2008年4月29日火曜日

生物と無生物のあいだ/福岡伸一

Creature_2話題のベストセラーを読みました。
「生物とは何か?」の問いに対して、プロローグの中で「自己複製を行うシステム」というのが二十世紀の生命科学が到達した答えだった、といきなり書いてあります。私など、「利己的な遺伝子」を読んだとき、そうかあ、自己複製が生命の本質だったんだ、とえらく感動したわけですが、この定義があっさり相対化され、そこが本書のスタートポイントになっている点でいきなり引き込まれてしまいました。

そういう意味では、本来この本の内容は非常に専門的なのだけど、それを補って余りある文章力で綴られているというのも、この本のもう一つの魅力。
章立てしてあるにも拘わらず内容が連続していたり、風景や街並みの描写がとても詩的だったりするのはほとんど小説のように思えるし、学術的内容の他に研究者のドロドロした人間模様などの描写が挟まっているのも、読み物としての面白さに繋がっています。
個人的には、率直に言って、いささか文章の描写がキザっぽい感じも受けて、学者として文章的なレトリックに浸るのはいかがなものかって感じもありますが、それゆえに楽しく読めたという側面があることは否めません。

それはともかく、著者に言わせれば、生命とは「自己複製」だけではなく、「動的平衡」こそその本質では、と問いかけます。
「動的平衡」とは、私流に解釈すれば、生命とは物質の集まりなのではなく、物質を制御するシステムであり、物質はそのシステム内をただ駆け抜けているだけなのだ、ということなのです。
この感覚、なかなか哲学的で面白い考察だし、まるで「万物は流転する」を地で行くような発想ですね。

生命現象全般を我々が理解するためには、まず生命現象そのものに何重ものレイヤーがあって、生命とはその夥しい集積の上で奇跡のように成り立っているのだと感じる必要があると思います。恐らく、その一つ一つのレイヤーは全て物理法則で解決できるだろうけど、それが積みあがったときに発現するシステムとは、物理法則を遥かに超えたとてつもないスゴイものなんです。
だからこそ、今後その一つ一つのレイヤーが研究され、そして新しい発見があることを、一科学好きとしてはワクワクしながら見守っています。

2008年4月26日土曜日

YouTube に器楽曲アップ2

��曲だけだとちょっと寂しいので、もう1曲アップです。今回は「第五番」です。
ところで、この「仮想楽器のためのアンサンブル」という楽曲、タイトルだけだと何を意図しているか、分かりづらいかもしれません。この試みについて詳しく知りたい方はこちら、あるいはこちらをどうぞ。

今度の画像、周りの大きな黒枠が無くなりました。
iMovieで YouTube にアップする設定で、「公開するサイズ」を前回は「モバイル」だったのですが、今回は「中」に変えてみたのです。なるほど、そういうことなのね、とアップして分かりました。単純に表示範囲が広がるわけですね。
しかし、そうなると逆に気になるのが、左右両端の細い黒い部分。画像を作るときにきっちり4:3じゃなくてちょっと縦長だったみたい。作り直すのも面倒なので、次回からはピクセル単位で4:3にすることにしよう・・・

もう一つ、肝心の音楽なのだけど・・・
今回は実は木管の音でアップしたかったんですが、HALione One の音がかなりショボくて、断念。結局、前回と同じ弦楽器に。
この弦楽器版でも、最低音パートのコントラバスが正直、不満です。聞いた方は納得していただけると思いますが、メロディになると変化の乏しい一様な音がかなり耳につきます。
実際手で弾いて見ると、一番下からC3まで同一サンプルで引き伸ばされていて、C3からの音色の変化がほとんど別楽器という感じ。これ、売り物の楽器じゃあり得ないんですが・・・。まあ、バンドル品なので仕方ないけど。もうちょっとしっかりしたサンプリング音源が欲しいです~。

というわけで、今回のアップ作品を下に貼っておきます。


2008年4月22日火曜日

いーじゃん!J-POP/マーティ・フリードマン

Jpop最近、テレビでよく見る外タレのマーティ・フリードマン。彼はその昔、メガデスというメタルバンドでギターを弾いていたのですが、日本好きが高じて、ついに日本に移住してしまったという経歴。今は日本で音楽活動をしています(石川さゆりとコラボしてたりして、ちょっとアヤしいけど)。
もちろん、私はメガデスなんて聞いたこともなかったけど、外国人から見た日本の音楽シーンを語るこの本、なかなか面白いです。

