2004年4月25日日曜日

楽譜を読む -「いつからか野に立って」篇-

今、某男声合唱団で練習している木下牧子作曲「いつからか野に立って」の楽譜を読んでみます。

まず曲のマクロ構造は、比較的分かりやすいと思います。
主題は「いつからかのにたって~」のメロディ。これが構造を探るキーポイントになります。
��~20小節が、まず一まとまり。これを[A]としましょう。その後の、21~38小節が、[A']。
ここから、曲調が変わります。39~91小節までが中間部の曲想が激しい部分。これを[B]とします。
最後にまた主題が現れます。92~113小節が、[A"]。つまり全体的には [A]-[A']-[B]-[A"] という感じです。構造的観点から見ると、[A][A'][A"]の類似性を際立たせること、また逆にこの三つの違いを浮き立たせること、が曲作りのポイントになってくると思われます。

さて、この曲、私がイメージしていた従来の木下作品といくらかテーストが変わっているように感じます。ディヴィジョンが極力押さえられていること、ユニゾンが効果的かつさりげなく挿入されていることなど、少人数アカペラを意識しているように感じます。
こういった曲の登場を待っていた男声合唱ファンはたくさんいたことでしょう。最近の邦人男声合唱曲では、久々にヒットの予感です。

また、アカペラ邦人曲ではあまり見ない2/2拍子。これはルネサンス音楽を思わせるビート感で、合唱人的には素直に受け入れられると思います。作曲家は緻密な曲を書こうと思えば思うほど、音符の音価が細かくなるものです。そういった傾向が強まると、結果的に、2/2のような拍子から益々離れていくわけです。
ある程度快活な音楽を2/2で表現したこの曲は、そういった意味でもかなり歌い手のニーズを意識しているように感じます。フレーズもテンポの速さを強調する感じではなく、2分音符によるビート感で大らかに流れるようなメロディを中心に作られています。

アーティキュレーション記号で気になるのは、アクセントとテヌートです。
全体的にアーティキュレーション記号の数も抑えられているのですが、だからこそ、わざわざ書いてある記号には、作曲者の強い意図が込められます。
特に[A][A'][A"]では、主題の類似性を表現するための音楽的な要請によるものと考えられます。(例:4小節「てんの」、24小節「それだと」、94小節「ひだりのては」の三つにはいずれもテヌートがついている)
例外としては、34小節の「くるしみが」にテヌートが付いている部分が挙げられます。
また、同母音を表す以外のスラーの使われ方が、この曲中でたった一箇所、29小節「ゆびさきから」に現れます。この二つには、何らかの解釈が必要になってくるかもしれません。

中間部の作りですが、曲的にはかなりドラマチックな展開になっています。
いくつか面白いところなど。
49小節から始まる「このわたしが」の連呼。各パートが現れる拍の間隔が、3→2→2→2→1→1→1→1となります。なんとなく数理的秩序を楽しむ作曲家の姿勢が垣間見えます。もちろん、こういった書法からは切迫感を表現したいことが伝わります。
57小節は「まさに」「わたしは」「しょうしつ」・・・と高声と低声が交互に歌いながら、dim.が指示されています。これは、私が消失していく様子を音楽的に表現しようとしたものだと思われます。マドリガーレで言うところの音画的手法とでもいいましょうか。

73小節以降の連呼表現は、割と邦人合唱曲の典型的な盛り上がり方と言えるかもしれません。非常に面白いのですが、少人数アカペラ的作曲で進めていた曲調が、ここだけ大人数的になってしまった感があります。
とはいえ、この曲のハイライトシーンであるこの部分の作り方によって、聞く側の印象を大きく変えることになるでしょう。
「いきたい」の後の休符が二分休符→四分休符→八分休符になり、言葉と音楽のビートがずれ出したところが、面白い部分です。ソルフェージュ的な難しさに囚われず、スマートにこの音楽が要求する「魂の叫び」みたいなものを表現したいところです。
その後、「みたしていった」では、和声的な開放感が感じられ、この曲の表現の頂点に達します。

以上、どう歌うべきかでなく、あくまで楽譜に何が書いてあるか、という観点で思うままに書いてみました。


2004年4月18日日曜日

合唱ビジネス

合唱を取り巻くビジネス環境についてちょっと考えてみましょう。
とはいっても、実際にそういう世界の内部にいるわけではないので、少し的を外した話もあるかもしれませんが、お許しを。

ビジネスである以上、儲けが出なければ始まりません。儲けが出るということは需要があるということであり、そこそこの大きな市場である必要があります。
合唱の世界で需要のありそうな分野といえば、私の想像するに、まず歌謡曲等の編曲作品だと思います。日本の合唱団全体の数からいえば、多くはママさんコーラスでしょうし、そうでなくてもカルチャーセンターやPTAの集まりでも歌を取り上げることも多いでしょう。最近だとゴスペル、アカペラ繋がりで歌を始める人も多いかもしれません。実際に、新刊楽譜を見れば、編曲の市場はそれなりに大きいことは伺えます。
入り口は何であれ、合唱人口が増えることは良いことです。ここから入った人がさらに合唱の世界に親しんでもらうためには、編曲の質の向上は必要です。質が高いとは演奏が難しいということではありません。合唱の特性を把握し、合唱で最も気持ちよく響くような編曲であることが望ましいことは言うまでもないでしょう。作り手も、また供給側も、合唱オリジナルの世界よりレベルの低いものと捉えずに真摯にこの市場を見つめなおすなら、もっと拡がりが見込めるような気がしています。
ただ、この世界、指導者自体に怪しさがあるという話もあるかも・・・

