●X社新作開発会議にて
企画担当「市況ですが、前回の交響曲第5番の初演より2年が経ち、観客動員数約◯◯人、音源の売り上げが合計◯◯枚であり、現在市場シェア約40%です。すでに世界中の顧客より新作への要望が高まっており、シェア維持のためにも新商品開発が必要です」
「先般C社の交響曲2番が5楽章構成で発表されており、市場では評価が高まっております。我がX社としては、次回の新作は6楽章構成といたします」
「また、1楽章のソナタ形式では従来二つしかなかった主題を三つに増やし、ゴージャスでボリューム感たっぷりの音楽を演出いたします。緩徐楽章では、最新ヒット曲の動向を踏まえた泣きのメロディを使用して多くの女性のハートを掴みます。終楽章では、サウンドの圧倒的な音圧を確保するため、大太鼓だけではなく本物の大砲を使うことを検討します」
(会議に参加している開発者の心の叫び)
『ちょ、ちょ、C社への対抗で5楽章を6楽章って、ただ楽章増やせばいいってもんじゃないでしょ』
『主題二つから三つだって。三つ目の主題は何調にすればいいんだよ。そういうの考えて言ってるのかな』
『最新ヒット曲の動向って、またギリギリセーフ的なパクリメロディ使うわけ? あと大砲とか何考えてんの? チャイコフスキーなの?』
●開発経費と担当決め
「今回6楽章なんだけど、どうする? 幸い偶数だから、第一開発課と第二開発課で半々かなあ。第一開発は1〜3楽章、第二開発は4〜6楽章でどう?」
「ちょっと待ってください。今回第一楽章は主題増加により、開発経費が増えることが予想されます。もしそうなら、開発費は按分というわけにはいかないんじゃ・・・」
「それはウチも一緒。増員は無理なんだから、現状でなんとかしてくれ」
「また、頑張れ、ですか?」
「いや、そうじゃなくてうまく開発効率をあげてくださいってこと」
(押し切られた課長の心の叫び)
『毎回毎回、内容が増えるのに開発パワー一緒って無理ゲーじゃん。効率上げるって、目立たない木管を前の曲のやつコピーして使っちゃう? もうリピート記号使わせようかな・・・』
『それに一つの曲を複数の課で作っても曲の統一が取れないよね。スラーや休符の扱いとか、フェルマータの書法とか、多分合わせ込みできないし』
『っていうか、企画担当って作曲したことあるわけ? 作るの我々なのに、てんこ盛りの変な仕様ばっかりで、こんなんでいい作品作れるのかな。企画考える人と作る人が違ってていいのかな』
●開発中の課長と担当者
課長「ということで、ウチの課は1〜3楽章なので、1楽章はA君とB君ね、それから2楽章はC君、3楽章はD君」
B「A君は昨年入社ですけど、いきなり第一楽章大丈夫っすか?」
課長「なのでB君にサポートしてもらいたい」
A「先輩よろしく! 先輩が先に提示部作ってくれたら、その後再現部作りますね」
B「おい、展開部は?」
A「なんすか、それ」
課長「まあまあA君は勉強を兼ねながら二人でうまくやってください。じゃ、よろしく」
(担当者Bの心の叫び)
『こりゃ、時間があれば一人で作りたいわ。教えるより自分が作る方が早いし』
●開発後半
課長「困ったな、品質部から5件も指摘があったよ。それから2件、平行五度が見つかった。平行五度の使用にはリスクが伴うから社長決裁が必要なのに。B君、A君は大丈夫かね」
B「すいません、まさか平行五度を使うとは思ってなかったです。こんなこと言わなくてもわかるだろうと思って・・・」
課長「ちゃんと言わなきゃ分からないんだよ、今どきの若者はね。もう一度、決裁ルールの教育を徹底してください。
それから、品質部からの5件。和声上のミスがたくさん見つかってる。いったいどうなってるんだ。ミスの修正はすぐやるとして、これらのミスの原因分析と今後同じミスを起こさないための施策を検討して、後で報告するように」
(担当者Bの心の叫び)
『あー、やっぱりね、時間無さ過ぎだものミスだって起こるよな』
『っていうか、まだ残りの仕事あるのに、原因分析と今後の施策考えろって、また仕事増えてるじゃん』
『本当は平行五度も味があるんだよね。決裁での使用になってから、みんなすっかり使わ無くなっちゃった。それに昔はこのくらいのミスがあっても平気でリリースされてたよな。一生気付かれないミスだってあるよなー。でもきっと市場からクレイマーが現れて、YouTubeとかで暴露するんだよなー』
●X社新作リリース後の顧客の(本当の)反応
「X社交響曲第6番はスゴい! やっぱり全6楽章の威力は違うね。緩徐楽章のメロディも良く出来てるし、それに大砲には驚かされたよ。これこそ交響曲の醍醐味だ」
「X社はまたちょっとつまらなくなったね。各楽章のスペックはスゴいんだけどね。何か心に響かないよね」
「ねー聴いた? あの緩徐楽章のメロディ。◯◯に超似てなくない?」
「X社の新作は飛び抜けた面白さが無い凡庸な音楽だ。全ては管理され、一様で、破綻が無い。しかし全体を統一した方向性も明確ではなく、曲を通してメッセージ性がほとんど感じられない」
「っていうかー、今どきオーケストラ曲って20分以内じゃないと聞く気になれないじゃん。交響曲なんてマジダサいじゃん」
2015年5月17日日曜日
2014年9月13日土曜日
人はなぜ楽器を弾くのか ー鑑賞としての演奏ー
楽器演奏者を趣味層、本格層と分けて、趣味層の嗜好と彼らへのアプローチについて前回書いてみました。
今回はさらにこの趣味層の気持ちについて考えてみようと思います。
というのは、これは私の息子を見ていて思い付いたのですが、楽器を弾きたいということは、音楽鑑賞の一つの形態だと考えられるのではないかと感じたからです。
これまで音楽を聴くこととと楽器を演奏することは、行動としては全く別のものなので、漠然とその心持ちは違うものと思っていたのです。
ところが、息子の行動パターンを見ていると、「音楽を何度も聴く」→「その曲を歌う」→「その曲の伴奏があると一緒に歌いたくなる」→「楽器を弾いているのを見て、その旋律を弾きたくなる」という流れがごく自然なものに思えてきました。
つまり楽器演奏の入り口は音楽鑑賞と続きの関係にあるのではないかと考えられるのです。
音楽鑑賞から自らが音楽を生み出すまでの流れを図にしてみました。
ある音楽が気に入ったとき、その人はその音楽を何度も聴くと思います。
何度も聴いているうちにその音楽を口ずさむようになります。
もし、幸いなことにその人の周辺に楽器があり、弾きたくなるような環境にあるのなら、その楽器でメロディを奏でたくなると思います。
メロディを楽器で弾くことによって、音楽は頭の中で(演奏情報として)コード化され、音楽の再現性が飛躍的に高まります。
このような経験を重ねることで、気に入った音楽を何度も自分で反芻できることの喜びを感じ、その結果メロディはより強固にその人の心に刻まれることになることでしょう。
また、楽器演奏を重ねることによって、体系的にでなくても、その音楽に潜む気持ちの良さ、あるいはその音楽の特徴をつかむきっかけに繋がります。
3拍子とか4拍子とか、リズムの種類とか、転調とか、変化音とか、こういうことを感覚的に覚えていくわけです。
このようなことを理解できた人は、それを自分のさらなる演奏向上に結びつけようとしたり、それを応用してオリジナルな世界を追究しようとするのではないでしょうか。
楽器演奏の趣味層の入り口は、気に入った音楽のメロディを楽器でなぞることにある、というのが今のところの私の結論。
もし、そうであるとすると、入り口では単旋律のメロディを弾けることが重要と意識することによって、楽器入門のあり方がもっとクリアになってくるような気がしてきました。
今回はさらにこの趣味層の気持ちについて考えてみようと思います。
というのは、これは私の息子を見ていて思い付いたのですが、楽器を弾きたいということは、音楽鑑賞の一つの形態だと考えられるのではないかと感じたからです。
◆
これまで音楽を聴くこととと楽器を演奏することは、行動としては全く別のものなので、漠然とその心持ちは違うものと思っていたのです。
ところが、息子の行動パターンを見ていると、「音楽を何度も聴く」→「その曲を歌う」→「その曲の伴奏があると一緒に歌いたくなる」→「楽器を弾いているのを見て、その旋律を弾きたくなる」という流れがごく自然なものに思えてきました。
つまり楽器演奏の入り口は音楽鑑賞と続きの関係にあるのではないかと考えられるのです。
音楽鑑賞から自らが音楽を生み出すまでの流れを図にしてみました。
ある音楽が気に入ったとき、その人はその音楽を何度も聴くと思います。
何度も聴いているうちにその音楽を口ずさむようになります。
もし、幸いなことにその人の周辺に楽器があり、弾きたくなるような環境にあるのなら、その楽器でメロディを奏でたくなると思います。
メロディを楽器で弾くことによって、音楽は頭の中で(演奏情報として)コード化され、音楽の再現性が飛躍的に高まります。
このような経験を重ねることで、気に入った音楽を何度も自分で反芻できることの喜びを感じ、その結果メロディはより強固にその人の心に刻まれることになることでしょう。
また、楽器演奏を重ねることによって、体系的にでなくても、その音楽に潜む気持ちの良さ、あるいはその音楽の特徴をつかむきっかけに繋がります。
3拍子とか4拍子とか、リズムの種類とか、転調とか、変化音とか、こういうことを感覚的に覚えていくわけです。
このようなことを理解できた人は、それを自分のさらなる演奏向上に結びつけようとしたり、それを応用してオリジナルな世界を追究しようとするのではないでしょうか。
◆
楽器演奏の趣味層の入り口は、気に入った音楽のメロディを楽器でなぞることにある、というのが今のところの私の結論。
もし、そうであるとすると、入り口では単旋律のメロディを弾けることが重要と意識することによって、楽器入門のあり方がもっとクリアになってくるような気がしてきました。
2014年9月1日月曜日
人はなぜ楽器を弾くのか ─趣味層と本格層─
一人で弾いて楽しむだけの人、他の人に聴いてもらうために演奏する人、楽器を弾く人をこのように分けるなら、圧倒的に多数の人は前者に属します。
ひとまず前者を趣味層、後者を本格層と呼ぶこととします。
趣味層は大多数ではあるのですが、この人たちの行動パターンは本格層の動向に左右されます。演奏についてはある種のヒエラルキーがあり、必ずしも大多数の意向が反映された楽器が売れるわけではありません。この辺りは、芸術に属するビジネスの難しいところではあると思います。
前回、この話をブログに書いたときは、趣味層だけでなく本格層にリーチするような厳しい世界に耐えうる楽器であることが必要ではないか(ちょっと違う表現ですが)といったようなことを主張しました。
とは言え、大多数の趣味層にとっても重要なアプローチはあるのかもしれない、という視点で今回は考えてみたいと思います。
まず、その楽器の敷居の高さは趣味層、本格層の比率に大きな影響を与えると思います。
敷居の高さをもう一段階噛み砕いて言うと、最初に楽器を手にしたとき、いきなりまともな音が出せる楽器かどうか、ということです。
マウスピースを使う金管楽器は、初心者には最初は音が出せません。ヴァイオリンも弓を均等に弦にあてることが難しく、まともな音が出せません。なおかつフレットが無いので、音程も全くコントロールできないでしょう。
それに比べると、鍵盤楽器やサックスなどの楽器は、ただ音を出すだけなら最初のハードルは低いです。
敷居の低さは楽器人口に直接的に影響すると思います。
ピアノやサックスはやはり演奏人口が多いですし、管弦楽器となると桁は一気に下がる気がします。
単に商売のことを考えるなら、敷居が低い楽器のほうが圧倒的に有利でしょう。
敷居の高い楽器は楽器人口が少なくなるので、楽器も高価となり、余計やる気のある人しか買わなくなります。楽器人口内の本格層の比率が高まります。
逆に敷居の低い楽器は、初心者が多くなるので、楽器はコモディティ化しやすくなり、ますます多くの人が練習を始め易くなっていきます。
それから、その楽器が単独でよく使われるものか、アンサンブルを前提としているものかでも趣味層と本格層のあり方に影響を与えることでしょう。
吹奏楽器は単音ですから、実際に音楽に使われる際はアンサンブルになることがほとんどです。このような楽器において、一人で趣味で弾くということはあまりあり得ません。
その一方、ギターやピアノのようなコードを弾ける楽器は一人でも音楽になりやすいので、趣味層が多いと言えると思います。
それぞれの楽器はそれぞれに特徴があり、何が良いか悪いか、というようなことを言うつもりは無いのですが、楽器をビジネスとして考えたとき、たくさん売れる楽器が欲しければ趣味層にアプローチせざるを得ません。
上の考察からは、少なくとも趣味層には演奏の敷居が低くて、一人で音楽全体を演奏できるような楽器が好まれると思います。
あるいは、アンサンブル向けの楽器であったとしても、上のような条件をうまく考えて楽器設計を行なえば、趣味層を取り込むことも出来るかもしれません。
新規性の高い楽器を作って、ビジネスでそこそこの売り上げを出すために(音楽文化的にやや邪道であったとしても)いろいろな工夫をすることが出来るのではないでしょうか。
ひとまず前者を趣味層、後者を本格層と呼ぶこととします。
趣味層は大多数ではあるのですが、この人たちの行動パターンは本格層の動向に左右されます。演奏についてはある種のヒエラルキーがあり、必ずしも大多数の意向が反映された楽器が売れるわけではありません。この辺りは、芸術に属するビジネスの難しいところではあると思います。
前回、この話をブログに書いたときは、趣味層だけでなく本格層にリーチするような厳しい世界に耐えうる楽器であることが必要ではないか(ちょっと違う表現ですが)といったようなことを主張しました。
とは言え、大多数の趣味層にとっても重要なアプローチはあるのかもしれない、という視点で今回は考えてみたいと思います。
◆
まず、その楽器の敷居の高さは趣味層、本格層の比率に大きな影響を与えると思います。
敷居の高さをもう一段階噛み砕いて言うと、最初に楽器を手にしたとき、いきなりまともな音が出せる楽器かどうか、ということです。
マウスピースを使う金管楽器は、初心者には最初は音が出せません。ヴァイオリンも弓を均等に弦にあてることが難しく、まともな音が出せません。なおかつフレットが無いので、音程も全くコントロールできないでしょう。
それに比べると、鍵盤楽器やサックスなどの楽器は、ただ音を出すだけなら最初のハードルは低いです。
敷居の低さは楽器人口に直接的に影響すると思います。
ピアノやサックスはやはり演奏人口が多いですし、管弦楽器となると桁は一気に下がる気がします。
単に商売のことを考えるなら、敷居が低い楽器のほうが圧倒的に有利でしょう。
敷居の高い楽器は楽器人口が少なくなるので、楽器も高価となり、余計やる気のある人しか買わなくなります。楽器人口内の本格層の比率が高まります。
逆に敷居の低い楽器は、初心者が多くなるので、楽器はコモディティ化しやすくなり、ますます多くの人が練習を始め易くなっていきます。
それから、その楽器が単独でよく使われるものか、アンサンブルを前提としているものかでも趣味層と本格層のあり方に影響を与えることでしょう。
吹奏楽器は単音ですから、実際に音楽に使われる際はアンサンブルになることがほとんどです。このような楽器において、一人で趣味で弾くということはあまりあり得ません。
その一方、ギターやピアノのようなコードを弾ける楽器は一人でも音楽になりやすいので、趣味層が多いと言えると思います。
◆
それぞれの楽器はそれぞれに特徴があり、何が良いか悪いか、というようなことを言うつもりは無いのですが、楽器をビジネスとして考えたとき、たくさん売れる楽器が欲しければ趣味層にアプローチせざるを得ません。
上の考察からは、少なくとも趣味層には演奏の敷居が低くて、一人で音楽全体を演奏できるような楽器が好まれると思います。
あるいは、アンサンブル向けの楽器であったとしても、上のような条件をうまく考えて楽器設計を行なえば、趣味層を取り込むことも出来るかもしれません。
新規性の高い楽器を作って、ビジネスでそこそこの売り上げを出すために(音楽文化的にやや邪道であったとしても)いろいろな工夫をすることが出来るのではないでしょうか。
2014年8月10日日曜日
人はなぜ楽器を弾くのか
楽器を売る立場として、どのような楽器が売れるかは良く考える機会があります。
しかし、どうも私の想いは、一緒に考えようとする人たちの想いと少しずれることが多いのです。
私自身は日々楽器には触っているものの、人前で弾くような機会は無いので、必ずしもハイアマチュアとは呼べないレベルではあるのですが、それでも音楽の厳しい側面は知っているつもりです。
だから「楽器を弾く」ということに、何かひたすら楽しく、健全な印象を持っている人が多いことにやや違和感を抱くのです。
ほとんどの音楽愛好家にとって、楽器を弾いている時間は練習している時間です。
だから、楽器を練習するということはどういうことか考えれば、多くの人が望む楽器やサービスが思い付くような気がします。
しかし、どのような楽器が欲しいか、というお題でブレストすると、多くの人は一緒にアンサンブルして楽しいとか、簡単に曲が作れるとか、勝手に最適な音色が選ばれるとか、やや都合のいい意見ばかり出てきたりしてしまいます。
しかし、そもそも私たちはなぜ楽器を弾くのでしょう?