日本人はすぐに欧米文化を礼賛し、自分たちの文化を卑下するけれど、マーティはそんな人たちに、そんなことは無いよ、もっと日本文化に自信を持って!と語りかけます。この本は、基本的に某雑誌でのマーティの連載が元になっていて、彼の視点から見たJ-POPの面白さが具体的な曲をネタに書かれています。
いくつか、面白いフレーズなど。
「日本の音楽って、洋楽のテイストを取り入れるときに、もろにマネするんじゃなくて、一番おいしいところだけを選んで、それを絶妙なバランスで歌謡曲のメロディーに取り入れるのが得意じゃん。」
「ギターの雰囲気は昔のローリングストーンズみたいなアバウトなロックなのに、いきなりジャズのコードが入ったりするのはすごく日本的な現象だよ。」
「日本の女性シンガーは高音を叫ばないからね。たぶん地声が高いからです。それに音程が少しズレているヘタウマが多いし、低いパートはあまり歌わない。そこが僕は大好きなんだけど・・・」
「アメリカの音楽シーンだと『メタルバンドはメタルだけ』『R&BシンガーはR&Bだけ』っていうふうに、ジャンルの壁が日本よりも厚いし高いんだよね。アーティストが別のジャンルに挑戦したいって思っても、レコード会社がなかなかそういう冒険を許してくれない。」
などなど、考察もなかなか音楽的。

外人が日本文化を常にそういう目で見ているとは、もちろん思いません。
というか、マーティ自身、あまりに日本的な価値観に染まりすぎている感じがします。ロリ系女性シンガーのキュートさとか、正統派よりも猥雑でごった煮的な文化とか、庶民的なアーティストの態度とか、そういうのが好きなんですね。
それでも、アメリカが絶対なんかじゃなくて、アメリカにもアメリカなりに、日本にも日本なりに面白いものがある、そういう当たり前のことを気付かせてくれる一冊でもあります。

2008年4月19日土曜日

YouTube に器楽曲アップ

iMacを駆使して、「五つの母音の冒険」に続き、またまたYouTubeに自作品をアップしてみました。
今回は、4年ほど前に作曲した「仮想楽器のためのアンサンブル第7番」という作品。打ち込みで作った音楽に、楽譜の映像を付けて、動画として作ってみました。




以下、このデータを、どんな流れで作ったのか概略を記しておきます。
<音楽の作り方>
1.Sibelius(浄書ソフト)で作ったデータからMIDIファイルを出力。
2.MIDIファイルをCubase(DAWソフト)で読み込む。
3.CubaseにバンドルされているHALion Oneの弦楽器の音を鳴らして、MIDIを編集。
4.エフェクト、EQ等をかけて、MP3ファイルに書き出す。

<楽譜の映像の作り方>
1.Sibeliusで作った楽譜データをPDFファイルで出力。
2.Photoshop Element でPDFを読み込む。
3.楽譜の画像を一段毎に切り分け、画像サイズを調整してJPEGでセーブ。
4.作ったJPEGの画像ファイルをiMacのiPhotoに取り込む。

<動画の作り方>
1.iMovieに、MP3のサウンドデータと、iPhoto内のJPEGデータを取り込む。
2.iMovieで、各映像データの表示時間を調整。
3.iMovieで、映像切り替えエフェクトや、タイトルの文字を追加。
4.iMovieのYouTubeアップ機能を使って、そのままアップ。

残念ながらこの大きさでは、さすがに楽譜をきれいに表示させるのは難しいようです。あと、YouTubeって、音は全部モノラルになるんですね。今まで全然気が付かなかった・・・

2008年4月10日木曜日

うた魂

正直、ありがちな青春&根性&人情モノだと思い、最初から期待はしていなかったのですが、何かしら義務感のようなものにせき立てられて、結局この映画、見ることにしたのです。

しかし、過剰な期待がなかったせいか、想像以上に面白かったです。全体に漂うB級感、シュールでファンキーなギャグや演出など、予想外の可笑しさ。
しかしそれ以上に驚いたのは、「合唱」の本質について、映画の中でかなり突っ込もうとしていたこと。
不良少年の権藤が主人公に対して説教するくだり「テクニックとかではなくて、歌にとって一番大切なことは何か?」
もし、この答えが「心」とか言うのだったら、私は大変幻滅したことでしょう。そんな予定調和な答えこそ、嘘っぽさ、安っぽさを感じさせてしまうのです。
彼の言ったことはスゴイ。
「フルチンになることだ!」
つまり、飾りを脱ぎ捨てて、裸の自分を見てもらう覚悟を持て、ということ。なかなか深い言葉じゃないですか!

