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2017年8月26日土曜日

限界費用ゼロ社会

限界費用ゼロ社会を読みました。

サービスや製品の変動費がゼロに近く社会が訪れ、いずれ企業は儲けが出せなくなり、資本主義が終焉を迎えるという話。
その時代には協働型コモンズが台頭し、その仕組みが世界の新しい秩序になっていくだろうと予言されています。

とはいえ、私たちはあまりにお金で暮らす世界に慣れ過ぎていて、儲けが必要のない社会というものが想像できません。
お金が無ければ生活できない今の時代において、お金をどれだけ儲けるかが労働の最大の関心であり、企業活動の最大の目的となるわけで、お金に変わる価値とその価値交換の仕組みが想像できない以上、私たちは全てを金銭的価値に換算するしかありません。

そのことをずっと考えているのだけれど、今のところ、まだ私には糸口も掴めない。
例えば、限界費用がゼロになるのなら、身の回りのものがどんどん安くなるはず。確かに実際に安くなっているものもあるけれど、家を建てれば相当なお金が必要になるし、教育だって、医療費だって、今よりも未来の方が安くなって楽になっていくだろうとは誰も思っていません。

むしろ、必要な人件費を誰も払えなくなり、供給側も先細り、結果、人々も必要な製品やサービスを受益できなくなる不安に皆が怯えているようにも思えます。

◆◆◆

しかし、最近ちょっとだけ何が変化のきっかけになるかが見えてきたような気がしているのです。
簡単にいえば、「寄付」が次世代の新たな取引形態として中心になるのではというアイデアです。寄付といっても、もう少し広義のもので、今の時代に法的に定められたものとは少し違うかもしれません。

もう少し、いまどきの流行りでいうとクラウドファンディングのような経済です。
なんだ今さら、と言われそうですが、確かに私もそこまで重要なものになるとは思ってませんでした。
というか、現状クラウドファンディングもいまいち広がってない感じもしますね。

◆◆◆

なぜ製造業が大変かというと、製造施設を建設し設備を整え、試行錯誤しながら商品開発を行って、それらをある程度の数だけ販売して始めて投資の元が取れるわけで、この初期のハードルが非常に高いからなわけです。

しかし、ここ数年、このハードルを低くするための仕組みがどんどん現れています。
まずそもそも自分で工場は持たず、汎用性のある設計をすればファブレスでも他の工場でものは作ることができます。(と言っても多くのスタートアップはここでこけているわけですが)
商品開発も、3DプリンタやIoT機器、Web・スマホとの連携、汎用部品の広がりなどでゼロから考えなくても、多くのオープンソースの助けでラピッドプロトタイピングができるようになりました。

そして、必要な投資は借金や投資家の助けを得るのではなく、クラウドファンディングという名の寄付によって行うわけです。
これら一つ一つの流れがさらに加速すればするほど、製造業の起業のハードルは下がっていくことでしょう。

◆◆◆

で、限界費用ゼロ社会での新しい経済システムとして、寄付型の資金調達がどのように絡んでくるのでしょう。

このような時代に人々が購入する消費財というのは、限界費用が下がることでますます安くなるのですが、ものによってはそれがあるところで踏みとどまるのではないでしょうか。

消費する行為自体が自己表現であり、人と違っていたとしても自分が本当に気に入った製品が欲しい、という流れがさらに強まるのではと思います。
もう少し具体的にいえば、消費財の売り手が大量に増え、その結果、世界中に数え切れないほどの種類の製品が生まれるような現象が起きます。
極端にいえば、自分の欲しい商品をオーダーメイドで作ってくれる業者さえ現れるでしょう。

例えば、テレビを新規に買うとします。
置く場所のサイズや位置が決まっているので、縦横、奥行きを全て計測して、ぴったりのサイズが嬉しいし、リモコンのタイプ、音響システム、録画システムやネットとの接続、場合によっては好みのOSの選択、という要素もあるかもしれません。

こういった情報を検索すれば、世界のどこかで自分に合うテレビを作ってくれる業者が見つかります。
そういった商品はちょっと値段は高めかもしれませんが、世界に一つだけのオリジナルな商品となります。そのような一対一の関係であれば、商品にお金を払うというより、彼らの仕事に対して寄付をする、という考えのほうがむしろ気持ちにしっくりきます。

作る側も、モノを売って儲けるのではなく、定期的に寄付してもらうほうが収入が安定して嬉しいし、自分のファンの人たちへの濃密なアフターサービスも可能になります。

オーダーメイドであっても一台ごとの経費を計算しなくて済み、常に自分の活動全体の収支を考えればそれで十分です。

◆◆◆

あー、やっぱりうまくまとめられない。

製造業は寄付型、サービス業はサブスクリプション型、そして大企業はBtoBに移行し、部品開発、流通、量産といった業態になるというのが私の意見。

それをもう少しうまくまとめられればいいのだけれど。

2015年8月16日日曜日

ネアンデルタール人は私たちと交配した

ひと月ほど前、NHKスペシャル「生命大躍進」でネアンデルタール人の研究者として登場した研究者が書いた本ということから、この本を知りました。
一見、学術書のように見えますが、この本は著者スヴァンテ・ペーボ博士のほぼ完全な自伝書。
ある程度、細かい研究内容も書いてあるのですが、ペーボ博士がどのような紆余曲折を経ながらこの研究にたどり着き、そして大きな成果を上げてきたのか、私生活まで赤裸々に明かしながらも、その研究生活が克明に記録されています。

そして何より、一人の優れた研究者がいろいろな状況に翻弄されながら、様々な人たちに評価され、大きな仕事を任されるようになり、そして最後に素晴らしい研究内容を世界に公表する、という研究者としてのリアルなサクセスストーリーが、読んでいてとても爽快です。
スウェーデン人であるペーボ博士がアメリカ、ドイツと世界各国の研究所からオファーを受け、実力本位で重要な地位につけるというのは、タコツボ化した日本の大学研究室の状況とは一線を画しており、そういう点で大きな羨望を感じつつ、欧米諸国のリアルな研究の現場を知ることが出来るのも本書の面白いところ。(論文を雑誌に寄稿する際の様々な駆け引きとか)

そもそも、このペーボ博士は、単なる知識追求型の学者ではなく、とてもロマンチストな方なのだと思います。
医学や分子生物学を専攻しながらも、古代エジプト研究への想いを忘れられず、ついにミイラのDNA解析を始めてしまったのが、ペーボ博士のキャリアのスタートです。
古代への憧れとDNA解析を合わせることで、専門と興味を一緒にしてしまったのです。そして博士の興味はミイラからネアンデルタール人に向かいます。

それも、やはりロマンから来たものでしょう。
数万年もの間、人間とネアンデルタール人は不思議な共生期間がありました。それについては私も以前こんな本も読みました
その期間、お互いどんな気持ちで双方を感じていたのでしょうか?
ネアンデルタール人が最終的に滅びたのは事実ですが、だからといって単純に人間、ホモサピエンスがネアンデルタール人を駆逐したという結論とするのは乱暴すぎます。
そして、それに対する疑問の一部がDNAから明らかになったのです。

2010年、ペーボ博士のチームは長年の研究の末、ついにネアンデルタール人のDNA配列を発表します。
そして、さらに調査した結果、アフリカから出たホモサピエンスの中にネアンデルタール人由来の遺伝子が組み込まれていることが分かったのです。その遺伝子は、アフリカに残ったホモサピエンスには組み込まれていません。

つまり、ホモサピエンスはネアンデルタール人と交配、つまりセックスをしていたのです。
この感覚は、もうなんとも言えない不思議な気持ちですね。
何万年も前の人間が生きている環境も分からないし、ましてやネアンデルタール人の生態も分かりませんから、その事実が恋愛を伴うものなのかどうかもさっぱり分かりません。

でも、太古の出来事を夢想すること自体がロマンなのであり、こういう研究に心惹かれる気持ちは、私には理解できるつもりです。
今後も人類進化に関する幾つかの重要な発見もあるかもしれません。
ネアンデルタール人研究には、これからもロマンを感じながら注目していきたいと、この本を読みながら思いました。


2015年1月16日金曜日

2040年の新世界


邦題には「2040年の新世界」とありますが、オリジナルのタイトルは「Fabrifated: The New World of 3D Printing」であり、この本は3Dプリンタにまつわる話題について書かれたものです。

近頃、3Dプリンタに関する話題が増えていて、何となく面白そうなツールだなと思っている人も多いと思いますが、その潜在パワーを侮るなかれです。
この本には、3Dプリンタに関する様々な取り組みや実践例、そして可能性が紹介されています。
その一つ一つはこれまでも聞いたことのある話ではあったのですが、それらを一通り読んだ今では、これからとんでもない世の中になってくなあ、という印象を持ったのです。
3Dプリンタすごいです。未来は予想以上の速さで変化しますよ!


