2013年11月30日土曜日

インセンティブを設計する─そもそもインセンティブとは?

そもそも何がインセンティブになり得るかをきちんと把握できなければ、その設計も出来ないわけですが、そこの時点で間違っていることも多いと思います、

簡単に言えば、何が人をやる気にさせるのか?という話なんですが、直接本人に聞いてみればそれがわかる、と考えるのは短絡的でしょう。
例えば、立場の上の人が「どうしたらやる気が起こる?」などと立場の下の人に聞いた時、下の人はどう答えるでしょうか。
人々は、その場で言って差し支えのない話であるとか、上の人も喜ぶような話であるとか、当然そういう妥協点を瞬間にさぐりながら話すわけです。こういうタイミングで上の人を不快にする人は、残念ながら一般的には空気が読めない人と言われます。

そういう意味では、空気が読めない人の意見は意外と大事かもと思ったりもします。
よくこの場でこんなこと言うな、というのは、実は誰の心の中でもちょっとだけ感じていたりすることもあるからです。
だから、「何でも言いたいことがあるなら言って」とみんなに言ったあとで、誰かが発言した内容を否定するのはかなり反則だと思います。そうしてしまえばいずれ誰も率直なことを言ってくれなくなりますから。
自分自身が聞きたくないことに真理が隠されていることもあります。それはなかなか直接対話のなかで拾い出すことは現実難しいのかもしれません。


では、なかなかホンネとして表に出てきにくい、やる気のみなもとって何でしょうか。
私の想像では、「良い仕事で自分の名前が知れ渡ること」は、結構重要ではないかと思っています。しかし実際には、多くの人が心の奥底で望んでいながら、表面的にはそれを求めていないと振る舞ってしまうのではないでしょうか。
時として頑に名前が出ることを固辞する人もいるでしょう。
それは日本人的な美徳の一部ではあるけれど、本当はやはり良い仕事をしたのなら多くの人にそれを知ってもらうのは、本人にとって大きなインセンティブになり得ると私は思います。またそうすれば、本人に対しても良いフィードバックになり、ますます仕事の質は高まると思うのです。

ですから、良い仕事をした人をきちんと把握し、評価し、公開するシステム、というのはとても大事だと私は考えます。
残念ながら、日本的組織ではこの逆のことが横行しがちです。
良く出来たことは一人の功績にせずみんなで分け合うけれど、失敗したことは逐一把握され、公開されてしまいます。それはどう考えても、インセンティブ設計の面から最悪の仕組みのように思えます。
むしろ失敗したこと、悪かったことは、当人に直接伝えるだけで十分で、それを公開してしまえば萎縮のサイクルがどんどん進むのではないでしょうか。

インセンティブ設計の大きな要素として、「良い仕事」をきちんと把握し、それを適切な方法で多くの人が見ることができるという仕組みづくりが挙げられます。
仕組みではなく、そういうことを無意識にやっている(みんなの前で「誰々は良くやってくれた」的な話をする)親分肌的な指導者がよいリーダーと呼ばれることが多いですが、誰もがそういうスーパーな人間にはなれないのですから、組織の仕組みとして形にすることが本来取り組むべきことのように思えます。

インセンティブにはこの他にも、報酬のあたえ方、仕事の配分の仕方、などいろいろな要素があると思います。
この辺りは、また何か思い付いたら書いてみることにします。





2013年11月23日土曜日

インセンティブを設計する

長い間、技術者として仕事していたためか、真実とか、原理原則とか、公平性とか、そういうことを追い求めることこそ大事だと思ってきました。それについては、もちろん今でも正しいことではあると思うのですが、時としてそういう客観的事実だけを声高に主張してもうまく回らない、ということも歳を取るごとに感じます。

集団が大きなパフォーマンスを上げるためには、所属する人々が協力せねばなりません。正しいことを追い求めようとする意志だけでは、人々はなかなか動いてくれません。
ちょっとコワい人がカリスマ的に人を引っ張ることもありますが、能力とカリスマが備わったスゴい人というのはそう多くはないし、そういう人が一種の恐怖政治を行なったあげく、結局外部から批判の的になってしまうようなことは、ニュースでも度々聞かされます。

以前この本を読み、深く共感したのですが、人々が健全に協力し合うためには、「やりたい気持ち」をいかに刺激していくか、が大事だと考えます。
やや過激な言い方をすると、人間はインセンティブの奴隷なのです。その人が楽しいこと、気持ちいいことは何なのかをよくよく観察すれば、人はただ自分の欲望に従って生きているだけに過ぎないことが分かります。

