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2021年6月6日日曜日

静的な音楽、動的な音楽

 ちょっと前に「演奏に参加する音楽」というタイトルで文章を書いたけれども、似たようなことをもうちょっと別の視点で言うことが出来そうな気がする。

表現はもう少し変えたほうが良いかもしれないけど、タイトル通り「静的な音楽」「動的な音楽」という分類。

静的とは、すでにオーディオに録音されてしまい、ひたすら再生するしかできない音楽。

準静的な音楽としては、楽譜通りに書かれた音を生演奏する、という場合も含まれる。

それに比べて、動的とはその場で生成されて、二度と同じ音が鳴らない、その場限りの音楽。既存の音楽で言えば即興、インプロビゼーションに近い。


なんだけど、動的な音楽がいわゆる即興だけかと言うと、そうではなくなるかもしれないと言う話。

例えば、テレワークでバックミュージックをかけるとする。

知っている曲だとかえって気が散ってしまう。だから、あまり聞いたことがないけれど、それほど気持ちに引っかからない環境音楽的なモノを聴きたくなる。

その割には、暗めの曲、明るめの曲、アコースティック、ダンスミュージック、などなど、人によっては好みはあるはず。

これらの変化する聞き手の好みに合わせて、その場その場で最適な音楽が選択される。それは単純に既存の音楽から選ばれるというよりは、むしろ、その場で音楽自体が生成されるほうが好ましい場合もある。


普通に、音楽を再生しているのに、即興演奏でもないのに、その場でリアルタイムに生成されている音楽、というものがこれから現れるのではないかと思う。

個々の人生は、個々の人々にとって唯一のドラマだ。

そのドラマには、個々のバックミュージックがいつも鳴っている。それは借り物ではない、自分だけのオリジナルな音楽だ。それは常に、私たちの気持ちに寄り添い、最適なフィーリングのものが生成されるべきだ。だからこそ、より自分を主人公とした、自分だけのドラマだと感じることができる。

むしろ、ここで大事なのは音楽そのものというより、生成アルゴリズムであり、未来の音楽家の役割は音符を書いて演奏するだけでなく、アルゴリズムや音色をセットにした自動生成システムを提供することになるかもしれない。

いや、それはすごい確信を持ってそうなるような気がしている。


2014年9月27日土曜日

動かせる楽器と動かせない楽器

楽器と一括りに言っても、いろいろなタイプの楽器があり、それぞれの特性に応じて使用される場所や準備が異なります。
その中でも特にその楽器が動かしやすいかどうか、というのは楽器の特性に大きな影響を与えます。以下では動かしにくい楽器について、いくつか例を挙げて考えてみましょう。


持ち運べないと言ったら、建物と一体化しているパイプオルガンがまず思い浮かびます。
パイプオルガンは教会やコンサートホールを作るときにセットで設計され、一つ一つがほぼオリジナルの設計になります。
場所と一体化しているので、そのサウンドもその場所にオリジナルです。
最初からオリジナルであることが分かっているので、パイプオルガンは標準化された仕様というのがほとんど無く、場所によってパイプの種類や数が違います。特に教会では、演奏するオルガニスト自体がその楽器に専用の演奏者となっていることが多いと思います。
逆にコンサートホール等の場合は、演奏前にその曲をどういったパイプの組み合わせ(レジストレーション)で演奏するか事前に検討する必要があります。
動かせないから特殊化し、そのため標準化も進まず、演奏者がその楽器固有の対応をしなければならない、ということがパイプオルガンの事例から分かります。

建物と一体化していなくても、気軽に持ち運べない楽器と言えばグランドピアノでしょう。
ところがピアノはパイプオルガンと違い、世界中にあまねく普及し、標準化が進んだので、音楽を演奏するどのような場所でも標準装備されていることが多く、むしろそのためにわざわざグランドピアノを運ばなくても良い、というような状況になっている側面もあると思います。
こだわりのある一部のトッププロは自分のピアノを運ぶ、というようなことも聞いたことがありますが、それなりに繊細な楽器なので頻繁に運ぶことで受けるダメージを考えると、ホール等に備わっているピアノを使うというのが、少なくとも日本では一般的であるような気がします。
従って、グランドピアノは移動は出来るけれど、楽器そのものを運ぶことは購入時以外にはまるで考えられていないように思われます。

動かせないわけではないけれど、その設置に非常に手間がかかり、一人で持ち運べるというには程遠い楽器もあります。例えばドラムセットとか、ハープとか、チェンバロといった楽器類です。
こういったやや大型でセッティングの必要な楽器は、演奏者だけでなく運搬や設置を行なう専門の担当者が必要になったりします。
とは言え、ホールで常備するほど一般的ではなく、また奏者に依存する部分も多いので、こういった楽器は演奏の機会毎に移動せざるをえません。
ある程度演奏団体として態勢のしっかりした団体では、このような楽器のケアも可能ですが、個人単位では中々難しく、それゆえにこういう楽器はその特性ゆえアマチュアで演奏する人というのが非常に少なくなる傾向にあります。
ドラムも、バンド系楽器の中ではギターやキーボード人口に比べると、やはり少ないんじゃないでしょうか。


実は上記のような持ち運びにくい楽器こそ、電子で解決し易いというメリットがあります。こういった楽器類が電子楽器になりやすいというのは、オリジナルの楽器の特性が非常に影響していると思われるのです。

逆に小さくて持ち運び易い楽器はむしろ電子楽器で代替する必要性は少なく、だからこそ、オリジナルに似させるメリットもないという考え方も出来るでしょう。

電子楽器でどんなに面白いことが出来るかを考える際、こういったアプローチも必要かと考えています。

2014年9月13日土曜日

人はなぜ楽器を弾くのか ー鑑賞としての演奏ー

楽器演奏者を趣味層、本格層と分けて、趣味層の嗜好と彼らへのアプローチについて前回書いてみました

今回はさらにこの趣味層の気持ちについて考えてみようと思います。

というのは、これは私の息子を見ていて思い付いたのですが、楽器を弾きたいということは、音楽鑑賞の一つの形態だと考えられるのではないかと感じたからです。


これまで音楽を聴くこととと楽器を演奏することは、行動としては全く別のものなので、漠然とその心持ちは違うものと思っていたのです。

ところが、息子の行動パターンを見ていると、「音楽を何度も聴く」→「その曲を歌う」→「その曲の伴奏があると一緒に歌いたくなる」→「楽器を弾いているのを見て、その旋律を弾きたくなる」という流れがごく自然なものに思えてきました。
つまり楽器演奏の入り口は音楽鑑賞と続きの関係にあるのではないかと考えられるのです。



音楽鑑賞から自らが音楽を生み出すまでの流れを図にしてみました。

ある音楽が気に入ったとき、その人はその音楽を何度も聴くと思います。
何度も聴いているうちにその音楽を口ずさむようになります。
もし、幸いなことにその人の周辺に楽器があり、弾きたくなるような環境にあるのなら、その楽器でメロディを奏でたくなると思います。

メロディを楽器で弾くことによって、音楽は頭の中で(演奏情報として)コード化され、音楽の再現性が飛躍的に高まります。
このような経験を重ねることで、気に入った音楽を何度も自分で反芻できることの喜びを感じ、その結果メロディはより強固にその人の心に刻まれることになることでしょう。

また、楽器演奏を重ねることによって、体系的にでなくても、その音楽に潜む気持ちの良さ、あるいはその音楽の特徴をつかむきっかけに繋がります。
3拍子とか4拍子とか、リズムの種類とか、転調とか、変化音とか、こういうことを感覚的に覚えていくわけです。

このようなことを理解できた人は、それを自分のさらなる演奏向上に結びつけようとしたり、それを応用してオリジナルな世界を追究しようとするのではないでしょうか。


楽器演奏の趣味層の入り口は、気に入った音楽のメロディを楽器でなぞることにある、というのが今のところの私の結論。

もし、そうであるとすると、入り口では単旋律のメロディを弾けることが重要と意識することによって、楽器入門のあり方がもっとクリアになってくるような気がしてきました。





2014年8月10日日曜日

人はなぜ楽器を弾くのか

楽器を売る立場として、どのような楽器が売れるかは良く考える機会があります。
しかし、どうも私の想いは、一緒に考えようとする人たちの想いと少しずれることが多いのです。

私自身は日々楽器には触っているものの、人前で弾くような機会は無いので、必ずしもハイアマチュアとは呼べないレベルではあるのですが、それでも音楽の厳しい側面は知っているつもりです。
だから「楽器を弾く」ということに、何かひたすら楽しく、健全な印象を持っている人が多いことにやや違和感を抱くのです。


ほとんどの音楽愛好家にとって、楽器を弾いている時間は練習している時間です。
だから、楽器を練習するということはどういうことか考えれば、多くの人が望む楽器やサービスが思い付くような気がします。

しかし、どのような楽器が欲しいか、というお題でブレストすると、多くの人は一緒にアンサンブルして楽しいとか、簡単に曲が作れるとか、勝手に最適な音色が選ばれるとか、やや都合のいい意見ばかり出てきたりしてしまいます。

しかし、そもそも私たちはなぜ楽器を弾くのでしょう?
誰のために楽器を弾くのでしょう?
自分のため?他人のため?
自分の身近な人のため?会ったことも無い人のため?