最近聞くようになったのは、3Dのバイオプリンタやフードプリンタ。
バイオプリンタとは、生物の臓器を作ってしまうというプリンタ。細胞(バイオインク)を何らかの構造物に吹き付けて臓器を作り上げていくわけです。
病気になった臓器を取り替えるだけでなく、老化した臓器を交換していけばいつまでも若々しい体を保つことが出来る、という夢のようなお話なのですが、もちろん現実はそれほど簡単ではありません。
研究はまだまだこれからですが、こういった技術が荒唐無稽なものではなく、実際に実用化される可能性があるということを知っただけでも驚くべきことです。

フードプリンタはその名の通り、食べ物を出力します。
現状でも、すでにチョコレートや、クッキーなどはプリンタで出力可能なレベルにあるのです。また、いろいろな栄養物を自由に混ぜ合わせることができるので、例えば個人の身体の状況に合わせてカロリーメイト的な完全オーダーメイドの栄養食品を作ることが可能になります。そうなれば、自分の健康管理にこういったフードプリンタが使えるわけです。
ただし、素材を趣向を凝らして料理するのとは違うので、プリンタから出力された食べ物がどれだけ美味しく感じるかはやや疑問もありますが。


3Dプリンタで何かを作ることは、そもそもこれまで組み立てて作られてきたものとは発想を変える必要があることを、この本では繰り返し説いています。
3Dプリンタは物体の内部をいきなり出力してしまうことが出来ます。
今までなら、中の部品を作って、それを覆うような筐体をネジなどでカバーして何かを作り上げていくわけです。世の中の機械類は、そういう作られ方をされることを前提としてデザインされています。

ところが、3Dプリンタを使えば、内部を分解する必要が無ければ、いきなり内部構造をプリントしてそれを密封することが可能です。
最近は電子回路そのものをプリントするといった研究もされていますから、基板の上にICチップや電気回路をハンダ付けして電子回路を作っていますが、回路図を書くだけでそういった電子回路が埋め込まれたブロックのようなものをプリントすることが可能になるかもしれません。
そうなると、あとは本当にレゴで何かを作るように、世の中の様々な電気製品を簡単にはめ合わせるだけで作れるようになるかもしれません。


後半では、3Dプリンタからやや飛躍して、未来はどのようにモノが作られるようになるのか、といったことについてもかなり刺激的なことが書かれています。

現在、プリンタから出力されるデータはCADを使ってデータ化しますが、CADは物体の形状を全て手作業で書かなければなりません。
例えば、自然に生えている「木」のような造形物は非常に複雑であり、これをCADで正確に表現するのは大変な作業です。
ところが、木の幹からどのように枝が生えるか、というルールは比較的シンプルであり、木の形状とあるランダム性を掛け合わせた木の成長ルールをスクリプト化すれば、木のような複雑な構造物もそれほど手間をかけずにデータ化することが可能なのです。
実はこういう手法はすでにCGの世界では一般的なのだそうです。私は知りませんでした。

こうして、造形そのものをデータ化するのでなく、造形が生成されるルールをスクリプト的に記述することによって、より複雑で自然に近いものを簡単にプリントすることができるようになります。
さらには造形物の振る舞いを記述して、動きのあるものをプリンティングする、というようなことも可能になるかもしれません。

そして、ついに3Dプリンタが自分自身を作ることができれば・・・それはもはや自己複製が出来る生物と同じであり、新しい生命が誕生したとも言えるかもしれないのです。
もはやSF的、哲学的な話題ですが、そのようなことを想像する楽しみも与えてくれます。


テクノロジーとは、いまや単なる新しい機械が現れることではなく、私たちの生活や常識や社会のあり方や、政治、国家のあり方にまで影響を与えることになるでしょう。
そして、その中で3Dプリンタ的なものが果たすべき役割も、相当大きなものになるのではないかと私には思われるのです。

2014年4月18日金曜日

ビッグの終焉

Kindle版で読みました。
もちろん、Kindleのハードを持っているわけでなく、読んだのはiPhoneやiPad上です。
iPhone上で読むのは、画面が小さ過ぎてややつらいものの、この本の内容の面白さに、ページをめくる指が止まりませんでした。
自分の気に入った本だと、やっぱり物理本のほうが良かったかも・・・

さて、なぜそんなに気に入った本だったかというと、それはやはり自分の興味を持っていることにストレートに答えてくれている内容だからでしょう。

これまでもこのブログで書いてきたように、時代が大きく変わりつつあり、大きな組織より、個人が活躍する時代になるだろうと私は言い続けてきました。
もちろん、私などが言うまでもなく、こういった言説は至る所で語られているわけですが、こうやっていろいろな事例がまとまって書いてあるとその説得力は数倍になります。

この本で語られる「終わりになるだろうビッグ」は、次のようなものです。
報道機関、政党や選挙、エンターテインメント、政府、軍隊、教育や権威、会社。
いずれも今の時代、大きな組織として君臨しているものですが、それらは今後規模が縮小し、個人に負け始めるという現象が起きるだろうと予想しているのです。

しかし、本書の面白いところはビッグが終焉を迎える、ということだけでなく、それによる負の側面もきっちりと描いているという点です。
例えば、エンタテインメントの世界において、音楽アーティストは自力で音楽を発信することが可能になり、また作家は自力で本を出版することも可能になりました。今まで彼らを支えていたレコード会社や出版社といったビッグな組織が非情に厳しい状況に陥っている半面、音楽はAppleがiTuneで抑えてしまったり、本はAmazonが抑えてしまったりしています。つまりビッグよりさらに大きなビッグの台頭を許してしまっているのです。

AppleやAmazonはプラットフォーム側にいるということを強く意識して行動しているので、私たちは彼らが重要なプラットフォーマーになっていることをあまり認識していません。
確かにアーティストも、それを享受するファンにも良い時代にはなったのですが、莫大な利益が実はプラットフォーマーに落ちており、彼らの気持ち一つで市場のルールは簡単に変えられます。しかし、それはあまり好ましいものではありません。

それから、教育や会社については、今後ますます個人が活躍するようになると、間違った言説や品質の悪いものが世に流通してしまうという問題が生じます。
大きな組織だったからこそ、品質とか、内容の正しさとか、ある種の倫理観にそって個々人が行動できていたのですが、そういうタガが外れると、巷には面白いかもしれないけれど粗悪なものが蔓延する可能性があります。

それがどのように解決されるかはまだ著者にも私にも分かりません。
しかし、大きな組織が崩壊し、個々人は頑張れば報われるような社会こそ、私たちにとって理想なのであり、そういう価値観が社会に浸透するまでの期間、自分はどのような行動を取れば良いのだろうと考えさせられる一冊でもありました。。

2013年11月10日日曜日

失敗の本質

Kindle版で「失敗の本質」という本を読んでみました。
タイトルが抽象的過ぎるので、いわゆる失敗学的な汎用的な話と感じるのではないかと思いますが、この本は実は太平洋戦争(文中では大東亜戦争と呼ぶ)時の旧日本軍の作戦の失敗の事例を研究した本です。

昨今、大手日本企業の迷走ぶりを戦争時の旧日本軍の戦術の稚拙さ、戦略の欠如と関連づけて語られることが増えてきているように思います。
私自身は戦記物とか、戦争時の戦略とか作戦とか、そもそも戦争に関わることは、これまでほとんど興味は無くスルーしていたのですが、電子書籍ならいいかとついついポチッとしてしまいました。

しかし、これは確かに面白い。
もし、自分が戦争の現場にいたらと思うと空恐ろしいけれど、こうやって本を読みながら、客観的に戦争の有り様を捉えてみると、教訓めいたものがいろいろ得られるものです。そして戦争というのは、大量の兵士と優れた兵器だけでなく、情報制御や補給など多面的な要素があることを思い知らされます。

本書は3章構成。
第1章は、具体的な事例の紹介。ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インバール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦、の6つの事例について、何が起きて、何が原因でどのような負け方をしてしまったのか、ということについて詳しく解説されています。
第2章では、その失敗の分析、そして第3章ではそれから得られる教訓がまとめられています。


いやー、しかしあれだけたくさんの人が死んだというのに、全くもって上層部では現場(戦場)とは別世界のまるで統制が効かない状況があったのですね。
考えてみれば、これは現在の企業活動でも同じ。現代の企業活動とのアナロジーは第3章でも語られていますが、現場がどれだけ頑張っていても、上層部では責任を曖昧にしたり、強硬な主張に誰も反対出来なかったり、相互不信が情報の流通を妨げていたり、そしてそういうことの連続が結局戦局を悪化させてしまった、という事実が赤裸々に描かれており、その教訓は今もなお有効です。

