2009年12月31日木曜日

AVATAR(アバター)

毎年年末には「今年見た映画」を一覧にした記事を書いていましたが、今年は6月に子供が生まれてから、予想通り映画鑑賞が激減。
なので一覧は止めて、年末に何とか時間をとって見てきた映画の感想を、今年の最後の記事にしましょう。

ジェームスキャメロン監督の、タイタニックから12年ぶりの新作。しかもフルCG、3Dと技術の粋を集めた衝撃の映像などと言われると見に行かないわけには参りません。
舞台は22世紀。地球に似た?衛星パンドラに住む原住民ナヴィと、その星で資源を採掘しようとする人間との衝突と戦いを描くSF作品。ナヴィは青い身体で、人間より一回り大きいのですが、その描写は未開民族そのもの。そして、人間対ナヴィの構図は、大航海時代のヨーロッパ人とアメリカ原住民、あるいはアボリジニの歴史を彷彿とさせます。当然ここでは、人間側が好戦的で傲慢に描かれ、自然とともに生きるナヴィに観客の共感を与えるストーリー展開になっています。
率直に言えば、ストーリーそのものは既視感のある、それほど斬新なものではありません。宮崎アニメにも似たテーマです。また自分が他の肉体で力を得、その力に磨きをかけ、そして選ばれし者になるというパターンはマトリックスにも似ています。

しかし本作品の白眉は、空想の理想郷、衛星パンドラのCGによる描写にあります。
もちろん、そこに現れる動物や植物もまた、全て創作されたもの。しかし、それはアニメではなく、まさに実写の世界として表現されています。今更CGの技術云々を言うつもりはないけれど、全くの空想の世界を、実写のような映画で表現できるようになった、という事実は、今後の映像芸術に大きなインパクトを与えると思います。

もう一つ、映画をビジネスとして観た場合、3Dによる上映も大きな意味があったのではないでしょうか。
これまで3Dというと、USJやディズニーとかのテーマパークとか、科学博のようなイベントで観るイメージがありました。2時間を超える商業映画、しかも一般の映画館で3Dを観る、というのは私にとって初めての体験。
実際、偏光メガネをかける煩わしさ、またどうしても視界は暗くなるということに何となく抵抗はあるものの、まさにこれは映画館だからこそ出来る体験です。しかも、予告編を見ると、どうもこれから大量の3D映画がリリースされるようですね。
これまで映画を観ない人が、DVDを借りればいい、とか、そのうちテレビで放映されるから、とか言っていても、3Dとなるとそことは明らかに娯楽の次元が違うわけで、3Dはそういう人たちを劇場に向かわせるだけの魅力となります。そこには、テレビとの差別化戦略というのが垣間見えますし、アメリカ映画が他国の映画を凌駕しようと競争心も見えてきます。

とはいえ、SFアクション系ならともかく、何から何まで3Dということもないでしょう。それはそれでうるさい感じです。これから娯楽としての映画がどう変わっていくのか、そういうことも考えさせる映画であるのは確かです。

2009年12月30日水曜日

辞世九首を全曲アップ完了

全曲アップしてしまいました。
こちらからも直接各曲にアクセスできるようにリンクをはっておきます。

1.阿倍仲麻呂

2.菅原道真

3.静御前

4.一休宗純

5.豊臣秀吉

6.細川ガラシャ

7.八百屋お七

8.大石主税

9.十返舎一九

ちなみにこれらのテキストには、詠んだタイミングとして辞世とは呼べないもの、本人の作品か疑わしいものもあります。ただ、各人の人生を象徴した歌であるのは確かです。
歴史ブームを背景に、それぞれの生き様に想いを馳せながら歌ってもらえると嬉しいです。

2009年12月29日火曜日

iPhoneのヘッドフォンを変えてみる

iPhoneのヘッドフォン、ずっと純正のものを使っていたんですが、実は左側の音がかなり小さくなっていて、そろそろ音楽を聞くにも我慢の限界だなあと思っていたんです。
そもそも、純正品だと低音も弱く、どうせならちょっと高めでもいいか、というつもりで新しいヘッドフォンを買いました。条件としては、iPhoneのリモコンやマイク機能が付いていること。

本当はいろいろ音を聴いてからと思ったんですが、元々あまりオーディオに対するこだわりはないし、値段がちょっと高ければ悪いことは無かろうという気持ちでやや安易に選んだのは、v-moda vibe duoというやつ。色はフラッシュクロム(要するに銀色)。デザインもiPhoneと割と合ってます。(むしろ純正品のほうが合ってない)

音にこだわりは無いんですが・・・最初に聴いてみて正直、かなりモコモコした感じがしました。今までが相当スカスカしてたんでしょう。まだちょっと違和感はありますが、きっとそのうち慣れます(と信じる)。
ちなみに、私のiPhoneには、J-pop、洋物Rock、ジャズ、アカペラ、合唱、ニューエイジ、クラシック(ピアノが多い)とまあ、多種多様なジャンルが突っ込まれており、ジャンルによってヘッドフォンの印象が微妙に違うのも面白いです。

これは、いわゆるカナル型というやつで、かなり周りの音が聞こえなくなります。
これってちょっと危険ですね。ヘッドフォンしながら歩いていたら、車が近づいてきても気がつかないかもしれません。
ということで交通事故に遭わないように気をつけようと思います。

2009年12月28日月曜日

IT社会の行く末─国が崩壊する

だんだん妄想の度合いが加速していきます。

最近思うのは、もう国という統治形態そのものが非効率なんじゃないか、ということ。
だって、これだけ多くの人を等しく幸せにするなんてどだい無理な話。いろんな意見を言い合っているうちに事態は益々悪化していきます。

それなら気の合う仲間で集まりゃいいじゃん、と私は思うわけです。
ネットではSNSなど仮想的な場所で趣味の合う人たちが日夜、コミュニケーションを交わしています。趣味や嗜好が似ている人が集まれば、話題はますますコアになっていき、世界はさらに深まります。
それが高じれば、いつか仮想的にでなく物理的に集まろうということになります。その昔、Niftyでのオフなんてのにも参加しましたっけ。
そして最終的な形は、同じ志を持った人たちが一緒に暮らす、ということになりはしないでしょうか。

一方、国の政策の遅さ、融通の利かなさに呆れ果て、地方の首長が特徴ある街作りを始めます。
ある都市は工業都市、ある山村は農業で、そしてある街は学問で、あるいは芸術で、商業で、と特徴のある街作りを始めれば、同じ趣味、スキルを持った人が集まってくるでしょう。
それは、自治体が人工の流動によって競争するような社会です。中には会社が倒産するがごとく(人口が減って)破産する自治体もたくさん出るかもしれません。
今はまだ自らの生まれ育った土地に対する愛着が強いですが、それよりも政治信条、趣味、スキルによって、自分を生かせる場所に移り住むということに抵抗がなくなれば、こういう世の中になるかもしれません。

国の縛りがますます弱くなり、法律や政治や暮らしの常識が都市レベルで違っている未来。
人々は自分の好みの都市に自由に移り住みます。そのうち、ほとんど国の意味が無くなって、人々の帰属意識は都市にあるようにならないでしょうか。
なんか、それって中世・近代ヨーロッパみたいな感じかも。

2009年12月26日土曜日

IT社会の行く末─メーカーが崩壊する

合唱の話題を期待されている中、不評かと思いつつも、構わずこのシリーズ続けてみます。

今の不況、メーカーはどこも厳しいですよね。確実に安いものしか売れなくなってます。
高いものは開発費がかかるのに、売れないので、その開発費を回収できません。従って、益々高額商品の開発に腰が引けていきます。
こんなことを考えているうちに、もし、メーカーが個別の部品を外販するようになれば、ガレージメーカーのようなところも商品開発出来るのではないか、そして高額商品はそういった開発のほうが向いているのではないかというアイデアに思い至ったのです。

例えば、車で考えてみましょうか。
エンジンや、サスペンションや、あるいは座席や、そういったものが部品単位で買えるようになったとします。
社員10人程度のガレージメーカーが、自ら設計し、車体を作って、そういう部品を買い集めて、例えば500万円くらいの車を作ったとします。もちろん、大量生産は無理ですが、逆に世界に数十台しかないことが希少価値となり、それなりに売れるかもしれません。
元々、大企業が商品企画を考えるより、そういったガレージメーカーのほうが好き者がやっているので、マニアックで個性的なものが出来る可能性が高いです。しかも希少性があるなら、意外と高い値段でも売れるかもしれません。

ちなみに私の部屋のパソコンラックは、やや値段は高めですが、オーダーメードのものを購入しました。サイズもぴったりだし、見た目もいいので気に入っています。ニトリで数千円のものを買うより、気分的にも満足。

もし、こういう高額商品のあり方が一般的になれば、大企業は低価格、量産品を作り、個人企業のような小さなメーカーが高額で希少性、独自性のある商品を作る、というような社会になるかもしれません。
IT化は部品の標準化を促しますから、そういった流れはだんだん加速すると思います。電子制御系も Googleのアンドロイドが、携帯だけでなくて組み込み機器を席捲する可能性を持っています。
テレビも冷蔵庫もラジカセも、そして電子楽器も、中身はGoogle携帯・・・なんてことになれば、もう大企業で無くても開発が容易に出来ちゃうかも。

でも、個人的には結構そんな世の中になったら面白いと思ってます。その過程で低価格競争で負けてツブれる大企業も出てくるでしょう。
それでもこだわりのある持ち物というのは、希少性があって欲しいし、個性的であって欲しいです。逆にこだわりがないものは安い既製品で十分。一般の人がそれを望んでいるのではないでしょうか。

2009年12月23日水曜日

辞世九首をYouTubeにアップ

11/7に伊豆の国民文化祭で初演しました拙作「辞世九首」ですが、現在出版の準備中です。
出版に先立って、出版元であるケリーミュージックの協力の下、この楽譜と初演の演奏を動画にしてYouTubeにアップいたしました。
まずは、9曲中3曲アップしていますが、残りの曲も順次アップする予定です。
演奏は必ずしも上手とは言えないかもしれませんが、曲の雰囲気はつかんでもらえるかと思います。会場も意外と残響は少なかったようですね。

この動画で曲に興味を持って頂けるようでしたら、楽譜の購入を是非ご検討ください。
下にも動画を貼っておきます。



2009年12月20日日曜日

IT社会の行く末─ハッカー倫理

先日紹介した「フリー」の中に書かれてあった面白かった話題をもう一つ紹介します。
70年代、80年代のサブカルチャー的なコンピュータオタクが考え出した「ハッカー倫理」と呼ばれるものです。ハッカーとは能力の高いコンピュータプログラマの俗称。
以下の七条からなります。

1.コンピュータへのアクセス及びその使い方を教えるあらゆるものは、無制限かつ全面的で無ければならない。
2.常に実践的な命令に従うこと。
3.すべての情報はフリーになるべきだ。
4.権威を信じるなー非中央集権を進めよう。
5.ハッカーはその身分や年齢、人権、地位などインチキな基準でなく、そのハッキング能力によって評価されるべきだ。
6.コンピュータで芸術や美をつくり出すことは可能だ。
7.コンピュータはわれわれの生活を良いほうに変えられる。


もちろん、本の中では特に3番のフリーの条文に反応するわけですが、他の条文も私にはとても魅力的です。
1条の無制限、かつ全面的とは、例えばLinuxのようなオープンソースの世界では当然ですが、WindowsにしろMacにしろ、全ての技術が公開されているわけではありません。公開してしまったら優位性が失われてしまうし、公開する場合も知的財産として保護しようとします。この条文はそういうことを完全に否定しています。
2条は、理論的興味を探求するより、現実を良くする仕事をしようということでしょうか。
4、5条はアンチ権威。アンチ押し付け。政治の否定とも言えます。
6、7条は本当にコンピュータが好きでなければ、なかなか言いづらい言葉。しかし、世の中の多くの場所にコンピュータが使われるようになるのであれば、そういった理念を持ってコンピュータ技術を発展させなければ、決して人間に優しい世界にならないでしょう。

私はハッカーと呼ばれるにはまだまだ微妙なレベルの技術屋ではありますが、上記の条文の精神性には深く納得させられます。
こういった哲学こそが、未来の思想の重要な潮流の一つになるのではないかと思えたりするのです。

2009年12月16日水曜日

フリー/クリス・アンダーソン

FreeIT社会の行く末と題して、いろいろなことを書いてきました。
特に、ネットの世界ではタダであることが普通になっていくという話も書きましたが、この点についてとても詳しく解説された本を入手。これは面白いです。もし、あなたがIT的なビジネスで一旗あげたいと思っているなら必読です。どこまでを無料にして、何を有料にするのか、そういった戦略が非常にこれから大事になることが良く分かります。

またビジネスに興味が無くても、ネットの世界で文章、音楽、イラスト、動画などで自分を表現しようと思っている人にも深い示唆に富んだ内容だと思います。ネット社会においては、人々に認められ評判になることに幸せを感じ、それが自己表現のモチベーションになります。そして、そのような社会になるにつれ、人間はより創造的になる必要があるのです。

とはいえ、基本的にこの本はビジネス書です。経済論とも言えます。
タダが回りまわってお金をどう生むのか、その理屈を解説します。フリーには次の4種類があると言います。
<その1>直接的内部相互補助
「DVDを一枚買えば、二枚目はタダ!」みたいなヤツです。タダのもので釣って、他のものできちんとお金を払わせようというやり方。
<その2>三者間市場
一番分かりやすいのはテレビ。テレビを私たちはタダで見れます。放送局はCMの収入で番組を作ります。CMのスポンサーは広告効果で儲かります。結局私たちはCMを見たことが、何かの商品を買う動機になったりします。
<その3>フリーミアム
無料会員と、さらに特典が多い有料会員で分けるやり方。この本では、95パーセントが無料会員でも、ITの世界ではやっていけると謳います。
<その4>非貨幣市場
まさに、評判や関心であり、それによって満たされる個人の喜びが報酬。つまり、全くお金は回りません。ただし、そこで評判になった人は、おかげで出版が出来たり講演の依頼が来たりして、別から報酬があるかもしれません。

そんなこんなで、タダということをとことん考察しています。
まさに、今このとき、常識はどんどん変わりつつあります。お金にまつわる常識もすごい早さで変わりつつあることを、この本を読んで実感できます。

2009年12月13日日曜日

「銀河鉄道の夜」は理不尽なのか?

新聞の記事で「銀河鉄道の夜」を読む、といったコーナーがあり、読者の投書として「死を美化している」とか「結末が理不尽だ」という意見が掲載されていました。確かに夢の中で幻想の銀河旅行を旅した後に訪れる友人カムパネルラの死、それもイジメっ子のザネリを助けようとして結果、と聞くと奈落の底に突き落とされたようなショックを受けるのは確かです。
無論そのような結末にこそ、この物語が伝えたかったことや、賢治の神髄が現れていると私は思うし、それ故にこの作品が名作である理由なのでしょう。

そもそもこの世は理不尽なことだらけです。
腹黒い人間が世を跋扈し、才能の無い人間がはやし立てられ得意気になっている。そう思う人も多いでしょう。まあ、私もそう思います。
確かに一般論として皆が納得してくれたとしても、個別の事例に対峙すると人の意見は分かれます。何を持って特定の人を腹黒いと思うか、何を持って誰々に才能が無いと判断するか、その同意を皆から得るのは基本的に不可能なのです。

「銀河鉄道の夜」は終始主人公であるジョバンニの視点で語られます。
物語を読み進めるにつれ、読者はジョバンニに共感し、カムパネルラを心強い友と感じ、ザネリに憎しみを感じます。しかし、それはジョバンニ視点で見た物語の世界です。そもそも、この世はそれを見る主体によって全く違った解釈をされるものです。例えば、ザネリを悪いやつと思わない視点だって十分あり得ます。
仮にカムパネルラにとっても、ザネリが憎むべき存在だとしたら、彼は川に溺れたザネリを助けるべきではなかったのでしょうか? 人を助ける、助けないという判断が、自分が好きな人間か、そうでないかによって左右され得るものでしょうか。

私たちは、良い人と悪い人を、自分の好きな人と嫌いな人の判断と混同しがちです。
世の多くの宗教はそういう狭量をこそ、克服すべしと言ってきたのだと思います。「汝の敵を愛せよ」という言葉は象徴的です。賢治が法華経に傾倒していたことも、こういった価値観と無縁ではないでしょう。
だからこそ、そのアウフヘーベン(止揚)として、分け隔てなく人を愛し、奉仕をすることに賢治は美徳を感じました。そして、この作品はそのような思想の結実として現れたものだと私は思うのです。
宮沢賢治については、以前こんな話や、こんな話も書きましたね。

2009年12月10日木曜日

IT社会の行く末─ミスが簡単に広まる

IT社会の特徴について、しつこく思うところを書いています。
最近の報道で、政府が発表したGDPの数値に間違いがあった、というニュースがありました。原因は担当者の数値入力ミスだそうです。
これを聞いて、皆さんは担当者を責めますか? もし現場で起きていることが単なる担当者への注意なら、同じ過ちは何度でも繰り返されるでしょう。この対策で必要なことはチェック体制を作るということです。

上記は政府の発表なので、ニュースになりますが、最近は雑誌やちょっとした印刷物でも、誤変換・誤植などのミスが多いように思います。ネット上の文書など何をか言わんやです。
その昔、印刷物の原稿が手書きで書かれ、誰かが活字を拾い、印刷所で物理的にレイアウトされていた頃、時間も手間もかかっていたのと引き替えに、多くの人の目に触れ、おおやけになる前に間違いが直される機会がありました。
ところが、IT化で人を介することが大幅に減っていきました。何のチェック機構も設けないと、最初に作った人の間違いがそのままパブリックに流れるという事態が簡単に起きるようになります。

せっかくIT化でコストが下がったのだから、わざわざチェック機構なんか作りたくないというのが人情。でも、人間だから間違いは誰だって犯します。まだ、そこに多くの人が思い至っていません。

私のようにプログラムを書く人は切実な問題です。
さすがにプログラムにおいては、間違いをチェックしなければならない、という考えは当たり前になりました。しかし、家庭用の電子機器ならまだしも、自動車や飛行機、電車などのインフラも今では多くのプログラムで動いています。そういえばたった一行のプログラムの不具合で東京の地下鉄が数時間完全ストップした、ということもありましたっけ。
プログラムのバグで人が死ぬことだってあり得ます。書いた本人にそんな意志はさらさら無くても、結果の大きさに、不具合を出した当人はいたたまれない気分になることでしょう。

IT化で便利になった分、人の能力が丸裸になると同時に、人のミスも丸裸にされます。
そういうことが「あってはならない」のだと思うのなら、万全のチェック体制を作らなければなりませんが、この不景気のご時世、簡単にチェックのためにコストは割けないでしょう。私は、不景気になればなるほど、こういったミスが増えるような気がしています。

2009年12月8日火曜日

IT社会の行く末─丸裸にされる能力

ツールが充実して、いろいろなことが出来るようになった時、それを使いこなせる人と使いこなせない人が生まれます。
前回書いたように、ツールそのものの使い方が難しいとか、それを使いこなすのに必要な知識が要るとか、そういう側面ももちろんあるでしょう。

しかし、もう少し別の面もあるような気がします。
例えば私がPhotoshopで画像の編集をするとします。頑張って、いろいろな機能の使い方を覚えたとしましょう。しかし、それは必ずしも私がPhotoshopで作った画像が良いものであることを保証しません。残念ながら絵心の無い私には、いいツールがあっても良い絵を作れそうもありません。
結局良い絵を描くには、どうしても個人の資質が必要です。才能のある人が良いツールを使って益々良い作品を作れるようになる一方、そうでない人にはそのツールも宝の持ち腐れです。

音楽で言えば、数十年前にはウン百万もしたようなスタジオの機材と同等の機能が、今ではたった一台のパソコンで実現可能です。
もし、作曲やアレンジが出来て、楽器も演奏できて、エフェクトやミキサーも使いこなせて、マスタリングの知識も持っていれば、CD並みのレベルの音楽を作ることは可能です。
使い手に能力さえあれば、ほんのちょっと投資をするだけでプロ並みの音楽を作ることが出来るのです。そして出来ることが多くなればなるほど、それを作り出す人のセンスや能力が益々クローズアップされます。

経理をやるにも、ちょっとエクセルで数式を書いたりVBを書ければ、そういった事務作業もずいぶん楽になると思います。残念ながら、一般の方がプログラムを書くというのはまだまだ敷居が高いですが、遠くない将来、プログラムを書ける人と書けない人で、事務作業の能率の差が桁が違うくらいになって現れることでしょう。
たかだか、会議のプレゼンテーションの資料を作るにも、絵や視覚効果、全体構成のうまさ、文字や配置などのデザイン等々、うまく作る人とダサいものしか出来ない人の差は今でもはっきりわかってしまいます。

IT化に伴って、ツールが充実すればするほど、個人の資質や能力が丸裸にされる厳しい社会になっていくような気がします。社会で求められる人材も、少しずつ変わっていくかもしれません。

2009年12月5日土曜日

IT社会の行く末─本当に便利になった?