確かに音楽を聴いて気持ちいいと思ったり、自分で弾いてみてさらに曲が好きになったりして、それをただ再現しようとするだけで楽しいのは確か。
ほとんどの人は、ただ自分のため、自分が気持ちいいと思う快楽のために楽器を弾いているのかもしれません。

しかし、そこに人が絡んでくると話はちょっと変わります。
新しく絡んできた人は、あなたの演奏を聴いてくれる人でしょうか?
それとも一緒に楽器を弾いてくれる人でしょうか?

いずれにしても、もう一人関わる人が増えることによって、楽器から奏でられる演奏そのものの質が何らかの意味を持ち始めます。
曲をうまく弾ければ、「スゴい!」と褒めてくれるかもしれません。しかし、そういう評価をもらうためにはそれ相応の練習が必要です。
他人とのアンサンブルをするのなら、相手に失礼にならない程度の譜読みを事前にやっておくべきでしょうし、あまりに下手だとアンサンブルの場にも微妙な空気が流れます。
逆に十分に演奏が上手い人には、練習する必要さえない場合もあるでしょう。そこには歴然とした実力の差が存在するわけです。

そうやって、自分一人の快楽で楽しんでいた楽器演奏が、他人が絡むことによって「練習」と「評価」というただの快楽で済まない要素が必ず現れます。
そこには、誰でも弾いて楽しめる、という夢のような世界はないのです。


それでも、楽器を買ってくれる多くの人は、一人で演奏して、自分の快楽のためだけに弾く人がほとんどです。
楽器を売るのなら、このような人たちの感覚を無視するわけにはいかないのですが、音楽文化は楽器を人に聴かせるための厳しい世界にいる人たちこそがドライブしていることは忘れてはいけません。

楽しい世界と人に評価される厳しい世界、両輪を理解することでより深みのある楽器が生まれてくるのではないかと思います。

2014年4月5日土曜日

電子オカリナの製作 ─ オリジナル運指

電子オカリナを作る際にまず考える必要があるのは、音程指示のためのスイッチの配置です。
手元に本物のオカリナがありますが、左右両手の指10本分の穴があります。
もちろん、この穴と同じだけの数のスイッチを、同じ位置に配置すれば、既存のオカリナと全く同じ操作で演奏することが可能となります。

しかし、電子オカリナを作ろうとした当初より、本物のオカリナと同じ運指で演奏させようとは私は考えませんでした。それは以下の理由によります。
1.そもそも自分がオカリナがうまく吹けないのは、十本の指を自由自在に動かすのが難しかったため。(小指が動かない)
2.周りでオカリナを吹いている人は多くないから、生のオカリナと同じ運指だから得をする人は少ないと思われる。
3.オカリナの代替を目指しているわけではなく、今までに無い新しい楽器であることを目指しているから運指は独自で構わない。

ということで私は、片手3本、計6本指のみで演奏出来る運指を独自に考えてみることにしました。


まず6つのスイッチの使い道ですが、以下のように決めました。


ドからシまでの音程指定は右手の3本指で行ないます。2の3乗は8だから、ド〜シの音程指定は可能です。
左手は、人差し指がオクターブ指定、中指が#とbの切り替え、そして薬指がクロマティック(半音)指定です。中指と薬指の組み合わせで半音上がるか、半音下がるかの指定を行ないます。
ポイントは、ドのシャープ(#)とレのフラット(b)は別々に指定出来るという点です。これは後々何か使えるのではないかという予感でこうしてみました。

オクターブの指定があることで2オクターブの音域が演奏可能となります。
当初、単純に最低音ド、最高音ドの2オクターブを考えていましたが、音楽的には下のソがあると吹ける曲が拡がるような気がしたので、やや変則的ですがソから上のファまでの2オクターブとしてみました。

ということで私が考えた運指は以下になります。


なお、半音上げるときは、左手の中指と薬指を押さえます。
半音下げるときは、左手の中指を開けて、薬指を押さえます。


おかげさまで、小指を使わず3本指で演奏出来る運指が出来ました。
また、ここまでの説明で、音名ではなく階名(ド〜シ)を敢えて使ったことに気付いている人もいるかもしれません。
実はせっかくの電子楽器なのだから、全ての調に合わせることが可能な究極の移調楽器を目指しています。

しかし、吹いてみると分かりますが、笛の運指としてはかなり特異なので、やや感覚に反しており結構頭を使います。
別の見方をすれば、頭の体操には良さそうな楽器かもしれません。

この運指についてはいろいろ賛否はあると思いますし、今後も多少の変更はあるかもしれません。もし、ご意見などありましたら是非お知らせください。

2014年3月29日土曜日

電子オカリナの製作 ─ 気圧センサ

先週,ついに数ヶ月間作ってきた電子オカリナを公表したので、その内容について何回か連続して紹介しようと思います。

OSC浜名湖では20〜30人くらいの人に実際に話して紹介をしたのですが、その中で一番食いつきの良かった技術的話題は、何といっても大気圧センサの話です。
皆さん技術者なので、吹いた息をどのようにセンシングするか、というところにやはり興味を持つのでしょう。

大気圧センサで吹く息をセンシングする、というのはもちろん私のオリジナルのアイデアではなくて、しかもすでに世の中で使われている方法です。ネットで調べると、同様に気圧センサで吹く息の量を測定する、といった話題を発見することが出来ます。

以下では、大気圧センサを使ってどのように吹く息の量を算出したのか、簡単に説明しましょう。


大気圧センサをI2Cバスに繋げて、プログラムから定期的に値を読み出すようにプログラムを作ります。
私が使ったセンサはLPS331APです。
このセンサから値を読み取ると、現在の気圧が絶対値で得られます。絶対値というのは、例えば1012ヘクトパスカル[hPa]といった値です。
分解能はかなり細かくて、1[hPa]の1/4096の値まで読み取れます。ただ、実際に測定してみると分かりますが、0.1〜2[hPa]程度は常にブレていて、それなりの信号処理をしないと、安定した数値を得るのは難しそうです。

このような状況で息を吐き出した強さをどのように測定したらよいでしょう。
当然ですが、気圧はその日の気候によって大きく変わります。1020[hPa]のときもあれば、台風が来ているときには自分の部屋でも980[hPa]くらいになりました。
まさに天気予報の数値そのものを体感出来るわけです。

また、気圧は高度によっても変わります。気圧で海抜何メートルか測ることも可能です。
10メートル標高が高くなると、1[hPa]気圧は下がるそうです。なので、富士山の頂上では、378[hPa]も気圧が低くなります。

このセンサを密封したところに入れてそこに息を吹き込みます。
そうすると当然気圧は高くなります。しかし,その値はどう頑張って吹いても+20[hPa]程度。つまり通常の気圧が1000[hPa]のとき、強く吹いても1020[hPa]程度の気圧の上昇です。

こういう状況を考えると、吹いた息の量を検出するためには何も吹いていない時の現在の気圧を測定しておくことが必要になるということが分かります。
そうすれば、センシングした数値から現在の気圧を引くことによって、吹いた息の量を正確に得ることが出来ます。
もし大気圧の数値を決め打ちにしてしまうと、天候や高度によって全然使い物にならなくなってしまうことでしょう。


