芸術とは何か、と問われたとき、その根本は「何かを伝える」ということなのだと思います。
人は他人に何かを伝えるために、言語という手段を持っています。そして数千年前に、文字という手段も手に入れました。
単純なメッセージや情報なら、そのことをそのまま言葉や文字で伝えれば良いのですが、伝え方そのものをもっと洗練させたり、同時にたくさんの人に同じことを伝えたり、あるいは言語表現で伝え切れない部分を印象として伝えるために、表現が様式化したものが芸術である、と言えるのではないでしょうか。
ところが、芸術の表現方法が様式化することで、そもそも何かを伝えたいという本質が抜け落ち、様式の追究が行なわれてしまうことが往々にして発生してしまいます。
残念ながら、人は数段先のスコープを見渡せる人と、近場のことしか見渡せない人がいるのです。そして近場のことしか見渡せない人々は、芸術活動を行ったときに、様式の追究だけに陥りがちです。
表現の奥にある伝えたい何か、とはそもそも何なのでしょうか?
もちろん、平和と反戦とか、仲間は大事だとか、苦しいこともがあっても頑張ろう、とか、まあそういった類いの分かりやすい主張を語る人も多いですが、どこか浅薄で借り物っぽい感じを受けてしまいます。
私たちは普段生きている中で、もっと人間として、生物として、どうしようもない激情に翻弄されていて、私たちが本当に望んでいることはもっとドロドロとしたマグマのような本能的なものではないか、という気もします。フロイトの言うところの"es"です。
そもそも、自分が芸術を通して伝えたいことが、たった一言で語れてしまうようであれば、そんなまどろっこしい方法で表現しなくても良いのです。
ただし、芸術活動を通して、やや具体的な政治的主張を表現したい場合もあるでしょう。日本ではあまり一般的ではないですが、ある政治的主張をするために、他人の心を揺さぶるために芸術的表現を借りることは有効な手段であると思います。
それでも、私たちが本当に伝えたいことは政治的に正しい倫理的主張だけではない、と私は信じています。
では、私なら何を伝えたいのだろう・・・とちょっと自問してみましょう。
恐らく20代くらいまでは、私はある種の理想社会(それは退廃的な世界観とも円環的に繋がっている)や、理想的な恋愛対象に対する憧れを表現したかったような気がします。若さゆえの理想の追求です。
30代以降、いわゆる理系的性向と合わさることで、宇宙、生物といった先端科学の中に、世の中の基本定理や、神の存在などを見出だそうとするような方向性が追加されてきました。理想の追求がより普遍的、抽象的になってきたのかもしれません。
もちろん、これは具体的な作品名や、作曲で選ぶテキストの話にとどまりません。ごく一般的な詩を使って曲を書いたとしても、私自身のそういった傾向が曲中に盛り込まれていると思っています。
例えば、30代以降、フーガっぽい表現を使うことが多くなりました。
これはある種、複雑なものを秩序で統括したいという意識の現れであり、音楽的効果だけでなく、フーガという形式そのものが論理性を要求し、高度な知性を要求する、といったような世界観を目指しているように感じます。
こうやって自問自答してみると、必ずしも私の芸術的主張は明確な社会的主張を持っていないのだけれど、私でしか表現出来ない何かを追究しているようにも思えます。
このように全ての表現者が自分は何を表現したいのか、を考えてみることは大事だと思うし、それは結局自分自身の存在意義を再確認する作業でもあると思います。
これから世界は、全ての人々が芸術家であらねばならないことを要求される社会に移行する、と私は本気で思っています。
芸術の世界に身を置く人たちは、そういう意味で最先端の場所にいます。だからこそ、最先端に居続けるためにも、自分とは何かを常に問い続けるべきだと思います。
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