パソコン、ネットの普及で、数十年前には考えられなかったことが誰でも出来るようになりました。
ところがこういった言い方は現実を良いように解釈した場合のこと。実際の現場で起きていることを考えると、便利になったと簡単に言うのは憚れるような気がしています。

例えば、マイクロソフトのワード。ワープロとしての機能盛りだくさんで、ちょっとした印刷物の版下に十分耐えうる品質のものを作り出すことが出来ます。
しかし、ワードについては多くの人が使いづらいと感じていないでしょうか。出来るはずの機能もどこを触ったらよいかなかなか分からないし、標準で余計なお世話な機能が勝手に動いてくれて、それを外すことすらままなりません。
ワードを使いこなせれば、本当に便利です。定型的な設定を全てスタイルに登録すれば、文章を書くことに集中することが出来ます。しかし、それは機能を全て使いこなせた場合のこと。
現実に起きていることはその逆で、思考が邪魔されるような余計な動作が多すぎるのに、それを理解する手間がかかりすぎるのです。

これは使いこなせない私の問題であるのかもしれません。
しかし、ワードの使い勝手が悪いからかもしれません。そもそも、いろいろな使われ方をするのに、それを一律一つのソフトで解決しようとするのがいけないのかもしれません。
パソコン化、IT化には、常に「使い方を覚える」という作業が付きまといます。それもバージョンが変わると、使い勝手が変わったりします。そうやって私たちは年がら年中、使い方を覚える日々を暮らさねばなりません。

家電も同じ。多機能になったおかげで、使いこなすのにとても苦労します。たかだか、時計を買っても、ラジカセを買っても、思うように動かせないのはかなり腹立たしい。
それは決して、私たちだけの問題ではなく、すぐに使うことができないような操作仕様になっているメーカーの責任でもあると思います。(結局自分の身に降りかかる)

2009年12月2日水曜日

ヘヴン/川上未映子

Heaven広告とか見て気になっていて、ついつい本屋で見つけたときに買ってしまいました。
帯に書いてある文句とか、雰囲気から察していた内容と、正直かなり違っていて、とんでもない本を読んでしまった、というのが率直な感想。
同じクラスでイジメられている主人公とコジマという二人が手紙で交流を始め、その仲が発展してゆき・・・というところまで読んでいると、ほんわりした感じで二人の交流が進んで、心が通い合った二人に悲劇的な結末が・・・みたいな感じで話が進むと思われたのです。

しかしその想像は二重にも三重にも裏切られます。
そもそも、コジマはコジマでとても狂信的な思想で満ちていて、それを「僕」にも求めるのです。それがかなわないとき、コジマは「僕」を見限ってしまいます。彼女が目指しているのは、(イジメに耐えることを人生の目的とする)とてつもなく求道的な生き方でした。
それから「僕」はなんと、いじめっ子の一人百瀬と対峙し、自分への仕打ちを糾弾します。しかし、百瀬は実に饒舌に、そしてロジカルにイジメ側の論理を語るのです。「この世に意味なんてない」とか「みんなは決定的に違う世界に生きている」とか、恐ろしくシニカルで厭世的な哲学。
中学生とは思えないような、思想的、哲学的な会話。しかしそれでいて、リアルで凄惨なイジメの現場。直視できない痛ましさ。こういう事柄を平然と並べ、そしてストーリはエンタメ的な大団円を決して迎えません。

しかし、ラスト数行は感動的な言葉で締めくくられます。密度の濃い、畳み掛けるような文体は、読者に対して暴力的な感動を強要するのです。
痛々しくて、怖くて、忘れがたい印象を刻み付ける小説です。そういうのが嫌な人は読まないほうが良いかもしれません。

2009年11月29日日曜日

IT社会の行く末─タダが普通になる

ITを論ずるときに、技術的なことだけ考えていると片手落ちになるような気がするのです。
ネットが我々にもたらしたことは、技術革新だけでなく、社会の有り様の再定義ではないかと思うからです。
文字も音楽も絵も動画も全てデジタル化可能です。それらは全て、ネットによってほとんど流通コストをかけずに世界中に配信できるようになってしまいました。後は、通信スピードの向上と、どこでも情報をキャッチして楽しめるようなインフラ及び端末の高性能化がさらに進むだけです。

今はまだデジタルコンテンツを売って商売している人たちがいるために、DRM(デジタルの著作権管理技術)のような仕組みが期待されていますが、どうやったって、そういう技術はいつかは破られます。それより、自分の出すコンテンツはタダでいい、とやり始めた人が出てくれば、価格崩壊が起き、いずれなし崩し的にタダで供給する人が増えていくと思います。
結局、享受する側は、タダなのが普通、という感覚になっていく・・・というのが私の想像です。

つい数年前までは、本はなかなかデジタルで置き換わるのに時間がかかるだろうと思っていました。ところがAmazonのKindleが売れているようで、物理メディアの低コストが確立している出版でさえ、遠くない将来デジタル化される気がしてきました。

経済的に何が起きるか、私が想像するにはあまりに門外漢なのですが、文化的に想像できるのは以下のようなことです。
・公的になる境目が無くなったために、アマチュアとプロの境目が不明瞭になる。
・売り上げで作品の価値が決まるのでなく、レコメンドの集積したものが作品の価値になっていく。
結果的に、現在よりも作品の価値が正当に評価されることになるのでは、と私は思います。もちろん、正当に評価されてもお金は入らないわけですが。

2009年11月27日金曜日

ピアノだけの上原ひろみ

今年も恒例の上原ひろみのコンサートに行ってまいりました。
これまでのレポートは、これこれこれ
結局、毎年浜松のコンサートに行ってるし、CDも全部買ってます。単なるミーハーと化しています。

今年のコンサートは、ついにピアノソロ。
ツアーに先立って発売されたCDももちろんピアノソロで、CDの感想でも書きましたが、ピアノ単音色であっても全く飽きが来ないほど音楽のバラエティに富んでいます。
そして、今日のコンサートも素晴らしいの一言。
いつものワイルドさと、圧倒的なテクニックと音量。そして、ピアノの音だけでなくて、上原ひろみの「唸り声」と「足踏み」も派手なパフォーマンスとして満喫いたしました。
PAを使うかどうか、密かに注目していましたが、PAなし。完全ナマです。でも、全然問題無いくらいあの響きすぎるアクト中ホールを切れの良いリズムで満たしていました。
ピアノなのにまるで持続音を出しているような纏わり付くフレージング、アーティキュレーションが本当に素晴らしく、最高級の音楽を楽しませてもらいました。

会場で売られていたピアノスコアも購入。もちろん私には弾けませんが、今後のジャズ的なフレーズのネタ仕込みに活用する予定。

2009年11月26日木曜日

詩はどこへ行ったのか

朝日新聞のオピニオンという紙面に、上のタイトルで谷川俊太郎へのインタビューが書かれていました。
一言一言が大きな共感をもって響いてきます。何が凄いって、1931年生まれのお爺さんが、コスプレとかスラムダンクとかブログとかを語るんですよ。私には文化人だから当然とはとても思えません。谷川氏自身が社会との関わりを大事にし、常に同時代性を追い続けていることの証左に他ならないと思うのです。
だから、この記事全体が最終的には商業主義、金と権力、デジタル化を一見否定しているように見えるのだけれど、それで単に郷愁を刺激されて読み手は安心してはいけない、と感じたのです。
それを一番感じたのは次の一節。

─詩人体質の若者は、現代をどう生きたらいいんでしょう?
「まず、社会的存在として、経済的に自立する道を考えることを勧めます・・・」
谷川氏は社会の中にある詩情を掬い取りたいと思っている。それは世捨て人のような仙人が紡ぐような芸術とは対極にあるものです。

今の時代、ふと気を抜くと簡単に商業主義やデジタル化の波に飲まれてしまいます。
そういう社会を肯定しながらも、敢然と立ち向かい、それらが抱える問題をしっかり認識した上で、折り合いを付けながらも新しい世界観を提示していく・・・それこそが現在の芸術家の果たすべき使命ではないか、とこの記事を見て私は感じたのです。

2009年11月23日月曜日

PD合唱曲に混声合唱曲「富士の高嶺に」追加

子供が出来てから、映画を観るのも本を読むのもなかなか時間がとれなくなり、残念ながら最近は文化的な生活から遠ざかりつつあります。
作曲の方もやや滞り気味なので、この連休で一念発起、一曲アカペラ混声合唱曲を作ってみました。PD合唱曲シリーズにアップします。

万葉集より山部赤人が書いた富士山賛歌の歌に曲を付けました。
今までこういうご当地モノの詩選びを避けてきたところがありましたけれど、静岡県に住んでいて(それに山梨県出身だし)、地元の面々で富士山の歌を歌うことも悪くないなあと思えるようになってきました。(国民文化祭の影響?)
結局4分とやや長い曲になり、すぐ歌えるくらい簡単とは言い難いけれど、何かの折に県内で取り上げられると嬉しいですね。

バッハの曲で「十字架音型」というフィグーラが使われることがありますが、この曲の中に「富士山音型」というのを仕込んでみました。っていうか、あまりに分かり易いのですぐわかるでしょう。
MIDIデータも同時にアップしたので、音を聴きながら楽譜を眺めてみてください。

2009年11月19日木曜日

今年の初演祭り終了!

アンサンブルMoraの演奏会が無事終わりました。
今回初めて詩を書かれた宮本苑生さんとお会いすることができました。本番ではアンサンブルMoraの皆さんに熱のこもった演奏をして頂けました。本当にお疲れ様でした。また今回の演奏会を通じて桑原先生にはいろいろとお世話になりました。

さて、今年は私にとってかつてない数(といっても四つ)の初演がありました。もう一度まとめてみましょう。
2月1日児童合唱のための「しりとりうた」(多治見少年少女合唱団)
8月23日混声合唱組曲「生命の進化の物語」(東北大学混声合唱団)
11月7日混声合唱のための「辞世九首」(ヴォア・ヴェール)
11月17日二群の女声合唱のための組曲「へんしん」(アンサンブルMora)

しかも後ろ三つは私が指揮。ヴォア・ヴェールは当然としても、東北大とアンサンブルMoraについては、指揮者として何度か練習にお邪魔しての初演。他団体と演奏会だけでなく、曲作りの過程まで関わることになって、大変楽しい時間を過ごさせて頂きました。
そのため作曲だけでなく、指揮という仕事の重みについてもいろいろ考えるきっかけになりました。限られた練習回数で何にこだわって音楽を作っていくのか、それが結局指導者としての力量であり、また個性でもあるのでしょう。まだまだ経験は足りないけれど、自分なりの世界観が明瞭になってきた感じがしています。

ということで、関係された皆様方、(まだ早いセリフですが)本年は本当にお世話になりました。あらためて御礼申し上げます。

2009年11月15日日曜日

IT社会の行く末

技術的に可能になったことで、社会との軋轢が生まれることがあります。
特に著作権関係は近年多くの問題を生んでいます。さっきも新聞に書いてあったグーグルの全書籍デジタル化計画とか、東芝の私的録音補償金不払い問題とか・・・。
いずれもIT技術によって、コンテンツの複製と頒布があまりに簡単に出来るようになったことから生まれたことです。そもそもコンピュータというのは、情報を複製するのが得意。一度情報がデジタル化されてしまえば、世界中に張り巡らされたネットワークで世界の隅々まで無料で送り届けることが可能です。
コンテンツビジネスの商慣習が変化しないまま、圧倒的スピードでPCは普及し、ネットワークは発達しました。新しいネットサービスが流行る度にネットのトラフィックは増え、益々通信のインフラは増強されていくでしょう。そうなるに十分な経済的合理性があるからです。

本来、コンテンツホルダー(著作権者)としては、こういった事態を憂うのは当然だと思います。
しかし、それでも私は世の中のIT化は止められないし、それに適合する新しいビジネスモデルを模索するべきだと考えます。
だから、作家団体がグーグルを批判したり、著作権団体がメーカーを批判したりするのは私には後ろ向きの発想に感じます。もちろん、今その収入で飯を食っている人には切実だけれど、数十年後を見据えた大きな議論をするのなら、また結論は違ってくるでしょう。

文学・音楽・絵画・動画などのコンテンツ制作者は今後IT化に対して、もっと戦略的な発想を持つべきです。もちろん、それと同時に社会全体が芸術に対してどのようにお金を払っていくのか、作る側だけでなく享受する側の意識変革も必要なのかもしれません。
いっそのことデジタルコンテンツに税金とかかけれないでしょうかね。水道料金や電気料金みたいに、ネットのトラフィックで払う税金を決定するわけです。そして、税金で集められたお金の一部を、政府がコンテンツの流通に応じて芸術家に分配するっていうのはいかがでしょう。

2009年11月12日木曜日

伊豆演奏旅行記

前々回ご紹介したように、伊豆で開催された国民文化祭に参加しました。久しぶりに合唱ずくめの週末を過ごしました。せっかくですので、簡単にご報告いたしましょう。
土曜日はヴォア・ヴェールの単独ステージ。なぜか体調不良者が続出し、5人落ち状態で本番に臨むことに。もともと曲の内容も決して明るくなかったせいもあり、十分に会場を鳴らせなかったような気がします。お客さんから見ると少々しょぼくれた演奏に聞こえてしまったかも。
私としては、今できるレベルの演奏は何とか出来たかなとは思いますが、今後はもっと根本的に印象深い響きを作っていくべきと感じました。

��日間を通して松下耕さんの委嘱作の練習が何度も行われました。なかなか反応の悪い大人数合唱相手に高いテンションで導いていく松下さんの指導に感心。
作詩をされた山崎佳代子さんから、詩に対する思いを聞けたのは大変良い機会でした。合唱活動をしていると、自分とは決して交わらない世界と交錯することがあります。そういう貴重な体験の一つになりました。
練習中、松下耕さんから「もっと多くの作曲家の方に取り上げてもらって、広く歌われるべき詩です。ね、長谷部さん」と思わずネタにされ、山崎さんとも直接お話などさせて頂いたおかげで、何か来たるべき作品の予感がしてきました・・・後は、作曲の依頼だけです。

今回は自前のステージと、委嘱作の練習のおかげでついに他団体を一つも聴けませんでした。ママさん系が多かったようですが、かなりの高レベルの演奏もあったようですので、ちょっと残念。
国民文化祭自体のあり方にはいろいろ思うところもあるものの、団全体でのバスツアー、大交流会、温泉、と個人的には伊豆旅行を十分満喫してしまったのでした。

2009年11月7日土曜日

iPhoneの「移動ド」アプリ完成!

Movabledoscreenここ数ヶ月作曲もせずに凝っていたのは、iPhoneのアプリ開発。
夏休みにも一度、簡単なアプリを作ったのを紹介しましたが、その次に「移動ド」を習得するためのアプリをしばらく作成していました。
今回はMac上のシミュレータで動かすだけでなく、iTunes Storeで全世界に公開するのが目標でした。いろいろ苦労もありましたが、ようやくこのほど公開にこぎ着けました。
アプリ名は”MovableDo”。移動ドを英語にしただけです。iTunesで私の名前をアルファベットで検索するか、上のアプリ名で検索すればアプリを探すことができます。無料アプリです。iPhoneを持っている方は是非ダウンロードしてみてください。

操作法は簡単。
上のボタンで調を選択し、下のボタンで階名を押せば、楽譜上に音符が現れその音が鳴ります。ちなみに次のバージョンでは、楽譜を触っても音が出るようになります。
シンプルすぎて、何に使うかわからない人もいるかもしれません。基本的には、その調の移動ドの読み替えを示してあげるだけなので、日頃移動ドを実践しようと頑張っている人以外には、あまり面白くないアプリかもしれません。
非常にニッチなところを狙っていますが、移動ドを普及させるためのわずかなきっかけになるのであれば、このアプリを作ったかいがあります。
アプリの使い方や、機能などにご要望があれば、何なりとお寄せください。また、iTunesのレビューにも何か書いてもらえるととても嬉しいです。

2009年11月5日木曜日

国民文化祭の「合唱の祭典」に出演します

11/7,8に伊豆の国市アクシスかつらぎ大ホールで行われる合唱の祭典に参加します。
今回歌うのは、ヴォア・ヴェールの単独ステージとして、拙作「辞世九首」の全曲初演を、そして静岡県内の合同合唱団として松下耕委嘱の「瑠璃色の空の下で」と、混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「水脈速み(みおはやみ)」の二作品を演奏します。よく考えれば全部初演ものですね。

「辞世九首」は日本史の9人の有名人の辞世の句に曲を付けたもの。一つ一つの曲は短く、9曲演奏しても12分程度です。有名な句も多いので、いくつかは知っている方もいると思います。歴史好きなら興味深い作品だと思いますので、お楽しみに。指揮は私。

「水脈速み」は山崎佳代子氏の詩によります。旧ユーゴの内戦を描いた反戦歌とも呼ぶべき内容で、なかなか重いテーマです。合唱表現30号でもこの曲について紹介されています。
この曲をオーケストラ伴奏で200人近い合唱で演奏いたします。指揮は松下耕氏。

同じ静岡県とは言え、伊豆はほとんど遠征と呼んでいい距離。早朝からのバスツアーでしんどい二日間になりそう。

2009年10月31日土曜日

「生命の進化の物語」出版

Evolution先日初演しました混声合唱組曲「生命の進化の物語」がケリーミュージックによって出版されました。
今回も、パナムジカのみの販売となります。
先着30名様には、初演の音源をプレゼントいたしますので、選曲のご参考にぜひ手にとってみて下さい。

特に、この作品は音楽的な複雑さより、ピアノ伴奏を中心にジャズやポピュラー的なリズムを多用しながら、聴衆への分かりやすいメッセージ性を重視して作曲しました。一生懸命練習しないと音が取れない類の曲ではなく、音楽を通して何を伝えるのか、そこに力点を置いて練習し易いのではないでしょうか。
そういう意味で、大学生の合唱団で取り上げてもらうのにちょうど良いくらいの内容だと考えています。

終曲では地球温暖化への懸念とも取れる歌詞を扱います。世の中の関心が高まっている中で、本作品を通して合唱団や聴衆が何かを感じてくれるきっかけになればと思います。
ぶっちゃけ言えば、出版によって本作品が初演だけで終わらない…ことを切に願っております。

2009年10月30日金曜日

MacBookPro、え〜もう修理完了!

修理に出したのが火曜日のお昼だったのに、なんと今日、戻ってきました。
なんか修理の手続きに問題があったのかと思ったら、ほんとに2日で修理が終了して戻ってきたようです。報告書にドライブを交換した、と書いてあります。
うーん、これは正直すごい。
なんだか気合いが入ってます、アップル。明確に意識して修理のスピードアップのための施策をしていなければ、普通この早さは無理だと思います。
それに加えて、半年以内にアップル製品を買うと5%オフになるサービスも付けてくれました。
日本法人(アップルジャパン)だけかもしれないけど、正直アップルの印象がずいぶん変わりました。

2009年10月28日水曜日

MacBookPro、いきなり修理へ

すっかりアップル信者になった私に、なぜこうもアップルは冷たいのでしょう?
昨年も、iPhoneが一週間で交換だったし・・・。

というわけで、先日買ったばかりのMacBookProがいきなり修理です。
Officeをインストールした後、インストールディスクを飲み込んだまま、出さなくなってしまいました。ディスクは買ってから初めて入れたので、恐らく最初からドライブが不良だったのでしょう。
まあ、製造はどうせ中国だろうしなあ〜。アップルを責めても仕方はないのですが・・・。

実際、日本メーカーの製品よりは不良率は高いのだと思います。正直、品質は決して高くは無いのでしょう。となると、日本メーカーみたいに、クールじゃないけど品質は高い、という商品とどちらを取るべきだと思いますか。
結局私は、品質が悪いとわかっていてもクールな方を選んでしまうわけですが。

2009年10月26日月曜日

アンサンブルMora 1stコンサート

Moraそう言えば、まだお知らせしていませんでした。
11月17日(火)に、横浜のみなとみらいホールにて、アンサンブルMoraの演奏会があります。この演奏会で、拙作、二群の女声合唱のための組曲「へんしん」が初演されます。もう8年前に作曲した曲ですが、このたびようやく演奏できることになりました。
アンサンブルMoraは小田原少年少女合唱隊等でおなじみの桑原先生が指導している団体。やや年齢構成は高いですが(^^;、各メンバーの音楽的力量はなかなかのものです。
桑原先生がいるにも関わらず、なぜか客演指揮ということで、私が初演の指揮を務めることになり、何回か練習にお邪魔しているところです。

演奏会は全体で6ステージ。しかもハードなレパばかりで、非常に盛りだくさんな内容なのが凄いのですが、その中でも拙作はやや軽めの作風なので、好対照で面白いかもしれません。
曲は二重合唱で、二つの合唱が対話したり、音響的にも楽しめるように工夫しています。子供心を表現する詩の魅力(宮本苑生)が伝わるような、そんな演奏にしたいと思っています。
平日ではありますが、横浜近辺の方はぜひ、お越しください。

それにしても本年は、嬉しいことに思いがけず初演の多い年になりました。国民文化祭(11/7)でもヴォア・ヴェールで拙作を初演予定です。この紹介はまた後ほど。

2009年10月23日金曜日

暗譜について

今年私が初演する団体は、おしなべて皆さん「暗譜します」と言って頂いたのですが、私の方から「暗譜しなくて良いですよ」というように言っています。
おかげで全部譜持ちのステージになりました。

暗譜という文化は、個人的には決して音楽レベルを上げることにならない、と思っています。
どちらかというと素人的な文化に感じます。もちろん、暗譜が演奏にもたらす効果も良く理解しているつもりですし、必要悪的な側面はあります。
ただし暗譜することが、よく練習したことの証であったり、努力したことの自己満足的な行為だとしたら、それはあまり意味のないことです。まあ、コンクール的には良いイメージを与えることは確かなのですが。

もちろん、器楽でもコンチェルトのソリストはたいてい暗譜だし、オペラは当然のごとく暗譜、歌曲を歌う歌手もほとんど暗譜です。当然彼らは、非常に時間をかけて練習していて、恐らく暗譜をしようと思うまでもなく頭に入ってしまっているのだと思います。
しかし、オーケストラは暗譜しませんし、指揮者もたいていの場合は暗譜しません。
ヴィルトゥオーソではないプロで、短時間に多くの曲をこなし、常に楽譜を読みながら、指揮者の指示通りに演奏する立場の人たちはたいてい暗譜しません。

素人の暗譜は暗記を意味します。
そして、暗記は考える力を剥奪します。
音楽は生モノで、二度と同じ演奏はあり得ないはずなのですが、世の(コンクールを中心とした)合唱演奏では、何度演奏しても同じになるようなテープレコーダ的なものがとても多いように感じます。これは練習回数を重ねることが、逆に音楽のライブ感を失なわせてしまう悪しき兆候です。
私はこのような演奏と暗譜はつねに一心同体にあるような、そんな気がしてしまうのです。

とはいえ、合唱団員全体の士気を上げ、曲に対する集中度を無理矢理高めるためには暗譜は確かに有効な手段ではあります。その効能と、悪い面とをバランスを考えて選択することが必要です。
私はある程度の力のある合唱団が新作初演をするのなら、譜持ちで臨みたいと考えます。

2009年10月19日月曜日

我流、指揮法 ─ 毎回同じ指揮であるべきか?