誰のために楽器を弾くのでしょう?
自分のため?他人のため?
自分の身近な人のため?会ったことも無い人のため?
確かに音楽を聴いて気持ちいいと思ったり、自分で弾いてみてさらに曲が好きになったりして、それをただ再現しようとするだけで楽しいのは確か。
ほとんどの人は、ただ自分のため、自分が気持ちいいと思う快楽のために楽器を弾いているのかもしれません。
しかし、そこに人が絡んでくると話はちょっと変わります。
新しく絡んできた人は、あなたの演奏を聴いてくれる人でしょうか?
それとも一緒に楽器を弾いてくれる人でしょうか?
いずれにしても、もう一人関わる人が増えることによって、楽器から奏でられる演奏そのものの質が何らかの意味を持ち始めます。
曲をうまく弾ければ、「スゴい!」と褒めてくれるかもしれません。しかし、そういう評価をもらうためにはそれ相応の練習が必要です。
他人とのアンサンブルをするのなら、相手に失礼にならない程度の譜読みを事前にやっておくべきでしょうし、あまりに下手だとアンサンブルの場にも微妙な空気が流れます。
逆に十分に演奏が上手い人には、練習する必要さえない場合もあるでしょう。そこには歴然とした実力の差が存在するわけです。
そうやって、自分一人の快楽で楽しんでいた楽器演奏が、他人が絡むことによって「練習」と「評価」というただの快楽で済まない要素が必ず現れます。
そこには、誰でも弾いて楽しめる、という夢のような世界はないのです。
それでも、楽器を買ってくれる多くの人は、一人で演奏して、自分の快楽のためだけに弾く人がほとんどです。
楽器を売るのなら、このような人たちの感覚を無視するわけにはいかないのですが、音楽文化は楽器を人に聴かせるための厳しい世界にいる人たちこそがドライブしていることは忘れてはいけません。
楽しい世界と人に評価される厳しい世界、両輪を理解することでより深みのある楽器が生まれてくるのではないかと思います。
しかし、どうも私の想いは、一緒に考えようとする人たちの想いと少しずれることが多いのです。
私自身は日々楽器には触っているものの、人前で弾くような機会は無いので、必ずしもハイアマチュアとは呼べないレベルではあるのですが、それでも音楽の厳しい側面は知っているつもりです。
だから「楽器を弾く」ということに、何かひたすら楽しく、健全な印象を持っている人が多いことにやや違和感を抱くのです。
◆
ほとんどの音楽愛好家にとって、楽器を弾いている時間は練習している時間です。
だから、楽器を練習するということはどういうことか考えれば、多くの人が望む楽器やサービスが思い付くような気がします。
しかし、どのような楽器が欲しいか、というお題でブレストすると、多くの人は一緒にアンサンブルして楽しいとか、簡単に曲が作れるとか、勝手に最適な音色が選ばれるとか、やや都合のいい意見ばかり出てきたりしてしまいます。
しかし、そもそも私たちはなぜ楽器を弾くのでしょう?
誰のために楽器を弾くのでしょう?
自分のため?他人のため?
自分の身近な人のため?会ったことも無い人のため?
確かに音楽を聴いて気持ちいいと思ったり、自分で弾いてみてさらに曲が好きになったりして、それをただ再現しようとするだけで楽しいのは確か。
ほとんどの人は、ただ自分のため、自分が気持ちいいと思う快楽のために楽器を弾いているのかもしれません。
しかし、そこに人が絡んでくると話はちょっと変わります。
新しく絡んできた人は、あなたの演奏を聴いてくれる人でしょうか?
それとも一緒に楽器を弾いてくれる人でしょうか?
いずれにしても、もう一人関わる人が増えることによって、楽器から奏でられる演奏そのものの質が何らかの意味を持ち始めます。
曲をうまく弾ければ、「スゴい!」と褒めてくれるかもしれません。しかし、そういう評価をもらうためにはそれ相応の練習が必要です。
他人とのアンサンブルをするのなら、相手に失礼にならない程度の譜読みを事前にやっておくべきでしょうし、あまりに下手だとアンサンブルの場にも微妙な空気が流れます。
逆に十分に演奏が上手い人には、練習する必要さえない場合もあるでしょう。そこには歴然とした実力の差が存在するわけです。
そうやって、自分一人の快楽で楽しんでいた楽器演奏が、他人が絡むことによって「練習」と「評価」というただの快楽で済まない要素が必ず現れます。
そこには、誰でも弾いて楽しめる、という夢のような世界はないのです。
◆
それでも、楽器を買ってくれる多くの人は、一人で演奏して、自分の快楽のためだけに弾く人がほとんどです。
楽器を売るのなら、このような人たちの感覚を無視するわけにはいかないのですが、音楽文化は楽器を人に聴かせるための厳しい世界にいる人たちこそがドライブしていることは忘れてはいけません。
楽しい世界と人に評価される厳しい世界、両輪を理解することでより深みのある楽器が生まれてくるのではないかと思います。
2014年7月27日日曜日
「作る」の未来
本日、浜松の鴨江アートセンターで開催されたドキュメンタリー「Maker」の上映会に行ってきました。
上映時間は1時間ほど。70人くらいは集まっていたのではないでしょうか。
今日はFablab浜松の立ち上げということもあり、会場全体いい感じに盛り上がっていたと思います。
このドキュメンタリーでは、人はそもそも一人一人が何かを作ることが好きなはずで、3Dプリンタなどの技術のおかげで、昔のように再び個々人が自分の好きなものを作るような時代になるはずだ、ということを主張しています。
企業によって工場での大規模な製造でモノが作られるようになったのはせいぜいここ数十年のこと。人々が単調な工場労働で大量に同じものを作る時代をやや揶揄しながら、最近のMakers Movementに対して「作る」ことが民主化され始めている、という表現をしています。
「民主化」というと、日本では政治的な意味をすぐに思い浮かべますが、英語ではもうちょっとニュアンスが違うのでしょう。
特定の人たちしか出来なかったことが、誰でも出来るように解放されることが、このドキュメンタリーの中で語られる「民主化」の意味なのだと思います。
そして私にとって、このドキュメンタリーで最も重要なキーワードは「民主化」だと感じたのです。
ここで登場した「作る」人たちは本当に生き生きとしています。
ザリガニのオーケストラとか何だか意味不明だけど、バカバカしくて面白い。そういった思いつきでいろいろ作ってしまおうという熱気は、企業の商品開発計画では絶対に作り出せないものです。
そういう意味で、Makers Movementが徹底的に個人の楽しみであるということが、とても重要だと思うのです。さらに「作る」ことがナンセンス化してくることによって、アートにますます近づいていくようにも思えます。
何回か書いていますが、私たちは最後には一人一人が独立したアーティストであるべきなのです。
「作る」の民主化は、人々が自由に何かを作れるようになるという可能性の未来ということだけでなく、一人一人がアーティストとしての矜持を持った個人であらねばならないという厳しい現実を突き付けるかもしれません。
あるいは、もしかしたら「作る」人たちは、実際の人間のごく一部であり、本当に何かを作りたい個人が「作る」人として活躍できるような未来になるのかもしれません。
いくら誰でも作れる未来になっても、本当に作ろうと思う人たちは一握りであるとするなら、Makers Movementはもっと社会的な効率性とか役割分担とかそういう議論とシンクロしていく必要があるでしょう。
実際には私も、誰もが作りたい人、ではないかもしれないと思っています。
それでも、作りたいけれど才能が無いから諦めている、という人たちは作りたい人予備軍であり、作りたい人は意外と多いのかもしれない、という全く別の可能性もあります。
まだまだ、Makers Movementの結末は誰にも分かりません。
それでも彼の地アメリカでは、多くの作る人が頑張っています。この映画でそれを垣間みて、未来がまた楽しみになってきました。
上映時間は1時間ほど。70人くらいは集まっていたのではないでしょうか。
今日はFablab浜松の立ち上げということもあり、会場全体いい感じに盛り上がっていたと思います。
◆
このドキュメンタリーでは、人はそもそも一人一人が何かを作ることが好きなはずで、3Dプリンタなどの技術のおかげで、昔のように再び個々人が自分の好きなものを作るような時代になるはずだ、ということを主張しています。
企業によって工場での大規模な製造でモノが作られるようになったのはせいぜいここ数十年のこと。人々が単調な工場労働で大量に同じものを作る時代をやや揶揄しながら、最近のMakers Movementに対して「作る」ことが民主化され始めている、という表現をしています。
「民主化」というと、日本では政治的な意味をすぐに思い浮かべますが、英語ではもうちょっとニュアンスが違うのでしょう。
特定の人たちしか出来なかったことが、誰でも出来るように解放されることが、このドキュメンタリーの中で語られる「民主化」の意味なのだと思います。
そして私にとって、このドキュメンタリーで最も重要なキーワードは「民主化」だと感じたのです。
◆
ここで登場した「作る」人たちは本当に生き生きとしています。
ザリガニのオーケストラとか何だか意味不明だけど、バカバカしくて面白い。そういった思いつきでいろいろ作ってしまおうという熱気は、企業の商品開発計画では絶対に作り出せないものです。
そういう意味で、Makers Movementが徹底的に個人の楽しみであるということが、とても重要だと思うのです。さらに「作る」ことがナンセンス化してくることによって、アートにますます近づいていくようにも思えます。
何回か書いていますが、私たちは最後には一人一人が独立したアーティストであるべきなのです。
「作る」の民主化は、人々が自由に何かを作れるようになるという可能性の未来ということだけでなく、一人一人がアーティストとしての矜持を持った個人であらねばならないという厳しい現実を突き付けるかもしれません。
あるいは、もしかしたら「作る」人たちは、実際の人間のごく一部であり、本当に何かを作りたい個人が「作る」人として活躍できるような未来になるのかもしれません。
いくら誰でも作れる未来になっても、本当に作ろうと思う人たちは一握りであるとするなら、Makers Movementはもっと社会的な効率性とか役割分担とかそういう議論とシンクロしていく必要があるでしょう。
実際には私も、誰もが作りたい人、ではないかもしれないと思っています。
それでも、作りたいけれど才能が無いから諦めている、という人たちは作りたい人予備軍であり、作りたい人は意外と多いのかもしれない、という全く別の可能性もあります。
◆
まだまだ、Makers Movementの結末は誰にも分かりません。
それでも彼の地アメリカでは、多くの作る人が頑張っています。この映画でそれを垣間みて、未来がまた楽しみになってきました。
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2014年6月28日土曜日
もし硬派なプラネタリウムがあったら
先日久しぶりにプラネタリウムに家族三人で行きました。
KAGAYAという方が作っている「銀河鉄道の夜」の上映を見ました。
内容自体は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の世界に興味を持ってもらうようによく出来ていますし、何しろ美しいCGがとても幻想的で、多くの人がひとときのエンターテインメントとして楽しめる内容になっていると思います。
プラネタリウムについてはかなり前に一度書いたことがあります。
これも15年前に書いたものなんですが、このときにも書いた通り、私は大昔の単純に星座を紹介していたプラネタリウムのあり方にとても郷愁をおぼえるわけです。
確かに、技術が古かった当時を懐かしく感じ、それ故に現状に寂しさを感じるというのはよくある話なのですが、それ以上に、やはり現状のプラネタリウムの番組上映の現状は、やや歪んでいるのではないかという気持ちを拭うことが出来ません。
今でもプラネタリウムは科学館のような場所で上映されます。
科学館という場所は、多くの人々に科学に興味を持ってもらうようにいろいろな展示や、参加型のイベント、各種上映などを行っています。
実際のところ、そこに来る人に科学に興味を持ってもらうため、どのように展示品を見せたら良いのかというのは大変難しい問題なのですが、最終的に科学館ではお客様に何らかの科学的啓蒙を与えることが目的だと思うわけです。
アトラクションや展示が面白おかしくあることは、簡単に楽しみたい入場者にとって嬉しいことですが、結果的にお客様に科学的啓蒙をほとんど与えないのであれば、それはやはり本来の機能を果たしていないような気がします。
プラネタリウムは20年ほど前から、ランプとレンズが山ほど集積された黒い固まりの機械から映画のような上映装置に変換されていきました。
また、お客さんが見やすいように、観る方向が一方向に固定され、天球がやや傾いて映写されるようになったように思います。おそらく映写装置が標準化されたのでしょう。
それ自体は技術の進歩だし、良いことだと思います。
しかし、半円のスクリーンで映写する内容はだんだん遊園地のアトラクションのように変化し、星の紹介はプラネタリウムだからと申し訳程度に行うようになってしまいました。
星を見ることは基本的にロマンチックなことです。
ですから、ロマンチックな気持ちになることを目的にするならば、もはや小賢しい星の紹介など必要ないのかもしれません。
ですから、それがプラネタリウムだと思わなければ星の紹介がなくたって良いのかもしれません。
であれば、単純に星の紹介だけをするもっと硬派なプラネタリウムがあっても良いのではと思います。いや、実際あるのかもしれませんが・・・
私はプラネタリウムが科学的啓蒙より多くの人にロマンチックな体験をしてもらうためのアトラクションになってしまうことは商業主義的だから良くない、などと言うつもりはありません。なぜなら商売することを否定したら、世の中が成り立たないからです。
むしろ各地の科学館が右向け右して、似たような番組が全国のプラネタリウムで上映されているこの状況においては、むしろ硬派なプラネタリウムが商業的に成り立つ可能性はないだろうかという気もするのです。
プラネタリウム自体は小さくても構いません。
が、必ず季節の星座を紹介し、直近の天体ショーについて説明し、場合によっては星座にまつわるギリシャ神話を紹介し、おシャレでややマニアックな音楽をかけて、外に出るとちょっとしたカフェなどついていれば良いでしょう。
こういう場所なら、ちょっと通ってもいいよなあと私は思いますが、いかがなものでしょうか。
KAGAYAという方が作っている「銀河鉄道の夜」の上映を見ました。
内容自体は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の世界に興味を持ってもらうようによく出来ていますし、何しろ美しいCGがとても幻想的で、多くの人がひとときのエンターテインメントとして楽しめる内容になっていると思います。
プラネタリウムについてはかなり前に一度書いたことがあります。
これも15年前に書いたものなんですが、このときにも書いた通り、私は大昔の単純に星座を紹介していたプラネタリウムのあり方にとても郷愁をおぼえるわけです。