こういう世界の恐ろしさは、戦死は結局は数字でしかないということ。
ただし、そういう冷徹さが無ければ戦略もきちんと立てられない。
何しろまずいことは、自分たちは戦うためにその場所にいるという使命感から、死ぬ恐怖より戦いたいという意志が勝ってしまうことです。それは集団であるからこそ、そのような高揚感で現実感が見えなくなってしまうのです。
挙げ句の果てには、勝つための工夫よりも特攻、玉砕といった行動を礼賛する方向に向かっていきます。

インパール作戦での牟田口中将の言動なんて悪夢でしかありません。
戦争全体の戦略が無いまま、こういった思い入れの強い個人が勝手に戦争を動かしていたという事実が空恐ろしく感じました。


第3章でまとめられている内容は、まさに今の日本人に対する提言でもあります。
今と言っても、この本は1985年に第一版が出ているのですが、それでも内容が全く色褪せていないということは、日本人は25年前から、いや70年前から本質的には変わっていないということなのでしょう。
具体的には
・一度上手くいった方法が変えられず、組織内の規範が硬直化していく。常に自己改革できる仕組みが必要。
・戦略の不足。
・階層がありながら情緒的な人的結合で構成された組織。ロジカルな指揮系統が出来ていない。
といったようなこと。
どうでしょう。既視感ありまくりじゃないですか。

こういった私たちのメンタリティはそうそう変わるものとは思えませんが、しかし、その結果、太平洋戦争でどのような愚かな決断がまかり通っていたのか、それを知るだけでもこの本の価値は十分あると思うのです。


2013年9月7日土曜日

内向型人間の時代/スーザン・ケイン

なかなか読書が進まず、読むのに3ヶ月ほどかかってしまいました。
しかし、これは非常に示唆に富む面白い本でした。それはきっと自分が典型的な内向型人間だという自覚があるからでしょう。

著者はアメリカ人。
当然ながらアメリカでは、外交的で明るく、社交的で、言葉遣いが巧みで、人と話をすることが大好きな、エネルギー溢れる人間が社会的には高く評価されるわけです。

しかし、内向型人間は大勢の人と話すと疲れ、一人になって何かに没頭することを好み、広く浅い付き合いより狭く深い付き合いを好みます。こういった人々は、一般的には社会的に表に出るようなタイプにはならないわけですが、本書では内向的な人間でも立派な仕事をした人々の例を挙げ、また内向的ゆえのメリットを生かすことによって、これからは内向型人間でも大きく活躍し得るということを主張します。
著者自身も内向型人間であることを、まずカミングアウトします。その上で展開される論考は著者自身の感情を強く反映しており、それだけに共感するところが大変多いのです。

序章で、内向型人間の特徴を20項目挙げています。
1.グループよりも一対一の会話を好む。
2.文章の方が自分を表現しやすいことが多い。
3.ひとりでいる時間を楽しめる。
4.周りの人に比べて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味が無いようだ。
5.内容のない世話話は好きではないが、関心のある話題について深く話し合うのは好きだ。
6.聞き上手だと言われる。
7.大きなリスクは冒さない。
8.邪魔されずに「没頭できる」仕事が好きだ。
9.誕生日はごく親しい友人ひとりか二人で、あるいは家族内だけで祝いたい。
10.「物静かだ」「落ち着いている」と言われる。
11.仕事や作品が完成するまで、他人に見せたり意見を求めたりしない。
12.他人と衝突するのは嫌いだ。
13.独力での作業が最大限に実力を発揮する。
14.考えてから話す傾向がある。
15.外出して活動した後は、たとえそれが楽しい体験であっても、消耗したと感じる。
16.かかってきた電話をボイスメールに回すことがある。
17.もしどちらかを選べと言うなら、忙し過ぎる週末よりなにもすることがない週末を選ぶ。
18.一度に複数のことをするのは楽しめない。
19.集中するのは簡単だ。
20.授業を受けるとき、セミナーよりも講義形式が好きだ。

正直、私も全て当てはまるわけでは無いけれど、ここで著者が内向的だと考えている人たちのイメージは伝わることと思います。

本書の中盤、こどもに対する心理的実験が紹介されます。
それによると、刺激に対して高反応な子供は成長するにしたがい内向的人間になっていき、低反応な子供は外交的になるそうです。
これは非常に示唆に富んだ話です。つまり、内向的人間とは、基本的に非常にセンシティブな人間であり、世の中の多くの刺激から自分の身を守るために刺激から遠ざかるような行動を取るようになるというわけです。
そう考えると、芸術家のような人々が多く内向的であるのも頷けます。彼らは刺激に対してセンシティブであるが故に、それが芸術を生む原動力にもなり得るわけです。

人はどうしたって、持って生まれた性向、性格から逃れることができません。
内向的人間は、人生において、内向であるが故に辛酸を舐めるような経験も多いでしょう。渾身の意見、作品を否定されたり、自分と同じ立場にいても世渡り上手な人が評価されたり、ときには自分の意見も本質とはかけ離れた枝葉末節な理由で否定されたりします。
そういう経験から、自分の外向性を多少なりとも磨く必要はあるのでしょうが、世の中にも多くの内向型人間がいて、同じような経験をしながらも多くの場所で活躍していることは、私に勇気を与えてくれます。

時代はますます専門性が問われ、アート感覚が問われるようになるでしょう。
これからは、センシティブな内向型人間が活躍できる場が益々増えていくでしょう。そんな希望溢れる未来を感じることが出来た良書でした。

2013年7月6日土曜日

コンピュータ音楽 歴史・テクノロジー・アート

13000円もする本を買ってしまいました!

厚さもすごいし、装丁も結構大きめな本なので相当な存在感です。
もちろん、この本を端から端まで読み切ろうなどということは考えていません。何というか、一種のお守りのようなものだと思っています。きっと困ったときには何か役に立ってくれるかもしれない・・・みたいな。

なので、今回は本を読んだ感想ではなくて、本の目次の紹介です。中身はまだほとんど読んでいません。

まず、この本には何が書いてあるかというと、ざっくり言えばコンピュータを利用して音楽を作るのに必要な知識の一覧と、プログラミングの方法が書かれています。
明らかに大学の教科書になるべき本を目指しており、音楽とデジタル処理に絡む内容を一通り網羅しています。逆に数学的、物理的にあまりに専門的にならないよう配慮している、と序文にはありますが、私には遠慮なく難しいことを書いているようにも見えました。

第一部では、デジタルオーディオとコンピュータ技術の導入部分です。
第1章はデジタルオーディオ、第2章はプログラミングの基本的な話。さすがに私にはどちらもほぼ既知の内容ですが、デジタルオーディオに詳しくない人には(サンプリング定理とか)第1章は大変有益かもしれません。

第二部は、デジタル音合成に焦点を当てています。
第3章はシンセサイザーの基本的な仕組み、第4章はサンプリング、加算合成による波形生成、第5章は多重波形テーブル合成、地表面合成、細粒合成(この辺は聞いたこともない)、そしてフィルターによる減算合成などの話。
第6章はリング変調、FM音源などの変調合成。第7章は物理モデリングとフォルマント合成。第8章は波形セグメント合成、図式合成、確率合成(どれもまるで聞いたことが無い)だそうです。

第三部はサウンドミキシング、フィルタリング、ディレイ効果、残響、音像定位の操作といったテーマ。各章の内容は割愛。

第四部は音の分析を扱います。第12章ではピッチとリズムの検出を、第13章はスペクトルによる音の分析について扱います。

第五部は、音楽家とのインタフェースの話題。
第14章は概論。第15章はコンピュータの各種演奏用ソフトウェアの種類、第16章は音楽用エディタへの入力方法、第17章は音楽用に開発された各種言語についての説明、
第18章はアルゴリズム作曲システムとありますが、作曲援助、あるいは自動作曲の試みのようなものだと思います。そして第19章ではそのアルゴリズム作曲のいろいろな技法を紹介しています。

第六部は、音楽スタジオを自力で作る際の機器類の接続や、各種ツールの基礎知識について書かれています。DSPやMIDIの扱いもここです。

第七部は、音響心理学です。
いわゆる人間の音楽の知覚についての話題です。これはコンピュータが奏でる音楽、と言う文脈ではなく、人間に関する研究にどのようにコンピュータが関わっているか、という意味でこの本の中に書かれているのだと思われます。
いわゆるラウドネス曲線とか、マスキング効果とかの話題が書かれていますが、量はちょっと少なめです。

