2011年7月1日金曜日

自転車置場の議論

パーキンソンの凡俗法則というのがあるそうです。
これは、どうでもいいような些細な議論になぜか時間を費やしてしまう傾向を表した言葉。

この中で出てくる例として、原子炉の建設については、非常に規模が大きく複雑で理解が難しいため、一般の人は専門家がきちんと進めているだろうと思い、あまり意義を唱えず、着々と建設計画が進んでしまう。しかし、その一方自転車置場の屋根の素材をどうするか、アルミにするかトタンにするか、など誰でも分かりやすい議論になると途端に議論が白熱し、いくらでも時間を費やしてしまいます。

この話が再び話題になったのは、FreeBSDの開発用メーリングリスト内での議論のこと。
ソフトウェア開発においても、非常に専門的で難しい内容がある反面、誰でも分かりやすい議論というのがあります。
一つ例に挙げられるのが、コーディングスタイルの話。
一つのプロジェクト内では、コーディングスタイルを統一したほうが、成果物の内容は統一されるし、その結果生産性も上がるはずなのですが、プログラマ各自がこれまでやってきた仕事などのバックボーンがあり、実際にスタイルを統一するのは難しいものです。
ここでいうスタイルとは、プログラムを書くときにどこにスペースを入れるか、括弧は前に書くか後ろに書くか、どのタイミングで改行するか、関数や変数の名前の付け方はどうするか、とかそういったプログラムの見た目の書き方のこと。
もちろん、改行があろうと無かろうと中身が同じであればプログラムは同じように動きますが、同じプロジェクト内であれば、見た目も統一しておきたいものです。
ところが、その内容を統一しようと検討を始めると、その議論は全く収拾が付かなくなることが多い。そういう現象は多くのプログラマが経験していることです。

翻って社会一般で考えてみても、同じようなことは起こりえます。
例えば、マンションの一年に一回の管理組合の総会など。修繕計画のような大規模で、専門的な話は詳細を話されてもなかなか理解しづらいので、しょうがなく承認してしまう。
ところが、マンション内のマナーの問題とか、花の水やりの経費とか、対象が分かりやすくなった途端に口を挟む人が増え出してしまう、といったような。

こういったときの心理状態は、難しい内容の議論では貢献できなかったと思う参加者が、自分の分かる範囲の議論で少しでも貢献したいと思う、どちらかというと責任感のようなものに根ざしている事が多く、それだけになかなか制御が難しいわけです。

世の中にはたくさんの議論すべき難しい問題があるにも関わらず、ほとんどの人はその本質的な意味を理解できず、内々で勝手に進んでしまうような危険な計画もたくさん思い当たります。
しかし、そうなり易い一つの理由として、こういった「自転車置場の議論」に時間を取られすぎている実態というのも各自が認識すべきなのです。
私たちは、難しくても将来の自分たちの社会がどうあるべきか、という議論に正面から取り組む必要があり、そのためにはどうしても各自のリテラシーの向上が不可欠です。

何か、つまらないことで議論が白熱したとき、これは「自転車置き場の議論」だ、と認識し、少しでもそういう議論を収束させていくような行動もまた必要なのでないかと感じました。

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