確かに、技術が古かった当時を懐かしく感じ、それ故に現状に寂しさを感じるというのはよくある話なのですが、それ以上に、やはり現状のプラネタリウムの番組上映の現状は、やや歪んでいるのではないかという気持ちを拭うことが出来ません。
◆
今でもプラネタリウムは科学館のような場所で上映されます。
科学館という場所は、多くの人々に科学に興味を持ってもらうようにいろいろな展示や、参加型のイベント、各種上映などを行っています。
実際のところ、そこに来る人に科学に興味を持ってもらうため、どのように展示品を見せたら良いのかというのは大変難しい問題なのですが、最終的に科学館ではお客様に何らかの科学的啓蒙を与えることが目的だと思うわけです。
アトラクションや展示が面白おかしくあることは、簡単に楽しみたい入場者にとって嬉しいことですが、結果的にお客様に科学的啓蒙をほとんど与えないのであれば、それはやはり本来の機能を果たしていないような気がします。
プラネタリウムは20年ほど前から、ランプとレンズが山ほど集積された黒い固まりの機械から映画のような上映装置に変換されていきました。
また、お客さんが見やすいように、観る方向が一方向に固定され、天球がやや傾いて映写されるようになったように思います。おそらく映写装置が標準化されたのでしょう。
それ自体は技術の進歩だし、良いことだと思います。
しかし、半円のスクリーンで映写する内容はだんだん遊園地のアトラクションのように変化し、星の紹介はプラネタリウムだからと申し訳程度に行うようになってしまいました。
星を見ることは基本的にロマンチックなことです。
ですから、ロマンチックな気持ちになることを目的にするならば、もはや小賢しい星の紹介など必要ないのかもしれません。
ですから、それがプラネタリウムだと思わなければ星の紹介がなくたって良いのかもしれません。
◆
であれば、単純に星の紹介だけをするもっと硬派なプラネタリウムがあっても良いのではと思います。いや、実際あるのかもしれませんが・・・
私はプラネタリウムが科学的啓蒙より多くの人にロマンチックな体験をしてもらうためのアトラクションになってしまうことは商業主義的だから良くない、などと言うつもりはありません。なぜなら商売することを否定したら、世の中が成り立たないからです。
むしろ各地の科学館が右向け右して、似たような番組が全国のプラネタリウムで上映されているこの状況においては、むしろ硬派なプラネタリウムが商業的に成り立つ可能性はないだろうかという気もするのです。
プラネタリウム自体は小さくても構いません。
が、必ず季節の星座を紹介し、直近の天体ショーについて説明し、場合によっては星座にまつわるギリシャ神話を紹介し、おシャレでややマニアックな音楽をかけて、外に出るとちょっとしたカフェなどついていれば良いでしょう。
こういう場所なら、ちょっと通ってもいいよなあと私は思いますが、いかがなものでしょうか。
2013年12月14日土曜日
ボカロ文化と音楽の作家性
初音ミクから始まったボカロムーブメントとでも呼ぶべき現象は、すでに多くの人がいろいろ語っていることと思いますが、私自身これは音楽の歴史における一つの転換点となり得る出来事だったのではないかと考えています。
本来音楽を楽しむためには、誰かがその場で楽器を演奏する必要がありました。
音楽は多分人間が人間になる以前からあった根源的な芸術だと私は思っているのですが、長い音楽の歴史のほとんどの間、音楽は常に誰かが演奏し、それが人から人に技として伝わることで伝承されていたのが現実ではなかったでしょうか。
確かに直接人に伝えなくても、楽譜に演奏情報を記録するという方法で音楽を広める手段もありますが、楽譜もたかだか数百年の歴史しか無く、また楽譜でスポイルされてしまう演奏情報というのは確実にあります。
つまり、音楽というのは、これまで作曲家兼演奏家が直接目の前の人たちにパフォーマンスを行ない、それを楽しむというようなものだったわけです。
音楽の楽しみ方の大きな変化の一つは、レコードが出現したときでした。
目の前で演奏するより臨場感は無くなってしまうものの、音そのものを記録でき、それを後で聞き返すことができることによって、音楽はFaceToFaceの芸術であることから解き放たれました。
しかし、それでもレコードに録音するためには楽器を演奏する必要がありました。
その後、録音技術が発達し、同時に演奏せずに個別に録音が出来るようになったり、個別に録ったものを聞きやすくするように編集する技術が高まり、「録音された音楽」が音楽の成果物としての一つとして確立されることになったのです。
それでも録音された音楽の向こう側には演奏する誰かがいました。
その演奏もコンピュータによる制御で人が演奏しなくてもかなりの精度で演奏することが可能になってきました。
それでもどうしても録音しなければならなかった最後の楽器が人の声でした。
人が歌を歌うという行為は、あまりに簡単なわりに、それを機械にさせることが大変難しかったため、置き換わるほどの経済的メリットが無かったわけです。
とはいえ楽器がいくらうまくても歌はヘタという人はいるし、歌はとても上手いのに作曲や演奏が出来ない人もいます。
上手い歌手を雇えなかったり,思い通りの歌を歌ってくれる人がいなかったりすることで、自分が作りたい音楽を作れなかった人もいることでしょう。
だから、歌が上手い人が最後に録音しないと音楽が完成しないということは、いつまでも音楽が複数人での協力体制無しに出来ないことを意味していたのです。
そこに現れたのが初音ミク&ボカロムーブメントです。
率直に言ってボーカルの質はまだまだ本物にはかなわないのですが、萌え的な価値観なら、経済的に許せるところまで機械に歌を歌わせることが可能になりました。
そしてさらに、そこに現れたのがボカロPというボーカロイドを使いこなす人々の登場です。
ボカロPは自分で作詩作曲し、自分でDAWで打ち込みし、ボーカロイドで歌わせて、最後のミックスダウンまで一人で行ないます。
彼らの出現で、音楽作品の全てを何も演奏しないままたった一人で製作する、というスタイルが図らずも確立してしまったのです。
これがなぜ、音楽の歴史の転換点と言えるのでしょうか。
音楽芸術は、先にも言ったようにリアルタイムのパフォーマンスでした。
つまり、ダンスとか演劇とかと同じ範疇に入る種類の芸術だったのです。
しかし、録音された音楽の出現からボカロPの誕生に至る過程で、音楽は文学とか絵画とかのような一人の作家が作る芸術としての側面も持ち始めたということが言えるわけです。
もちろん生演奏としての音楽は今後も無くなることはないでしょう。
しかし音楽という芸術のジャンルがパフォーマンス系だけでなく、ノンリアルタイムの作家性の高い芸術としての側面を持ち始めたことは、音楽の歴史の大きな転換点になるのではないかと思うのです。
文字や紙、本の発明が、文学を後世まで残すようになったことと同様に、録音技術やデジタル技術の発明・発展が、音そのものを後世まで残せるようになりました。
今までは楽譜を書く作曲家の名前は後世に名を残しましたが、これからは音そのものを残す作家としての音楽家が世に残るという時代が訪れたと言えるのではないでしょうか。
本来音楽を楽しむためには、誰かがその場で楽器を演奏する必要がありました。
音楽は多分人間が人間になる以前からあった根源的な芸術だと私は思っているのですが、長い音楽の歴史のほとんどの間、音楽は常に誰かが演奏し、それが人から人に技として伝わることで伝承されていたのが現実ではなかったでしょうか。
確かに直接人に伝えなくても、楽譜に演奏情報を記録するという方法で音楽を広める手段もありますが、楽譜もたかだか数百年の歴史しか無く、また楽譜でスポイルされてしまう演奏情報というのは確実にあります。
つまり、音楽というのは、これまで作曲家兼演奏家が直接目の前の人たちにパフォーマンスを行ない、それを楽しむというようなものだったわけです。
◆
音楽の楽しみ方の大きな変化の一つは、レコードが出現したときでした。
目の前で演奏するより臨場感は無くなってしまうものの、音そのものを記録でき、それを後で聞き返すことができることによって、音楽はFaceToFaceの芸術であることから解き放たれました。
しかし、それでもレコードに録音するためには楽器を演奏する必要がありました。
その後、録音技術が発達し、同時に演奏せずに個別に録音が出来るようになったり、個別に録ったものを聞きやすくするように編集する技術が高まり、「録音された音楽」が音楽の成果物としての一つとして確立されることになったのです。
それでも録音された音楽の向こう側には演奏する誰かがいました。
その演奏もコンピュータによる制御で人が演奏しなくてもかなりの精度で演奏することが可能になってきました。
それでもどうしても録音しなければならなかった最後の楽器が人の声でした。
人が歌を歌うという行為は、あまりに簡単なわりに、それを機械にさせることが大変難しかったため、置き換わるほどの経済的メリットが無かったわけです。
とはいえ楽器がいくらうまくても歌はヘタという人はいるし、歌はとても上手いのに作曲や演奏が出来ない人もいます。
上手い歌手を雇えなかったり,思い通りの歌を歌ってくれる人がいなかったりすることで、自分が作りたい音楽を作れなかった人もいることでしょう。
だから、歌が上手い人が最後に録音しないと音楽が完成しないということは、いつまでも音楽が複数人での協力体制無しに出来ないことを意味していたのです。
そこに現れたのが初音ミク&ボカロムーブメントです。
率直に言ってボーカルの質はまだまだ本物にはかなわないのですが、萌え的な価値観なら、経済的に許せるところまで機械に歌を歌わせることが可能になりました。
そしてさらに、そこに現れたのがボカロPというボーカロイドを使いこなす人々の登場です。
ボカロPは自分で作詩作曲し、自分でDAWで打ち込みし、ボーカロイドで歌わせて、最後のミックスダウンまで一人で行ないます。
彼らの出現で、音楽作品の全てを何も演奏しないままたった一人で製作する、というスタイルが図らずも確立してしまったのです。
◆
これがなぜ、音楽の歴史の転換点と言えるのでしょうか。
音楽芸術は、先にも言ったようにリアルタイムのパフォーマンスでした。
つまり、ダンスとか演劇とかと同じ範疇に入る種類の芸術だったのです。
しかし、録音された音楽の出現からボカロPの誕生に至る過程で、音楽は文学とか絵画とかのような一人の作家が作る芸術としての側面も持ち始めたということが言えるわけです。
もちろん生演奏としての音楽は今後も無くなることはないでしょう。
しかし音楽という芸術のジャンルがパフォーマンス系だけでなく、ノンリアルタイムの作家性の高い芸術としての側面を持ち始めたことは、音楽の歴史の大きな転換点になるのではないかと思うのです。
文字や紙、本の発明が、文学を後世まで残すようになったことと同様に、録音技術やデジタル技術の発明・発展が、音そのものを後世まで残せるようになりました。
今までは楽譜を書く作曲家の名前は後世に名を残しましたが、これからは音そのものを残す作家としての音楽家が世に残るという時代が訪れたと言えるのではないでしょうか。
2013年10月19日土曜日
一人で生きることとみんなで生きること ─みんなで何かを作る
私たちは日常的に「何かを作る」行為を行なっています。
当然、複数人で何か一つのものを作るということもあります。
複数人で何かを作る場合には、一定のルールを設ける必要がどうしても出てきます。
一つのものをみんなで作ろうとした場合、目に見えないそういったルールや作業分担の仕組みが、作った物の出来映えに大きく影響します。
ところで、私は作曲活動をしていますが、通常作曲は一人で行なうものです。
作曲のアウトプットは楽譜とすると、私は一人で楽譜を作れば良いのです。楽譜を作るためにはテーマを決めて、構成を決めて、音符を配置し、表現を付けて、間違いがないか調べて、見た目を整えて・・・といった作業を行ないます。
例えば,上記の作業を複数人でやったらどうでしょうか。
まず作業をどのように割り振るか考える必要があります。
もちろん一つ一つの作業をみんなで相談しながらやっても構いません。特に最初のテーマ決めは全員が関わりたい作業でしょう。しかし、作業が細かくなるにつれ、同じ箇所をみんなで相談しながら作ると時間ばかりかかって一向に作業が進まなくなります。
ここでいくつか作業の割り振りを決める必要があります。
テーマを決めた後、楽曲を人数分に分割して、それぞれの箇所を一人の人に担当してもらうやり方がまず考えられます。水平分担型とでもいいましょうか。
あるいは、複数人が同時に作業しなくても良いのなら、全体の仕事の分割を流れ作業的にして、まず細かい曲構成を決める人、構成に従って音符を配置する人、音量などの表現を書き込む人、校正・チェックを行なう人、という分担も考えられます。これを垂直分担型と呼ぶことにしましょう。
まあ、作曲の場合、芸術的な要素が強いので、後者の垂直分担ということはまず考えられませんが、実利的な面が強ければ作業内容ごとに分担を分けることは効率的で、アウトプットを均質化します。
上記の作曲の例でいうと、垂直分担型の難しさは非常に分かりやすくなります。
つまり、曲の構造を考えてもメロディは別の人とか、メロディを考えるのと音量を考えるのが別の人とか、まあ正直、こんな方法で作曲を行なうのはかなり難しいです。
それでも敢えてそういう分担を行なうなら、構成担当者とメロディ担当者と音量担当者が、音楽の流れの盛り上がり方や落ち着かせ方の分類を行ない、その相互関係のルールを決めて、表記法や禁則などを文書化する必要が出てくるでしょう。
こう書くと無茶苦茶ヘンテコなお話のように見えますが、話が作曲でなければ、こういうことは日常的に多くの人が行なっていることです。
私は仕事でプログラムを書いていますが、まさに似たような問題にいつも遭遇します。
今でもプログラミングの多くのプロジェクトは水平分担型で仕事を割り振っています。
ところが、よりプログラムが大規模になってくると、OS部分や、表示のフレームワークといったソフトウェアの部品を担当する人が必要になってきます。OS機能は多くの人が利用するので、これはまさに垂直分担型ということになります。
そして世の中は、OSがパッケージングされ、WindowsとかLinuxとか、iOSとかAndroidとか、垂直分担のパッケージがまとまった創作物として確立してしまいました。
このように各層をブラックボックス化すれば、作業の効率は飛躍的に高まるからです。こういった傾向は今後ますます拍車がかかるでしょう。最終的にはソフトウェアがブロック化され、最終商品はブロックを組み合わせることによって作成するようなメタプログラミング的世界がやってくるものと思います。
やや話が逸れましたが、みんなで何かを作る場合、上記のような水平分担か垂直分担かの判断の必要があり、それを統べるリーダーがその分担について自覚的でなければいけないと思います。
人が少ないなら、水平分担が分かりやすいのですが、分担されたものの出来映えにずいぶん差が出る可能性があります。実利的なものを作る場合、それは品質に大きく影響してしまいます。一人一人が芸術家としての矜持を持って対応出来る人たちなら水平分担は適度なライバル意識を刺激して良い結果をもたらしますが、個々人の能力差が無視出来ない場合はむしろ垂直分担を検討した方が良いような気がします。
当然、複数人で何か一つのものを作るということもあります。
複数人で何かを作る場合には、一定のルールを設ける必要がどうしても出てきます。