次に大きな市場はやはりコンクールでしょうか。特に中学、高校。
コンクールの功罪を云々するならば、この市場性を語ることはどうしても必要になります。儲けになるなら、そこに人は群がるからです。コンクールをすれば、関連書籍(楽譜、ハーモニーなどの機関紙)もそれなりに出ますし、講習会、ボイトレ、ピンポイントの指導や審査員への謝礼、また演奏の音源(特急CDとか)等など。
ビジネスという意味では、もう一ひねりすれば、コンクールに対して面白い商品・サービスというのも成り立つかもしれません。団員一人一人を狙うモノか、団に一つあればいいモノかにより市場規模は違うでしょうが、大きな市場であることは確かです。(例えば、喉を保護するための「合唱用マスク」とか^^;)

ところで、合唱楽譜の市場性とはどんなものでしょう。
私の想像では、オリジナル合唱曲は、ほとんど採算が取れないのではないかと思います。例えば、1500円の楽譜を1000部売っても売り上げは150万円。卸値にして、印税、紙の原材料費、印刷代、それから浄書等の制作費(これはバカにならないでしょう)を引けば一作品あたりの利益はどれくらいになるでしょうか。
1000部というのは少ない設定と思われるかもしれません。もちろんある程度売れる楽譜ならいいですが、その一方で圧倒的な数のほとんど演奏されない曲というのはあります。下手をすると1000部だって出ません。おまけに、合唱団単位で楽譜をコピーなどされれば、メーカにとっても大変な痛手です。
実際のところ、この程度の数量だと、演奏会情報から、合唱団できちんと楽譜を買ったかどうか、コピーしたかなんてある程度わかってしまいます。本気でコピーを防ぎたいのなら、そこまで調べてもよいような気がします。
上記のようなことを考えると、メーカー側もだんだんとモノを作らない仕組みを考えるようになります。それが、昨今流行のオンデマンド出版ということになります。これなら、楽譜制作費だけで済み、売り上げからコストを引いた利益が制作費を超えれば儲けになり、在庫の不安を感じる必要はなくなります。

だからこそ、この辺りはもう少しメーカー側が工夫すれば、面白い商品を作れると思うのです。
オンデマンドなら、組曲の中の一曲だけ、ピースにして売ってもよいし、楽譜の表紙の色なども合唱団の要望に答えるなどのサービスもありでしょう。またその会社が持っている版権内なら、望みの選曲による愛唱曲集の制作なども出来るかもしれません。つまりオンデマンドからもう一歩進んで、オーダーメイドという発想にしたらどうかということです。
そのために、楽譜売り場にはサンプル品だけ置いて、各店でオーダーメイドが発注できるような仕組みも必要になるでしょう。

お客側だけでなく、楽譜メーカ同士の関係として、例えば版権自体を売買するような市場とかはあり得ないでしょうか。各社が、売れ線の組み合わせ楽譜を出すために、他メーカの版権を買い取るなんていうことはあったりするのでしょうか。

2004年4月13日火曜日

演奏会の準備でやったこと

ヴォア・ヴェール第二回演奏会が終了しました。ご来場された皆様、大変ありがとうございました。

演奏会で思ったことといっても、演奏に関してはいつも反省ばっかりになってしまうので、今回は私がやった雑用のことなど。

ある程度の大きな合唱団なら、技術スタッフと運営スタッフが分かれて、演奏会の準備の細々なことなどは担当を決めてやったりするものだと思いますが、ヴォア・ヴェールくらい小さい団だと、少人数でさっさとやってしまったほうが楽だったりします。
そんなわけで、代表の岡さんと私で今回はほとんど演奏会の準備をやりました。前回は、準備担当者もいたのですが、今回はずっと休団中だったので本番のステマネだけやってもらいました。
ちなみに、岡さんは宣伝関係。チケットの出入り、お金関係は私の妻が担当。

まずは昨年暮れ辺りに後援取り。
今回は面倒だったこともあり数を絞って、宣伝で効果のありそうなところだけ後援を取りました。市内の公民館にチラシを置くために浜松市文化協会、それからマスコミ関係は静岡新聞。

それから、チラシ、チケット、プログラムの印刷モノ。
チラシ、チケットがないと演奏会が始まりません。いつも悩むのは、チラシのデザイン。これこそ、絵心のある人に頼めばいいのだけど、ダラダラとなりかねないのが心配で結局自分でやってしまいます。しかし、デザイン系はやっぱり自信がなくて、今回はいまいちだったかも(auの市松模様の携帯を意識している^^;)。

