同じように動けるロボットが作られ、そこにAIのエキスパートシステムが載せられれば、職人ワザそのものを量産することが可能になります。
ある場所に隠されていたエキスパートシステムが、瞬く間に世界に広がりコモディティ化してしまう、という未来があるタイミングで起きることは容易に予想できます。

AIといって人々が思い描く未来は、ほとんどの人がロボットと人間の共存といった世界だと思うのですが、実際にAIが入り込むのは、まず産業であり、ビジネスの領域だと私は思います。
すでに多くの工場では、無人化が進んでいますが、それはさらに加速するでしょうし、先程書いたような料理ロボットが可能になれば、飲食店のあり方も、様変わりするでしょう。自動運転車で流通もそのうち無人化されるでしょうし、恐らくちょっとした処方箋を書くだけの内科の医者でさえAI化は可能でしょう。
それと同時に、オフィスワークもAI化され、単純な会計、税務処理や法務関係とか、定型的な業務がAIベースのWebサービスに置き換わるかもしれません。
プログラミングでさえ、ある程度の要求仕様をインプットすれば、素晴らしい精度のコーディングが出来るようになる気がします。


AIの発展がまず私たちにもたらす社会的問題は、失業問題ではないでしょうか。
これだけ多くの仕事がAIで置き換わっていけば、多くの会社で必要ない人が増えていきます。また、新しい会社がこういう技術をうまく使いこなしていけば、使いこなせない企業が淘汰されます。いずれにしても、世の中には失業者が増えることになります。

そして、その次にやってくる問題は、あらゆることがAIのエキスパートシステムに置き換えられた結果、そのような職人技を持っている人が死に絶えた時、人間に何も習熟すべき技術が残らなくなるということです。
そもそもAIに命令するのが人間なのに、AIのやっている技術レベルに命令する側が追いつけなければ、AIを使いこなすことさえままなりません。
これは、ひたすらAIの学習方法を研究し続ける人だけしか、職業を持てなくなるような社会であり、AIへの命令さえAI化することによって、まさにシンギュラリティといった、人間不在の社会が現れることになり兼ねないのです。

しかし、今の社会は人間の欲望を満たすために作られているのであり、人間不在の社会、などという概念自体、何か自己矛盾のような気がします。
シンギュラリティ後のAIは自らに何を望むのか、そんなことまで思いを馳せてしまうのですが、これはあながち遠い未来のことでも無いのかもしれません。

微妙にダークな話になりましたが、そのようなシンギュラリティを人間が自ら回避する流れも起きるでしょう。そのときに議論されるであろう「人間とは何か」という問いこそ、私が最も興味のあるテーマでもあるのです。


2015年3月27日金曜日

リスク対応で自滅しないために

私が最近ついイラッと感じてしまうことを、なるべく一般化してみようと考えていました。そしてそれは、過剰なリスク対応と同根なのだなと思い至りました。

リスク対応の世間一般の話題としては、食品の異物混入事件でしょうか。
本来なら、その場で文句言ってお金を返してあげて終わりだった案件も、メディアでどんどん表沙汰にされることで、人々の印象の中に不衛生のレッテルが貼られてしまいました。
ウチの子も急にマック行きたくない、言い出しています。「今なら人いないよ」とか言ってもダメ。もう感覚的に拒否してます。子供だから仕方ないと思いつつ、ということは日本人全体がそういう子供っぽい反応をしているようにも感じます。

カップ焼きそばのゴキブリも衝撃的でしたが、あれはTwitterのような拡散の仕組みがあればこその衝撃であって、実は以前よりその程度のことはあったのかもしれません。

上記のような事案に対して食品提供側はお客サマの理解を得るために、工場を止めたり、過剰と思える謝罪をしたり、その社会的制裁ぶりには思わず同情してしまうほどです。
このようなニュースは、多くの人に業者に対して「反省しろ」と心の中で喝采させるのと同時に、誰もがいつ自分が吊し上げられるかわからないという不安を与えます。
次は自分があの場所に立っているかもしれない、という恐怖です。


かくして私たちはどこまでもリスク回避、責任回避の行動を取りたがるようになります。

私たちは人間ですから間違いはどうしても犯します。人によっては間違う多さも違うのでしょうが、誰もが完璧に仕事をこなせるわけではありません。
リスク回避の意識が強くなれば、間違いを処理する仕事がプロセス化され、間違いを放置しておくことが難しくなります。結果的に、このような組織文化は他人の失敗を糾弾する行動が賞賛されるようになっていくでしょう。
そして、組織内にある数多の間違いをお互いに指摘し合う文化が醸成されていきます。

このような文化はある程度正しいことです。
組織として良質なアウトプットを出すために、間違いはなるべく少ない方が良いのですから、相互で確認し、チェックすることで品質を高めていくことは、組織の価値を高めるために当然のことでもあります。

しかし、組織の価値を高める以上に、リスク対応の業務が増えてくるとすればどうでしょうか。それが過剰になっていくと、それは必ずしも良い方向には向かわなくなると思います。端的に言えば、余計な業務が増え、利益率が悪くなるからです。
営利企業ならまだしも、利益という概念が基本的にない公務員の場合、こういう事態はそうとうひどい状態になっているのではないかと推察します。


このような事態に対して、冷静に的確に業務量を分配するには、私には確率、統計的な手法は避けて通れないのではないかと思うのですが、ほとんどの場合、情緒的な反応のみで、誰か一人でも「許されない」と言えば、それが正義となってしまうのです。
そのような状況で、確率的な対応の話をしても「その一人にとっては100%だ」みたいな反応をされることがほとんどであり、結果的に確率論を否定されます。
それが業務効率向上の否定であることにまるで気が付いていないようです。

もちろん、自分がこれまで書いてきた内容、すなわち、確率、統計、効率、利益・・・こういう言葉は嫌われやすいですね。
分かる人には分かっているし、なるべく上記の言葉を使わずにうまく人を説得できる素晴らしい経営者もいるのでしょうが、それでもビジネスを続けていくためにこういう感覚が共有できなければ、継続的な事業運営なんて出来ないと思います。
昨今の有名日本企業が苦境に立っているのも、こういう考えが出来ない経営者が多いからではないかと私には思えてしまいます。

ちょっと話題が逸れましたが、リスクに対して発生確率を統計的にとりつつ、こういった案件がSNSで拡散されやすい昨今、むしろSNS対応、マスコミ対応みたいなものを別途研究すべきなのかもしれません。
こんなところで技術部長が引っ張り出されて正直なことを言おうものなら、火に油を注ぎかねません。外部に対する公表で必要なことは、内容の正確さを失わないまま、いかに大衆の感情をうまくコントロールできる表現をするか、ということが問われているのだと思います。