欲望というとマイナスのイメージもあると思います。しかし、欲望というのは単にお金が欲しいとか、好きなものが手に入る、といったことだけでなく、人に感謝されたり誉められたりするという些細なことも含まれます。
イヤなことを回避しようとする気持ちも、一種の欲望です。自分が正しいと思わないやり方であったとしても、指示した人から後で咎められることが精神的な負荷になるのなら、それを回避するために自分の意志を曲げることもあるでしょう。こんなことは誰もが日常茶飯事にやっているはずです。

とはいえ,一人一人の心理は大変複雑だし、自分が考え抜いて良かれと思ってもちっともインセンティブを刺激できなかったりすることも良くあること。
そういう意味で、難しいのはお金の扱いです。
お金は当然人々を動かす大きなインセンティブです。
しかし、お金をいくらあげるからこの仕事をやってくれ、というのはビジネスでは当然だとしても、そうでない場ではむしろ失礼だったり、逆に手を抜かれたりする可能性もあります。むしろ、何かを頼んでやってもらった後に、お礼としてお金を渡すほうがお互い気持ちいいものです。
単純に渡す順番の問題なのに、それだけでそこで生み出されるアウトプットの質が変わってくることもあるのです。

その一方で、プロ野球選手が年俸にこだわったりするのは、その金額がお金の多寡というより自分の評価という側面が強いからでしょう。
そういう場合、金額は強いインセンティブになると思います。

お金にまつわるインセンティブ設計は、いろんな要素があり、なかなか難しいと思います。他人に公開されるのか、そうでないかにもよるでしょう。
1万円前後なのか、100万円単位の話なのかでもずいぶん違うでしょう。

しかし原則は、ある人の仕事をリスペクトしたことがお金でうまく表現できていることなのだと思います。事務仕事的にこなされると、リスペクト感が伴わず、頼まれる側のモチベーションは下がります。
逆に金額が少なくても、きちんとリスペクトしている気持ちが十分伝われば、それは仕事をする側にとって大きなインセンティブになるのではないでしょうか。


2013年11月16日土曜日

依存する個人と会社、集団、そして宗教

私がひたすらこのブログで書いているのは、これからは芸術家的なアイデンティティを持っている個人が生きやすくなる社会になるだろう、という希望にも似た予測です。

その一方、周りには最初から個人が目立つことをよしとせず、自分の個性を発揮しようとせず、集団の論理に従い、与えられたことを疑いもせずこなそうとする人々がいます。
社会はいろいろな人から構成されているわけですから、方向性の異なる個人がそれぞれ協力し合って大きな力を成していくべきですし、このような人々がいるからこそ社会は回っていると言えます。

とはいえ、ネット社会が力のある個人を目立たせるほど、目立ちたくない個人はいら立ちます。
たいていの場合、集団がそれなりに回っているときに、より大きな収穫、発展を得るために新しいことを始める人たちは、回す仕事をしている人たちから非難を受けます。新しいことだから突っ込みどころは山ほどあります。だから非難の内容は探せばいくらでも出てきます。
そして同じような構造が、ネットの知識人に絡んでくる無名な個人とのバトルにも言えるでしょう。似たような議論は身の回りにもたくさんあります。
私の思うに、定型的な作業で集団を回している人々は、何かが新しくなる度に自分の立場が危うくなることを無意識のうちに感じ取っているのかもしれません。

私がこれまでずっと感じていた違和感とは、このような集団に依存する人々(以下、依存系個人)との価値観の違いだったような気がします。
特に日本人はこのような力学が大変強いですから、ある意味、依存系個人の価値観が幅を利かせる社会でした。もちろん、今でも集団の中ではその力は絶大です。


私は依存系個人のことを非難したいわけではありません。
昨今、そのような見方をしてみると、この心理の根の張り方には到底ひっくり返せないほどの強さがあることを実感しているのです。
ある場所においては、自分の生活を犠牲にしてでも集団の成すべきことを成就させるために活動することは大きく礼賛されますし、そういう行動を人々に強いることが出来る人たちが上層部に上がっていきます。
それは、この国に住んで、日本語を話し、日々日本のテレビ局の番組を楽しんでいる人たちには避けては通れない価値観です。いくら、都会に住んで先進的な活動をしている人であっても、このような価値観は強く私たちの心を縛っています。

依存系個人は、このような価値観の中で生息することを好みます。
もちろん生物的感情としては、ときとして不満を感じることもあるでしょうが、その不満さえ押し殺せば、安定した生活と、忠実さが報われる環境が手に入ります。

日本人は無宗教と言われますが、私には会社に依存する個人、合唱団などの集団に依存する個人は、いわゆる宗教団体に依存している個人と、それほど心持ちは違わないのではないかと思ったりします。程度の差こそあれ、宗教というのは依存する個人を安心させるための装置なのかと思ったりするのです。