最初はこの問題を解決するために信号処理的にスマートに解決できないか、とか考えてみました。気圧の変動だけとるのだから、DC成分を除去すれば良さそうです。つまりハイパスフィルターを使えば良いのではないかと考えました。
しかし、実際に息を強く吹いたり弱く吹いたりという周期はそんなに早くないので、相当急峻な特性を持ったフィルターでないといけません。実際に計算するとその係数は、0.9999・・・みたいな数値になってしまいます。何しろ、小数点以下何桁といった浮動小数点演算もハードウェアにとって結構なコストです。
(あくまで私の推論ですが・・・)

ということで、今回は泥臭くルールベースで現在の気圧を得る方法を考えてみました。
ざっくり言うと,以下のようなロジックです。
1)プログラム起動時は、少し時間を待ってから気圧を読み取り、まずはその値を現在の気圧(StandardPressure)とする。
2)その後、読み取った気圧の差分が0.2[hPa]を超えたら、この値をTempPressureとして保持。
3)読み取った気圧とTempPressureとの差分が0.1[hPa]以内ならカウンタをインクリメント。これが0.2[hPa]を超えたら、2)に戻り、TempPressureを更新。カウンタを0クリア。
4)このカウンタが50になったら、TempPressureを新しいStandardPressureとする。

上記のように気圧を作り出す処理とは別に、息の量を測定します。
具体的には、今読み取った気圧から上記のStandardPressureを引き算します。その値を適当に正規化して、音源に音量情報として送ります。

この方法は、例えばカウンタを50回インクリメントって一体何msecなのかとか、そういう部分がかなり曖昧ではありますが、とりあえずこんな方法で何とか笛を吹かせることは可能です。
もちろん、なかなか気圧のブレが大き過ぎてStandardPressure値が定まらないことも多く、まだこのロジックにはもう少し修正が必要だと思っています。

以上、気圧センサから呼気の量を読み取りロジックを紹介しました。

2013年12月14日土曜日

ボカロ文化と音楽の作家性

初音ミクから始まったボカロムーブメントとでも呼ぶべき現象は、すでに多くの人がいろいろ語っていることと思いますが、私自身これは音楽の歴史における一つの転換点となり得る出来事だったのではないかと考えています。

本来音楽を楽しむためには、誰かがその場で楽器を演奏する必要がありました。
音楽は多分人間が人間になる以前からあった根源的な芸術だと私は思っているのですが、長い音楽の歴史のほとんどの間、音楽は常に誰かが演奏し、それが人から人に技として伝わることで伝承されていたのが現実ではなかったでしょうか。

確かに直接人に伝えなくても、楽譜に演奏情報を記録するという方法で音楽を広める手段もありますが、楽譜もたかだか数百年の歴史しか無く、また楽譜でスポイルされてしまう演奏情報というのは確実にあります。

つまり、音楽というのは、これまで作曲家兼演奏家が直接目の前の人たちにパフォーマンスを行ない、それを楽しむというようなものだったわけです。


音楽の楽しみ方の大きな変化の一つは、レコードが出現したときでした。
目の前で演奏するより臨場感は無くなってしまうものの、音そのものを記録でき、それを後で聞き返すことができることによって、音楽はFaceToFaceの芸術であることから解き放たれました。

しかし、それでもレコードに録音するためには楽器を演奏する必要がありました。
その後、録音技術が発達し、同時に演奏せずに個別に録音が出来るようになったり、個別に録ったものを聞きやすくするように編集する技術が高まり、「録音された音楽」が音楽の成果物としての一つとして確立されることになったのです。
それでも録音された音楽の向こう側には演奏する誰かがいました。

その演奏もコンピュータによる制御で人が演奏しなくてもかなりの精度で演奏することが可能になってきました。
それでもどうしても録音しなければならなかった最後の楽器が人の声でした。
人が歌を歌うという行為は、あまりに簡単なわりに、それを機械にさせることが大変難しかったため、置き換わるほどの経済的メリットが無かったわけです。

とはいえ楽器がいくらうまくても歌はヘタという人はいるし、歌はとても上手いのに作曲や演奏が出来ない人もいます。
上手い歌手を雇えなかったり,思い通りの歌を歌ってくれる人がいなかったりすることで、自分が作りたい音楽を作れなかった人もいることでしょう。
だから、歌が上手い人が最後に録音しないと音楽が完成しないということは、いつまでも音楽が複数人での協力体制無しに出来ないことを意味していたのです。

そこに現れたのが初音ミク&ボカロムーブメントです。
率直に言ってボーカルの質はまだまだ本物にはかなわないのですが、萌え的な価値観なら、経済的に許せるところまで機械に歌を歌わせることが可能になりました。
そしてさらに、そこに現れたのがボカロPというボーカロイドを使いこなす人々の登場です。
ボカロPは自分で作詩作曲し、自分でDAWで打ち込みし、ボーカロイドで歌わせて、最後のミックスダウンまで一人で行ないます。
彼らの出現で、音楽作品の全てを何も演奏しないままたった一人で製作する、というスタイルが図らずも確立してしまったのです。


これがなぜ、音楽の歴史の転換点と言えるのでしょうか。
音楽芸術は、先にも言ったようにリアルタイムのパフォーマンスでした。
つまり、ダンスとか演劇とかと同じ範疇に入る種類の芸術だったのです。
しかし、録音された音楽の出現からボカロPの誕生に至る過程で、音楽は文学とか絵画とかのような一人の作家が作る芸術としての側面も持ち始めたということが言えるわけです。

もちろん生演奏としての音楽は今後も無くなることはないでしょう。
しかし音楽という芸術のジャンルがパフォーマンス系だけでなく、ノンリアルタイムの作家性の高い芸術としての側面を持ち始めたことは、音楽の歴史の大きな転換点になるのではないかと思うのです。

文字や紙、本の発明が、文学を後世まで残すようになったことと同様に、録音技術やデジタル技術の発明・発展が、音そのものを後世まで残せるようになりました。
今までは楽譜を書く作曲家の名前は後世に名を残しましたが、これからは音そのものを残す作家としての音楽家が世に残るという時代が訪れたと言えるのではないでしょうか。


2013年11月6日水曜日

Maker Faire Tokyo 2013に行ってきた

11/3にお台場の日本科学未来館で開催されたMaker Faire Tokyo 2013に行ってきました。

昨年クリス・アンダーソンの「Makers」が話題になって、Makerムーブメントがますます拡がっています。そして、そのMakerムーブメントの日本におけるメインイベントでもあるMaker Faire Tokyo に、ぜひ一度行ってみたいと思っていたのです。このイベントも年々規模を拡大しているようで、今年は科学未来館だけではなく、近接する建物でも展示がありました。

幸い11/4に拙作初演の演奏会もあったことで、その前日にMaker Faireに行くことにしました。今回は家族も一緒に東京に行ったのですが、前売り券まで家族分買っておいたのに結局家族とは別行動。私一人でMaker Faireをうろつくことに。(チケットが無駄に・・・)

とはいえ,実はMaker Faireではウチの会社の人たちとたくさん会ってしまいました。二人くらいはいることは知っていたけど、まさかあの人が・・・という人が二人ほど。しかも出展してるし・・・

さて、このMaker FaireでKORGとlittleBitsのプレゼンテーションがあるというのは知っていたので、まあちょっと見てみるかとフラフラと会場に行ってみたのです。
二社の提携の話はすでに知っていましたが、この場で何と新製品の発表がありました。
その名も Synth Kit。シンセサイザーの各要素が電子パーツ化しており、それらを自由に組み合わせるだけでオリジナルなシンセが出来るという画期的な製品。
価格も¥16000で、基本的にはホビー層向けではありますが、今までシンセに触ったことが無かった人が、面白そうと感じることが出来る製品だと思いました。
下の写真は開発者3人が即興で Synth Kit で生演奏した様子。結構音も本格的でしたよ。


ホビー向けとはいえ、これはMakerな人々にとって音の素材にもなり得るわけで、しっかりプラットフォーム的な地位を確立しようとしているなと、個人的には大変感銘、というか、正直ショックを受けたのです。

さて、本来の目的のFaireのほうですが、これはもう本当に玉石混淆。
一人工作が大好きな物好き、大学の研究室、電子部品を売る専門ショップ、3Dプリンタメーカーやプリントサービスの会社、Intel/KORG/YAMAHAなどの本物のメーカーまで、全く同じ場所で同じように机を並べていました。



個人的には、ネットで見聞きしていた「電子楽器ウダー」の実物が見れて触れてみたり、2回ほど利用した3Dプリントサービスの会社のブースでサンプルを見たり、その他にも楽器ものがいろいろ見れたのが楽しかったです。

ぶっちゃけ(ややエラそうに)言うと、楽器は全般に詰めが甘いものが多く、何しろ音が出るところまで到達して、何とか出展しているというものが多かったのが正直な印象。演奏して楽しいと思えるレベルまで作り込むことの難しさや、そういうセンスを持っている人はそう多くは無いということを実感しました。



それでもMakerムーブメントと楽器は非常に相性が良く、こういう場所で多くの人たちがオリジナルな楽器を作っていることは自分にも大きな励みになります。
ということで、来年は何とか出展したいと思っています。(とここで宣言してしまおう)



(その頃、ウチの家族は・・・)





ッt

2013年8月27日火曜日

もう好きな音楽を共有できない

今どきの高校生が聴く音楽ってどんな音楽なんでしょう?

