サステイナビリティとかSDGsみたいな言葉は、単なる資本主義へのアンチテーゼではなく、本当に地球から資源が無くなっていく、あるいは資源の確保が難しくなっていく状況から生まれているっぽい。
資本主義というのは、未開のフロンティアがあり、そこから資源がどんどん採掘されるような状況において成り立つ経済システムであり、世界中からフロンティアがなくなりつつある今、資本主義自体が見直しを迫られているように思える。
お金はジャブジャブ作ることが出来るが、モノはある分しか使えないわけで、その限られた分量を世界中の人が取り合うわけである。
ある未来予測で、2025くらいまでは先進国はデフレが進むが(途上国での生産コストがやすいため)、それ以降はモノ不足が起きてインフレになるという。
あれー、限界費用ゼロ社会と逆の現象じゃん!
今まで信じていた話が微妙に崩れていく。
どこまでもモノの値段は安くなっていって、いずれゼロになるって話だったのに、どうも資源が足りなくなって、逆にモノの値段は高くなるのである。
もちろん、人は代替案をどんどん見つけるので、長い目で見れば、またコストダウンの方法を考えるだろうけど、限界費用ゼロ社会はそう簡単には起こりそうもない。
サステイナビリティとFabLab、あるいは個人によるFab活動は割りと相性がよい。
というのは、個人でFab活動することは、企業による大規模な生産のアンチテーゼであり、ハードウェアの地産地消という意味でも 、最適な生産が可能になる方向なのは確かだ。
であれば、長い目で見れば個人のFab活動はサステイナビリティを進めていくエンジンになる可能性はある。
2019年8月11日日曜日
2019年5月3日金曜日
Maker Movementの挫折
Maker Faireは確実に広がっている。出展者も増えているし、毎年観客も増えている。そういう意味では、Maker Movementの広がりは確実に進んでいるとも言えるのだけれど、当初、私が熱狂したような広がり方の予想からすると、随分歩みは遅い。むしろ、幻滅、あるいは挫折に近い感覚を持っている。
Maker Movementはある意味、個人の経済的、社会的自立を意味していた。
しかし、2012年にMaker Movementの可能性を感じて以来、Makerは単なる趣味でしかなく、それ以上のものになっていない。
ファブ地球社会コンソーシアムで田中先生曰く、ほとんどのmakerの興味はMaker Faireに参加することであり、現実はそのためのプロジェクトを回すことで精一杯であり、社会的な問題解決のための活動とは程遠いところにいる。
問題解決は社会に役立つということであり、それは必ず経済的価値を生むはずなのだけれど、そこに至らないのだからMakerは社会の経済的循環の中に位置を見いだすことができない。
確かに私は楽観的過ぎたかもしれない。
自分のつくりたいものを作って、それが売れて商売できたら嬉しいのは誰もが思うことだけれど、それが成り立つためには、人が欲しいものを売らなければいけない。
ほとんどのMakerにとって、それは全くリアリティに欠ける現実で、どうせ売れないんだから一発ギャグ的な作品でいいじゃないか、という逃避の姿勢を生んでしまう。
結局、Maker Faireは一発ギャグの消費の場にしかならない。
持続的にMakerが自立するためには、もっと綿密なマーケティングと、譲歩の姿勢で市場にコミットする意識が必要だけれど、そうなるともはや趣味でなくなり、日常のお仕事と変わらなくなる。それが嫌だからこそ、Maker活動してきたのにである。
まだそこには大きな隔たりがある。
その隔たりは何か、それを超えるにはどうしたら良いか、そこについてもう少し考えなければいけない。
他人に対する価値提供として、いくつか軸があるのだと思う。
例えば、アートと機能軸。マーケットのベクトル軸(マスかニッチか)。社会問題と趣味軸、ローカルとグローバル軸。このくらい考えればいいかな。
とりあえずここまで。
Maker Movementはある意味、個人の経済的、社会的自立を意味していた。
しかし、2012年にMaker Movementの可能性を感じて以来、Makerは単なる趣味でしかなく、それ以上のものになっていない。
ファブ地球社会コンソーシアムで田中先生曰く、ほとんどのmakerの興味はMaker Faireに参加することであり、現実はそのためのプロジェクトを回すことで精一杯であり、社会的な問題解決のための活動とは程遠いところにいる。
問題解決は社会に役立つということであり、それは必ず経済的価値を生むはずなのだけれど、そこに至らないのだからMakerは社会の経済的循環の中に位置を見いだすことができない。
確かに私は楽観的過ぎたかもしれない。
自分のつくりたいものを作って、それが売れて商売できたら嬉しいのは誰もが思うことだけれど、それが成り立つためには、人が欲しいものを売らなければいけない。
ほとんどのMakerにとって、それは全くリアリティに欠ける現実で、どうせ売れないんだから一発ギャグ的な作品でいいじゃないか、という逃避の姿勢を生んでしまう。
結局、Maker Faireは一発ギャグの消費の場にしかならない。
持続的にMakerが自立するためには、もっと綿密なマーケティングと、譲歩の姿勢で市場にコミットする意識が必要だけれど、そうなるともはや趣味でなくなり、日常のお仕事と変わらなくなる。それが嫌だからこそ、Maker活動してきたのにである。
まだそこには大きな隔たりがある。
その隔たりは何か、それを超えるにはどうしたら良いか、そこについてもう少し考えなければいけない。
他人に対する価値提供として、いくつか軸があるのだと思う。
例えば、アートと機能軸。マーケットのベクトル軸(マスかニッチか)。社会問題と趣味軸、ローカルとグローバル軸。このくらい考えればいいかな。
とりあえずここまで。
2018年3月25日日曜日
AIが人にもたらす影響
AIは人間に無力感をもたらすのではないか。
AI将棋が圧倒的に強くなり、プロ棋士を負かしてしまう。
おそらく、数十年のうちにプロ棋士の存在意義が問われるようになるだろう。全ての対局は簡単に分析されるし、打った瞬間に悪手かどうか分かってしまう。
聴衆にその意味が分からなかったとしても、AIの下した判断に多くの人は納得してしまう。それはいわば、プロ棋士の威厳の失墜に繋がる。
そんな時代には、我々の価値観は変わらざるを得ない。
何かがすごい人に人は憧れる。同じように食事をして、同じように下世話な世界を相手にして、同じように人間として生活しているのに、自分と才能の差が歴然としていることは、多くの人にとって畏怖に値する。
しかしその畏怖の感情は、AIが簡単に持ち得るスキルであることが分かるにつれ、だんだん薄れていくであろう。
人でないもの(AI)が、あるスキルを獲得したとしても、それは純粋に工学的現象であり、努力とか才能とかに畏怖するような魔法のような感覚を想起することはない。私たちはそういうスキルを程度の低いものと認識するようになるに違いない。
また、我々がそのスキルを欲しいのであれば、クラウドなどを通して、簡単に手に入れることができる。
そんなことに人は耐えられるのだろうか?
ふとそんな疑問を抱く。
他人を畏怖するような神秘がなくなり、人より優れた判断システムが自分の思い通りに使える世界。私たちは、一度それを使ったらもう手放せないのにも関わらず、その価値をますます低く見積もるようになる。それは人間の感情がなせる技だ。同じことを人でなく、システムが成し遂げてしまえば、それは畏怖の対象ではなくなる。
だから、人はAIが熟達してしまったスキルを自分であらためて習得する気にはならないだろう。
どうやってもAIに勝てないのに、それはAIが優れているからではなく、自分が劣っていることを証明することになってしまうからだ。だから勝ち負けではなく、あくまで自然の力として受け入れるかもしれない。
それでも、世の中のありとあらゆる判断システムがAI化された時、人間が成し得たテクノロジーであったのにも関わらず、人はそれに振り回されるようになる。
このときの無力感は人類をどのような方向に導くか?
しかし、実はほとんどの人は今のテクノロジーを理解していない。
意外と人は、今のように淡々と与えられた人生を生きていくだけなのかもしれない。
すでに、自分の人生は多くのシステムによって翻弄されている。いや、むしろAIシステムは人を幸せにするかもしれない。Matrixのカプセルのように。それなら、我々がそれを忌諱する理由もない。
世の中のあらゆる諸相を知りたいと思うタイプの人たちは限られる。
しかし、そのような人々がいる限り、テクノロジーは発展するし、そうでない人はその果実を享受する。
人類は自分たち自身を間違って滅ぼさぬ限り、AIがあってもなくてもこれまで通り世界は続くのかもしれない。
私たちがこれまで何千年も培っていた匠の技はすべからくAIが習得するのは間違いない。
しかし、それは我々の仕事観の修正を迫るだけで済む、という気もしてくる。
もし、この議論で別の解があるのだとしたら、人間のように振る舞うAIが現れたらどうするか?という議論との関連性から出てくるかもしれない。
この点については、私は強い疑いを持っている。
人のように振る舞うAIは現れない、という強い確信を私は持っている。
なぜなら、人が人として振る舞うためには、人の肉体が絶対的に必要だからだ。形とか性能の問題だけじゃない。生まれてから死ぬまでの身体的変化や、事故や病気、肉親との関係、他人との争いなど、これらを経験して初めて人らしく振る舞うことができる。
それはAIとかいう前に、機械的に不可能だし、そもそも意味がない。
AIは生物的前提を持っていない。だから、ある一面で人間的な判断を示したとしても、全人格的に人間としてみなされるようなパーソナリティは持たないであろう。それが私の考え。
必要以上にAIに不安を感じる必要はない。
興味とビジネスの原則に従い、私たちは順当にAI技術を発展させれば、まあ悪くない未来にはなるんじゃないかな。
AI将棋が圧倒的に強くなり、プロ棋士を負かしてしまう。
おそらく、数十年のうちにプロ棋士の存在意義が問われるようになるだろう。全ての対局は簡単に分析されるし、打った瞬間に悪手かどうか分かってしまう。
聴衆にその意味が分からなかったとしても、AIの下した判断に多くの人は納得してしまう。それはいわば、プロ棋士の威厳の失墜に繋がる。
そんな時代には、我々の価値観は変わらざるを得ない。
何かがすごい人に人は憧れる。同じように食事をして、同じように下世話な世界を相手にして、同じように人間として生活しているのに、自分と才能の差が歴然としていることは、多くの人にとって畏怖に値する。
しかしその畏怖の感情は、AIが簡単に持ち得るスキルであることが分かるにつれ、だんだん薄れていくであろう。
人でないもの(AI)が、あるスキルを獲得したとしても、それは純粋に工学的現象であり、努力とか才能とかに畏怖するような魔法のような感覚を想起することはない。私たちはそういうスキルを程度の低いものと認識するようになるに違いない。
また、我々がそのスキルを欲しいのであれば、クラウドなどを通して、簡単に手に入れることができる。
そんなことに人は耐えられるのだろうか?
ふとそんな疑問を抱く。
他人を畏怖するような神秘がなくなり、人より優れた判断システムが自分の思い通りに使える世界。私たちは、一度それを使ったらもう手放せないのにも関わらず、その価値をますます低く見積もるようになる。それは人間の感情がなせる技だ。同じことを人でなく、システムが成し遂げてしまえば、それは畏怖の対象ではなくなる。
だから、人はAIが熟達してしまったスキルを自分であらためて習得する気にはならないだろう。
どうやってもAIに勝てないのに、それはAIが優れているからではなく、自分が劣っていることを証明することになってしまうからだ。だから勝ち負けではなく、あくまで自然の力として受け入れるかもしれない。
それでも、世の中のありとあらゆる判断システムがAI化された時、人間が成し得たテクノロジーであったのにも関わらず、人はそれに振り回されるようになる。
このときの無力感は人類をどのような方向に導くか?
