社会の中で生きていくということは、多くの人たちと一緒に生活を共にし、ルールを決めてときには罰したり、逆にお互い助け合ったりしながら、生活の機能を分担して豊かな暮らしを享受しようということです。
とはいえ、集団の中で生きていくことが時に息が詰まるような苦しさがあったり、逆に自分がみんなをまとめる立場なら、ルールを守らない人々や自分勝手な人々の言動に手を焼いたりすることもあるでしょう。
そしてそんなとき、ついついもうこんな人たちとは一緒にやっていきたくない、と思うこともあるかもしれません。いや、まあ人生なんて、実際そんなことの連続です。
大ざっぱに言えば、日本的な社会では「こんなところでやってられない」と思ってもそれに耐えようとするメンタリティが強く、一般的な欧米の社会では、自分の属する集団を変えていくことにそれほど抵抗が無いように見えます。
そして、昨今のIT化は、人々のホンネが可視化され、結果的に人々をますます集団よりも個人の気持ちを大事にする方向にシフトさせているように感じます。一度ホンネを言い始めた個人は、それを正当化するために自分の主張を言い続けます。こういったスパイラルはますます人々の気持ちを集団から引き離す作用を及ぼすことでしょう。
しかし、それでも人が集まらなければ出来ないことは世の中にはたくさんあるはずです。
そもそも人類は人々が協力し合うことによって進化し、発展してきました。
一人の人間の持っている能力や時間は小さくても、それを集約すれば大きなことが可能になります。
例えば、一台の自動車を作るためには、たくさんの部品を設計しそれらを組み合わせねばなりません。もはや一人の人間がその全てに精通することなど不可能なことです。
あるいは毎日の食事で、いろいろな食べ物を食べることが出来るのは、世の中にいろいろな食べ物を提供する人々がいるからです。自分一人で自分の食べる物を作ろうと思えば、同じようなものを延々と食べ続けるしかありません。たかだか100年くらい前までは、そのような人々もたくさんいたと思います(もちろん世の中にはまだそういう人たちがいますが)。
そういう巧妙な分業体制があるからこそ、私たちは今の豊かな暮らしを享受できています。こういうことは、人々が協力しながら、分業を進めてきた歴史の集積のおかげです。そのためには人々の協力関係は不可欠だったし、それはこれからも変わることは無いでしょう。
当たり前だけれど、一人で生きていくことは不可能です。
単に必要なモノを手に入れるということだけでなく、人は他人からいろいろな影響を受けて生きています。自分だけが持っている個人的な性向はあるにしても、人から面白いものを教えてもらったり、常識を刷り込まれたりしながら自分自身も常に変わっています。
それでも、集団に依存して生きていくことと、自分が一人で生きていこうと考える比率を少しずつ個人側に変えていくことは可能でしょう。
あるいは、今後個人を重要視する世の中に変わっていくのなら、集団に対する自分のスタンスももう少し変えていくべきなのだと思います。今世の中で起きているおかしなニュースの数々もそういった個々人の常識のズレから発生しているように思えるからです。
明らかに世の中のベクトルが個人側によっているのなら、人々の協力関係をうまく維持しながら、新しい集団との付き合い方、集団のあり方が生じてくるべきです。
そして、そういう潮流をうまく嗅ぎ取って個人も戦略的に行動することが必要だと感じています。
0 件のコメント:
コメントを投稿