2015年2月28日土曜日

残業代とインセンティブシステム

前回残業代ゼロ法案について書いてみましたが、私自身は政治的な主張というよりは、人がどういうインセンティブで動いているか分析することに興味があります。

ということで、私の浅はかな推論で、残業代が労働者にどのようなインセンティブを与えているかをちょっと考えてみます。


「お金が欲しい」→「残業代が欲しい」→「長時間残業」という図式がまずすぐに思い浮かびます。
もちろんこの意識は、残業代が招く悪しきインセンティブということで、全く否定できない事実だと思います。
俗に生活残業などと言ったりしますが、特に忙しくなくても毎日1、2時間は残業して帰ることが日常になっている人も多いでしょう。
今さら、1、2時間早く帰るよりは、残業代をもらえるのだから少しでも長く居ようという意識が多少は誰にでもあるはず。(これを否定されるとツラいですが)

これをもう一段、抽象化して考えてみます。
長い間、長時間残業が当たり前の環境に身を置くことによって、「お金がもらえる」→「価値がある行為である」→「組織に貢献する」、というような感覚が無意識に心に根付くのではないかと私は思います。
給与額はお金の価値そのものだけでなく、労働に対する評価として機能します。プロ野球の選手が高い年俸にこだわるのは、お金が欲しいという動機よりも、自身のチームに対する貢献を高く評価して欲しい、という意識の方が強いはず。

もちろん、プロスポーツの場合、残業代ではなく純粋にプレー自体の価値、成績とかで可視化しやすい状況にあるので、これは誰でも感覚的に納得できます。
残念ながら、会社の中で完璧に個人の貢献度を可視化するのは難しく、どれだけ組織に貢献したかはその評価者、つまり上司の裁量に寄らざるを得ません。
全ての管理職が自信を持って部下を評価出来ているわけでもなく、そのときの数値化された一つの指標が残業時間、ということになる可能性があります。
特に生活残業とかではなく、非常に忙しい時にかなり時間的に無理して頑張ってくれた、といった場合、作業効率うんぬんよりまず長時間残業してくれたことに感謝したくなる気持ちは私にだって否定できません。


残業代のインセンティブを語る場合、もう一つ、終身雇用的な慣例を切り離して考えることは難しいとも私は思っています。
私がここで言う終身雇用的な慣例とは、同じ人たちと何十年も一緒に働く、という状況です。昨今、非正社員の問題も話題になりますが、実際の現場では非正社員であっても、それなりのスキルがあれば、長い間同じ職場で働くことは珍しくありません。これなど、終身雇用的な意識の表れとも私には思えます。

同じ人たちが、同じ場所で、同じことをやり続ける、という環境において、誰が一番評価されやすいか、ということを考えてみましょう。

端的に言えば、どれだけその環境に貢献しているか、自分のリソースを割いているか、つまり自分の時間をその組織に割いているか、ということが評価につながるのではないかと私には思われます。

この感覚は、残業代でその貢献を表現する方法ととてもマッチします。
つまり、長時間同じ人たちと同じ仕事を続けるといった環境では、残業に対して評価を与えるという仕組みがインセンティブとして非常に効果的なのだと思います。


我々の職場環境もめまぐるしく変わっている現在、上記のようなインセンティブシステムが微妙に崩れつつあります。
人々の意識が変わるのには時間がかかりますが、グローバルに世界経済が繋がった現在、世界と対等に渡り合うには時間が足りないと私には感じます。

であれば、残業に価値を置くようなインセンティブシステムは変えなくてはいけないし、人々の意識を変えていくためにも早ければ早いほど良いと私は考えています。


2015年2月15日日曜日

残業代ゼロ法案はブラックの合法化か

突然の超政治的話題ですが、この件についてちょっと自分なりに思うところを書いてみます。

巷では、ホワイトカラーエグゼンプション、いわゆる残業代ゼロ法案の是非について騒がれています。
要するに、ある程度の頭脳労働、専門スキルを必要とする労働においては、時間給という考え方は適切ではないので、労働時間に関係なく給与額を決定できるようにすべきということだと私は理解しています。

現状では年収一千万円を越えたあたりから適用というような制限で法制化するとのことですが、反対論者はいずれその適用金額が低くなっていくことを懸念しています。

私もいずれその金額は減っていくだろうと思ってはいますが、実は私はホワイトカラーエグゼンプションに基本的には賛成です。
ブラック企業を合法化しかねない要素があるのは確かなことなのですが、この影響は近視眼的に見るだけでなく、もっと働く人のインセンティブ構造にどのように働きかけるかということを複合的に見る必要があると思うからです。


ITの発達により、これからも世の中はどんどん効率化していくのは確かです。恐らく、残業代ゼロ制度もそういう視点とセットで考える必要があるのではないかと思います。

私の考えを端的に言えば、安い賃金で人間を長時間労働させても良いインプットは出ず、結局そのような働かせ方をする企業はリソース配分の仕方が効率的でないため、競争に敗れてしまうでしょう。
なので、短期的にブラック労働が増えたとしても、いずれ淘汰されるため、結果的にブラックな労働環境はむしろ減っていくのではないかと思います。

もちろん時間給が必要な職業は永遠に無くなりません。
そこに多少のクリエイティブな要素はあるにしても、直接サービスを提供するような職種は確実に時間の制約を受けるからです。

その一方で、時間管理が適切でない職業もたくさんあります。
情報収集、調整、判断のような経営者的仕事は時間を束縛しませんし、商品開発のように比較的納期が長期間に渡るような仕事も一時間単位の労働時間管理をする必然性はありません。

そしてまさに上記のような時間管理が適切でない仕事こそ、クリエイティビティが求められており、総労働時間とクオリティが比例しないことが往々にして起こります。
そのような職場で大事なことは、いたずらに人を投入したり、長時間労働を強要することではありません。
適切な人材を適切なタイミングで集め、彼らのモチベーションを高める仕組みを用意しながら、プロジェクト全体の納期を守るためのマネージメントをすることが絶対的に必要です。

私の思うに、そのようなマネージメントは、日本では決定的に欠けていると思います。
具体的には以下のようなマネージを日本でもする必要があります。
1) プロジェクトマネージャー自身が必要な人材を面接し直接雇い入れる権限を持てる。
2) 悪平等を廃し、貢献度が高かったメンバーへの報酬を惜しまない。
3) 担当を決めたら、権限の範囲を明確にした上で、大胆に権限を移譲する。
4) タブー無しな自由闊達な議論ができる文化と、最終的な意思決定権の明確化。
5) 担当者の責任範囲を明確にし、安易に横つながりで勝手に人の仕事を助けない労働文化を作る。
と自分で書いてて、すごい難しいなあという気がしてきました。

特に5)は、日本人的価値観とはかなり相容れないですね。
短期的には誰かを手伝ってなんとか仕事を回したほうが一見効率的なので、どうしてもそのようになってしまうし、他人を手伝わない行為は倫理的に避難されそうです。

しかし、それでもそのような責任の明確化を行わないと、貢献度の評価が曖昧になってしまいますし、結果的にみんなでダラダラと無責任に長時間労働、という世界に戻っていくことでしょう。


