2013年1月27日日曜日

音楽の記号的側面 -曲を作る立場から-

音楽の価値について四六時中考えている作曲家なら、音楽が記号的にしか扱われないことは嘆かわしい事態だし、もっと音楽そのものの価値を理解して欲しい、と考えているのかもしれません。
実際、長い間私もそう考えてきたし、前回書いたような権威筋の意見とか、単なる刷り込みといった要因で音楽の価値に惑わされるなんて、単に感性が弱いだけだ、と吠え続けていたような気がします。

もちろんその考えは今でも思い続けているものの、音楽を記号的に扱う、ということは社会的に避けては通れないし、現実問題、もっと寛容に考えていかないといけないのではないかとも思っています。

専門を追求するからこそ、世間一般の常識からかけ離れてしまうことは良くあること。
特に現代のようにあまねく音楽が世界に行き渡り、低俗なものほど受け入れられる現実に直面し、思索に思索を重ねた音楽ほど疎まれてしまうことに日々悶々としている若手作曲家なら、ますますそういう現実を受け入れられず一人理想の世界に閉じこもってしまうものです。
でも私たちは現実に生きているのだから、現実は受け入れなければいけません。
世の中で起きていることが、本当のことなのです。自分の理想の世界は、自分の頭の中だけでしか正義たり得ないのです。

それでは、もし作曲家の立場で、音楽が記号的に消費されることをある程度受け入れるのなら、彼らはどのような態度を取ることになるでしょうか。

まず、ジングルのような短いフレーズなど、アカデミックな立場では音楽的価値がないものと思われるようなものを肯定するようになるでしょう。
もっとも日本のように街のあちらこちらで注意喚起の音楽が鳴るのは閉口しますが、このように音楽が使われることに対して一定の理解を示す必要はあるでしょう。

もう一つは、単純な音楽をバカにしない態度にも繋がるでしょう。
アイドルが可愛くあるいはセクシーに踊る音楽は、もはや音楽の価値だけで論じることは不可能な領域です。であれば、そのような音楽に対して音楽的に批判すること自体がナンセンスなこと。
もっと言えば、女の子との魅力を引き立てるためには、どのように音楽を作れば無駄に邪魔をしないのか、などと二重にひねくれた音楽の鑑賞をする必要も出てくるかもしれません。

現在の音楽は、ほとんどそのような流行歌で成り立っています。
短期間で消費されるとは言え、ポップスのような流行歌にも出来不出来があるし、芸術音楽にくらべればその社会的な影響は計り知れません。
音楽家であるなら、そのような音楽を常に軽蔑の眼差しで見てしまう態度の方が、一般の人からみれば嫌みなように見えてしまうものです。

最後に、音楽の記号的側面の受容は、作曲家の作品そのものにも影響を与えるでしょう。
泣きのメロディは、芸術音楽にとって低俗であると見なされやすいのですが、クラシック音楽でさえ泣きのメロディが好まれるのなら、そういうメロディを自分の納得する範囲内で追求すべきなのかもしれません。
ヒンデミットがチャイコフスキーを低俗だと批判した気持ちは分らないでもないけれど、それでもやはりチャイコフスキーの泣きのメロディは多くの人を魅了しているのです。

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