しかし、実はほとんどの人は今のテクノロジーを理解していない。
意外と人は、今のように淡々と与えられた人生を生きていくだけなのかもしれない。
すでに、自分の人生は多くのシステムによって翻弄されている。いや、むしろAIシステムは人を幸せにするかもしれない。Matrixのカプセルのように。それなら、我々がそれを忌諱する理由もない。
世の中のあらゆる諸相を知りたいと思うタイプの人たちは限られる。
しかし、そのような人々がいる限り、テクノロジーは発展するし、そうでない人はその果実を享受する。
人類は自分たち自身を間違って滅ぼさぬ限り、AIがあってもなくてもこれまで通り世界は続くのかもしれない。
私たちがこれまで何千年も培っていた匠の技はすべからくAIが習得するのは間違いない。
しかし、それは我々の仕事観の修正を迫るだけで済む、という気もしてくる。
もし、この議論で別の解があるのだとしたら、人間のように振る舞うAIが現れたらどうするか?という議論との関連性から出てくるかもしれない。
この点については、私は強い疑いを持っている。
人のように振る舞うAIは現れない、という強い確信を私は持っている。
なぜなら、人が人として振る舞うためには、人の肉体が絶対的に必要だからだ。形とか性能の問題だけじゃない。生まれてから死ぬまでの身体的変化や、事故や病気、肉親との関係、他人との争いなど、これらを経験して初めて人らしく振る舞うことができる。
それはAIとかいう前に、機械的に不可能だし、そもそも意味がない。
AIは生物的前提を持っていない。だから、ある一面で人間的な判断を示したとしても、全人格的に人間としてみなされるようなパーソナリティは持たないであろう。それが私の考え。
必要以上にAIに不安を感じる必要はない。
興味とビジネスの原則に従い、私たちは順当にAI技術を発展させれば、まあ悪くない未来にはなるんじゃないかな。
2016年1月4日月曜日
自動運転車の普及
久しぶりのブログ更新です。
最近、自動運転車の話題が多いですが、私も大いに注目しています。
本当にはやく自動運転が普及して欲しい。歳をとるほど、運転が面倒になってきました。今は必要だから運転しているだけで、自分が運転するリスクが無くなるのなら私は喜んで運転することは止めますね。
AIやドローンなど、他にも先進技術に関する話題は多いですが、自動運転はその中でもとりわけ現実化が早いのではないかと期待しているのです。
今日も帰省から車を運転して帰ってくる途中、早く自動運転にならないかななどと思いつつ、自動運転に移行するにはどのような流れになるのかちょっと考えてみたのです。
以前は、自動運転は高速道路から始まるのではないかと予想していました。
技術的に考えれば、高速の運転は比較的単調だし、長時間なので運転者側にもメリットは大きいはず。
しかし、ちょっと考えるとそう簡単でもなさそうです。
自動運転車が普及する途中は、自動運転車と普通の自動車が混在する状況が生まれるはずです。すべての車が一度に自動運転車になるのなら、確かに高速は一番最初に適用されるとは思うのですが、普通の自動車と混在となると、少し話は変わると思います。
一つは事故が起きた時の影響の大きさです。
高速はスピードが出ますから、簡単に死亡事故に発展します。もし自動運転車が絡むような死亡事故が起きた場合、誰がどのような責任を取るのか難しい問題が発生します。
それは高速でなくても同じという反論もあるかと思いますが、事故で死者が出るか出ないかは自動運転の取り組みにも大きな影響が出るでしょう。であれば、自動運転車の推進者もわざわざ高速道路から始めるような気がしません。
また、高速だけ自動運転車に乗り換えるということも、今のインターチェンジの仕組みでは難しそう。そこまで自家用車で行ったら、その車はどうなるのかとか。逆にあんまりアクセスは良くない状況が生まれます。
今すぐ、と考えると手始めに高速、とは思えなくなってきました。
では、まずどのような箇所で自動運転車が普及するのでしょう。
もちろん、新し物好きの個人が買うこともあるでしょうが、私はやはり、自動運転車はまずタクシーとして使われ始められるだろうと思います。
自動運転車の事故責任は誰が負うのか、という問題については、まずタクシー会社が請け負います。そのリスクを請け負っても、運転手の人件費によるコストダウンのほうが圧倒的なら、タクシー会社は喜んで導入を進めるのではないでしょうか。
自家用車を持っている人でも、電車を使う場合や、旅行先など、ピンポイントでタクシーを使うことはあるでしょう。そのような用途に自動運転車はぴったりです。
同様な理由で、バスも自動運転車になり易いでしょう。
ただし、取り回しの良さを考えると、今と同じ大きさのバスではなく、もう少し小型になると思います。また、今でもバスはやや臨機応変な対応が必要な場合もあるかもしれません。そういう部分は残念ながらサービスは落ちることになります。
ただ、タクシーにしてもバスにしても利用料金が下がることによって、多くの人が利用するようになり、さらにタクシーやバスが増えるという好循環が起きるような気がします。
タクシー会社からすれば、Uberのようなサービスに対抗するというような意味合いもあります。
タクシー会社が増えていき、利用料金が安くなっていけば、車を持たずに、いつもタクシーを使う人も増えてくるでしょう。
またタクシー会社も距離ではなく、定額料金システムなどを導入することにより、より多くの人が車を持たなくなるという選択をする可能性があります。
こうやって道路を走る車の自動運転車の比率がだんだん高まっていくにつれ、少しずつ交通事情に変化が現れるのではないでしょうか。
まずは何といっても交通事故の処理です。
自動運転車に全ての運転記録が残っており、周りの自動車の状況も記録されています。自動運転車が絡む事故全てにおいて、事故原因があっという間に明らかになり、ほとんどが人間の判断ミスに帰結することが明らかになります。
そうやって、手動の運転者にとっては、パトカーだらけのなかを走るような気持ち悪さ、気味悪さを感じるようになるでしょうし、そうなると運転する楽しさ、などというものはほとんど過去のものになるのではないでしょうか。
そのような状況で、どう考えても人が運転していいことはありません。自動運転車は圧倒的に素早い判断力で運転されるので、間違うことがまるでありません。自動運転車は周りに自動運転車しかいないことを認識すれば、車間を詰め、スピードを上げるでしょう。
そのような状況であれば、人が運転する車など邪魔以外の何物でもありません。
そうなれば、加速度的に運転をする人が減っていくと思われます。
多分、自動運転車比率が50%を超えたあたりから、積極的に人間運転を排除する流れが起きると思います。そうなれば早晩、人が運転することは違法になると思われます。
このような状況になるのに、私の予想では50年はかからないでしょう。はやければ30年。
そしてその頃、自動車メーカーの意味も方向性も事業規模も全く変わってしまうでしょう。
そのような未来の自動車は、窓があってもなくても構わないし、何人乗りでも構わないし、道路標識も必要なくなり、道路に看板も必要なくなります。そうすれば街の作り方も変わってくるでしょうし、公共の施設や住む場所や商業施設の場所も影響を受けるでしょう。
ここまでいくとかなりの未来なので、自動車以外の要素もあり、ちょっと予想は難しくはなりますが・・・
そんなわけで、自動運転車はまずタクシーから、というのが今のところの私の予想です。
最近、自動運転車の話題が多いですが、私も大いに注目しています。
本当にはやく自動運転が普及して欲しい。歳をとるほど、運転が面倒になってきました。今は必要だから運転しているだけで、自分が運転するリスクが無くなるのなら私は喜んで運転することは止めますね。
AIやドローンなど、他にも先進技術に関する話題は多いですが、自動運転はその中でもとりわけ現実化が早いのではないかと期待しているのです。
今日も帰省から車を運転して帰ってくる途中、早く自動運転にならないかななどと思いつつ、自動運転に移行するにはどのような流れになるのかちょっと考えてみたのです。
◆◆◆
以前は、自動運転は高速道路から始まるのではないかと予想していました。
技術的に考えれば、高速の運転は比較的単調だし、長時間なので運転者側にもメリットは大きいはず。
しかし、ちょっと考えるとそう簡単でもなさそうです。
自動運転車が普及する途中は、自動運転車と普通の自動車が混在する状況が生まれるはずです。すべての車が一度に自動運転車になるのなら、確かに高速は一番最初に適用されるとは思うのですが、普通の自動車と混在となると、少し話は変わると思います。
一つは事故が起きた時の影響の大きさです。
高速はスピードが出ますから、簡単に死亡事故に発展します。もし自動運転車が絡むような死亡事故が起きた場合、誰がどのような責任を取るのか難しい問題が発生します。
それは高速でなくても同じという反論もあるかと思いますが、事故で死者が出るか出ないかは自動運転の取り組みにも大きな影響が出るでしょう。であれば、自動運転車の推進者もわざわざ高速道路から始めるような気がしません。
また、高速だけ自動運転車に乗り換えるということも、今のインターチェンジの仕組みでは難しそう。そこまで自家用車で行ったら、その車はどうなるのかとか。逆にあんまりアクセスは良くない状況が生まれます。
今すぐ、と考えると手始めに高速、とは思えなくなってきました。
◆◆◆
では、まずどのような箇所で自動運転車が普及するのでしょう。
もちろん、新し物好きの個人が買うこともあるでしょうが、私はやはり、自動運転車はまずタクシーとして使われ始められるだろうと思います。
自動運転車の事故責任は誰が負うのか、という問題については、まずタクシー会社が請け負います。そのリスクを請け負っても、運転手の人件費によるコストダウンのほうが圧倒的なら、タクシー会社は喜んで導入を進めるのではないでしょうか。
自家用車を持っている人でも、電車を使う場合や、旅行先など、ピンポイントでタクシーを使うことはあるでしょう。そのような用途に自動運転車はぴったりです。
同様な理由で、バスも自動運転車になり易いでしょう。
ただし、取り回しの良さを考えると、今と同じ大きさのバスではなく、もう少し小型になると思います。また、今でもバスはやや臨機応変な対応が必要な場合もあるかもしれません。そういう部分は残念ながらサービスは落ちることになります。
ただ、タクシーにしてもバスにしても利用料金が下がることによって、多くの人が利用するようになり、さらにタクシーやバスが増えるという好循環が起きるような気がします。
タクシー会社からすれば、Uberのようなサービスに対抗するというような意味合いもあります。
◆◆◆
タクシー会社が増えていき、利用料金が安くなっていけば、車を持たずに、いつもタクシーを使う人も増えてくるでしょう。
またタクシー会社も距離ではなく、定額料金システムなどを導入することにより、より多くの人が車を持たなくなるという選択をする可能性があります。
こうやって道路を走る車の自動運転車の比率がだんだん高まっていくにつれ、少しずつ交通事情に変化が現れるのではないでしょうか。
まずは何といっても交通事故の処理です。
自動運転車に全ての運転記録が残っており、周りの自動車の状況も記録されています。自動運転車が絡む事故全てにおいて、事故原因があっという間に明らかになり、ほとんどが人間の判断ミスに帰結することが明らかになります。
そうやって、手動の運転者にとっては、パトカーだらけのなかを走るような気持ち悪さ、気味悪さを感じるようになるでしょうし、そうなると運転する楽しさ、などというものはほとんど過去のものになるのではないでしょうか。
そのような状況で、どう考えても人が運転していいことはありません。自動運転車は圧倒的に素早い判断力で運転されるので、間違うことがまるでありません。自動運転車は周りに自動運転車しかいないことを認識すれば、車間を詰め、スピードを上げるでしょう。
そのような状況であれば、人が運転する車など邪魔以外の何物でもありません。
そうなれば、加速度的に運転をする人が減っていくと思われます。
◆◆◆
多分、自動運転車比率が50%を超えたあたりから、積極的に人間運転を排除する流れが起きると思います。そうなれば早晩、人が運転することは違法になると思われます。
このような状況になるのに、私の予想では50年はかからないでしょう。はやければ30年。
そしてその頃、自動車メーカーの意味も方向性も事業規模も全く変わってしまうでしょう。
そのような未来の自動車は、窓があってもなくても構わないし、何人乗りでも構わないし、道路標識も必要なくなり、道路に看板も必要なくなります。そうすれば街の作り方も変わってくるでしょうし、公共の施設や住む場所や商業施設の場所も影響を受けるでしょう。
ここまでいくとかなりの未来なので、自動車以外の要素もあり、ちょっと予想は難しくはなりますが・・・
そんなわけで、自動運転車はまずタクシーから、というのが今のところの私の予想です。
2015年10月11日日曜日
シンギュラリティは起きない
AIネタです。よく言われる、シンギュラリティ、技術的特異点。
AIが自分より賢いAIを生むことが出来るようになったとき、加速度的にAIが賢くなり、人間を超えてしまうタイミングが訪れる、というのが私の理解。
もちろん、元ネタをきちんと知っているわけではないので、多少認識に間違いがあるかもしれませんが、AIがいつか人間を超えてしまう、という点については、世の中の理解とそう遠くはないはずです。
で、今のところの私の結論は、シンギュラリティなど起きないし、AIが人間を超える、といった現象も起きない、と考えています。
そもそもAIが人間を超える、というのはどういう状況なのか、という問題はあります。人類がそれに気づかなければ、超えたことにもならないからです。まあ、そういう意味でも超えないと言えるかもしれません。
たまたま人工知能研究者の本を立ち読みしていて、下のような話が書かれており、非常に納得したのです。(じゃあ、本買えよ)
曰く、人工知能には知能があるけれど、生命がない。
これは非常に重要なことを意味しています。生命のないところに、いかなる欲望も生まれず、いかなる欲望もなければいかなる能動的な行動や発言も生まれないと思うからです。
気の利いた会話とか、他人への思いやりとか、ある考えに対する反論とか、他人に対する好感とか、つまり、そういった感覚全てが生命であることに起因していると私には思われます。このような感情を持ち得ない以上、人間を超えるどころか、人間と対話することすら出来ないと思います。
もちろん、今でもSiriのようなサービスで、ちょっとだけ気の利いた答えを返してくれることがあります。しかし、どう考えてもそのような言葉は単にプログラムで仕込まれているだけで、人間のように常にその場で考えながら発言しているわけではなさそうです。だから、Siriは特定の言葉(しかもプログラマが考えた)しか発することができません。
今後、パターン認識的に、多少は発言にバリエーションが増えたり、全く空気を読まないような発言は減ってくるでしょうが、それでも、人間のリアルタイム性、反応のバリエーションには遠く及ばないでしょう。
そして、それを実装しようと思うほど、プログラマはAIに生命を植え付ける必要が出てくると感ずると思います。
もっと言うと、複数の生命がしのぎを削り何世代も進化させることによって、いわゆる自然淘汰による進化が起きるわけですが、そのような生存競争を経て進化した意識でないと、少なくとも動物レベルの能動性を獲得し得ない(「生命」を植え付けたことにならない)と思います。
人間の仕事の中で、あるパターン化された仕事を非常に高い精度でこなす必要のある仕事があります。いわゆる職人技と言われるような類いの職業です。
これらは何年もかけて修行を積む必要がありますが、そこで職人が得る知見というのは、やり方や量が具体的であるほど、実はコンピュータにとって非常に親和性の高い情報だったりします。
AIが得意なのはまさにそんな領域です。
一人で黙々とこなす職人の世界。これこそが、ディープラーニングで知識化したAIによって置き換え可能な職業だと私は考えています。
皮肉なことに、人間が人生の中で苦労して身につけるようなスキルはAIがとても得意なのですが、人間のもっともプリミティブな(動物的な)部分をAIはほとんど真似ることが出来ないのです。
人々の欲望に従って世界が周る限り、そして人間が自ら地球を住めなくしてしまうまでは、AIは人間と同じような人格を持ったモノには成り得ず、特定の技術をデータ化したエキスパートシステムとして、もっと言えば安価になった工場で動いているようなロボットとして、我々の生活に浸透してくるだけなのだと私は思います。