依存系個人と、目立とうとする個人が、うまく手を取り合って回っていく社会、というものはどんな形なのでしょうか。残念ながら、この対立はしばらくは続きそうな気がします。


2013年11月10日日曜日

失敗の本質

Kindle版で「失敗の本質」という本を読んでみました。
タイトルが抽象的過ぎるので、いわゆる失敗学的な汎用的な話と感じるのではないかと思いますが、この本は実は太平洋戦争(文中では大東亜戦争と呼ぶ)時の旧日本軍の作戦の失敗の事例を研究した本です。

昨今、大手日本企業の迷走ぶりを戦争時の旧日本軍の戦術の稚拙さ、戦略の欠如と関連づけて語られることが増えてきているように思います。
私自身は戦記物とか、戦争時の戦略とか作戦とか、そもそも戦争に関わることは、これまでほとんど興味は無くスルーしていたのですが、電子書籍ならいいかとついついポチッとしてしまいました。

しかし、これは確かに面白い。
もし、自分が戦争の現場にいたらと思うと空恐ろしいけれど、こうやって本を読みながら、客観的に戦争の有り様を捉えてみると、教訓めいたものがいろいろ得られるものです。そして戦争というのは、大量の兵士と優れた兵器だけでなく、情報制御や補給など多面的な要素があることを思い知らされます。

本書は3章構成。
第1章は、具体的な事例の紹介。ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インバール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦、の6つの事例について、何が起きて、何が原因でどのような負け方をしてしまったのか、ということについて詳しく解説されています。
第2章では、その失敗の分析、そして第3章ではそれから得られる教訓がまとめられています。


いやー、しかしあれだけたくさんの人が死んだというのに、全くもって上層部では現場(戦場)とは別世界のまるで統制が効かない状況があったのですね。
考えてみれば、これは現在の企業活動でも同じ。現代の企業活動とのアナロジーは第3章でも語られていますが、現場がどれだけ頑張っていても、上層部では責任を曖昧にしたり、強硬な主張に誰も反対出来なかったり、相互不信が情報の流通を妨げていたり、そしてそういうことの連続が結局戦局を悪化させてしまった、という事実が赤裸々に描かれており、その教訓は今もなお有効です。

こういう世界の恐ろしさは、戦死は結局は数字でしかないということ。
ただし、そういう冷徹さが無ければ戦略もきちんと立てられない。
何しろまずいことは、自分たちは戦うためにその場所にいるという使命感から、死ぬ恐怖より戦いたいという意志が勝ってしまうことです。それは集団であるからこそ、そのような高揚感で現実感が見えなくなってしまうのです。
挙げ句の果てには、勝つための工夫よりも特攻、玉砕といった行動を礼賛する方向に向かっていきます。

インパール作戦での牟田口中将の言動なんて悪夢でしかありません。
戦争全体の戦略が無いまま、こういった思い入れの強い個人が勝手に戦争を動かしていたという事実が空恐ろしく感じました。


第3章でまとめられている内容は、まさに今の日本人に対する提言でもあります。
今と言っても、この本は1985年に第一版が出ているのですが、それでも内容が全く色褪せていないということは、日本人は25年前から、いや70年前から本質的には変わっていないということなのでしょう。
具体的には
・一度上手くいった方法が変えられず、組織内の規範が硬直化していく。常に自己改革できる仕組みが必要。
・戦略の不足。
・階層がありながら情緒的な人的結合で構成された組織。ロジカルな指揮系統が出来ていない。
といったようなこと。
どうでしょう。既視感ありまくりじゃないですか。

こういった私たちのメンタリティはそうそう変わるものとは思えませんが、しかし、その結果、太平洋戦争でどのような愚かな決断がまかり通っていたのか、それを知るだけでもこの本の価値は十分あると思うのです。


2013年11月6日水曜日

Maker Faire Tokyo 2013に行ってきた

11/3にお台場の日本科学未来館で開催されたMaker Faire Tokyo 2013に行ってきました。

昨年クリス・アンダーソンの「Makers」が話題になって、Makerムーブメントがますます拡がっています。そして、そのMakerムーブメントの日本におけるメインイベントでもあるMaker Faire Tokyo に、ぜひ一度行ってみたいと思っていたのです。このイベントも年々規模を拡大しているようで、今年は科学未来館だけではなく、近接する建物でも展示がありました。

幸い11/4に拙作初演の演奏会もあったことで、その前日にMaker Faireに行くことにしました。今回は家族も一緒に東京に行ったのですが、前売り券まで家族分買っておいたのに結局家族とは別行動。私一人でMaker Faireをうろつくことに。(チケットが無駄に・・・)

とはいえ,実はMaker Faireではウチの会社の人たちとたくさん会ってしまいました。二人くらいはいることは知っていたけど、まさかあの人が・・・という人が二人ほど。しかも出展してるし・・・