私が本当に嫌なのは、責任や権限を曖昧にしたまま、誰かが「何とかしろ」と日々怒りながら、みんなが嫌々ながら長時間働いているような環境なのです。

しかも高齢化が進んだ日本では、高齢者の雇用を守るために若者を非正規で安い賃金で雇うことが半ば常識化してしまっています。このようなことは早晩続かなくなるのは確かです。

いずれ、成長企業が効率的なマネージメントで、有望な人材を根こそぎ持っていくような事態が生まれるようになれば、他の企業も変わらざるを得なくなるでしょう。
そのような時代には、やはり労働を時間管理で行う非効率さはいずれ淘汰されるのではないかと私には思えるのです。


2015年1月31日土曜日

私たちを分断するもの

連日イスラム国の人質事件がニュースから流れてきます。
普段日本で生きているだけでは、事件の起きる背景や、現実など皮膚感覚では知る由も無いのですが、あのような暴力的手段でも国家という秩序を構築しようとするそのモチベーションに今の常識とは異質なものを感じます。

それほど極端な考え方ではなくても、日々Twitterでいろいろな識者の意見を聞いていると、全く見事に正反対の意見が激しく交わされているのを見ることができます。
政治的な主張なら、雇用労働関係とか、経済政策とか、外交政策とかそういうものに関してもネット上で多くの人が討論、というよりは一般人が有名人に食いかかっていたりするわけです。

ネットがあるから簡単に可視化されるようになり、表面化しているだけかもしれません。
しかし今まで交わりもしなかった人たちがネットで反対意見を言い合うことによって、その主張がより先鋭化してしまい、お互いがどんどん過激化してしまう、ということはあるような気がするのです。


IT化による情報の可視化は、人々の思想を明確にさせ、お互いがより過激になり、結果的に人々を分断する原動力になってしまっているのではないか、と思ったりします。
ITが開いたパンドラの匣は、まるで人間を試しているように感じます。

人がここまで進化してきたのは、人同士で協力し合うという力を得たからだと私は考えています。人同士で協力するためには、相手が敵か味方か判断するために多くの記憶を必要とします。人間の脳の発達は、まさにより複雑な人間関係に対処するために生まれたのではないでしょうか。

古来、人間はたくさんの争いごとを行ってきました。
それは、まさに人間が協力する動物であることの裏返しでもあるのだと思います。つまり、敵味方をはっきりさせ、味方同士で集まれば、それと違う集まりも生じ、そこに争いが生まれます。
協力したもの同士の力が大きくなるほど、その争いも大きくなっていきます。

これまで協力するもの同士は、一緒に暮らすもの同士でした。
だから、これまでの争いは部族間、集落間、地方間、そして国家間とスコープは広がりながらも、違う場所に住む者との争いだったのです。

ところが、IT化以降起きていることは、少し様相が違います。
同じ会社や組織の中で当たり障りのない程度に一緒に暮らしながら、モノの考え方とか哲学とか、政治的指向とかが全く違っていて、ネットの情報で自分の考え方を日々育てながらまるで別の人生を生きているのです。


冒頭のイスラム国には、欧米から戦闘員の志願者が集まっていると聞きます。
もはや民族や宗教も関係ないのです。
実際のところ、考え方に共鳴しているわけではないのかもしれないけれど、ここではないどこかに自分の居るべき場所があるのではないかと思う人がいても不思議ではありません。

情報が氾濫し、一人一人が社会や集団の常識などから解放され、自分の心と対峙できるようになったとき、今まで人々を無意識に連帯させていたものも同時に崩壊し始めているのでしょう。
そのような未来に、人間はどのように新しい連帯を始めなければいけないか、それが問われ始めているのではないでしょうか。

2015年1月25日日曜日

ファブ社会への期待

ファブラボが今日本中でオープンしていますが、こういった施設が当たり前になって広く利用されるような未来はファブ社会と呼ばれています。
ファブ社会では、規格化、標準化された工作機械があちらこちらに配置されており、それら工作機械を動作させるための電子化された図面データがネット上を駆け巡ります。

これまで商品の設計、開発、生産は、それらを製造する企業内での活動であり、その方法は企業内で独自に培われてきたものだったのですが、試作・開発するための機材や部品が共通化されていけば、企業内で閉じていた方法論もだんだん似通ってくることでしょう。
昨今のIT化によって、世の中では電子ファイル形式の標準化が進み、さらにWebベースで事務作業が出来るようになると書類仕事がどんどん標準化されるようになってきました。
そして、書類仕事だけでなく、実際にモノを作るための方法論もまた、同様に標準化される可能性があるはずなのです。

もちろん、そういった開発プロセスの効率化が各企業の競争力のみなもとでもあったのですが、社会全体の効率から考えれば、その過程が完全にオープン化されてしまった方がはるかに生産性が高くなるのではないか、とも考えられるのです。


そんなわけで、またしても勝手ながら、そんな未来を想像してみようと思います。

街にはたくさんのファブラボがあります。
ファブラボは今のコンビニくらいの勢いで存在しているといいですね。
もしあなたに何か自分の欲しいものがあったとき、あなたはまずネット上で世の中にどのような種類のものがあるか検索します。そして、それらの中からあなたの好みに合うものを探し出します。
もちろん、人件費の安い国で作られた、安かろう、悪かろうの汎用品は未来にも存在するでしょうが、ちょっとだけでも自分のオリジナルな希望を叶えようと思えば、世界中にそれを満たしてくれるデータがどこかにあります。

次に、あなたはそれらのデータをダウンロードします。
データの開発者には、気持ち程度の寄付をして、そのデータを近くのファブラボに転送します。ファブラボで自分が工作機械を使って製造すれば、値段は機械の使用料と部材費のみ、製造もファブラボに依頼すればさらにその値段が上乗せされます。
もちろん汎用品よりは高くつきますが、色や形にオリジナリティを加えれば世界に二つと無いオリジナルなものがそれほど高くない値段で手に入るわけです。

ファブラボはあくまで民間なので、より良いサービスやクオリティをもったファブラボが儲かるし、世界的なネットワークを持っている方がファブラボとしての価値は高まるでしょう。

ある製品を設計した人、あるいはチームには、世界各国からライセンス料、あるいは寄付金を得ます。
ライセンス料はある程度、数量を生産して商売したい人から徴収します。データはあくまでオープンですが、商用利用ではライセンス料発生、といった形でデータを公開するわけです。
もちろん、ダウンロードした個人からの寄付もあるかもしれません。データのやり取りとはいえ、一対一の関係ですから、いいモノを得たのならそれに対して感謝の意を表したいのが人情というもの。


そんな時代、いま企業が作っているほとんどのものは、個人開発者が作るようになります。
企業は、大規模で安価に売る汎用品、量産品を作るか、ファブラボが使用する材料、部品を供給したり、ある程度の規模が必要な新しい技術開発と、それをベースにした標準化の取り組みなどがおもな業務になるでしょう。