静岡県では合唱コンクールで審査結果を待つ間、高校生が高校単位でポップスを歌い合うという不思議な行為が流行っています。昨日もそれを聴きながら、ついつい「全部古い曲じゃん」とか突っ込みを入れていました。新しくてもせいぜい10年くらい前に流行った曲。

先生が持ってきたりしているからっていうこともあるのだろうけれど、ヒット曲という概念が無くなりつつある今、音楽の趣味は分断され、友達みんなが知っていて一緒に歌える曲が非常に減っているのではないか、とそんなことを感じたのです。

40歳を超えたおじさんたちは、そもそも流行歌などチェックしませんから、あまりそんなことを気にもしていませんでしたが、今の若い世代はみなが同じ曲を歌うような文化がもはや成り立たなくなってきているのではないでしょうか。


私自身はこの現象を単純に嘆かわしく思っているわけではありません。
だいたい、大勢で歌える曲というのは、前向きで明るい音楽であり、そのような音楽ばかりが好きだというのは、私に言わせればむしろ不健全。
音楽を聴くという行為が、ますますパーソナライズされてくるにつれ、個人は自分の趣味に合った音楽を聴くようになります。人と聴く音楽が違ってくるのは当然のことでしょう。

それでも、小学校の遠足のときにみんなで流行りの歌を歌ったとか、そういった楽しかった記憶を思い出すと、これもまた時代の変化の賜物なのだろうか・・・とやや切ない気持ちになったりもします。
みんなが取りあえず一緒に歌えることができた歌は、別に音楽的に優れていなくても良いのです。歌詞がちょっとくらい意味が分からなくてもいいのです。声を合わせて友達と一緒に歌ったという記憶が懐かしく心地よいのです。
そうやってみんなで一緒に歌っているうちに、気がつくとその歌には想い出が絡まり、郷愁をまとって、忘れられない音楽になっていきます。

音楽の趣味はどこまでも個人的なものだけれど、共有することで、友達同士を繋げた音楽というものも以前は確実にありました。
そういった音楽はこれからどんどん無くなっていってしまうのでしょうか?
無くなった先に新しい文化の芽が生まれるのか、それとも音楽を共有することは人間の基本的欲求の一つであり、いずれまたみんなで同じ音楽を聴くような未来がやってくるのか、まだ私には計り兼ねているところです。

2013年8月3日土曜日

芸術を通して伝えたいこととは何か

芸術とは何か、と問われたとき、その根本は「何かを伝える」ということなのだと思います。
人は他人に何かを伝えるために、言語という手段を持っています。そして数千年前に、文字という手段も手に入れました。
単純なメッセージや情報なら、そのことをそのまま言葉や文字で伝えれば良いのですが、伝え方そのものをもっと洗練させたり、同時にたくさんの人に同じことを伝えたり、あるいは言語表現で伝え切れない部分を印象として伝えるために、表現が様式化したものが芸術である、と言えるのではないでしょうか。

ところが、芸術の表現方法が様式化することで、そもそも何かを伝えたいという本質が抜け落ち、様式の追究が行なわれてしまうことが往々にして発生してしまいます。
残念ながら、人は数段先のスコープを見渡せる人と、近場のことしか見渡せない人がいるのです。そして近場のことしか見渡せない人々は、芸術活動を行ったときに、様式の追究だけに陥りがちです。


表現の奥にある伝えたい何か、とはそもそも何なのでしょうか?
もちろん、平和と反戦とか、仲間は大事だとか、苦しいこともがあっても頑張ろう、とか、まあそういった類いの分かりやすい主張を語る人も多いですが、どこか浅薄で借り物っぽい感じを受けてしまいます。
私たちは普段生きている中で、もっと人間として、生物として、どうしようもない激情に翻弄されていて、私たちが本当に望んでいることはもっとドロドロとしたマグマのような本能的なものではないか、という気もします。フロイトの言うところの"es"です。

そもそも、自分が芸術を通して伝えたいことが、たった一言で語れてしまうようであれば、そんなまどろっこしい方法で表現しなくても良いのです。
ただし、芸術活動を通して、やや具体的な政治的主張を表現したい場合もあるでしょう。日本ではあまり一般的ではないですが、ある政治的主張をするために、他人の心を揺さぶるために芸術的表現を借りることは有効な手段であると思います。
それでも、私たちが本当に伝えたいことは政治的に正しい倫理的主張だけではない、と私は信じています。


では、私なら何を伝えたいのだろう・・・とちょっと自問してみましょう。
恐らく20代くらいまでは、私はある種の理想社会(それは退廃的な世界観とも円環的に繋がっている)や、理想的な恋愛対象に対する憧れを表現したかったような気がします。若さゆえの理想の追求です。
30代以降、いわゆる理系的性向と合わさることで、宇宙、生物といった先端科学の中に、世の中の基本定理や、神の存在などを見出だそうとするような方向性が追加されてきました。理想の追求がより普遍的、抽象的になってきたのかもしれません。
もちろん、これは具体的な作品名や、作曲で選ぶテキストの話にとどまりません。ごく一般的な詩を使って曲を書いたとしても、私自身のそういった傾向が曲中に盛り込まれていると思っています。

例えば、30代以降、フーガっぽい表現を使うことが多くなりました。
これはある種、複雑なものを秩序で統括したいという意識の現れであり、音楽的効果だけでなく、フーガという形式そのものが論理性を要求し、高度な知性を要求する、といったような世界観を目指しているように感じます。

こうやって自問自答してみると、必ずしも私の芸術的主張は明確な社会的主張を持っていないのだけれど、私でしか表現出来ない何かを追究しているようにも思えます。
このように全ての表現者が自分は何を表現したいのか、を考えてみることは大事だと思うし、それは結局自分自身の存在意義を再確認する作業でもあると思います。


これから世界は、全ての人々が芸術家であらねばならないことを要求される社会に移行する、と私は本気で思っています。
芸術の世界に身を置く人たちは、そういう意味で最先端の場所にいます。だからこそ、最先端に居続けるためにも、自分とは何かを常に問い続けるべきだと思います。


2013年6月29日土曜日

暗譜の苦労

合唱をしていると暗譜の苦労はつきもの。
以前も書いたように、私自身は暗譜を必ずしも良いものとは思っていませんので、私が決定権を持つ場合暗譜にすることは多くありませんが、それでも合唱活動していれば、暗譜せざるを得ないことは何度もあります。

とりわけ、私は人に比べるとどうも物覚えが悪いほうで、学生時代から暗譜には苦労しました。
大学生の頃、本番2週間前くらいにアンコール曲が決まって、それを暗譜せねばならず、歌詞の冒頭の音節だけ抜き出した紙を作って覚えたりとかして工夫したものです。

暗譜が苦手という意識があるので、暗譜に対しては昔から戦略的に(具体的な方法を編み出して)対応します。
私の場合、歌っているうちに何となく覚えるということがあまり無いのです。