さて、このMaker FaireでKORGとlittleBitsのプレゼンテーションがあるというのは知っていたので、まあちょっと見てみるかとフラフラと会場に行ってみたのです。
二社の提携の話はすでに知っていましたが、この場で何と新製品の発表がありました。
その名も Synth Kit。シンセサイザーの各要素が電子パーツ化しており、それらを自由に組み合わせるだけでオリジナルなシンセが出来るという画期的な製品。
価格も¥16000で、基本的にはホビー層向けではありますが、今までシンセに触ったことが無かった人が、面白そうと感じることが出来る製品だと思いました。
下の写真は開発者3人が即興で Synth Kit で生演奏した様子。結構音も本格的でしたよ。


ホビー向けとはいえ、これはMakerな人々にとって音の素材にもなり得るわけで、しっかりプラットフォーム的な地位を確立しようとしているなと、個人的には大変感銘、というか、正直ショックを受けたのです。

さて、本来の目的のFaireのほうですが、これはもう本当に玉石混淆。
一人工作が大好きな物好き、大学の研究室、電子部品を売る専門ショップ、3Dプリンタメーカーやプリントサービスの会社、Intel/KORG/YAMAHAなどの本物のメーカーまで、全く同じ場所で同じように机を並べていました。



個人的には、ネットで見聞きしていた「電子楽器ウダー」の実物が見れて触れてみたり、2回ほど利用した3Dプリントサービスの会社のブースでサンプルを見たり、その他にも楽器ものがいろいろ見れたのが楽しかったです。

ぶっちゃけ(ややエラそうに)言うと、楽器は全般に詰めが甘いものが多く、何しろ音が出るところまで到達して、何とか出展しているというものが多かったのが正直な印象。演奏して楽しいと思えるレベルまで作り込むことの難しさや、そういうセンスを持っている人はそう多くは無いということを実感しました。



それでもMakerムーブメントと楽器は非常に相性が良く、こういう場所で多くの人たちがオリジナルな楽器を作っていることは自分にも大きな励みになります。
ということで、来年は何とか出展したいと思っています。(とここで宣言してしまおう)



(その頃、ウチの家族は・・・)





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男声合唱組曲「SONATINE」初演

松下耕先生率いる男声合唱団、アンサンブルプレイアードから今年の春頃、男声合唱曲の委嘱をいただき、昨日11/4にトッパンホールで開催された第15回定期演奏会にて初演が行なわれました。
正直言って、拙作はなかなか演奏機会も少なく、これまで委嘱も数えるほどしかありませんから、私にとって久し振りの委嘱初演だった昨日は、本当に嬉しい時間を過ごさせて頂きました。

Twitterでも、何回かこの作品について言及しましたが、あらためてブログでも紹介しましょう。
本作品は、5曲からなる無伴奏の男声合唱組曲で、立原道造の詩集「萱草に寄す」からSONATINE No.1と題された五つの連詩をテキストとします。組曲のタイトルも「SONATINE」としました。

立原道造が軽井沢で出会った女性との恋心を綴ったこれらの詩には、ときに内向的で沈み込むような絶望的な心情が表現されています。男性なら誰もが心にチクッと突き刺さるような同様の痛みを思い起こすことでしょう。最初にこの詩を読んで、若さゆえの一途な恋心を、今の私の感性で表現してみたいと思いました。

結果的に、これまでの自作品の中では、どちらかというとタダタケ的なやや古風な価値観をまとった音楽になったような気がします。これまで拙作は、やや突飛なアイデアや、奇抜なテーマをテキストにしていると思われているフシもありましたが、そういう意味では、逆の意味で、えっと思われるような曲調かもしれません。

曲全体はなるべく難しくならず、またディビジョンを全く廃して、少人数の合唱団が取り上げやすい作品になることを心がけました。
ただ、後で歌った皆さんの感想を聞くと、やはり音取りや音域などに苦労されたようで、結局は骨のある作品になってしまったのかもしれません。
特に第3曲目は、邦人作品には珍しいボリューム感のあるフーガが中盤にあります。これは作曲にも時間がかかりましたし、自分でも書きがいがあると感じた箇所です。

初演の練習にはいろいろ苦労もあったかと思いますが、本番では素晴らしい演奏を聴くことができました。お世辞抜きで、私にとって最上級の初演だったと思っています。本当に幸せな時間を過ごさせて頂きました。

松下耕先生、そしてアンサンブルプレイアードの皆様、このたびの委嘱及び初演に、あらためまして御礼申し上げます。


さて早速ですが、この作品のPDF楽譜の販売ページを作ってみました。興味のある方は、是非楽譜を見てみてください。以下のページです。
http://jca03205.web.fc2.com/FC2/Data_Store.html