同じ曲なのに、振る度に指揮が違うってことは悪いことでしょうか?
真面目に考えるほど、この結論を単純に出すことは難しいはずです。振る度に指揮が違うのは、アマチュアの歌い手にとっては一般的に良いことでは無いですが、必ずしも悪いとは言い切れません。では、何が悪くて、何が良いのでしょう?

そもそも合唱の世界で、振る度に指揮が違う、というのはたいていの場合、指揮者の力量欠如が原因と思われます。前回言った、制御している感じの弱い指揮というのは、拍やビートが不明瞭で、そもそも指揮者が作りたい音楽を棒のみで指示出来ていない状態を言っているのですが、結局そういう指揮者の元では、歌い手は指揮者の動きそのものを記憶して歌うようになります。だから、その指揮者がちょっと振り方を変えると、歌い手が混乱してしまうわけです。
逆に、指揮そのものが十分明瞭であれば、振り方が変わったとしても歌い手は付いてくることが出来ます。どの程度なら明瞭か、というのは感じ方が人それぞれでしょうが、指揮が明瞭でないほど、振る度に違う指揮は罪が深いということは確かでしょう。

とは言え、音楽は生モノです。歌うメンバーや場所、時間や天気によってさえ、音楽は変わる可能性があります。そういったライブ感は、演奏者側にもその時にしか出来ないノリを生じさせます。
それを否定してしまうと、音楽そのものが硬直し、柔軟性を欠いたものになります。
であれば、テンポ感やフェルマータの長さ、フレーズのため具合等の指示が、振る度に変わっても良いのではないでしょうか。
もちろん、そういったその場でしか出来ないノリを楽しむことは、その場のノリで適当にやっても問題無いという免罪符であってはならないわけで、そのためには、指揮者も歌い手もそれ相応の技倆が必要です。
振る度に違う、ということを肯定しながらも、他人が付いてこれなければ意味がない、ということを肝に銘じて指揮をしようと思います。

2009年10月17日土曜日

MacBookPro購入

私も妻もそれぞれの部屋でパソコンを使っていると、部屋に籠らざるをえません。
ところが乳児の世話をしていると、居間に貼り付くことになり、パソコンも触れずフラストレーションが溜まっていました。
そんなわけで、居間に一台ノートパソコンが欲しいなあと思っていたのですが、善は急げとばかりMacBookProを買ってしまいました。用途はネットを見るくらいなので、13inchの一番安いやつです。今も新しいMacBookでブログを書いています。
このパソコンは私も妻も使うので、アカウントを二つ作成。妻はメールまでMacに移行させて、このパソコンをメインにさせるつもり。これで、二人とも晴れてMac党になるはず。

パソコンも平均すれば2、3年に一度は買っているので、一般的に見ればパソコンへの金の掛け方は多い方かもしれません。しかし私は作曲でガンガン使ってますし、今では文書作成だけでなく、写真管理も、ビデオ編集も、CD作りも、趣味のソフト開発も行っています。もはや私はパソコン無しでは生きてはいけない身体になってしまいました。
パソコンだけでなく、無線LANはもちろん、バックアップ用のHD(TimeMachineを利用)などパソコン周辺の整備にもいろいろと出費していますが、自分の生活の必要経費としてきちんとお金を掛けるべきだと思っています。

まずは子供をあやしながら、ネットも見れて超便利です〜。

2009年10月12日月曜日

我流、指揮法 ─ 制御する感じ

あまり、日々の出来事を書かないブログですが、たまにはネタ振りのために書いてみましょう。
昨日、静岡県の国民文化祭の練習が伊豆でありました。松下耕氏への委嘱作品を、県内の寄せ集め合唱団でオケ版で初演する予定ですが、昨日は初めてのオケ合わせの練習。
残念ながら昨日はテンポ合わせに終始する結果に。指導する松下耕さんもやや苛立っているように感じました。何とか、本番までにはうまく合うようになればいいのですが・・・

上記の合唱団は全体的に年配の方が多く、しかも合同練習の回数が少ないので、必ずしも音楽的な機動性が高くはありません。このような合唱団での練習は往々にして数をこなして、頭に叩き込むという練習になりがちです。
昨日の練習においては、本番の指揮者&オーケストラ伴奏で、日頃聞き慣れない音響と、テンポ感についていけなかったというのが真相でしょう。
ですから、本質的にこの問題は、演奏者の現場での柔軟性が問われているわけです。そしてそういった柔軟性とは、反復練習で頭に叩き込むやり方と一線を画すものでもあります。

演奏者が指揮に追従できる柔軟性を持つにはどうしたら良いでしょう?
指導者は反復練習で歌えるようになる、ということに甘えてはいけないと思います。常に、指揮者が団の音楽全体を掌握し、歌い手が指揮を見ずにはいられない状況を作らねばなりません。
演奏者が指揮者を見ないのは、見るに値しない指揮をしているからかもしれません。
指揮が常に音楽全体を掌握し、制御している感じを醸し出さないと、演奏者は指揮者を単にキュー出し係としか思わなくなるでしょう。

そのためには、テンポ感はもちもろんのこと、各パートの出だし指示、フェルマータの入りと切り、リタルダンドの分割、パウゼを止める時間、こういったもの全体に細やかな配慮と、決然とした明瞭な指示が必要です。
細かい指示が不明瞭だと、いつか演奏者は指揮者を見なくなります。
指導に関わったものとして自戒の念も込めつつ、昨日はそんなことを感じていました・・・

2009年10月11日日曜日

我流、指揮法 ─ 右手と左手

右手と左手をどう使い分けるか、について。
一般には右手で拍をきざみ、左手で表情を付けて、などと言われたりしますが、もちろんそうでなければいけないなんてわけがありません。結局ここでも、決まった方法など何もないわけです。
とはいえ、いつでも両手が左右対称に動いているのは、あまり効率的な指示とは言えないでしょう。

一つの曲にはいくつかの転換点があるはずです。
曲調が変わったり、テンポが変わったり、調が変わったりするようなタイミングです。
音楽的に大きな変化があったのなら、そこは大きな形を作って指示する必要があります。そういう意味で、両手がフル活動するタイミングはまさに、音楽の転換点にあると私は思っています。
rit.するとき、フェルマータから次のフレーズの出だしを指示するとき、暗い曲調から明るい曲調に転換するとき、この変化のときを両手で大きく示してあげるのです。
逆にそれ以外の箇所、つまりテンポも音量も表情も安定している状態では、右手で拍を打つ程度にしてあげたほうが良いと思います。

本来、指揮は必要最小限であるべき、というのが私の理想です。
ですから「振りすぎ」には、いつも注意すべきだと心がけているのですが、ついつい気持ちが入ると私も大きく身体が動いてしまいます。
しかし、安定した箇所で振りが大きくなれば、変化の指示にとっておくべき大きな指揮表現が効果的でなくなってしまいます。ですから、どんなにアップテンポでもフォルテシモでも、音楽が安定している状況ではなるべく振りを大きくしないようにしたいものです。
そもそも表現過多な指揮者というのは、私はあまり好みではないのです。まあ一般には、汗を飛び散らせながら、指揮台の上で飛び跳ねたりする熱い指揮ぶりが礼賛される傾向にありますけれど。

2009年10月8日木曜日

我流、指揮法

指揮というのはセオリーがあるようでいて、方法論はあまり明文化されていません。逆に教科書的なやり方では現場での柔軟な対応が出来ない、とても厄介な技術です。指揮の説得力にはどうしても人格的な要素が入り込んでしまい、それが純粋な技術論を見えにくくしている原因であるようにも思えます。
とはいえ、棒のテクニックだけでもより明瞭な指示は出来るはずです。私が意識していることなど、ちょっと書いてみましょう。

まずはテンポによる図形の描き方の違い。
斎藤メソドによる用語を使うと、テンポが遅い順に
 平均運動→しゃくい→たたき→直接運動
というような図形を描きます。
平均運動とは、例えば三拍子なら、三角形をゆっくり等速運動で描きます。打点(拍の頭の音が出る位置)は三角形の頂点ではなく、辺の中間あたりにある感じです。これで緊張感のあるレガートを拍を分割せずに表現できます。
しゃくいとは、振り子の運動のような動き。打点は一番速度が速いところになります。平均運動よりテンポが速くなり、ゆったりした中庸のテンポに利用できる最も一般的な振り方と言えるでしょう。
たたきは文字通り、叩いたときの運動です。しゃくいの振り子運動が鋭角的になった感じ。当然打点は叩いて跳ね返った点になります。快活なテンポを表現するのに向いています。
直接運動は、例えば三拍子なら、各頂点を瞬間的に移動させ、頂点で棒を止めるような振り方。棒が動き終えた瞬間が打点です。テンポが非常に速く、一定であるときに使います。

中庸なテンポなら誰でも振りやすいのですが、テンポが遅いとき、及び速いときは、指揮の技術が試されます。
テンポが遅いとき、棒が止まってしまうと次の打点が予測できずに歌いづらくなります。従って、平均運動でなるべく棒が止まらないようにする必要があります。
また、テンポが速いとき、たたきだと非常に動きが多くなり、せわしない感じになります。これもテンポが明瞭でない原因になりますが、直接運動だと、コンパクトに明瞭なテンポを示すことが可能になるのです。

2009年10月2日金曜日

オカルトが生まれる背景ー進化論

今年はダーウィン生誕200年、「種の起源」発表から150年というダーウィンイヤーだというのはご存じでしょうか。
それに合わせたのか、ダーウィンの生涯を描いた「クリエーション」という映画が作られたのですが、これがアメリカでは上映されないことになったのが話題になっています。

知っている人もいるかと思いますが、アメリカでは未だに進化論を信じない人が国民の半分ほどいるのです。恐らく、アメリカのキリスト教徒は世界の中でもかなり保守的で、未だにキリスト教原理主義的な考えが根強く残っています。
そもそもダーウィンが「進化論」を発表するのをためらっていたのは、その内容がキリスト教の教えを否定しかねず、いわば現代のガリレオになることを恐れていたためです。
しかし、150年たった今でさえ、アメリカでは神が人間を創造したと聖書に書いてあるが故に、進化論を信じない人がいるのです。
そのためか、アメリカの多くの学校で進化論は教えられてはいませんし、教えられても学説の一つとして扱われている程度なのだそうです。映画配給会社もそのような状況の中で、上映はしないほうがよいと判断したのでしょう。

宗教が絡むのでやや繊細な話題ですが、これ、かなりのオカルトだと思いませんか。
そもそもオカルトが生まれる背景には、キリスト教という非常に明確な理由があります。例えば、仏教徒が全く同じ理由で進化論を否定しない限り、彼らの主張は科学的に、あるいは論理的にどうみたっておかしいのです。
もちろん、進化論自体、私たちが日々体験する自然現象からは想像しづらい理論ではあるのですが、今や生物科学の最前線でこれを否定することは不可能なくらい常識になっていると私は思っています。

先日初演した拙作「生命の進化の物語」も、生命の進化の不思議さ、面白さをテキストとして扱った合唱曲です。ちょっと宣伝になりますが、近いうちにこの楽譜を出版する予定ですので、是非お買い求め頂ければと思います。
しかし、この楽譜もアメリカでは発禁処分になってしまうのでしょうか。(どう見ても余計な心配^^;)

2009年9月27日日曜日

オカルトが生まれる背景

オカルトには、それが生まれる背景というのがある気がします。
オーディオの場合、70年代、80年代頃のオーディオに活気があった時代というのが、そのバックボーンではないかと思います。当時はまだデジタルではなく、新製品が出るたびに音質が確実に向上するような時代でした。
高級でバラツキのないコンデンサやコイルが使われれば歪みが減って、SNも良くなり、音も良くなります。レコードプレーヤも、モーターがしっかりしていてターンテーブルが重ければ回転もムラがなくなります。
そんな中で、あらゆるパーツを高品質にし、最上のオーディオ再現空間を作る、ということがオーディオマニアの喜びでありました。お金持ちにとっては、最高の贅沢な趣味であったと思います。

恐らく、そんな高音質オーディオの楽しみをリアルタイムで体験したのは、私よりちょっと上の40代後半から60代くらいの世代。フジの特ダネの某キャスターとか、専用のオーディオルームを持ってることをよく自慢してますね。
今でもオーディオ評論家はこの世代が中心で、逆に私より下の世代で高音質追求型のオーディオ評論家というのはほとんど聞いたことがありません。はっきり言って、今の若い人にとっては、音質が良いということにそこまで拘る心意気のようなものが理解できないのではないでしょうか。

デジタルの時代になって、アナログに変換される直前までは理論的に音質劣化が無くなる時代になっても、まだ当時の体験が身体に染みついている世代には、飽くなき音質追求には終わりが無いと感じているに違いありません。

2009年9月24日木曜日

オーディオというオカルトーあえて波風を立てません

本当はまだまだオーディオのオカルトとしてのネタ、いろいろ出てきそうですが、そろそろこのあたりで話を収束させます。
そもそも、物事をなるべくロジカルに考え、真実を追究することを是としている私にとって、オカルト的なものは総じて容認しがたいものなのですが、オカルトな皆さまはほとんど聞く耳を持たず、たいていの場合話は平行線です。話せばわかる、なんてあり得ません。

だいたいオカルトって、ロジカルに考えてみれば人々の欲望や恐怖の裏返しなんですね。
こうなって欲しいとか、逆にこんなになって欲しくない、ということを人間はついつい想像してしまう。想像したものを形にすると、それに共感を覚える人は必ずいるのです。幽霊とか悪霊とかもそうだし、神様や仏様だって同じこと。
宗教的なことでなくても、納豆を食べれば痩せられるとか、このお酒を飲んでいれば健康でいられるとか、サプリメントや健康食品なども、よくよく考えればかなりオカルトだと思います。でも、こうなって欲しいという欲望を刺激してくれるモノを、我々は無批判に受け入れてしまう傾向があるのでしょう。ある程度、理屈で考えればあり得ないとわかるのに、いったんそう思い込むと他の考えを受け容れなくなってしまうのです。

私のみるところ、オーディオでオカルト的な話を信ずる方は、他のことに関してもややオカルト傾向を持っています。健康食品とか、心霊現象とか、ユダヤ陰謀説とかそういうのが好きなんです。
まあ、そこまでいくと個人の嗜好の問題ですから、もはや私は何も言いません。だって、そういうことに敢えて波風をたてるってのも大人げない感じがしますし・・・

しかし、私はオカルトな皆さんに忠告いたします。
きっとあなたは詐欺のような商売にいつか引っ掛かることでしょう。今でも、無駄な出費をしているかもしれません。賢い消費者でいたいと思うのなら、オカルトに惑わされない知識と思考を持つべきです。消費者庁もそこまで助けてはくれませんから。

2009年9月22日火曜日

オーディオというオカルトー圧縮オーディオ

圧縮オーディオというのは、MP3とかAACとか呼ばれるオーディオ系ファイルのこと。
では、圧縮していないオーディオデータというのはどんな状態のことを言うのでしょう?
CDは全く圧縮されてません。CDのデータ量は一秒あたり、44100(Hz)×16(bit)=705kbit、これがステレオで2倍になり約1.4Mbitの情報量です。この場合、1.4Mbpsと表記します(1秒あたりのbit数)。
これってちょっと前のADSLのスピードくらいでしょうか。

ちなみにMP3では、圧縮率が可変になっていて、割と多く流通しているのが192kbpsとか、128kbpsとかいうデータ。
これってよく考えるとすごくないですか? オリジナルの1/10くらいまでデータを圧縮しても、結構人は普通に音楽として聞けちゃうんです。現在ではMP3、AACもすっかり市民権を得てしまって、ほとんどの人は何の疑いも無く、圧縮オーディオの音を楽しんでいます。
もちろん、こういった圧縮オーディオは非可逆変換ですから、圧縮前のデータに比べて明らかに音は悪くなります。測定すれば歴然と結果は出ますし、今まで私が言及したその他のオーディオ音質劣化の要素に比べればあまりに明白です。レートを下げて慎重に聞いてみれば、かなりの人に音の違いはわかるはずです。

しかし多くの人々にとって、実際に音楽を聞く分にはそれでも構わないのです。逆に、良くもここまでデータを間引いたものだと、そのアルゴリズムにほんとに感心します。
もちろん、圧縮オーディオなんて絶対聞かない、という強者もいるようですが、私から言わせてもらえば、ほとんどの人の「音」の対する感度というのは結局こんな程度のものだと感じます。
私は音の良さに対する人の意識のレベルの低さを嘆いているのではないのです。人間がそれほどセンシティブに感じない領域を重要視しているオーディオマニアのオカルトさが、何とも愚かしく思えてくるのです。

2009年9月19日土曜日

初音ミク ベスト-memories-

Mikumemories初音ミクと聞いて、オタク世界で勝手に盛り上がっている現象と侮ってはいけません。
今までニコ動でたまに聞いていた程度でしたが、結構このベスト盤が売れているということで買ってみました(ちなみにもう一つのベスト盤は買ってません^^;)。
しかし、一通り聞いて思ったのは、もうこれはプロの仕事ですよ~。CD化に際しては多少は再ミキシングやマスタリングなどでオリジナルよりは良くなっている可能性もありますが、それにしても、オリジナルの音楽性の高さもなかなかのものです。普段聞くJ-POPよりももう一段、アレンジや音作りが凝っているし、作曲や詩のセンスもなかなかのもの。作り手の音楽レベルの高さが伺えます。
私もポップスの音楽制作のマネ事をしたこともありますが、これだけのクオリティのものを作れる自信は全くありません。もちろん、趣味で音楽制作をやっていてこれくらいのレベルに達する人もいると思いますが、恐らくこの作り手の中のいくらかはプロとして活動している方もいるのではないかと推察します。

実際、現在のCD不況、音楽産業不況は目を覆うばかりなのです。
CDが売れないから、売れない音楽は作らなくなり、制作が決まってもオリジナル作品の制作費は減らされます。最近はアレンジャーが自宅で作ったカラオケに、歌手が一日スタジオを借りて歌を入れ一枚完成、なんてこともザラです。また、新譜であっても制作費がかからない過去のリマスタリングとか、ベスト盤が増えています。
こういった中で、実際飯を食えているミュージシャンはごく一部で、日頃作曲コンペに提出するために曲を作りつつ、コンビニでバイトしたり、楽器販売店員として生活をしているようなプロミュージシャンはたくさんいます。

こういったワーキングプア的なミュージシャンの中でも十分音楽的な実力があり、クリエイティビティのある人がいても不思議ではありません。そういった人々が、切り詰められた制作費でつまらない要求をするレコード会社相手に仕事をするより、直接賞賛を得られ、音楽的にやりたいことを存分に行える世界のほうが(金銭的対価が無いとしても)魅力的であるのは想像に難くありません。

「初音ミク」現象はまさにそういった状況を反映して現れたものではないかと思うのです。
もちろんオタク的、萌え的な要素で人気が出たのは確かですが、私にはむしろ作り手が「萌え」という市場を意識して作った戦略的な作品のようにさえ思えます。
アーティストがレコード会社やCDショップという中間部分を省いて直接愛好家に音楽を届けることが可能になったことを「初音ミク」が象徴的に成し遂げました。
その後、音楽産業はどうなるのか、個人的にそちらのほうが興味があります。

2009年9月17日木曜日

オーディオというオカルトープラシーボ効果

プラシーボ効果という言葉をご存じでしょうか。
検索してみると、医学関係の記事にヒットします。偽薬効果とも書いてあったりしますが、要するに「これは身体に効きますよ」といって、全く効果の無い薬を処方しても、思い込みで治癒してしまうような現象のことです。まあ、それほど人間の思い込みは強い、ということでもあります。
プラシーボ効果をオーディオという文脈の中で使う場合、逆に悪い印象を表現することが多いように思います。つまり、オーディオ機器の設定を全く何も変えていないのに、「音が良くなるように設定変更しました」と言った後に音を聞かせると、音が良くなったように感じるというような現象です。