自分が本全体の中身を理解するために、少しずつページをめくりながら、目次をあさってみました。
正直言うと、私の日頃の業務に直結するような内容ばかりですが、自分がこういった内容に精通しているかというとかなり怪しい部分もありました。
少なくとも技術的な領域でコンピュータによる音楽を人様に啓蒙していこうとする立場に立とうとするのなら、とりあえずこの本を書棚に飾っておくのが最低レベルではないかと思った次第です。

2013年6月14日金曜日

「未来の働き方を考えよう」を読んだ



ちきりんさんのブログはいつも楽しみに読んでいますが、そのちきりんさんの新しい本が出たので、早速購入。
しかも、本のテーマは「働き方」。いま私が日々いろいろと思っていることにぴったりの内容です。
結局、私は自分の持っている時間のほとんどを仕事に使っているわけですから、その時間が充実したものであって欲しいし、自分を幸せにしているものであって欲しい。

しかし、なかなか現実はそうもいきません。
その原因は、私にもあるし、社会や時代の問題もあるでしょう。もちろん、何かをなし得て充実した気持ちを感じるときだってあります。しかし、何より自分が今の生活をしている理由というのは、他により良い選択肢が無いと思い込んでいるからです。

この本は、そういった頭の固くなった40代を直撃する、非常に刺激的な提案が書かれています。
世の中の(とりわけ日本の)40代に対する挑戦状みたいなものです。

自分のことを棚に上げて言わせてもらえば、私の周りにいる40代の同世代の人たちはこの本に書いてあることをそうそう肯定出来ないと思います。
この本には、彼らが反論するであろう意見に対する反論まで先回りして書いてあるのにも関わらずです。
なぜかと言うと、その肯定出来ない気持ちは、ロジカルな思考ではなく、身体に深く刻まれた恐怖心に根ざしているからです。
そして、その恐怖心は私自身の心も大きく蝕んでおり、やはり頭で理解出来てもそう易々肯定出来ない私がいるわけです。

その一方で、もう一人の私がささやきます。
一度きりの人生なのに、やりたいことやらなくていいの? 心の中の満たされぬ想いを抱えたままでいいの? 実際のところ、どう生きたってなんとかなるんじゃないの?
それほどスゴい人間だという自負は無いけれど、自分が持っている得意技を組み合わせれば、そんなに悪くないくらいのパフォーマンスは出せるような気もしています。
そして何より、自分にはやりたいことは山ほどあります。


この本に書かれているように、これから数年が大きな変化になるというのは完全に同意します。
(そもそもこれに同意出来ない人も多いですが、それは単に変わりたくないという願望の現れに過ぎません)
特に組織から個人、という流れは相当大きな流れになることでしょう。
そんな流れを知ってか知らずか、今多くの組織はむしろ逆ベクトルにひた走っています。それは、極端なリスク回避指向であり、責任回避指向であり、先送り指向であり、とんがった考えの排除です。
いずれ、その反作用で個人が益々、組織から離れる事態が進むでしょう。しかし、その流れが本格的になってからでは、個人には恐らく遅過ぎるのです。
個人で生きることを支えるのは、Web上に築かれた個人の信用であり、そこには積み重ねがどうしても必要です。すでに多くの先駆者がいれば、後から入ってくる人が成功するのは難しくなるに違いありません。

ここまで、合理的な理由があるにも関わらず、恐怖心がまだ勝ります。
同じ志をもつ仲間がもっとたくさん集まれば、もしかしたら何かが変わってくるのかもしれません・・・。

2012年11月3日土曜日

MAKERS/クリス・アンダーソン

「ロングテール」「フリー」でITビジネスに関する大きな話題を提供したクリス・アンダーソンの新著。
この本では、インターネットの本当の威力は、それがモノ作りに影響を与えるときだといい、それがこれから本格的に始まると語ります。

ITが世界を変えたといっても、それは所詮ウェブ上のサービスでいろいろな事務仕事が効率化された、というだけのこと。
実際の経済活動で最も大きな要素は、何かモノを作ってそれを売ることであり、モノを作る以上は工場が必要であり、現状ではその世界まではITの影響があまり及んでいませんでした。

ところが、これからはIT革命がモノ作りに及んできて、経済活動全体に大きなインパクトを与えるだろうとのこと。大企業が工場を動かさなくてもアイデアと能力があれば、少人数でもそういったビジネスを起こしやすくなる環境が整のってくるだろうと予想しているのです。それは、産業革命と比較されるくらい大きな変化を世界に与えるのです。

この本の興味深い点は、今現在起こっているたくさんの例が書かれているということです。この例を読むだけで、世の中がスゴいスピードで変わっているということが分ります。
とは言え,これらは全てアメリカのこと。恐らく日本ではこのムーブメントはまだ非常にか弱い状態にあります。それは恐らく技術力とかの問題では無く、政治の問題だったり、大企業のガバナンスの問題です。
つまり、政治や大企業がそのような新しい世界をきちんと理解しない限り、社会全体がなかなかそちらの方向には向かないのではないかという懸念を感じてしまうのです。

では、そのアメリカでは何が起こっているのか。
なんとクリス・アンダーソン自身が自動操縦できる模型飛行機を作って、それを数億円規模の事業に成長させたようなのですが、その例が克明に紹介されています。
ポイントは、開発をオープンにするということ。ソフトウェアを公開してしまうオープンソースはもちろんのこと、模型飛行機の設計図自体も公開してしまいます。オープンハードウェアです。そして、この公開された設計図を多くの人が閲覧し、修正してくれるためのコミュニティを作るのです。

このコミュニティに参加する人は従業員ではありません。
模型飛行機が好きな純粋なマニアであり、むしろ消費者側にいる人たちです。彼らが積極的に開発過程に関わってしまうのです。一人一人がマニアなので、語られる内容も濃いし、本当に自らが欲しいと思うものに近づけようとします。
開発コストはほとんどタダだし、コミュニティ自体が宣伝・営業としても機能します。コミュニティに対する貢献度合いによって多少のサービスは提供されるのですが、それでも自分のアイデアが製品に採用されるだけで、コミュニティに参加している人は大きな満足感を得られます。

開発をオープンにして、消費者を巻き込んだコミュニティを作る、などという発想は今の日本企業には求めるべくもありません。
それは、モノ作りかくあるべし、みたいな古くさい発想から逃れることが出来ないくらい頭が固くなっているからです。

後半では、すでにアメリカで大きなビジネスになっている各種サービスが紹介されています。
例えば、MFGドットコムという企業は、設計図を送るだけで、たくさんの工場からの見積もりを集めるというサービスを行なっています。つまり、自分で設計書まで作ることが出来れば、後は一番安く作れる工場を簡単に見つけることが出来るのです。
ITサービスを使ってこのようなサービスが一般的になるということは、モノを作るあらゆる行程が断片化され、ビジネスとして成り立つような環境に変わっていくということです。

この例のポイントは、設計図のフォーマットが標準化されている,という点です。
モノ作りの行程の各ポイントにおいて、その仕事依頼のフォーマットが標準化されれば、その部分はあっという間にITサービス化することが可能になります。
そして、そこに凄まじい単価ダウンのための効率化が働くことになります。現在大企業において自分の中に閉じている行程が、ある時点でオープン化された環境よりも非効率になると、大企業は瓦解し、世の中は中小企業の集まりだけで構成されるようになるのではないか、という類推も可能になってきます。

そういえば、私も以前こんなことを書きました。
私が想像したこんな世界が、もうそろそろ起こると思うと、ちょっと怖い反面、ワクワクしてくる気持ちもあるのです。


2012年9月1日土曜日

ワークシフト/リンダ・グラットン

某所で課題図書となっていたので、早速入手して読んでみました。

上のブログでも書かれているとおり、これから数年くらいのうちに社会に大きな変化が起きるのではと私も思っています。
そんな折、私たちはこれからどのように働いていくべきか、について言及したのがこの本。この本では、私たちの働き方において、三つのシフトを実現すべきだと言っています。一つ目はスペシャリストになれ、二つ目は有用な人間関係を築け、最後は消費を美徳とする価値観から転換せよ、という三つのシフトを著者は主張しています。

この本の面白い点は、非常に構造的な内容の構成にあります。
まず最初の第一部では、現在進行している様々な兆候から未来はどうなるかを推測します。著者が予言する未来は、5つの大分類と32の項目として箇条書き的に展開されます。
次の第二部では、「漫然と未来を迎えてしまった人」がどのような未来の生活を送っているかを三人の例で具体的に描写します。その未来は2025年。それほど遠くない未来です。
第三部では、逆に「主体的に未来を築いた人」がどのような仕事の仕方をしているのかを同じく三人の例で具体的に描写します。
そして、最後の第四部で著者が主張したい三つのシフトについて詳細に説明します。