AIが自分より賢いAIを生むことが出来るようになったとき、加速度的にAIが賢くなり、人間を超えてしまうタイミングが訪れる、というのが私の理解。
もちろん、元ネタをきちんと知っているわけではないので、多少認識に間違いがあるかもしれませんが、AIがいつか人間を超えてしまう、という点については、世の中の理解とそう遠くはないはずです。
で、今のところの私の結論は、シンギュラリティなど起きないし、AIが人間を超える、といった現象も起きない、と考えています。
そもそもAIが人間を超える、というのはどういう状況なのか、という問題はあります。人類がそれに気づかなければ、超えたことにもならないからです。まあ、そういう意味でも超えないと言えるかもしれません。
◆
たまたま人工知能研究者の本を立ち読みしていて、下のような話が書かれており、非常に納得したのです。(じゃあ、本買えよ)
曰く、人工知能には知能があるけれど、生命がない。
これは非常に重要なことを意味しています。生命のないところに、いかなる欲望も生まれず、いかなる欲望もなければいかなる能動的な行動や発言も生まれないと思うからです。
気の利いた会話とか、他人への思いやりとか、ある考えに対する反論とか、他人に対する好感とか、つまり、そういった感覚全てが生命であることに起因していると私には思われます。このような感情を持ち得ない以上、人間を超えるどころか、人間と対話することすら出来ないと思います。
もちろん、今でもSiriのようなサービスで、ちょっとだけ気の利いた答えを返してくれることがあります。しかし、どう考えてもそのような言葉は単にプログラムで仕込まれているだけで、人間のように常にその場で考えながら発言しているわけではなさそうです。だから、Siriは特定の言葉(しかもプログラマが考えた)しか発することができません。
今後、パターン認識的に、多少は発言にバリエーションが増えたり、全く空気を読まないような発言は減ってくるでしょうが、それでも、人間のリアルタイム性、反応のバリエーションには遠く及ばないでしょう。
そして、それを実装しようと思うほど、プログラマはAIに生命を植え付ける必要が出てくると感ずると思います。
もっと言うと、複数の生命がしのぎを削り何世代も進化させることによって、いわゆる自然淘汰による進化が起きるわけですが、そのような生存競争を経て進化した意識でないと、少なくとも動物レベルの能動性を獲得し得ない(「生命」を植え付けたことにならない)と思います。
◆
人間の仕事の中で、あるパターン化された仕事を非常に高い精度でこなす必要のある仕事があります。いわゆる職人技と言われるような類いの職業です。
これらは何年もかけて修行を積む必要がありますが、そこで職人が得る知見というのは、やり方や量が具体的であるほど、実はコンピュータにとって非常に親和性の高い情報だったりします。
AIが得意なのはまさにそんな領域です。
一人で黙々とこなす職人の世界。これこそが、ディープラーニングで知識化したAIによって置き換え可能な職業だと私は考えています。
皮肉なことに、人間が人生の中で苦労して身につけるようなスキルはAIがとても得意なのですが、人間のもっともプリミティブな(動物的な)部分をAIはほとんど真似ることが出来ないのです。
人々の欲望に従って世界が周る限り、そして人間が自ら地球を住めなくしてしまうまでは、AIは人間と同じような人格を持ったモノには成り得ず、特定の技術をデータ化したエキスパートシステムとして、もっと言えば安価になった工場で動いているようなロボットとして、我々の生活に浸透してくるだけなのだと私は思います。
2015年8月12日水曜日
古典調律アプリ「Meantone」を2.0にバージョンアップしました
4年前に最後のバージョンアップをしたまま放置されていた古典調律アプリ「Meantone」をv.2.0にバージョンアップしました。
ちなみにアイコンは、バロックの巨匠、モンテヴェルディの肖像です。
iOSがバージョンアップした際、Meantoneのプログラムの不具合が顕在化し、それについてiTunesでも何人かに指摘されているのは分かっていました。
ただ、iOSのバージョンアップのスピードが速すぎるのと、ここ数年、Make系の活動に夢中になっていたこともあり、申し訳ないと思いつつもなかなか手がつかずにいました。
昨年Appleから新しい言語Swiftが公表されましたが、今後iPhoneで何かやるにはどうしてもSwiftの知識が必要になるだろうし、これを機会にちょっとSwiftの勉強をしてみようと昨年から考えていました。
また、仕事でやっているわけでもないので、この際Objective-Cからきっぱり足を洗って、過去のソースも全て捨てて(一部捨ててませんが)、プログラムを書き直してみようと思い立ったわけです。
そんなわけで、有料アプリを買っていただいた方々のためにも、まずこのアプリをSwift化しようと考えました。
コンピュータ言語を語れるほどの専門知識はありませんが、Swiftはある意味Objective-Cと逆の方向性を持った言語のように感じます。
Objective-Cは、あまりコンパイルエラーを出さず、ランタイム時(実動作時)に不具合を発生します。プログラムの書き方には自由度があるのですが、その分だけ、プログラマは自分自身で非常に気をつけてプログラムを書く必要がありました。
ところが、世のコンピュータ言語は複雑になり過ぎました。
プログラマがより生産的であろうとすると、開発の後段でたくさんのテストを行って不具合を取るより、言語自体が不具合を発生させないような仕組みを持つべきだという考えも当然出てきます。
私にはSwiftは、コンパイル時に不具合をなるべく出して堅牢なソフトとするため、かなり厳格な書法をユーザーに課している言語に見えます。その辺の感覚は、Objective-Cと一線を画す感じがしました。
特に驚くのが、クラス(のポインタ)が入る変数に?や!のような記号を付けて、この変数にヌルが入るかどうかを明確に意識させる点です。
最初はここまで冗長に書かされて、ややバカにされている感じもしましたが、結局は自分もこの手の不具合を相当出しているので、そういう意味ではSwiftのおかげで変数の扱いの意識が高まったとは言えると思います。(←今更何言ってんの!とか突っ込まれそうですが)
もう一つ、今回後半で苦労したのが、iPhoneの画面サイズの問題。
今やiPhoneアプリは、3.5inch, 4inch, 4.7inch, 5.5inchの4種類の画面をサポートしなければいけなくなりました。どの一つでも欠けていると、Appleはアプリを受け付けてくれません。
このようなときに、どの画面でも画面パーツがうまく表示されるように調整できるというAuto Layoutを使ってみたのですが、これがさっぱりうまくいきません。個別の理屈は分かっても、全くうまく制御が出来ないのです。ある数値を入れると、パーツがいきなり変な場所にフッ飛んでしまったりとか・・・
仕方がないので、結局昔からあるAuto resizeという方法で何とかうまくゴマかして各画面に対応しました。
企業が商品として出すアプリだと、きっちり正攻法でAuto Layoutを使い、デザインをどのサイズでもきっちり作ってくるのでしょうが、個人開発ではそこまで対応する余裕がありません。
Meantoneでも、3.5inchでは妙にきちきちで、5.5inchでは逆に画面に無駄なスペースが生まれているのはそのためです。
参考までに、3.5inchと、5.5inchの画面を貼っておきます。
ここ数ヶ月、少しずつ時間を捻出して何とかここまで作りましたので、ぜひ使っていただいて、ご感想、ご意見などいただければと思います。
ちなみにアイコンは、バロックの巨匠、モンテヴェルディの肖像です。
iOSがバージョンアップした際、Meantoneのプログラムの不具合が顕在化し、それについてiTunesでも何人かに指摘されているのは分かっていました。
ただ、iOSのバージョンアップのスピードが速すぎるのと、ここ数年、Make系の活動に夢中になっていたこともあり、申し訳ないと思いつつもなかなか手がつかずにいました。
昨年Appleから新しい言語Swiftが公表されましたが、今後iPhoneで何かやるにはどうしてもSwiftの知識が必要になるだろうし、これを機会にちょっとSwiftの勉強をしてみようと昨年から考えていました。
また、仕事でやっているわけでもないので、この際Objective-Cからきっぱり足を洗って、過去のソースも全て捨てて(一部捨ててませんが)、プログラムを書き直してみようと思い立ったわけです。
そんなわけで、有料アプリを買っていただいた方々のためにも、まずこのアプリをSwift化しようと考えました。
◆
コンピュータ言語を語れるほどの専門知識はありませんが、Swiftはある意味Objective-Cと逆の方向性を持った言語のように感じます。
Objective-Cは、あまりコンパイルエラーを出さず、ランタイム時(実動作時)に不具合を発生します。プログラムの書き方には自由度があるのですが、その分だけ、プログラマは自分自身で非常に気をつけてプログラムを書く必要がありました。
ところが、世のコンピュータ言語は複雑になり過ぎました。
プログラマがより生産的であろうとすると、開発の後段でたくさんのテストを行って不具合を取るより、言語自体が不具合を発生させないような仕組みを持つべきだという考えも当然出てきます。
私にはSwiftは、コンパイル時に不具合をなるべく出して堅牢なソフトとするため、かなり厳格な書法をユーザーに課している言語に見えます。その辺の感覚は、Objective-Cと一線を画す感じがしました。
特に驚くのが、クラス(のポインタ)が入る変数に?や!のような記号を付けて、この変数にヌルが入るかどうかを明確に意識させる点です。
最初はここまで冗長に書かされて、ややバカにされている感じもしましたが、結局は自分もこの手の不具合を相当出しているので、そういう意味ではSwiftのおかげで変数の扱いの意識が高まったとは言えると思います。(←今更何言ってんの!とか突っ込まれそうですが)
◆
もう一つ、今回後半で苦労したのが、iPhoneの画面サイズの問題。
今やiPhoneアプリは、3.5inch, 4inch, 4.7inch, 5.5inchの4種類の画面をサポートしなければいけなくなりました。どの一つでも欠けていると、Appleはアプリを受け付けてくれません。
このようなときに、どの画面でも画面パーツがうまく表示されるように調整できるというAuto Layoutを使ってみたのですが、これがさっぱりうまくいきません。個別の理屈は分かっても、全くうまく制御が出来ないのです。ある数値を入れると、パーツがいきなり変な場所にフッ飛んでしまったりとか・・・
仕方がないので、結局昔からあるAuto resizeという方法で何とかうまくゴマかして各画面に対応しました。
企業が商品として出すアプリだと、きっちり正攻法でAuto Layoutを使い、デザインをどのサイズでもきっちり作ってくるのでしょうが、個人開発ではそこまで対応する余裕がありません。
Meantoneでも、3.5inchでは妙にきちきちで、5.5inchでは逆に画面に無駄なスペースが生まれているのはそのためです。
参考までに、3.5inchと、5.5inchの画面を貼っておきます。
◆
ここ数ヶ月、少しずつ時間を捻出して何とかここまで作りましたので、ぜひ使っていただいて、ご感想、ご意見などいただければと思います。
2015年4月29日水曜日
いまさらながらIoT
IoTという言葉はここ数年、技術関係のトピックで良く聞かれるようになりましたが、最近では私の身の回りの仕事環境でさえも良く聞くようになってきました。
そもそもIoTという言葉の前にはユビキタスとかいう言葉もあったし、言いたいことはほぼ同じなわけで、それだけ一般性が高く、確実に未来に浸透するであろう技術だと私にも思えます。
そういう意味ではクラウドと同じ。今やクラウドは当たり前。セキュリティーがー、とか言っていた人も今では無批判にクラウドを使っています。
数年もすれば、IoT当たり前な世の中になっているでしょう。
といいつつも、IoTが当たり前の世の中とは一体どんな世の中でしょう。
個別の小さなサービスでは、こうなるとは言えても、そういったサービスによる小さな改善がつもりつもったとき、社会がどれほど大きな変革を遂げるか、私には想像も付きません。
また、法律や社会システムがIT, IoTサービスについて行けず、いずれこういう問題が技術イシューではなく政治イシューになっていく可能性は大いにあります。
恐らくその折には、数学的、論理的に当たり前のことを、理屈を知らない政治家が喧々諤々と議論するというかなり間抜けなシチュエーションが生まれるかもしれません。
そもそもIoTが政治そのものに与える影響は無視できなくなるのではないでしょうか。
例えば、住民投票をするのにさえ莫大な政治活動が必要なのに、重大な政治的アンケートもかなりの母集団で短期間で簡単に出来るようになったらどうでしょう?
あるいは政治家ごとの支持率がまるで株価のように日々変化する様子を確認できるようになったり、有権者の日々の行動と彼らが支持するであろう政治家とマッチングしたり、彼らに簡単に寄付できるような仕組みができたらどうでしょう?
政治そのものでなくても、議論の間じゅうIoT的に数分レベルで何らかの情報を集める仕組みを作れば、議論が非常に効率的に済むというようなことができたら嬉しいですね。
自分の興味の対象として、音楽活動とIoTって何か考えられないでしょうか。
楽器を使うシチュエーションを考えたとき、バンドやオーケストラでアンサンブルするだけではなく、家で一人で演奏を楽しむということも多いと思います。
というか、むしろ圧倒的多数の人が、人にも聴かせず、一人で家で楽器演奏しているのではないでしょうか。
彼らは今まで一人で家で演奏してそれで終わりでした。
でも、これをIoT的に繋げてみるとどんなことが可能でしょう。
例えば、いつ頃、何時間楽器を演奏したか、といった情報を集めることを考えてみましょう。もしかしたら世界のどこかで、自分と同じ曲を練習している人がいるか探せるかもしれません。
演奏のレベルを解析すれば、サーバー側で同じレベルのもの同士をマッチングすることも可能です。実際、演奏の現場では、演奏レベルの違う人たちが一緒に活動すると悲劇が起きることが多いのです。上手いもの同士、初心者同士が結びつく仕組みは(それと知られない程度に)うまく作ってあるとお互いに幸せです。
逆に演奏レベルの違いの情報をベースに、もっと簡易な楽器のレッスン、演奏アドバイスみたいな非対称な出会いの場を提供することも考えられます。
楽器演奏だけでもいろいろ考えられるのだから、他のいろいろな活動についてもいくらでもIoTのアイデアはありますね。
そう考えると、本当にこれから10年くらい世の中の変化はかなり大きなものになるのではないかと思えます。(相変わらず、無駄に壮大な予測ですが)
そもそもIoTという言葉の前にはユビキタスとかいう言葉もあったし、言いたいことはほぼ同じなわけで、それだけ一般性が高く、確実に未来に浸透するであろう技術だと私にも思えます。
そういう意味ではクラウドと同じ。今やクラウドは当たり前。セキュリティーがー、とか言っていた人も今では無批判にクラウドを使っています。
数年もすれば、IoT当たり前な世の中になっているでしょう。
◆
といいつつも、IoTが当たり前の世の中とは一体どんな世の中でしょう。
個別の小さなサービスでは、こうなるとは言えても、そういったサービスによる小さな改善がつもりつもったとき、社会がどれほど大きな変革を遂げるか、私には想像も付きません。
また、法律や社会システムがIT, IoTサービスについて行けず、いずれこういう問題が技術イシューではなく政治イシューになっていく可能性は大いにあります。
恐らくその折には、数学的、論理的に当たり前のことを、理屈を知らない政治家が喧々諤々と議論するというかなり間抜けなシチュエーションが生まれるかもしれません。
◆
そもそもIoTが政治そのものに与える影響は無視できなくなるのではないでしょうか。
例えば、住民投票をするのにさえ莫大な政治活動が必要なのに、重大な政治的アンケートもかなりの母集団で短期間で簡単に出来るようになったらどうでしょう?
あるいは政治家ごとの支持率がまるで株価のように日々変化する様子を確認できるようになったり、有権者の日々の行動と彼らが支持するであろう政治家とマッチングしたり、彼らに簡単に寄付できるような仕組みができたらどうでしょう?