カルミナブラーナを暗譜したときは辛かったですね。
特に男声の In Taberna。メロディアスとはとても言えない機関銃のような音符の中に、莫大なラテン語の歌詞が詰まっています。つまり音楽的な暗譜ではなく、ひたすら歌詞を覚えるのが大変な曲なのです。
このときは、歌詞をワープロで書いてプリントアウトして、時間のあるときに何度も何度もそれを唱えるという方法で何とか覚えました。

暗譜の苦労というと、歌詞もそうなのですが、似たようなパターンのフレーズが繰り返されるときに回数を間違わないで歌う苦労というのがあります。
この場合、曲をある程度解析して、この繰り返しが何回、といったことを数えておく必要があります。しかし事前に数を数えておいても、歌っている途中でそれがカウント出来ないと意味ないですから、今度は歌いながらカウントするという訓練が必要になります。

上記のパターンで最も苦労したのが、ジャヌカンの「マリニャンの戦い」。
これを暗譜しようとしたのも無謀でしたが、今では懐かしい想い出です。
この曲の暗譜のために、私はベース専用パート譜を作りました。せっかくなので、ここでお見せしましょう。

まず、長い曲全体を見開き1ページに収めます。
背に腹は代えられず、歌詞はカタカナです(元はフランス語)。繰り返しのところには歌詞は書きません。
同じパターンが繰り返されるところには繰り返し回数を記載し、蛍光ペンで色を付けます。
この楽譜で何度か歌っているうちに、曲全体の構造やパターンが把握出来るようになり、だんだん次に歌うフレーズが頭に浮かんでくるようになりました。

これを暗譜で臨んだ某コンクールのステージリハのとき、ベースが落ちてしまい全くリカバリ出来ず顔面蒼白。おかげで本番は何とか歌い切りましたが、そのときは本当にスリリングな経験をしました。しかしその緊張感のためか、何と入賞することが出来ました。そのときの演奏はこちら

最近だと、松下耕「狩俣ぬくいちゃ」も大変でした。これは手拍子の所作付きなので、譜面台をおかない限り暗譜するしかありません。
しかも、繰り返しで苦労するタイプの暗譜で、マリニャン系の難しさがありました。このときも曲の後半は、自分用にスペシャル楽譜を作りました。

多くの人はひたすら歌って覚えるようですが、物覚えの悪い私は、これまで上記のような工夫をいろいろしてきました。ご参考になれば幸いです。

2013年6月1日土曜日

ボカロ音楽が示唆する未来の音楽

二日前にsasakure.UKというボカロPのアルバムを購入。タイトルは「トンデモ未来空奏図」。おふざけっぽいタイトルだけど、こういう言葉使いは好き。実際に音楽を聴いてみると、いわゆるボカロ系のフォーマットに従っているものの、何か親近感を覚えるようなセンスを感じました。

恐らく、彼はどちらかと言うと、一人で部屋の中で自分だけの世界を育てることに喜びを感じる類いの人で、逆に何人かでバンドを組んでカッコ良く演奏して人前で目立ちたい、というところから音楽を始めた人では無いのだと思います。

こういうタイプの人は、実は表現手段が音楽であること自体、偶然の産物であり、多感な時期に何に触れていたか(sasakure.UKさんは合唱らしい)、それによってその表現手段が決まっていたに過ぎません。
しかし、いずれ何かしら表現の世界に入ることは確実で、もしかしたらそれは小説だったかもしれないし、絵画だったのかもしれません。
実際、音楽活動をしている(た)作家は意外と多いです。彼らにとっては「表現する」ということだけが本質なのであり、音楽か文章かというのはただの手段に過ぎないのかもしれません。

ボーカロイド技術はそのような人々にとって大きな福音でした。
小説、詩、短歌などの文芸、絵画、彫刻などの美術系に比べると、音楽はどうしても演奏する必要があり、いわゆる創作が一人で完結するタイプの芸術ではなかったのです。そういう意味では、ダンスやパフォーマンスとか、演劇とか、映画製作とか、そういうタイプの芸術に近かったわけです。
しかし、シンセサイザーや多重録音技術から始まり、DAWでの打ち込み、そして最後の砦のボーカルが電子的に生成することが可能になったところで、ついに一人の作家が最終成果物まで完成することが可能になったのです。

これはやや極端なことを言うと、音楽史においても大きなインパクトになり得る事態ではないでしょうか。
音楽はすでに、ここ百年くらいのオーディオ技術の進歩によって鑑賞が複数から個人的なものに変化していました。
そして、ここ10年くらいのデジタル技術の進歩は、音楽製作そのものを個人的な活動に変化させてしまいました。
つまり、これで作家から消費者への一対一のダイレクトな伝達が可能になったのです。これは、音楽が美術や文芸などと同じレベルの鑑賞方法に変わったことを意味します。

恐らくこれから音楽は二つの方向に分かれるのだと思います。
作家から個人への一対一の伝達である音楽と、演奏家のパフォーマンスを観客が楽しむタイプの音楽の二つです。
結果的に、前者は文芸的世界を益々指向するようになるでしょう。
表現はもっと過激になり、内容も専門的、内省的になり、主義主張も明確になり、より鑑賞する側を限定するようになるでしょう。

そして、一対一音楽と、多対多音楽は、最初のうちは未分化ですが、これがいずれ交わらなくなるほど分化し、一対一音楽はライブで演奏されなくなる方向になるのではないでしょうか。
他対他もパフォーマンスが中心になれば、そのライブ感が楽しみの中心となり、記録した映像を観れたとしても、やはり演奏する場に人々が集まることに価値を置くような方向にどんどん進んでいくはずです。

やや余談ですが、映画も近いうちにより音楽と近い状況が生まれるだろうと思います。つまり一人の作家がたった一人で映画を作ることが可能になるのです。二次元的なアニメではもうそれはほぼ可能ですが,最近では3Dアニメの部品をネットで入手すれば、実写レベルとはまだ程遠いけれど、ある程度の技術さえあれば、それらのキャラを動かして一人で映像作品を作ることも可能です。

ボカロにしても、まずはアニメ的なところから始まっています。これはデジタル技術との相性が良いということもあるのでしょう。
より技術が発展し、データも増えていけば、ますますリアルな歌声を生成することは可能になるし、いずれ本当の演奏と見分けがつかなくなるレベルに到達すると思います。

そんな未来には、そもそも私たちは音楽で何を伝えたいのか、そういう根本からいろいろなモノゴトを考え直す必要がありそうです。

2013年4月27日土曜日

こんなオルガンを作りたい─操作系で思うこと

前回の創作楽器「カマボコオルガン」の続き。

操作系は4つのテンキーで行なう、と説明しました。
これは一つのアイデアではありますが、自分が電子楽器に関わる中で操作系について日頃思っていることから、どのようにしてそのアイデアに到達したか、紹介したいと思います。

電子楽器の操作には、すぐに音の何かを変化させるための動的な操作と、演奏時の振る舞いなどを設定したり、その設定をメモリーしたりといったその場では変化しない静的な設定系の操作に大まかに分類できます。

楽器にとって動的な操作は演奏と直結します。その操作によって音が変わるからです。
従って、そのような操作子は鍵盤などと同じ演奏として絶え得るインターフェースである必要があります。
大ざっぱにいえば、視認性が高く、操作しやすく、壊れにくい必要があるでしょう。

もう一つの設定系の操作はどうでしょうか?
これはそもそも楽器のリアルタイムな演奏とは関係ありません。また、全ての電子機器が一般の人にとって難しく感じられるのは、このような機能がたくさんあるからです。たまにしか使わない機能設定の方法をいつでも正確に覚えていられるなどと思うのは、むしろ電子機器を設計するメーカーの怠慢だとさえ言えるでしょう。

あくまで理想を言うならば、楽器に設定系の操作は必要ないと思います。
電子楽器以前、楽器にはそもそも設定系の操作はなかったのではないでしょうか。パイプオルガンのレジストとか、楽器の調律とか、まあそういう類いのものはありますが、音を変えたければ楽器を持ち替えるし、そもそも繊細な音の違いは演奏時にすぐに制御できなければいけません。