これは「○○を変えました」という明確な内容で無くても、周囲で音評価のプロと呼ばれている人が発した言葉とか、世間的に評判の高い評論家の言葉とか、そういう人々の意見に自分の思考が大きく影響させられる状況にも当てはまります。
これは過去に何回か、権威主義的な態度ということで私も話題にしたことがあります。

まあ、グルメの話題とか、日常のたわいのない会話レベルでは、気にするほどのこともありませんが、実際に良い音を求めることを生業としている人にとっては切実な話です。
そしてたちが悪いのは、多くの人が周りの意見に惑わされず、自分の意志できちんと判断しているという根拠の無い自信を持っているということ。しかし私のみるところ、自分も含めプラシーボ効果と無縁で判断するなどというのはあり得ないように思えます。

では、プラシーボ効果を完全に排除するにはどうしたら良いのか?
それはブラインドテストを行うということに尽きます。事前に何の情報を与えずに音を聞かせ、どっちが良いかを問うわけです。オーディオの世界では、ABXテストという手法がよく使われます。
ブラインドテストというと、評価者は自分の感覚を疑われたような気分になるのですが、それに理解を得られるような人でなければ、本来音の評価などやってはいけないのではないでしょうか。
とはいえ、なかなか人間関係の中で、そこまで人を疑うようなやり方をいつも出来ないというのが現実ではあるのですが。

2009年9月14日月曜日

オーディオというオカルトージッター

既に述べたサンプリング周波数、量子化ビットによる音質劣化は、理論的にある程度その効果を理解することができます。そこでオカルト探しの人々はさらなる音質悪化理由を求めて、否定も肯定もしづらい怪しい原因を探し出してきたのです。
それは、ジッター。
オーディオマニアの方なら、ジッターという言葉は聞いたことがあると思います。ジッターというのは、簡単に言えば、デジタルのクロックのヨレみたいなものです。
クロックが乱れていれば、いくらデジタル信号が正しくても、アナログ信号に変換する際に波形が歪んでしまいます。こういった時間軸のヨレは、非線形な波形の歪みを生むことが予想できますが、実際のところどのような音質の悪さになるのか、残念ながら私自身は体感したことがありません。

かなり高精度の機器を使用しても、どうも今ひとつ音像がクリアでないと評価者が感じた場合に、「ジッターのせいかな」というようにこの言葉は使われます。この場合、ハードの担当者がクロック信号の信頼性を強化するような基板修正を行います。
まあ、たいていの場合、基板を修正しても、その前後で音の違いがわかる人はほとんどいないのですが、「音が悪い」と言い出した当の本人が「あ、変わりましたね〜」等というと、関係者はやはりそれが原因だったんだと納得するわけです。
噂では、基板を全く修正せずに持っていって、評価者に「良くなりましたね〜」等と言わせる強者もいるとか・・・。

パソコンを始め、世の中のデジタル機器が凄まじい速さのクロックで動作している現在、サンプリング周波数の44.1kHzなどというクロックは亀のようなノロさであり、それが音質に影響するほどヨレているなんていうことがあり得るのか私には皆目検討が付きません。
ということで、ジッターの話になると、最近はあまり深入りしないように気をつけています。

2009年9月9日水曜日

Place To Be/上原ひろみ

上原ひろみのピアノソロアルバム。
これまでピアノソロというと、どちらかというとメロディアスでしっとりした曲調だったり、コテコテのジャズだったりして、クリエイティブな側面では実はそれほど期待していなかったのです。
しかし、そんな不安も杞憂に終わりました。1曲目からハードで過激な雰囲気(途中までほとんどミニマルちっくな現代音楽)。超早弾きも複雑な変拍子も健在。ピアノソロという単調に陥りやすい音像をものともせず、多面的なピアノ音楽の深みを追求しているのが良く伝わってくるのです。

終曲は矢野顕子がボーカルで参加。(矢野顕子も若い頃の音楽は過激で大変好きなのだけど・・・)
もちろん、しっとりした曲もコテコテの曲もありますが、何しろ他の楽器が無いだけに純度と密度の高い、凝縮された上原ひろみの世界が楽しめます。おまけのDVDも必見!超おススメの一枚です。

2009年9月6日日曜日

オーディオというオカルトー量子化ビット数

サンプリング周波数の次は、量子化ビット数。
CDは16bit。16bitというのは、2の16乗のことなので、数値的には65536段階まで音圧を表現できるということです。
ただこんな数値を言われても、なかなか感覚的に理解できません。そこでdB(デシベル)という単位を利用します。これは音圧を対数にしたものなので、何倍とかいう表現を足し算で記述することが出来ます。
音が2倍になったとき、6dB大きくなったと表現します。4倍になったときは、12dBです。CDは2の16乗なので、この倍々が16回、すなわち6dB×16=96dBということになります。

またまた数値だらけですいません。
すごく単純にいえば、小さな音から大きな音まで(以後、ダイナミックレンジと呼びます)CDは96dBの範囲で入れることができる、ということです。
人間の耳のダイナミックレンジは140dB程度と言われています。これは、例えば無響室(全く音が響かない実験室)で聴く微かな衣擦れの音から、爆音のロックコンサートをスピーカの前で聴いて耳が潰れる寸前のような大音響までの幅が140dBくらいと思えばいいかもしれません。
確かに24bitくらいまであれば140dBのダイナミックレンジが実現しますが、そんな音を鳴らすスピーカはそうそうないし、そんな爆音を自分の家で鳴らしたら近所迷惑。まあ、普通の音楽鑑賞ではそんなダイナミックレンジは必要ありません。
今どきのポップスは、ヘッドホンステレオで聴き易くするため、むしろコンプレッサーでダイナミックレンジを減らす傾向にあり、実は30dB程度で十分鑑賞可能ではないかという気もします。もちろん、あんまりデジタル信号が粗いと量子化ノイズが目立ってしまいますが。

例えば、ピアノのある鍵盤を一つポーンと弾いて、音が消えるまで鍵盤を押さえ続けたとします。被験者に音が完全に消えたというタイミングで手を挙げてもらうと、音が鳴り始めてから消えるまでの音量差は、私の経験的に50〜60dB程度と思います。もちろん無響室で行えば、もっとその数値は高くなるでしょう。しかし、普通に聴く音がそんなに大きくないのであれば、実際に私たちが音楽として必要とするダイナミックレンジは無闇に大きい必要はありません。

だいいち、96dBのダイナミックレンジを正確に再現しようとすればむしろアナログ部品のほうが割高になってしまいます。たいていの機器はそれより低いSN比で、ノイズの方が勝ってしまいます。1万円程度のCDラジカセでは、CDのダイナミックレンジを表現できるほどの音は出ないはずです。
そんなわけで、量子化ビットに関しても、CD以上の品質は必要無いと私は考えています。

2009年9月4日金曜日

オーディオというオカルトー例えばサンプリング周波数

やや技術よりな話になりますがお許しを。
CDはデジタルで音声信号を記録してあり、その能力は44.1kHzのサンプリング周波数と、16bitの量子化ビット数です。
44.1kHzのサンプリング周波数というのは、1秒間を44100回に分解する細かさということです。

サンプリング定理により、44.1kHzのサンプリング周波数に含まれる最大周波数はその半分の22.05kHzになります。
人間の可聴域は20Hz〜20kHzと言われているので、CDのサンプリング周波数はその範囲をカバーしていると言えます。

例えばこれに突っ込みを入れる人もいるのです。
人間は、20kHz以上の音も耳でなく身体で感じている・・・とか。あんた、コウモリですか、と私は言いたい。もちろん、そういうことが皆無だと否定する気はないけれど、少なくとも音楽を楽しむのに必需だとはとても思えません。
しかも、デジタルでなくアナログならそれが再現できている、と言われると、それはあり得ないと突っ込みたくなります。

最近、深夜の公園で若者がたむろっているのを防ぐために、モスキート音を流すという話題がありました。モスキート音はだいたい17kHz付近の音。
人は老化すると高音が聞こえなくなります。20〜30代くらいまでならモスキート音は聞こえるのだけど、それ以上の年齢になると聞こえなくなるのです。
実は、私も最近ショックなことがあって、若い人に聞こえる波形の歪みが聞こえないことがあったのです。ちょっとした発振器で調べると、私も15kHzより上はかなり怪しいことが判明。
それ以来音を聴いて、高音まですっきり再生されていていい音だ、などと偉そうなことが言えなくなりました。
50代以上のオーディオ評論家など、何をか言わんやです。
こんなソフトもありますので皆さんも自分の可聴域を調べてみたらどうでしょう。

結果によっては、オーディオの音がどうだとか、だんだん言う気が無くなってくると思いますよ。

2009年9月3日木曜日

オーディオというオカルト

前からこのネタを書こうと思っていたんですが、多くの人から反発を受けるのを恐れていたのです。もちろん、今でも恐れているわけですが・・・
私は音や音楽について、趣味にも仕事にもしてしまっているのですが、もちろんその中で私自身が追求していることは「いい音」であり、「いい音楽」です。

しかし、オーディオの世界で「いい音」というのはかなり怪しい世界です。
最近だと高音質なCDとか話題になりましたが、材質を良くするだけで音が良くなる、というのは少なくとも私には信じ難い話。いや、ここだけですでに多くの人から突っ込みを受けそうなので、この話は置いときましょう。

あまり大きな声では言えないのだけど、この手の話で仕事で揉めたりすることもあるのです。
プログラムやデータはどうチェックしても悪くないのに、音響の担当からは音が悪くなっていると言われたりすることがある。それで皆で集まって試聴をするのだけど、私には全然違いがわからないのに「ほら、全然違うでしょ」とか言われたりするわけです。

オーディオ的な音の善し悪しを議論するとき、いつもベースとなる土台が不安定な状態で会話しているような気がするのです。何と何を比べて何が悪くなったのか、どんな条件を変えてみたのか、きちんといろんな条件を洗い出して、表にでも書いて原因を追及すれば良いのに「あのときのあの音が良かった」とか言って再現不可能な状況の話をしたり、「こっちのほうが音に暖かみがある」とか言って、音質の違いを音現象の語彙で語らなかったり・・・そんなことばかり。

愚痴を言うつもりではなくて、どうしても人は感性の言葉で音を語りたがる傾向があるのでしょう。
しかし、それがいったん許されてしまうと、音現象を数値で評価するのは大変難しいために、理屈としてはどうしてもあり得ないような、怪しいオカルトがまかり通ってしまうように思います。

2009年9月1日火曜日

絶対美では無く・・・

お客様に喜んでもらう、とはどういうことでしょうか?
もちろん、一般的な意味において誰も否定はしないこととは思いますが、私には多くのアマチュア合唱愛好家は、理想的な絶対美のようなものを信仰していて、それを追い求めることこそ崇高な行為だと思っているように感じられます。
それは果てしなく険しい道です。だからこそ、求めがいもあるとも言えます。
しかし、そうやって追い求めている音像は、理想的であるからこそなお遠く、真理を求める苦行僧がごとく、知らないうちに追い求める行為そのものが目的化してしまうのです。

ほとんどの人にとって、興味の対象は発声です。発声の絶対的な美しさを追い求めることこそが、合唱活動の永遠の課題であるかのようです。
しかし、音楽の多面的な楽しみからすれば、それはわずか一面に過ぎないと私は思います。そのような芸術観の視野の狭さこそが問題では無いでしょうか。

自分の求めていることとお客が求めていることが違うと、お客の音楽的レベルを過小評価することがあります。自分たちが日々練習でやっていることをお客は知らないと思うからです。しかし、それはほとんどの場合、単に需要と供給が成り立っていないのであって、もう少しくだけて言えば、お客様に喜んでもらうような演奏をしていないのだと思います。
では、本当にお客様が楽しいと思うことは何なのか。
一般には、知っている曲を聴くと楽しいと考えると思いますが、これはそんなに単純なものではありません。難しい曲だから、お客様が喜ばないのではなく、その曲の良さを伝えていないからお客様が喜ばないということは無いですか。
お客は実は啓蒙されたがっているのかもしれません。自分の知らない世界の面白さを垣間見せてくれるような演奏をこそ、望んでいるのではないでしょうか。

2009年8月28日金曜日

指揮者というお仕事

私自身は合唱指揮者として活動できるほどの人徳は無いので、基本的には指揮ではなく作曲家として活躍したい、と考えていますが、今回の東北大の演奏では思いがけず、初演の指揮を務めることになりました。
こんな経験初めて・・・と、思ったら数年前、浜松ラヴィアンクールの演奏会で自作曲を振ったことを思い出しました。まあ、あれは地元だったし、それほど気負いはなかったわけですが。

でも実際やると他団体の指揮は結構面白いんですよね〜。
毎週会うメンバーで無くて、月に一度くらいのペースでの指導というのは、それなりに緊張感があるし、食いついてくる感じもかなり違う。今回は大学生っていうのもあったけれど、打てば響くような快感の中で指導をしていました。
もちろん、それなりの責任があるわけですし、確実に演奏の質を高めるような指導で無くてはなりません。まだまだ私自身反省すべき点はありますが、何となく客演指揮者としての自分のペースというのが掴めてきたような気がしています。

私の指揮で歌った方は感じると思いますが、私は聴いたお客さんがどのように感じるか、ということを徹底的に意識します。私の中で「仮想客」という像を定義し、彼が喜ぶにはどのようにしたら良いかを考えるのです。
「仮想客」は、演奏会なのか、コンクールなのかによって、質が若干変わります。だから、どこで演奏するかで演奏の内容も変わります(これについては否定的な意見の方もいると思います)。
それから最近は、日本語のディクションに非常に拘っています。ほとんどの合唱団の演奏で、日本語がきちんと聞こえないと常々感じているからです。練習中場合によっては、音素単位まで分解して、一つ一つの子音や母音の出し方まで言及します。やや、細かすぎて辟易とされた方もいるかもしれません。
あと、音という物理現象を理系的語彙で表現します。まさか、合唱の練習で微分、積分が応用されるとは思いもよらないでしょう。ヴォア・ヴェールでは、気が遠くなっていた人もいましたが。

まあ、こんな指導でよろしければ指揮をするのはやぶさかではございません。
実は、11月にも横浜にて女声合唱団の本番の指揮をすることになっています。もちろん拙作の初演です。詳細はまた追ってお知らせ致します。

2009年8月24日月曜日

委嘱初演・夢と幻想の仙台

Img_0034無事、東北大学混声合唱団の委嘱作品初演が終わりました。
大学内にある川内のホールも今は萩ホールと名前を変え、素晴らしい音響のホールに生まれ変わっていました。外観は変わっていないのですが、中はクラシック演奏のできる広い舞台、そして今風のシックな内装となっています。
このようなホールで、しかも多くのお客様の前で、拙作の初演を出来たことを大変嬉しく思います。
改めまして、今回の演奏会の企画からご尽力頂いた皆様に厚く御礼申し上げます。

50周年記念演奏会ではOBステージがあったのですが、そのために集まった人のうち、自分の世代に近い年代の方々と会えたのも演奏会の楽しい時間となりました。私は卒業以来、本当に不義理をしていて、20年もの間仙台には行っていませんでしたから、指揮の佐々木先生を始め、多くの大学時代の合唱団の先輩後輩は20年ぶり。本当に涙が出るほど懐かしかったですよ。会えて、本当に嬉しかったです。

私の中では、もはや仙台は記憶の中にさえなくて、夢の中に現れるような街なのです。
そんな街で拙作の委嘱作品を、しかも自分の指揮で初演したということは、本当に夢のような出来事でした。私の中の幻想の仙台に、また新しい印象が加わったように思います。

2009年8月19日水曜日

で、あなたの意見はどうなの?という社会

衆議院選挙が始まりましたね。
まあ、ほとんどの人が各党の政策の談義をしていると思うので、敢えて違う視点で語ってみましょう。
今回の選挙の面白さは、政権が変わるかもしれないという、まさにその点にあると思うのです。
今まで、ほとんどの場合、有権者の出来ることは知れていました。政権党はずっと同じだったし、派閥の争いは、私たちにとって客席からリング上の戦いを観ているようなものでした。目の前の争いを他人事のように観戦しているだけで、自らが選択する主体になるという意識はあまりなかったと思います。

政権交代が起こりうる海外の先進国の様子などを見ると、一人一人が実にはっきりと意見を言い合い、主張します。時には興奮のあまり手が出てしまうこともあるし、コミュニティを分断してしまうことさえあります。
私たちはそういう状況を密かに羨ましく思いながらも、はっきりした意見を持たずに、長いものに巻かれていたほうが、少なくとも表面的には平和に生きていくことができると感じています。
狭い日本でそれなりに一つの国家が長い間継続するには、そういう国民のメンタリティがどうしても必要だったのかもしれません。「空気を読む」とは、まさに言い得て妙。場を読み、全体の情勢を見ながら、自らの意見を決めていくという行動が私たちにとって重要だったのだと思います。
その縮図が国会であり、政治家の世界でした。私たちは彼らを見て、自らの属するコミュニティで同じような行動を取っていたのではないでしょうか。

しかし、今回の選挙は、そんな日本をほんの少しだけ変えるきっかけになるような気がするのです。
各自が支持する政党を応援し、そのために行動を起こす。まだまだ、その波は大きくはないけれど、政権が二回、三回と交代するたびに、私たちは自らの意見を持たざるを得なくなるのではないでしょうか。
政治家が討論の場で理想を叫び合うことによって、私たちの意識が少しずつ変わり、私たちも日常生活で理想を語り合うようになっていく、そんな風に世の中が変わっていくと日本の未来も明るい気がするのですけど。

2009年8月16日日曜日

iPhoneアプリを作ってみる

Gokonプログラマのキャリアとして、iPhoneのアプリを作れるようになれたらいいなと、ずっと思っていたのです。
今年はどこにも行かなかった夏休み(乳児がいるおかげですが)。ちょっと頑張ってiPhoneアプリ作成に挑戦してみました。ちゃんとしたアプリ名はまだ無いですが、画像を見ての通り「合コンでの会計アプリ」です。
合計金額と男性と女性の人数を入れ、端数の単位と男女の支払い比率を設定すると、払う金額を算出してくれます。

iPhoneのSDKは随分前からダウンロードしていたし、参考本も何冊か買ってみたり、時間のある時はObjective-Cに関する情報もWebで読んだりしていました。実際のところ、まだ細かいところは良くわかっていませんが、上の程度のアプリならば、InterfaceBuilder+XCodeの最小限の機能で何とか作れそうなことがわかりました(iPhone特有のUIは全て、Cocoa Touchというフレームワークで定義してあり、それをIB上で貼付ければ画面は作れます)。
ちなみに、Appleへの登録はしてないので、Macのシミュレータ上でしか動作しません。悪しからず。

もちろん、ゆくゆくは音楽系アプリ(合唱用とか)を作ってみたいものですが、それにはまだまだ開発環境についてお勉強の必要があります。
しかし、ピッチを検出したりとか、母音を判定したりとか、調号から移動ド読みを指南してくれるとか、いろんなアプリを作ってみたいという夢だけは膨らんでいます。

2009年8月13日木曜日

「生命の進化の物語」6曲目

6曲目は、実はもはや「生命の進化」を謡う音楽では無くなります。
この曲だけ、地質時代のタイトルが付いていません。架空の百万年後の世界がこの曲の舞台になります。
地球の歴史の時間感覚からすれば、あまりに急激に人類は発展し過ぎてしまいました。自らを過信した人間はこの地球を住めないほどの環境に変えてしまいます。そして人々は、百万年後の地球に戻るために、「ノアの箱舟」よろしく、時間旅行で未来の地球に旅立ちます。
ついに暗黒の地球に降り立った人々は、今こそ、新しい地球を作り上げようと誓いを新たにします。

曲はどちらかというと、ポピュラー音楽的な構造で作られていますが、寂寥感と絶望の中にあるかすかな希望、というテキストの内容を悲しげかつ壮大な雰囲気で表現します。特に終盤の盛り上がりでは、ショスタコービッチ第五番の最後のように執拗なピアノの同音連打で、状況の切迫感や新しい人類の決意を表します。

��曲目のテキストを通して間接的に啓蒙していることは、シンプルに言えば地球環境問題に対して意識を高めようということなのですが、私は反論の余地の無い正義側に立って、ただ正論を述べたいわけでは無いのです。
例えば地球温暖化と言うと、あまりに規模が大きすぎて、私たちのしたことの影響がちっぽけ過ぎるように思えます。しかし、世の中に起きていることは、そのちっぽけなことの集積です。
義務感のようなもので言われたことをやるというのでは無く、一人一人が自ら判断できる主体として、世の中について想像し、行動すべきなのだと思います。
そういった抽象的な人間のあり方を私は密かに主張したいのです。人間の本当の罪とは、想像力の欠如ではないかと思うからです。
それが大学生の歌い手、そして演奏を聴いて下さった聴衆の皆さんにどれだけ伝わるか、私に課した壮大な実験でもあります。

2009年8月12日水曜日

海辺のカフカ/村上春樹

Kafka村上春樹の本を始めて読みました。
もちろん以前から気にはなっていたものの、何となく食わず嫌いみたいな気分は感じていたのです。
ところが、実際この「海辺のカフカ」を読んでみたら、なかなか面白い。思っていた以上に、楽しめた小説でした。
かなりの長編ですが、文章は比較的平易だし、純文系にしては様々な出来事が起きて読者を飽きさせません。「僕」と大島さんの観念的な会話とかはやや閉口するのですが(いや、それが好きだという人もいるのでしょう)、カーネル・サンダースのくだりはギャグのセンスもなかなかで、笑いながら読めます。
しかし、これがエンターテインメントと決定的に違うのは、全ての設定の謎は解決されないまま放置されるという点。現実のようでいて、全く無茶な出来事が平然と起き、その超自然現象についても結局フォローされないまま。まさに、マジックリアリズムといった趣です。そういえば、村上春樹の他の小説なんかも粗筋を聞く限りはこんな感じなんでしょうね。