政治そのものでなくても、議論の間じゅうIoT的に数分レベルで何らかの情報を集める仕組みを作れば、議論が非常に効率的に済むというようなことができたら嬉しいですね。
◆
自分の興味の対象として、音楽活動とIoTって何か考えられないでしょうか。
楽器を使うシチュエーションを考えたとき、バンドやオーケストラでアンサンブルするだけではなく、家で一人で演奏を楽しむということも多いと思います。
というか、むしろ圧倒的多数の人が、人にも聴かせず、一人で家で楽器演奏しているのではないでしょうか。
彼らは今まで一人で家で演奏してそれで終わりでした。
でも、これをIoT的に繋げてみるとどんなことが可能でしょう。
例えば、いつ頃、何時間楽器を演奏したか、といった情報を集めることを考えてみましょう。もしかしたら世界のどこかで、自分と同じ曲を練習している人がいるか探せるかもしれません。
演奏のレベルを解析すれば、サーバー側で同じレベルのもの同士をマッチングすることも可能です。実際、演奏の現場では、演奏レベルの違う人たちが一緒に活動すると悲劇が起きることが多いのです。上手いもの同士、初心者同士が結びつく仕組みは(それと知られない程度に)うまく作ってあるとお互いに幸せです。
逆に演奏レベルの違いの情報をベースに、もっと簡易な楽器のレッスン、演奏アドバイスみたいな非対称な出会いの場を提供することも考えられます。
◆
楽器演奏だけでもいろいろ考えられるのだから、他のいろいろな活動についてもいくらでもIoTのアイデアはありますね。
そう考えると、本当にこれから10年くらい世の中の変化はかなり大きなものになるのではないかと思えます。(相変わらず、無駄に壮大な予測ですが)
2015年4月4日土曜日
AIとシンギュラリティ
AI関係の話題が多い昨今。専門家でもAIを肯定的に捉える人もいれば、否定的に捉えている人もいて、私のようなAI技術の素人には予想もつきません。
それでも、私自身の率直な感想を言えば、仮にシンギュラリティのような事象が発生して、AIが人間を凌駕してしまったとしても、それはそれで受け入れてそういう未来を見てみたいという気持ちもあります。間違っても、科学の進歩に否定的になったりAIの存在を否定したりする気持ちにはなれません。
以前、AIについて、こんなことやこんなことを書きました。
これは、人々が何となく思っている人間のように振る舞うAIなんてあり得ないんじゃないか、という主張です。もちろん、今でもその気持ちには変わりないです。
恐らくAIがまず我々の生活に入り込むのは、エキスパートシステムからだと私は思います。
例えば、ラーメンを作るロボットを作って、あるラーメン職人の仕事をサンプリングし、AIに学習させたとします。どの程度の間学習させるか、ということについては私は詳しくないですが、ある時点で、AIはこの職人のラーメン作りをほぼ完全に模倣できるようになるでしょう。
学習を徹底的に進めることによって、その職人自体が持っている出力の振れ幅より(毎日の微妙な味の違いというような)、さらに振れ幅が少なく、均質な味を作り続けることが可能になることでしょう。
その人にしか作れなかった味は、その学習結果を他のロボットに転送することで、どこでも手に入れることが可能になります。
料理ロボットが家庭で一般的になれば、ラーメン職人だけでなく、世界中の有名シェフの味を家庭でも堪能することが可能になるかもしれません。
料理は非常に分かりやすい例だと思いますが、世の中には、何年もの間同じ仕事をし続けて、熟練してその人にしかできない、といった職人ワザがたくさんあると思います。
機械的にその人と同じように動けるロボットが作られ、そこにAIのエキスパートシステムが載せられれば、職人ワザそのものを量産することが可能になります。
ある場所に隠されていたエキスパートシステムが、瞬く間に世界に広がりコモディティ化してしまう、という未来があるタイミングで起きることは容易に予想できます。
AIといって人々が思い描く未来は、ほとんどの人がロボットと人間の共存といった世界だと思うのですが、実際にAIが入り込むのは、まず産業であり、ビジネスの領域だと私は思います。
すでに多くの工場では、無人化が進んでいますが、それはさらに加速するでしょうし、先程書いたような料理ロボットが可能になれば、飲食店のあり方も、様変わりするでしょう。自動運転車で流通もそのうち無人化されるでしょうし、恐らくちょっとした処方箋を書くだけの内科の医者でさえAI化は可能でしょう。
それと同時に、オフィスワークもAI化され、単純な会計、税務処理や法務関係とか、定型的な業務がAIベースのWebサービスに置き換わるかもしれません。
プログラミングでさえ、ある程度の要求仕様をインプットすれば、素晴らしい精度のコーディングが出来るようになる気がします。
AIの発展がまず私たちにもたらす社会的問題は、失業問題ではないでしょうか。
これだけ多くの仕事がAIで置き換わっていけば、多くの会社で必要ない人が増えていきます。また、新しい会社がこういう技術をうまく使いこなしていけば、使いこなせない企業が淘汰されます。いずれにしても、世の中には失業者が増えることになります。
そして、その次にやってくる問題は、あらゆることがAIのエキスパートシステムに置き換えられた結果、そのような職人技を持っている人が死に絶えた時、人間に何も習熟すべき技術が残らなくなるということです。
そもそもAIに命令するのが人間なのに、AIのやっている技術レベルに命令する側が追いつけなければ、AIを使いこなすことさえままなりません。
これは、ひたすらAIの学習方法を研究し続ける人だけしか、職業を持てなくなるような社会であり、AIへの命令さえAI化することによって、まさにシンギュラリティといった、人間不在の社会が現れることになり兼ねないのです。
しかし、今の社会は人間の欲望を満たすために作られているのであり、人間不在の社会、などという概念自体、何か自己矛盾のような気がします。
シンギュラリティ後のAIは自らに何を望むのか、そんなことまで思いを馳せてしまうのですが、これはあながち遠い未来のことでも無いのかもしれません。
微妙にダークな話になりましたが、そのようなシンギュラリティを人間が自ら回避する流れも起きるでしょう。そのときに議論されるであろう「人間とは何か」という問いこそ、私が最も興味のあるテーマでもあるのです。
それでも、私自身の率直な感想を言えば、仮にシンギュラリティのような事象が発生して、AIが人間を凌駕してしまったとしても、それはそれで受け入れてそういう未来を見てみたいという気持ちもあります。間違っても、科学の進歩に否定的になったりAIの存在を否定したりする気持ちにはなれません。
◆
以前、AIについて、こんなことやこんなことを書きました。
これは、人々が何となく思っている人間のように振る舞うAIなんてあり得ないんじゃないか、という主張です。もちろん、今でもその気持ちには変わりないです。
恐らくAIがまず我々の生活に入り込むのは、エキスパートシステムからだと私は思います。
例えば、ラーメンを作るロボットを作って、あるラーメン職人の仕事をサンプリングし、AIに学習させたとします。どの程度の間学習させるか、ということについては私は詳しくないですが、ある時点で、AIはこの職人のラーメン作りをほぼ完全に模倣できるようになるでしょう。
学習を徹底的に進めることによって、その職人自体が持っている出力の振れ幅より(毎日の微妙な味の違いというような)、さらに振れ幅が少なく、均質な味を作り続けることが可能になることでしょう。
その人にしか作れなかった味は、その学習結果を他のロボットに転送することで、どこでも手に入れることが可能になります。
料理ロボットが家庭で一般的になれば、ラーメン職人だけでなく、世界中の有名シェフの味を家庭でも堪能することが可能になるかもしれません。
◆
料理は非常に分かりやすい例だと思いますが、世の中には、何年もの間同じ仕事をし続けて、熟練してその人にしかできない、といった職人ワザがたくさんあると思います。
機械的にその人と同じように動けるロボットが作られ、そこにAIのエキスパートシステムが載せられれば、職人ワザそのものを量産することが可能になります。
ある場所に隠されていたエキスパートシステムが、瞬く間に世界に広がりコモディティ化してしまう、という未来があるタイミングで起きることは容易に予想できます。
AIといって人々が思い描く未来は、ほとんどの人がロボットと人間の共存といった世界だと思うのですが、実際にAIが入り込むのは、まず産業であり、ビジネスの領域だと私は思います。
すでに多くの工場では、無人化が進んでいますが、それはさらに加速するでしょうし、先程書いたような料理ロボットが可能になれば、飲食店のあり方も、様変わりするでしょう。自動運転車で流通もそのうち無人化されるでしょうし、恐らくちょっとした処方箋を書くだけの内科の医者でさえAI化は可能でしょう。
それと同時に、オフィスワークもAI化され、単純な会計、税務処理や法務関係とか、定型的な業務がAIベースのWebサービスに置き換わるかもしれません。
プログラミングでさえ、ある程度の要求仕様をインプットすれば、素晴らしい精度のコーディングが出来るようになる気がします。
◆
AIの発展がまず私たちにもたらす社会的問題は、失業問題ではないでしょうか。
これだけ多くの仕事がAIで置き換わっていけば、多くの会社で必要ない人が増えていきます。また、新しい会社がこういう技術をうまく使いこなしていけば、使いこなせない企業が淘汰されます。いずれにしても、世の中には失業者が増えることになります。
そして、その次にやってくる問題は、あらゆることがAIのエキスパートシステムに置き換えられた結果、そのような職人技を持っている人が死に絶えた時、人間に何も習熟すべき技術が残らなくなるということです。
そもそもAIに命令するのが人間なのに、AIのやっている技術レベルに命令する側が追いつけなければ、AIを使いこなすことさえままなりません。
これは、ひたすらAIの学習方法を研究し続ける人だけしか、職業を持てなくなるような社会であり、AIへの命令さえAI化することによって、まさにシンギュラリティといった、人間不在の社会が現れることになり兼ねないのです。
しかし、今の社会は人間の欲望を満たすために作られているのであり、人間不在の社会、などという概念自体、何か自己矛盾のような気がします。
シンギュラリティ後のAIは自らに何を望むのか、そんなことまで思いを馳せてしまうのですが、これはあながち遠い未来のことでも無いのかもしれません。
微妙にダークな話になりましたが、そのようなシンギュラリティを人間が自ら回避する流れも起きるでしょう。そのときに議論されるであろう「人間とは何か」という問いこそ、私が最も興味のあるテーマでもあるのです。
2015年1月25日日曜日
ファブ社会への期待
ファブラボが今日本中でオープンしていますが、こういった施設が当たり前になって広く利用されるような未来はファブ社会と呼ばれています。
ファブ社会では、規格化、標準化された工作機械があちらこちらに配置されており、それら工作機械を動作させるための電子化された図面データがネット上を駆け巡ります。
これまで商品の設計、開発、生産は、それらを製造する企業内での活動であり、その方法は企業内で独自に培われてきたものだったのですが、試作・開発するための機材や部品が共通化されていけば、企業内で閉じていた方法論もだんだん似通ってくることでしょう。
昨今のIT化によって、世の中では電子ファイル形式の標準化が進み、さらにWebベースで事務作業が出来るようになると書類仕事がどんどん標準化されるようになってきました。
そして、書類仕事だけでなく、実際にモノを作るための方法論もまた、同様に標準化される可能性があるはずなのです。
もちろん、そういった開発プロセスの効率化が各企業の競争力のみなもとでもあったのですが、社会全体の効率から考えれば、その過程が完全にオープン化されてしまった方がはるかに生産性が高くなるのではないか、とも考えられるのです。
そんなわけで、またしても勝手ながら、そんな未来を想像してみようと思います。
街にはたくさんのファブラボがあります。
ファブラボは今のコンビニくらいの勢いで存在しているといいですね。
もしあなたに何か自分の欲しいものがあったとき、あなたはまずネット上で世の中にどのような種類のものがあるか検索します。そして、それらの中からあなたの好みに合うものを探し出します。
もちろん、人件費の安い国で作られた、安かろう、悪かろうの汎用品は未来にも存在するでしょうが、ちょっとだけでも自分のオリジナルな希望を叶えようと思えば、世界中にそれを満たしてくれるデータがどこかにあります。
次に、あなたはそれらのデータをダウンロードします。
データの開発者には、気持ち程度の寄付をして、そのデータを近くのファブラボに転送します。ファブラボで自分が工作機械を使って製造すれば、値段は機械の使用料と部材費のみ、製造もファブラボに依頼すればさらにその値段が上乗せされます。
もちろん汎用品よりは高くつきますが、色や形にオリジナリティを加えれば世界に二つと無いオリジナルなものがそれほど高くない値段で手に入るわけです。
ファブラボはあくまで民間なので、より良いサービスやクオリティをもったファブラボが儲かるし、世界的なネットワークを持っている方がファブラボとしての価値は高まるでしょう。
ある製品を設計した人、あるいはチームには、世界各国からライセンス料、あるいは寄付金を得ます。
ライセンス料はある程度、数量を生産して商売したい人から徴収します。データはあくまでオープンですが、商用利用ではライセンス料発生、といった形でデータを公開するわけです。
もちろん、ダウンロードした個人からの寄付もあるかもしれません。データのやり取りとはいえ、一対一の関係ですから、いいモノを得たのならそれに対して感謝の意を表したいのが人情というもの。
そんな時代、いま企業が作っているほとんどのものは、個人開発者が作るようになります。
企業は、大規模で安価に売る汎用品、量産品を作るか、ファブラボが使用する材料、部品を供給したり、ある程度の規模が必要な新しい技術開発と、それをベースにした標準化の取り組みなどがおもな業務になるでしょう。
ここで対象となる製品とは、最初のうちはシンプルなオモチャとか、照明、椅子のような小家具やインテリアが中心でしょうが、そのうちにタンスやベッドなどの大規模な家具、テレビ、パソコン、オーディオなどの電気製品、自転車、自動車といったものまで可能になるかもしれません。
もちろんこのような未来の社会では、今存在しないような職業が出来ているわけです。
ファブラボの運営や、工作機械の説明員、そして個人設計者、世界各地の情報収集と検索を容易にするポータルサイト、国を超えた少額送金システムなどなど。
こんな社会になったらいいなと私は切に願っているわけです。
ファブ社会では、規格化、標準化された工作機械があちらこちらに配置されており、それら工作機械を動作させるための電子化された図面データがネット上を駆け巡ります。
これまで商品の設計、開発、生産は、それらを製造する企業内での活動であり、その方法は企業内で独自に培われてきたものだったのですが、試作・開発するための機材や部品が共通化されていけば、企業内で閉じていた方法論もだんだん似通ってくることでしょう。
昨今のIT化によって、世の中では電子ファイル形式の標準化が進み、さらにWebベースで事務作業が出来るようになると書類仕事がどんどん標準化されるようになってきました。
そして、書類仕事だけでなく、実際にモノを作るための方法論もまた、同様に標準化される可能性があるはずなのです。
もちろん、そういった開発プロセスの効率化が各企業の競争力のみなもとでもあったのですが、社会全体の効率から考えれば、その過程が完全にオープン化されてしまった方がはるかに生産性が高くなるのではないか、とも考えられるのです。
◆
そんなわけで、またしても勝手ながら、そんな未来を想像してみようと思います。
街にはたくさんのファブラボがあります。
ファブラボは今のコンビニくらいの勢いで存在しているといいですね。
もしあなたに何か自分の欲しいものがあったとき、あなたはまずネット上で世の中にどのような種類のものがあるか検索します。そして、それらの中からあなたの好みに合うものを探し出します。
もちろん、人件費の安い国で作られた、安かろう、悪かろうの汎用品は未来にも存在するでしょうが、ちょっとだけでも自分のオリジナルな希望を叶えようと思えば、世界中にそれを満たしてくれるデータがどこかにあります。
次に、あなたはそれらのデータをダウンロードします。
データの開発者には、気持ち程度の寄付をして、そのデータを近くのファブラボに転送します。ファブラボで自分が工作機械を使って製造すれば、値段は機械の使用料と部材費のみ、製造もファブラボに依頼すればさらにその値段が上乗せされます。
もちろん汎用品よりは高くつきますが、色や形にオリジナリティを加えれば世界に二つと無いオリジナルなものがそれほど高くない値段で手に入るわけです。
ファブラボはあくまで民間なので、より良いサービスやクオリティをもったファブラボが儲かるし、世界的なネットワークを持っている方がファブラボとしての価値は高まるでしょう。
ある製品を設計した人、あるいはチームには、世界各国からライセンス料、あるいは寄付金を得ます。
ライセンス料はある程度、数量を生産して商売したい人から徴収します。データはあくまでオープンですが、商用利用ではライセンス料発生、といった形でデータを公開するわけです。
もちろん、ダウンロードした個人からの寄付もあるかもしれません。データのやり取りとはいえ、一対一の関係ですから、いいモノを得たのならそれに対して感謝の意を表したいのが人情というもの。
◆
そんな時代、いま企業が作っているほとんどのものは、個人開発者が作るようになります。
企業は、大規模で安価に売る汎用品、量産品を作るか、ファブラボが使用する材料、部品を供給したり、ある程度の規模が必要な新しい技術開発と、それをベースにした標準化の取り組みなどがおもな業務になるでしょう。
ここで対象となる製品とは、最初のうちはシンプルなオモチャとか、照明、椅子のような小家具やインテリアが中心でしょうが、そのうちにタンスやベッドなどの大規模な家具、テレビ、パソコン、オーディオなどの電気製品、自転車、自動車といったものまで可能になるかもしれません。
もちろんこのような未来の社会では、今存在しないような職業が出来ているわけです。
ファブラボの運営や、工作機械の説明員、そして個人設計者、世界各地の情報収集と検索を容易にするポータルサイト、国を超えた少額送金システムなどなど。
こんな社会になったらいいなと私は切に願っているわけです。
2015年1月16日金曜日
2040年の新世界
邦題には「2040年の新世界」とありますが、オリジナルのタイトルは「Fabrifated: The New World of 3D Printing」であり、この本は3Dプリンタにまつわる話題について書かれたものです。
近頃、3Dプリンタに関する話題が増えていて、何となく面白そうなツールだなと思っている人も多いと思いますが、その潜在パワーを侮るなかれです。
この本には、3Dプリンタに関する様々な取り組みや実践例、そして可能性が紹介されています。
その一つ一つはこれまでも聞いたことのある話ではあったのですが、それらを一通り読んだ今では、これからとんでもない世の中になってくなあ、という印象を持ったのです。
3Dプリンタすごいです。未来は予想以上の速さで変化しますよ!