便利さを追究した結果、本質を外れた不便さが蔓延してしまったのが今の電子機器の状況です。それは電子楽器とて変わりません。
一つの機器がいろいろな機能を持ち、全て一台で置き換え可能、という便利さは、むしろ精神的な貧しさの現れではないかとも思えます。
一つ一つの機器が十分安くなり、使いやすくなるのであれば、個別最適化されたそれでしか出来ない機器を必要なだけ持っている、というのがむしろ個人にとって理想的な状況であると思われるのです。

このようなことをつらつら考えていくと、電子楽器から設定系操作を限りなく外す、ということが今後のテーゼとなりうるのではないでしょうか。
その上で、楽器が取り得る音楽的表情をどれだけバリエーションとして持たせるか、それがこれからの電子楽器の工夫の仕方であると私は考えます。


今回、私が考えているカマボコオルガンの操作系は、上のような思想に基づいています。
オルガンである以上、ストップなどの操作によって何種類かの音色が選べる、というのは基本です。しかし、何百種類もの音色がメモリーされている、というところまでいくと、オルガンのリアルタイム操作性とか、そもそもその特定のオルガンとしての音色の特徴が薄れてしまいます。
そこで選べるストップは4つほどに限定。
ただし、せっかくの電子楽器なのだから、アタックやリリースなどのエンベロープも変化させたい。そこで、そのための設定も加えます。
ただし、0〜127まで設定できる、などというメーカーの都合をゴリ押ししてはいけません。最適な設定を2、3個用意するだけです。

というようなことを考え、ストップを4つ。そして各ストップが0〜9の10個の状態に変化するという仕様にしました。
そして、上記のような設定を簡単に操作できる方法として、今の機器で一般的なテンキーを使ったらどうかと考えたわけです。

とは言え、頭で考えたことが思った通りにはならない、ということは良くあること。まずは試作品を作って、それが感覚的に使いやすいかどうか実際にやってみなければ何とも言えませんが・・・

2013年4月20日土曜日

こんなオルガンを作りたい

頭の中で温めているだけでは腐ってしまうと思い、最近考えている新しい電子オルガンのコンセプトを紹介しようと思います。

前提が一つ。
これは実現性を無視してオルガンのあるべき理想的な形を追究したというようなものではありません。
あくまで私が一人で現実に製作することを前提に考えたものです。
従って、試作でも何とか作れる程度のシンプルなデザインや構造の中に、私なりに考える新規性が同居したものとなっています。


というわけで、上の写真のような下手な絵を描いてみました。
もっと上手く描けば印象も違うのでしょうが、美しさの足りない部分については皆さんのイマジネーションで脳内美化させてください。

全体は円柱を半分に切ったような形をしています。
蒲鉾のような形です。従って、この楽器、愛称は「カマボコオルガン」です。英語なら"Kamaboko Organ"(そのまんま・・・)
筐体がオレンジ色なのは、単に私がオレンジ色が好きだからです。

蒲鉾の片方の側から、にょきっと鍵盤が出ています。
絵では3オクターブありますが、両手で弾くなら4オクターブ、あるいは5オクターブの鍵盤があってもいいかもしれません。その場合は、この楽器の横の長さが単に長くなっていきます。
鍵盤は出来れば木製。ピアノの鍵盤よりもサイズは若干小さめにしたいです。


操作子は、鍵盤の前に4つのテンキーがあるだけです。
この4つのテンキーは、それぞれオルガンのストップを表します。下の図の例では、テンキーがそれぞれ、Principal 8'、Principal 4'、Flute 8'、Trumpet 8' のストップを表しています。


ポジティフオルガンなどでは、4つのストップがあれば、スイッチは4つあって、各ストップを入れるか入れないかの二択しか出来ません。
しかし、この楽器ではテンキーを使って、鳴る場合でも9つのバリエーションを選ぶことが出来ます。
テンキーの上下の段は音量を表します。上にいくほど(数字が大きくなるほど)音量が大きくなります。
またテンキーの左右は音の立ち上がり,立ち下がりを表します。一番左は、アタック付きの音です。ハモンドオルガンのアタックドローバーのようなものです。
真ん中は通常のオルガンの音。そして右側は、音の立ち上がりと立ち下がりがユルくなり、ふんわりとした音に変わります。
このようにすることによって、オルガンのセッティングを4桁の数字で表現することが可能になります("8210"とか、"7135"とか・・・)

クラシックで使うオルガンはストップのオンオフしかできません。
逆にポピュラーでよく使われるハモンドオルガンの場合、いろいろなフィートの音を混ぜることが出来ますが、音色は一つしかありません。
そこで、クラシック向けのオルガンとハモンドオルガンの二つの特徴を持たせてみようと思ったわけです。
そこに、だったらテンキーにしたら面白いじゃん!というアイデアが合体しました。
さて,皆さんはこのアイデアについてどう思いますか?

このオルガンのアイデアについてご意見がありましたら、Twitter で @hasebems 宛にでもメンションを送ってもらえると嬉しいです。

2013年1月27日日曜日

音楽の記号的側面 -曲を作る立場から-

音楽の価値について四六時中考えている作曲家なら、音楽が記号的にしか扱われないことは嘆かわしい事態だし、もっと音楽そのものの価値を理解して欲しい、と考えているのかもしれません。
実際、長い間私もそう考えてきたし、前回書いたような権威筋の意見とか、単なる刷り込みといった要因で音楽の価値に惑わされるなんて、単に感性が弱いだけだ、と吠え続けていたような気がします。

もちろんその考えは今でも思い続けているものの、音楽を記号的に扱う、ということは社会的に避けては通れないし、現実問題、もっと寛容に考えていかないといけないのではないかとも思っています。

専門を追求するからこそ、世間一般の常識からかけ離れてしまうことは良くあること。
特に現代のようにあまねく音楽が世界に行き渡り、低俗なものほど受け入れられる現実に直面し、思索に思索を重ねた音楽ほど疎まれてしまうことに日々悶々としている若手作曲家なら、ますますそういう現実を受け入れられず一人理想の世界に閉じこもってしまうものです。
でも私たちは現実に生きているのだから、現実は受け入れなければいけません。
世の中で起きていることが、本当のことなのです。自分の理想の世界は、自分の頭の中だけでしか正義たり得ないのです。

それでは、もし作曲家の立場で、音楽が記号的に消費されることをある程度受け入れるのなら、彼らはどのような態度を取ることになるでしょうか。

まず、ジングルのような短いフレーズなど、アカデミックな立場では音楽的価値がないものと思われるようなものを肯定するようになるでしょう。
もっとも日本のように街のあちらこちらで注意喚起の音楽が鳴るのは閉口しますが、このように音楽が使われることに対して一定の理解を示す必要はあるでしょう。

もう一つは、単純な音楽をバカにしない態度にも繋がるでしょう。
アイドルが可愛くあるいはセクシーに踊る音楽は、もはや音楽の価値だけで論じることは不可能な領域です。であれば、そのような音楽に対して音楽的に批判すること自体がナンセンスなこと。
もっと言えば、女の子との魅力を引き立てるためには、どのように音楽を作れば無駄に邪魔をしないのか、などと二重にひねくれた音楽の鑑賞をする必要も出てくるかもしれません。

現在の音楽は、ほとんどそのような流行歌で成り立っています。
短期間で消費されるとは言え、ポップスのような流行歌にも出来不出来があるし、芸術音楽にくらべればその社会的な影響は計り知れません。
音楽家であるなら、そのような音楽を常に軽蔑の眼差しで見てしまう態度の方が、一般の人からみれば嫌みなように見えてしまうものです。

最後に、音楽の記号的側面の受容は、作曲家の作品そのものにも影響を与えるでしょう。
泣きのメロディは、芸術音楽にとって低俗であると見なされやすいのですが、クラシック音楽でさえ泣きのメロディが好まれるのなら、そういうメロディを自分の納得する範囲内で追求すべきなのかもしれません。
ヒンデミットがチャイコフスキーを低俗だと批判した気持ちは分らないでもないけれど、それでもやはりチャイコフスキーの泣きのメロディは多くの人を魅了しているのです。

2013年1月12日土曜日

音楽の記号的側面 -音楽研究の違和感-

「音楽」を学問として研究しようとするとき、どんな学問が考えられるでしょう。
もちろん音楽そのものを扱う音楽理論的なものを始めとして、音楽史を扱うもの、文化として社会との関わりを扱うもの、音楽教育を扱うもの・・・などが思い付きますが、今の日本ではいずれも文系の範疇に入ります。
その一方で理系的に音楽を扱う場合、音声・音響理論のような音現象を扱う学問が考えられますが、最近では音楽情報処理という方向性がひときわ盛り上がっているようです。

