2011年9月29日木曜日

日本辺境論/内田樹

なかなか刺激的で面白い本でした。
日本人論は結構好きですが、「日本は辺境である」という点で一貫した主張をしている本書は、また大変刺激的。
「辺境である」ということは、日本は世界の中心ではなく、その周辺に位置しているという意識です。常に優れたものは、日本の外にあり、私たちはそれを取り入れなければいけないと思っている。表面的な文化はどれだけかなぐり捨てても、その性向だけは変わることが無く、これがまさに日本人であるがゆえ、ということなのです。
そして我々はこの辺境人であることを利用し、敢えて政治的に思考停止しバカになることによって(子どものフリをして)、実を得るという外交術に長けている、と言います。このあたり、なんだか逆説的に日本政治をバカにしているようにも読めますが、それが日本人の生きる知恵だとすると大したものです。
しかし、これは逆に、日本が率先して国際社会にどう貢献するか、ということを一切考えようとしない国民性にも繋がっています。

辺境人は学びに長けている、といいます。
その理由は武士道に由来する、その無防備性、幼児性、無垢性にあります。武士は小賢しい損得勘定などせず、ある美意識にのみ従って生きようとします。それは極めて純粋だけれど、無防備でもあります。
そのような無防備さ、師に対して完全に「愚」となり外来の知見に対して、真っ白な気持ちで学ぶ態度こそ、「学び」の最も効率よい方法です。ですから、日本人は師匠から便所掃除や廊下拭きを命じられても、そういった無意味な行為さえ感情的に合理化しようとし、正しいこと、やるべきことに変えてしまうことができるのです。
そういった無条件な権威への過剰な追従は、ときとして奇妙な物語を生み出します。
例えばドラマ「水戸黄門」では、ただ印籠を出すだけで、悪人がひれ伏してしまうお馴染みの場面。ご老公が直接印籠を出すのでなく、助さん格さんが印籠をだすことで「何だか知らないけど偉い人」であることがより助長されます。ワルモノは元々、その根拠の無い権威を振りかざして生きてきたので、水戸黄門のさらに大きな権威にひれ伏せざるを得ない、そういう心象が極めて日本的なのです。

最終章、日本人の日本人たるゆえんは日本語にある、という内容。これぞ、まさに我が意を得たりという感じでした。
テレビの討論番組の様子を書いたところが面白い。
議論をしていると、誰が上位者であるかを競うような場となり、そのため誰がその議論にうんざりしているかを競うようになる。そうすると「あのね〜」「だから〜」のように、素人に上位者が口を挟み込む常套句がだんだん増えてくる。
確かに、政治家が記者などに対する横柄な態度は、たいていこういう心持ちから現れます。
日本人の議論では「何が正しいか」よりも、「誰が正しいことを言っている人間か」に議論が流れていき、最終的に上位者であることを勝ち取った者の意見が通るようになります。こうして、不自然に態度が大きい人間が、世の中を牛耳るようになるのです。
これも、日本語というのが、常に話者の相対的関係を規定しないと会話が成立しない、という性質を持っていることに由来します。
たくさんの人称代名詞があり、相手の呼び方次第で会話の上下関係が規定される。そういう関係性があって、日本語は初めて会話が成立するのです。
その他の日本語の話題としては、世界でほとんど唯一とも言える日本語の表意文字、表音文字のハイブリッド表記の特殊性とか、なるほどと思いました。

全体的に言えば、やや日本を卑下した傾向があるものの、常に外来の文化が基準になってしまう傾向、権威主義的な傾向、逆に無垢になって真っ白な状態で物事を吸収しようという態度、さらに日本語による上下関係の明確化、こういったものが全て日本人的である現象をうまく表現していると思いました。

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