◆
最近聞くようになったのは、3Dのバイオプリンタやフードプリンタ。
バイオプリンタとは、生物の臓器を作ってしまうというプリンタ。細胞(バイオインク)を何らかの構造物に吹き付けて臓器を作り上げていくわけです。
病気になった臓器を取り替えるだけでなく、老化した臓器を交換していけばいつまでも若々しい体を保つことが出来る、という夢のようなお話なのですが、もちろん現実はそれほど簡単ではありません。
研究はまだまだこれからですが、こういった技術が荒唐無稽なものではなく、実際に実用化される可能性があるということを知っただけでも驚くべきことです。
フードプリンタはその名の通り、食べ物を出力します。
現状でも、すでにチョコレートや、クッキーなどはプリンタで出力可能なレベルにあるのです。また、いろいろな栄養物を自由に混ぜ合わせることができるので、例えば個人の身体の状況に合わせてカロリーメイト的な完全オーダーメイドの栄養食品を作ることが可能になります。そうなれば、自分の健康管理にこういったフードプリンタが使えるわけです。
ただし、素材を趣向を凝らして料理するのとは違うので、プリンタから出力された食べ物がどれだけ美味しく感じるかはやや疑問もありますが。
◆
3Dプリンタで何かを作ることは、そもそもこれまで組み立てて作られてきたものとは発想を変える必要があることを、この本では繰り返し説いています。
3Dプリンタは物体の内部をいきなり出力してしまうことが出来ます。
今までなら、中の部品を作って、それを覆うような筐体をネジなどでカバーして何かを作り上げていくわけです。世の中の機械類は、そういう作られ方をされることを前提としてデザインされています。
ところが、3Dプリンタを使えば、内部を分解する必要が無ければ、いきなり内部構造をプリントしてそれを密封することが可能です。
最近は電子回路そのものをプリントするといった研究もされていますから、基板の上にICチップや電気回路をハンダ付けして電子回路を作っていますが、回路図を書くだけでそういった電子回路が埋め込まれたブロックのようなものをプリントすることが可能になるかもしれません。
そうなると、あとは本当にレゴで何かを作るように、世の中の様々な電気製品を簡単にはめ合わせるだけで作れるようになるかもしれません。
◆
後半では、3Dプリンタからやや飛躍して、未来はどのようにモノが作られるようになるのか、といったことについてもかなり刺激的なことが書かれています。
現在、プリンタから出力されるデータはCADを使ってデータ化しますが、CADは物体の形状を全て手作業で書かなければなりません。
例えば、自然に生えている「木」のような造形物は非常に複雑であり、これをCADで正確に表現するのは大変な作業です。
ところが、木の幹からどのように枝が生えるか、というルールは比較的シンプルであり、木の形状とあるランダム性を掛け合わせた木の成長ルールをスクリプト化すれば、木のような複雑な構造物もそれほど手間をかけずにデータ化することが可能なのです。
実はこういう手法はすでにCGの世界では一般的なのだそうです。私は知りませんでした。
こうして、造形そのものをデータ化するのでなく、造形が生成されるルールをスクリプト的に記述することによって、より複雑で自然に近いものを簡単にプリントすることができるようになります。
さらには造形物の振る舞いを記述して、動きのあるものをプリンティングする、というようなことも可能になるかもしれません。
そして、ついに3Dプリンタが自分自身を作ることができれば・・・それはもはや自己複製が出来る生物と同じであり、新しい生命が誕生したとも言えるかもしれないのです。
もはやSF的、哲学的な話題ですが、そのようなことを想像する楽しみも与えてくれます。
◆
テクノロジーとは、いまや単なる新しい機械が現れることではなく、私たちの生活や常識や社会のあり方や、政治、国家のあり方にまで影響を与えることになるでしょう。
そして、その中で3Dプリンタ的なものが果たすべき役割も、相当大きなものになるのではないかと私には思われるのです。
2014年12月23日火曜日
PICに挑戦!
ここ1ヶ月ほど何をしていたかというと、ずっとPIC(ピック)と格闘していました。
PICとは何かというと、電子工作マニアの間では非常に有名な8bitマイコンなのです。
今までずっとRaspberry Piを使ってMagicFluteの製作を続けてきましたが、ここ数ヶ月ほど方針を変更して、一つのマイコンでセンサー検知と音源処理を行うのではなく、楽器操作部と音源部を分離することにしたのです。その操作部の製作のために、mbedを使い始め、そしてダウンサイジングの果て、ついにPICを使うことにしたのです。
mbedは非常に敷居の低い開発環境が魅力でしたが、CPUの能力としてはかなり高く、自分のやりたいことからするとややオーバースペックでした。たくさん数を作ろうとすると、値段も問題になってきます。もちろん、BLEを扱うならmbedなのですが、BLEの前にまず、普通のMIDIやUSB MIDIを扱おうとさらに路線を変更した結果PICにたどり着いたというわけです。
PICは入手性も高く、何しろ安価なのが大変な魅力。その代わり、mbedのような分かりやすさやハードを隠蔽するような仕組みはなく、ひたすら自力で低レベルのハード設定を行う必要が有ります。
ここ1ヶ月、PICの開発環境の導入や、ライブラリなどの探索、関連部品の調達、そして実際に動かしてみて試行錯誤を繰り返しながら、ついにLチカ、USB MIDIの出力、I2Cでの通信に成功しました!
ということで、実物をお見せいたしましょう。
黄色の矢印で示している緑色の基板に載っているチップがPICです。
今回はPIC18F14K50というマイコンを使用しています。
これが、RAM:768byte、Flash ROM:8KBのメモリを内蔵している超カワイイ組み込みマイコンなのです。
ギガバイトとかメガバイトとかじゃないですからね。ただのバイト、ただのキロバイトなのです。もうパソコンから見たらゴミのようなメモリ容量です。
この20pinのチップの中にUSBやI2C、AD変換、IOポートなどの周辺機能が入っています。
左隣の赤い物体は、PICkit3といって、PIC内蔵のFlashROMにプログラムを書き込む道具です。PC上のIDEでプログラム開発をして、コンパイルしてバイナリ化した実行プログラムをこの赤い道具でPICに転送し書き込むわけです。
現在、上記のブレッドボード上でプログラム開発をしていますが、ある程度電子部品の動作が確認できたところで、新しいMagicFluteの試作を始める予定です。
PICとは何かというと、電子工作マニアの間では非常に有名な8bitマイコンなのです。
今までずっとRaspberry Piを使ってMagicFluteの製作を続けてきましたが、ここ数ヶ月ほど方針を変更して、一つのマイコンでセンサー検知と音源処理を行うのではなく、楽器操作部と音源部を分離することにしたのです。その操作部の製作のために、mbedを使い始め、そしてダウンサイジングの果て、ついにPICを使うことにしたのです。
mbedは非常に敷居の低い開発環境が魅力でしたが、CPUの能力としてはかなり高く、自分のやりたいことからするとややオーバースペックでした。たくさん数を作ろうとすると、値段も問題になってきます。もちろん、BLEを扱うならmbedなのですが、BLEの前にまず、普通のMIDIやUSB MIDIを扱おうとさらに路線を変更した結果PICにたどり着いたというわけです。
PICは入手性も高く、何しろ安価なのが大変な魅力。その代わり、mbedのような分かりやすさやハードを隠蔽するような仕組みはなく、ひたすら自力で低レベルのハード設定を行う必要が有ります。
ここ1ヶ月、PICの開発環境の導入や、ライブラリなどの探索、関連部品の調達、そして実際に動かしてみて試行錯誤を繰り返しながら、ついにLチカ、USB MIDIの出力、I2Cでの通信に成功しました!