真ん中の第二部、第三部の具体例は、著者の伝えたい内容を表現するには一見冗長のように感じますが、そのディテールの細かさから説得力が増すことにつながり、著者の主張を補強する役割を担っているのです。

この本を面白いと思うかどうかは、ここまで未来がドラスティックに変わるだろう、という主張を受け入れられるかどうかにかかっていると感じます。
例えば、未来予測の要因1の3番「地球上のいたるところで「クラウド」を利用できるようになる」。もちろんクラウドという言葉は、IT界隈では重要なキーワードとなっているわけですが、世間一般の人々にとって実際の生活を変えるほどのリアリティがまだありません。リアリティが無ければ、そんなのただの流行りだろう、と考える人も出てきます。
しかし、理詰めで考えれば、端末さえあれば自分の作業環境がどこでも再現できることは、将来の労働環境を考えると大きなインパクトがあるのは私には明白だと思えます。
同様に未来予測の要因1の8番「バーチャル空間で働き、「アバター」を利用することが当たり前になる」。こういうのがビジネス書みたいな本に書かれると、ネットの風俗と労働することが容易に頭の中で結びつかず、何言ってんの?と思う人もいるかもしれません。
これとて、ネット内で仕事の取引が頻繁になれば、アバターが自分を表すアイデンティティとして重要なるだろうと想像することは出来るはずです。

要因3の8番では「ベビーブーム世代の一部が貧しい老後を迎える」と言っています。
ベビーブーム世代とは、戦後に生まれた私より20歳くらい上の世代ですが、このくらいの年齢の人たちでさえ、例えば政府から年金が十分にもらえなくなり、かなり貧しくなる人が出てくるだろうと言っています。
これはもちろん、あり得る未来ですが、見たくない未来でもあります。誰もが(特に日本では)年金行政の破綻の可能性について心配しています。年金や社会保障はこれから益々削られ、税金も高くなる。これも残念ながら、欧米,日本では確実に起こる現実だと著者は主張します。

その前提の上で著者は、私たちは自分が生涯働き続けるために、専門性を持ったスペシャリストであり続け、多くの自分を助けてくれる人間関係を保持し、消費よりも働くことそのものが生き甲斐であるような人生を送れ、と話を進めていくのです。

たった10年程度で、ここまで世の中が変わる、という事実を今受け入れられなければ、著者のいう「漫然と迎える未来」が待っています。

しかし、それにしても、今私たちは一体どうしたら良いのでしょう?
会社はますます経営環境が厳しくなり、リストラが続き、人が減らされた職場では仕事だけが増え続け、それをこなすために長時間残業が繰り返される。
こういった負のスパイラルに取り込まれているうちには、「漫然と迎える未来」に突入するしかありません。とはいえこの状況から抜け出すこともまた難しいのが現実。

私が感じたのは、今すぐ会社を辞めて云々、という具体的なことではなく、自分の意識を変えることが大事なのだということ。
会社の仕事の中でも自分で変えられる裁量は多少はあるはず。また、業務外の自由時間をどのように使うかは全て自分で決定することはできます。
毎日の小さな一つ一つの選択が、ここ数年の自分の生きる方向のベクトルを少しずつ変えていく可能性があります。

そのように生きていくために、この本の内容を一つ一つ噛み締めることは、これからの自分の人生の選択のあり方を考える上で重要な示唆を与えてくれると思います。


2012年8月10日金曜日

FabLife / 田中浩也



前々回も書いたパーソナルファブリケーションについて、現在の状況などを端的に紹介された本が出たので、早速読んでみました。

自分の欲しい物は自分で作ってしまえ、というのがパーソナルファブリケーションの基本的なモチベーションですが、こういった運動が世界的に連携をするようになっています。
工作機械を揃えて、作りたい人たちが集まり情報交換をする場はファブラボと呼ばれ、すでに世界中に多くのファブラボが作られ始めているのです。

各ファブラボは、そのファブラボを運営するマスターの趣味、方向性が色濃く反映されます。
例えば、ボストンのファブラボではたくさんのギークが集まり、電子回路が制作されていますが、そこのマスターのショーンは工作機械をインターネットで遠隔操作するプロジェクトを進めています。
同じくボストンの旧スラム街にあるファブラボでは、地域に住む黒人の小学生たちが学ぶための無料の救育施設として運営されています。

バルセロナのファブラボでは、メインで建築を扱っています。カッティングマシンのみで、プラモデルを作るように組み立て可能な木造建築を発表して話題を集めたそうです。
また、オランダのファブラボではオープンソースならぬ、オープンデザインという考えを進めており、若いクリエータたちが自らのデザインを共有するような試みを始めています。

これだけの事例を見ても分るように、工作機械で自分の好きな物を作る、という行為は、単に好き者がひっそりと集まって楽しむというだけでなく、教育、生活、ファッション、芸術など、これからの文化活動に大いに影響を与えるようなムーブメントになりうるのではないかという予感がしてくるのです。

またファブラボで使うべき工作機械が標準化されていくと、ある場所で作られたモノのデータさえあれば、別のファブラボでも製作可能となります。
今このようなネットワーク化が急速に進みつつあり、世界中のファブラボがネットワークで繋がりデータが共有化されれば、自分のオリジナル作品だけでなく他人の作ったものを自分が再度作ったり、それを元にまた新しいものが生まれたり、という限りないオープンデザイン文化が生まれる可能性があるのです。
それは、もはや工作マニアなオタクの世界ではなく、世界のトレンドの最先端を扱う文化発信基地にさえなり得ることを予感させます。

第二章では、筆者が一通りのモノを作れるようになるために受講した授業の様子が書かれています。ここでは工作機械の使い方はもちろんのこと、電子回路の制作方法、プログラミングの書き方に至るまで、一人でモノを作るのに必要なあらゆる知識を得る過程が描かれていて大変刺激になります。

日本では、現在つくばと鎌倉の二カ所にファブラボがあります。
ファブラボつくばは、元々はFPGAカフェと称して、カスタムICを簡単に作っちゃおうという活動をしていたようです。FPGAとカフェという言葉が結びつくのが個人的には非常にシュールな感じがしました。

このムーブメント、もう少しきちんとウォッチしていきたいと思っているところです。

2012年5月30日水曜日

世界を歩いて考えよう!/ちきりん

私の敬愛するブロガーちきりんさんの3冊目の本。
なんだかんだいって3冊とも買ってしまった私は、結構なファンということなのでしょう。

しかし、ある意味この本が今までの中で最も私にとって強烈でした。
これほどまでに自分と行動パターンが違っていて、人間としての基本的なタフネスさが全然違う、ということを見せつけられたからです。

だいたい私は出不精です。
家にいるのが大好き。一人でPCに張り付いているのが好きな人間です。「旅が好き」なんて言える人を風流だと羨望の眼差しで見つめながら、一人でどこかに行くことにいつも何となく恐怖を抱いています。

人生、これまで一人旅というものをしたことがありませんでした。
自分で計画して一人で遠い場所に行った、というのは恐らく今年1月のフィリピンが初めてのことです。それとて、マニラ空港での送り迎え付き。
それでも、一人で飛行機に乗って行き帰りをするのは、こんな歳でありながらちょっとばかりヒヤヒヤしていたほどの気の小ささ。

自分のことはさておき、ちきりんさんの海外旅行経験は全く半端じゃないのです。
欧米はもちろんのこと、韓国、中国、東南アジア、インド、中東、東欧、ロシア、そしてアフリカのサバンナからマチュピチュ遺跡、南国の島まで、ほとんど世界中のありとあらゆるところを旅しています。
本の最後に、トラブルはほとんど無かった、と書いてありますが、それは肝が据わったちきりんさんだからこそトラブルさえ逃げていったものと思います。20代の女性が一人で怪しい国を旅するなんて、その度胸だけで私には驚きものです。

さすが、経済通だけあっていきなり通貨ネタが面白い。
通貨の力関係によって労働の価値がここまで違うものだということは、私もフィリピンで感じました。彼らをうまく組織化すればビッグビジネスになるよなとか。
しかし国によっては、そもそも売るモノが無いなんてこともあるのですね。こういうことはその場に行ってみなければ肌で感じることは不可能です。

目に見える貧富の問題とか、従業員さえ疑ってかからなければ商売ができないようなシステムとか、日本人の価値観ではおおよそ信じ難いような現実もたいへん興味深い話です。

とりあえずこの本を読むことで、数カ国旅することを疑似体験出来ました。旅行気分を味わうにも良い本です。

2012年3月26日月曜日

音律と音階の科学/小方厚

私も前に「音のリクツ」と題して類似の話題の連載をした身として、この手の本は大変気になります。さっと見渡して、内容的には自分にとって既知のものではあったものの、説明の仕方とか、そこから滲み出る音楽観とか、そういう部分において刺激を受けた本でした。

