前回紹介した「金と芸術」によると、クラシックはハイアート、ポップスなどの大衆芸術をローアートと仮に称して、このハイアートとローアートの非対称性について語っています。
ローアート側の人は、ハイアートに対して尊敬の念を持つが、ハイアート側の人はローアート側を見下す。人々の芸術の嗜好そのものが社会的階層と密接に繋がっており、その二つの不均衡さが非対称性ということ。日本では若干、状況は違うような気もするのですが、どのような芸術を楽しむのかということが、その人の社会的地位を示す一つの尺度として機能するという要素はあるのだと思います。
実は、私がクラシック音楽で時々違和感を覚えるのは、クラシックに携わる人、あるいはマニアな方々にはびこる権威主義的な態度です。有名演奏者、オーケストラを聞きに行くためにはいくらでもお金を出して、賞賛を惜しまない。そういった態度の中には、本当に分かって言っているのかアヤしい言動もあるし、権威を利用して自分の判断を正当化しようとする魂胆が見え隠れします。
例えば、○○コンクール優勝とか、コンセルヴァトワールに留学とか、そういうのも権威として機能している重要な言葉。しかも賞賛する言葉って、音楽の具体的なことじゃなくって、豊かな響きがどうのこうのとか、力強さと繊細さを兼ね備えてどうのこうのとか、何やら抽象的で感覚的なことばっかり。
「権威が認定したスゴイもの」というのは、私たちの評価にとても影響を与えます。誰とても権威筋の判断とは無縁にものごとを判断することは出来ないのは確かなこと。
それでも、その権威を借りて知らないうちに自分の意見と同化させてしまうのって、見ていて気持ちの良いものではありません。常識知らずで恥ずかしいと思われるのも嫌だけど、もう少し自分の力で芸術の本質を見抜こうとする努力をしないといけないし、わからないことは分からないと謙虚に言うのも大切だと思うんですけどね。
��ひとつささやかな権威主義の例: モーツァルトのレクイエムで、あなたはジェスマイヤーが書いた部分は音楽的に質が低いと思いますか? もしかして、その意見はモーツァルトという権威に対する安心から起こったものだとは思えませんか?)
はじめまして
返信削除モーツァルトのレクイエムを聴いたのは20代前半でしたか。FMで聴いたブラームスかフォーレのレクイエムに感動して、大学生協にあったモーツァルトのレクイエムを代わりに購入して聴いたところ、凄いなと感じました。それはベーム・ウィーンフィル盤でしたが、解説は見なかったので、ジェスマイヤーの補筆を知ったのは1年後位後でした。さらに問題にする方々いると知ったのは7、8年後くらいでしたか。
音楽に限らず、芸術作品を鑑賞する時は、解説は脇へ置いて自分の耳、目から味わうに限ります。直ぐに本に頼る人を見掛けると、小説か哲学など言葉の分野の方へ勧めたくなります。 まあ、日本人は読書好きなんでしょうか?!
ところさん、こんにちは!
返信削除合唱団にいると、練習しているときから「ここはジェスマイヤーが書いたんだよね」なんて話になります。その時点で、どうしても「ジェスマイヤーの書いた部分はいまいちだよね」なんてふうに刷り込まれてしまうんですね。
もし自分がその事実を知らなかったらどう聞いていたか、そういうことを考えると、頭でっかちになるのも考えものですよね。
同感です。
返信削除権威がはびこっているために正当に評価されないクラシック音楽家もいることでしょう。
コンクールもどこまで公正なのか、疑問を感じることもあります。
あまがえるさん、いくつかコメントをありがとうございます。
返信削除何となく感じているクラシック音楽に対する不平、不満をなかなか的確に言い表すのは難しいです。
それにしても、一つのジャンルが衰退する兆候は、権威主義がはびこったときだと私は思います。
何が正当か、というのはまた難しい問題ですが、一人一人が自分の言葉で意見を言い合えるような環境がまず大事ではないかと考えています。