私の指揮ではないですが、ここ2年ほどウチの団で練習しており、今度の演奏会でもちろん演奏いたします。
歌う立場から見れば、特に練習を始めた頃は、あまりの音の難しさに衝撃を感じたものです。練習を重ねるほどに音程が正確に・・・と言いたいところですが、まあいろんな意味で歌い慣れました。
それにしても、この曲の音程のハチャメチャぶりは何と言ったらよいのでしょう。
この曲の面白さ、スゴさを理解するには、このスケール外のとんでもない音程の数々の意味を考える必要があります。まあ、私なりの結論としては、いわゆる祭りの喧噪、躍動感のようなものをワイルドに表現するためのものと捉えています。そういう考え方をするのなら、これらの複雑な音程を完全に正確に歌わなくてもワイルドさが感じられれば良い、という曲作りの方針になるでしょう。
しかし、仮に私が、作曲前に全く同じアイデアを思いついたとしても、このような形で完成させることは不可能だったでしょう。まさにこれこそ、三善晃という天才のなせる技ではないかと思うわけです。
例えば、冒頭のページのアルトパート。長い音価の音はスケール外の音が多いのだけど、必ずスケール感を漂わせる音を点在させているのが分かります。また、あくまでメロディは半音階的で、祭りでのかけ声を旋律的にもじっており、とてつもなく前衛っぽいというわけではありません(例えば、十二音技法のモチーフとは全然違う)。
アルトと同じリズムで補助をするテナーパートは、アルトの非スケール音を決して仲間はずれにしないように、完全五度の音で補強していたりします。
つまり、とびきり現代的な非和声音を使っているように見えて、ヘンテコな旋律をハモりの力学で何とか繋ぎ止めているのです。
実はベースを歌っていると、その感覚はさらに強まります。このような非スケール音が乱舞する音楽の中にあって、ベースだけはとてもベース的な役割を捨てていません。強拍では、ほとんどスケール外の音が現れないし、トニック感、ドミナント感を一手に担うような音程が連続して現れます。
こんなにヘンテコな音を多用しているにも関わらず、誰が聞いても曲の雰囲気を理解出来るのは、こういった最低限の和声的な骨格を確保しているからなのです。
なお、非スケール音は和音の音とぶつかってしまうので、この曲ではほとんど和音がなりません。民謡の旋律とベースとヘンテコな音のお囃子、これだけ。各パートが同じEであっても、全く気にせず。
こういった大胆な作曲は出来るようでなかなか出来ません。それ故に、この曲は数多の合唱曲の中でも圧倒的に個性的であり、人々の興味を引きつけて止まないのだと思うのです。
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