私自身は全く研究に関わっていないので、詳細は詳しくないのですが、音楽情報処理とは音楽そのものをあくまでサイエンスとして扱う学問です。
例えば、音楽の音声データから曲のテンポを抜き出したりとか、メロディを認識したりとか、演奏されている楽器を認識したりとか、演奏の特徴を抽出するとか、そのようなことを扱います。

人間は音楽を聴いただけで多くの情報を読み取ることが出来ますが、音声を解析してそういう情報をコンピュータがアルゴリズム的に読み取るということは、現状ではまだ至難の技です。
しかし、この分野が脚光を浴び始めたのは、私の認識では「初音ミク」ブーム以降であり、多くの人が初音ミクを上手に歌わすために、どのようにデータを作れば良いか、という一種オタク的な探究心から盛り上がっているような気もしています。

個人的には大変興味深いアプローチではあるのだけれど、実はこういう研究に常にある種の疑問を感じているのも確かです。
なぜなら音楽というのは文化的な側面が非常に強く、人文学的なアプローチを抜きに音楽を扱うことは非常に難しいと思うからです。

前回から書いている「音楽の記号的側面」とは、ある音楽が社会の中で記号化した結果、人々に特定の感情を与える触媒としての役割を果たす、ということでもあります。その場合、音楽そのものの価値と社会的な価値が乖離する場合があります。
例えば、名曲と言われるメロディを解析すれば、名曲になるための法則を得られることが出来るか、というような疑問にあなたはどう答えるでしょう?
私の答えは、変な曲になる法則は見つかるが、名曲になる法則は見つからない、と思っています。見つかったようにみえても、それは完全に客観的な法則ではなく、研究者の与えたパラメータに依存した結果になることでしょう。

今、このような文化的な範疇のものを扱う技術としては、客観的な法則を探すのではなく、集合知から全体の平均値を探す、というアプローチの方が正しそうです。
ある特定の音楽の価値をサイエンスとして客観的にはじき出すことは不可能だけれど、今生きている人たちが、その音楽の価値や意味をどのように考えているのかを統計的に分析することは可能ということです。

従って、音楽情報処理のような学問は詰まるところ、世界中からどれだけ多くのデータを吸い上げることが出来るかで、その価値が決まるように思います。
例えば、ある音楽が記録された音声データからその音楽のビートを抽出するようなアルゴリズムを考える際、多くの人がビートの頭だと思う場所の特徴を、出来るだけたくさん集めた方が良いシステムになるのではないでしょうか。

理系研究者はどうしても、ある普遍的な法則があることを前提として、自分の研究を進めてしまう傾向があるように思います。
文化に属するものは、その価値が相対的なものであり、いくらでも変わりうるものだという自覚を持って接するならば、そのようなアプローチは危険であると思えるのではないでしょうか。

2013年1月5日土曜日

音楽の記号的側面

記号的というのは、ざっくり言えば、あるコンテンツが内容そのものとは別に特定の意味を付与されて理解されてしまうような状態のことを言っています。
例えば、AKB48の曲を楽曲分析したり歌詞を読んだりせずに音楽的なレベルを云々と批評するような行為です。もちろん、何かを批評しようとするときに内容まで完全に理解するまでも無い場合、モノゴトを記号的に理解することによって、ざっくり傾向を把握することも必要なことです。

音楽を理解しようとするときに、実は多くの人がこの「記号的側面」に知らず知らずのうちに影響されている、ということを私は言いたいのです。
概言的に言えば同意される人も多いとは思うのですが、個別の話になるとやはり別。みんなが何となく常識で思っていることが、非常に記号的なコンテンツの把握の仕方だと感じることも多く、そういうこと一つ一つに疑いの目を向けていると、逆にこちらのほうが奇異な目で受け取られてしまうこともあります。

しかし、そもそも音楽とは非常に根深いところで人から記号的な判断をされ易いものではないかと感じるようになりました。
例えば私の息子の場合。彼はいま3歳ですが、順調に音楽好きになっているところです。クラシックのいろいろな名曲をYouTubeで聴いているうちに、お気に入りの曲がたくさん出来ているようです。
しかし、実際に好きになる過程を見ていると、好きだから何回も聴く、というより何らかの理由で何回も聴いているから好きになっているような気もします。
その何らかの理由とは、例えば私が「この曲キレイだよね〜」と言ったとか、テレビCMで何度も聞いたとか、何らかのBGMで使われていたとか、そのようなたわいもないこと。最初のきっかけは実はそんなものではないかという気もするのです。
そして、音楽的な内容とは別のところで彼の音楽の好き嫌いが醸成されているようにも見えます。

上記のように「音楽に絶対的な美しさの基準がある」という考え方自体を否定せざるを得ないようなことが多々あります。
このような場合、音楽の価値はその記号的側面に非常に影響されます。歌謡曲の場合、誰が、どのようなシチュエーションで、誰に向かって、どこで、どんな方法で、演奏するのか?ということが記号化され、それが時代の波にうまく乗ったときに、大量消費されます。このような状態において、その音楽的価値を純粋に評価することはナンセンスなことです。
しかし、芸術的と言われる純音楽というようなものでさえ、多くの人は単に記号的に把握していることが多く、何度も名曲と刷り込まれることによって、誰も疑わずに名曲と言っているに過ぎないように思えます。

すでに記号的意味が確立しているコンテンツに対して、その本質的な価値を説明する人は世の中にやはり必要ですが、それは専門家としての立場で当然のことをしているに過ぎません。
逆にすでに価値が確立しているもののその価値に疑問を投げかけたり、全く価値が確立していないものに対して賞賛するような行為は大変勇気がいるし、たいていの場合、そういう言説は否定されやすいものです。
しかし、記号的意味からどれだけ解放されるか、ということがモノゴトの本質に近づく方法だと思いますし、そういう態度を継続することが長い目で見て、良質なコンテンツを見つけたり作り出す能力を育むことに繋がると思うのです。

そのためには、我々がどのように記号的意味に束縛されているのか、それを認識するのは必要なことのように思われます。
というわけで、そもそも音楽にはどうしても記号的意味が付かざるを得ない側面があるのではないか、という最近の私の考えを少しずつ整理してみたいと思います。

2012年11月12日月曜日

未来の音楽

似たようなことは何度も書いているような気がするけれど、またまた、これからの音楽のことを考えてみます。

何を言いたいかというと、一つは楽器のこと。
音楽を奏でるには楽器が必要です。楽器にも長い歴史がありますが、音楽が世の中に広まるためには、楽器の標準化や音楽を伝達するための手段の標準化が必要でした。
その過程で、楽器や編成が世界中似たものになってきたのがこれまでの歴史。クラシックならオーケストラという単位があるし、ポピュラー音楽ではバンドの編成もだいたい決まっています。

ところが、映像と音が簡単に伝えられるようになって、楽譜のような演奏記号でなくても音楽を伝えられるようになり、またネット上でそれらが蓄積可能となりました。これは結局音楽の標準化の歩みを止めさせ、楽器はむしろ多様性を求めるようになり、一度標準化された編成や演奏記号は逆にこれから段々解体していくのではないかという気がしています。

実際、特殊な楽器を演奏したり、そもそも楽器でないものを楽器として演奏したり、ピアニカや縦笛のようなシンプルな楽器を取り入れたり、というような音楽を聞くことも増えてきました。
これからは、演奏する人が、どんな曲をどんな編成でどんな楽器で弾くのか、そういうことをゼロから考えなければいけない世の中になるのではないかという気がするのです。このような時代にはむしろオリジナル曲だけではなくて、過去の音楽の編曲なども流行ることになるでしょう。

よくナンバーワンよりもオンリーワンで、などと言いますが、まさにそういった状況です。みんながピアノを弾いていれば、その中で優れた演奏家であろうとすると、もうとてつもなく上手でなくてはいけませんでした。ナンバーワンの世界です。
しかし、誰もが違う楽器を弾くようになれば、テクニックそのものよりも、その楽器で何をどんな風に表現していくのか、そういう演奏家のオリジナリティが問われるようになります。それがオンリーワンに繋がります。


