2005年5月26日木曜日

ダブ(エ)ストン街道/浅暮三文

dabestonまた妙な本を読んでしまいました。シュールなファンタジー小説です。主人公が夢遊病の彼女タニアを追って、ダブエストンという不思議な土地に辿り着き、そこで様々な奇怪な経験をしていくというお話。この変てこさは、どこかで体験したような・・・と思ったら、佐藤哲也の「熱帯」という本を思い出しました。そういえば、同じく半魚人も出てくるし。
あり得ない設定で、あり得ない人々を描くこういうファンタジーは、しかし実は著者の物語へのバランス感覚や、細かい博学さなどが思いっきり浮き彫りにされます。確かに、この人、博学っぽいし、物語を読ませるための微妙な切なさというのを良く知っていると感じました。結局、ファンタジーってただの何でもありな妄想じゃ全然ダメなんですよね。ある意味、全人格的な表現であるのです。
タニアの足跡は、手紙という形で随所に現れます。手紙って、なんか切なくていいですねえ。今や、メールを送ればすぐに届くという時代、そしてインターネットで調べれば何でも分かる時代。あるものを探してさまよい歩く、それ自体が目的だなどという感覚は考えられない世の中。だからこそ、手紙で伝わる想いというのがアナクロながらも、印象深いイメージを与えるのでしょう。
実は小説中、ちょっと気になったことが・・・。主人公が「私」という一人称小説だったのに、ある部分、「ケン」と三人称になるときがあります。作者は意識的にやっているんでしょうか。いや、まあどうでもいいことですが。

2005年5月22日日曜日

楽譜を読む-プーランク/Hodie Christus natus est その2

曲の構成は大まかに、1番-2番-3番-コーダ、となっています。突然の変化を要求される音量記号も、良く見てみるとそれぞれの番で共通になっています。いずれも真ん中に pp->mf->pp->f という変化があるのです(若干の違いはあります)。そういう意味では、演奏者は、この1番、2番、3番の繰り返しを鮮明に表現すべきかどうか、をまず考える必要があるかもしれません。(もちろん曲調が一様なので、変にいじくるより同じ調子で突っ走る方がカッコいい、というのアリでしょう)
もう少し、ミクロ的な視点で楽譜を見てみます。
私が気になるのが、歌い手にはかなりきつい音程の跳躍です。プーランクの曲の一般的な傾向として、こういう書き方は良くみますが、この曲は顕著です。ベースにおける7度や9度の跳躍など、歌い手としては泣けてきます。
練習番号3からの内声は、場合によって声部が交錯します。同じ和音を鳴らすなら、もっと簡単に書けるはずなのに、声部を交錯させてまで音程を跳躍させているというのは、教科書的には褒められたものではないはず。この心はどんな風に汲んだらよいでしょう?
プーランクのいたずら心とか、歌手への嫌がらせっていう理由もアリかも。部分的にはそうとしか思えないような場所もありますし・・・
ただ、全体的にアップテンポの派手な曲であることを考えると、曲全体が持つ鋭角的な表現を、難しい跳躍を入れることによって敢えて演奏に要求しているようにも感じます。まあ普通はこういう善意な解釈をするんでしょうが。

2005年5月18日水曜日

楽譜を読む-プーランク/Hodie Christus natus est

たまたま今、某団体で練習しているプーランクの「Hodie Christus natus est」の楽譜を私なりに読んでみようと思います。
私自身はプーランクの研究家でもなんでもないので、下記の内容の正否は保証しませんが、私ならこう読む、といったレベルの話だと思っていただければよいかと思います。
さてこの曲、比較的演奏機会も多く、コンクールなどでも良く聞きます。近代曲のなかでも、かなりメジャーな部類の曲なのではないでしょうか。
歌詞も有名なもので、多くの作曲家が付曲しているものです。
まず、この曲の大きな特徴は、アップテンポで完全なホモフォニックであるという点。それにも関わらず、ほとんど同一の主題がひたすら繰り返されている、という点がまず誰にでもわかると思います。(メロディよりもモチーフのようなもので組み立てられている)
ホモフォニック&同一主題の執拗な繰り返し、という曲の基本構造のため、曲調の変化はもっぱら音量によって行われます。それも、cresc. dim. のような指示でなく、subito のように、フレーズごとの極端な音量操作を要求されます。
曲の構成は、歌詞が全部で三回、順序に沿って繰り返されます。曲調もほぼ三回同じように繰り返されます(仮にこれを1番、2番、3番と呼びましょう)。最後は Gloria in excelsis Deo, Alleluia がコーダのように何回か繰り返されて派手に終わります。
調は基本的にC調ですが、1番、3番では途中 C-mol っぽくなります。2番では、E-dur さらに G-dur になり、3回の繰り返しに若干の和声的な変化が加わっています。
長くなりました。続きはまた後ほど・・・