一つのものをみんなで作ろうとした場合、目に見えないそういったルールや作業分担の仕組みが、作った物の出来映えに大きく影響します。
ところで、私は作曲活動をしていますが、通常作曲は一人で行なうものです。
作曲のアウトプットは楽譜とすると、私は一人で楽譜を作れば良いのです。楽譜を作るためにはテーマを決めて、構成を決めて、音符を配置し、表現を付けて、間違いがないか調べて、見た目を整えて・・・といった作業を行ないます。
例えば,上記の作業を複数人でやったらどうでしょうか。
まず作業をどのように割り振るか考える必要があります。
もちろん一つ一つの作業をみんなで相談しながらやっても構いません。特に最初のテーマ決めは全員が関わりたい作業でしょう。しかし、作業が細かくなるにつれ、同じ箇所をみんなで相談しながら作ると時間ばかりかかって一向に作業が進まなくなります。
ここでいくつか作業の割り振りを決める必要があります。
テーマを決めた後、楽曲を人数分に分割して、それぞれの箇所を一人の人に担当してもらうやり方がまず考えられます。水平分担型とでもいいましょうか。
あるいは、複数人が同時に作業しなくても良いのなら、全体の仕事の分割を流れ作業的にして、まず細かい曲構成を決める人、構成に従って音符を配置する人、音量などの表現を書き込む人、校正・チェックを行なう人、という分担も考えられます。これを垂直分担型と呼ぶことにしましょう。
まあ、作曲の場合、芸術的な要素が強いので、後者の垂直分担ということはまず考えられませんが、実利的な面が強ければ作業内容ごとに分担を分けることは効率的で、アウトプットを均質化します。
上記の作曲の例でいうと、垂直分担型の難しさは非常に分かりやすくなります。
つまり、曲の構造を考えてもメロディは別の人とか、メロディを考えるのと音量を考えるのが別の人とか、まあ正直、こんな方法で作曲を行なうのはかなり難しいです。
それでも敢えてそういう分担を行なうなら、構成担当者とメロディ担当者と音量担当者が、音楽の流れの盛り上がり方や落ち着かせ方の分類を行ない、その相互関係のルールを決めて、表記法や禁則などを文書化する必要が出てくるでしょう。
こう書くと無茶苦茶ヘンテコなお話のように見えますが、話が作曲でなければ、こういうことは日常的に多くの人が行なっていることです。
私は仕事でプログラムを書いていますが、まさに似たような問題にいつも遭遇します。
今でもプログラミングの多くのプロジェクトは水平分担型で仕事を割り振っています。
ところが、よりプログラムが大規模になってくると、OS部分や、表示のフレームワークといったソフトウェアの部品を担当する人が必要になってきます。OS機能は多くの人が利用するので、これはまさに垂直分担型ということになります。
そして世の中は、OSがパッケージングされ、WindowsとかLinuxとか、iOSとかAndroidとか、垂直分担のパッケージがまとまった創作物として確立してしまいました。
このように各層をブラックボックス化すれば、作業の効率は飛躍的に高まるからです。こういった傾向は今後ますます拍車がかかるでしょう。最終的にはソフトウェアがブロック化され、最終商品はブロックを組み合わせることによって作成するようなメタプログラミング的世界がやってくるものと思います。
やや話が逸れましたが、みんなで何かを作る場合、上記のような水平分担か垂直分担かの判断の必要があり、それを統べるリーダーがその分担について自覚的でなければいけないと思います。
人が少ないなら、水平分担が分かりやすいのですが、分担されたものの出来映えにずいぶん差が出る可能性があります。実利的なものを作る場合、それは品質に大きく影響してしまいます。一人一人が芸術家としての矜持を持って対応出来る人たちなら水平分担は適度なライバル意識を刺激して良い結果をもたらしますが、個々人の能力差が無視出来ない場合はむしろ垂直分担を検討した方が良いような気がします。
2013年10月12日土曜日
完璧主義とプロフェッショナル
完璧主義がアダになってイノベーションを阻んでいる、というような言説を良く聞くようになりました。自分が日頃そう思っているから、余計にそういう話題に吸い寄せられているのかもしれません。
自分の身の回りにも、良かれと思ってやっているけれど、本当にここまでの完璧主義が必要なのかと思うようなことに遭遇することが度々あります。
我々日本人は完璧であることを美徳とする性質があるのでしょう。
工業製品の場合、性能が目に見えて良くなっていた時代は良かったのですが、あるところから革新的な変化が起こらないようになると、作り手の関心は完璧であることに移ってきたのではないか、と思うのです。
そしてそれは作り手だけでなく、製品を手に入れる消費者にも同じマインドが波及してきました。
例えば、自分の購入したある製品が思い通りに動かなかったとします。仮にそれが相当な悪条件だったり、特定の限定された状況だったとしても、そんなことは御構い無しにお客さんは販売元にクレームを付けます。
それが製品の性能限界である場合もありますし、使い方が悪いということもあるでしょう。お客さんに直接対するサポートセンターでは何とかお客さんに理解してもらうように務めますが、そういう情報はそのまま商品開発部署に流れてきます。
場合によっては、品質管理の部署にこういう問題が大きくクローズアップされ、「何とかすることは出来ないか?」という依頼が開発部署にやってきます。
本当の重大な不具合なら、上記の情報の流れ自体は全く何の問題も無いのですが、そこで扱われるクレームが現場からすれば性能限界に近いようなものであっても、中盤にいる人たちが感じる完璧主義によって途中ではリジェクトされず、お客さん以上の圧力となって現場に流れてきます。
一つのクレームが治すべきものか、そうでないのか、という判断は非常に難しいものですが、難しいからこそ完璧主義側に振れ過ぎているのが今の私たちの状況ではないかと感じます。
プロフェッショナルであるということは完璧であること、だと思っている人が多いのでしょう。
それは決して間違っているわけではありません。プロフェッショナルである条件の一つの要素であることは確かです。
しかし、それよりはるかに重要なのは、世の中が必要としている(であろう)新しい価値を提供することです。
世の中が必要としている、というのは、企業活動で言えば、その商品やサービスで売り上げが増え適正な利益が確保出来るということを意味します。利益が出るということは、支出より収入が勝っているということです。
完璧でないものを売れば、商品イメージが悪くなり結果的に売り上げが減っていくでしょうが、市場が要求する以上の完璧を求めると、完璧であることのコストが増大していき、今度は支出が増えていきます。
金勘定になると生々しい感じがしてしまうし、利益追求で品質をおろそかにするな、という批判を言う人も出てくるでしょう。しかし、過剰な完璧主義は作り手の自己満足に陥るという側面も持っていると私は感じます。
もう一度、プロフェッショナルであるということはどういうことか、本質から考えてみたいのです。
世の中に必要とされていることとのバランスを取る、ということは、プロフェッショナルであることの大きな要素です。
必要とされていないものを作ることは、言ってみればアマチュアリズムです。
プロフェッショナルであれ、ということは、世の中に必要なモノを提供し続けることであり、それは適正な利益を出せということであり、そして自己満足に陥りやすい完璧主義に落ちないようにするバランス感覚を持てということなのです。
まあ一般論として納得してもらえても、個別案件となればまた話が違ってくるのが、世の常。それは結局、プロフェッショナルとしてのセンスの問題なのでしょうけれどね・・・。
2013年8月11日日曜日
人間であることは芸術家であること
先週「これから世界は、全ての人々が芸術家であらねばならないことを要求される社会に移行する」などと書きましたが、その真意などをもう少しまとめてみようと思います。
某ブログでクラウドソーシング関連の話題が書かれていました。
一つ一つはすでにいろいろなところで聞いた話ではあるのだけど、こういう話題をひとまとめにして振り返ると、今の常識との落差に大変驚くのです。
もはや、国内の法律とかが追いつかないくらい、ネット上で世界の平均化が進行していきます。ネットの世界では流行り始めるとあっという間に拡がりますから、いまはまだそこまで行っていなくても、遠くない将来クラウドソーシングが世界中に拡がるものと思われます。
これは、特に日本の会社に良くあるように、生産性が低くても何とかなっていた仕事文化に大きな打撃を与えるはずです。
この打撃というのは、組織への忠誠、隷属とか、目立つことを良しとしない文化とか、コツコツと同じことを実直に続けることの美徳とか、金儲けを嫌う風潮とか、そういう我々のメンタリティに修正を迫るようなことを意味します。
上で挙げた我々日本人のメンタリティは、基本的に全て個人が芸術的に生きることを阻害させるようなことばかりに思えます。
芸術家は組織が嫌いですし、不条理な組織のルールを守ることが耐えられません。
芸術家は自分という人間が広く知られることを願います。もちろん、自分の得意とする分野においてです。
また、芸術家は絶えず新しいことに挑戦し、同じパターンを延々と続けることを良しとしません。
ただ、芸術家はお金儲けは苦手ですし、無頓着だったりもします。
しかし、クラウドソーシングの話は,一つの取っ掛かりに過ぎません。
ネットが世界中に拡がり、世界の情報がいつでもどこでも簡単に手に入れることが出来るようになった未来では、情報の落差でビジネスをするような仕事が減っていきます。
また、公的機関(政府機関)の存在意義がだんだん失われていき、国独自の仕事とか、市場とかがどんどん小さくなっていくことでしょう。
そのように、情報の落差や特定の地方で通用するルールの運用で仕事をしていた人たちが減っていくと、結局最後まで残る最も重要な仕事とは、イノベーションを起こし、絶えず世の中に新しい価値を提供するような仕事です。
そして、それはまさに日常的に芸術家が行なっていることでもあります。
もちろん、世の中から単純作業が全て無くなるなんてことも起きないでしょう。
しかし,そういった仕事は明らかに底辺の仕事であり、高給を取れるような仕事でないことは確かです。
全ての人々が芸術家的な生き方をすることは大変なことのように思えます。
しかし、人には誰でも得意なことがあるはずですし、それを磨くことでクリエイティブな仕事を、フルタイムでないにしても、行なうことは可能ではないでしょうか。
いろいろな反論もあるかと思います。
私自身も、ここで書いたことにロジカルな裏付けがあるわけではありません。
しかしIT技術の発展は、人々から単純作業をどんどん奪うことは確かです。奪われた人々が自分の意志で得意分野を探し、その世界を掘り下げることでクリエイティブな仕事が出来るようになる素地が形成されることは可能ではないかと思います。
人は本来芸術家である、というのも私の信条です。
その心を忘れずに保持し続け、自分をクリエイティブな世界に持っていこうと努力した方には、これから良い世界が待っているかもしれないのです。
某ブログでクラウドソーシング関連の話題が書かれていました。
一つ一つはすでにいろいろなところで聞いた話ではあるのだけど、こういう話題をひとまとめにして振り返ると、今の常識との落差に大変驚くのです。
もはや、国内の法律とかが追いつかないくらい、ネット上で世界の平均化が進行していきます。ネットの世界では流行り始めるとあっという間に拡がりますから、いまはまだそこまで行っていなくても、遠くない将来クラウドソーシングが世界中に拡がるものと思われます。
これは、特に日本の会社に良くあるように、生産性が低くても何とかなっていた仕事文化に大きな打撃を与えるはずです。
この打撃というのは、組織への忠誠、隷属とか、目立つことを良しとしない文化とか、コツコツと同じことを実直に続けることの美徳とか、金儲けを嫌う風潮とか、そういう我々のメンタリティに修正を迫るようなことを意味します。
上で挙げた我々日本人のメンタリティは、基本的に全て個人が芸術的に生きることを阻害させるようなことばかりに思えます。
芸術家は組織が嫌いですし、不条理な組織のルールを守ることが耐えられません。
芸術家は自分という人間が広く知られることを願います。もちろん、自分の得意とする分野においてです。
また、芸術家は絶えず新しいことに挑戦し、同じパターンを延々と続けることを良しとしません。
ただ、芸術家はお金儲けは苦手ですし、無頓着だったりもします。
しかし、クラウドソーシングの話は,一つの取っ掛かりに過ぎません。
ネットが世界中に拡がり、世界の情報がいつでもどこでも簡単に手に入れることが出来るようになった未来では、情報の落差でビジネスをするような仕事が減っていきます。
また、公的機関(政府機関)の存在意義がだんだん失われていき、国独自の仕事とか、市場とかがどんどん小さくなっていくことでしょう。
そのように、情報の落差や特定の地方で通用するルールの運用で仕事をしていた人たちが減っていくと、結局最後まで残る最も重要な仕事とは、イノベーションを起こし、絶えず世の中に新しい価値を提供するような仕事です。
そして、それはまさに日常的に芸術家が行なっていることでもあります。
もちろん、世の中から単純作業が全て無くなるなんてことも起きないでしょう。
しかし,そういった仕事は明らかに底辺の仕事であり、高給を取れるような仕事でないことは確かです。
全ての人々が芸術家的な生き方をすることは大変なことのように思えます。
しかし、人には誰でも得意なことがあるはずですし、それを磨くことでクリエイティブな仕事を、フルタイムでないにしても、行なうことは可能ではないでしょうか。
いろいろな反論もあるかと思います。
私自身も、ここで書いたことにロジカルな裏付けがあるわけではありません。
しかしIT技術の発展は、人々から単純作業をどんどん奪うことは確かです。奪われた人々が自分の意志で得意分野を探し、その世界を掘り下げることでクリエイティブな仕事が出来るようになる素地が形成されることは可能ではないかと思います。
人は本来芸術家である、というのも私の信条です。
その心を忘れずに保持し続け、自分をクリエイティブな世界に持っていこうと努力した方には、これから良い世界が待っているかもしれないのです。
2013年8月3日土曜日
芸術を通して伝えたいこととは何か
芸術とは何か、と問われたとき、その根本は「何かを伝える」ということなのだと思います。
人は他人に何かを伝えるために、言語という手段を持っています。そして数千年前に、文字という手段も手に入れました。
単純なメッセージや情報なら、そのことをそのまま言葉や文字で伝えれば良いのですが、伝え方そのものをもっと洗練させたり、同時にたくさんの人に同じことを伝えたり、あるいは言語表現で伝え切れない部分を印象として伝えるために、表現が様式化したものが芸術である、と言えるのではないでしょうか。
ところが、芸術の表現方法が様式化することで、そもそも何かを伝えたいという本質が抜け落ち、様式の追究が行なわれてしまうことが往々にして発生してしまいます。
残念ながら、人は数段先のスコープを見渡せる人と、近場のことしか見渡せない人がいるのです。そして近場のことしか見渡せない人々は、芸術活動を行ったときに、様式の追究だけに陥りがちです。
表現の奥にある伝えたい何か、とはそもそも何なのでしょうか?