ただし、この本、ブルーバックスだけあって、理系人間を主な読者として想定しています。
数学的な話題もある程度突っ込みますし、数式やグラフを使って分かり易くさせようという意図が、かえって理系的になってさえいます。
しかし、それらは単純な物理的理屈だけではなく、必ずそこに音楽文化としての側面や歴史的側面があり、また一般にはそれほど知られていないような試みへの言及なども記述されるなど、著者の音楽に対する造詣の深さが伺うことが出来、なおかつ読み物として大変面白く書かれていました。

特に第4章からのアプローチは私も全く初めて聞くことで興味深かったです。
どんなアプローチかというと、倍音構造を全く持たない(純音)二つの音がどのような関係にあるとき、人は心地よく感じるか、という研究結果から音階の協和度を考えていくという方法。
まず、二音の関係からのアプローチのグラフは実に面白いです。音楽的な解釈無しでこのグラフを見るならば、二つのピッチが近いほど心地悪く感じ、ほとんど同じピッチになる直前で(同じ音に感じるようになるので)、また心地よく感じるようになります。
実際の楽音での音階上での二つの音程の心地よさは、このグラフを倍音毎に計算し全てを足し合わせたものになると考えます。そこで、一般的な倍音構造を持った音から1オクターブ内で心地よくなる音を探す計算を行ないます。
そうすると、そこで現れるのはいわゆる純正律の音階となります。
この論旨の流れは、私の理系センスをいたく刺激しました。音楽理論とは全く別の観点から、気持ち良い音階が純正律であることを計算で導いているのです。

最終章の音律の冒険も興味深く読みました。全く新しい音律を作ってしまおうという試みがいろいろ紹介されています。今のように電子楽器が発展している時代なら、このような楽器は簡単に実装できそうです。何かネタとして面白そうな予感を覚えました。
個人的には、これはお仕事で使えないかななどと考えています。楽器設計をする若い人には読んでもらいたいからです。

2012年1月26日木曜日

一般意思2.0/東浩紀

ルソー、フロイト、グーグルという副題がなんだかとても気になる本書、いろいろなところで話題になっているので(自分が見に行くところでは、ですが)早速読んでみました。
非常にざっくりこの本の内容を言ってしまえば、ネット/ITの力を使えば、人々のつぶやきを解析してルソーが考えていたところの一般意思を作り出せるかもしれない、そしてその意思は、袋小路になっている話し合いによる民主主義を置き換えることになるかもしれない、という内容です。

誰もが、徹底的に話し合いを重ね、熟慮を重ねた上で物事を決定することが民主主義の最も正統的なあり方であり、理想の意思決定方法だと考えていると思います。
しかし、現実には熟議には多くの時間がかかったり、平行線で全くまとまらなかったり、多数派工作に明け暮れたり、玉虫色な結論になってしまったりと、身の回りでもなかなか理想通りにいかないよね、というような事例ばかりです。だから、人はたまに強力にどんどん押し進めてしまう力強い個人に傾倒してしまったりもします。
かといって話し合いを否定してしまったら、それ以上合理的な意思決定手段が無いじゃないか、と普通は思うことでしょう。
しかしこの本では、グーグルに象徴されるITの力で、人々の無意識を数学的に処理することによって、その意思を表現することが可能ではないかと言っているわけです。

ここにフロイトが絡むことによって、人々のつぶやきの集合は、いわゆる集合的無意識と呼ばれるある傾向を持つであろうことを予測します。ルソーは社会契約論の中で一般意思という微妙な概念を導入しますが、そういった集合的無意識こそが、まさにルソーが表現したかった一般意思ではないかと著者は推察し、ITによって立ち現れるこの集合的無意識を一般意思2.0と名付けたのです。
さらに著者は、一般意思2.0に基づいて意思決定する民主主義のあり方を、民主主義2.0とも表現しています。そしてこれが新しい政治、政府のあり方になるであろうと予想します。

哲学と政治が技術と結び付けられることに、個人的には大変な共感を感じます。
それぞれの学問は、別の学問と交錯することによって、新しい価値観を発揮するものだと思うのです。まるで交わると思えない哲学や政治が、数学や技術と結びつくという発想はスリリングですが、改めて考えてみれば遅きに失した感じさえします。

例えば、この本に書かれた話では無いですが、自動車やバイク、あるいは信号などにセンサーが張り巡らされ、それらが絶えず通信し、その情報が集計されていれば、事故が起きても解析が可能だし、統計的な処理をすれば事故を起こさない対策も簡単に算出されるかもしれません。暴走族の取り締まりや、渋滞の起こらない信号制御も可能になると思います。
これは、IT技術が交通インフラに適用した場合のメリットです。同様に、スマート○○といった文脈で、生活の様々な場所にITを生かして効率的な運用をしたらどうかというアイデアは今や多くの場所で広まっています。

ならば政治も、人々がやって欲しいと思うことをガツガツ集計して、4年に一回の選挙のときだけに民意を反映するのでなく、毎日のように民意を政治の場にフィードバックさせることも可能になってくるでしょう。当然それらは議員の行動に影響を与えるだろうし、政治活動そのものを変えてしまう原動力になっていくと思われます。
もちろん集計の仕方にも問題が出てくるでしょうが、まずは思考実験として、こういう政治のあり方を想像してみることが大事なのです。
一見、荒唐無稽に思えることでも、今のIT技術のスピードを考えると、20年後とか、50年後には全く今からは予想もしなかった未来になっているような気がするのです。
そういった未来から現在を見たとき、「一般意思2.0」のような考え方が時代を先取りしていたと言われることになるのではないかと、私は思います。

2012年1月4日水曜日

スティーブ・ジョブズⅠ、Ⅱ/ウォルター・アイザックソン

死去の直後に出版されたスティーブ・ジョブスの伝記本。あまりのタイミングの良さに商魂を感じないわけではありませんが、おかげで出版以来大変売れているようです。Appleファンである私も、もちろん購入しました。その後、なかなか時間が取れず、一巻をちびちび読んでいたのだけれど、大晦日と元日両日に読みまくり、一気に最後まで読んでしまいました。
本自体は相当な分量ですが、ついこの前まで当の本人が生きていたのだから、資料には事欠かない状況だったのでしょう。恐らくこれでも、相当情報を取捨選択したものと思われます。

読む前の私のジョブスの印象は、とんでもなく怖いカリスマで、いくら発想が素晴らしくても一緒には仕事したくないよなあ、といったネガティブな感覚。しかしそれと同時に、いくら一人ずば抜けたカリスマがいても、数万人という社員末端まで彼一人が把握出来る訳も無く、どうやってあのAppleの一体感を作り上げていたのか、とても謎だと感じていました。

読んだ後、実はジョブスの印象がだいぶ変わりました。
確かに彼はカリスマだし、人に対してとんでもなく冷たい振る舞いをします。しかし、ジョブスは慢心とは無縁の人間で、常に良い製品、良いサービス、良い体験を作り出すことだけに執念を持っていたこと、どこまでも偉そうだったわけでなく、他人の批判に傷ついたり、感極まって泣き出したりすることも多かった、というのは意外な事実でした。

そして、全編を通じて理解出来たのは、彼の周りにはイエスマンが集まったのではなく、才能のある人間が集まったということ。
だから側近でも、ジョブスと派手にやり合う。毎日、そういう日々を送れるタフさは必要ですが、ジョブス自身も自分と張り合えるような才能を持った人間しか引き上げない。
だから、イエスマンしか回りにいない独裁者には絶対ならないのです。
そしてそれが、Appleという会社の強さであるというのが、とても良く理解出来るようになったのです。

後半に何度も書いてあることだけれど、ジョブスは素晴らしい製品を作り出したことより、そういうものを作り出せる組織を作り上げたことに誇りを持っていました。Appleという会社自体が、ジョブスの最も偉大な作品であるのです。

伝記はあくまで伝記ですし、特にこの伝記はジョブスのいい点だけを書いている訳ではないのですが、いろいろな角度から教訓を得ることが出来ます。
組織で大きな仕事を成し遂げるために何が必要なのか、その一つの例が克明に描かれており、その内容は企業経営者だけが参考になる訳ではありません。むしろ集団で芸術作品を作る、といった人たちにもいろいろ示唆に富んだ内容となるのではないでしょうか。
この本,いろいろな読まれ方が可能ですが、それでも多くの人に読んでもらいたいと思います。日本的な価値観からはとことんかけ離れていますが、だからこそ日本人が読むことで得られることは多いのではないでしょうか。

2011年11月9日水曜日

自分のアタマで考えよう/ちきりん

私が敬愛するブロガーちきりんさんの新著。
一見するとハウツー本のような、こういう本をふだん買うことは無いのですが(失望することが多いので)、この本はそれらのハウツー本とは一線を画していると思いました。

一つには、ハウツー本というのは、学者や有名な識者が片手間に書いているようなものが多く、しかも同種のような本を量産していたりすると、内容はどうしても薄くなってしまいます。
逆に、ロジカルシンキングのような学術的な内容になると、どうしても腰が引けて気軽に読めなくなってしまいます。
この「自分のアタマで考えよう」は、上記のような二つの欠点を補完しており、具体例が豊富で読みやすく、かつそこから一般的な教訓を引き出すという内容の深い一冊になっていると感じました。これはオススメです!