ここで対象となる製品とは、最初のうちはシンプルなオモチャとか、照明、椅子のような小家具やインテリアが中心でしょうが、そのうちにタンスやベッドなどの大規模な家具、テレビ、パソコン、オーディオなどの電気製品、自転車、自動車といったものまで可能になるかもしれません。

もちろんこのような未来の社会では、今存在しないような職業が出来ているわけです。
ファブラボの運営や、工作機械の説明員、そして個人設計者、世界各地の情報収集と検索を容易にするポータルサイト、国を超えた少額送金システムなどなど。

こんな社会になったらいいなと私は切に願っているわけです。

2014年12月12日金曜日

「作る」の未来 –今足りないもの–

以前このタイトルの記事を書いたとき、個人が趣味で何か「作る」ことに対して、まだまだ社会との交点とか、生業としての可能性みたいなことを語るのは時期尚早だと思っていました。

しかし、最近のMaker Movement関連で作られた具体的な事例を知るほど、まだまだ私たちの生活が便利になる小物は意外とたくさんあるものだと思い知らされます。

例えば、「スマート座布団」なるものを作った方がいます。
座布団の中にセンサーを入れて、どの座布団に実際に人が座っているかをリアルタイムで知ることができるシステムです。飲食店で使うことによって、お客の在席状況もわかりますし、1日の統計を取れば、客あたりの滞在時間や、一人で来たか、連れで来たか、といったことも多少の推測は可能でしょう。
飲食店でなくても、図書館とか、銀行や病院の待合室とか、そういう場所に設置したらどのようなデータが取れるか考えてみると面白そうです。

また、ある人は職場のトイレのドアにセンサーを付けて、今トイレに人がいるかどうかを自分の席で分かるシステムを作ったそうです。
あらかじめ現在のトイレの使用状況が分かると、トイレに行っても空いてない、ということはなくなります。
ただ、このデータのログを取って解析するのはあまり気は進みませんが・・・

これらの事例より、我々の生活の至る所にセンサーを付けることによって、まだまだ日々の暮らしが快適になる可能性はあります。
今までこのようなセンサーは個人で買うのは割高だし、痒いところに手が届くような機能も付いていませんでした。BtoB向けになると数量も出ないでしょうからカスタマイズも難しく、自分で好きな統計を取ることもままなりませんでした。

しかし、こういったセンサーと情報収集の仕組みと情報解析の仕組みを組み合わせることが技術的に簡単になれば、こういうシステムを構築できる人も増えてきます。最初は、個人の趣味で始めたことも、ビジネスになると分かれば、それを職業にする人も出てくるでしょう。そしてこれから、こういったシステムを個別最適に作ってくれる小さな個人事業がたくさん出てくるかもしれません。

センサーと情報収集や解析の仕組みからもう少し飛躍して、社会的に起こりそうなことを考えてみましょう。
例えば、近いうちにコンビニや各種店舗が無人化されるかもしれません。その場合にも、無人化を可能にするような各種デバイス(個人認証で入れる自動ドアとか)が開発されることによって、いろいろな特殊用途の無人化システムが作られることでしょう。
また、車の自動運転が一般的になれば、まずは人を運ばない運送のような業務から自動運転が始まるような気がします。それまでに、自動運転に関わるセンサーやパーツが部品化され、広くその図面が公開されれば多くの人がそれを使ったシステムを設計しやすくなります。
起こりそうな大きな技術とそれに付随する技術を考えてみると、今無いものを想像するきっかけになりそうです。


今足りない何かを考えてみましょう。
それは例えば生活のほんの一部をちょっとだけ便利にしてくれるようなものです。
そういうものが、気軽に作れる環境が整って来れば、「作る」ことがようやく生業になる可能性が出てくる気がするのです。

2014年7月13日日曜日

日本人という遺伝子

最近社会が劣化しているとしか思えないような事件がたくさん起きています。(佐村河内、小保方、ヤジ議員そして号泣議員・・・などなど)
そこには何かを起こすアヤしい人の存在があるのですが、そのアヤしい人をうまく扱えないばかりか、そういう人に翻弄されている組織という構図も垣間見えます。何しろ、問題なのはそのような事件に際し、組織の幹部の人たちが事件を適切に処理できないことです。
今回はやや抽象的なテーマですが、昨今の社会の劣化と、日本人が本来もっている遺伝子とどういう関係があるのだろうか、と自分なりに考えてみたいと思います。


日本は何千年という間、海に守られ、国そのものが存亡の危機に瀕することがほとんどありませんでした。
多くの人が指摘するところですが、このような環境において、純粋な実力主義よりも形式や権威を重んじ、上下関係をはっきりさせる独自の文化が形成されたものと思われます。

このような集団の場合、トップに大変決断力があり、強引豪快な力を持っていると、その力は人数以上に倍加され、集団が大変なパワーを発揮します。
ところが、外部環境が安穏としてくると、過激な改革者よりも実務者がトップに立つようになり、ロジックで人が動かない分だけ、むしろ組織のパフォーマンスは大きく下がるような気がするのです。

勝手な推論ですが、日本の軍隊は日清日露戦争時代、まさに列強に追いつけ追い越せというスローガンの元、明治維新を生き抜いた豪快なリーダーに率いられ、すごい力を発揮したのではないかと思います。
ところが、それから40年経つ頃には、日本の軍部はそのような実力者ではなく、実務者や実力のない強弁家に侵されていきます。以前こんな本を読みましたが、太平洋戦争では単に物資の力の差だけではなく、日本軍の組織力自体がだいぶ弱っていたように見受けられます。
それは今、日本の企業を覆う閉塞感にとても似ているのです。

本当に日本人は本質論より感情的で感覚的なその場の議論が好きなように見えます。あるいは、本質論を話し合うべき場所に、そういう人材が揃っていないように見えます。
私の思うに、日本以外の先進諸国は絶えず戦争と戦乱に明け暮れていたため、組織や民族全体の遺伝子が、本質論を語るべき場にそれを語るにふさわしい人が集まるような仕組みを作り上げているような気がします。
日本では数千年の間、そのような必要がなかったため、組織を常にそのような状態にもっていく仕組みがとても弱いのです。

私は日本人の「本質論」嫌いには本当に閉口するのですが、それが民族の構成員に刻まれている遺伝子だとすると、仕方がないとあきらめるほかはありません。
そう考えると、明治維新のときのように、そして戦後の復興のときのように、新しく日本をゼロから作り直すような機会が訪れ、そこに実力者が強引に人々を引っ張っていく、そういう社会が到来するのを待つしかないのかもしれません。


今後日本が、明治維新や太平洋戦争での敗戦のような大きな挫折を味わうのでしょうか。
私のような素人が思うには、それは国債暴落やそれに伴うハイパーインフレではないかとついつい考えてしまいます。
ハイパーインフレがおこれば、相対的に今お金を持っている高齢者が貧乏になり、お金で保っていた権威が消滅します。このようなときに始めて、年齢性別無関係に力のある人が世の中に出てくる可能性が見えてきます。