もちろん、平和と反戦とか、仲間は大事だとか、苦しいこともがあっても頑張ろう、とか、まあそういった類いの分かりやすい主張を語る人も多いですが、どこか浅薄で借り物っぽい感じを受けてしまいます。
私たちは普段生きている中で、もっと人間として、生物として、どうしようもない激情に翻弄されていて、私たちが本当に望んでいることはもっとドロドロとしたマグマのような本能的なものではないか、という気もします。フロイトの言うところの"es"です。
そもそも、自分が芸術を通して伝えたいことが、たった一言で語れてしまうようであれば、そんなまどろっこしい方法で表現しなくても良いのです。
ただし、芸術活動を通して、やや具体的な政治的主張を表現したい場合もあるでしょう。日本ではあまり一般的ではないですが、ある政治的主張をするために、他人の心を揺さぶるために芸術的表現を借りることは有効な手段であると思います。
それでも、私たちが本当に伝えたいことは政治的に正しい倫理的主張だけではない、と私は信じています。
では、私なら何を伝えたいのだろう・・・とちょっと自問してみましょう。
恐らく20代くらいまでは、私はある種の理想社会(それは退廃的な世界観とも円環的に繋がっている)や、理想的な恋愛対象に対する憧れを表現したかったような気がします。若さゆえの理想の追求です。
30代以降、いわゆる理系的性向と合わさることで、宇宙、生物といった先端科学の中に、世の中の基本定理や、神の存在などを見出だそうとするような方向性が追加されてきました。理想の追求がより普遍的、抽象的になってきたのかもしれません。
もちろん、これは具体的な作品名や、作曲で選ぶテキストの話にとどまりません。ごく一般的な詩を使って曲を書いたとしても、私自身のそういった傾向が曲中に盛り込まれていると思っています。
例えば、30代以降、フーガっぽい表現を使うことが多くなりました。
これはある種、複雑なものを秩序で統括したいという意識の現れであり、音楽的効果だけでなく、フーガという形式そのものが論理性を要求し、高度な知性を要求する、といったような世界観を目指しているように感じます。
こうやって自問自答してみると、必ずしも私の芸術的主張は明確な社会的主張を持っていないのだけれど、私でしか表現出来ない何かを追究しているようにも思えます。
このように全ての表現者が自分は何を表現したいのか、を考えてみることは大事だと思うし、それは結局自分自身の存在意義を再確認する作業でもあると思います。
これから世界は、全ての人々が芸術家であらねばならないことを要求される社会に移行する、と私は本気で思っています。
芸術の世界に身を置く人たちは、そういう意味で最先端の場所にいます。だからこそ、最先端に居続けるためにも、自分とは何かを常に問い続けるべきだと思います。
人は他人に何かを伝えるために、言語という手段を持っています。そして数千年前に、文字という手段も手に入れました。
単純なメッセージや情報なら、そのことをそのまま言葉や文字で伝えれば良いのですが、伝え方そのものをもっと洗練させたり、同時にたくさんの人に同じことを伝えたり、あるいは言語表現で伝え切れない部分を印象として伝えるために、表現が様式化したものが芸術である、と言えるのではないでしょうか。
ところが、芸術の表現方法が様式化することで、そもそも何かを伝えたいという本質が抜け落ち、様式の追究が行なわれてしまうことが往々にして発生してしまいます。
残念ながら、人は数段先のスコープを見渡せる人と、近場のことしか見渡せない人がいるのです。そして近場のことしか見渡せない人々は、芸術活動を行ったときに、様式の追究だけに陥りがちです。
表現の奥にある伝えたい何か、とはそもそも何なのでしょうか?
もちろん、平和と反戦とか、仲間は大事だとか、苦しいこともがあっても頑張ろう、とか、まあそういった類いの分かりやすい主張を語る人も多いですが、どこか浅薄で借り物っぽい感じを受けてしまいます。
私たちは普段生きている中で、もっと人間として、生物として、どうしようもない激情に翻弄されていて、私たちが本当に望んでいることはもっとドロドロとしたマグマのような本能的なものではないか、という気もします。フロイトの言うところの"es"です。
そもそも、自分が芸術を通して伝えたいことが、たった一言で語れてしまうようであれば、そんなまどろっこしい方法で表現しなくても良いのです。
ただし、芸術活動を通して、やや具体的な政治的主張を表現したい場合もあるでしょう。日本ではあまり一般的ではないですが、ある政治的主張をするために、他人の心を揺さぶるために芸術的表現を借りることは有効な手段であると思います。
それでも、私たちが本当に伝えたいことは政治的に正しい倫理的主張だけではない、と私は信じています。
では、私なら何を伝えたいのだろう・・・とちょっと自問してみましょう。
恐らく20代くらいまでは、私はある種の理想社会(それは退廃的な世界観とも円環的に繋がっている)や、理想的な恋愛対象に対する憧れを表現したかったような気がします。若さゆえの理想の追求です。
30代以降、いわゆる理系的性向と合わさることで、宇宙、生物といった先端科学の中に、世の中の基本定理や、神の存在などを見出だそうとするような方向性が追加されてきました。理想の追求がより普遍的、抽象的になってきたのかもしれません。
もちろん、これは具体的な作品名や、作曲で選ぶテキストの話にとどまりません。ごく一般的な詩を使って曲を書いたとしても、私自身のそういった傾向が曲中に盛り込まれていると思っています。
例えば、30代以降、フーガっぽい表現を使うことが多くなりました。
これはある種、複雑なものを秩序で統括したいという意識の現れであり、音楽的効果だけでなく、フーガという形式そのものが論理性を要求し、高度な知性を要求する、といったような世界観を目指しているように感じます。
こうやって自問自答してみると、必ずしも私の芸術的主張は明確な社会的主張を持っていないのだけれど、私でしか表現出来ない何かを追究しているようにも思えます。
このように全ての表現者が自分は何を表現したいのか、を考えてみることは大事だと思うし、それは結局自分自身の存在意義を再確認する作業でもあると思います。
これから世界は、全ての人々が芸術家であらねばならないことを要求される社会に移行する、と私は本気で思っています。
芸術の世界に身を置く人たちは、そういう意味で最先端の場所にいます。だからこそ、最先端に居続けるためにも、自分とは何かを常に問い続けるべきだと思います。
2013年6月1日土曜日
ボカロ音楽が示唆する未来の音楽
二日前にsasakure.UKというボカロPのアルバムを購入。タイトルは「トンデモ未来空奏図」。おふざけっぽいタイトルだけど、こういう言葉使いは好き。実際に音楽を聴いてみると、いわゆるボカロ系のフォーマットに従っているものの、何か親近感を覚えるようなセンスを感じました。
恐らく、彼はどちらかと言うと、一人で部屋の中で自分だけの世界を育てることに喜びを感じる類いの人で、逆に何人かでバンドを組んでカッコ良く演奏して人前で目立ちたい、というところから音楽を始めた人では無いのだと思います。
こういうタイプの人は、実は表現手段が音楽であること自体、偶然の産物であり、多感な時期に何に触れていたか(sasakure.UKさんは合唱らしい)、それによってその表現手段が決まっていたに過ぎません。
しかし、いずれ何かしら表現の世界に入ることは確実で、もしかしたらそれは小説だったかもしれないし、絵画だったのかもしれません。
実際、音楽活動をしている(た)作家は意外と多いです。彼らにとっては「表現する」ということだけが本質なのであり、音楽か文章かというのはただの手段に過ぎないのかもしれません。
ボーカロイド技術はそのような人々にとって大きな福音でした。
小説、詩、短歌などの文芸、絵画、彫刻などの美術系に比べると、音楽はどうしても演奏する必要があり、いわゆる創作が一人で完結するタイプの芸術ではなかったのです。そういう意味では、ダンスやパフォーマンスとか、演劇とか、映画製作とか、そういうタイプの芸術に近かったわけです。
しかし、シンセサイザーや多重録音技術から始まり、DAWでの打ち込み、そして最後の砦のボーカルが電子的に生成することが可能になったところで、ついに一人の作家が最終成果物まで完成することが可能になったのです。
これはやや極端なことを言うと、音楽史においても大きなインパクトになり得る事態ではないでしょうか。
音楽はすでに、ここ百年くらいのオーディオ技術の進歩によって鑑賞が複数から個人的なものに変化していました。
そして、ここ10年くらいのデジタル技術の進歩は、音楽製作そのものを個人的な活動に変化させてしまいました。
つまり、これで作家から消費者への一対一のダイレクトな伝達が可能になったのです。これは、音楽が美術や文芸などと同じレベルの鑑賞方法に変わったことを意味します。
恐らくこれから音楽は二つの方向に分かれるのだと思います。
作家から個人への一対一の伝達である音楽と、演奏家のパフォーマンスを観客が楽しむタイプの音楽の二つです。
結果的に、前者は文芸的世界を益々指向するようになるでしょう。
表現はもっと過激になり、内容も専門的、内省的になり、主義主張も明確になり、より鑑賞する側を限定するようになるでしょう。
そして、一対一音楽と、多対多音楽は、最初のうちは未分化ですが、これがいずれ交わらなくなるほど分化し、一対一音楽はライブで演奏されなくなる方向になるのではないでしょうか。
他対他もパフォーマンスが中心になれば、そのライブ感が楽しみの中心となり、記録した映像を観れたとしても、やはり演奏する場に人々が集まることに価値を置くような方向にどんどん進んでいくはずです。
やや余談ですが、映画も近いうちにより音楽と近い状況が生まれるだろうと思います。つまり一人の作家がたった一人で映画を作ることが可能になるのです。二次元的なアニメではもうそれはほぼ可能ですが,最近では3Dアニメの部品をネットで入手すれば、実写レベルとはまだ程遠いけれど、ある程度の技術さえあれば、それらのキャラを動かして一人で映像作品を作ることも可能です。
ボカロにしても、まずはアニメ的なところから始まっています。これはデジタル技術との相性が良いということもあるのでしょう。
より技術が発展し、データも増えていけば、ますますリアルな歌声を生成することは可能になるし、いずれ本当の演奏と見分けがつかなくなるレベルに到達すると思います。
そんな未来には、そもそも私たちは音楽で何を伝えたいのか、そういう根本からいろいろなモノゴトを考え直す必要がありそうです。
恐らく、彼はどちらかと言うと、一人で部屋の中で自分だけの世界を育てることに喜びを感じる類いの人で、逆に何人かでバンドを組んでカッコ良く演奏して人前で目立ちたい、というところから音楽を始めた人では無いのだと思います。
こういうタイプの人は、実は表現手段が音楽であること自体、偶然の産物であり、多感な時期に何に触れていたか(sasakure.UKさんは合唱らしい)、それによってその表現手段が決まっていたに過ぎません。
しかし、いずれ何かしら表現の世界に入ることは確実で、もしかしたらそれは小説だったかもしれないし、絵画だったのかもしれません。
実際、音楽活動をしている(た)作家は意外と多いです。彼らにとっては「表現する」ということだけが本質なのであり、音楽か文章かというのはただの手段に過ぎないのかもしれません。
ボーカロイド技術はそのような人々にとって大きな福音でした。
小説、詩、短歌などの文芸、絵画、彫刻などの美術系に比べると、音楽はどうしても演奏する必要があり、いわゆる創作が一人で完結するタイプの芸術ではなかったのです。そういう意味では、ダンスやパフォーマンスとか、演劇とか、映画製作とか、そういうタイプの芸術に近かったわけです。
しかし、シンセサイザーや多重録音技術から始まり、DAWでの打ち込み、そして最後の砦のボーカルが電子的に生成することが可能になったところで、ついに一人の作家が最終成果物まで完成することが可能になったのです。
これはやや極端なことを言うと、音楽史においても大きなインパクトになり得る事態ではないでしょうか。
音楽はすでに、ここ百年くらいのオーディオ技術の進歩によって鑑賞が複数から個人的なものに変化していました。
そして、ここ10年くらいのデジタル技術の進歩は、音楽製作そのものを個人的な活動に変化させてしまいました。
つまり、これで作家から消費者への一対一のダイレクトな伝達が可能になったのです。これは、音楽が美術や文芸などと同じレベルの鑑賞方法に変わったことを意味します。
恐らくこれから音楽は二つの方向に分かれるのだと思います。
作家から個人への一対一の伝達である音楽と、演奏家のパフォーマンスを観客が楽しむタイプの音楽の二つです。
結果的に、前者は文芸的世界を益々指向するようになるでしょう。
表現はもっと過激になり、内容も専門的、内省的になり、主義主張も明確になり、より鑑賞する側を限定するようになるでしょう。
そして、一対一音楽と、多対多音楽は、最初のうちは未分化ですが、これがいずれ交わらなくなるほど分化し、一対一音楽はライブで演奏されなくなる方向になるのではないでしょうか。
他対他もパフォーマンスが中心になれば、そのライブ感が楽しみの中心となり、記録した映像を観れたとしても、やはり演奏する場に人々が集まることに価値を置くような方向にどんどん進んでいくはずです。
やや余談ですが、映画も近いうちにより音楽と近い状況が生まれるだろうと思います。つまり一人の作家がたった一人で映画を作ることが可能になるのです。二次元的なアニメではもうそれはほぼ可能ですが,最近では3Dアニメの部品をネットで入手すれば、実写レベルとはまだ程遠いけれど、ある程度の技術さえあれば、それらのキャラを動かして一人で映像作品を作ることも可能です。
ボカロにしても、まずはアニメ的なところから始まっています。これはデジタル技術との相性が良いということもあるのでしょう。
より技術が発展し、データも増えていけば、ますますリアルな歌声を生成することは可能になるし、いずれ本当の演奏と見分けがつかなくなるレベルに到達すると思います。
そんな未来には、そもそも私たちは音楽で何を伝えたいのか、そういう根本からいろいろなモノゴトを考え直す必要がありそうです。
2013年5月5日日曜日
特許とか著作権とかでしばることが時代遅れになるかも
前々回の「カマボコオルガン」に関連して、出来る出来ないはともかく、こういうことをいち早く公表した方がいいんじゃないかと思った心境など語ってみます。
作る前にアイデアを公表してしまう場合、まず誰かにそのアイデアを盗まれないかが心配になります(それほどの内容かはともかく)。だから、今までの常識でいえば、通常はアイデア段階のものをそれほど表に出すことも無いものだと思います。
そもそも特許とか著作権とかいう考え方は、誰かが考え出したアイデアをそのまま真似されて、損をするようなことがあったからこそ、生まれたものではないでしょうか。
しかし、このアイデアを真似されて損する、というのはどのような状況で成り立ち得ることなのでしょうか。
アイデアを考えた人が、それを実現するだけの十分な生産能力を持っていなくて、逆にアイデアを盗んだ人がその生産能力を持っていた場合、これは最初に考えた人は損することになります。
もし、アイデアを盗んだ人がそれによって大きな利益を得たのなら、アイデアを考えた人がその利益から幾ばくかの分け前を頂くべき、とは誰もが思うことでしょう。
もう一つ、上のような事態になる原因として、買う側に「誰のアイデアか」という関心がほとんど無いという条件もあると思います。あるいは、それについて知る由もないという状態。
これは意外に大きな要因だと思うのです。買う側にとって、便利なものが目の前にあればそれを買えば良いだけのこと。
しかし、それでも実はその商品の基本的なアイデアは誰か別の人が考えていて、その商品はそのアイデアを盗んだものだと、もし買う人が知っていたらどうでしょう? それでも人はその商品を買うでしょうか。道義に反すると人々が感じれば、それは商品にとってもずいぶんマイナスのイメージにならないでしょうか。