不思議な設定がフォローされない、というのは、ある種作者の自信のようなものだと思うのです。超自然現象でも何でもありとなれば、掟破りのストーリーだって可能です。凡百のクリエータは都合の良い設定を、ストーリー展開の都合のよさに使ってしまう。それをやっちゃあ、お終いよ~みたいな。もちろん、村上春樹はそうならない絶妙なバランスを知っている。
天から魚が降ってきても、カーネルサンダースがポン引きしていても、はたまたテレビがある天国があったとしても、それが物語の機能としてきちんと消化できる自信があるからこその奇想天外な設定なのでしょう。
オイディプスの神話を物語の軸として使っているのも、物語の流れにうまく一貫性を与えており、非常に構築性の高い長編小説であると感じました。

しかしその一方、春樹節のいけ好かない感じもやや鼻に付いたのは確か。
音楽や文学に関する薀蓄の多さ(クラシックの作曲家や演奏に関しては逆に興味深いけど)、クールなガジェットの使われ方(やたらにブランドを強調したりとか)、結局のところ男の欲望がすんなりと成就される展開、などなど。十五の若さで、プリンスやコルトレーンやレディオヘッドなどの洋物を好んで聞く老成さも気になるし(間違ってもサザンやミスチルなんかは聞かない)。
そっか、村上春樹って最近は日本より外国のほうが売れているって言うし・・・。

2009年8月10日月曜日

「生命の進化の物語」5曲目

「ぼくのママはミトコンドリアイヴさ〜」という言葉で始まるナンセンス詩。
概念上の存在ではあるにしても、人類の究極のご先祖様であるミトコンドリアイヴがいたからこそ、今の人類の繁栄がある、そんな想いを曲にしてみました。

16ビートの軽快なリズムによる音楽のノリは、ほぼポップス(あるいはラテン系)。ブラスセクション付きのロックバンドで演奏したくなるような音楽です。この上に、来る人類の繁栄を祈る子供の気持ちが託されます。
そしてイヴの子供は歌います。「何かを信じなければ、夢は語れない」と。

「生命の進化の物語」4曲目

生命の進化にとって重要なのは、お互いを攻撃し合う生存競争だけではありません。自ら子を産み子孫を残すことが無ければ種は滅びるのです。
親が子を育て、守っていくために、親は子供に愛情を注ぎます。そういった優しさも生命の進化を語る上での大事な一コマです。

曲は二分音符のシンプルな和音連打による伴奏の上に、想像の「恐竜の子守唄」を恐竜語で(つまりオノマトペのような音節で)歌います。
旋律はベース、テナー、アルト、ソプラノと引き継がれ、後半やや盛り上がった後、ゆっくり子供を眠りに導くように、静かに消えていきます。

2009年8月5日水曜日

「生命の進化の物語」3曲目

ペルム紀の大量絶滅では、生物種の96%が滅亡したと言われています。
��億年近い年月、地球上で大繁栄してきた三葉虫も、このペルム紀の大量全滅のときに全て滅んでしまいました。
楽園を求めてあてども無くさまよい続ける三葉虫たち。迷える者たちは力強く人々を先導する者を盲目的に信じるようになります。そして、三葉虫の一軍は、あるはずの無い楽園に向かって、死への行進に向かっていきます。

行進曲のようなビートの上に、力強いメロディが歌われ、途中、行進の足音なども現れます。断片的な言葉の連呼の後、三葉虫の一軍はソプラノのエキゾチックな歌による先導に従い、力強く行進を続けながら、だんだんと去っていきます。

2009年8月1日土曜日

「生命の進化の物語」2曲目

カンブリア爆発というのはご存知でしょうか?
進化というのは漸次的に少しずつ起きていくと一般には思われますが、世界中の化石を調べると、約5億年前に突如として様々なタイプの動物が現れたことがわかっています。
特に有名な化石の採掘場がバージェス頁岩。この時代の動物をバージェス動物群とも呼んだりします。

カンブリア爆発は生命の歴史の中でも非常に大きなトピックなのですが、それは生物が多様化したことと同時に、激しい生存競争が誕生したことを意味しています。
この中で小さくも逞しく生き、私たち脊椎動物の大元となったピカイア。彼らを賞賛しつつも、私たちの憂いの元となった生存競争(競争社会の出現)に想いを巡らせるというのがこの曲の趣意。

曲全体のほとんどは5/8拍子という変則的な拍子でありながら、流れるようなしっとりとした曲想となっています。

2009年7月28日火曜日

「生命の進化の物語」1曲目

「生命の萌芽」と題した1曲目。意味のある詩がなく、全てオノマトペのような無意味な音節の羅列で歌われます。
ただし、内容としては、太古の海の中で多くの有機物が合成され、それらが組み合わさってついに自己複製の力を持つまでに至る、生命誕生のプロセスを表現しています。
冒頭は"混沌"を表す不気味なピアノ低音の繰り返し。そして、その上にのる旋律の断片。それらは絡み合いながら、次第に位相を合わせていきます。そのうねりが頂点に達した時、ジャズ的なビートに乗ってフーガが始まります。フーガはDNAが子々孫々と受け継がれるために自己複製している様子を模しています。その後、テンポは遅くなり、壮大な生命讃歌のモチーフへと繋がります。

全体的に、ポリフォニックな作りとなっており、純器楽的な雰囲気を持っています。全曲の中で、音楽的に最も複雑で、また密度が高いと言えるでしょう。

2009年7月22日水曜日

「生命の進化の物語」について

今回の作品は、朝日作曲賞の佳作を頂いた「E=mc2」の系譜の科学ネタ組曲。
全六曲中、1、4の2曲が無意味語によるもの。残りの曲の詩は私が書いています。
自ら詩を書く・・・というのは、イタいものが出来てしまう危険性を孕みながらも、それでも楽曲構造から全て自らの手の内にあるということが、楽曲全体の統一性やメッセージ性をより強固なものにしていくはずです。そういう意味で、コンセプトや詩も含め自分が全て構想する、というのは私にとって組曲のあり方の一つの理想型だと思っていました。

各曲名は、地球のいくつかの地質時代の名前とその副題からなります。
1.先カンブリア代 ー生命の萌芽ー
2.カンブリア紀 ーバージェス頁岩ー
3.ペルム紀 ー三葉虫の見た夢ー
4.白亜紀 ー恐竜の子守唄ー
5.第四紀 ーミトコンドリア・イヴー
6.そして、百万年後 ーノアの末裔ー

もちろん、自分で詩を書かなければこんな内容の組曲は絶対に作れません。
一見、エクセントリックな音楽だと思われることでしょう。確かに、一般的な題材とは言い難いのですが、地球の歴史に思いを馳せるとき、今生きている我々がどのような業を背負っているのか、そしてこれからどのように生きるべきなのか、やや大きなテーマですが、そんなことを問いかけてみたいと思っているのです。

2009年7月19日日曜日

東北大委嘱作品の初演

東北大学混声合唱団50周年記念演奏会で拙作の初演が行われます。ポスターはコチラ
演奏会があとひと月ほどと迫ってきました。今回は私が初演の指揮をするので、7月、8月と月二回ペースで仙台を訪問し練習をします。明日も仙台に行ってきます。

元々私の古巣からの委嘱ではありましたけれど、曲の規模や、合唱団の大きさから、ほとんど私にとって初めてというくらいの大型委嘱プロジェクトです。
今回初演するのは、「生命の進化の物語」という組曲。私にとっては久し振りのピアノ伴奏曲で、全六曲の組曲です。
せっかくですので、このブログでもこれから数回に渡って、今回初演する各曲について紹介していきたいと思います。

2009年7月14日火曜日

十人で歌うメサイア

昨日、「COMPACT MESSIAH」と題して、ムジカチェレステによるメサイアの演奏会を遠州栄光教会にて開催しました。たくさんのお客様に来て頂きました。あらためて、ご来場御礼申し上げます。

今回の演奏会の特徴は、何と言ってもあの大曲メサイアを10人で歌った、ということです。そのため、伴奏はチェンバロ一台のみ(ローランドの電子チェンバロC-30を使用)。
曲は抜粋で、全曲の約半分ほどを選び、ソロも自分たちで歌いました。

一見無謀に感じるかもしれませんが、メサイアの対位法的な楽曲は少人数アンサンブルでこそ、曲の構造が明瞭になり、また旋律の絡みが強調されるようにも感じます。
もともと、バロック時代にそれほどの大人数で歌っていたとも思えないので、巷で開催される大規模なメサイアの演奏会と違った、別の魅力を表現出来たのではないかと自負しております。
まあ、小さな(?)事故はいろいろありましたが、お客様にも楽しんで頂けたようです。自分で言うのもなんですが、今回の演奏会はなかなか面白い企画だったのではないでしょうか。

今回のチラシはこちら

2009年7月9日木曜日

iPhone、シェイクでシャッフルの功罪

近頃、iPhoneでiPodを使っているとき、勝手に「ピロピロ」と音が出て次の曲に変わってしまう現象が起き、困っていたのです。
こういったメモリにはNAND Flashが使われているはずなので、NAND Flashが壊れて読めなくなっちゃったのかなあ、とか考えたり、そう言えばOSが3.0になったので、動作が不安定になったのかと思ったりしていたのです。
何となく設定を見てみようと思って、その画面を見たら初めて思い出しました、OS 3.0からiPod機能にシェイクで曲がシャッフルすることを・・・。当然、その機能はデフォルトON。
早速オフにしてみると、予想通り全く曲は変わらなくなり、オンにしてiPhoneを振ってみると、見事に「ピロピロ」鳴った後、曲が変わるようになりました。

確かに私がiPhoneで音楽を聴くのは歩いているときです。
iPhoneからしてみれば、歩いた時の振動と、振った時の振動を加速度だけで区別することは難しいことだとは思います。しかし、デフォルトでオンだと、本当に故障したかと思ってしまいます。歩いている途中に勝手にシャッフルして、この機能のせいだと気付かなかったのは私だけでしょうか?
でもこうやって、家電は多機能化して堕落していくんだよねぇ〜。(電子製品の開発者として人様のことは言えないわけですが・・・)

2009年7月4日土曜日

三文ゴシップ/椎名林檎

Sanmon五年ほど東京事変としての活動が続いた椎名林檎が、ソロ名義のアルバムを発表。昨年の林檎博といい、ここのところの活動は激しさを増しています。そして、何といってもまるで今のJ-POPのアンチテーゼのような音楽の凝りようが素晴らしい。

このアルバムも、一言でいえば凝りまくってます。あまりに仕掛けが多くて、落ち着いて聞けないほど。
曲ごとにアレンジャーを変え、ラップ、4ビート、ラテン、テクノ、そしてオーケストラサウンドと、あまりに多種多様な音楽が詰め込まれています。
いまどきの制作費の安いJ-POPにはとても真似できない豪華さ。根本的にアルバムを作る際の金勘定の仕方が違っているのでしょう。まず良い音楽ありき、で、必ず売り上げは付いてくる、という自信が無ければ、こんなアルバム作れません。
個人的には、やや変拍子っぽく聞こえるオーケストラ曲「都合のいい身体」がヒット。プログレ好きの私としては、こういうリズムや和音が凝った音楽が好きなんですね。

よくよく読むと、詩も大変面白い。これもJ-POPのアンチテーゼを狙っている感じ。恋愛を歌った曲も随分少ないし。上っ面の音楽かくあるべし、のような感覚を、どうやって覆そうか、いつも彼女はその微妙なラインを狙ってきます。
椎名林檎が、今の日本でクリエータ魂を刺激する稀有なアーティストであることは間違いありません。

2009年6月28日日曜日

「芸術力」の磨き方/林望

Rinbouタイトルに惹かれて立ち読みしてみたら、これが大変面白そうなので、ついつい購入。
私が、このブログでくどくど言っていることが気持ちいいくらいそのまま(しかも分かりやすく)書かれていて、全編膝を打つような気持ち良さで一気に読みました。

著者は文筆家なのですが、芸術についても非常に造詣が深い方。本書では、特に特定の芸術について書かれているわけではないですが、個々人の「芸術」活動の方法について、その心がけのようなものが書かれています。
我々にとって取っ付きやすいと感じるのは、本当にこの方多趣味なんだけど、そのうちの一つに声楽があって、クラシック、特に声楽ネタが本書ではたくさん扱われています(三大テノール批判とか)。なお、本人はプロの声楽家と「重唱林組」などというカルテットを組んで、演奏活動しておられるとか。

やわらかで読みやすい反面、内容は相当辛辣といっていいでしょう。
特に、日本における芸術の扱われ方というのは、教育の世界でも、商業の世界でも、メディアにおいても、実に貧しい状況であることを嘆いています。また、個人レベルで見ても、人にレッテルを貼ったり、芸術家個人のストーリと芸術そのものの価値が混同されたり、訳知り顔のオタクが初心者をバカにしたり、カメラオタクがカメラの機種の薀蓄ばかり垂れていたり・・・などなど著者が嫌うような芸術態度が目白押し。
やや断定口調であるのは気になりますが、それらも言いたいことの本質はとても共感できるのです。

このブログをいつも読んで頂いている奇特な方には、超おススメの一冊。
もう私の意見かというくらい、私の日ごろ感じていることをきれいにまとめてあります。平易な言葉で書かれているので、半日ほどで読めるはずです。

2009年6月24日水曜日

Hello World!

Birth周りの方々には、ちょっと遅れてご心配をおかけしましたが、無事男の子が生まれました。
この歳で第一子を授かり、生活も激変しそうです。関係される方にはご迷惑の無いよう心がけますが、何とぞ大目に見てやって下さい。
まだまだ実感が沸きませんが、そのうち私自身の価値観や言動にもじわじわと反映されてくるかもしれません。そのときは「すっかり親バカですね〜」とか月並みな突っ込みをしないようお願い致します。

今回の出産で何が面白いって、私の誕生日と息子の誕生日が同じ日になってしまったということ。ネタとしては面白いですが、きっとお父さんの誕生日は家庭内ではついでに祝われることになるものと思います。
では、今後とも父子共々よろしくお願い致します。

2009年6月22日月曜日

ザ・ケルンコンサート/キース・ジャレット

Koln1975年にドイツ・ケルンで行われた、ジャズピアニスト、キース・ジャレットのコンサートのCDを購入。
当時、キース・ジャレットはピアノのソロコンサートを全て即興演奏で行うという試みをしており、その中でもこのケルンコンサートの演奏は非常に評価が高く、名盤といわれている音源なのだそうです。
実際聞いてみて、音もクリアだし、なかなかいい雰囲気の音楽。ただし、ジャズと言われると、ちょっと違うかも、というのが率直な印象。ほとんどスイングしてないし、フレージングもロック調だったり、クラシックぽかったり、あるいは、ちょっとウインダム・ヒルっぽい、ニューエイジ的な雰囲気もあります。
恐らくこの演奏は、純粋な音楽として聞くだけでなく、これが全編、準備無しのインプロビゼーションである、という前提で聴くべきなのでしょう。
そう考えると、今この瞬間に音楽を紡ぎだすその過程であるとか、思い付いたフレージングが即興でどのように発展していくのかとか、あるいは高揚した気持ちをどのように処理していくのかとか、一人の音楽家が持つ音楽力が丸裸にされ、それをさらけ出すという非常にスリリングなパフォーマンスだと言えるでしょう。

これは音楽家のあり方を問う行為でもあります。
音楽は、完璧に事前準備され、計算ずくで演奏されるべきでしょうか?それとも、本番の演奏でしか現れない即興性を追求すべきでしょうか?
恐らく、われわれ凡人はそのどちらに振ることも出来ないのですが、本作品では片一方の極端な答えを探すという大変な苦行を自らに課しているのです。そして、それこそが、この音源の大変貴重である所以ではないかと思われます。
私には、ある意味哲学的で、非常に興味深い試みのように感じられたのです。

2009年6月20日土曜日

プロとアマと才能・・・

しかし、才能って言葉は考えれば考えるほど難しいです・・・
芸術活動をしていれば誰だって才能っていう言葉にぶちあたります。たいていの場合、自分の才能を高めに判定する傾向はありますが、それでも自分には才能が無い・・・と悩むことも多いでしょう。別に、趣味でやっているならそんな大層に悩むことも無いとは思いつつも、もし世間が認めてくれるならプロとしてやっていきたいと密かに考えているかもしれない。(私のことを言っていると思ってますか?まあ、そうなのかも)

才能は一次元的なベクトルを持っている訳ではないし、人は見た目や経歴や性格や、いろいろなものに判断を左右されます。
だから、かたや才能があっても認められない、と感じる場合もあるだろうし、才能が無いくせに活躍していると思われる場合もあるでしょう。
所詮、共同体の最大公約数的なモノが評価され、流行ったりする訳で、それをキチンと把握することも評価されるためには必要だけれど、共同体自体の価値観に幻滅してしまう場合もあります。
恐らくは、本当に才能があっても世に埋もれたまま消えていった人はたくさんいるのだと思います。しかし、彼らは何も残せなかったのではなく、その周囲の人々をインスパイアさせながら、やはり幾ばくの影響を社会に与えていたのではないでしょうか。

現在は、まだプロとアマの差が厳然と存在します。
恐らくそれを規定しているのは、メディアです。ですから、プロ化したい芸術全般が聴衆や観客でなくメディアを向いてしまうのです。
メディアの文化の扱いによって、芸術の有り様は相当変わるように思います。プロとアマの境目が静かに消えつつあるのと同様、メディア自体も変化しつつあります。
個人がラジオ局さえ開設できる時代です。良いリコメンドを提供出来るメディアが支持を広げる社会になれば、またプロとアマの境界も変わっていくし、その結果、芸術における才能の見え方も変わっていくかもしれません。
やや取り留めが無くなりました。

2009年6月15日月曜日

某コンクール優勝、そして才能とは?

数日前より、全盲のピアニスト、辻井さんのピアノコンクール優勝のニュースがテレビを賑わしています。
本当にスゴいですねぇ。普通に日本人が優勝したっていうだけで大ニュースですが、ハンディキャップということで、さらに驚嘆に値する偉業だと思います。
もちろんハンディキャップであることは、彼にとって大変つらい事実だし、音楽家としても不利であるはずなのですが、やや穿った見方をすれば、彼はハンディキャップであることを最大限に生かしているとも感じました。コンクールの審査員とて、その要素を全く抜きに審査できたとは思えませんが、それは悪いことだとも私は思いません。なぜなら、ハンディキャップという視点から表出する世界観が、彼自身の音楽の個性になり得るからです。
今回の受賞で、彼は音楽家として華々しいスタートを切ることができましたが、もちろん今後はプロとしての音楽家の真価が問われることになるでしょう。これからの活動に大いに期待をしたいと思います。

たまたまこのニュースの後テレビでは、誰でも才能はあるけれどそれを生かし切っていない、というようなことを言っていました。
もちろん、辻井さんには幸いなことに演奏家としての才能がありました。むしろ、全盲として生まれたことで、その才能に早い段階で気付くことが出来たように思います。それは、まさに不幸中の幸いでした。
しかし、振り返って自分自身にそんな才能があるかと考えてみたとき、そもそも才能があるか無いかを決めるのは一体誰でしょうか? 才能が無いことをどうやって確認することが出来るでしょうか? 一体いつ私たちは自分に才能が無いと諦めるべきでしょうか?
こういう問いかけは悲観的だし、また教育的でもありません。でも、本当は多くの人が人生の中で直面していて、そして納得しないまま自虐的に振る舞っているような気がします。

今回のニュースの中から「誰にでも才能がある」などというお気楽なコメントが出てくるのは、安易な発想です。むしろ、私は可視化できない才能というものに踊らされるより、自分の本当の力を直視できる力を持つべきだとかねてより思っているのです。
才能という単純な言葉で片付けずに、彼の一体何がスゴいのか、彼の演奏そのものを音楽関係者(演奏家、評論家)が分析して、その内容をもっと多くの人に伝えてもらえればいいのに、と私は思います。彼が奏でる音楽そのものが本来、賞賛されるべきことなのだと思うのです。

2009年6月11日木曜日

さらに、プロとアマについて

どうせ私たちプロじゃないし・・・っていうのが嫌いです。
なぜ練習しているかというと、いい演奏をするためだし、なぜいい演奏をしたいかというと、それを聴いたお客様に喜んでもらいたいからです。
結局、アマとプロを分けているものは、演奏者の「覚悟」なのだと思います。いい演奏をするためにはいろいろな障壁があります。その障壁に敢然と立ち向かう覚悟があるか、ということです。やや、勇ましい言い方をしていますが、見た目の熱さのことじゃないのです。どちらかというと「究める」という感覚に近い。いい演奏をしたい覚悟とは、物事を究めようとする態度なのです。

合唱がなかなかプロ的になれない理由の一つとして、演奏者一人一人の責任の軽さという問題があるでしょう。例えば、バンドの練習でドラマーが休んだら練習にはあまりならないでしょう。でも、合唱って私一人くらい練習を休んでも大丈夫、と思ってしまう傾向があります。
しかし、合唱団のレベルは最後には団員一人一人のプロ意識で決まっていきます。プロ意識が高ければ、確実にウマくなります。そのために、演奏者が自分たちの演奏に対する責任をもっと強く感じる必要があります。