2005年5月14日土曜日

ヘルツとセント

知っているようで意外と知らない人が多いのが、ピッチの単位のヘルツとセント。
ヘルツは一秒間に何周期あるか、を表した値です。またセントは100centを半音として、音の間隔を示したものです。例えばドとソの間は700centの間隔があります(もちろん平均律の場合)。
上記のようにヘルツは周波数で、音の絶対的な高さを表すことが出来ますが、セントは音楽的に分かりやすくするために対数を取った値なので、絶対的な高さを表すことが出来ません。つまり、1000Hz の音というのはあるけれど、1000cent の音というのはないのです。セントはあくまで音の相対的な距離を表すために使います。
音楽には、この対数的感覚が必要なことがままあります。音量のデシベル(dB)も、もとはといえば対数値。人間の知覚に近い感覚で音現象を数値化しようとするとどうしても対数的処理が必要になります。
二つのピッチ f1(Hz) と f2(Hz) のセント差は、以下のような式で求められます。
セント値 = 1200 × log 2 (f1/f2)
これを自然対数で計算できるようにすると
セント値 = 1200 × (( ln f1 - ln f2 )/ln 2)
となります。
自然対数の ln などというと、「わ、わけわからん」と言われそうですが、Windows の電卓で数値を入れて ln を押せばすぐ値は得られます。
例えば、500Hz と 520Hz のセント差を求めたければ、
ln 500 = 6.214…、 ln 520 = 6.253…、 ln 2 = 0.693…
となるので、セント値はだいたい 67.9cent となります。(間違ってないよね)
暇な方は計算してみてください。

2005年5月9日月曜日

合唱講習会で歌う

ハンガリーのコラール・エヴァ先生をお招きして、浜松市合唱連盟が主催した合唱講習会がありました。
今回、公開レッスンのモデル合唱団としてヴォア・ヴェールも参加。ハンガリーの先生によるレッスンという貴重な体験をさせてもらうことができました。
公開レッスンの前は、コダーイシステムによるソルミゼーションの紹介。いわゆる移動ドの話です。ただ、移動ドというとどうしても泥臭い話になりがちだけど(固定ド派が反発する)、ハンドサインをやると不思議にみんな熱心になってしまうんですね。ハンドサインって、ちょっとゲーム感覚で面白い。あげくの果てには、「これなら音取りできるようになるかも~」と言う人が現れる始末・・・。まあいいんですが。
実際のところ、ハンドサインの意義は、楽譜の読み方を教わる前の子供に音程感覚を付けるための道具としてあるわけで、五線譜を知ってしまった人にはあんまり意味ないし、そもそも音程感覚が付いていなければ、移動ドで言おうが、ハンドサインを使おうが音程は悪いままなはず。
それでもゲーム感覚の面白さがあるから、こういった講習会ではハンドサインは掴みとして使えるよなあと感じてしまいます。まあ、通常の練習の中で、息抜きでやってみてもいいかもしれませんが。(その前にみんなを移動ド派にしなければならないけど)
さて、公開レッスンのほうは、コダーイのシンプルな曲を私がゆっくり目に練習して持っていったら、本番、随分軽快なテンポに修正され、皆は大変だったようです。でも突然の曲作りの変化に付いていけるようになる、というのも大切なことで、それなりに合唱団としては有意義だったのではと思っています。

2005年5月8日日曜日

マジャールに困る

ハンガリーの合唱曲は、日本中でも相当歌われているはず。
無伴奏合唱を良くやる団体なら、一度はコダーイ、バールドシュなどの曲を歌うものだと思います。最近の作曲家でも、オルバーンやコチャールなど、ハンガリーの曲は良く歌われています。それほどメジャーなハンガリー合唱曲なのに、みんなマジャール語とどうやって格闘しているのでしょうか?
合唱団の頑張り屋が辞典と文法書を買って、歌詞の発音や意味を調べているのでしょうか?CDに訳詩が載っているかもしれませんが、自分の欲しい曲がそうそう、うまい具合に入ってなどいません。だいたい日本でこれだけ歌われているのならもう少しマジャール語の情報があってもいいと思うのは私だけ。(いや、きっとたくさんいるに違いないのですが・・・)
発音くらいなら、巷にあるハンガリー語(マジャール語)の本で多少は調べられるけど、歌詞の意味をきっちり訳そうと思うと、それだけではいかにも心もとない。やはり、その筋の方々のしっかりした訳に触れたいものです。
自分で訳そうと思うと、英語だって相当ヤバイですよ。詩というのは、どんな言語であれ、かなり文法から逸脱するもの。以前、英語の詩を訳してみたとき、さっぱりわからない部分もあったりして、こりゃ自分でやるもんじゃないなあ、と思わず感じました・・・。

2005年5月4日水曜日

ユージニア/恩田陸

Eugeniaすっかり読書感想文ブログと化しています。^^;
今日の本は、今流行り(?)の恩田陸。基本的に私が好んで読むようなタイプではないわけですが、何となく気になって読んでみました。しかも、この小説、結構実験的な作りになっているんです。そういう意味では楽しめたし、この作家の底力を感じることができました。
内容は、とある地方都市で起きた17人が死亡した毒殺事件の真相が、章毎に関係者のモノローグで段々明らかになっていくという流れになっています。章毎に語る人物が違い、それぞれが扱う時間も違います。読者は、時系列に事実を感じていくのではなく、一つの事件の像が、章毎に少しずつクリアになっていくという体験をしていきます。しかし、それは決して難しい作業ではありません。良く考えてみれば、第三者がある事件を調べる作業というのは、ほとんどこういうパターンになるわけで、そういう意味ではこの小説の構造は非常に面白い試みと言えるでしょう。読者自身が、謎解きをしていく主体になった気分を味わうからです。
ただまあ、私としては、この作家が基本的に持っているファンシー的雰囲気が、ちょっと気恥ずかしかったです。ありていに言えば少女趣味的な感じ。あらすじから感じる事件の異常さ、陰惨さは、少女趣味に覆われ、おとぎの国の出来事のようにさえ感じます。少女趣味の手にかかれば壮年でやり手の刑事さえ、折り紙の名手となってしまうのですから・・・。