もう一つ私が思っているのは、商業音楽が終焉を迎えるのではないかということ。
もちろん、今後もある一定の量でアイドルや有名トップアーティストが商業的に成功することはあると思います。
しかし、音楽はこれからますます多様化の一途をたどり、通常の音楽家はそれだけで飯を食っていくことは不可能になるでしょう。ほとんどの音楽家はアマチュアであり、彼らの名声は売り上げでなく、ネット上の再生回数などで競われるようになっていくと思います。

上記の、楽器の自由、編成の自由、それから商業音楽が無くなっていく、というトレンドは、音楽にとってむしろ良いことだと感じます。
世界中に再び多様な音楽が花開き、オリジナリティを求めるために、さらに音楽家一人一人が多様性を押し広げるような未来。
今の音楽とはまた違うけれど、面白い未来の音楽はすぐ目の前まで来ているのではないかと感じています。

2012年10月20日土曜日

アマチュア演奏家の創造性

芸術で何が大事かと問われれば、私なら創造性と答えます。

ところが、ほとんどの芸術愛好家はアマチュアであり、音楽でいえば、アマチュア演奏家の演奏レベルは一般的には高くはなく、日々プロのような演奏技術に向かって精進を重ね、プロと同じような演奏が出来るように努力をしています。
このような態度は、良い手本に向かって自分をそれに近づけようとする行為に繋がり、独自であることを追求する創造性と根本的なところで矛盾を引き起こします。

このような表現をすると、技術的に鍛錬することと創造性は矛盾しない、と言われる方もいるかもしれません。ただ、文脈にもよりますが、私は精神論を述べるつもりは無いし、技術論とオリジナリティが不可分であることも理解しています。
それでも、アマチュアであるほど、技術指向であり、硬直的なあるべき論を招くことが多いように感じてしまうのです。

また、一般的にはオリジナリティを追求しようとするアマチュアに対して人々は冷ややかです。
世界中どこであっても、音楽演奏に求められるものは、みんなが知っている「あの曲」を演奏することであり、それによってお客さんの郷愁を得るような行為です。
だからアマチュアが演奏するオリジナル曲などほとんどの人が期待しないし、既存曲をちょっと独自なアレンジなどすれば怒り出す人も出てくることでしょう。

そういうことが当たり前だと思うにつれ、音楽演奏とは既存の音楽をあるべき理想像に向けて、努力して鍛錬して磨き上げていくことである、というふうに無意識のうちに規定していくことになります。
そして、そこからはオリジナリティ、創造性という要素がどんどんこぼれ落ちていく可能性が出てきてしまうのです。

表現者である以上、自分を表現したいという気持ちは誰にもあり、その中に自分ならこうするという要素を盛り込もうとするとき、それを自制する圧力がどのくらいあるか、というように言い換えてもいいかもしれません。
こんなにテンポを変えたら非難されるだろうなあとか、楽譜にスタカートが無いのにほとんどの人がスタカートで演奏してるからなあとか、尊敬する先生はこんな風には解釈しないだろうなあとか、自分の判断を曇らせる要素はたくさんあります。こういう考えにまみれているうちに自分の表現だと思っていたことが、実はほとんど借り物であり、狭い世界の価値観で染められたものになってしまう可能性があります。

一般にプロと呼ばれている人であっても、オリジナリティ、創造性という点においてはあまりパッとしない人もいます。
ポピュラー音楽の世界ではそれが非常に顕著で、世の中には多くのミュージシャンと呼ばれる方がいますが、プロとして生活していても彼らのオリジナル曲は中には非常につまらない音楽もあります。確かに、演奏はプロレベルなんですが・・・
こういう方々は、アマチュアの成れの果てのプロ、のように私には見えてしまいます。

私は優れた演奏技術よりも創造性の高い芸術を好みます。
世の中では必ずしもそうでなく、演奏技術が高いだけで評価されてしまうことも多いですが、テクニックはあくまで手段であり、芸術が精神的な活動である以上、その先に見えるものに価値があると思っています。

だから、私はアマチュアであろうがプロであろうが、その創造性に関心があります。
私が多くのアマチュア演奏家の演奏が面白く感じないのは、そこに創造性があまり感じられないからです。あるいは、そこで表現されるオリジナリティのセンスが低いからです。

演奏家として人前でパフォーマンスする以上、私とは何者か、何を目指して、何を表現したくてこういう活動をしているのか、そういうことを自問自答して欲しいのです。
それが全てのオリジナリティの出発点だからです。
そういう問いかけ無しに作り出す音楽には、芯がありません。確かにキレイに作れば賞賛してくれる人もいるだろうし、技術的な要素だけを褒めてくれる人もいるかもしれません。
しかし、年齢で劣ってしまう技術もあるだろうし、やはり芯のない活動は長続きはしません。
一生音楽活動を続けていくのなら、自分は何をしようとしているのか、自分独自のものは何か、を問い続けて欲しいし、そこから初めてオリジナリティや創造性が生まれてくるとのではないでしょうか。
プロ、アマチュア関係なく、そういう態度で演奏活動をする方が増えてほしいと心から思っています。

2012年8月26日日曜日

オリジナル楽器を作りたい

これまで、MakerムーブメントパーソナルファブリケーションFabLifeと、個人によるモノ作り関係の話題について書いてきました。
もちろんこれは、自分自身がいずれこんなことをやってみたいと思うからです。私の作りたいものは、ずばり楽器です。

ご存知のとおり私自身、会社では技術者として電子楽器の開発を仕事としているので、業務を通じて自分の作りたい楽器を追求すればいいのではないか、という想いもあります。会社で行なう仕事のほうが社会に対する規模やインパクトも大きく、それなりにやりがいもあることは確か。しかし、20ウン年この仕事をしてきて、楽器に対していろいろと矛盾を感ずることもあるのです。

これは楽器に関わらない話ですが、コンピュータテクノロジーの発達は世の中のいろいろなツールの有り様を変えてしまいました。
特に私が電子楽器において思うことは、音楽製作としての楽器と、人前で弾くことを前提とした楽器の乖離とも呼べる現象です。前者はもはや楽器と呼ぶべきものではなく、ツールと言ってもいいでしょう。
しかし、未だに市場では二つの方向性は未分化であり、商品開発においても二つの用途を考えながら開発せざるを得ません。

私自身はどちらかというと音楽製作が好きな人でしたが、楽器の本質とは、考えれば考えるほど人前で弾くためのものであり、それは一回限りでしか得られない体験が価値であるというように考えるようになりました。

「一回限りしか得られない体験」とはどういうことかというと端的に言えば、再現性の否定であり、場を共有することの喜びということです。
つまり、毎回同じ音が鳴らなくてもいい、場所によって、観客によって、状況によって音楽、音が変わってもいい、ということであり、その体験はその場に居た人たちしか直接体験できなかったという満足感です。
そこに観客も含めたインタラクティブ性があれば完璧です。あとでライブDVDを観たって、そういうインタラクティブ性は絶対得られませんので。

また、誰が弾いても同じ音が出るのではなく、その人とその楽器のセットでなければ出ない音というのがあるべきです。それが演奏家の個性となり、だからこそ、その演奏家とその場を共有したいという想いが観客を動員させることに繋がるのではないでしょうか。

このようなことを考えていくと、本質的に楽器は大量生産に向かないのではないか、と私には思われるのです。
常に楽器から出る音は奏者の身体性と表裏一体であるべきであり、そうであるなら、楽器は少量個別生産であるべきであり、演奏者によるチューニング、エイジングが必要であり、また演奏者もその楽器から音楽性に影響を受けるはずであり、その結果楽器製作者と演奏者は個人的な協力関係が生まれる、というのが理想ではないかと思われるのです。

このようなあり方は、楽器が工業製品化する前は当たり前のことだったのではないでしょうか。
世の中が工業化されたとき、楽器もまた大量生産されるようになりました。しかしIT技術、生産技術の発達は、また昔のようなやり方に戻るきっかけを与えてくれているように思えます。

すぐにどうのこうの、という話では無いけれど、生楽器でなくても新しいオリジナル楽器を少量生産するような仕事を将来出来ないものかと、いろいろと想いを巡らせています。