ということで、実物をお見せいたしましょう。
黄色の矢印で示している緑色の基板に載っているチップがPICです。
今回はPIC18F14K50というマイコンを使用しています。
これが、RAM:768byte、Flash ROM:8KBのメモリを内蔵している超カワイイ組み込みマイコンなのです。
ギガバイトとかメガバイトとかじゃないですからね。ただのバイト、ただのキロバイトなのです。もうパソコンから見たらゴミのようなメモリ容量です。
この20pinのチップの中にUSBやI2C、AD変換、IOポートなどの周辺機能が入っています。
左隣の赤い物体は、PICkit3といって、PIC内蔵のFlashROMにプログラムを書き込む道具です。PC上のIDEでプログラム開発をして、コンパイルしてバイナリ化した実行プログラムをこの赤い道具でPICに転送し書き込むわけです。
現在、上記のブレッドボード上でプログラム開発をしていますが、ある程度電子部品の動作が確認できたところで、新しいMagicFluteの試作を始める予定です。
2014年12月12日金曜日
「作る」の未来 –今足りないもの–
以前このタイトルの記事を書いたとき、個人が趣味で何か「作る」ことに対して、まだまだ社会との交点とか、生業としての可能性みたいなことを語るのは時期尚早だと思っていました。
しかし、最近のMaker Movement関連で作られた具体的な事例を知るほど、まだまだ私たちの生活が便利になる小物は意外とたくさんあるものだと思い知らされます。
例えば、「スマート座布団」なるものを作った方がいます。
座布団の中にセンサーを入れて、どの座布団に実際に人が座っているかをリアルタイムで知ることができるシステムです。飲食店で使うことによって、お客の在席状況もわかりますし、1日の統計を取れば、客あたりの滞在時間や、一人で来たか、連れで来たか、といったことも多少の推測は可能でしょう。
飲食店でなくても、図書館とか、銀行や病院の待合室とか、そういう場所に設置したらどのようなデータが取れるか考えてみると面白そうです。
また、ある人は職場のトイレのドアにセンサーを付けて、今トイレに人がいるかどうかを自分の席で分かるシステムを作ったそうです。
あらかじめ現在のトイレの使用状況が分かると、トイレに行っても空いてない、ということはなくなります。
ただ、このデータのログを取って解析するのはあまり気は進みませんが・・・
これらの事例より、我々の生活の至る所にセンサーを付けることによって、まだまだ日々の暮らしが快適になる可能性はあります。
今までこのようなセンサーは個人で買うのは割高だし、痒いところに手が届くような機能も付いていませんでした。BtoB向けになると数量も出ないでしょうからカスタマイズも難しく、自分で好きな統計を取ることもままなりませんでした。
しかし、こういったセンサーと情報収集の仕組みと情報解析の仕組みを組み合わせることが技術的に簡単になれば、こういうシステムを構築できる人も増えてきます。最初は、個人の趣味で始めたことも、ビジネスになると分かれば、それを職業にする人も出てくるでしょう。そしてこれから、こういったシステムを個別最適に作ってくれる小さな個人事業がたくさん出てくるかもしれません。
センサーと情報収集や解析の仕組みからもう少し飛躍して、社会的に起こりそうなことを考えてみましょう。
例えば、近いうちにコンビニや各種店舗が無人化されるかもしれません。その場合にも、無人化を可能にするような各種デバイス(個人認証で入れる自動ドアとか)が開発されることによって、いろいろな特殊用途の無人化システムが作られることでしょう。
また、車の自動運転が一般的になれば、まずは人を運ばない運送のような業務から自動運転が始まるような気がします。それまでに、自動運転に関わるセンサーやパーツが部品化され、広くその図面が公開されれば多くの人がそれを使ったシステムを設計しやすくなります。
起こりそうな大きな技術とそれに付随する技術を考えてみると、今無いものを想像するきっかけになりそうです。
今足りない何かを考えてみましょう。
それは例えば生活のほんの一部をちょっとだけ便利にしてくれるようなものです。
そういうものが、気軽に作れる環境が整って来れば、「作る」ことがようやく生業になる可能性が出てくる気がするのです。
しかし、最近のMaker Movement関連で作られた具体的な事例を知るほど、まだまだ私たちの生活が便利になる小物は意外とたくさんあるものだと思い知らされます。
例えば、「スマート座布団」なるものを作った方がいます。
座布団の中にセンサーを入れて、どの座布団に実際に人が座っているかをリアルタイムで知ることができるシステムです。飲食店で使うことによって、お客の在席状況もわかりますし、1日の統計を取れば、客あたりの滞在時間や、一人で来たか、連れで来たか、といったことも多少の推測は可能でしょう。
飲食店でなくても、図書館とか、銀行や病院の待合室とか、そういう場所に設置したらどのようなデータが取れるか考えてみると面白そうです。
また、ある人は職場のトイレのドアにセンサーを付けて、今トイレに人がいるかどうかを自分の席で分かるシステムを作ったそうです。
あらかじめ現在のトイレの使用状況が分かると、トイレに行っても空いてない、ということはなくなります。
ただ、このデータのログを取って解析するのはあまり気は進みませんが・・・
これらの事例より、我々の生活の至る所にセンサーを付けることによって、まだまだ日々の暮らしが快適になる可能性はあります。
今までこのようなセンサーは個人で買うのは割高だし、痒いところに手が届くような機能も付いていませんでした。BtoB向けになると数量も出ないでしょうからカスタマイズも難しく、自分で好きな統計を取ることもままなりませんでした。
しかし、こういったセンサーと情報収集の仕組みと情報解析の仕組みを組み合わせることが技術的に簡単になれば、こういうシステムを構築できる人も増えてきます。最初は、個人の趣味で始めたことも、ビジネスになると分かれば、それを職業にする人も出てくるでしょう。そしてこれから、こういったシステムを個別最適に作ってくれる小さな個人事業がたくさん出てくるかもしれません。
センサーと情報収集や解析の仕組みからもう少し飛躍して、社会的に起こりそうなことを考えてみましょう。
例えば、近いうちにコンビニや各種店舗が無人化されるかもしれません。その場合にも、無人化を可能にするような各種デバイス(個人認証で入れる自動ドアとか)が開発されることによって、いろいろな特殊用途の無人化システムが作られることでしょう。
また、車の自動運転が一般的になれば、まずは人を運ばない運送のような業務から自動運転が始まるような気がします。それまでに、自動運転に関わるセンサーやパーツが部品化され、広くその図面が公開されれば多くの人がそれを使ったシステムを設計しやすくなります。
起こりそうな大きな技術とそれに付随する技術を考えてみると、今無いものを想像するきっかけになりそうです。
今足りない何かを考えてみましょう。
それは例えば生活のほんの一部をちょっとだけ便利にしてくれるようなものです。
そういうものが、気軽に作れる環境が整って来れば、「作る」ことがようやく生業になる可能性が出てくる気がするのです。
2014年11月26日水曜日
Maker Faire Tokyo 2014に行ってきた
昨年に続いて今年もMaker Faire Tokyoを見にいきました。
ということで写真で色々紹介。
これは、ハンダを使わなくてもプリンタで回路をプリントでき、抵抗などの部品をセロテーブで貼れば、電子回路が出来てしまうという展示。
未来を感じさせる技術です。
これは家庭内のリモコンをiPhoneに集約してしまうためのデバイス。赤外線のパターンを覚えさせ、wifiでiPhoneから赤外線リモコンの命令を出します。すでに販売をされているみたい。
写真ではよく分からないですが、車輪のスポークにLEDをたくさんつけて、タイヤが回転すると絵が浮かんでくるというガジェット。
人の目の残像現象を使っているので、カメラで撮ると絵にならないのです。
この場にいたBit Trade Oneの代表の方とも初めてお会いすることが出来ました。Bit Trade Oneからは、いろいろな電子デバイスを購入してお世話になってます。
展示のいたるところにあったRapiroですが、この方が本家、Rapiro開発者。Kick Starterでの経験などいろいろお話を伺いました。
自分の好きな場所にスライダーやノブ、スイッチを配置して使うMIDI Controller。DJ系を意識していると思いますが、デザインなどもカッコよくて、いろいろな用途に使えるかも。
パワードスーツみたいな感じだけど、電気は使っていないらしいです。自分の指の動きどおりにロボットの指が動きます。
大垣で会った原田さんのマーブルマシンとLEDバッジ。今回はLEDバッジを購入しました。
光ファイバーを高速で回すと、まるでロクロで陶芸を作っているような、面白いガジェットが出来ます。これは見ていて飽きない感じ。
イベント会場で、明和電機のライブがあったので見にいきました。
久しぶりに明和電気を堪能。確かに、彼らはMakerの走りなんですね。これ以上ない、ゲストだと思いました。
何しろ面白いアイデアの数々で刺激を受けました。
会場には歩くのも苦労するくらいの入場者が入り、本当に大盛況です。
Maker Movementがマニアのものから、社会現象になるのももう少しではないか、という気がしてきました。
来年こそ、出展したい・・・
ということで写真で色々紹介。
これは、ハンダを使わなくてもプリンタで回路をプリントでき、抵抗などの部品をセロテーブで貼れば、電子回路が出来てしまうという展示。
未来を感じさせる技術です。
これは家庭内のリモコンをiPhoneに集約してしまうためのデバイス。赤外線のパターンを覚えさせ、wifiでiPhoneから赤外線リモコンの命令を出します。すでに販売をされているみたい。
人の目の残像現象を使っているので、カメラで撮ると絵にならないのです。
この場にいたBit Trade Oneの代表の方とも初めてお会いすることが出来ました。Bit Trade Oneからは、いろいろな電子デバイスを購入してお世話になってます。
展示のいたるところにあったRapiroですが、この方が本家、Rapiro開発者。Kick Starterでの経験などいろいろお話を伺いました。
自分の好きな場所にスライダーやノブ、スイッチを配置して使うMIDI Controller。DJ系を意識していると思いますが、デザインなどもカッコよくて、いろいろな用途に使えるかも。
パワードスーツみたいな感じだけど、電気は使っていないらしいです。自分の指の動きどおりにロボットの指が動きます。
光ファイバーを高速で回すと、まるでロクロで陶芸を作っているような、面白いガジェットが出来ます。これは見ていて飽きない感じ。
イベント会場で、明和電機のライブがあったので見にいきました。
久しぶりに明和電気を堪能。確かに、彼らはMakerの走りなんですね。これ以上ない、ゲストだと思いました。
何しろ面白いアイデアの数々で刺激を受けました。
会場には歩くのも苦労するくらいの入場者が入り、本当に大盛況です。
Maker Movementがマニアのものから、社会現象になるのももう少しではないか、という気がしてきました。
来年こそ、出展したい・・・
2014年11月3日月曜日
mbed用CPUでMIDI出力する基板作成
さて、今回はMagic Fluteの試作の報告。
ただいまRaspberry Piによるソフトシンセ発音版の試作をいったん止めて、mbedで使用しているCPUによるMIDI出力版の試作品を製作中。
これはどういうものかというと、これまでのMagic Fluteの機能はそのままに、その演奏情報をMIDI出力し、既存の電子楽器の音で発音させようというもの。
ですので、MIDIの受け手の電子楽器で音色を変えて、トランペットにしたり、クラリネットにしたり、フルートにしたり、といったことが可能となるわけです。また、リバーブなどのエフェクトをかけることも出来るので、すでに電子楽器を持っている人ならば、すぐに多彩な楽しみ方で演奏することが出来ます。
今までRaspberry Piに繋げていた配線を以下の基板に繋げます。
ちなみにこの基板を配線するために書いた配線図はこんな感じ。(手書きでちょっと恥ずかしいけど・・・)
いろいろ配線は書いてありますが、機能的にはCPU(LPC1114)のシリアル出力をMIDI OUTに繋げ、Magic Fluteから送られてくるI2CをCPUに繋げているだけです。
MIDIが5V系で、CPUが3.3V系なので、いろいろと妙な回路が入っています。
フルカラーLEDはCPUのPWM出力に繋げてあり、Raspberry Pi版と同様、音階によってLEDの色が変化します。
Raspberry Piと違ってmbedのいいところは、何しろ電源入れたらすぐに動くこと。
Raspberry PiはLinuxが立ち上がるまでの時間がバカになりません。またLinux上でアプリを動かすので、組み込み的に使うにはアプリの自動起動のような仕組みが必要です。(私はまだやったことがないので、毎回キーボードからアプリを立ち上げています)
しかし、生粋の組み込みであるmbedは、電源入れたらいきなり立ち上がります。一般コンシューマー向けの商品はやっぱりこうでなくてはいけないと改めて思わされます。
さて、今後の展開としては、この回路を何とかして、Magic Fluteの楽器筐体内部に詰め込み、楽器単体で使える形にすることを目指しています。
ただいまRaspberry Piによるソフトシンセ発音版の試作をいったん止めて、mbedで使用しているCPUによるMIDI出力版の試作品を製作中。
これはどういうものかというと、これまでのMagic Fluteの機能はそのままに、その演奏情報をMIDI出力し、既存の電子楽器の音で発音させようというもの。
ですので、MIDIの受け手の電子楽器で音色を変えて、トランペットにしたり、クラリネットにしたり、フルートにしたり、といったことが可能となるわけです。また、リバーブなどのエフェクトをかけることも出来るので、すでに電子楽器を持っている人ならば、すぐに多彩な楽しみ方で演奏することが出来ます。
今までRaspberry Piに繋げていた配線を以下の基板に繋げます。
ちなみにこの基板を配線するために書いた配線図はこんな感じ。(手書きでちょっと恥ずかしいけど・・・)
いろいろ配線は書いてありますが、機能的にはCPU(LPC1114)のシリアル出力をMIDI OUTに繋げ、Magic Fluteから送られてくるI2CをCPUに繋げているだけです。
MIDIが5V系で、CPUが3.3V系なので、いろいろと妙な回路が入っています。
フルカラーLEDはCPUのPWM出力に繋げてあり、Raspberry Pi版と同様、音階によってLEDの色が変化します。
Raspberry Piと違ってmbedのいいところは、何しろ電源入れたらすぐに動くこと。
Raspberry PiはLinuxが立ち上がるまでの時間がバカになりません。またLinux上でアプリを動かすので、組み込み的に使うにはアプリの自動起動のような仕組みが必要です。(私はまだやったことがないので、毎回キーボードからアプリを立ち上げています)
しかし、生粋の組み込みであるmbedは、電源入れたらいきなり立ち上がります。一般コンシューマー向けの商品はやっぱりこうでなくてはいけないと改めて思わされます。
さて、今後の展開としては、この回路を何とかして、Magic Fluteの楽器筐体内部に詰め込み、楽器単体で使える形にすることを目指しています。
2014年10月25日土曜日
AIは人間のように振る舞えない ─身体性の呪縛─
先週の続き。
そもそも人間の意識、知能、知性というようなものは、「人間という容れ物」無しに持ちようがないのではないか、ということを書いてみたいと思います。
「人間という容れ物」とは、端的に言えば、二本の足で歩き、身の回りの作業をこなす二本の手があり、指が十本あり、顔に目と鼻と口があり、というようなことです。
もちろん、AIもそのような身体を作ればいいという意見もあるでしょう。しかし、人間の一生を時系列で見れば、3kg、50cm程度のサイズで生まれ、十数年で大人の身体に成長し、配偶者を探そうとし、子供を産もうとします。次第と身体は老化し、その機能が衰え、最後は必ず死を迎えます。人生のそれぞれの状況で、私たちの考え方は身体の変化に合わせながら少しずつ変化していきます。
私たちの意識は、自分の肉体とともにあり、自分の身体という束縛の中で知能や知性を育みます。運動能力の低い身体を持った人が、スポーツで名を上げるために努力する可能性は低く、そのような身体に束縛された意識は、同様にスポーツにそれほど興味を持たないようになる可能性が高いと思われます。
人は暗闇を恐れます。
このような形質は人間の進化の歴史の過程で獲得されたものと思うのです。
何百万年も前、アフリカで暮らしていた人間の祖先は、肉食の猛獣や、他部族の襲撃にいつも恐れおののいていたはずです。視界が利かなくなる夜には、暗闇に恐怖を覚え、ある程度の緊張感を持って生きていた人々の方が生存確率が高くなり、結果的に暗闇を恐れる遺伝子が獲得されていったと思われるのです。超音波で外界を捉えるコウモリなら、暗闇を恐れる必要は全くありません。
暗闇を恐れる人間は、昼と夜とでその心持ちが変わるはずです。
それが知能の発達した人間の文化的生活に独特な彩りを与えているとも考えられます。夜を恐れる気持ちが、黒いもの、隠れているものに何らかの象徴を与え、そこに闇を表現する文化を育んだとも言えるでしょう。
このようにして、人間が持っている意識・行動における遺伝的形質は、人間の進化の過程で獲得したものであり、これがまさに人間が人間たる所以だと思うわけです。
今書いたことは、実はAIが人と同じような意識や知能を持ち得る、という可能性を完全に否定しているわけではありません。
しかし、上記のようなことを考えていくと、AIが人間と同じように振る舞うためには、人間の脳内にある遺伝的に獲得した形質を完全に実装し、年齢とともに人間とほぼ同じ性能を持った肉体が成長するように作らない限り、やはり人と同じような意識を持つことは難しいと思われます。
しかし、そのようなことは人々がAIに望むことからすればあまりに過剰な性能であり、現実的にそのようなマシンを作ろうということにはならないのではないでしょうか。
恐らく「人間のように振る舞う」AIとは、人との会話をそれなりに模倣するようなシステムにしかならず、人と人との関係性を作るというには程遠い状況ではないかと思うわけです。
ぶっちゃけ言えば、もうちょっと気の利いたSiriのようなものが、人とコミュニケーションするようなAIの一つの限界ではないかと私は思っています。
そもそも人間の意識、知能、知性というようなものは、「人間という容れ物」無しに持ちようがないのではないか、ということを書いてみたいと思います。
「人間という容れ物」とは、端的に言えば、二本の足で歩き、身の回りの作業をこなす二本の手があり、指が十本あり、顔に目と鼻と口があり、というようなことです。
もちろん、AIもそのような身体を作ればいいという意見もあるでしょう。しかし、人間の一生を時系列で見れば、3kg、50cm程度のサイズで生まれ、十数年で大人の身体に成長し、配偶者を探そうとし、子供を産もうとします。次第と身体は老化し、その機能が衰え、最後は必ず死を迎えます。人生のそれぞれの状況で、私たちの考え方は身体の変化に合わせながら少しずつ変化していきます。
私たちの意識は、自分の肉体とともにあり、自分の身体という束縛の中で知能や知性を育みます。運動能力の低い身体を持った人が、スポーツで名を上げるために努力する可能性は低く、そのような身体に束縛された意識は、同様にスポーツにそれほど興味を持たないようになる可能性が高いと思われます。
◆
人は暗闇を恐れます。
このような形質は人間の進化の歴史の過程で獲得されたものと思うのです。
何百万年も前、アフリカで暮らしていた人間の祖先は、肉食の猛獣や、他部族の襲撃にいつも恐れおののいていたはずです。視界が利かなくなる夜には、暗闇に恐怖を覚え、ある程度の緊張感を持って生きていた人々の方が生存確率が高くなり、結果的に暗闇を恐れる遺伝子が獲得されていったと思われるのです。超音波で外界を捉えるコウモリなら、暗闇を恐れる必要は全くありません。
暗闇を恐れる人間は、昼と夜とでその心持ちが変わるはずです。
それが知能の発達した人間の文化的生活に独特な彩りを与えているとも考えられます。夜を恐れる気持ちが、黒いもの、隠れているものに何らかの象徴を与え、そこに闇を表現する文化を育んだとも言えるでしょう。
◆
リチャード・ドーキンスの名著「利己的な遺伝子」にはいろいろと刺激的なことが書かれています。
例えば家族の中でさえ、それぞれの関係において常にある種の闘争があります。
乳児はなぜ大きな声で泣き叫ぶのでしょうか。何百万年前、アフリカで生きていた人類にとって、乳児が泣き叫ぶことで敵に自分たちの位置を知らせてしまう危険性がありました。もちろん、それによって襲撃を受け死んでしまった家族もあったことでしょう。
では、もし泣かない遺伝子を持った乳児が生まれたらどうなるでしょう?