その一方で、生涯学習的に、自分自身がゆるやかに楽しめれば十分。あわよくば、家族にも演奏を聴いてもらえば嬉しい、というような音楽の取り組み方もあることでしょう。
その場合、指導者はお客様に楽しんでもらうような音楽作りでなく、団員を生徒として扱い、音楽を学ぶ楽しさを体感させる必要があります。それは、まさにアマチュア的なあり方です。
その辺を曖昧にしたままで団の運営をすると、いろいろと混乱の元になってしまうのではないでしょうか。

2009年6月7日日曜日

プロとアマについて、再び

何度か音楽産業のことを書いてます・・・
プロとアマの垣根が低くなり、プロのアマチュア化が起きているのでは、と前に書きましたが、それと同時にハイアマチュアの質が向上したという側面があることを忘れてはいけません。
なかなか実感は沸かないだろうけれど、ポピュラー音楽など、アマチュアでもプロ顔負けの音楽を作っている人はたくさんいます。彼らがアマなのはただ宣伝力が足りないだけ。

やや無理矢理、合唱の世界に振ってみると、合唱はほとんどアマチュア団体しか活動しておらず、一部のレベルの高い団体はプロが作る音楽とひけを取らないと思います。
つまり、すでにアマチュアのプロ化が密かに起き始めているジャンルと言えるかもしれません。

ただ、私にはまだアマチュア的な感覚で音楽活動をされている方は多いと感じます。
以下に私がアマチュア的と感じることを挙げてみましょう。
芸術と大衆音楽を分けようとするセンス
音楽の質を論ずるのに、なぜかアカデミックな価値基準から逃れられない態度のこと。所詮、音楽なんて気持ち良ければいいのです。その理由を理知的に解き明かしたいだけなのに、いつしか手段と目的が逆転してしまっているように思えます。
過度に芸術の高尚さを求めると、聴衆の喜びから音楽が離れていきます。ところが、多くのアマチュアは、こんな高尚な音楽やってる自分ってスゴい、みたいな感覚からなかなか抜けきれないのです。
・芸術の価値判断は本来不合理なものであるのに、それを受け入れられない
何がいい芸術か、なんてものに答えが無いのは当然なのに、あっちのほうが良い、これは良くない、というような序列化をしたがります。特に、ウマい、ヘタ、という評価を安易に下す人が多い。
もちろん、芸術の中にも純粋な技術的要素はありますから、ウマい、ヘタという評価はある程度必要なことだけれど、それだけで芸術の価値を推し量ることは当然出来ないはずです。
そこにコンクールの落とし穴があります。そもそも、コンクールに絶対的基準を求めることがナンセンスです。審査員や各種レギュレーションによって、結果が違うなんてことは当たり前だからです。
・他人の意見で、自分の価値判断が容易に左右される
プロになるには、自らが「ウマく」なるだけでなく、芸術を自分の価値基準で判断する能力が必要です。良いものが分からなければ、良いものを作れるはずが無いからです。
ところが、自分の価値判断に自信がないと、容易に他人の、例えば指導者、有名な批評家、芸術家の意見を無批判に受け入れてしまいます。そうすると、いつもその人の価値基準が定まらず、フラフラしているように思えるのです。最後は自分のセンスを信じ、そこを拠り所にすること。それがプロ的であるための心構えなのだと思います。

2009年6月3日水曜日

激動の音楽業界

ふたたび、音楽業界ネタ。
経済産業省から、音楽産業のビジネスモデル研究会報告書が発表されました。50ページを超える量で内容もヘビーですが、音楽産業に興味がある人だけでなく、今後音楽とはどうあるべきなのか思いを巡らそうとしている人にとって大変興味深い内容だと思われます。是非、ご覧ください。
大まかに言えばこの報告書では、CDの売り上げに頼っていた音楽業界は、パッケージビジネスというやり方を変え、コンテンツそのもの(音楽そのもの)の価値に立ち返って、多角的にビジネスを展開していくべき、といった内容が書かれています。

いずれにしても、音楽の価値を単純にCDの売り上げで判断してしまう傾向こそが問題なのです。
もちろん、誰もが自分は売り上げで音楽の善し悪しを判断していない、と言うでしょう。しかし、個人が信条としてそう言うことと、企業がビジネスの論理で行うことはどうしても相容れません。
企業が利益を追求するのは当たり前のことですから、彼らは「売れる」コンテンツをこそ欲しがります。その結果コンテンツを作る際には、それほど音楽に興味を持たないにわかファンをどれだけ取り込めるか、という視点が重要視されてしまうことになるのです。

音楽的価値とCDの売り上げとは全く相関が無い、などと言うつもりはありません。
しかし、パッケージの売り上げを増やすことを至上命題としていた音楽産業が、音楽のあり方を少しずついびつな方向に向けてしまったことは疑いのない事実だと思います。
売り上げの呪縛から解放されたとき、音楽はもっと質で語られるようになるような気がしているのです。

2009年5月29日金曜日

PD合唱曲に混声合唱曲を追加

混声合唱曲を作曲して、PD合唱曲に追加しました。
題名は「A DREAM WITHIN A DREAM」という曲。英語の詩です。
詩は私の好きなアメリカの作家 Edgar Allan Poe(エドガー・アラン・ポー)によるもの。名前が江戸川乱歩に似ている・・・とか言わないように。乱歩は筆名で、ポーの名をもじったものですから。

何度か、歌としての日本語の特質といった話を書いてきました。
当然、日本語の特質を論じるならば、日本語以外の場合とどういう違いがあるのか考えなければなりません。実践の中でそれを体感するには、やはり外国語の詩に作曲することも必要ではと思っていました。
今回はそれを体験してみようというのが作曲の一つの動機です。で、日本語以外の外国語というと、やはり一般性を考えて英語が適当だと思われます。

英語の詩の善し悪しを論じるには、あまりに経験不足の私としては、まずは好きな作家の詩を用いるというのが最も良い方法に思えました。
ポーは幻想と怪奇の世界を探求する一方、論理性や科学にもこだわった風変わりな作家。一般には推理小説というジャンルを初めて開拓した作家として有名です。
恐らく、今後英語詩に曲をつけることがあるとすれば、またポーの詩を選ぶのではないかと思っているところです。

2009年5月23日土曜日

みんなアーティスト

アーティストがアマチュア化するなら、巷にいるアマチュア音楽家と何ら変わることが無くなります。これは、まさに「みんなアーティスト」時代の到来ということになります。
もちろん、これは音楽をやる誰もが人気アーティストみたいになれる、ということではありません。むしろ事態は全く逆で、レコード会社の方針や妙な業界の力学で音楽が評価されなくなる分、より評価が音楽原理主義になり、演奏の上手さ、表現の巧みさ、楽曲のオリジナリティが情け容赦無く批評されるようになるでしょう。
こういった時代に人々に必要な態度とは、仲間内だからといって上辺だけで褒め合ったりするのでなく、自らの芸術観を個々人が確立した上で、誰に対しても自分の意志で明確な音楽批評が出来ることです。
残念ながら現状ではアマチュアのほうが自尊心が強くて(批評慣れしてなくて)、他人に自分の音楽を批判されると怒る人も多い。中には「一生懸命やった人に対して、そんなことを言うのは失礼だ!」と言わんばかりの人もいます。
失礼のある言い方も問題ですが、他人の批判を謙虚に受け取ることが出来ない音楽家は、恐らくいつまでも成長することは無いでしょう。

まあ、何はともあれ、「みんなアーティスト」時代というのは、決して悪くない時代だと思います。
恐らく最初は芸術の質が落ちた、という人も出てくるでしょう。しかし過去の偉大なアーティストしか愛せない保守的な態度もまた、批判の対象になり得ます。
芸術活動は常に同時代的であるべきだし、もちろん過去から学ぶべきものは山ほどあるとしても、今生まれている音楽、そして芸術を評論する力は、その世界に生きようとするなら必須なものです。
そして、ビジネス縛りが無くなって、本当に、純粋に、音楽そのものの力が試される、そうなったら本当に面白い世の中だなあ、と私は思うのです。

2009年5月18日月曜日

賀茂真淵記念館

Mabuchi浜松に住み始めて早20年経ちましたが、地元にいながら行ったことの無い場所というのがまだまだ結構あるものです。
私が住んでいる場所から歩いて15分くらいのところにある「賀茂真淵記念館」もそんな場所のひとつ。本日、急に思い立ち行ってみることに。
まあ、予想通り日曜なのにお客がほとんどいない、ちょっと寂しい博物館でした。料金は大人300円。
ちなみに行ってみようと思った直接のきっかけは、今週号の「古代文明」に国学の記事があり、そこで賀茂真淵の話を読んだからです。

賀茂真淵とは何者かというと、一言で言えば、江戸時代の「万葉集」研究家。
当時は、そんなものを組織的に研究するような機関は無く、完全なアマチュア研究家でした。しかし、その功績のためか(良く分からないけど)将軍吉宗の次男の家庭教師となり、浜松から江戸に移り住みました。

結構、へぇ~と唸るような話として、「松坂の一夜」というエピソードがあります。
賀茂真淵が関西に旅行した際、その途中の松坂に一泊したときのこと。国学に興味を持っていた若い医者、本居宣長はそのことを聞き、賀茂真淵を訪ねます。そして、その夜二人は国学について語り合ったということです。
本居宣長は賀茂真淵の弟子となりましたが、生涯会ったのはこの一度だけ。それ以降、二人は手紙を通して様々なことを論じ合ったそうです。本居宣長は、やはりアマチュア研究家として、その後「古事記」の研究に大きな業績を残すことになります。
ということで、本日のお勉強はここまで。

2009年5月17日日曜日

アマチュア化するアーティスト

もはや音楽業界の凋落ぶりは明白なものとなり、有名アーティストでさえもCDを売ることが難しい時代になってきました。
そもそも、音楽業界、レコード業界などと言われるものは、エジソンがレコードを発明したときに生まれたものであって、その歴史はたかだか100年程度。音楽はそれ以前からあったわけだから、レコードなんか無くても音楽活動は十分成り立つはずです。

私の予想では、10年くらいのうちに現在の音楽業界には相当の変化が訪れるのではという気がしています。そういえばこんなことを書いてみたのはもう6年前ですが、今でもいずれデジタルコンテンツはタダになると私は思っています。
そうなると、もはやCDのようなパッケージを売ることは商売になり得ず、ライブや広告収入、映画・テレビの挿入歌の提供のような形でアーティストが収入を得るようになっていくのではないでしょうか。

レコードがビジネスにならないとすると、レコードデビューがメジャーアーティストであることの証である今の感覚も変わってくることになります。
結果的にプロとアマチュアの境目も変わってくると思います。というか、今後アマチュア的なスタンスのアーティストが増えてくるような気がしています。
文学の世界では、同様に出版業界が非常に厳しく、なぜかそれと比例するように数多の文学賞が現れ、それに信じられないくらい多くの人が応募しているようです。文学賞を受賞して作家になる人のレベルも高くなり、映画化やドラマ化される例も増えています。
しかしそれでもプロの作家で食べられる人はごくわずかで、本業を持ちながら作家活動と言う人も珍しくありません。

同じことが音楽でも起きるのではないかという気がします。
あくまで音楽活動は趣味だけど、ライブでそこそこお客さんを呼べるようなアーティストとか、映画や放送で使われる音楽を提供できる作家とか、そういうことが成り立つかもしれません。
売れる、売れないで評価しない分、そのほうが音楽そのものに対してシビアに評価できる環境に近づいていくのではないでしょうか。
それは、私も望んでいることなのです。

2009年5月10日日曜日

日本語を伝える-母音の色で言葉を作る

何しろ母音の色は5つしか無い、なんてことは無いのです。言葉によって、文脈によって、そのときの表現の仕方によって、常に発音は変化するはずだし、それを前提に音楽作りをすべきです。
ところが長い間合唱をやっていると、何となく自分が歌う音色が凝り固まってきて、どんな言葉を歌っても、決まりきった発音になりがちです。こういうのはボイトレとかやっても、発音記号としての母音の練習しかしないので、言葉の中の発音というのがどうしてもおざなりになってしまいます。
言葉が浮き立ってこないのは、母音の色の変化の弱さに起因しているのだと思います。変化を付けようとするなら、言葉を何度も反芻して抑揚や音色をきっちり意識するしかありません。

そのために歌詞を一度、話し言葉の発音に立ち戻って、皆で朗読をする、というのは一定の効果はあると思います。さらにその後、リズム読みして、テンポの中で言葉を作っていくとなお良いでしょう。
しかし、学生ならそういった練習もある程度やり易いだろうけど(国語の先生も居そうだし)、なかなか大人にきちんと朗読させるのは難しいかもしれませんね。そもそも、朗読そのものが下手なので、何を練習しているのかわからなくなりそうです。
ただ、昨今の日本の合唱では、均一な音色で、むらなく均等に響かせることを良しとする価値観がやや強いと感じます。宗教曲などはそういう価値観はある程度必要なのですが、同じ歌い方で日本の曲を歌うと抑揚の無い無表情な演奏になってしまいます。
日本人だからこそ日本語の言葉の強さをもう一度再確認し、その強さをそのまま歌にして表現したいのです。逆に今は、日本人だからテキスト読めばわかるじゃん、になっていないでしょうか。
私には、アマチュア合唱では、発声より発音のほうがよほど重要じゃないかという気がしているのですが・・・。

2009年5月5日火曜日

スラムドッグ$ミリオネラ

アカデミー賞受賞作。やや社会派的な内容ぽかったのでそれほど食指は動かなかったのだけど、GWの暇に耐えきれず見てみることに。
結果的には、やはり社会派なのだけど、必ずしも重く暗い雰囲気ではないし、シリアスな内容と共にそれを吹き飛ばそうとするくらいのパワーと前向きさを持った、不思議な映画でした。

何と言っても、ストーリーの基本的プロットが面白い。無学なスラム育ちの青年がミリオネラに出演して、次々に難しいクイズを解いていきます。そのクイズの内容とリンクさせながら彼の生立ちを語っていくうちに、その厳しい現実が彼にクイズの解答を与えていたということが次第に明らかになります。
もちろん、所詮フィクションですから、偶然彼の生涯に関係あるクイズばかりが出るなんてことはあり得ないわけですが、それでも無学な人間がクイズを次々解いていくという爽快さ、皮肉さ、というのが、この映画の面白さの真骨頂なのでしょう。
これだけの厳しい少年期を過ごしてきた主人公ジャマールなのだけど、彼を突き動かしてきたのは愚直なまでの一途な恋愛感情、というのも、深刻な物語をシンプルな気持ちよさに見せかけているのだと思います。

しかし、この映画に描かれるインドのスラムの実態というのは、日本人にはやや残酷に過ぎ、こういった映画は日本では流行らないだろうなあとも思います。子供を物乞いさせるために、わざと不具ものにするシーンなど、直視できない痛ましさです。そして彼の周りの人間も、暴力で次々死んでいく。
経済成長するインドの中でこういった貧民たちの裏社会が存在していることを、声高に主張すること無く、この映画の中で淡々と描写します。
それにしても映画全体がそれほどシリアスにならないのは、スピード感、テンポ感溢れたてきぱきとした進行、映像とリンクしたビート感ある音楽、躍動感溢れるカメラアングルなど、映画の細かい点での技術のおかげ。やけに追跡シーン、逃走シーンも多いし、それがこの監督の持ち味なのかもしれません。
ややシニカルで辛辣な映像作りもアメリカ的正義感とはちょっと違っていて、私にはちょっぴり小気味良く感じました。

2009年5月3日日曜日

過去の自作品演奏をYouTubeにアップ

またまたYouTubeに動画をアップ。
一つは、2000年の静岡県合唱祭にて(今は亡き?)YAMAHA Chamber Choirにより演奏された「雲の信号」です。長谷部雅彦男声合唱曲集所収の「宮沢賢治の詩による三つの男声合唱曲」の中の曲。
画像は歌詞を中心に作ってみました。





さて、もう一つは2006年の同じく県合唱祭にて、ヴォア・ヴェールが演奏した「E=mc2 part II」です。
前年、朝日作曲賞佳作を頂いて、楽譜がハーモニーに掲載されたのを記念して(?)、私が指揮する合唱団で自作自演を行いました。
もともと、この曲はヴォカリーズ的なテキストなので、相対性理論にまつわる画像を集めて動画にしてみました。



2009年4月28日火曜日

日本語を伝える-撥音の割り当て

日本語の三大特殊音韻ということで「長音」「促音」と来れば、最後は「撥音」にも触れずにはいられないでしょう。
「撥音」とは「ん」のこと。これも合唱をやっていると、いろいろ気になることがあります。
一つの音符に「ん」が与えられる場合など、鳴りが弱くなってなかなかきれいな旋律になりません。逆に一つの音符に「あん」のように撥音付きの音節が書かれていると、どのタイミングで「ん」にしたら良いのか迷ったりします。
これももちろん正解なんて無くて、練習の中でどう歌ったら最も日本語としてきちんと聞こえるのか、という判断基準で考えていくしかないのだと思います。

作曲する立場からいうと「ん」だけに一音符を与える場合と、与えない場合の違いは、本当に微妙な差だけれど、歌い手に感じて欲しいと思います。
例えば「何千年という年月・・・」という詩があったとします。(まあ、実際に作曲したんですが)
最初の「何千年」に6つ音符を書いて「なんぜんねん」を割り当てるか、あるいは3つ音符を書いて、下に「何 千 年」と書くか(ひらがなで「なん ぜん ねん」でもいいですが)、その書き方によって演奏の効果が若干変わってくるはずです。
当然、日本語としての自然な感じは後者になると思われます。が、その分メロディは言語の束縛を強く受けることになるでしょう。逆に、音符が細かく(音価が小さく)メロディの運動量が大きかったりする場合には、前者のほうが向いているように思われます。
そういった音楽のイメージの違いによって作曲者は撥音への音符の割当を変えていますし、撥音の割り当て方にも作曲家によって差が出ています。そのような視点で楽譜を見ると、その作曲家が何を大事にそういう判断を下しているかも何となく分かってきます。そして、その作曲家の日本語に対するスタンスも何となく理解できてくるのではないでしょうか。

ちなみに昨今のJ-POPでは、細かい音符であるのにも関わらず、一音符に「なん」「ぜん」「ねん」を突っ込んでしまう歌詞割りが増えています。ラップ調のようなヒップホップ系なんて、わざとそういう割り振り方をしたりしているように思えます。
これは、日本語をやや外国語っぽく感じさせる効果があり、若者にはクールに感じられるのでしょう。年配の方は眉をひそめそうですが、意外とこういった歌詞割りが、日本語の今後の変化の方向を暗示しているのかもしれません。

2009年4月25日土曜日

アンサンブル第11番をアップ

おなじみの「仮想楽器のためのアンサンブル」シリーズ、第11番をYouTubeにアップ
あらためてこのシリーズの説明をすると、具体的な楽器を指定せずに音域さえ合えばどんな楽器で演奏してもいいよ、という趣旨で作曲しています。
楽器を特定すれば、その楽器に特有な奏法や、特徴的な音色を想定して作曲することになります。逆に楽器を特定しないことによって、音響よりも音組織に重きを置いた曲を作りたいと考えました。ですから、このシリーズを演奏するには音色の統一が取れている同族楽器のアンサンブルが好ましいと考えています。(詳細はコチラを参照
もう一つ、私がこの一連の作曲で考えていること。
それは、現代のクラシック系の器楽曲の作曲の現場が、おおよそ一般の人には聞き慣れないような音楽ばかりであることに対するささやかな抵抗です。平たく言えば、妙なゲンダイ音楽より、良く聴かれる音楽をベースにしたほうが気持ちいいよねっていうこと。
もちろん、(私にとって)やや実験的な音使いもすることもありますが、基本は普通の人が聴いて気持ちいい、ということを忘れないように、というのが私のスタンスです。

さて、今回の11番。
大きな特徴は、楽曲形式です。今回はソナタ形式に挑戦しました。これまで変奏曲的な構造が多かったのですが、変奏曲では音楽がカタログ的に、また断片的になります。今回は、楽曲全体にもう少し大きな物語が作れないか、ということで大規模な形式を選んでみました(厳密にはややルール違反なソナタ形式ですが)。結果的にトータルで9分強と、少し長めの曲になってしまいました。
簡単に構成を説明しましょう。
序奏無しで、まずいきなり第一主題から始まります。同様のメロディを繰り返した後、6/8の第二主題。展開部は、第一主題の要素を使って動→静という流れを作った後、第二主題に第一主題の要素を絡めて次第に大きく盛り上がります。再現部は、冒頭をほぼなぞって、第二主題の後シンプルなコーダで曲を締めくくります。

それでは聴いてみてください。



2009年4月22日水曜日

日本語を伝える-促音の扱い

長音のことを書いたので、促音についても思うことなど書いてみましょう。
促音とは「っ」のこと。音が一瞬消える詰まる音のことですが、これは外国語の子音が二つあるような場合(-kk-とか、-tt-といった綴り)と一見近いように思われます。事実、促音をローマ字表記する場合、同じ子音を二つ繋げて書きますね。
しかし、小さい「っ」は、欧米系の言語の詰まった音より確実に詰まる時間が長いというのが特徴だと思われます。他の音節の長さと同等の感覚(モーラ)があるからです。従って、歌の中でも外国語よりもかなり明瞭に音が切れることになるわけです。

