二日前にsasakure.UKというボカロPのアルバムを購入。タイトルは「トンデモ未来空奏図」。おふざけっぽいタイトルだけど、こういう言葉使いは好き。実際に音楽を聴いてみると、いわゆるボカロ系のフォーマットに従っているものの、何か親近感を覚えるようなセンスを感じました。
恐らく、彼はどちらかと言うと、一人で部屋の中で自分だけの世界を育てることに喜びを感じる類いの人で、逆に何人かでバンドを組んでカッコ良く演奏して人前で目立ちたい、というところから音楽を始めた人では無いのだと思います。
こういうタイプの人は、実は表現手段が音楽であること自体、偶然の産物であり、多感な時期に何に触れていたか(sasakure.UKさんは合唱らしい)、それによってその表現手段が決まっていたに過ぎません。
しかし、いずれ何かしら表現の世界に入ることは確実で、もしかしたらそれは小説だったかもしれないし、絵画だったのかもしれません。
実際、音楽活動をしている(た)作家は意外と多いです。彼らにとっては「表現する」ということだけが本質なのであり、音楽か文章かというのはただの手段に過ぎないのかもしれません。
ボーカロイド技術はそのような人々にとって大きな福音でした。
小説、詩、短歌などの文芸、絵画、彫刻などの美術系に比べると、音楽はどうしても演奏する必要があり、いわゆる創作が一人で完結するタイプの芸術ではなかったのです。そういう意味では、ダンスやパフォーマンスとか、演劇とか、映画製作とか、そういうタイプの芸術に近かったわけです。
しかし、シンセサイザーや多重録音技術から始まり、DAWでの打ち込み、そして最後の砦のボーカルが電子的に生成することが可能になったところで、ついに一人の作家が最終成果物まで完成することが可能になったのです。
これはやや極端なことを言うと、音楽史においても大きなインパクトになり得る事態ではないでしょうか。
音楽はすでに、ここ百年くらいのオーディオ技術の進歩によって鑑賞が複数から個人的なものに変化していました。
そして、ここ10年くらいのデジタル技術の進歩は、音楽製作そのものを個人的な活動に変化させてしまいました。
つまり、これで作家から消費者への一対一のダイレクトな伝達が可能になったのです。これは、音楽が美術や文芸などと同じレベルの鑑賞方法に変わったことを意味します。
恐らくこれから音楽は二つの方向に分かれるのだと思います。
作家から個人への一対一の伝達である音楽と、演奏家のパフォーマンスを観客が楽しむタイプの音楽の二つです。
結果的に、前者は文芸的世界を益々指向するようになるでしょう。
表現はもっと過激になり、内容も専門的、内省的になり、主義主張も明確になり、より鑑賞する側を限定するようになるでしょう。
そして、一対一音楽と、多対多音楽は、最初のうちは未分化ですが、これがいずれ交わらなくなるほど分化し、一対一音楽はライブで演奏されなくなる方向になるのではないでしょうか。
他対他もパフォーマンスが中心になれば、そのライブ感が楽しみの中心となり、記録した映像を観れたとしても、やはり演奏する場に人々が集まることに価値を置くような方向にどんどん進んでいくはずです。
やや余談ですが、映画も近いうちにより音楽と近い状況が生まれるだろうと思います。つまり一人の作家がたった一人で映画を作ることが可能になるのです。二次元的なアニメではもうそれはほぼ可能ですが,最近では3Dアニメの部品をネットで入手すれば、実写レベルとはまだ程遠いけれど、ある程度の技術さえあれば、それらのキャラを動かして一人で映像作品を作ることも可能です。
ボカロにしても、まずはアニメ的なところから始まっています。これはデジタル技術との相性が良いということもあるのでしょう。
より技術が発展し、データも増えていけば、ますますリアルな歌声を生成することは可能になるし、いずれ本当の演奏と見分けがつかなくなるレベルに到達すると思います。
そんな未来には、そもそも私たちは音楽で何を伝えたいのか、そういう根本からいろいろなモノゴトを考え直す必要がありそうです。
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