これまで、Makerムーブメント、パーソナルファブリケーション、FabLifeと、個人によるモノ作り関係の話題について書いてきました。
もちろんこれは、自分自身がいずれこんなことをやってみたいと思うからです。私の作りたいものは、ずばり楽器です。
ご存知のとおり私自身、会社では技術者として電子楽器の開発を仕事としているので、業務を通じて自分の作りたい楽器を追求すればいいのではないか、という想いもあります。会社で行なう仕事のほうが社会に対する規模やインパクトも大きく、それなりにやりがいもあることは確か。しかし、20ウン年この仕事をしてきて、楽器に対していろいろと矛盾を感ずることもあるのです。
これは楽器に関わらない話ですが、コンピュータテクノロジーの発達は世の中のいろいろなツールの有り様を変えてしまいました。
特に私が電子楽器において思うことは、音楽製作としての楽器と、人前で弾くことを前提とした楽器の乖離とも呼べる現象です。前者はもはや楽器と呼ぶべきものではなく、ツールと言ってもいいでしょう。
しかし、未だに市場では二つの方向性は未分化であり、商品開発においても二つの用途を考えながら開発せざるを得ません。
私自身はどちらかというと音楽製作が好きな人でしたが、楽器の本質とは、考えれば考えるほど人前で弾くためのものであり、それは一回限りでしか得られない体験が価値であるというように考えるようになりました。
「一回限りしか得られない体験」とはどういうことかというと端的に言えば、再現性の否定であり、場を共有することの喜びということです。
つまり、毎回同じ音が鳴らなくてもいい、場所によって、観客によって、状況によって音楽、音が変わってもいい、ということであり、その体験はその場に居た人たちしか直接体験できなかったという満足感です。
そこに観客も含めたインタラクティブ性があれば完璧です。あとでライブDVDを観たって、そういうインタラクティブ性は絶対得られませんので。
また、誰が弾いても同じ音が出るのではなく、その人とその楽器のセットでなければ出ない音というのがあるべきです。それが演奏家の個性となり、だからこそ、その演奏家とその場を共有したいという想いが観客を動員させることに繋がるのではないでしょうか。
このようなことを考えていくと、本質的に楽器は大量生産に向かないのではないか、と私には思われるのです。
常に楽器から出る音は奏者の身体性と表裏一体であるべきであり、そうであるなら、楽器は少量個別生産であるべきであり、演奏者によるチューニング、エイジングが必要であり、また演奏者もその楽器から音楽性に影響を受けるはずであり、その結果楽器製作者と演奏者は個人的な協力関係が生まれる、というのが理想ではないかと思われるのです。
このようなあり方は、楽器が工業製品化する前は当たり前のことだったのではないでしょうか。
世の中が工業化されたとき、楽器もまた大量生産されるようになりました。しかしIT技術、生産技術の発達は、また昔のようなやり方に戻るきっかけを与えてくれているように思えます。
すぐにどうのこうの、という話では無いけれど、生楽器でなくても新しいオリジナル楽器を少量生産するような仕事を将来出来ないものかと、いろいろと想いを巡らせています。
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