しかし、私の思うに多くの合唱団の歌の促音は詰まり過ぎではないかと思っています。
なぜ多くの人が必要以上に詰まるかというと、しゃべり言葉と同じように歌ってしまっているからと感じます。音が切れている時間をもっと短くした方が、言葉も明瞭になるし、ボリューム感も増します。何より、メロディの流れが良くなると思います。
歌なのだから、もう少し時間方向に冗長にする必要があります。例えば、「振りかえって」という歌詞があったら「えっ」という場所で、「えーっ」のように少しだけ「え」の長さを延ばしてあげるのです。このほうが音楽として私には自然に感じます。

その他にも、促音を歌うとき、どのように切って、どのように次の音節を歌いだすのか、この辺りもセンスの差が出るところでしょう。たいていは、息の流れを止めて促音を表現してしまいますが、なるべく息の流れを止めないで、音の鳴りの制限だけで促音を表現した方がきれいな歌になるのではないかと思います。

2009年4月15日水曜日

合唱名曲選:大地讃頌

よもや、私からこんなベタな題材が上がろうとは・・・。
とはいえ、日本の合唱風景を語るのにこの曲の存在は欠かせません。ならば、この音楽の特性について考察しておくのも何かしら意味があることだろうと思われるのです。
それにしても、あらためてこの曲の音符をなぞってみると、その壮大なイメージとは裏腹に、非常にシンプルな作りであることに驚かされます。ピアノ伴奏も、ほぼ左手はオクターブ、右手は三和音の展開形の連打というパターン。合唱も基本はホモフォニックで、今どきなら十分平易な曲と言っていいでしょう。
しかし、そのような音楽上のシンプルさとは対照的に、宗教的とも言える荘厳な詩と、それに付けられた端正で力強いメロディ、そして愚直なまでに重々しいワンパターンな伴奏で奏でられたその楽想とが、見事に噛み合った希有な曲と言っていいのではないでしょうか。こんな曲は絶対狙って作れないと私には思われます。

その特徴をいくつか考えてみましょう。
この曲の大きな特徴の一つに、調の選択が挙げられます。ロ長調は、ある意味シンプルさからはほど遠い調と言えます。その分、日頃聞き慣れない斬新な響きを感じ、それが神秘感を醸し出します。
この曲がハ長調だったらどうでしょう。曲構造のシンプルさが逆にマイナスに向かってしまう気がします。和音が丸裸にされた恥ずかしさ、とでもいうような。
次に、シンプルであるが故に数少ないポリフォニーが良い効果を上げています。ベースの大好きな「ひとの子らー」とか、中盤の男声「われらーひとの子の」が女声と対比を成している部分など、音響的に分かり易いが故に、伝える力も強いのです。
あとは何と言っても、最後のフレーズの神秘的な和音展開。コードで書くとこんな感じでしょうか。
B -> G7/D -> C#m -> G#7/D# -> D -> F#7/C# -> B/D# -> E
この流れは私には非常に独創的に思えます。分数和音の低音の動きも絶妙。遠隔調への飛び方が、何度歌ってもゾクゾクとさせるほどの気持ちよさを感じさせてくれます。

シンプルであっても各要素のその絶妙なバランスが、多くの人の心をつかみ、そして名曲とさせているのだと思います。私には作曲する態度を真摯にさせてくれる、とても大切な曲のようにも思われるのです。

2009年4月10日金曜日

日本語を伝える-長音の発音

昨年のNコンの課題曲「手紙」の演奏をちょっと聴いたとき、冒頭の「拝啓」という言葉の扱いが大変気になりました。
「はいけー」と「け」のe母音をそのまま延ばした歌い方が、どうも今ひとつ日本語としてきれいな感じがしなかったのです。じゃあ、「はいけ」と最後を明確に「い」と歌えば良いかというともちろんそれもおかしい。
恐らく、最も自然な音色は「え」でも「い」でもない、その中間にあるのだと思います。いかに言葉の響きとして自然か、という観点で歌おうとするならば、もっと母音の音色を柔軟に、そして微妙に変化させる必要が出てきます。

日本語にはこういった長音が結構多くて、合唱をやっているとその扱いに迷うことが多々あります。
「えい」は「えー」なのか「えい」なのか、「おう」は「おー」なのか「おう」なのか。練習では、ついつい「え」にしましょう、とか「い」にしましょう、とか明確に決めてしまうことも多いですが、でも本当はどちらでも無いどこかに最も気持ちの良い発音があるはずです。
同じ母音が完全に続く時でさえ(例えば「かあさん」の「かあ」とか)、単純に同じ母音を延ばすより、少し母音の色を変えた方が言葉の輪郭が出る場合があると思います。

もちろん長音の歌い方に正解なんて無いのでしょうが、それでも発音がてんでバラバラというわけにもいきません。前に立つ人が何らかの方向性を示して、ある美的価値観の元で統一していく必要はあるでしょう。
歌い手一人一人も、どういう母音の色の変化が日本語の歌として自然なのか、もっともっと考えながら歌って欲しいのです。そのように意識を高めていくだけでも随分、伝わる日本語の演奏になっていくと思います。

2009年4月4日土曜日

日本語を伝える-意味に拘らない

言葉を伝えようとするなら、言葉の意味(シニフィエ)よりもまず、言葉そのものの音(シニフィアン)を伝える必要があると私は思っています。
しかし、多くの人は最初に意味に拘ってしまっているような気がするのです。この文章はこういう意味だから、こういう表情で歌いましょう、みたいなやり方。もちろん、それはマクロ的に見れば間違っていないのだけれど、ミクロ的に見れば、決していつでも正しいわけでは無いと思います。
それ以前に、ミクロ的にやるべきことは言葉の「音」をまず伝えることだと思うのです。

本来、意味を伝えるのは大変難しい作業です。曲の構造の解釈や、作品の持つ世界観を表現するのと同じレベルの話なのです。自分たちの演奏に一生懸命意味を込めたとしても、それが伝わらなければ独りよがりの演奏にしかなりません。
その難しさに気付かずに、意味だけにとても拘っているのはやや芸術的センスに欠けた行動に思えます。本来、芸術が伝えたいことは簡単に言語化出来ない微妙な感情だったり、イメージだったりするからです。それを「悲しい」とか「嬉しい」とかいうシンプルな意味に変換してしまうと、作品そのものの力が矮小化され、「悲しい」「嬉しい」の周辺にある形容し難い印象を消してしまうことになりかねません。
逆に言葉の音がきちんと伝わっているならば、意味は聴衆の脳の中で構築されます。まずは、その効果に頼るのです。その上で、曲全体から醸し出されるイメージが、聴衆の脳内で構築された意味を補強するものになれば、そこでようやく詩が持っている意味が何とか伝わったことになるのだと思います。
つまり言葉の意味はミクロ的(文章のような単位)に伝えるのではなく、マクロ的(テキスト全体の主張として)に伝えるべきなのです。

ですから、まず私たちは言葉の音そのものをきちんと表現すべきであり、きちんと聴き取れるような明瞭な発音と、日本語の持つ音色や音量の変化を演奏の中で実現する必要があるでしょう。

2009年3月28日土曜日

日本語を伝える-子音と母音の連結

やや音声解析的な話になりますが、同じ「あ」でも「か」の「あ」と「た」の「あ」は違います。
人間の耳がどうやって、音節を判断しているか、次のような実験をしてみます。「か」という音は「k」の子音部分と「a」の母音部分があるわけですが、「k」の破裂音を例えばホワイトノイズでマスキングして、被験者に聴いてもらいます。そうすると、不思議なことに「k」の成分は聞こえないはずなのに、聴いた人は「か」に聞こえるのです。
何となく「か」に聞こえるわけでなく、何もマスキングされてないときと同じように明瞭に「か」と聞こえるのです(自分が被験者になったので自信持って言えます)。
この原因は何かというと、人間が「か」という音節を認識するとき、「k」の子音部だけでなく、「k」と言ってから、「あ」にいたるまでの音色の変化を聴いていて、そこまで含めて「k」の子音と感じているのです。
これは専門用語で言えば、フォルマントの移動の仕方そのものが、子音の認識に影響しているということです。

このことを言葉を伝える技術に応用するのなら、子音のみを強調するだけでなく、子音と母音の連結部分をもっと強調すれば良いのでは、と言えると思います。
強調と言っても力で押すのでは無く、やや粘り気のある感じで、子音から母音への移行を緩慢にすれば良いのではないでしょうか。
歌は通常の話し言葉より、時間方向に冗長になります。だからこそ、発音のための口周辺の動きも通常の話し言葉より時間方向に引き延ばしてあげれば良い、という推論も成り立つと思います。
確かに優れた歌い手、特に演歌歌手などは、そんな傾向があるような気がします。演歌っぽく歌えというわけではないのですが、そういう部分で見習うべき点は十分あるのではないでしょうか。

このように理屈で考えると、ちょっと窮屈な印象を感じるかと思いますが、合唱の表現がどうしても淡白に感じるのは、発音の粘り気が足りないからではと最近感じているのです。

2009年3月25日水曜日

SheenaRingoEXPo08(林檎博08)

先日、今年の文化庁の芸術選奨新人賞に椎名林檎が選ばれましたが、その受賞理由でもある、昨年11月のライブDVDが発売され早速購入いたしました。
デビュー10周年記念イベントということで、さいたまスーパーアリーナにて、オーケストラを従えての超豪華なステージ。林檎ファンとしては見逃すわけにはいかないマストアイテムであります。
何しろ、どこまでもエンターテインメントにこだわったステージングに目が釘付け。5回以上に及ぶ化粧直し(その度にヘアスタイルが変わる)、壮大なオーケストラサウンド、林檎の歩みを紹介するスライド上映、おもわずどっきりの包丁パフォーマンス、周り舞台、文字通りお祭り騒ぎを表現した大お祭り隊(阿波踊りの会)、などなど。
なぜか林檎以外の演奏家は全て白衣を着ており、指揮者の斎藤ネコは指揮者というよりは、もはやアジテーターという感じ。いまや重要な林檎的世界の住人の一人になってしまいました。

林檎の歌い方は、曲によってはかなり粘り気のある発音で、演歌的な雰囲気を強調していました。恐らくこれもライブゆえなのでしょう。激しいシャウト、がなりも(嫌な人は嫌なのだろうけど)聞いていて情感が高まります。
オーケストラと打ち込みとバンドの音が交錯し、ポップ、ロック、ファンク、ジャズ、ラテンと様々なジャンルを浮遊する多面的な音楽の世界は、まさに椎名林檎の高い音楽性を示しているとあらためて感じました。さすがに芸術選奨を頂くだけのことはあると思います。林檎ファンでない方にも、このDVDはお勧めです。

一箇所、インストで演奏された「宗教」のオーケストレーションで裏で何度も鳴るシンバルが気になりました。ちょっとあれだけは頂けない感じでしたけど。

2009年3月20日金曜日

しりとりうた出版

Shiritori先日初演しました児童合唱曲「しりとりうた」がケリーミュージックから出版されました。
パナムジカのみの販売となります。パナムジカの新刊情報はこちら

紹介文にもあるように、二群の合唱団が交互に「しりとり」をする、というアイデアの曲。もちろん児童合唱のために書かれたものですが、声部はソプラノ、アルトなので女声合唱でも演奏は可能だと思います。まあ、曲の雰囲気的にあまり高齢な合唱団では無いほうが良いでしょうが。
各地の合唱団で取り上げていただけることを期待しております。

2009年3月19日木曜日

トップページの変更とiWeb

もうすでに気付かれていることと思いますが、トップページを久し振りに変えてみました。
今までホームページ作成は生のHTMLを書いていたのですが(ezhtmlというフリーソフト)、新しいページでは作業のMac化のためiWebを使ってみました。
というのも、最近「iLife'09」を購入。iLifeは、iPhoto(写真管理)、iMovie(ムービー編集)、iDVD(DVD作成)、GarageBand(音楽制作)、そしてiWeb(ホームページ作成)の5つが入って8800円というお得なパッケージ。ムービー編集はYouTube用の動画作成に使うし、写真管理もすでにiPhotoを使ってます。それならホームページもiWebにしようということで購入したのです。
まずは、iPhotoで新機能の顔認識をさせて遊んでみました。これはなかなか面白いです(誤認識の仕方も笑えます)。合唱団の演奏会の写真で顔認識させて人の登録をやっていたら結局団員みんなの登録をしてしまいました。
ちなみにGarageBandは今のところ使う予定は無し。音楽系ソフトはもう持ってるし。

そんなわけで、iWebを使った新しいページですが、今までよりはちょっぴりきれいになったと思いますがいかがでしょう。まだトップページとAbout Meのページだけですが、もう少しiWebで作るページを増やしていくつもり。
これだけ作るにもいろいろ試行錯誤したのですが、まだ未解決の問題が一つ。iWebではFTPで直接ホームページをアップ出来るはずなのですが、どうしてもASAHIネットとのFTPに失敗してしまいます。
仕方ないので、今はいったんローカルに保存し、これまで使っていた(Windows上の)FTPソフトを利用してアップロードするという間抜けさ。せっかくスマートに全作業をMac化したかったのに。

2009年3月14日土曜日

宇宙創成/サイモン・シン

Bigbang以前、「フェルマーの最終定理」がとても面白くて、それ以来サイモン・シンというライターは気になっていたのです。
今回の題材はずばり宇宙。それもビッグバンです。(というか、オリジナルタイトルはそのまま"Big Bang"なようです。)
上下巻二冊となかなかヘビーな量ですが、中身が面白くて飽きさせることがありません。

サイモン・シンの書き方の何が面白いかと言うと、一つには理論とともに、それを考え出した人間に注目を当てるという点。新しい登場人物があれば必ず生い立ちを説明するし、その人間性を示すような重要なエピソードを紹介するのです。
それは取って付けたような内容でなくて、なぜ彼らがそのような主張をするに至ったか、という点と密接に結び付けられていて、科学者の伝記とその科学理論が同じ文脈の中にきれいにまとめられています。
もう一つサイモン・シンのすごいところは、どんな最先端の理論であっても、そのエッセンスをうまく救い上げ、誰にでも理解しやすく説明し、その理論の科学史的、社会的な意味をきちんと記述してあること。
それだけで超難解な理論も、ものすごく人間くさい、身近な存在に感じられるから不思議です。学会内での論争もその場の臨場感をちゃんと伝えていて、いささか幼稚な学者同士の小競り合いも余すところ無く紹介してくれます。科学者を決して安易に聖人君子に祭り上げません。

ということで今回はビッグバンなのです。
話はギリシャから始まります。この宇宙の仕組みはどうなっているのか、最初に科学的に論じたのはギリシャの自然哲学者たち。そのとき確立された天動説はその後2000年近くも信じられることになったのです。
コペルニクス、ケプラー、ガリレオとお馴染みの科学者の尽力でようやく人々は地動説を信じるようになります。
その次はアインシュタイン。一般相対性理論で重力の本質がわかり始めると、なぜ宇宙は重量でひと塊にならないのか、という疑問が生じてきたのです。重力と反対の力が何かあるのでは、という疑問が出てきます。
それから宇宙を観測するための巨大望遠鏡に大きな貢献を成した人たち、各天文台で重要な観測を人たちがたくさん紹介されつつ、その結果の積み重ねが銀河や宇宙のサイズなどを次々明かしていきます。
そして宇宙が膨張しているのでは、という観測結果から、ビッグバンという考えが浮上します。それにまつわるたくさんの理論と論争、そしてそれを裏付けるための観測。今でもビッグバンを否定している学者もいますが、そうした積み重ねの結果、現在ではビッグバンが宇宙論の基本的な理論となりつつあるところまでが語られます。
科学好き、理系人間の方にはサイモン・シンの著書はおススメです。

2009年3月10日火曜日

ジェネラル・ルージュの凱旋

海堂尊の田口・白鳥シリーズの映画化第二弾を観ました。原作は未読。
あんまり期待してなかったのだけど、なかなか良い映画でした。医療現場のリアルな状況とか、病院経営の問題だとか、その中で生じる人間関係とか、もちろん現実社会より刺激的な人々ばかりだけど、細部が良く練られていてリアリティがあります。
製薬会社の営業担当の腰の低い感じとか、平気で大きな音を出すような無神経な医者とか、あるある的な人物造形もなにげに感心。
しかし何と言っても、この映画の気持ち良さは救急医療センター長の速水を演じた堺雅人の演技によるのかなと思いました。
敵が多い一匹狼。傲慢だけど子供っぽさを持ち、冷徹な判断を瞬時に下し、ひねくれた物の言い方をするくせに一本筋の通った信念を貫こうとしている。クールで力強いキャラは無茶苦茶カッコいいです。
会社のような組織にいると、こういった信念を持って頭の固いお偉方と対決できる破天荒なキャラに憧れます。でも実際には会社にこんな人がいると困っちゃうってのも現実。
そういうサラリーマンのヒーロー像を描いてくれた、というだけでこの映画を観た甲斐がありました。

2009年3月7日土曜日

日本語を伝える

ここのところ外国曲を振ることが多かったのですが、今年になってから日本語の曲ばかり扱うようになりました(というか、全部自分の作った楽譜ですが・・・)。
あらためて日本語で歌うことについて、いろいろ考えさせられます。
少なくとも私からみれば、ウチの団も、その他の多くの団も、日本語の抑揚が一様で、棒読みしているようにしか聴こえません。だから、言葉も良く伝わってこないし、そもそも伝えようとする意志が希薄に感じてしまうのです。もちろん、歌い手は練習に対して一生懸命取り組んでいるのだろうけれど、そもそも伝えるための工夫が足りないと私には思えます。

言葉を伝えるにはどうしたら良いでしょう?
残念ながら「もっと気持ちを込めて!」だけしか言わない指導者からは、良く伝わる日本語の歌は聴けないでしょう。言葉が伝わらないほとんどの場合は、伝えるスキルの低さに起因するものです。
単純に歌がうまい人、朗読がうまい人の日本語の扱い方を調べてみればすぐわかることです。うまい人を見て「気持ちが込もっている」程度の感想しか思い浮かばない人は、彼らの努力を想像することさえ出来ません。

言葉を伝えるにはまずいろいろな固定観念を疑う必要があります。
例えば、日本語には母音が五つしか無い、と単純に思っていませんか?そして、それを前提に日本語を扱っていませんか。
本当は母音の区切りが五つしか無いだけであって、同じ「あ」でも単語や文脈や音価などによって発音は異なって当たり前なのです。
そこを理解しないで「母音をはっきり」とだけ指導していると、下手な音声合成ロボットのような無表情な歌にしかならないのだと思います。

2009年3月2日月曜日

みちのくひとり旅

今年は私にとってはめずらしく拙作の初演の多い年になりそうなのですが(先日の児童合唱曲初演もありました)、そのうちの一つ、大型委嘱作が私の古巣、東北大学混声合唱団の演奏会で8月に初演されます。
この演奏会にて、なんと私が自ら指揮して初演することになったのですが、今週末その初めての練習があり、彼らが合宿している盛岡まで行ってきました。
合宿なので、土曜の午後、夜、そして日曜の朝、昼と集中指導となり、大変充実した、そしてハードな週末を過ごすことに。でも彼らは一週間、合宿で合唱漬けなんですね。そういや、昔自分たちもやってたなあ、と思いながらも若い力には本当に恐れ入ります。

嬉しいことに、すでに音もきちんと取ってあって、作曲の意図を交えながらも、最初から曲作りの細かいところまで練習できたのは大きな収穫でした。
今回の初演作の詳細については近いうちにお知らせしますが、久し振りのピアノ伴奏曲で、かなり壮大なテーマを扱った重い曲です。8月の演奏会に向けて、大変楽しみになってきました。

久し振りに古巣の団を訪問して、OBの方といろいろ懐かしい話もしました。卒業以来、ずいぶん疎遠になってしまったので、次回、仙台を訪問するのも今から楽しみです。

2009年2月22日日曜日

7つの贈り物

主人公の行動に賛否が分かれるという点で話題になっている映画「7つの贈り物」を観ました。
全体的に説明を省き、主人公の行動の意味が後半になってだんだん明らかになるような構成を取っているため、前半ではなかなか内容の意味をつかみ取るのが難しく、少々いらだちます。
もちろんそれは脚本の意図であり、終盤で問答無用の感動を誘うため恐らくそのような流れになっているのでしょう。確かに、事実が分かった後には泣けてくるシーンも多々あるのだけれど、映画を観終わった後でいろいろと疑問が沸いてきたのは確か。以下、若干のネタばれになります。

そこまでして人を助ける・・・というのが、終盤での感動に繋がるのだけど、よく考えると、その行動はあまりにエキセントリック。もし現実にそのような行為をする人がいたら、助かった人々は無条件で喜べるでしょうか。そこがまず疑問。
逆に究極の人助けが重荷に感じてしまうだろうし、結果的に助けられた人が精神的にも幸せになれたとは言えない可能性もあります。
それから目的の達成のためにとった手段がいささか強引。法を犯し、兄弟友人に迷惑をかけてまで行うことが善行と言えるのか。敢えてそのようなシーンを入れたということは、製作者自体が「あなたはどう思いますか」という提起を観客に与えていると邪推してしまいます。
善い行いをする、という目的を厳格に遂行する、という力強い意思は賞賛されるべきなのでしょうか。そういうところはある意味、米国的な価値観なのかもしれないと思ったりします。
日本人なら、善い行いというのは行動の優しさという態度にも現れる感じがあって、冷徹に事を進める人物像になかなか共感を得るのは難しいでしょう。
自分の善行の対象になる人を審査するような、上から目線、みたいな感じも気になります。あんた何様よ、みたいな。
そんなわけで、個人的には必ずしも主人公の行動には納得しないものの、この映画が提起したある種の米国的価値観について考えるには興味深い題材なのかもしれません。

