同じことを何度も考える。
地球上にフロンティアが無くなった時点で資本主義は終了する。
イースター島で起きたことと同じことが、世界全体で起きる可能性がある。だからこそ、SDGsが叫ばれる。でなければ、人間社会がどこかで文明崩壊する。
もう一つ、資本主義の限界の理由の一つとして、時間差、距離差が極限まで小さくなっていることが挙げられるかもしれない。
時間差や距離差があるからこそ、富の偏在が発生する。ある人は持っていて、ある人が持っていなければ、それを交換して両方がハッピーになる。これこそが資本主義の大元の原理だと思う。
ところが情報は瞬時に世界を駆け巡り、モビリティや運送の発達で、世界は非常に狭くなった。まだ文化や言語の壁はあるが、それらは少しずつ少しずつ崩れていくことは間違いない。
時間差、距離差が無くなることで、モノは瞬時に世界に流通し欲しいものを誰もが手にできるようになった。全てはコモディティ化し、珍しいものがなくなることで、価格は極限まで下がる圧力を受けるようになる。
逆にそのような社会ではコモディティにならないことが大きな戦略の一つとなる。
コモディティは博打のようなもので、当たらなければ大きな投資が無駄になる。だから誰もが買うような必需品は大きな会社が大規模な製造手段と流通手段で世界に販売し、薄利多売を目指す一方、ほとんどの小さな会社はコモディティにならないもの、よりアート性の高いものを販売するようになるだろう。
資本主義的な発想なら、たくさん売って利益を出すことが正義だけれど、たくさん売れなくても、自分を支持してくれる世界中の少数のファンが自分に必要な分だけ投資をしてくれればいいということになる。
自分の活動に世界中の人が投資、というより寄付してくれるような世界。これこそがポスト資本主義な世界だ。
アーティストであることが一番価値のある社会。
芸術作品を作ることだけがアートではない。人へのサービスにもアート性は宿る。というより、全ての人の行為には常にアート性が宿っていて、どのような職業であっても、そのようなアートセンスが必要とされるような社会になっていく。
このような社会のことを何と呼ぼうか。
ポスト資本主義でもいいけれど、とりあえずアート主義の時代とでも言うべきか。
アート性の高い人が評価され、そのような人はいろいろな職業で優遇されるようになる。
人の流動性は高まり、必要とされる人とそうでない人の格差は高まる。ただ、その格差は貧富の差というより、人間力の差だ。
貧者が富めるものに使われる時代から、少しずつ愚者が賢者を祀り上げる時代になっていきそう。
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そういう時代には、そもそもお金がいらなくなる。
お金こそ、資本主義の象徴だ。
お金は、数量を増やすことを肯定する。お金は持っている人ほどお金がさらに集まりやすくなる。お金で時間差や距離の差も買うことができる。
ところが増えることが難しくなり、誰もが時間差や距離差を克服できる時代、お金を人間活動の唯一のものさしにするには都合が悪くなってきた。
アート主義の時代には、アート性の高い人が評価されなければならない。
現状では、そういう人にお金は流れない。
アート性の高さは、まさに評判を客観的に数値化して評価するしかない。数量では評価できない。
評判の数値化、これこそが未来の貨幣だ。と言いつつそれはもはや貨幣ではないのだろう。なぜなら、貨幣みたいに交換したくても評判は減らないからだ。むしろ、株価のようなものだ。
そういえば、個人を株式化するようなサービスがあったっけ。何となくわかる人にはわかっているのだと思う。
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