シザーハンズを観ました。
はさみの手を持つ主人公エドワードって、もうこれ監督のティム・バートン自身じゃないの、と感じてしまいました。この映画、構想から脚本まで、ほぼティム・バートンが手がけていて、ストーリーから映像まで、何から何までもがティム・バートン色に満ち溢れています。
そして、主人公の人造人間エドワード。突然街に連れてこられるまで一人で城に住んでいたので、街の人たちと正常にコミュニケーションが取れない。街の人は、ちょっと異質なエドワードを最初は大歓迎し、チヤホヤともてはやすのだけど、一つ歯車が狂い始めると、まるで手のひらを返したように迫害し始めます。
映画の中では、なぜエドワードがはさみの手なのか、明確な説明はありませんが、この映画に対してそのことを突っ込むのは野暮というものです。なぜなら、このファンタジーにとって「はさみ」は極めて象徴的なモチーフと思えるからです。
映画の中で「はさみ」は、独創的な形に植木を刈ったり、髪の毛を切ったりする、芸術性を表現するための道具であると同時に、近くにいる者を思いがけず傷つけてしまったり、時として暴走する怒りの感情で凶暴な凶器に変わってしまったりします。まさに、「はさみ」は、芸術家的資質を持ちながら、他者とのコミュニケーションを不得手とした人間の、そしてそれはティム・バートンの人間性そのものを象徴しているように思えてしまいます。
そう思うと、この映画も、太宰治の「人間失格」とか、谷崎潤一郎の「異端者の悲しみ」のような、自身の青年期の不安定な心理を語った自叙伝的な芸術作品と言えるかもしれません。
それにしても、ここまで作家性が強烈に発揮されるような映画監督というのは本当に珍しいと思います。
だからこそ、ティム・バートンにはマニアックな支持層が多いのでしょうが、このような個性ある作家性を持った映画監督が活躍できるアメリカの映画産業というのも大したものです。
もっともティム・バートン自身は、いろいろと映画の内容に口出しされたり、肩越しに撮影をチェックされるようなハリウッドの環境にいろいろ不満を述べたりしていますが、まあ経営側から見れば当たり前のことでしょう。本当かは知りませんが、「マーズアタック!」でティム・バートンが好き放題に作った結果、興行的に失敗してしまい、しばらくティム・バートンはお仕着せのテーマでしか撮らせてもらえなかったという話もあります。
それでも、30ちょっと前の若輩者にバットマンの映画監督を任せるというのは、やはり日本では無理だろうなあ、と思います。
話はそれますが、映画作りというのは、チーム作業によるものなわけで、以前私が書いたこんな話がやっぱり当てはまるんだろうなあと感じます。
恐らく、日本の映画監督というのは現場監督そのものであり、大勢の人たちを一言で動かすだけのカリスマ性、及び事務能力が必要とされているのではないでしょうか。だから、まず人間的に頼りがいがあり、人々の信頼も厚いというようなそういう人(経営者のような)であることが要求されているような気がします。
それに比べると、少なくともティム・バートンの例を見る限り、アメリカ映画では映画監督の芸術性をきっちり判断するような審美眼を制作側が持ち合わせているし、映画に携わる人たちも、監督の人柄でなく(だけでなく)、芸術性を信頼しているように思えます。
それは、どのようにすれば良い映画が作れるかわかっているからであり、もう少し悪く言えば、何が売れるのかという意識を明確に持っているからなのでしょう。
芸術のことを考えれば考えるほど、そういった日本と海外の審美眼の違いに見えざる壁をいつも感じてしまうのです。
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