レベルの高い思考は、常に抽象性を纏ってきます。
今問題になっていることを解決するために、より一段高いレベルの思考をして、状況を俯瞰することが必要だし、そこからこの問題だけに留まらない一般性のある解法を抽出できるかが、非常に大事だと思うのです。
しかし個別の学術的な話題について非常に深い造詣を持っているような才人でさえ、どうして一般的な話題になると、こんなに俗っぽい発想しか出来ないのかなあ、と疑問に感じることはあります。
この本を読んで思ったのは、狭い世界での解法には詳しいのに(恐らくこれまで知識ベースで解決してきた)、そういう人たちは一般性のある思考力が弱いということ。まずは、身の回りのそんな人たちに読んで欲しい、と密かに痛切に感じました。

自分に役立った内容としては、グラフや表の作り方、使い方のあたり。
これまで私は、他人を納得させるために、正しく論理的な文章をずっと書こうと思い続けてきました。しかし、書けば書くほど後の自分でさえ理解できないような文章を書いていたりして、これじゃ他人に理解してもらうのは難しいよなと反省することは多々あります。
要は、これまで私はあまり図を書かずに過ごしてきたと感じました。
最近入社してきた若い人たちが作った、まるでスティーブ・ジョブスのように、大まかな図と一枚に2〜3行しか書いてないすっきりしたパワポを見ることがあって、今やついつい字をたくさん書いてしまう私たちのほうが、よほど遅れたオジさんに見えるだろうなあ、と思ったりします。
書くことを切り詰めるからこそ、一番大事なことが何なのか抽出する必要が出て来ます。今我々が必要なのは、こういった思考なんですね。
いろいろなことを並置して「さあ、どうしましょう」となった後、皆が黙り込む、ことのいかに多いことか。

ということで、この本を読んで、もう少したくさんグラフを書こう、と気持ちを新たにしたところです。

2011年11月6日日曜日

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを/カート・ヴォネガット・ジュニア

ハヤカワSF文庫なのに、全然SFでない話。
とある金持ちの御曹司、エリオット・ローズウォーターがその資産を使って、無償の愛を人々に施そうとするけれど、彼の妻、父親、法律事務所などがそれぞれの立場で阻止しようとする、ブラックユーモアをふんだんに湛えたドタバタ的ストーリー。

しかし、物語には上記の上流階級の人間の他に、たくさんのエリオットに関係する貧しい人が現れます。
彼らは確かに、全く助けるに値しないような人々なのかもしれません。そのような彼らのつまらない日常や、無能ぶりをいちいちしっかり描写します。ところが、彼らの人生の背景を知れば知るほど、そのような貧しい無能な人々への何らかの憐れみ、あるいは同情のようなものが湧いてきます。
それこそが、大金持ちのエリオットを動かす心情となります。

ところが、その当のエリオットという人は、全く聖人君子という感じではなく、どちらかというと半分とぼけたような人物。
作中でも、戦争で過酷な経験をしてから精神を病んでしまった、と周囲からは思われているのです。

終盤でのエリオットが街を離れるシーン。
実際、エリオットは多くの人に施しを与えたのに、自分自身は何をしたのか全く覚えていない。街の人に「助かりました」と声をかけられてもそれが誰だか覚えていないのです。お金を人に分け与えるその行為はほとんど反射的で、まるでドブにお金を捨てるようなものだったとでも言わんばかりです。
そして、彼は小説の最後の最後で、ある超大盤振る舞いをするというオチで終わるのです。

この寓話的な話が示唆するのは、お金、貧しさ、人間の価値、といったようなものの相関です。
もちろんそこに結論などは無いのですが、貧しくて下劣な人間は助ける必要のない人間なのか、小説の中にそういう舞台を作ることで、読者に問いかけているわけです。
恐らくアメリカ的価値観から言えば、助けないというのが基本的な社会の暗黙の合意なのでしょう。そしてそれに疑問を感ずるアメリカ人作家が、皮肉を込めて書いたのがこの小説だと感じるのです。

2011年9月29日木曜日

日本辺境論/内田樹

なかなか刺激的で面白い本でした。
日本人論は結構好きですが、「日本は辺境である」という点で一貫した主張をしている本書は、また大変刺激的。
「辺境である」ということは、日本は世界の中心ではなく、その周辺に位置しているという意識です。常に優れたものは、日本の外にあり、私たちはそれを取り入れなければいけないと思っている。表面的な文化はどれだけかなぐり捨てても、その性向だけは変わることが無く、これがまさに日本人であるがゆえ、ということなのです。
そして我々はこの辺境人であることを利用し、敢えて政治的に思考停止しバカになることによって(子どものフリをして)、実を得るという外交術に長けている、と言います。このあたり、なんだか逆説的に日本政治をバカにしているようにも読めますが、それが日本人の生きる知恵だとすると大したものです。
しかし、これは逆に、日本が率先して国際社会にどう貢献するか、ということを一切考えようとしない国民性にも繋がっています。

辺境人は学びに長けている、といいます。
その理由は武士道に由来する、その無防備性、幼児性、無垢性にあります。武士は小賢しい損得勘定などせず、ある美意識にのみ従って生きようとします。それは極めて純粋だけれど、無防備でもあります。
そのような無防備さ、師に対して完全に「愚」となり外来の知見に対して、真っ白な気持ちで学ぶ態度こそ、「学び」の最も効率よい方法です。ですから、日本人は師匠から便所掃除や廊下拭きを命じられても、そういった無意味な行為さえ感情的に合理化しようとし、正しいこと、やるべきことに変えてしまうことができるのです。
そういった無条件な権威への過剰な追従は、ときとして奇妙な物語を生み出します。
例えばドラマ「水戸黄門」では、ただ印籠を出すだけで、悪人がひれ伏してしまうお馴染みの場面。ご老公が直接印籠を出すのでなく、助さん格さんが印籠をだすことで「何だか知らないけど偉い人」であることがより助長されます。ワルモノは元々、その根拠の無い権威を振りかざして生きてきたので、水戸黄門のさらに大きな権威にひれ伏せざるを得ない、そういう心象が極めて日本的なのです。

最終章、日本人の日本人たるゆえんは日本語にある、という内容。これぞ、まさに我が意を得たりという感じでした。
テレビの討論番組の様子を書いたところが面白い。
議論をしていると、誰が上位者であるかを競うような場となり、そのため誰がその議論にうんざりしているかを競うようになる。そうすると「あのね〜」「だから〜」のように、素人に上位者が口を挟み込む常套句がだんだん増えてくる。
確かに、政治家が記者などに対する横柄な態度は、たいていこういう心持ちから現れます。
日本人の議論では「何が正しいか」よりも、「誰が正しいことを言っている人間か」に議論が流れていき、最終的に上位者であることを勝ち取った者の意見が通るようになります。こうして、不自然に態度が大きい人間が、世の中を牛耳るようになるのです。
これも、日本語というのが、常に話者の相対的関係を規定しないと会話が成立しない、という性質を持っていることに由来します。
たくさんの人称代名詞があり、相手の呼び方次第で会話の上下関係が規定される。そういう関係性があって、日本語は初めて会話が成立するのです。
その他の日本語の話題としては、世界でほとんど唯一とも言える日本語の表意文字、表音文字のハイブリッド表記の特殊性とか、なるほどと思いました。

全体的に言えば、やや日本を卑下した傾向があるものの、常に外来の文化が基準になってしまう傾向、権威主義的な傾向、逆に無垢になって真っ白な状態で物事を吸収しようという態度、さらに日本語による上下関係の明確化、こういったものが全て日本人的である現象をうまく表現していると思いました。