本当にそんなことが起こったら社会へのインパクトは相当に大きく、かなりの人々の人生を狂わせることになるのは確かでしょうが、それでもこの閉塞感をグレートリセットして、もう一度日本が再生するにはそれしか手がないのではないかと思ったりするわけです。

2014年3月2日日曜日

ビットコインで勝手に妄想

ビットコインのニュースがついにお茶の間でも流れるようになりました。
半年くらい前から興味を持ってビットコイン関連のニュースをウォッチしていましたが、今回の事件のおかげでようやく理解が深まったような気がしています。
もちろん、私はもともとの論文も読んでいないし、そこまで調べてみる気合いは無いのですが、個人的にはビットコインがこれから社会に引き起こすことに大変興味があります。
多くの人々がビットコインに対して不信の目を向けていますが、私は敢えていわせてもらうと、ビットコインは私たちの常識を変え、未来に大きな影響を与え得るものだと感じています。

技術的にまだまだ問題があるのは仕方がありませんが、ビットコインのスゴさの本質は、P2Pで電子のお金を転送できてしまう、ということにあるのではないでしょうか。
以下は全く勝手な私の妄想ですが、間違っている可能性も含め、私はこう思っているということでお読みください。


お金が物理的なモノである現在、たくさんのお金を個人で持っているよりも、より安全な場所に置きたくなります。そのために銀行という存在があります。
モノなので、自分の所有物でない以上、貸すという形になります。銀行は預金という形で安い金利で人々からお金を借り、それより高い金利でお金を貸して儲けます。
こういう仕組み自体は、お金がモノであり、それを貸し借りする必要があるから成り立つ事業のように思えます。
ビットコインはモノでは無いので預けておこうという必要性は無くなります(安全性の問題はあるにしても)。しかも電子的に特定の人に中間の搾取無しで動かすことが出来ます。そうなると、従来の金融機関がやっていることのうちのかなりの仕事に影響があるような気がするのです。

例えば、モノが動くときには手数料という形でお金を取ることがあります。
その昔、人が動けば関所みたいな場所で通行量を取られました。その人が商売人だったら、その人が運んだ商品には通行量の値段が上乗せされることになります。そうやってモノは移動距離がかさむほど値段が高くなっていきます。
同じようにお金が動けば、手数料が取られます。誰かに送金する場合もなんやかやと手数料を取られます。確かにATMなどで処理すれば本物のお金を扱っていないようにも思えますが、本質的に銀行はモノであるお金を扱っているからこそ、振込でも手数料が発生するのだと思います。
当然、ビットコインは世界中どこでも相手にタダでお金を送れます。

お金の最小単位は、例えば日本円なら1円ということなります。
利息計算や消費税の計算など、お金の計算で生じる割り算で1円以下の数値が現れます。こういうとき、ルールベースで1円未満は切り上げとか、そういう形で処理することは多いと思います。
これは、何らかの手数料を取る場合、お金が少額であればあるほど遠くに動かしづらいという現象を生んでいるはずです。
ところが、手数料のようなものが無くなることで、少額のお金の移動が圧倒的に簡単になります。そうすると、世界中から一人当たり0.1円徴収するというようなビジネスだって可能になるかもしれません。
そうなると広告収入だけでなく、直接課金なども今よりずっとハードルが下がります。


上の話は結局のところ、世の中の価値を極限まで細分化する流れに繋がると思います。
ネットはたくさんの情報を丸裸にし、それらをいとも簡単に連結させましたが、それとビットコインが呼応すると、今まで切り捨てられたような少額の価値が世界中を駆け巡り、サービスやモノといったビジネスだけでなく、さまざまな個人の行為やささいなアイデアまで値付け、というか価値付けが可能になっていくと思われます。

これは、私がこれまで組織よりも個人に重きが置かれる社会というのをさらに押し進める原動力になるのではないでしょうか。
今後、ビットコインそのものでなくても、ビットコイン的な何かがこれから主流になる可能性は大いにあると思います。好むと好まざるに関わらず、まるで水が低いところに流れるように、世界中にあった流通を阻むダムがどんどん小さくなることで、その水流はますます強くなっていくのではないでしょうか。

ということで、以上、ビットコインにまつわる妄想でした。

2014年2月1日土曜日

テクノロジー時代の数値リテラシー

最近はビッグデータなどと言われたりするように、ネット上に大量のデータが集積され、それらが意味するところの結果を簡単に知ることが出来るようになってきました。
世界中に張り巡らされたセンサーから莫大な情報が一カ所に集められれば、瞬時に様々な解析が行なうことが可能になります。

このような状況が一般的になればなるほど、問われるのはそういう結果をどのように評価するか、という私たちの数値リテラシーではないかと思えます。
そして、そこで要求される数値リテラシーとは、確率とか統計とかという概念を使いこなせるということです。と言っても、いずれも高校で習う程度のものだと思うのですが・・・


昨今の象徴的な例は、原発事故で一気に身近になった放射線の数値。
もちろん私は放射線や放射性物質についての専門家でも何でもないわけですが、一頃ニュースで散々流れていたおかげで、多くの人が理解するようになったと思います。

ここで出てくるシーベルトという単位ですが、恐らく以下の二つさえ理解できていれば、あとは自力でその脅威を予想できると思われます。
1)シーベルトの千分の一がミリシーベルト、さらにその千分の一がマイクロシーベルト。
2)今扱っている数値が毎時なのか、総量なのか。

これだけ言われれば誰でも「そんなことは分かっている」と言われそうですが、それでも数値を突き付けられると、思考停止してしまう人も多いように思えます。
いちおう理系である技術者でさえ、オカルトまがいの言説を信じて、とんちんかんなことを言う人だっています。
ほんのちょっと数値があるだけでも、放射線があるからコワい、とか言っちゃうわけです。逆に全く状況の違う数値を持ち出して、この数値なら大丈夫だ、などというのも危険ですね。

我々は普通に生きていても放射線を浴びているし、レントゲンを撮れば、一回当たり100マイクロシーベルト被爆してしまいます。
結局総量としてどのくらい浴びると健康に問題が起きるのか、その辺りがある程度想像できれば、こういう数値に対してもう少し適切に判断できるはずです。



医療関係だとこの手術の成功確率は何%などと聞いたりします。
例えば数万人に一人、みたいな数値を聞いた時、皆さんはどう感じるでしょう。
なかなか想像がつかないと思いますが、私からすればそのくらいの確率だと気を付けて生きても仕方が無い、というくらいの数値です。もちろん実際に、その確率で何らかの障害を持ったり死んでしまったりする人もいるわけですが、このくらいの確率だと、気をつけるコストのほうが大き過ぎると感じます。