そんなわけで随所に、なかなか感心するようなセリフが散りばめられてます。ストーリは結局、合唱コンクールの最後の舞台で終わるという、ある種ありがちなパターンではあるものの、映画製作者が伝えたかった想いはかなり明瞭に伝わってきました。
全般的には、合唱がかなり自虐的に扱われていて、個人的にはヒット。でも嫌う人もいるかも。
どんなにダサくても、でもやっぱり合唱っていいよね、と最後に思わせるってのは、この映画の力量だと思いました。

2008年4月8日火曜日

好きなJ-POP、嫌いなJ-POP

J-POPの話題ついでに、私の思うところなど語ってしまいましょう。

はっきり言ってしまえば、前向きな歌詞が嫌いです。地に足が着いていない嘘っぽい詩が嫌いです。何でもかんでもポジティブに捉えられる能天気さが嫌いです。
だから教育者が好むようなポピュラー音楽はおおむね嫌いです。

芸術には根本的に毒が必要なのだと思っています。それはJ-POPとて同じこと。何かギョッとするような音や表現、言葉遣い、その中で表現される無常観や絶望感。そして、そのような状況でこそ見出される希望、というような、一見グロテスクなもののほうに本質が隠されていることが多いと感じます。

もちろん、何でもかんでもヘンテコであればいいわけじゃなくて、その毒の入れ方にセンスが必要なんです。そのセンスが足りないとかなり引かれます。それが怖くて力の無い芸術家は毒を入れることが出来ないのでしょう。
そもそもロック音楽は反抗、反骨心から発生したものでした。毒があることにその本質的な価値があったのだと思います。

全ての音楽に毒があるとそれはそれで暗い世の中になりそうですが、こうも健全な音楽ばかりが流行っていると、芸術とかアートって何だろう、と思わず問いかけたくなってしまうのです。

2008年4月4日金曜日

J-POPと合唱

たまたま車に乗っていたときに、カーラジオから今年のNコンの曲が流れてきました。今年の中学の課題曲はアンジェラ・アキなんですね。そういえば去年はゴスペラーズだったか。
オリジナルがJ-POPとして歌われていたわけではないけど、音楽のテイストはやはりJ-POP。もちろん、こういう曲や詩に共感する中高生は多いだろうし、今どきの音楽であるっていうのは、ある意味健全なことなのかもしれません。

まあ、世の中の音楽のほとんどはポップスだし、その他のジャンルが最も商業的に成功している音楽に影響を受けるのは自然なこと。様々な音楽がポップスという文脈の中で再構築され、変遷しているのだと思います。
ただし問題なのは、その取り入れ方。取り込んだつもりが取り込まれている、ていうことの何と多いことか。
ちょっと前に流行った女子十二楽坊なんて、私にはその典型のようにも見えました(あれはあれで音楽的に評価されているのかもしれないけど)。

なので私としては、安易な合唱のJ-POP化には秘かに警告を発したいのです。
J-POPの流儀を取り込んで、より今の人に馴染みやすい新しい感覚を作り上げることには大いに共感するけれど(例えば信長氏のように)、J-POPに完全に寄り添ってしまい、普通のJ-POPの曲にハモリパートを付けましたってなるとこれは、むしろJ-POPに飲み込まれてしまったと言わざるを得ません。
飲み込まれてしまうと、本物には勝てない。マネをする以上、マネの対象を越えることが出来ないからです。

別にJ-POPを合唱アレンジするのがいけないわけじゃないのです。それはエンターテインメントの一つとして十分ありなのです。J-POPをアレンジして歌っています、というのと、まるでJ-POPのような合唱曲です、っていうのはそれはちょっと違うと言いたいのです。