プログラムは、第一回のときと同様、CDのライナーノーツのサイズ(12cm×12cm)。CDでも聞きにきたようなつもりで、という意味と、その後CDを作ったときにケースにうまく収まるようにという実益を兼ねています。今後もこのサイズは、ヴォア・ヴェールの演奏会のトレードマークにしたいと思います。
問題なのは、他の団体のチラシを挟んだときの見てくれですが、まあこちらはお客さんに我慢してもらいましょう。
歌詞は今回は、外国語の曲だけ訳詩を載せて、日本語の詩は著作権処理が面倒だったので、プログラムに載せませんでした。アンケートでは欲しいという人もいたけど、やはり歌だけで歌詞を聞き取れるように歌いたいものです。

その著作権処理。
今回は私の初演作品もあるので、演奏会自体の申請の前に、先ず自作品の作品登録を行います。
去年の暮れ辺りに、インターネットを使うJASRAC作品登録の申請を行い、自宅で簡単にオンライン作品登録が出来るようになりました。実は、それまで全然作品登録をやってなくて、最近になってようやくわずかな著作権収入を得ています。
というわけで、そのオンラインの作品登録システムで、自作品の登録を行います。
そして、その後で、今度は演奏会の作品使用料の申し込み。こちらも、インターネットでダウンロードした書式に必要事項を書き込んでFaxするだけ。あとは、利用明細と請求が送られてきます。
今回は、自分で作品登録して、自分で使用料を払うというなかなか他の人はやらないことを一人でやって楽しんでいます。でも、結構JASRACって手数料たくさん取るんだよね。

そんなわけで、今回の初演作、詩集「食卓一期一会」よりの演奏、楽譜などに興味のある方は、ご連絡ください!

2004年4月4日日曜日

英語の発音

先日、ヴォア・ヴェールの練習で、英会話の先生に英語の発音をみてもらう機会がありました。

よく合唱している人の間では、英語の歌の発音は難しいなんて言われますが、そうはいっても(しゃべれないにしても)学校教育で英語を習ってきた優位は揺るがないと私は思っています。
もちろん、イタリア語のように、ほとんど発音のことは気にすることがないくらいの言語もありますが(イタリア語の曲の場合、マドリガーレであることが多く、発音よりアクセントのような語感に気を使いますね)、それでも英語の取っ掛かりは悪くないはずです。

しかし、逆に英語が世に溢れているからこそ、本来の発音に近づけないという状況ももちろん存在するわけです。
世にあまりに多いカタカナ英語のため、ネイティヴから見ると英語っぽくない発音が蔓延しています。それをそのまま歌を歌うときにやってしまうのです。

今回、先生に最も何度も指摘された発音は「th」の子音の発音です。
これはご存知の通り、上下の歯で舌を挟み、後ろに舌を抜いていくときの子音なのですが、当然こんな子音は日本語にはないので、私たちは、「ザ、ディ、ゾ」などのカタカナでこの発音を発想してしまいます。現実に、カタカナ化された英語も世の中に溢れかえっています。
特に良くないのは「the」が「ザ」になること。
あまりに日本人の中でこの慣習が根付いてしまっているので、「ザ」という発音の束縛からなかなか逃れることができません。私は以前より、「ザ」っていうくらいなら「ダ」のほうが近い、と言ってきましたが、計らずも先生からは相当注意されました。
特に、「z」の子音と近接するときに、区別がつかなくなって、ネイティヴ的にはかなり気になるようです。
例えば、「Now is the month of Maying」という歌詞の、「is the」の部分。カタカナ的に「イズザ」になり、子音が結合してしまって「イザ」ぐらいに歌ってしまいます。しかし、「z」と「th」の発音は明らかに違うわけで、「イズ」と歌った後に、すぐに舌を前に出して「th」の発音に移行する必要があります。

もちろん、「r」と「l」の違いも指摘されました。これは、英会話の先生ならお決まりの指摘なのかもしれません。
日本人が歌の中で普通に「ラリルレロ」といえば、大体「l」の発音に近くなるわけですが、「r」っぽく発音するためには、カタカナで言えば「ゥ」(小さいウ)が付くような感じがしました。ただ、これは実際の歌の中ではちょっと難しいです。先生に言われたわけではないですが、語頭であれば少し巻いてしまうという手もあると思います。まあ、意見は分かれるところですけど。

それから「f」と「h」。何気なく歌っていると、気が付くと「f」が「h」になってしまっているわけです。
ただ私見では、日本人でも「f」の発音は比較的浸透していて、下唇を噛みながら、という発音は日本語になくても、割と出来るような気がしています。ですから、実は逆のパターンで「h」を「f」にしてしまう、という間違いも見逃せません。無意識のうちに、英語っぽくやろうとしてしまうのですね。

さて母音ですが、私たちが心配していたほど母音の問題はありませんでした。むしろ、問題あるとしたら発声のほうかもしれません。
ただし、一つだけ注意されたことがあります。短母音の「i」は、日本人の感覚だと、「イ」と「エ」の中間くらいになったほうが英語っぽくなります。
「this」「still」「bitter」など、あまりに日本的な「イ」だと英語っぽく感じられません。少し「エ」を混ぜると、ちょっと英語っぽい発音になるようです。