情報化時代には「アイデアを盗んだ」ことがバレ易くなるはずです。そしてそれは、その商品価値にとって大きな打撃になると私には思われるのです。
もう一つは、アイデアはたった一つではなく、芸術作品のようにトータルなイメージで醸し出すものであるとすると、その価値はまるっきりマネをしない限り得られないものと思われます。
例えば、ある文学作品の特定の章だけ抜き出しても、盗んだ側がオリジナルと同じだけの効果を得ることは不可能です。
これは単体機能(アイデア)でも取得可能である特許より、著作権が得意な分野になりますが、アイデアが芸術性を帯びるほど、真似ることは困難になり、丸コピーするしか手が無くなるのです。
このようなことを考えてみると、これからの時代、特許や著作権という形で自分のアイデアを法的に保護しなくても全然問題無いのではないか、むしろそのような保護をすること自体がアイデアの発展を阻害するのではないでしょうか。
上で書いたように、特許を登録などしなくても、ネット上で公開すれば、誰がいつそのアイデアを公表したかはすぐ分かります。
ある程度の規模の会社なら、誰かのアイデアを無断で真似ることはむしろリスクが高すぎます。もしバレたら会社の信用がガタ落ちです。普通考えれば、まともな会社ならそんなことをしないでしょう。
むしろマネをしたい企業が、アイデア保持者に対して利用の許可と、適切な対価を払うことを約束した方が、両方ともWin-Winの関係になるはず。
また今の時代、ソフトウェアによる技術が主流になっていくと、特許の考え方も少しずつ変わっていくのかなと感じます。
なぜなら、ソフトウェアはいかようにも書けますから、よほど基本的なことでない限り、特許回避は比較的可能です。単機能の特許なら、むしろ特許化して公表することは、特許回避の手段を考えさせることに繋がります。
しかし、莫大なソフトウェアを完全に模倣することはかなり難しいです。ソフトウェアである世界観(OSのGUIなど)を構築した場合、これを同じように真似ることは相当な工数が必要になります。
このような場合、ソフトの仕様を真似て自力で作るより、オープンになっているソフトウェアをそのまま利用した方が圧倒的に効率の良い開発が行なえることでしょう。
つまり真似する側は、似て非なるものを頑張って作るより、許可を得て、オープン化されたソースコードを利用させてもらう方が、利益を得るという意味で理にかなっています。
このようなことを考えていくと、情報化が進むほど、アイデアが作品性を持ち世界観が明瞭であればあるほど、無許可の模倣は難しい時代になってくるのではないかと考えるわけです。
そして、そのような時代には、思い付いたらまず公表してしまう、というのが正しい考え方ではないかと私は思います。
作る前にアイデアを公表してしまう場合、まず誰かにそのアイデアを盗まれないかが心配になります(それほどの内容かはともかく)。だから、今までの常識でいえば、通常はアイデア段階のものをそれほど表に出すことも無いものだと思います。
そもそも特許とか著作権とかいう考え方は、誰かが考え出したアイデアをそのまま真似されて、損をするようなことがあったからこそ、生まれたものではないでしょうか。
しかし、このアイデアを真似されて損する、というのはどのような状況で成り立ち得ることなのでしょうか。
アイデアを考えた人が、それを実現するだけの十分な生産能力を持っていなくて、逆にアイデアを盗んだ人がその生産能力を持っていた場合、これは最初に考えた人は損することになります。
もし、アイデアを盗んだ人がそれによって大きな利益を得たのなら、アイデアを考えた人がその利益から幾ばくかの分け前を頂くべき、とは誰もが思うことでしょう。
もう一つ、上のような事態になる原因として、買う側に「誰のアイデアか」という関心がほとんど無いという条件もあると思います。あるいは、それについて知る由もないという状態。
これは意外に大きな要因だと思うのです。買う側にとって、便利なものが目の前にあればそれを買えば良いだけのこと。
しかし、それでも実はその商品の基本的なアイデアは誰か別の人が考えていて、その商品はそのアイデアを盗んだものだと、もし買う人が知っていたらどうでしょう? それでも人はその商品を買うでしょうか。道義に反すると人々が感じれば、それは商品にとってもずいぶんマイナスのイメージにならないでしょうか。
情報化時代には「アイデアを盗んだ」ことがバレ易くなるはずです。そしてそれは、その商品価値にとって大きな打撃になると私には思われるのです。
もう一つは、アイデアはたった一つではなく、芸術作品のようにトータルなイメージで醸し出すものであるとすると、その価値はまるっきりマネをしない限り得られないものと思われます。
例えば、ある文学作品の特定の章だけ抜き出しても、盗んだ側がオリジナルと同じだけの効果を得ることは不可能です。
これは単体機能(アイデア)でも取得可能である特許より、著作権が得意な分野になりますが、アイデアが芸術性を帯びるほど、真似ることは困難になり、丸コピーするしか手が無くなるのです。
このようなことを考えてみると、これからの時代、特許や著作権という形で自分のアイデアを法的に保護しなくても全然問題無いのではないか、むしろそのような保護をすること自体がアイデアの発展を阻害するのではないでしょうか。
上で書いたように、特許を登録などしなくても、ネット上で公開すれば、誰がいつそのアイデアを公表したかはすぐ分かります。
ある程度の規模の会社なら、誰かのアイデアを無断で真似ることはむしろリスクが高すぎます。もしバレたら会社の信用がガタ落ちです。普通考えれば、まともな会社ならそんなことをしないでしょう。
むしろマネをしたい企業が、アイデア保持者に対して利用の許可と、適切な対価を払うことを約束した方が、両方ともWin-Winの関係になるはず。
また今の時代、ソフトウェアによる技術が主流になっていくと、特許の考え方も少しずつ変わっていくのかなと感じます。
なぜなら、ソフトウェアはいかようにも書けますから、よほど基本的なことでない限り、特許回避は比較的可能です。単機能の特許なら、むしろ特許化して公表することは、特許回避の手段を考えさせることに繋がります。
しかし、莫大なソフトウェアを完全に模倣することはかなり難しいです。ソフトウェアである世界観(OSのGUIなど)を構築した場合、これを同じように真似ることは相当な工数が必要になります。
このような場合、ソフトの仕様を真似て自力で作るより、オープンになっているソフトウェアをそのまま利用した方が圧倒的に効率の良い開発が行なえることでしょう。
つまり真似する側は、似て非なるものを頑張って作るより、許可を得て、オープン化されたソースコードを利用させてもらう方が、利益を得るという意味で理にかなっています。
このようなことを考えていくと、情報化が進むほど、アイデアが作品性を持ち世界観が明瞭であればあるほど、無許可の模倣は難しい時代になってくるのではないかと考えるわけです。
そして、そのような時代には、思い付いたらまず公表してしまう、というのが正しい考え方ではないかと私は思います。
2013年4月13日土曜日
アートの力
クリエイティビティが重要だと叫ばれる昨今こそ、アートとは何か、と考えることが重要になると私は思います。
ところが、多くの人々(特にある程度歳を取った男性)は、むしろアートとは距離を取っているように見えます。
何にしろ、「違いの分からない人間」には誰もなりたくないので、分からないものには遠ざかるというのが安全な態度です。ですから、若い頃からアートのことなど考えたことの無い人は、なかなかアートと向かい合う勇気を持ちません。
アート,芸術には相反する二つの側面があると思います。
一つは正解がない自由さ、奔放さを謳歌するような方向性、もう一つはある一定のルールに則ることの美学、一種の様式美のような方向性です。前者を奔放性、後者を様式性とでも呼んでおきましょう。
奔放性とは、感性が中心で、言葉で表現することが難しく、前衛的で斬新であるイメージがあります。何をやっても許されるような前衛芸術のような方向性。
様式性とは、ロジカルに説明が可能で、そのジャンル特有に発達したお決まりのルールの上に根ざした要素。知っているか知らないかで理解の度合いが変わってしまうハイコンテキスト性。伝統芸能のような方向性。
例えば音楽で言えば、クラシックは様式性が非常に高く、ある音楽を理解するためには、どうしても作曲当時の社会状況にまで想いを馳せる必要があります。また、音楽を作るためのルールも大量に定義されており、こういうことをどれだけ知っているかで鑑賞する側の力量も問われてしまいます。
もちろん、ポップスやロックも商業に組み込まれて以降、お約束の多いハイコンテキスト性が高まり、意外と様式性の高い音楽になってしまっている部分もあるかもしれません。
ジャズは奔放性もありますが、それなりにお約束も多いので、様式性も兼ね備えていそうです。
そういう意味では、音楽で最も奔放性が許されるのは、ゲンダイ音楽なのかもしれません。音楽である以上、どうしても最低限のリテラシーや秩序は必要ですが、ときにそれさえも破壊しているものもあります。
しかし、音楽の場合、奔放が過ぎると人々が安心して聞くことの出来ない音楽になってしまう可能性があります。
アートの好き嫌いには、上の二つの要素の組み合わせで考えると分かりやすいような気がします。
アートの奔放性が好きな人、アートの様式性が好きな人、逆にアートの奔放性が嫌いな人、アートの様式性が嫌いな人、というような感じです。
奔放性が嫌いな人は、アートに常にある種のうさん臭さを感じているような人たちです。若い人たちが飛びつくようなカッコ良さとか、ただ単にスタイリッシュに見えるだけなものとか、バカバカしいものにしか見えないものとか。
実際のところ、一時期人々にもてはやされていても、すぐに忘れられてしまうようなものは、中身のないアートなのであって、それを早い時期から気付けるセンスが必要です。奔放性の評価には、知識ベースではなく感性ベースのアートに関するセンスが問われます。このセンスが弱い人は、なにしろアートの奔放性が嫌いになってしまうのです。
次に様式性が嫌いな人は、逆に敷居の高さで入っていけない状況だと思います。
これは多くの人が理解できる気持ちでしょう。例えば私は歌舞伎には詳しくないので、歌舞伎が好きな人が言っている感想や、こだわりを理解することは難しいです。
そうすると、良く分からないから好きでない、という発想になってしまう人も出てきます。どちらかと言うと、自分が詳しくないことをはっきり言って、感想を控える方が紳士的な態度とは思います。
冒頭にも書いたように、クリエイティビティを高める、ということはアートの本質に近づこうとする態度でもあります。
アートの力を高めるために、上記のように奔放性、様式性の両面からアートを捉え、理解していく必要があるのではないでしょうか。
ところが、多くの人々(特にある程度歳を取った男性)は、むしろアートとは距離を取っているように見えます。
何にしろ、「違いの分からない人間」には誰もなりたくないので、分からないものには遠ざかるというのが安全な態度です。ですから、若い頃からアートのことなど考えたことの無い人は、なかなかアートと向かい合う勇気を持ちません。
アート,芸術には相反する二つの側面があると思います。
一つは正解がない自由さ、奔放さを謳歌するような方向性、もう一つはある一定のルールに則ることの美学、一種の様式美のような方向性です。前者を奔放性、後者を様式性とでも呼んでおきましょう。
奔放性とは、感性が中心で、言葉で表現することが難しく、前衛的で斬新であるイメージがあります。何をやっても許されるような前衛芸術のような方向性。
様式性とは、ロジカルに説明が可能で、そのジャンル特有に発達したお決まりのルールの上に根ざした要素。知っているか知らないかで理解の度合いが変わってしまうハイコンテキスト性。伝統芸能のような方向性。
例えば音楽で言えば、クラシックは様式性が非常に高く、ある音楽を理解するためには、どうしても作曲当時の社会状況にまで想いを馳せる必要があります。また、音楽を作るためのルールも大量に定義されており、こういうことをどれだけ知っているかで鑑賞する側の力量も問われてしまいます。
もちろん、ポップスやロックも商業に組み込まれて以降、お約束の多いハイコンテキスト性が高まり、意外と様式性の高い音楽になってしまっている部分もあるかもしれません。
ジャズは奔放性もありますが、それなりにお約束も多いので、様式性も兼ね備えていそうです。
そういう意味では、音楽で最も奔放性が許されるのは、ゲンダイ音楽なのかもしれません。音楽である以上、どうしても最低限のリテラシーや秩序は必要ですが、ときにそれさえも破壊しているものもあります。
しかし、音楽の場合、奔放が過ぎると人々が安心して聞くことの出来ない音楽になってしまう可能性があります。
アートの好き嫌いには、上の二つの要素の組み合わせで考えると分かりやすいような気がします。
アートの奔放性が好きな人、アートの様式性が好きな人、逆にアートの奔放性が嫌いな人、アートの様式性が嫌いな人、というような感じです。
奔放性が嫌いな人は、アートに常にある種のうさん臭さを感じているような人たちです。若い人たちが飛びつくようなカッコ良さとか、ただ単にスタイリッシュに見えるだけなものとか、バカバカしいものにしか見えないものとか。
実際のところ、一時期人々にもてはやされていても、すぐに忘れられてしまうようなものは、中身のないアートなのであって、それを早い時期から気付けるセンスが必要です。奔放性の評価には、知識ベースではなく感性ベースのアートに関するセンスが問われます。このセンスが弱い人は、なにしろアートの奔放性が嫌いになってしまうのです。
次に様式性が嫌いな人は、逆に敷居の高さで入っていけない状況だと思います。
これは多くの人が理解できる気持ちでしょう。例えば私は歌舞伎には詳しくないので、歌舞伎が好きな人が言っている感想や、こだわりを理解することは難しいです。
そうすると、良く分からないから好きでない、という発想になってしまう人も出てきます。どちらかと言うと、自分が詳しくないことをはっきり言って、感想を控える方が紳士的な態度とは思います。
冒頭にも書いたように、クリエイティビティを高める、ということはアートの本質に近づこうとする態度でもあります。
アートの力を高めるために、上記のように奔放性、様式性の両面からアートを捉え、理解していく必要があるのではないでしょうか。
2013年4月6日土曜日
私の中のロジック、アート、マーケット
某有名ブログでこんなことが書かれています。
これを読んだ直後、自分の比率はどうなんだろうと考えてみたのですが・・・時間が経つごとに、ようやく分かってきました。恐らく私には、マーケットが足りない。
ロジックやアートは、他人がどう思うかはともかく、自分の構成要素として十分な領域を占めているのだけれど、どうやらマーケットが最も心もとないようです。
正直、これは性格に起因するところなのでしょうが、自分の欲望を表現し、押し通すようなバタ臭さが自分には足りないのです。どうせ思い通りにならないなら、最初から諦めちゃうか、みたいな性根の悪さがどうも深層心理にありそう。だから、ものごとについついシニカルな対応をしてしまう。
しかし、何かをやり遂げようとするなら、まず自分の欲望に忠実に生きるような生命力というか、強引さが在る程度必要なのでしょう。これは決して、押しの強さとか、カリスマ性とかとは同じものではなく、おっとりしていても頑固に自分の思いを押し通す人はいます。
その一方、自分がこれまで意識して重要視していたのは、ロジックとかアートという文脈で語られる部分だったと思います。
ロジックは、理系&技術屋である以上、言わずもがな。
ロジックを追い詰めることには、人によって得手不得手もありますが、それと同時にロジックをきちんと正しく追い詰めること自体に執着を感じる気持ちはとても良く分かります。
これはまさに研究者のスタンス。金儲けが出来るとかそういう現世的な利益があるわけではないのに、何か真理に近づこうとすることを一生懸命考えることを止められないのです。
