2012年12月2日日曜日

セカイ系でGO!

先ほどエヴァンゲリオンのQを観てきました。
率直に言うと、セリフの一つ一つはほとんど理解出来ないのですが、エヴァの場合、わざとそうしている面もあって、むしろ私としては大枠の設定の作り方、ドラマの作り方、人の追い込み方、そういったものに面白さを感じました。

こういうアニメ作品群をセカイ系と呼んだりします。
私は決してアニメオタクではなく、むしろマンガ,アニメには全く疎い方です。多くの才能のある人たちがアニメ、マンガで活躍しているであろうことは理解しているのですが、私としては表現のフォーマットの幼稚さがあまり好きではないようです。
エヴァとて、そこで描かれる美少女たちは、ある種の(オタクが喜ぶ)フォーマットに従っていて、そういう部分に関しては私の興味の対象外となっています。

しかし、こういうアニメ、マンガの潮流であるセカイ系という方向性は、実は私自身がその内部に持っているものとほぼ同質のものであると感じるのです。
だから、とてもセカイ系な世界観に共感します。こういった創作物が好きだし、もし自分がある種のストーリー性を持った作品を構想する場合、恐らくセカイ系になるだろうなあと思っています(いい例が、拙作「生命の進化の物語」)。

しかし残念ながら、セカイ系は芸術表現のメインストリームにはなかなかなりません。
それは恐らく、そこで表現される価値観が、非常に冷酷で、人間的な希望の薄いものであるからでしょう。多くの人はそういう創作物に嫌悪感を示すようです。
では、なぜ一部の人はそういうセカイ系的な作品に惹かれるのでしょう。

人は、誰しも幸せになることを求めて生きています。
しかし、イジメにあったり、内向的で人と接するのが苦手だったり、いつも目上の人から怒られていたりして、若く多感な時期にアウトロー的な感性が育ち、人生に何らかの諦観を感じてしまう人たちが一定数います。
この人たちは、自分の不幸を和らげるために、この不幸の理由を正当化、あるいはそれほど不幸ではないと感じるための相対化、といった作業を無意識に行なっていると思うのです。
その結果、社会はそもそも個人に対してヒドく無慈悲で、不安定で、非合理で、とても抗えないような大きな力が全てをコントロールしているのだという感覚を感じるようになります。そうすれば、自分の不幸の原因が説明がつくし、嫌なことも仕方の無いものとして処理することが出来るようになります。

この感覚は、自分以外の他人をシャットアウトしてしまう危険性を持つのですが、その分、激しい感情を抑え、どこまでも理知的な態度でモノゴトを探求しようという気持ちを育てます。
多くの研究者や、哲学家、詩人はこういった人たちであり、こういう人たちがやや付き合いづらい傾向にあるのは、そういうモノゴトの考え方をするからなのではないかと思います。

そして、私自身も、こういった素養を少しばかり持ち合わせています。
自分の想いを伝えようとする時、人類滅亡だとか、何万年もの時間が流れるとか、そういう舞台装置を作って、どうしようもならないことを表現したくなってしまうのです。

そして今でも、一般ウケしないそういう世界観をまだ追い求めています・・・。


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