またまた乱暴な分け方をしてしまいますが、音楽が人に与える影響は、「音響」と「メロディ」に分けられると思います。
「音響」とは、編成とか、それに由来する音色の違いとか、ホールの響きとか、打楽器の力強さとか、ステレオ効果とか、音環境全般を取り巻くものが私たちにもたらすイメージのことです。前々回書いた、鼓童の音楽の魅力とは和太鼓による音響の迫力であり、楽器演奏自体がパフォーマンス化したその舞台空間にあるのだと思います。同種の面白さは例えば、バリ島のケチャのような音楽。これもピッチのない掛け声をリズムとパフォーマンスで規律化したものだと言えるでしょう。
映画音楽でも未だにオーケストラ的音響が使われるのは、映画の持つ壮大な雰囲気や、勇壮な心持を表すのにオーケストラ音楽の音響は非常に重要な役割を示しているからだと思います。
音楽がどのような空間で、どのような楽器で演奏されるかというのは、人の印象に大きな影響を与えます。そして、クリエータ側は、まずこの音響的な側面を非常に重視します。
その一方、音楽のもっとも根源的なアイデンティティとして、メロディがあると思います。
合唱をやっていると、メロディが人に与える影響は、本当に強いものだと実感します。私たちは人生において、自分が熱中したものに関連する音楽や、遠い昔に何度も聴かされたような音楽に特別に郷愁を感じます。合唱のステージで唱歌をアレンジしたものがうけるのは、多くの人が小中学校時代にそれらを覚え、そして歌い継がれた曲たちだからでしょう。そういう意味では、なつかしの映画音楽であるとか、アニメ主題歌集であるとか、こういったポピュラーステージも根は同じで、そのメロディを聞かせて、久しぶりにあの頃の郷愁を感じさせることで人々を楽しませるわけです。
こういった音楽の力は本当に強いと思ったりします。演奏がいくら下手でも、涙を流して喜んでくれる人たちだっているのです(それを自分たちの音楽の力だなどと思ってはいけない)。
それらがとびきりの名曲というわけではないかもしれません。それでも、ある一時代を象徴する音楽は、人々の心に音楽の価値以上のものをもたらします。メロディは、どのような編成で演奏されても必ず人々の記憶を呼び覚まします。このとき、音楽の評価は音響の力を超えたところに持っていかれてしまいます。
歌を歌うものとして、上のような効果は無視できないことです。日々の練習は、ピッチやリズムを合わせ、音楽の表現を高めるような音響的側面が大きいわけですが、メロディとして何を歌うのか、それをもっと戦略的に考えることはできるでしょう。
オリジナル合唱曲はもちろん芸術性の追求として必要なものではあるのですが、残念ながら一般大衆の興味はそこまでついてきてくれません。演奏家のアイデンティティとして、歌の持つ郷愁をいかに提示するかというのももっと追求すべきことのように思います。
例えばNHKがやるような「懐かしのあのメロディ」なんていう番組は永遠になくならないでしょう。若い頃はバカにしていたのに、そこで選ばれる曲がだんだん私たちの射程距離に入ってきた感じがします。もう10年、20年したら、そういった番組でピンクレディやキャンディーズの曲をなつかしながら聴くんだろうなあ。
ときにオリジナル合唱曲の面白さは何か、と考えたときに、どうも私たちは独りよがりなものを作り続けているような気がしてしまうのです。
テキストの精神性のようなものに依拠したメッセージ性の強いもの、時間密度の極端に濃いものは、簡単には理解してもらうことは不可能です。もちろん、過去の多くの名作のようにいずれ多くの人に理解されるだろうと楽観的に考えてもいいのだけれど、私としては、上記のように合唱という音響特性をもっともっとアピールするような音楽であるとか、逆に民謡、唱歌アレンジなどのメロディを楽しませるもの、という観点で作品が作られても良いのかな、と最近は感じています。
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