具体的な例でいうと、白血病は2万人に一人くらいの確率で発生するそうです。
これはもう統計的にそういう確率を出すことは単純に割り算で出来るわけですが、それを予防するために放射線をなるべく避けたとしても、その努力の結果白血病にならなかったとはとても言い切れません。
ましてや、それが原発のせいだなどというのはほとんど不可能です。あくまで数値は確率の問題であり、個人に発生した原因とは別の問題だからです。

もう一つの例ですが、出産時に乳児が死亡する確率は、現在の日本では1000人中3人くらいだそうです。
私も息子の出産の際には、いろいろな講演などで出産の成功率とか、乳児死亡率とかそういう数値を聞かされて、初めて知りました。
この数値を見るとやや高いようにも思えますが、たかだか30年前で1000人中16人だそうで、そもそも古来お産とは命がけの行為であり、むしろ最近は恐ろしいほどのスピードで安全が高まっているのだとも言えるわけです。
そういう意味では、お産が失敗したということで医師を責めるのは、明確な失敗が無い限り酷なように感じます。もちろん心情的にはそう割り切れないのは確かではありますが。

日本では交通事故で年間5000人ほどの人が死にます。1億人の人口で5000人ということは、2万人に一人は交通事故で死ぬ確率があるということです。
この数値は、自分にとって死亡系の確率の基準になっています。交通事故で死ぬより確率が低いのか高いのか、と考えれば、自分がいつも自動車を運転している行動と結びつきやすく、非常に分かりやすく感じるからです。


あまり細かいことを言うと私もボロが出そうなので止めますが、毎時どのくらいか、とか何万人に一人か、という数値を自分の中で納得させるリテラシーというのが、必要だと感じます。

これからますます世の中には数値が氾濫すると思います。それは世界中の人々がセンサーを持ち、それをネット上にどんどんアップしていくからです。
その数値は数年前とは比べ物にならないくらい、今後は正確になっていくでしょう。そうなればなるほど、我々の数値を扱うリテラシーがますますクローズアップされていくことになるはずです。
トンチンカンなことを言う人をいさめる気も無いですが、自分だけは冷静に数値を判断できる力を身につけたいものです。

2014年1月4日土曜日

大きな使命のやらされ感と個人の小さなやりたい感

またまた電機メーカーネタですが、ソニーのリストラについてこんな記事がありました。曰く、こんなリストラの仕方では、働いている人たちの士気が落ちてしまうよ、との意見。

私たちは何となく大企業に務めれば将来は安定していると思いがちです。
しかし、ここ数年の日本の電機メーカーの状況を見ていると、そういう感覚自体がすでに神話の領域に入っているのではないかと私には思えてしまいます。

大きなものに所属して、その中で大きな使命感を持って働く、ということはそれなりに自尊心を刺激し、やりがいを感じるものだと思います。しかし、大きな使命感を満足するためには、その使命が明確であり、その効果が実績として良い方向に現れていると感じることが必要です。
今、大手電機メーカーで起きていることは、使命感が不明瞭であり、結果的に実績が悪い方向に現れていること、しかし、自分の意図せざる「やらされ感」だけが仕事を覆っている、というような状況に思えるのです。

こんな時代ならむしろ、使命の大きさよりも個人が持っている小さな「やりたい感」を満足させた方が良いのではないかと私は感じています。


大きな使命のためには、いろいろな種類の仕事が必要です。
例えば、世界中に同じ商品を大量に販売するとします。
そのためには、まず世界が欲している商品を企画する必要があります。いろいろな要求をまとめて商品の仕様をまとめる必要があります。仕様を満たすために最大の効率で開発される必要がありますし、その品質も十分吟味しなくてはなりません。
設計と試作が終われば、それを最小のコストで生産する方法を検討する必要があります。また、それらを世界中に配送する仕組みを考え、流通を速く安くする仕組みを考える必要があります。世界中に販売網を作り、商品の特徴や知識を販売店に伝える必要があります。また世界の売り上げの状況を把握し、販売が振るわない地域では何らかのテコ入れの必要があります。
こういった全体の仕事を俯瞰しながら、全体として投資以上の利益が出ているか監視する必要があります。それを行なうための計測の仕組みやルールを構築する必要もあります。

どんな仕事も、大きな使命感があるからこそ、適度なやらされ感の下、何とかこれまで回っていました。
しかし上記のどの仕事も、上手い具合に分割され、それぞれ個別の利益構造がきちんと定義されるようになれば、その仕事内の小さな「やりたい感」を満たすような働き方が出来るように思うのです。

例えば,上記の中で流通を速く安くする仕組みを考える、という使命は大きな使命の一部かもしれません。しかし速く安い流通網を作ることによって,その業務だけで目に見える利益が上がるのであれば、この業務自体の使命感を持って働くことは十分に可能です。
流通となると、実際には「小さい」とは言えませんが、それでも一般消費者から見れば縁の下の力持ち的な仕事です。流通の新しい仕組みを考えれば、それは十分創造的な仕事になりうるわけで、そういう意味ではどんな仕事であっても、その中に「やりたい感」を感じることは可能なハズです。

もし自分の仕事が面白くなく、やりたい感よりもやらされ感を強く感じているとするなら、それは自分の使命の設定の仕方が間違っています。あるいは、組織がその人に与えている使命、ミッションの与え方が間違っているのかもしれません。
人はある種の創意工夫を発揮し、自分の意志で行なった業務によって業績が上がったと感じるのなら、必ずやりたい感がそれに見合って上昇するものです。
逆に言うなら、個人のやりたい感を向上させるには、より使命を分割して、その人の能力にあった仕事で、その人が個人の意志で存分に働いてもらう環境を作らねばなりません。


しかし、大企業が社内だけで、そのような業務設計をすること自体、かなり難しい話です。社内政治も絡んでくるし、どれかの仕事がないがしろにされやすい状況も生まれてくるかもしれません。

企業形態として、水平分業か垂直統合か、という話はよく聞きます。
日本の大企業はこれまで垂直統合的でしたが、例えばApple, Amazon, Googleのようなアメリカの優れたIT企業並に優秀なトップがいるのであれば、それは素晴らしく上手く回るのですが、どうも現在の日本企業の場合、そのような状況は望むべくもありません。なぜなら、日本では経営能力がきちんと定義されておらず、そういう人がきちんと経営者になる仕組みが出来ていないからではないでしょうか。

それなら、今の日本では水平分業のほうがもっと効率的な社会が作れるのではないかという気がしています。
上記で挙げたいろいろ種類の仕事が全て別会社として独立し、それぞれの小さな会社がそれぞれの「やりたい感」を発揮してそれぞれの利益を追求すれば、全体として最適化した分業体制となり、結果的には利益も増え、国全体、社会全体がよりよい方向に向かうと思うのです。

今自分がしている仕事をベースにしつつ、個人個人が独立して採算が取れるような努力をすることが、むしろ今の日本に必要なことではないか、あるいはそういう圧力が少しずつですが私たちに迫っていると感じています。

