2013年12月14日土曜日

ボカロ文化と音楽の作家性

初音ミクから始まったボカロムーブメントとでも呼ぶべき現象は、すでに多くの人がいろいろ語っていることと思いますが、私自身これは音楽の歴史における一つの転換点となり得る出来事だったのではないかと考えています。

本来音楽を楽しむためには、誰かがその場で楽器を演奏する必要がありました。
音楽は多分人間が人間になる以前からあった根源的な芸術だと私は思っているのですが、長い音楽の歴史のほとんどの間、音楽は常に誰かが演奏し、それが人から人に技として伝わることで伝承されていたのが現実ではなかったでしょうか。

確かに直接人に伝えなくても、楽譜に演奏情報を記録するという方法で音楽を広める手段もありますが、楽譜もたかだか数百年の歴史しか無く、また楽譜でスポイルされてしまう演奏情報というのは確実にあります。

つまり、音楽というのは、これまで作曲家兼演奏家が直接目の前の人たちにパフォーマンスを行ない、それを楽しむというようなものだったわけです。


音楽の楽しみ方の大きな変化の一つは、レコードが出現したときでした。
目の前で演奏するより臨場感は無くなってしまうものの、音そのものを記録でき、それを後で聞き返すことができることによって、音楽はFaceToFaceの芸術であることから解き放たれました。

しかし、それでもレコードに録音するためには楽器を演奏する必要がありました。
その後、録音技術が発達し、同時に演奏せずに個別に録音が出来るようになったり、個別に録ったものを聞きやすくするように編集する技術が高まり、「録音された音楽」が音楽の成果物としての一つとして確立されることになったのです。
それでも録音された音楽の向こう側には演奏する誰かがいました。

その演奏もコンピュータによる制御で人が演奏しなくてもかなりの精度で演奏することが可能になってきました。
それでもどうしても録音しなければならなかった最後の楽器が人の声でした。
人が歌を歌うという行為は、あまりに簡単なわりに、それを機械にさせることが大変難しかったため、置き換わるほどの経済的メリットが無かったわけです。

とはいえ楽器がいくらうまくても歌はヘタという人はいるし、歌はとても上手いのに作曲や演奏が出来ない人もいます。
上手い歌手を雇えなかったり,思い通りの歌を歌ってくれる人がいなかったりすることで、自分が作りたい音楽を作れなかった人もいることでしょう。
だから、歌が上手い人が最後に録音しないと音楽が完成しないということは、いつまでも音楽が複数人での協力体制無しに出来ないことを意味していたのです。

そこに現れたのが初音ミク&ボカロムーブメントです。
率直に言ってボーカルの質はまだまだ本物にはかなわないのですが、萌え的な価値観なら、経済的に許せるところまで機械に歌を歌わせることが可能になりました。
そしてさらに、そこに現れたのがボカロPというボーカロイドを使いこなす人々の登場です。
ボカロPは自分で作詩作曲し、自分でDAWで打ち込みし、ボーカロイドで歌わせて、最後のミックスダウンまで一人で行ないます。
彼らの出現で、音楽作品の全てを何も演奏しないままたった一人で製作する、というスタイルが図らずも確立してしまったのです。


これがなぜ、音楽の歴史の転換点と言えるのでしょうか。
音楽芸術は、先にも言ったようにリアルタイムのパフォーマンスでした。
つまり、ダンスとか演劇とかと同じ範疇に入る種類の芸術だったのです。
しかし、録音された音楽の出現からボカロPの誕生に至る過程で、音楽は文学とか絵画とかのような一人の作家が作る芸術としての側面も持ち始めたということが言えるわけです。

もちろん生演奏としての音楽は今後も無くなることはないでしょう。
しかし音楽という芸術のジャンルがパフォーマンス系だけでなく、ノンリアルタイムの作家性の高い芸術としての側面を持ち始めたことは、音楽の歴史の大きな転換点になるのではないかと思うのです。

文字や紙、本の発明が、文学を後世まで残すようになったことと同様に、録音技術やデジタル技術の発明・発展が、音そのものを後世まで残せるようになりました。
今までは楽譜を書く作曲家の名前は後世に名を残しましたが、これからは音そのものを残す作家としての音楽家が世に残るという時代が訪れたと言えるのではないでしょうか。


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