しかし、こういう気持ちを持っている人がいたからこそ、人類の科学技術が発展したわけですから、マクロ的に見た場合人間の資質にとして重要な指標であるに違いありません。
三つの中で恐らく最も説明し難いのがアートでしょう。
前衛的なアートを鑑賞した後「こういうのは良く分からないよね〜」とか真顔で、憚りも無く主張出来る人は、アート要素ゼロの人です。残念ながらこういう人は世の中にとても多いです。
「分からない」と憚りも無く主張することによって、自分の世界観とは相容れないと宣言してしまっているのです。
アートは分かりやすいものである必要はありません。
後でじわじわ来る場合もあるし、全く共感しない場合もある。共感出来ればラッキーです。後は多くの人がどう感じるかという積分値で勝手に淘汰されるだけです。
そのように考えれば、もっとアートに対して親近感が湧くと思うのです。
何かを伝えたいという気持ちは誰でも持っています。それをどうやって伝えるか、それがアートの最も苦心する点です。
万人に伝わらなくても、ある程度のセンスのある人に深く伝わるのであれば、それは長い目で見て優れたアートになり得るでしょう。
自分がそのアートを理解できるセンスを持てるかどうかは、その人がどれだけ多くのアートに触れたかに影響されます。
個人が持つアート、芸術の要素を高めるには、日頃から、音楽、絵画、造形、映画、文学など、そういうものに触れ続けることが本当に大事だと感じます。
自慢できるほどでは無いにしても、自分はこれまでそれなりにアートには触れてきたとは言えると思っています。
これを読んだ直後、自分の比率はどうなんだろうと考えてみたのですが・・・時間が経つごとに、ようやく分かってきました。恐らく私には、マーケットが足りない。
ロジックやアートは、他人がどう思うかはともかく、自分の構成要素として十分な領域を占めているのだけれど、どうやらマーケットが最も心もとないようです。
正直、これは性格に起因するところなのでしょうが、自分の欲望を表現し、押し通すようなバタ臭さが自分には足りないのです。どうせ思い通りにならないなら、最初から諦めちゃうか、みたいな性根の悪さがどうも深層心理にありそう。だから、ものごとについついシニカルな対応をしてしまう。
しかし、何かをやり遂げようとするなら、まず自分の欲望に忠実に生きるような生命力というか、強引さが在る程度必要なのでしょう。これは決して、押しの強さとか、カリスマ性とかとは同じものではなく、おっとりしていても頑固に自分の思いを押し通す人はいます。
その一方、自分がこれまで意識して重要視していたのは、ロジックとかアートという文脈で語られる部分だったと思います。
ロジックは、理系&技術屋である以上、言わずもがな。
ロジックを追い詰めることには、人によって得手不得手もありますが、それと同時にロジックをきちんと正しく追い詰めること自体に執着を感じる気持ちはとても良く分かります。
これはまさに研究者のスタンス。金儲けが出来るとかそういう現世的な利益があるわけではないのに、何か真理に近づこうとすることを一生懸命考えることを止められないのです。
しかし、こういう気持ちを持っている人がいたからこそ、人類の科学技術が発展したわけですから、マクロ的に見た場合人間の資質にとして重要な指標であるに違いありません。
三つの中で恐らく最も説明し難いのがアートでしょう。
前衛的なアートを鑑賞した後「こういうのは良く分からないよね〜」とか真顔で、憚りも無く主張出来る人は、アート要素ゼロの人です。残念ながらこういう人は世の中にとても多いです。
「分からない」と憚りも無く主張することによって、自分の世界観とは相容れないと宣言してしまっているのです。
アートは分かりやすいものである必要はありません。
後でじわじわ来る場合もあるし、全く共感しない場合もある。共感出来ればラッキーです。後は多くの人がどう感じるかという積分値で勝手に淘汰されるだけです。
そのように考えれば、もっとアートに対して親近感が湧くと思うのです。
何かを伝えたいという気持ちは誰でも持っています。それをどうやって伝えるか、それがアートの最も苦心する点です。
万人に伝わらなくても、ある程度のセンスのある人に深く伝わるのであれば、それは長い目で見て優れたアートになり得るでしょう。
自分がそのアートを理解できるセンスを持てるかどうかは、その人がどれだけ多くのアートに触れたかに影響されます。
個人が持つアート、芸術の要素を高めるには、日頃から、音楽、絵画、造形、映画、文学など、そういうものに触れ続けることが本当に大事だと感じます。
自慢できるほどでは無いにしても、自分はこれまでそれなりにアートには触れてきたとは言えると思っています。
2013年3月31日日曜日
何かを作って生きていくということ
創作・表現活動を実際にしている立場として、それ自体が生業になるということは一つの理想ではあります。
当たり前ですが、実際に創作活動だけで生きていくことは至難の技なのですが、私自身の体感からそれはどのような構造であるのか、ちょっと考えてみました。
上の表にあるように、全ての創作・表現活動はアマチュア活動から始まります。いきなりプロから始まるということはあり得ません。
スキルを積み上げ、仕事のクオリティを上げることによって、その人や作品の評価が高まり、対価を得ることが可能になっていきます。
このアマチュア活動から仕事に変わるタイミングはもちろん状況やその人のレベルによって、大幅に差がありますし、そもそも仕事に変えることが出来る人はごく一部の人たちだけの話であり、ほとんどの人は到達することが出来ません。
いわゆる芸術の世界では、新規性や実験性が高いほど、仕事として成り立つレベルはさらに跳ね上がります。
もっと、今ウケていてマスに対して需要があるものであれば、対価を得るためのハードルは下がっていくことでしょう。
この表の一つのポイントは、アマチュアとプロの世界は厳然と分かれるようなものではなく、あるラインからグラデーションのようにその領域が混じり合うということです。
この趣味と仕事の微妙な領域では、対価を得ることもあるけれど、そのための出費も多く、残念ながらその対価だけでは生活をすることは出来ません。
同じことをしていても、お金を払う立場からお金を得る立場に変わる、というのは一見するとおかしなように思えます。
なぜなら、普通の人の感覚では、仕事と遊びは違うものであり、仕事はお金を得られるが、遊びはお金を払うからです。
しかし、私はそれはちょっと違うのではないかと最近感じています。
創作活動だけでなく、一般的な社会の仕事に敷衍して考えてみましょう。例えば、何か趣味でスポーツをすれば通常それはお金を払うことになりますが、その頂点にはプロスポーツの世界があり、プロ選手として対価を得て生活をしている人たちがいます。
それはあまりにもレベルが違い過ぎるので、そのような人たちと結びつけて考えることは普段しないというだけです。
もう少し、地味な世界を考えてみると少しイメージが湧くかもしれません。
家具を作るのは通常仕事です。しかし、自分の趣味でテーブルや椅子を作りつつ、趣味が高じてそれがあるレベルを超え始めれば、他人にそれを売ることが可能になっていきます。
このようなことはこれまでの時代では非常に難しいことでした。
なぜなら、何かモノを売るには宣伝しなければいけないし、展示したり、販売の管理をしたり、配送したりしなければいけません。商売するには作る以外のたくさんの面倒なことがあります。
しかし、IT化はそのような面倒なことの負荷を減らしてくれています。
そうすると、これまで「仕事」と「遊び」、というように二つの感覚が別ベクトルを向いていたものが、だんだんと同じベクトルを向くようになっていくのではないかとそんなことを感じているのです。
創作・表現活動においては、そういう感覚は昔からそれほど変わりなかったのですが、それが社会全般、仕事全般に言えるようになっているのではないか、極端に言えば、多くの仕事は趣味から始めることが出来る、とも言えるのではないでしょうか。
2013年1月27日日曜日
音楽の記号的側面 -曲を作る立場から-
音楽の価値について四六時中考えている作曲家なら、音楽が記号的にしか扱われないことは嘆かわしい事態だし、もっと音楽そのものの価値を理解して欲しい、と考えているのかもしれません。
実際、長い間私もそう考えてきたし、前回書いたような権威筋の意見とか、単なる刷り込みといった要因で音楽の価値に惑わされるなんて、単に感性が弱いだけだ、と吠え続けていたような気がします。
もちろんその考えは今でも思い続けているものの、音楽を記号的に扱う、ということは社会的に避けては通れないし、現実問題、もっと寛容に考えていかないといけないのではないかとも思っています。
専門を追求するからこそ、世間一般の常識からかけ離れてしまうことは良くあること。
特に現代のようにあまねく音楽が世界に行き渡り、低俗なものほど受け入れられる現実に直面し、思索に思索を重ねた音楽ほど疎まれてしまうことに日々悶々としている若手作曲家なら、ますますそういう現実を受け入れられず一人理想の世界に閉じこもってしまうものです。
でも私たちは現実に生きているのだから、現実は受け入れなければいけません。
世の中で起きていることが、本当のことなのです。自分の理想の世界は、自分の頭の中だけでしか正義たり得ないのです。
それでは、もし作曲家の立場で、音楽が記号的に消費されることをある程度受け入れるのなら、彼らはどのような態度を取ることになるでしょうか。
まず、ジングルのような短いフレーズなど、アカデミックな立場では音楽的価値がないものと思われるようなものを肯定するようになるでしょう。
もっとも日本のように街のあちらこちらで注意喚起の音楽が鳴るのは閉口しますが、このように音楽が使われることに対して一定の理解を示す必要はあるでしょう。
もう一つは、単純な音楽をバカにしない態度にも繋がるでしょう。
アイドルが可愛くあるいはセクシーに踊る音楽は、もはや音楽の価値だけで論じることは不可能な領域です。であれば、そのような音楽に対して音楽的に批判すること自体がナンセンスなこと。
もっと言えば、女の子との魅力を引き立てるためには、どのように音楽を作れば無駄に邪魔をしないのか、などと二重にひねくれた音楽の鑑賞をする必要も出てくるかもしれません。
現在の音楽は、ほとんどそのような流行歌で成り立っています。
短期間で消費されるとは言え、ポップスのような流行歌にも出来不出来があるし、芸術音楽にくらべればその社会的な影響は計り知れません。
音楽家であるなら、そのような音楽を常に軽蔑の眼差しで見てしまう態度の方が、一般の人からみれば嫌みなように見えてしまうものです。
最後に、音楽の記号的側面の受容は、作曲家の作品そのものにも影響を与えるでしょう。
泣きのメロディは、芸術音楽にとって低俗であると見なされやすいのですが、クラシック音楽でさえ泣きのメロディが好まれるのなら、そういうメロディを自分の納得する範囲内で追求すべきなのかもしれません。
ヒンデミットがチャイコフスキーを低俗だと批判した気持ちは分らないでもないけれど、それでもやはりチャイコフスキーの泣きのメロディは多くの人を魅了しているのです。
実際、長い間私もそう考えてきたし、前回書いたような権威筋の意見とか、単なる刷り込みといった要因で音楽の価値に惑わされるなんて、単に感性が弱いだけだ、と吠え続けていたような気がします。
もちろんその考えは今でも思い続けているものの、音楽を記号的に扱う、ということは社会的に避けては通れないし、現実問題、もっと寛容に考えていかないといけないのではないかとも思っています。
専門を追求するからこそ、世間一般の常識からかけ離れてしまうことは良くあること。
特に現代のようにあまねく音楽が世界に行き渡り、低俗なものほど受け入れられる現実に直面し、思索に思索を重ねた音楽ほど疎まれてしまうことに日々悶々としている若手作曲家なら、ますますそういう現実を受け入れられず一人理想の世界に閉じこもってしまうものです。
でも私たちは現実に生きているのだから、現実は受け入れなければいけません。
世の中で起きていることが、本当のことなのです。自分の理想の世界は、自分の頭の中だけでしか正義たり得ないのです。
それでは、もし作曲家の立場で、音楽が記号的に消費されることをある程度受け入れるのなら、彼らはどのような態度を取ることになるでしょうか。
まず、ジングルのような短いフレーズなど、アカデミックな立場では音楽的価値がないものと思われるようなものを肯定するようになるでしょう。
もっとも日本のように街のあちらこちらで注意喚起の音楽が鳴るのは閉口しますが、このように音楽が使われることに対して一定の理解を示す必要はあるでしょう。
もう一つは、単純な音楽をバカにしない態度にも繋がるでしょう。
アイドルが可愛くあるいはセクシーに踊る音楽は、もはや音楽の価値だけで論じることは不可能な領域です。であれば、そのような音楽に対して音楽的に批判すること自体がナンセンスなこと。
もっと言えば、女の子との魅力を引き立てるためには、どのように音楽を作れば無駄に邪魔をしないのか、などと二重にひねくれた音楽の鑑賞をする必要も出てくるかもしれません。
現在の音楽は、ほとんどそのような流行歌で成り立っています。
短期間で消費されるとは言え、ポップスのような流行歌にも出来不出来があるし、芸術音楽にくらべればその社会的な影響は計り知れません。
音楽家であるなら、そのような音楽を常に軽蔑の眼差しで見てしまう態度の方が、一般の人からみれば嫌みなように見えてしまうものです。
最後に、音楽の記号的側面の受容は、作曲家の作品そのものにも影響を与えるでしょう。
泣きのメロディは、芸術音楽にとって低俗であると見なされやすいのですが、クラシック音楽でさえ泣きのメロディが好まれるのなら、そういうメロディを自分の納得する範囲内で追求すべきなのかもしれません。
ヒンデミットがチャイコフスキーを低俗だと批判した気持ちは分らないでもないけれど、それでもやはりチャイコフスキーの泣きのメロディは多くの人を魅了しているのです。
2013年1月12日土曜日
音楽の記号的側面 -音楽研究の違和感-
「音楽」を学問として研究しようとするとき、どんな学問が考えられるでしょう。
もちろん音楽そのものを扱う音楽理論的なものを始めとして、音楽史を扱うもの、文化として社会との関わりを扱うもの、音楽教育を扱うもの・・・などが思い付きますが、今の日本ではいずれも文系の範疇に入ります。
その一方で理系的に音楽を扱う場合、音声・音響理論のような音現象を扱う学問が考えられますが、最近では音楽情報処理という方向性がひときわ盛り上がっているようです。
私自身は全く研究に関わっていないので、詳細は詳しくないのですが、音楽情報処理とは音楽そのものをあくまでサイエンスとして扱う学問です。
例えば、音楽の音声データから曲のテンポを抜き出したりとか、メロディを認識したりとか、演奏されている楽器を認識したりとか、演奏の特徴を抽出するとか、そのようなことを扱います。
人間は音楽を聴いただけで多くの情報を読み取ることが出来ますが、音声を解析してそういう情報をコンピュータがアルゴリズム的に読み取るということは、現状ではまだ至難の技です。
しかし、この分野が脚光を浴び始めたのは、私の認識では「初音ミク」ブーム以降であり、多くの人が初音ミクを上手に歌わすために、どのようにデータを作れば良いか、という一種オタク的な探究心から盛り上がっているような気もしています。
個人的には大変興味深いアプローチではあるのだけれど、実はこういう研究に常にある種の疑問を感じているのも確かです。
なぜなら音楽というのは文化的な側面が非常に強く、人文学的なアプローチを抜きに音楽を扱うことは非常に難しいと思うからです。
前回から書いている「音楽の記号的側面」とは、ある音楽が社会の中で記号化した結果、人々に特定の感情を与える触媒としての役割を果たす、ということでもあります。その場合、音楽そのものの価値と社会的な価値が乖離する場合があります。
例えば、名曲と言われるメロディを解析すれば、名曲になるための法則を得られることが出来るか、というような疑問にあなたはどう答えるでしょう?