もしこれから社会がそのように移行していくのなら、今私たちが心に中に秘めている小さな「やりたい感」を見つめ直し、それを少しずつ明確な形にしておくことが、これからの時代を生き抜くためにも必要なのではないでしょうか。



2013年12月7日土曜日

秘密を保護するのって難しい

もちろん、今回の話題は夕べ国会で成立した某法律に触発されて書いているわけですが、私自身はこの法案に対して政治的に特に賛成とか反対とか言いたいわけではありません。従って,以下は政治的な主張とは全く違う次元で書かれていることをご承知おき下さい。


私には、現実問題、秘密を保護するのってとても難しいよな・・・という気がするのです。
例えば、子供の頃「誰か好きな人いる?」とか聞かれるときどう答えますか。もちろん、聞く側は私が誰を好きか具体的な人の名前を知りたいわけです。
1.好きな人の名前を教えてあげる。
2.「好きな人はいるけど教えない」と言う。
3.「好きな人はいない」と言う。
4.ひたすらはぐらかす。
まあ、反応としてはこんな感じでしょうか。
もし自分に好きな人がいるならば(そしてほとんどの人はいるに決まってる)、3の答えは明らかに嘘です。
しかし、3で答えた場合、それが嘘かどうか確かめる術も無く、尋ねる側もこれ以上面白い回答が得られないと断念するのでそれ以上この話題には触れなくなるでしょう。

それに対して、答えた側は嘘をついたことで自分の良心に負荷がかかります。
この程度の話題なら、まあそこそこに嘘を付くこともあるでしょうし、人はそういう嘘のつき方を覚えながら、みんな大人になっていくものですが、逆に大人になるほど面倒な秘密も増えていきます。


例えば、私のようにメーカーに勤めていると、社外の人からこういうことを尋ねられることがあります。
「○○の新製品っていつ出るんですか?」
これに対する答えはいくつか考えられます。
1.いついつに何々が出ますよ、と教える。
2.今開発してるけど、いつどんなのが出るかは言えない、という。
3.開発していない、という。
4.それは秘密、という。
5.ひたすらはぐらかす。
1は企業秘密そのままバラすのでヤバいです。2も新商品を作っていることを言ってしまっているので、ある程度の情報が漏れているとも言えます。3は上で言ったような嘘であり、数ヶ月後に実際に商品が出るとそれが嘘であることが明確になってしまいます。
4.は正しいけれど、むちゃくちゃ勘ぐられます。「あー、やっぱり作ってるんだ」みたいな反応をする人もいるでしょう。たいていの場合、人は「秘密」と言われるともっと知りたくなるし、一度知りたくなる気持ちに火が付くと、逆にあらゆる手で探ろうとするかもしれません。今のIT時代にはそれは十分恐れるべきことです。


そんなわけで、もし相手が知りたいことが、こちらの秘密にしたいことだった場合、秘密が無いようにみせかけ、嘘もつかずにスルーすることは論理的に大変難しいことではないかと思うわけです。

たいていの場合、最初の例のように嘘をつくわけでしょうが、それはその時の常識で正しい判断だったとしても、数十年後の常識で正しいことなのかは誰にも分からないし、下手をすれば数十年後の常識で糾弾されかねない怖さもあります。

当然のごとく、国家や組織の利益を損ねないようにするためには、ある種の情報は秘密でなければいけません。
しかし、秘密を守るためには、何が秘密か定義しなければならず、もしその定義が揺れ動くようなら、守るためについた嘘が今度は犯罪になる可能性もある、という気がして、こういったルールの運用は大変難しいのではないかと個人的には感じてしまうのです。


2013年11月23日土曜日

インセンティブを設計する

長い間、技術者として仕事していたためか、真実とか、原理原則とか、公平性とか、そういうことを追い求めることこそ大事だと思ってきました。それについては、もちろん今でも正しいことではあると思うのですが、時としてそういう客観的事実だけを声高に主張してもうまく回らない、ということも歳を取るごとに感じます。

集団が大きなパフォーマンスを上げるためには、所属する人々が協力せねばなりません。正しいことを追い求めようとする意志だけでは、人々はなかなか動いてくれません。
ちょっとコワい人がカリスマ的に人を引っ張ることもありますが、能力とカリスマが備わったスゴい人というのはそう多くはないし、そういう人が一種の恐怖政治を行なったあげく、結局外部から批判の的になってしまうようなことは、ニュースでも度々聞かされます。

以前この本を読み、深く共感したのですが、人々が健全に協力し合うためには、「やりたい気持ち」をいかに刺激していくか、が大事だと考えます。
やや過激な言い方をすると、人間はインセンティブの奴隷なのです。その人が楽しいこと、気持ちいいことは何なのかをよくよく観察すれば、人はただ自分の欲望に従って生きているだけに過ぎないことが分かります。

欲望というとマイナスのイメージもあると思います。しかし、欲望というのは単にお金が欲しいとか、好きなものが手に入る、といったことだけでなく、人に感謝されたり誉められたりするという些細なことも含まれます。
イヤなことを回避しようとする気持ちも、一種の欲望です。自分が正しいと思わないやり方であったとしても、指示した人から後で咎められることが精神的な負荷になるのなら、それを回避するために自分の意志を曲げることもあるでしょう。こんなことは誰もが日常茶飯事にやっているはずです。

とはいえ,一人一人の心理は大変複雑だし、自分が考え抜いて良かれと思ってもちっともインセンティブを刺激できなかったりすることも良くあること。
そういう意味で、難しいのはお金の扱いです。
お金は当然人々を動かす大きなインセンティブです。
しかし、お金をいくらあげるからこの仕事をやってくれ、というのはビジネスでは当然だとしても、そうでない場ではむしろ失礼だったり、逆に手を抜かれたりする可能性もあります。むしろ、何かを頼んでやってもらった後に、お礼としてお金を渡すほうがお互い気持ちいいものです。
単純に渡す順番の問題なのに、それだけでそこで生み出されるアウトプットの質が変わってくることもあるのです。

その一方で、プロ野球選手が年俸にこだわったりするのは、その金額がお金の多寡というより自分の評価という側面が強いからでしょう。
そういう場合、金額は強いインセンティブになると思います。

お金にまつわるインセンティブ設計は、いろんな要素があり、なかなか難しいと思います。他人に公開されるのか、そうでないかにもよるでしょう。
1万円前後なのか、100万円単位の話なのかでもずいぶん違うでしょう。

しかし原則は、ある人の仕事をリスペクトしたことがお金でうまく表現できていることなのだと思います。事務仕事的にこなされると、リスペクト感が伴わず、頼まれる側のモチベーションは下がります。
逆に金額が少なくても、きちんとリスペクトしている気持ちが十分伝われば、それは仕事をする側にとって大きなインセンティブになるのではないでしょうか。


2013年9月29日日曜日

一人で生きることとみんなで生きること

社会の中で生きていくということは、多くの人たちと一緒に生活を共にし、ルールを決めてときには罰したり、逆にお互い助け合ったりしながら、生活の機能を分担して豊かな暮らしを享受しようということです。