2011年9月25日日曜日

あなたの人生の物語/テッド・チャン

偶然、本屋で手に取ったテッド・チャン著の「あなたの人生の物語」が面白そうだったので買ってみました。面白そうと思った理由の一つはコレ。彼のアルバム名が「あなたの人生の物語」なんですね。これが元ネタだったというわけです。
この本の中には、全部で八編の短編(中編?)が収められています。

早川書房の水色のSF文庫から出ているので、いちおうジャンルとしてはSFということになるんですが、いわゆるSFとは肌合いが違います。
いや、それは私のイメージで言っているだけで、SFというのはこういう表現も出来る懐の深いジャンルなのだと言う人もいるかもしれません。
この短編集はどれも、非常に変わった設定の世界観の中で、人々は何を考えどんな行動を取るのか、そういったことを切々と綴るというスタイル。しかし、その世界観は非常にリアルで、そしてディテールに拘り、また空想世界なのに理論的な整合性をどこまで追求します。この執拗さは半端じゃない。
ストーリーというより、世界観のアイデアを楽しむ物語です。

それぞれの短編は明確な起承転結はなく(もちろんちょっとしたオチはあるのですが)、むしろ異常な世界観の中でひたすらその日常が記述されていくだけ。そういう意味では純文学的な指向とも言えます。
非常に文章の密度が濃いので、読むのが疲れますし、短編によってはその微細なディテールの説明や、飽くなき論理追求にやや閉口してしまったのも確か。
アメリカでは、各種文学賞を受賞しているとのこと、徹底的な論理への拘りが評価の高さに繋がっているのでしょう。

私が気に入った作品は「バビロンの塔」「あなたの人生の物語」「顔の美醜について」。
この三編の特異な世界観の紹介をしてみましょう。
「バビロンの塔」は紀元前、バビロニアで行われていたバビロンの塔建設の時代、という設定。彼らはヤハウェの神を信仰しているので、旧約聖書をベースにしているのでしょう。しかし、塔がどんどん高く作られ、月や星や太陽が横を通り抜け、ついに天頂に到達する、というのはすでに我々の知っている宇宙の姿を否定して、当時信じられていた世界の形をベースにしているわけで、それだけで驚き。そういう発想がスゴいと感じました。

「あなたの人生の物語」は、宇宙人が出てくるのだけど、それ自体が全く話の中心ではなく、ある女性言語学者が産んだ子どもへの想いが切々と語られます。これが泣ける。それでも運命を受け容れるんだ、という彼女の力強さが心に残ります。そして宇宙人は単なる狂言回しに使われるだけという・・・

「顔の美醜について」は本当に面白い!
美男美女とは何なのか、人を美人だと思うとはどういうことなのか、特異な設定を作って、様々な人にいろいろな意見を語らせます。よくまあ、一つの設定でこれだけたくさんの意見を思いつけるなあ、というのが感心のしどころ。作家として社会を見る目、人を見る目の力に全く恐れ入りました。

空想世界の設定マニア的な人にはたまらない面白さだと思います。
私の感性にも無茶苦茶ヒットしました。非常に寡作な作家らしく、この本以外の作品があまり無いようですが、また追っていくべき作家が増えました。

2011年8月18日木曜日

一万年の進化爆発

この本の基本的なスタンスは今でも人類の進化は爆発的に進んでいるということです。
進化というと、何万年も何十万年もかけてゆっくり種が変わっていく、というイメージがあります。人類が登場した20万年前から、それほど時間も経っていないので、確かに文化・技術は随分進んだけれども、基本的に人間としての能力や方向性は20万年前から何ら変わっていない、というのが一般的な知識人の思考でした。
特にジャレド・ダイヤモンド氏の名著「銃・病原菌・鉄」では、人種による能力の違いは無く、環境の違いで文化の伝搬が異なってしまったため、不幸な文明の出会いが生まれてしまった、と主張しました。また、病原菌の耐性でアメリカ、オセアニアの原住民が不利であったため、という原因にも触れています。その考えの大元はニューギニアで出会った人々が、他の国の人々と何ら変わりない知性を持っていたというところから始まっています。

しかし、この本では「銃・病原菌・鉄」を非常に意識していて、むしろ人間はここ1万年の間にその進化を加速させ、その進化の度合いの違いで社会が変わっていった、あるいは社会の変化が進化の方向性を変えたといった、というスタンスを取ります。
実例が豊富で、一つ一つ唸らされる話。しかし、その実例は進化と言うには小さな変化であり、結局進化というのはそういう小さな形質獲得の積み重ねによるものなんだなと言うことを改めて思い起こさせてくれます。
また、実例と共に著者の大胆な推論も多く、やや危うさを感じつつも、その内容が大変興味深かったのです。

第二章では、人類が数万年前から急に独創性を発揮し始めた理由として、ネアンデルタール人との混血のおかげではないかという推論をしています。数万年前のヨーロッパでは人間とネアンデルタール人が共存していたことが知られています。これまで、仮に生殖行為が可能だったとしても、ネアンデルタール人と人間で子供を作るなど無いだろう、と思われていました。
ところが、この著者はそういう生理的な反応とは別次元で、そういう変な人間がいてもおかしくない、と簡単に肯定。その混血児が、ネアンデルタール人の何らかの遺伝子を譲り受け、そこから人間は強力な創造性を得たのではないかと推論します。

第三章以降、一万年前から人類は農耕を始めたことにより、その進化のスピードを加速させている、と主張します。数十人単位で狩猟生活をしていると、新しい形質を獲得してもそれが人類全体に及ぶには時間がかかります。ところが農耕を始めることによって、人々が集積し、富の蓄積が可能になり、多くの発明者が生まれ、競争も生まれます。有利になったものは多くの子孫を残し、それが特定の遺伝子を増やす速度を速めることになる、というのです。
農耕生活になり、人々の栄養状況が良くなったと一般には思われますが、必ずしもそうでなかったと著者は言います。養える人が増えると、単純に子供を多く産み、人が集まっていることで多くの感染症が現れ、飢饉が起きるとたくさんの人が死にました。
狩猟採集から農耕で、人間の行動様式も変わり、体格も体質も変わりました。肌・髪・目の色が薄くなり、頭蓋骨も小さくなったのです。
社会も狩猟時代の平等な関係から、富の蓄積による支配者階級の出現、それが国家に繋がり、治安が良くなっていきます。農業以前は常に争いの連続で、それが人口抑制のメカニズムにもなっていたのですが、農業社会になり人口は爆発的に増えました。それにより、さらに社会は階層構造を持つようになってしまいました。

後半では、乳糖耐性という新しい形質を獲得した人々が、ヨーロッパ、中東で大きな影響力を持ったのではないかという著者の推論が展開されています。
歴史も生物学的な特質で説明可能だというわけです。特にインド・ヨーロッパ語族がなぜ世界でここまで広まったのか、という理由にこの乳糖耐性を利用しているのが面白い。
乳糖耐性を得た遊牧民族は牛乳を栄養分に出来るので、牛を飼うことによって生活していくことが可能になりました。すでに農耕を始めて定住している人々は、移動可能な遊牧民に簡単に支配されていくようになります。このように、一部の乳糖耐性を獲得した民族の言語が、世界の言語を席捲するほどの勢力になったのではないかと言うわけです。

最後の章では、アシュケナージ系ユダヤ人(ドイツ系ユダヤ人)がなぜ賢いのか、ということを遺伝子レベルで実証しようとしています。
ヨーロッパのユダヤ人は迫害されていたがため、同族同士で結婚し長い間、遺伝的な純血を保つことになりました。また、彼らは農業ではなく人々が忌み嫌った金融業を中心に仕事をしたのですが、そこではより数理能力の高い人材が必要でした。そんな折、何らかの突然変異である形質を獲得したことが、ユダヤ人の能力を高めることに繋がったというのです。
しかし、その形質は深刻な遺伝病をもたらします。一つ持てば非常に賢くなれるのに、両親から二つとももらうと数年しか生きられないような遺伝病を発症します。その特定の遺伝病は、アシュケナージ系ユダヤ人でずば抜けて多いのだそうです。
ここ数世紀での学者・文化人におけるユダヤ人の多さは、誰しもが気付くところ。
やや優生学に繋がる危険な推論ではあるけれど、特定の遺伝子が人間の能力に影響を与えている、ということは誰もがうすうす感じているわけで、それを正々堂々と主張する著者の姿勢は大変頼もしく感じました。

いろいろな話題が書いてあり、大変興味深く読めたのですが、もう少し図表などがあったり、説明がコンパクトになっていると嬉しかったと思います。
恐らく、今後も分子生物学からはたくさんの知見が現れ、それが単に生物としての学問に留まらず、社会・歴史・心理・医療といろいろな分野に大きく影響を与えるものと思います。そのためには、我々人間はもっと賢くなければならないと感じたのでした。