2009年2月15日日曜日

オーケストラで聴くプーランクのフルートソナタ

名古屋フィルハーモニー管弦楽団の「バレンタインコンサート」が浜松アクト大ホールであったので行ってきました。
今日の演目で一番気になっていたのは、プーランクのフルートソナタのオーケストラ編曲版(バークレー編曲)。室内楽の中でも、一二を争うくらい好きな曲であるプーランクのフルートソナタ。オリジナルを生で聴いたこと自体無いのに、そのオーケストラ編曲版を聴くなんて本当に滅多に無い機会です。

実際聴いてみて、いろいろと思うことがありました。
そもそもフルートのソリストは、この有名な曲を恐らく何度も演奏したことがあるはずであり、ピアノと阿吽の呼吸でアンサンブルしていたその感覚がかなり身体に残っていたに違いありません。
正直、オーケストラのアンサンブル感とはズレがあって、何度か演奏に乱れがあったように思います。これは、経験があったからこそ逆に、ソリストにとって合わせが難しかったんじゃないかなあという気がします。(実は指揮者が元々フルート奏者らしく、それでこんなマニアックな演目を選んだのではないかと想像しています)

編曲という点からも、ピアノとフルートの音像に慣れていると、いくつか違和感を覚えてしまいます。えー、そのタイミングでティンパニが入るの!とか。元々、二人の演奏者がアイコンタクトで独特のタメを作るのがこういった音楽の面白さであって、各フレーズがいろいろな楽器にばらされることによって、その微妙なタメを作るのが非常に難しくなります。
そう考えると、ピアノの楽譜をオーケストラに編曲するのって、とても難しい作業なんだなと改めて感じました。その場合、ときに原曲の音構造から離れて、ある程度自由に編曲した方がむしろ効果的になる場合もあるでしょう。しかしそれは、原曲の良さを損なうことにもなりかねず、非常に難しい判断になると思います。
なお、原曲では妙に明るくて若干の違和感のあった第三楽章が、最もオーケストラに合っていたように感じました。オーケストラの方が華やかさを表現し易いということなのでしょう。

その他、イベールのフルート協奏曲、プロコフィエフのロミオとジュリエットなど、浜松でなかなか聴けない演目を楽しませて頂きました。

2009年2月11日水曜日

「虹の輪」が演奏されます

オリジナル作品内のPD合唱曲シリーズで公開している女声合唱曲「虹の輪」が、明日(11日)、神奈川県合唱フェスティバルで演奏されます。中舘伸一さん指揮、Asian Windsの演奏です。私の把握している限りでは、恐らくこれが初演だと思います。
今回開催される第32回神奈川県合唱フェスティバルでは"立原道造"特集ということで、立原道造の詩による合唱曲だけを集めるというとても意欲的な企画。(チラシはこちら
ちなみに、その昔、神奈川県合唱曲作曲コンクールというのを、このフェスティバルの一部でやっていたんですよね。私は第18回のとき佳作を頂いて受賞式に伺いましたが、この作曲コンクールも20回で無くなってしまいました。

ちなみにこの「虹の輪」という曲を書いたのは、もう18年も前のこと。
当時はピアノ伴奏付きにまだこだわっていた頃で、最近書いている曲に比べれば、耳に優しい素直な合唱曲に聞こえます。
その頃は作曲しても発表できる場も無かったので、いまや懐かしいパソコン通信で、MIDIデータをアップしたりしていました。Nifty-Serve内にある"FMIDICLA"というフォーラムです(今聞けるMIDIデータも当時アップしたものと同じデータです)。この場所では、MIDIでクラシック曲を打ち込んだデータがたくさんアップされていました。
今同じことやろうとするなら、初音ミクに歌わせてニコニコ動画にでもアップしているかも。

そんなわけで、自分にとってももはや懐かしさを感じる曲なのですが、それが今更ながら演奏して頂けるということで大変嬉しく思っています。残念ながら、明日は演奏会には伺えませんが、浜松よりご盛会をお祈り申し上げます。

2009年2月8日日曜日

ベンジャミン・バトン 数奇な人生

ブラピ主演で、アカデミー賞に13部門でノミネートされているということで話題になっている映画。
内容は、年を取るほど若返ってしまう奇妙な男の人生を描いたもの。設定だけみると、非現実的な設定でSFぽかったり、ファンタジーっぽい雰囲気を想像してしまうけれど、これは完璧な人間ドラマ。人の生死を正面から扱い、人は一生かけて何をなすべきか、といった人生論めいた問題を観る人に投げかけます。

基本的には、主人公のベンジャミンとデイジーの恋愛が軸にストーリは展開されます。
幼い頃に出会った二人。デイジーは好奇心おう盛なかわいい女の子。でも、ベンジャミンは子供にして老人の風貌。それから二人は成長して、デイジーはバレエダンサーに、ベンジャミンは初老の男になりこの辺りから二人は意識し合います。
30代頃二人の年齢が最も近づいたとき、二人は一緒に暮らすようになり、幸せに満ちた生活を送るのですが、子供をもうけた後、益々若返る自分には父親の資格が無くなると思いベンジャミンは苦悩することになります。
この間、母親代わりとしてベンジャミンを育てた老人施設を切り盛りする女性、老人施設内の死にゆく老人たち、ピグミー族の男、ベンジャミンの生みの父親、船乗りの船長、ロシアの外交官の人妻、などなど多くの人たちがベンジャミンと関わり合い、そして別れていきます。一つ一つのエピソードが秀逸で、泣けるシーンが盛りだくさん。水泳で海峡を渡った老女がテレビに出るシーン、あの伏線がこういう形で解決されるのに思わず感動。
何しろ一生をそのまま描いたので、映画もたいへんな長尺です(2時間40分ほど)。

もう一つの見所は、老人から最後は子供にまで至る特殊メイク。デイジーも最後はおばあさんまで同じ人がこなしているのだけど、最近の特殊メイクってもうほとんどわからないですね。とても自然で、同じ人間がちゃんと年齢を重ねたように見えます。そういった細かいリアリティが、この物語の感動をより強めることになっているのだと思います。
何しろ、年を取ると若返る、という設定で、これだけの感動ドラマを作り上げたそのクリエイティビティは賞賛に値すると感じました。

2009年2月2日月曜日

唱楽Ⅲで「しりとりうた」初演

以前お知らせした通り、本日、東京文化会館小ホールにて「現代の音楽展2009唱楽Ⅲ〜現代児童合唱の領域」が開催されました。
前日にリハーサルがあったので、前の晩より東京入り。
初演前日に初めて生演奏を聴くことができました。いやースゴいです、多治見少年少女合唱団。初演でこれだけの精度で演奏して頂けるなんて滅多にありません。もちろん、田中信昭先生の厳しくそして効率的な指導の賜物なのだけど(想像以上のエネルギッシュさ!)、彼ら彼女らのプロ意識も半端じゃないのです。日頃の自分たちの活動がもう何だかグダグタに思えてしまうほど。こんな方々に初演してもらえるなんて本当に幸せなことです。
リハの合間に田中先生、合唱団団長の谷村さん、今回の制作を担当された山内さんともいろいろと興味深い会話が出来ました。

そして今日のコンサート全般も、非常に面白いものだったと思います。
いずれも、ハードな現代音楽。自己主張の強い、作家性の高い作品ばかり。合唱表現の可能性を感じることが出来ただけでなく、様々な作曲家が何を考え、何を伝えたかったのか、そしてそれをどういう形で楽譜に込めたのか、そういったこと全般に思いを馳せることができる有意義なコンサートだったように思います。
正直、拙作の持つある種の能天気さは、コンサートの中にあってかなり異色だったかも。それはそれで狙い通りだったとも言えるけれど、お客さんにはどのように感じられたのか聞いてみたいものです。

私にとって、作曲家を前面に出したこのような企画で、自作を初演してもらったことはほとんど初めてのことだったので、大変嬉しく、また幸せな時間を過ごさせて頂きました。

2009年1月27日火曜日

予想どおりに不合理/ダン・アリエリー

Irrational行動経済学という学問があるのだそうです。
この本を読む限り、限りなく心理学に近いのですが、それが経済的行動と結びついているのがポイント。この本では、人々が経済的に見れば不合理なのに、ついついそうしてしまういろいろな行動を紹介しています。そういった人々の行動はまさに予想通りの行動ということで、「予想どおりに不合理(Predictably Irrational)」というタイトルとなっているのです。

例えば、ある雑誌の定期購読の選択肢が次の三つあったとします。
1)ウェブ版だけの購読(59ドル)
2)印刷版だけの購読(125ドル)
3)印刷版とウェブ版のセット購読(125ドル)
この選択肢で多くの人は3)を選ぶのだそうです。ぱっと見ると、2)と3)では同じ値段なので、3)がお得なのは間違いありません。
冷静に考えると、別にウェブ版だけで構わないのかもしれないのですが、この三つの選択肢では3)がとてもお得なように感じてしまいます。
このとき、2)の選択肢は人々を3)に誘導するためのいわば「おとり」なのです。
このように人は、比べるものがあると良いほうに惹かれてしまいます。この気持ちを利用すると、人の選択を操作することがある程度可能になるのです。

上の話はこの本の冒頭のエピソード。これで私はかなり引き込まれました。
この後も、ある価値観が記憶に残っているとそれに影響される話、「無料」というだけで不合理な選択をしてしまうという話、ボランティアだと進んでするのに報酬をもらうとやる気を失う話、自分の持っているものを過大評価してしまう話、価格でモノの価値まで判断してしまう話・・・などなど、興味深い内容が盛りだくさん。
これだけのことに注意していれば、自分も合理的な消費行動ができると思うけど、そりゃやはり無理です。だって人間だもの。
逆に言えば、こういった人間の特性を理解して商売すれば、結構儲かるかもしれない、という気にもなります。

いずれにしろ、自分ではモノの価値を自分なりの価値観で正しく合理的に判断しているつもりでも、実は、提示のされ方、値段、付随するサービス、イメージ、その他もろもろの条件で、その判断は簡単に変わってしまうということを理解するのは大事なことかもしれませんね。

2009年1月24日土曜日

楽譜を読む 見えない作曲家

「楽譜を読む」と題していろいろ書いていますが、結局のところ音楽のやり方に正解など無いのです。私が問題だと思うのは、正解がないものにきっちりとした正解を求めようとすること、逆に正解が無いことをいいことに指示を無視してしまうことです。いずれも両極端な態度ですが、正解が簡単に見つかるようなものなら、そもそも芸術とは呼べないわけで、その中でもがくことこそ音楽することの苦しみであり、また楽しみであるのではないでしょうか。

楽譜を読もうとする時、作曲家が何を訴えたいのか、何を指示しようとしているのか、を読み解く必要がありますが、作曲家の人となりは結局のところ楽譜を通してしか伝えらません。必要以上に作曲家の存在を重視すると、全ての記譜に厳格な意味を求めてしまいがちです。そうすると、論理的に矛盾することがたくさん出てくる。その矛盾に対してさらに厳格に解を求めようとすると、知らぬ間に論理の罠にハマり、作曲家の言いたかったことからさえ遠ざかってしまいます。
楽譜を通してしか見えない作曲家は、楽譜を通してだけ見ればいいのだと思います。少なくとも今生きている作曲家ならば。(古い曲の場合、時代背景も考慮する必要が出てくるでしょう)

テンポのときにも言ったように、指示の直接的な意味をそのまま鵜呑みにするのでなく、その本質的な意味を常に読み解こうとする態度が必要です。
だから同じく"p"と書いてあっても、小さくしたいピアノなのか、大きくしたいピアノなのか、使われ方によって異なる場合もあります。"Tempo primo"といっても、もしかしたら必ずしも最初のテンポと同じでなくていいかもしれません。アクセント、スタカート、スラーのようなアーティキュレーション記号にいたっては作曲家によって、曲によってさえ、その意味合いが違う場合もあり得ます。
でもそれらを読み解くセンスは、日頃注意深く楽譜を読むことによって、十分鍛えることは可能です。でも鍛えた結果は違うものになる可能性もあります。それが、読み解く人が持つ芸術的なアイデンティティとなり、オリジナリティとなるのです。

こんなことを言っていると、結局何を言っても正解かどうかわからない、あやふやな感じを抱くと思います。でも残念ながらそれが真実だと思います。
私が言えるのは、指示の直接的な意味に拘泥して過度にロジカルな解釈を突き進めないこと。どこかの段階で楽譜上の指示を一度曖昧なイメージに変換してみると、全体を俯瞰した本質が滲み出てきます。後は、自分が本質だと思ったことを自信を持って表現してみることです。

2009年1月17日土曜日

合唱名曲選:With a Lily in Your Hand

アカペラスクエアのCDが出来てきて、各団の演奏を聴いています。
自分たちの演奏の傷が痛々しいのは置いておいて、HCCの歌ったウィテカーの"With a Lily in Your Hand"ってかっこいいなあと改めて思った次第。

近年出てきた作曲家の中で、ウィテカーは非常に質の高いコンテンポラリーな曲を書ける人だと私は評価しています。アップテンポ&変拍子とその和声感など、細かく見てみるとそれほど複雑な音でも無いのに、トータルとしての楽想の面白さが非常に斬新に感じます。こういうところが真の能力の高さを感じさせるのです。
甘すぎず、抽象化されたメロディなども才能を感じさせるし、ルネサンス的な音画的発想が曲に仕込まれているのも歌い手にアカデミックな楽しみを与えます。("butterflies"とか、"universe"とか)

あとウィテカーに特徴的だと思われるのはテンション音の使い方。
冒頭の2小節目の"Love" の和音。B-D#-E-F#-B-F# となりますが、つまり B の三和音に E が付いています。譜ヅラだと一見どう解釈していいか迷うのだけど、聴いてみるとこれが心地よい。
私の感じではドミナントの11th(sus4的とも言える)と3rdを同時に使っている、というように解釈しました。なんでドミソにファが付いてるの?と思うとちょっと奇異だけど、ドミナント的に使うなら音楽の流れの中で効果的に聴こえる場合もあるのでしょう。

当然今風の曲ですから、maj7th, 9th はかなり多用されるわけですが、上と同様 11th の扱いがやはり面白い。"universe"の宇宙的な広がりを感じさせる和音では、F#の和音に、6th,9th,+11thのテンション音が乗っかります。特に最高音のソプラノの+11thが神秘的な感じを出しています。
同様の音は、前の方にもあります。32,34小節のG#とか、35,36小節のD#の音とか。D#はテンション音というよりは、リディア旋法的と言った方がしっくりくるかもしれません。

そういった温故知新的な技法と、現代風アメリカ風な音使い、ウィテカーはそれらをうまく縫合して聴き易い音楽を作ることに非常に長けた作曲家ではないでしょうか。

2009年1月10日土曜日

合唱名曲選:Daemon Irrepit Callidus

オルバンの"Daemon Irrepit Callidus"を練習する機会があったのですが、YouTubeで検索すると、まあ世界中のたくさんの合唱団がこの曲を取り上げているのが分かります。いまや隠れた名曲と言ってもいいかもしれません。

この曲の魅力は、ポップスに通じる今どきのビート感を持っているという点、それからモテットでありながらメロディや音の使い方にまさに悪魔的な毒を孕んでいるという点にあるのではないかと思います。
それでいて全体的な楽想がシンプルなので、味付けのしがいがある可塑性も演奏者のやる気をかき立てます。
そうは言っても、このテンポでオルバンの現代的な音程を正確に守ることは難しく、多くのアマチュア合唱団の練習では音取りに難儀するものと思われます。
しかし、実際歌ってみると、この音のハマらなさというのは、歌詞をさばくためのディクションやリズム感、発声のような基礎技術と関わり合っていて、テンポをゆっくりして音を取っても実はあんまり解決にならなかったりします。もっと、総合的な音楽に対する感性の高さが要求されるのです。
実際演奏の動画を聴いても、細かい音符で和音を感じることは難しく、むしろ音楽的にはリズムのキレの良さ、発語の深さのほうが強い印象を与えます。

これは、音符からもそういう傾向を読み取れるのです。
例えば冒頭のメロディ、3小節目の2拍目、7小節目の2拍目はアルトとソプラノが半音でぶつかっています。それから18小節目のアルトはCの方が和音感が高まるのに、Bbを続けるために敢えて9thの微妙な音を使います。30小節やエンディングの半音進行の部分も、各パートはあまり和声の帳尻合わせ的な音を使いません(それでも縦の和声も意外と変ではないけど)。
いずれも、縦より横の力学を重視した音の配置になっているように思われます。
あと楽譜からは、スラーの扱いに多義的なところがあって(同一シラブルの指定、フレージング、単語感をだすため?など)、若干演奏者を迷わせる部分があるかもしれません。

恐らく日本人には、この曲の鋭さを出すために言葉の彫りを深くさせることが大変難しいのではないでしょうか。特に「デーモン」の"d"の爆発具合、「エー」の開き具合を優しくしないことがこの曲の雰囲気を出すのに重要なことのように思えます。
この曲の表現の仕方について敢えて天の邪鬼的な発想をするのなら、私としては「悪魔に打ち勝つ強い心」を表現するのではなく、あくまで「悪魔」そのものを表現したいと思います。悪魔への対抗心はお客さんが感じれば良いのです。

2009年1月6日火曜日

YouTubeに器楽曲をアップ-Ensemble#10

仮想楽器のためのアンサンブル第10番を作曲。
ちびちび書きながら、ついにこのシリーズも二桁に突入です。

今回も基本的には変奏曲的な作りです。時間は7分強。
主題はちょっぴりSFアドベンチャー系映画風。中盤はややおとなしくなったり、ブルースっぽくなったりしますが、後半はビート感が戻り、最後は5/8拍子で疾走し、その勢いのまま終わります。

打ち込みの音源は Halion Symphonic Orchestra。DAWはCubase4。動画の作成はMacにプリインストールされているiMovieと、いつものツール。
YouTubeも16:9になったので、次は画面サイズも変えてみたいです。楽譜はそちらのほうが見やすいだろうし。
あと音声をステレオにしたいんだけど、簡単な方法はないでしょうかねぇ。



2009年1月4日日曜日

ユリイカ総特集 初音ミク

Miku詩の文芸誌であるユリイカが、何と「初音ミク」の総特集ということで2008年12月臨時増刊号を出しました。そう言えば、以前ユリイカの総特集を買ったのは、矢川澄子さんのときでしたっけ(2002年10月発行)。
DTMマガジンとかが「初音ミク」特集を組めば、それはもうソフトの使い方とか、歌わせるためのテクニック、といった内容になるわけですが、当然文芸誌が特集を組めば、その内容は全く変わります。
1年半ほど前に発売されたボーカロイド「初音ミク」が、その後ネットや音楽業界にどのような影響を与えたか、そしてそれが現代の社会的な流れとどういう関係にあるのか、そういうことを様々な識者が語っているわけです。
切り込み方は多種多様で、どれもが社会的、文化的視点を持っているから、今時の芸術潮流を俯瞰できるという意味でも、非常に面白い一冊。紅白で見たパフュームの口パク・ロボ声歌唱なんかも、ボーカロイドブームとシンクロしているように思いました。

ちなみに初音ミクにクラシックの声楽曲を歌わせることを「ミクラシック」とか「ボカロクラシカ」とか言うらしく、この本で紹介されている楽曲をニコニコ動画で聴いてみて、こりゃ面白い!と思いました。マタイ受難曲全曲製作に挑戦しているつわものもいます。
もちろん、その音楽にクラシック音楽の精神など求めてはいけません。しかし、そこには高度な音楽性と、センスあるパロディ精神に溢れた新たな芸術の種を感じます。
その雰囲気をうまく言い表している「ミクラシック」の記事に書かれている内容をちょっと長いけど引用。

初音ミクの声はデータベース化された人間の声が組み込まれているとはいえ、本質的に機械的なアンドロイドの声である。それは声であると同時に楽器でもある。そしてその特性は特にノンビブラートの長音やトリルにおいて効果を発する。最近は復古的演奏の隆盛にともないバッハの合唱曲などはノンビブラートで歌われることが多いが、それでも人間が歌う以上そこに音の揺れはどうしても入ってくる。ところがミクが歌う『マタイ』のコラールは、人間には不可能な有無を言わせぬ機械的なノンビブラートによってこの限界を容易に超え、衝撃的なまでの非情な透明さを実現する。
日本人のアニメソングの歌手がそのままの声で『マタイ』を歌うことはほとんど物理的にあり得ないことだが、そのあり得ない超人間的なことをミクは成し遂げる。そしてその一方意外なところで弱点や稚拙さをさらけ出しもする。「萌え」はこの未熟さから発生する。『マタイ』でも特にレシタティーヴ、それもイエスの語る場面においてその「どいちゅ語」は遺憾なく威力を発揮する。原曲ではバスが歌うイエスのパートを、ミクが低音で歌うだけでも異化効果は十分であり、人間が歌えば大いに感情が籠もるはずの最後の晩餐のシーンも明るくあっけらかんと流される。
しかしそもそも二十世紀後半から現在に至るクラシック音楽演奏の主潮流は、感情過多のロマン主義的表現を排除し即物的な表現に徹することを理想としてきたのであり、そこから見ればミクの『マタイ』もそれほど奇矯であるわけではない。実際これだけ異化しながら、バッハの音楽そのものは全く損なわれていないのは見事である。