私の答えは、変な曲になる法則は見つかるが、名曲になる法則は見つからない、と思っています。見つかったようにみえても、それは完全に客観的な法則ではなく、研究者の与えたパラメータに依存した結果になることでしょう。
今、このような文化的な範疇のものを扱う技術としては、客観的な法則を探すのではなく、集合知から全体の平均値を探す、というアプローチの方が正しそうです。
ある特定の音楽の価値をサイエンスとして客観的にはじき出すことは不可能だけれど、今生きている人たちが、その音楽の価値や意味をどのように考えているのかを統計的に分析することは可能ということです。
従って、音楽情報処理のような学問は詰まるところ、世界中からどれだけ多くのデータを吸い上げることが出来るかで、その価値が決まるように思います。
例えば、ある音楽が記録された音声データからその音楽のビートを抽出するようなアルゴリズムを考える際、多くの人がビートの頭だと思う場所の特徴を、出来るだけたくさん集めた方が良いシステムになるのではないでしょうか。
理系研究者はどうしても、ある普遍的な法則があることを前提として、自分の研究を進めてしまう傾向があるように思います。
文化に属するものは、その価値が相対的なものであり、いくらでも変わりうるものだという自覚を持って接するならば、そのようなアプローチは危険であると思えるのではないでしょうか。
もちろん音楽そのものを扱う音楽理論的なものを始めとして、音楽史を扱うもの、文化として社会との関わりを扱うもの、音楽教育を扱うもの・・・などが思い付きますが、今の日本ではいずれも文系の範疇に入ります。
その一方で理系的に音楽を扱う場合、音声・音響理論のような音現象を扱う学問が考えられますが、最近では音楽情報処理という方向性がひときわ盛り上がっているようです。
私自身は全く研究に関わっていないので、詳細は詳しくないのですが、音楽情報処理とは音楽そのものをあくまでサイエンスとして扱う学問です。
例えば、音楽の音声データから曲のテンポを抜き出したりとか、メロディを認識したりとか、演奏されている楽器を認識したりとか、演奏の特徴を抽出するとか、そのようなことを扱います。
人間は音楽を聴いただけで多くの情報を読み取ることが出来ますが、音声を解析してそういう情報をコンピュータがアルゴリズム的に読み取るということは、現状ではまだ至難の技です。
しかし、この分野が脚光を浴び始めたのは、私の認識では「初音ミク」ブーム以降であり、多くの人が初音ミクを上手に歌わすために、どのようにデータを作れば良いか、という一種オタク的な探究心から盛り上がっているような気もしています。
個人的には大変興味深いアプローチではあるのだけれど、実はこういう研究に常にある種の疑問を感じているのも確かです。
なぜなら音楽というのは文化的な側面が非常に強く、人文学的なアプローチを抜きに音楽を扱うことは非常に難しいと思うからです。
前回から書いている「音楽の記号的側面」とは、ある音楽が社会の中で記号化した結果、人々に特定の感情を与える触媒としての役割を果たす、ということでもあります。その場合、音楽そのものの価値と社会的な価値が乖離する場合があります。
例えば、名曲と言われるメロディを解析すれば、名曲になるための法則を得られることが出来るか、というような疑問にあなたはどう答えるでしょう?
私の答えは、変な曲になる法則は見つかるが、名曲になる法則は見つからない、と思っています。見つかったようにみえても、それは完全に客観的な法則ではなく、研究者の与えたパラメータに依存した結果になることでしょう。
今、このような文化的な範疇のものを扱う技術としては、客観的な法則を探すのではなく、集合知から全体の平均値を探す、というアプローチの方が正しそうです。
ある特定の音楽の価値をサイエンスとして客観的にはじき出すことは不可能だけれど、今生きている人たちが、その音楽の価値や意味をどのように考えているのかを統計的に分析することは可能ということです。
従って、音楽情報処理のような学問は詰まるところ、世界中からどれだけ多くのデータを吸い上げることが出来るかで、その価値が決まるように思います。
例えば、ある音楽が記録された音声データからその音楽のビートを抽出するようなアルゴリズムを考える際、多くの人がビートの頭だと思う場所の特徴を、出来るだけたくさん集めた方が良いシステムになるのではないでしょうか。
理系研究者はどうしても、ある普遍的な法則があることを前提として、自分の研究を進めてしまう傾向があるように思います。
文化に属するものは、その価値が相対的なものであり、いくらでも変わりうるものだという自覚を持って接するならば、そのようなアプローチは危険であると思えるのではないでしょうか。
2013年1月5日土曜日
音楽の記号的側面
記号的というのは、ざっくり言えば、あるコンテンツが内容そのものとは別に特定の意味を付与されて理解されてしまうような状態のことを言っています。
例えば、AKB48の曲を楽曲分析したり歌詞を読んだりせずに音楽的なレベルを云々と批評するような行為です。もちろん、何かを批評しようとするときに内容まで完全に理解するまでも無い場合、モノゴトを記号的に理解することによって、ざっくり傾向を把握することも必要なことです。
音楽を理解しようとするときに、実は多くの人がこの「記号的側面」に知らず知らずのうちに影響されている、ということを私は言いたいのです。
概言的に言えば同意される人も多いとは思うのですが、個別の話になるとやはり別。みんなが何となく常識で思っていることが、非常に記号的なコンテンツの把握の仕方だと感じることも多く、そういうこと一つ一つに疑いの目を向けていると、逆にこちらのほうが奇異な目で受け取られてしまうこともあります。
しかし、そもそも音楽とは非常に根深いところで人から記号的な判断をされ易いものではないかと感じるようになりました。
例えば私の息子の場合。彼はいま3歳ですが、順調に音楽好きになっているところです。クラシックのいろいろな名曲をYouTubeで聴いているうちに、お気に入りの曲がたくさん出来ているようです。
しかし、実際に好きになる過程を見ていると、好きだから何回も聴く、というより何らかの理由で何回も聴いているから好きになっているような気もします。
その何らかの理由とは、例えば私が「この曲キレイだよね〜」と言ったとか、テレビCMで何度も聞いたとか、何らかのBGMで使われていたとか、そのようなたわいもないこと。最初のきっかけは実はそんなものではないかという気もするのです。
そして、音楽的な内容とは別のところで彼の音楽の好き嫌いが醸成されているようにも見えます。
上記のように「音楽に絶対的な美しさの基準がある」という考え方自体を否定せざるを得ないようなことが多々あります。
このような場合、音楽の価値はその記号的側面に非常に影響されます。歌謡曲の場合、誰が、どのようなシチュエーションで、誰に向かって、どこで、どんな方法で、演奏するのか?ということが記号化され、それが時代の波にうまく乗ったときに、大量消費されます。このような状態において、その音楽的価値を純粋に評価することはナンセンスなことです。
しかし、芸術的と言われる純音楽というようなものでさえ、多くの人は単に記号的に把握していることが多く、何度も名曲と刷り込まれることによって、誰も疑わずに名曲と言っているに過ぎないように思えます。
すでに記号的意味が確立しているコンテンツに対して、その本質的な価値を説明する人は世の中にやはり必要ですが、それは専門家としての立場で当然のことをしているに過ぎません。
逆にすでに価値が確立しているもののその価値に疑問を投げかけたり、全く価値が確立していないものに対して賞賛するような行為は大変勇気がいるし、たいていの場合、そういう言説は否定されやすいものです。
しかし、記号的意味からどれだけ解放されるか、ということがモノゴトの本質に近づく方法だと思いますし、そういう態度を継続することが長い目で見て、良質なコンテンツを見つけたり作り出す能力を育むことに繋がると思うのです。
そのためには、我々がどのように記号的意味に束縛されているのか、それを認識するのは必要なことのように思われます。
というわけで、そもそも音楽にはどうしても記号的意味が付かざるを得ない側面があるのではないか、という最近の私の考えを少しずつ整理してみたいと思います。
例えば、AKB48の曲を楽曲分析したり歌詞を読んだりせずに音楽的なレベルを云々と批評するような行為です。もちろん、何かを批評しようとするときに内容まで完全に理解するまでも無い場合、モノゴトを記号的に理解することによって、ざっくり傾向を把握することも必要なことです。
音楽を理解しようとするときに、実は多くの人がこの「記号的側面」に知らず知らずのうちに影響されている、ということを私は言いたいのです。
概言的に言えば同意される人も多いとは思うのですが、個別の話になるとやはり別。みんなが何となく常識で思っていることが、非常に記号的なコンテンツの把握の仕方だと感じることも多く、そういうこと一つ一つに疑いの目を向けていると、逆にこちらのほうが奇異な目で受け取られてしまうこともあります。
しかし、そもそも音楽とは非常に根深いところで人から記号的な判断をされ易いものではないかと感じるようになりました。
例えば私の息子の場合。彼はいま3歳ですが、順調に音楽好きになっているところです。クラシックのいろいろな名曲をYouTubeで聴いているうちに、お気に入りの曲がたくさん出来ているようです。
しかし、実際に好きになる過程を見ていると、好きだから何回も聴く、というより何らかの理由で何回も聴いているから好きになっているような気もします。
その何らかの理由とは、例えば私が「この曲キレイだよね〜」と言ったとか、テレビCMで何度も聞いたとか、何らかのBGMで使われていたとか、そのようなたわいもないこと。最初のきっかけは実はそんなものではないかという気もするのです。
そして、音楽的な内容とは別のところで彼の音楽の好き嫌いが醸成されているようにも見えます。
上記のように「音楽に絶対的な美しさの基準がある」という考え方自体を否定せざるを得ないようなことが多々あります。
このような場合、音楽の価値はその記号的側面に非常に影響されます。歌謡曲の場合、誰が、どのようなシチュエーションで、誰に向かって、どこで、どんな方法で、演奏するのか?ということが記号化され、それが時代の波にうまく乗ったときに、大量消費されます。このような状態において、その音楽的価値を純粋に評価することはナンセンスなことです。
しかし、芸術的と言われる純音楽というようなものでさえ、多くの人は単に記号的に把握していることが多く、何度も名曲と刷り込まれることによって、誰も疑わずに名曲と言っているに過ぎないように思えます。
すでに記号的意味が確立しているコンテンツに対して、その本質的な価値を説明する人は世の中にやはり必要ですが、それは専門家としての立場で当然のことをしているに過ぎません。
逆にすでに価値が確立しているもののその価値に疑問を投げかけたり、全く価値が確立していないものに対して賞賛するような行為は大変勇気がいるし、たいていの場合、そういう言説は否定されやすいものです。
しかし、記号的意味からどれだけ解放されるか、ということがモノゴトの本質に近づく方法だと思いますし、そういう態度を継続することが長い目で見て、良質なコンテンツを見つけたり作り出す能力を育むことに繋がると思うのです。
そのためには、我々がどのように記号的意味に束縛されているのか、それを認識するのは必要なことのように思われます。
というわけで、そもそも音楽にはどうしても記号的意味が付かざるを得ない側面があるのではないか、という最近の私の考えを少しずつ整理してみたいと思います。
2012年12月2日日曜日
セカイ系でGO!
先ほどエヴァンゲリオンのQを観てきました。
率直に言うと、セリフの一つ一つはほとんど理解出来ないのですが、エヴァの場合、わざとそうしている面もあって、むしろ私としては大枠の設定の作り方、ドラマの作り方、人の追い込み方、そういったものに面白さを感じました。
こういうアニメ作品群をセカイ系と呼んだりします。
私は決してアニメオタクではなく、むしろマンガ,アニメには全く疎い方です。多くの才能のある人たちがアニメ、マンガで活躍しているであろうことは理解しているのですが、私としては表現のフォーマットの幼稚さがあまり好きではないようです。
エヴァとて、そこで描かれる美少女たちは、ある種の(オタクが喜ぶ)フォーマットに従っていて、そういう部分に関しては私の興味の対象外となっています。
しかし、こういうアニメ、マンガの潮流であるセカイ系という方向性は、実は私自身がその内部に持っているものとほぼ同質のものであると感じるのです。
だから、とてもセカイ系な世界観に共感します。こういった創作物が好きだし、もし自分がある種のストーリー性を持った作品を構想する場合、恐らくセカイ系になるだろうなあと思っています(いい例が、拙作「生命の進化の物語」)。
しかし残念ながら、セカイ系は芸術表現のメインストリームにはなかなかなりません。
それは恐らく、そこで表現される価値観が、非常に冷酷で、人間的な希望の薄いものであるからでしょう。多くの人はそういう創作物に嫌悪感を示すようです。
では、なぜ一部の人はそういうセカイ系的な作品に惹かれるのでしょう。
人は、誰しも幸せになることを求めて生きています。
しかし、イジメにあったり、内向的で人と接するのが苦手だったり、いつも目上の人から怒られていたりして、若く多感な時期にアウトロー的な感性が育ち、人生に何らかの諦観を感じてしまう人たちが一定数います。
この人たちは、自分の不幸を和らげるために、この不幸の理由を正当化、あるいはそれほど不幸ではないと感じるための相対化、といった作業を無意識に行なっていると思うのです。
その結果、社会はそもそも個人に対してヒドく無慈悲で、不安定で、非合理で、とても抗えないような大きな力が全てをコントロールしているのだという感覚を感じるようになります。そうすれば、自分の不幸の原因が説明がつくし、嫌なことも仕方の無いものとして処理することが出来るようになります。
この感覚は、自分以外の他人をシャットアウトしてしまう危険性を持つのですが、その分、激しい感情を抑え、どこまでも理知的な態度でモノゴトを探求しようという気持ちを育てます。
多くの研究者や、哲学家、詩人はこういった人たちであり、こういう人たちがやや付き合いづらい傾向にあるのは、そういうモノゴトの考え方をするからなのではないかと思います。
そして、私自身も、こういった素養を少しばかり持ち合わせています。
自分の想いを伝えようとする時、人類滅亡だとか、何万年もの時間が流れるとか、そういう舞台装置を作って、どうしようもならないことを表現したくなってしまうのです。
そして今でも、一般ウケしないそういう世界観をまだ追い求めています・・・。
率直に言うと、セリフの一つ一つはほとんど理解出来ないのですが、エヴァの場合、わざとそうしている面もあって、むしろ私としては大枠の設定の作り方、ドラマの作り方、人の追い込み方、そういったものに面白さを感じました。
こういうアニメ作品群をセカイ系と呼んだりします。
私は決してアニメオタクではなく、むしろマンガ,アニメには全く疎い方です。多くの才能のある人たちがアニメ、マンガで活躍しているであろうことは理解しているのですが、私としては表現のフォーマットの幼稚さがあまり好きではないようです。
エヴァとて、そこで描かれる美少女たちは、ある種の(オタクが喜ぶ)フォーマットに従っていて、そういう部分に関しては私の興味の対象外となっています。
しかし、こういうアニメ、マンガの潮流であるセカイ系という方向性は、実は私自身がその内部に持っているものとほぼ同質のものであると感じるのです。
だから、とてもセカイ系な世界観に共感します。こういった創作物が好きだし、もし自分がある種のストーリー性を持った作品を構想する場合、恐らくセカイ系になるだろうなあと思っています(いい例が、拙作「生命の進化の物語」)。
しかし残念ながら、セカイ系は芸術表現のメインストリームにはなかなかなりません。
それは恐らく、そこで表現される価値観が、非常に冷酷で、人間的な希望の薄いものであるからでしょう。多くの人はそういう創作物に嫌悪感を示すようです。
では、なぜ一部の人はそういうセカイ系的な作品に惹かれるのでしょう。
人は、誰しも幸せになることを求めて生きています。
しかし、イジメにあったり、内向的で人と接するのが苦手だったり、いつも目上の人から怒られていたりして、若く多感な時期にアウトロー的な感性が育ち、人生に何らかの諦観を感じてしまう人たちが一定数います。
この人たちは、自分の不幸を和らげるために、この不幸の理由を正当化、あるいはそれほど不幸ではないと感じるための相対化、といった作業を無意識に行なっていると思うのです。
その結果、社会はそもそも個人に対してヒドく無慈悲で、不安定で、非合理で、とても抗えないような大きな力が全てをコントロールしているのだという感覚を感じるようになります。そうすれば、自分の不幸の原因が説明がつくし、嫌なことも仕方の無いものとして処理することが出来るようになります。
この感覚は、自分以外の他人をシャットアウトしてしまう危険性を持つのですが、その分、激しい感情を抑え、どこまでも理知的な態度でモノゴトを探求しようという気持ちを育てます。
多くの研究者や、哲学家、詩人はこういった人たちであり、こういう人たちがやや付き合いづらい傾向にあるのは、そういうモノゴトの考え方をするからなのではないかと思います。
そして、私自身も、こういった素養を少しばかり持ち合わせています。
自分の想いを伝えようとする時、人類滅亡だとか、何万年もの時間が流れるとか、そういう舞台装置を作って、どうしようもならないことを表現したくなってしまうのです。
そして今でも、一般ウケしないそういう世界観をまだ追い求めています・・・。
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