音楽を楽しむには、作曲、演奏、鑑賞という三つの局面がある。
また鑑賞の中にも、座って聞くだけ、何かしながらヘッドフォンで聞く、音楽に合わせて踊る、といった違いがあるだろうし、演奏でも、練習を重ねて演奏会を開く場合、歌いながら仕事をする、歌いながら祈る、といった違いもあるだろう。
そういう意味では、音楽の楽しみ方は、作曲、演奏、鑑賞に明確な区切れ目があるというわけでもなく、限りなく中間に近い楽しみ方も存在する。
もちろん、音楽を鑑賞する側から、演奏したり作曲したりする側に向かうにはそれなりの訓練や、学習が必要である。それゆえに、人口比で言えば、圧倒的に鑑賞する側にいる人が多かったのがこれまでの状況だ。
人が獲得できるスキルや知識のレベル、または楽器を変えるだけの経済的余裕、楽器を置く場所が確保できる居住スペース、など、過去ほとんどの人類の歴史においては音楽活動を続けるためのハードルも高かった。
例えばレコードが生まれる前は、音を記録することも出来ず、音楽は常に一過性のものだった。演奏家は今の我々にとっての音楽再生装置と同じ立ち位置にいた。多分、今の音楽家よりも演奏の機会は多かったかもしれないし、演奏家の役割ももっと機械的なものだったかもしれない。
当時は、全ての音楽は生音楽で、その場でのみ共有される体験だったのだ。
ところが、レコード発明以降、そのバランスは崩れた。
しばらくオーディオセットは高価なものだったが、今では誰でも安価なヘッドフォンステレオで音楽を聞くことができる。それはコンサートに行くよりも、圧倒的に低コストだし、何度でも好きなだけ繰り返して聴くことができる。
このような環境においては、今の演奏家は、レコード以前の演奏家の役割とずいぶん違っていて然るべきだろう。
コンサートでさえ、もはや生演奏かどうかは分からない。コンサートは、カリスマ的なアーティストと同じ場を共有するためのものか、まだ見たこともないパフォーマンスを見るためのものと化していると思う。
音楽を楽しむ敷居が圧倒的に下がった。
とすれば、ただ鑑賞しているだけでは飽き足らなくなる人も現れる。次には、自分が音楽をコントロールしたい、そういう欲求が起きてくるのではないだろうか。
とはいえ、既存の楽器を演奏するスキルはない。
幸か不幸か、音楽はデジタルととても相性が良くて、ここ数十年で人がリアルに演奏しなくても十分に音楽は聴けるようになった。
録音したデータは何度でも再生できるし、MIDIを使えばキーを変えたりテンポを変えたりすることもできる。人が介在しなくてもインタラクティブに楽しめる要素がどんどん増えている。
電子楽器的な文脈で言うと、左手でコード指定して自動伴奏を自在に操作することも出来るし、さらにそれを外部からプログラミングで制御することもできる。
AIの出現で、フレーズそのものの生成も不可能ではないし、そもそもAIを使わずともある程度の生成アルゴリズムは音楽なら可能だろう。
こういった環境の高まりは、明らかに音楽の楽しみ方を変えるきっかけになるはずだ。音楽はただ鑑賞するものから、参加して干渉するものに変わっていく。
もしかしたら、こんな考えはずっと昔から多くの人が考えていたのかもしれない。だからこそ、ただの思索ではなく、具体的なものを作ることで、きちんと可能性の一つとして提示してみたい。面白くなければそれまでのこと。その探求そのものが新しいアートへの取り組みと言える。
とりあえず、いま考えていることを整理して書いてみたつもり。
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