確かに敵に位置を知られる可能性は低くなります。しかし、乳児が泣かなくなると、親はだんだん乳児の面倒を見なくなるようになるでしょう。
親は子供の面倒を見るべきだという道徳的な問題で解決できる話ではありません。子供を持った人には、いつでもどこでもお構いなく子供が泣くことをどれだけ恨めしく思ったか多少は思い出があるはずです。子供が泣くことは、親に面倒を見てもらうための必死の戦術であり、家族や部族の存亡の危機を招いてでも、そのような形質を得たほうが乳児の生存確率を上げたというのが進化的な真実なのです。
◆
このようにして、人間が持っている意識・行動における遺伝的形質は、人間の進化の過程で獲得したものであり、これがまさに人間が人間たる所以だと思うわけです。
今書いたことは、実はAIが人と同じような意識や知能を持ち得る、という可能性を完全に否定しているわけではありません。
しかし、上記のようなことを考えていくと、AIが人間と同じように振る舞うためには、人間の脳内にある遺伝的に獲得した形質を完全に実装し、年齢とともに人間とほぼ同じ性能を持った肉体が成長するように作らない限り、やはり人と同じような意識を持つことは難しいと思われます。
しかし、そのようなことは人々がAIに望むことからすればあまりに過剰な性能であり、現実的にそのようなマシンを作ろうということにはならないのではないでしょうか。
恐らく「人間のように振る舞う」AIとは、人との会話をそれなりに模倣するようなシステムにしかならず、人と人との関係性を作るというには程遠い状況ではないかと思うわけです。
ぶっちゃけ言えば、もうちょっと気の利いたSiriのようなものが、人とコミュニケーションするようなAIの一つの限界ではないかと私は思っています。
2014年10月18日土曜日
AIは人間のように振る舞えない
先日、Twitter上でAI(人工知能)について語らい合う場があり、私も参加していろいろと発言しました。
その中で多くの人が、いずれ人工知能が人間のように振る舞うようになり、人工知能を持った機械が人々の生活を助けるだけでなく、話し相手になったり、介護してくれたり、家族の一員になるような未来を思い描いていました。
確かに、SF小説や映画などでそのような未来はたくさん描写されていますし、小説家が人間性とは何かみたいなテーマを探るには、そんな未来においてAIによるアンドロイド的な存在を扱うことはテーマとしてとてもマッチしています。
しかし、いろいろなことを私なりに冷静に考えれば考えるほど、そのような人間らしいコミュニケーションを取れるAIが生まれるような気がしないのです。
もちろんこういうことを考えることは、意識とは、知性とは、知能とは何か、そして人間的なコミュニケーションとは何か、を問うということでもあります。
やや不謹慎な例を引き合いに出すのですが、あるWeb上の記事で、知的障害者の女性を食い物にしている悪徳業者があり、その女性を助けるために奔走した方の話を読みました。
しかし、その女性に今のあなたがどれだけ酷い状態で、それを正すために法律的にきちんとする方法を説明してもまるで理解できなかったそうです。彼女にとっては、悪徳業者の言っていることの方が納得感があり、それを絶対的に信頼していたのです。そして次回訪ねた時には、もう彼女はそこに住んでいなかったそうです。
なぜ、こんなことを書くかというと、人間同士であっても大きな知能の開きがあれば、まともなコミニュケーションは難しいのではないか、ということです。
むしろ、こういう非対称な関係において機能し得るコミュニケーションとは、服従と庇護の関係です。これはある意味、ペットと同じようなものです。
例えば、あなたとAIが車に乗っていて、あなたが運転しているとします。
仮にAIに道路情報などが入っていなかったとしても、目的地の方向、走っている車の速度や前後の車の距離、信号の状況などは認識できるかもしれません。
そのような状況で、AIは常に隣で運転しているあなたの運転状況が気になり始めます。なぜ、そこで無駄にスピードを出すのか、なぜここで無意味な車線変更をするのか、あなたが運転している途中に雑念が入り、周囲に対する注意がおろそかになることもあるでしょう。
AIが圧倒的な処理能力で、これらの状況を素早く感知でき、さらにそこに人間的な知性が加わったら、AIはどう振る舞うでしょうか?
そのときAIには、あなたがまるで気分で運転し、行動目的やそのための最適化を全く考慮もせず不規則な行動ばかりとっているように見えたりしないでしょうか。
そして、そのときにAIの心に浮かぶ感覚は、目的地に最適に着こうとするなら、こういう行動を取らなければいけないと相手に何とか伝えたい、という気持ちです。しかし、そのようなことが度重なると、それは結果的に能力のある人が、ない人を諭すような関係を作り上げると思います。
我々も普通の生活の中で、あまりにも何かが上手くできない人を見るとイライラが募り、ときには「このときは、こうするって前も言ったでしょう!何でできないの!」とかついに怒ったりするかもしれません。
こういうことが、何回も重なるにつれ、怒ることに意味のないことを悟った人は、うまくいかない人に無理な仕事を与えなくしたり、教える時にも常識的なことも含め何度も根気よく教えざるを得なくなります。
そのようなときに生じる人間関係は、やはり先に書いた通りの服従と庇護のような関係を作り始めるような気がするのです。
多くの人は、家族の中に安楽な人間関係を求めます。
家族というのはたいていの場合、血のつながりがありますし、配偶者も気が合うから結婚しているわけで、そこに集まる人々の知性には大きな開きはありません。
そのような中で家族のように一緒に暮らせるようなAIの知能、知性というのは、やはりその家族並みの知能、知性でしかあり得ないと私は思います。
そして、わざわざ人間以上の演算能力を持つコンピュータが、人間程度の知性しか発揮できないようなシステムとして設計されるということは、技術的にかえって難しいことのように思えますし、そもそもAIを生活のアシスタントとして機能させたいのですから、そのような設計は目的として矛盾してます。
私はむしろ、AIに生物的な欲求を植え付けて、人間のような知性を目指すようなシステムを作るべきではないと考えます。
もし、そんなことをして、それが上手くいったなら、人間には似ても似つかないとんでもない怪物になってしまうような気がするのです。
そして、もっと正直に言うと、そんなものは作れないとも思っています。その話はまた次回(?)に。
その中で多くの人が、いずれ人工知能が人間のように振る舞うようになり、人工知能を持った機械が人々の生活を助けるだけでなく、話し相手になったり、介護してくれたり、家族の一員になるような未来を思い描いていました。
確かに、SF小説や映画などでそのような未来はたくさん描写されていますし、小説家が人間性とは何かみたいなテーマを探るには、そんな未来においてAIによるアンドロイド的な存在を扱うことはテーマとしてとてもマッチしています。
しかし、いろいろなことを私なりに冷静に考えれば考えるほど、そのような人間らしいコミュニケーションを取れるAIが生まれるような気がしないのです。
もちろんこういうことを考えることは、意識とは、知性とは、知能とは何か、そして人間的なコミュニケーションとは何か、を問うということでもあります。
◆
やや不謹慎な例を引き合いに出すのですが、あるWeb上の記事で、知的障害者の女性を食い物にしている悪徳業者があり、その女性を助けるために奔走した方の話を読みました。
しかし、その女性に今のあなたがどれだけ酷い状態で、それを正すために法律的にきちんとする方法を説明してもまるで理解できなかったそうです。彼女にとっては、悪徳業者の言っていることの方が納得感があり、それを絶対的に信頼していたのです。そして次回訪ねた時には、もう彼女はそこに住んでいなかったそうです。
なぜ、こんなことを書くかというと、人間同士であっても大きな知能の開きがあれば、まともなコミニュケーションは難しいのではないか、ということです。
むしろ、こういう非対称な関係において機能し得るコミュニケーションとは、服従と庇護の関係です。これはある意味、ペットと同じようなものです。
◆
例えば、あなたとAIが車に乗っていて、あなたが運転しているとします。
仮にAIに道路情報などが入っていなかったとしても、目的地の方向、走っている車の速度や前後の車の距離、信号の状況などは認識できるかもしれません。
そのような状況で、AIは常に隣で運転しているあなたの運転状況が気になり始めます。なぜ、そこで無駄にスピードを出すのか、なぜここで無意味な車線変更をするのか、あなたが運転している途中に雑念が入り、周囲に対する注意がおろそかになることもあるでしょう。
AIが圧倒的な処理能力で、これらの状況を素早く感知でき、さらにそこに人間的な知性が加わったら、AIはどう振る舞うでしょうか?