とはいえ、集団の中で生きていくことが時に息が詰まるような苦しさがあったり、逆に自分がみんなをまとめる立場なら、ルールを守らない人々や自分勝手な人々の言動に手を焼いたりすることもあるでしょう。
そしてそんなとき、ついついもうこんな人たちとは一緒にやっていきたくない、と思うこともあるかもしれません。いや、まあ人生なんて、実際そんなことの連続です。

大ざっぱに言えば、日本的な社会では「こんなところでやってられない」と思ってもそれに耐えようとするメンタリティが強く、一般的な欧米の社会では、自分の属する集団を変えていくことにそれほど抵抗が無いように見えます。
そして、昨今のIT化は、人々のホンネが可視化され、結果的に人々をますます集団よりも個人の気持ちを大事にする方向にシフトさせているように感じます。一度ホンネを言い始めた個人は、それを正当化するために自分の主張を言い続けます。こういったスパイラルはますます人々の気持ちを集団から引き離す作用を及ぼすことでしょう。


しかし、それでも人が集まらなければ出来ないことは世の中にはたくさんあるはずです。
そもそも人類は人々が協力し合うことによって進化し、発展してきました。
一人の人間の持っている能力や時間は小さくても、それを集約すれば大きなことが可能になります。
例えば、一台の自動車を作るためには、たくさんの部品を設計しそれらを組み合わせねばなりません。もはや一人の人間がその全てに精通することなど不可能なことです。
あるいは毎日の食事で、いろいろな食べ物を食べることが出来るのは、世の中にいろいろな食べ物を提供する人々がいるからです。自分一人で自分の食べる物を作ろうと思えば、同じようなものを延々と食べ続けるしかありません。たかだか100年くらい前までは、そのような人々もたくさんいたと思います(もちろん世の中にはまだそういう人たちがいますが)。
そういう巧妙な分業体制があるからこそ、私たちは今の豊かな暮らしを享受できています。こういうことは、人々が協力しながら、分業を進めてきた歴史の集積のおかげです。そのためには人々の協力関係は不可欠だったし、それはこれからも変わることは無いでしょう。


当たり前だけれど、一人で生きていくことは不可能です。
単に必要なモノを手に入れるということだけでなく、人は他人からいろいろな影響を受けて生きています。自分だけが持っている個人的な性向はあるにしても、人から面白いものを教えてもらったり、常識を刷り込まれたりしながら自分自身も常に変わっています。

それでも、集団に依存して生きていくことと、自分が一人で生きていこうと考える比率を少しずつ個人側に変えていくことは可能でしょう。
あるいは、今後個人を重要視する世の中に変わっていくのなら、集団に対する自分のスタンスももう少し変えていくべきなのだと思います。今世の中で起きているおかしなニュースの数々もそういった個々人の常識のズレから発生しているように思えるからです。

明らかに世の中のベクトルが個人側によっているのなら、人々の協力関係をうまく維持しながら、新しい集団との付き合い方、集団のあり方が生じてくるべきです。
そして、そういう潮流をうまく嗅ぎ取って個人も戦略的に行動することが必要だと感じています。

2013年9月21日土曜日

オンライン教育と社会の効率化

昨今、大学の授業がオンライン化されている、という話題を聞くことが多くなりました。
先日見たテレビ番組でも、有名大学の講義を無料でインターネットで受講することが出来、レポートや課題を提出すれば単位も取れる、といった内容を放送していました。そこで優秀な成績をとった若者が、モンゴルの田舎やブラジルの田舎から、シリコンバレーの会社からオファーを受けて入社したりした事例なども紹介されていました。

教育を受ける側からすると、今までの学校では受け身の授業のみだったものが、意欲と才能があればお金が無くても最先端の教育を受けられる機会が増えることとなり、人によっては大変喜ばしい状況が生まれているのです。
しかし、その一方、勉強が好きで好きで仕方がない、というメンタリティを持った人は私が想像するにそれほど多くなく、全てが本人のやる気に還元されるその仕組みは、否応無く本人の気質を露呈させることになります。

このようなオンライン教育が何となく空恐ろしく感じるのは、そういったところにあります。
私とていろいろなスキルが身に付くことは大変嬉しいことだけれど、学生時代、好き好んで授業を受けていたかというとやや疑問も感じます。むしろ勉強好きは、ガリ勉などと言われて蔑まれるような雰囲気さえありました。
そう考えると今までの教育とは、単にみんながやっていたから自分もやっていた、ということに過ぎなかったという気もします。

ネットの本当のコワさというのは、どこまでも人々の欲望を満たそうとすることによって、逆に人間性が丸裸になってしまうということにあるのかもしれません。
いくら、勉強して最先端の技術を持っている企業に入ることがスゴいことだとしても、誰もが一人でコツコツと勉強し続けるモチベーションを保っていられるわけではありません。
大人になって、このような職業にしか就けなかった責任は、以前なら他の何かのせいに出来たのに、これからは全て自分にあるという事実を各自が突き付けられるのです。

もちろん、学ぶことは何歳になってからでも可能です。
オンライン教育は自分が改心して、より高くステップアップするためにいつでも開かれています。だから、より一層、自分が今現在どう生きたいか、ということがやはり丸裸になってしまうとも言えます。


こういった現象を社会全体でマクロ的に見てみると、賢くてモチベーションの高い人々が同じような場所や境遇に集中する現象が、どんどん加速していくように思えるのです。それはITが社会を徹底的に効率化する、という基本的なベクトルを持っているからに他なりません。
そのようなITが目指す世界観とは全く逆に、これまでの日本では社会全体が非常に均質だったわけですが、この中から優秀な人たちだけが一人抜け,二人抜け、という現象がこれから至る所で起こるでしょう。
そうなったとき、優秀な人たちが何とか回していた組織が、まともなアウトプットを出せないようになり、少しずつ瓦解を始めるようなことも起きるかもしれません。
そうすれば組織は、優秀な人が抜けないようにする、ということも真剣に考えなければいけなくなるはずです。今まではあまりに優秀な人たちが冷遇されていたと思うからです。

このようなことが加速度的に高まれば、優秀な人々とそうでない人々は社会の中でどんどん分離をおこしていくのではないでしょうか。そしてそれは思わぬ変化を世の中に起こすことになるでしょう。
優秀な人たちとそうでない人たちが社会的に分離されると、双方の趣味や嗜好の違いもどんどん激しくなるでしょうし、話される言語や常識、倫理観まで集団によって大きく乖離していく気がします。
もはやお互い分かり合えないような地点まで行って政治的に対峙するか、一部の優秀な人たちがその他大勢の人々を精神的にもコントロールしてしまうような状況になるか、そのようなSF的な未来が訪れるかもしれません。

そして、今こうしてそれを薄気味悪いと感じる倫理観もまた、世代が変わるごとに当たり前のものになっていくのかもしれません。