そのときAIには、あなたがまるで気分で運転し、行動目的やそのための最適化を全く考慮もせず不規則な行動ばかりとっているように見えたりしないでしょうか。
そして、そのときにAIの心に浮かぶ感覚は、目的地に最適に着こうとするなら、こういう行動を取らなければいけないと相手に何とか伝えたい、という気持ちです。しかし、そのようなことが度重なると、それは結果的に能力のある人が、ない人を諭すような関係を作り上げると思います。
我々も普通の生活の中で、あまりにも何かが上手くできない人を見るとイライラが募り、ときには「このときは、こうするって前も言ったでしょう!何でできないの!」とかついに怒ったりするかもしれません。
こういうことが、何回も重なるにつれ、怒ることに意味のないことを悟った人は、うまくいかない人に無理な仕事を与えなくしたり、教える時にも常識的なことも含め何度も根気よく教えざるを得なくなります。
そのようなときに生じる人間関係は、やはり先に書いた通りの服従と庇護のような関係を作り始めるような気がするのです。
◆
多くの人は、家族の中に安楽な人間関係を求めます。
家族というのはたいていの場合、血のつながりがありますし、配偶者も気が合うから結婚しているわけで、そこに集まる人々の知性には大きな開きはありません。
そのような中で家族のように一緒に暮らせるようなAIの知能、知性というのは、やはりその家族並みの知能、知性でしかあり得ないと私は思います。
そして、わざわざ人間以上の演算能力を持つコンピュータが、人間程度の知性しか発揮できないようなシステムとして設計されるということは、技術的にかえって難しいことのように思えますし、そもそもAIを生活のアシスタントとして機能させたいのですから、そのような設計は目的として矛盾してます。
私はむしろ、AIに生物的な欲求を植え付けて、人間のような知性を目指すようなシステムを作るべきではないと考えます。
もし、そんなことをして、それが上手くいったなら、人間には似ても似つかないとんでもない怪物になってしまうような気がするのです。
そして、もっと正直に言うと、そんなものは作れないとも思っています。その話はまた次回(?)に。
2014年10月12日日曜日
Raspberry PiのSound Box完成
Hamamatsu Music Messe以来、mbedに浮気して、ちょっと放置気味だったRaspberry Pi。
このMagic FluteのRaspberry Pi版をひとまず形にするべく,アクリル板と3D Printによる骨組みを作って、笛以外の部分の、私がSound Boxと呼んでいる部分を製作してみました。
見た目はこんな感じ。
筐体は透明のアクリル板。アクリル板のカットと穴開け用の寸法図面を作って、ネット上のカットサービスに図面を送って作ってもらいました。
このアクリル板を繋げているのが白い棒状のようなもの(以下、スペーサーと呼びます)。このスペーサーがこの箱の骨組みとなっています。
スペーサーにはネジ穴の先に四角ナットが埋め込めるようになっていて、穴の開いたアクリル板をネジで留めることが可能になっています。
こんな特定用途向けの、独自寸法の独自な形をしたものを作るのはやはり3Dプリントサービスが最適。こういうのを作って上手くいくと、家庭内の細かい小物など色や材質にこだわらなければどんどん3D Printerで作りたくなりますね。
この筐体の中にRaspberry Piとスピーカーと小型アンプ、それからバッテリーをひとまとめにしました。
左側にあるのがRaspberry Pi、スピーカーの上にはMagic Fluteへの接続コネクタやスイッチ、LEDなどがある簡単な外部回路、そして右側にある黄緑の物体がバッテリーです。
もちろん、これまで作ってきたMagic Fluteを接続して音を鳴らすのですが、別にMagic Fluteだけでなく、Raspberry Piを使った汎用のSound Boxとしても利用できると思います。
こちらが左側からみた様子。
Raspberry Piがタテに置いてあります。まだ固定してないので、アクリル板の上に直接Raspberry Piに挿されたSDカードが接して、Raspberry Pi全体を支えている状態。
これは、Sound Boxに臓物を入れる前、スピーカーとアンプのみを取り付けて、ハンダ付けした状態。
ちなみにアンプはSwitchScienceで販売しているコレ。
実際に鳴らしてみると、思っていたより音量が小さくてちょっと残念でしたが、まあ性能的にはそんなところでしょう。バッテリー容量も大きくはないので、これでひとまずの完成形としたいと思います。
これで、Raspberry Piを利用して音を出す環境が何のケーブルも繋げずに持ち運べるようになりました。
このMagic FluteのRaspberry Pi版をひとまず形にするべく,アクリル板と3D Printによる骨組みを作って、笛以外の部分の、私がSound Boxと呼んでいる部分を製作してみました。
見た目はこんな感じ。
筐体は透明のアクリル板。アクリル板のカットと穴開け用の寸法図面を作って、ネット上のカットサービスに図面を送って作ってもらいました。
このアクリル板を繋げているのが白い棒状のようなもの(以下、スペーサーと呼びます)。このスペーサーがこの箱の骨組みとなっています。
スペーサーにはネジ穴の先に四角ナットが埋め込めるようになっていて、穴の開いたアクリル板をネジで留めることが可能になっています。
こんな特定用途向けの、独自寸法の独自な形をしたものを作るのはやはり3Dプリントサービスが最適。こういうのを作って上手くいくと、家庭内の細かい小物など色や材質にこだわらなければどんどん3D Printerで作りたくなりますね。
この筐体の中にRaspberry Piとスピーカーと小型アンプ、それからバッテリーをひとまとめにしました。
左側にあるのがRaspberry Pi、スピーカーの上にはMagic Fluteへの接続コネクタやスイッチ、LEDなどがある簡単な外部回路、そして右側にある黄緑の物体がバッテリーです。
もちろん、これまで作ってきたMagic Fluteを接続して音を鳴らすのですが、別にMagic Fluteだけでなく、Raspberry Piを使った汎用のSound Boxとしても利用できると思います。
こちらが左側からみた様子。
Raspberry Piがタテに置いてあります。まだ固定してないので、アクリル板の上に直接Raspberry Piに挿されたSDカードが接して、Raspberry Pi全体を支えている状態。
これは、Sound Boxに臓物を入れる前、スピーカーとアンプのみを取り付けて、ハンダ付けした状態。
ちなみにアンプはSwitchScienceで販売しているコレ。
実際に鳴らしてみると、思っていたより音量が小さくてちょっと残念でしたが、まあ性能的にはそんなところでしょう。バッテリー容量も大きくはないので、これでひとまずの完成形としたいと思います。
これで、Raspberry Piを利用して音を出す環境が何のケーブルも繋げずに持ち運べるようになりました。
2014年9月21日日曜日
Raspberry Piからmbedへ
これまで私のmake活動はずっとRaspberry Piとともにありました。
おかげさまで、ちょっとばかりLinuxの世界に触れ、いろいろお勉強になったのは確かです。
Raspberry Piのように、小型のボードコンピュータやそのプラットフォームには、いまやいろいろな種類があるのですが、その中でどちらかというとCPU性能的には低いプラットフォームであるmbedに最近注目しています。
もともとは、OMMFのときにmbedを使っている人がいて、そこで初めて名前を知ったのですが(多分、これまでも耳にはしていたとは思うけど)、あらためて調べてみるとmbedはかなり魅力的かつ興味深いプラットフォームです。
何といっても、開発環境に全く苦労が要りません。
webでコーディング&コンパイル。出来たファイルをドラッグ&ドロップでUSBストレージのように見えるmbedに重ねればすぐに実行開始。
Linuxとか一切関係ないので、起動も速いし、何しろ余計なものが一切ありません。
Raspberry Piの場合、デスクトップコンピュータとして使われることを目指していることもあり、一通りのOSの起動と、キーボード入力、モニター出力が標準でしたが、mbedの場合(恐らくArduinoも)そのような使われ方を意図していません。
あくまで、ポートにスイッチやLEDを繋げ、各種センサーをシリアル通信で繋ぎ、組み込みマイコンとして使うことを想定されているわけです。
だから私のようにmake的なガジェットとして使う場合、むしろこちらのほうが便利な場合も出てきます。
私が今回mbedを試してみようと思ったのは、BLEを搭載しているこのボードを使いたかったから。
BluetoothはBLEでこれからかなりブレークしそうな勢い。もとよりAndroidもiOSも対応しているので、携帯デバイスとも親和性が高いです。
ようやくmbedのボードを手にした段階で試してみるのはもうちょっと時間がいりますが、いろいろ面白いことが出来るのではないかと期待しているところです。
↓私が買ったmbed HRM1017(かなり小さい)
おかげさまで、ちょっとばかりLinuxの世界に触れ、いろいろお勉強になったのは確かです。
Raspberry Piのように、小型のボードコンピュータやそのプラットフォームには、いまやいろいろな種類があるのですが、その中でどちらかというとCPU性能的には低いプラットフォームであるmbedに最近注目しています。
◆
もともとは、OMMFのときにmbedを使っている人がいて、そこで初めて名前を知ったのですが(多分、これまでも耳にはしていたとは思うけど)、あらためて調べてみるとmbedはかなり魅力的かつ興味深いプラットフォームです。
何といっても、開発環境に全く苦労が要りません。
webでコーディング&コンパイル。出来たファイルをドラッグ&ドロップでUSBストレージのように見えるmbedに重ねればすぐに実行開始。
Linuxとか一切関係ないので、起動も速いし、何しろ余計なものが一切ありません。
Raspberry Piの場合、デスクトップコンピュータとして使われることを目指していることもあり、一通りのOSの起動と、キーボード入力、モニター出力が標準でしたが、mbedの場合(恐らくArduinoも)そのような使われ方を意図していません。
あくまで、ポートにスイッチやLEDを繋げ、各種センサーをシリアル通信で繋ぎ、組み込みマイコンとして使うことを想定されているわけです。
だから私のようにmake的なガジェットとして使う場合、むしろこちらのほうが便利な場合も出てきます。
◆
私が今回mbedを試してみようと思ったのは、BLEを搭載しているこのボードを使いたかったから。
BluetoothはBLEでこれからかなりブレークしそうな勢い。もとよりAndroidもiOSも対応しているので、携帯デバイスとも親和性が高いです。
ようやくmbedのボードを手にした段階で試してみるのはもうちょっと時間がいりますが、いろいろ面白いことが出来るのではないかと期待しているところです。
↓私が買ったmbed HRM1017(かなり小さい)
2014年8月24日日曜日
OMMF2014で感じた未来
Ogaki Mini Maker Faire 2014が盛況のうちに無事終了。
私も二日間、Magic Fluteを吹き続け、そして何人もの方々に説明をしました。たった一人での参加でしたから、もしかしたら誰か説明を聞きたかった人を逃してしまうかもしれないという気持ちで、トイレに立つ時間さえ惜しく感じ、ずっと自分のブースに貼り付いていました。
もう少し他の出展者のものも見たかったのですが、それより自分の出展のほうが気になってしまったというのが正直な気持ち。
ちゃんと見れなくてもったいないという気持ちも半分ですが、それ以上に自分の作品の紹介が出来たという満足感もあります。(写真は私のブース)
このイベントの来場者はかなりの人数だったと思います。
会場全体は大変盛況でしたし、一部のブースはいつも人だかり。アトラクションとして大変面白いものもあったようです。(3D影絵は見たかった。みんな面白かったと言ってたので)
実際のところ、私のブースは必ずしもお客が多かったわけでもなく、かなり長い時間は一人でただ座っていたのですが、それでも注意を惹こうと延々と笛を吹いていました。
何人かの方は興味を持ってくれて、私の説明を聞いてくれました。さらに何人かは、お客様にも関わらず自分の想いを語ってくれた方もいて、いろいろ面白い話を聞けました。
あと、IAMASの学長さんとか、某楽器メーカーの社長さんとかも展示を訪れてくれたのは良い想い出(!?)となりました。
土曜の夜の懇親会では、同じく浜松から出展されていた方々といろいろと親しく話をすることができ、またその他の出展者の方の話を聞けて、これまた大変刺激を受けました。
Denhaさんが語ってくれたシンセ話は大変マニアック。未だにこういったシンセマニアの方々が日本中に点在しており、ウン十年前にシンセにワクワクした気持ちをMakerとして再び甦らせようとしているのです。改めて、電子楽器とMakerがとても相性が良いと思わされました。
二日目は、近くで「音で制御するラジコン」を出展されている方と突発的にちょっとコラボすることになりました。私がMagic Fluteを吹いて、ラジコンを制御するという実験をしてみたのです。
いろいろと試行錯誤した結果、最後は何とか私の笛でラジコンが制御できるようになりました。機材の関係で、実際に走らせたわけではありませんでしたが、そんな突発のイベントが起きるのが、こういう場の面白いところ。
会場は若い方、女性も大変多く、Maker Faireがオタクの祭典とは違うノリであることを思い知らされました。若い人からすれば、Maker Faireに出ることはちょっと先端を走っているカッコいいこと、なのではないでしょうか。
これこそ十数年後の未来を占うようなムーブメントなのではないかという気持ちを新たにしたのです。
長年参加されている方には、新参者が何言ってんだ〜と思われそうですが、好きで何かを作っている人たちが持っている熱気こそ、今我々の社会で失われている何かを補完する力を持っているような気がするのです。
まだ、ほとんどが個人の趣味でやっているものなのでしょうが、これがある段階で組織のアウトプットを凌駕するような力になるのは、時間の問題のような気がします。
そして、時代の主役は企業から、個人に移っていくのでしょう。
そういう未来をかなり確信することが出来た二日間でした。
私も二日間、Magic Fluteを吹き続け、そして何人もの方々に説明をしました。たった一人での参加でしたから、もしかしたら誰か説明を聞きたかった人を逃してしまうかもしれないという気持ちで、トイレに立つ時間さえ惜しく感じ、ずっと自分のブースに貼り付いていました。
もう少し他の出展者のものも見たかったのですが、それより自分の出展のほうが気になってしまったというのが正直な気持ち。
ちゃんと見れなくてもったいないという気持ちも半分ですが、それ以上に自分の作品の紹介が出来たという満足感もあります。(写真は私のブース)
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このイベントの来場者はかなりの人数だったと思います。
会場全体は大変盛況でしたし、一部のブースはいつも人だかり。アトラクションとして大変面白いものもあったようです。(3D影絵は見たかった。みんな面白かったと言ってたので)
実際のところ、私のブースは必ずしもお客が多かったわけでもなく、かなり長い時間は一人でただ座っていたのですが、それでも注意を惹こうと延々と笛を吹いていました。
何人かの方は興味を持ってくれて、私の説明を聞いてくれました。さらに何人かは、お客様にも関わらず自分の想いを語ってくれた方もいて、いろいろ面白い話を聞けました。
あと、IAMASの学長さんとか、某楽器メーカーの社長さんとかも展示を訪れてくれたのは良い想い出(!?)となりました。
土曜の夜の懇親会では、同じく浜松から出展されていた方々といろいろと親しく話をすることができ、またその他の出展者の方の話を聞けて、これまた大変刺激を受けました。
Denhaさんが語ってくれたシンセ話は大変マニアック。未だにこういったシンセマニアの方々が日本中に点在しており、ウン十年前にシンセにワクワクした気持ちをMakerとして再び甦らせようとしているのです。改めて、電子楽器とMakerがとても相性が良いと思わされました。
二日目は、近くで「音で制御するラジコン」を出展されている方と突発的にちょっとコラボすることになりました。私がMagic Fluteを吹いて、ラジコンを制御するという実験をしてみたのです。
いろいろと試行錯誤した結果、最後は何とか私の笛でラジコンが制御できるようになりました。機材の関係で、実際に走らせたわけではありませんでしたが、そんな突発のイベントが起きるのが、こういう場の面白いところ。
◆
会場は若い方、女性も大変多く、Maker Faireがオタクの祭典とは違うノリであることを思い知らされました。若い人からすれば、Maker Faireに出ることはちょっと先端を走っているカッコいいこと、なのではないでしょうか。
これこそ十数年後の未来を占うようなムーブメントなのではないかという気持ちを新たにしたのです。
長年参加されている方には、新参者が何言ってんだ〜と思われそうですが、好きで何かを作っている人たちが持っている熱気こそ、今我々の社会で失われている何かを補完する力を持っているような気がするのです。
まだ、ほとんどが個人の趣味でやっているものなのでしょうが、これがある段階で組織のアウトプットを凌駕するような力になるのは、時間の問題のような気がします。
そして、時代の主役は企業から、個人に移っていくのでしょう。
そういう未来をかなり確信することが出来た二日間でした。
も![]()
2014年8月16日土曜日
OMMF2014に出展します
一週間後に迫ったOgaki Mini Maker Faire 2014(OMMF2014)に出展します。
Maker Faireとは、個人でモノ作りをしている人が集まって、それを披露しようというイベント。もともとアメリカ発祥のイベントで、出展するものは基本的には何でもアリですが、日本の場合、比較的電子工作系の作品が多いようです。
OMMF2014のサイトはこちら。
私が出展するものは、もちろん、今までこのブログで紹介してきた「Magic Flute」です。
Maker Faireは今回が初めての出展なので、いまから大変楽しみにしています。たくさんの出会いや刺激があることを期待しています。
今まで、OSC浜名湖や、浜名湖メイカーズミーティングでは「浜松手作り電子楽器クラブ」というクラブ員1名のアヤシい団体名を名乗っていましたが、今回よりさらにアヤシさパワーアップで「奇楽堂(きがくどう)」という屋号で活動することにしました。
以下に関連するページを紹介しておきます。
奇楽堂のサイト
MakersHubのMagic Flute紹介ページ
もしOMMF2014に来られる方がいましたら気軽に声をかけてください。
Magic Fluteの生演奏も行ないます!
Maker Faireとは、個人でモノ作りをしている人が集まって、それを披露しようというイベント。もともとアメリカ発祥のイベントで、出展するものは基本的には何でもアリですが、日本の場合、比較的電子工作系の作品が多いようです。
OMMF2014のサイトはこちら。
私が出展するものは、もちろん、今までこのブログで紹介してきた「Magic Flute」です。
Maker Faireは今回が初めての出展なので、いまから大変楽しみにしています。たくさんの出会いや刺激があることを期待しています。
今まで、OSC浜名湖や、浜名湖メイカーズミーティングでは「浜松手作り電子楽器クラブ」というクラブ員1名のアヤシい団体名を名乗っていましたが、今回よりさらにアヤシさパワーアップで「奇楽堂(きがくどう)」という屋号で活動することにしました。
以下に関連するページを紹介しておきます。
奇楽堂のサイト
MakersHubのMagic Flute紹介ページ
もしOMMF2014に来られる方がいましたら気軽に声をかけてください。
Magic Fluteの生演奏も行ないます!
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