2005年2月24日木曜日

平和への道程/カール・ジェンキンス

jenkinsアディエマスで有名なカール・ジェンキンスのソロアルバムを購入。といっても4年前の発売のものですが。
カール・ジェンキンスは元々プログレの残党で、曲のあちらこちらにプログレの片鱗が見えてなかなか面白いのだけど、それにもまして私が興味を感じるのは、この人、かなり合唱音楽に近いんじゃないかと思えること。アディエマスの曲の中にも、かなり合唱っぽい曲があるし。
それで、このCDを聞いて、始めに思わずぶっ飛んでしまいました。最初の曲 "The Armed Man" とありますが、これ五百年前のフランスの俗謡「ロムアルメ」なんです。この曲、つい先日のコンサートで歌ったばかり(というか私はぎっくり腰でパスしたステージだったのだけど^^;)。このメロディが、派手なオーケストレーションで繰り返され、壮大な曲に変わってました。さらに驚いたのが、3曲目の「Kyrie」では(このCD全体がミサ曲っぽくなっている)、何とパレストリーナのミサ・ロムアルメから「Christe eleison」が丸々引用されていたのでした。自分の活動とリンクしていて、何か思わず運命的な感じさえしてしまいました。
全体的には、いささか音楽的に統一が取れていない感じはありましたが、合唱とオーケストラを使い、アディエマス的な気持ち良さも兼ね備えたなかなか面白いアルバムでした。

2005年2月20日日曜日

教育と国民性

ゆとり教育の見直しという話題がニュースを賑わせていますが、今日の新聞に学習到達度世界一と言われるフィンランドの教育事情に関する記事がありました。世界一ということで日本からの視察も多いそうなのだけど、実際のところ授業時間は日本より全然少ない。しかも、今後は日本で言うところの総合学習のようなものが増えるらしいのです。
しかし、もっとその根を質すと、個人主義が根ざしている社会で、生徒間、学校間の成績の競争のようなものもないし、授業に関する学校の裁量もかなり大きいのです。中学卒業時に十分な成績でなければ、もう一年やり直すことも可能。それに対して「落ちこぼれ」などというレッテルが貼られることもないのだとか。
これだけ見ると、なんて羨ましい環境だろうと思うのですが、実際のところ教育問題というのはその社会の有り様を反映する鏡のようなもので、国民性の違いが大きく影響しているように感ずるのです。つまり上記のシステムの影には、必ず自分のことは自分で解決しなければならない厳しい自己判断を要求する社会という側面が隠されていると思います。
翻って、日本の教育を考えると、知識の詰め込みに対する批判が常にありますが、日本の教育が判断力よりも知識の詰め込みに終始するのは、日本の社会が知識のある人を要求していることの裏返しでもあるわけです。
社会生活では、常に物事を決めるために判断しなければいけません。恐らく欧米では、判断力のある人に判断を任せる方法をベストと考える。それはスピーディではあるけれど、独裁も招きやすい。だからこそ、正しい判断が出来る人こそ社会から望まれます。
では、日本はというと、個人の判断よりも話し合いでの結論が求められる。スピーディさよりも表面的な一致団結を求めるというわけです。だから、そういう意思決定の場では、判断力よりも、判断するための材料をたくさん提示できる人が望まれる。つまり知識の多い人が何より重宝されるのではないか、とそんな気がするのです。
教育というのは、結局その社会でどんな人材が要求されるか、というのを反映せざるを得ないわけですから、恐らく外国の例というのは簡単には日本で実施するのは難しいことではないでしょうか。

音楽を聞かない

作曲家などと冠したページを立ち上げながらこういうのはなんだけど、最近落ち着いて音楽を聞くことがだいぶ少なくなってしまいました。30代~50代の男性というのが一番音楽からは遠ざかっている年代のようだけど、まあその人たちが音楽を聞かない理由は忙しくて音楽なんて聞く暇が無い、というところが実際のところでしょう。
翻って私の場合、考えてみると、仕事の忙しさは昔からそう変わらないし(まあ商品開発している技術屋なんで、それなりには忙しいわけですが)、家に帰っても時間がないというわけではない。実際のところ、最近は本や映画を楽しんでいることのほうが多くて、そっちの方に時間が割かれているようです。そういえば、CDもここのところ買ってません。興味のあることというのは、年々変わっていくもので、今は小説を読むのがマイブームといったところでしょうか。
なんとなく、音楽を聞くことが、ただ純粋に音楽を楽しむことに結びつかなくなったのかな、と思ったりします。常に、自分の行うことに「意味」を求めようとしているというか。自分自身が新しい価値を創造しようとするなら、そのものについて徹底的に考え抜かねばならないと日頃思ってはいるものの、考えることが創作にストレートに反映するわけではないことも確か。作り続けることを人から要求されていないと、考えることに明け暮れてますます音楽活動から遠ざかりそうで心配になります。たまには、棚にあるCDを片っ端から聞いてみましょうか。

2005年2月12日土曜日

ステップフォード・ワイフ

ニコールキッドマン主演のこの映画、なかなか楽しめました。これは想像以上に私にとってヒットです。
全体的に寓話的な雰囲気で作られているのが私の好みに合います。特に前半、全てのノリが過剰で、えげつなくて、こういったジョークセンスが面白かった。この感覚は「未来世紀ブラジル」に通じるものがありますね。最初の、主人公のジョアンナ(ニコールキッドマン)が作るテレビ番組の悪乗りぶりはかなりおバカ。それに、ステップフォードという不思議な街の人々の不思議な行動も、ひとつひとつバカバカしくて、風刺に満ちています。このバカバカしさだけを見るとくだらないと思う人もいるかもしれないけど、何を風刺しているかというところまで考えてみると結構深いものを感じます。古き良き時代のアメリカ、キリスト教に深く帰依し、貞淑で夫に無条件に尽くす妻、そういった環境を愛することは、いわゆるアメリカの保守層に対する辛辣な風刺に読めます。そう考えると、ちょっとこの映画はある種の政治的メッセージを潜ませているようにも感じます(要するに民主党寄り)。
さて、ステップフォードの妻たちにはどんな秘密があるんだろう、とわくわくして見ていると、話は思いがけずSFっぽくなってきます。そしてついに主人公のジョアンナまで、洗脳されてしまいます。うわー、ここで終わったらかなり渋いぞ(まさにラストに救いのない「未来世紀ブラジル」そっくり)、と期待を膨らませていると、さすがにハリウッド映画、最後は予定調和な勧善懲悪に向かって大どんでん返し。きちんとこの街の秘密が暴かれるのです。まあ、このあたりは仕方はないのかもしれませんが、最後のどんでん返しでのSF設定には穴がありまくりで、若干萎えてしまいました。
いや、それでもこの寓話的で風刺に満ちたSFチックなこの映画、私のツボを刺激しました。先日のレークサイドマーダーケースとは逆のことを言いますが、終盤で安直なカタルシスを追求しないと、もっと私好みの映画になると思いました。まあ、でもこの辺りが落としどころでもあるのかなあ。

2005年2月10日木曜日

執拗な繰り返し

何度も書くようですが、トルミスの合唱曲ってうまいなあって思うのです。
基本的には、同じメロディの執拗な繰り返しなのだけど、それを取り囲む和声やリズムのバリエーションで音楽がだんだん変容していくパターンが多いです。そして、そういう曲を聴くと、そうそうそれでいいんだよね、と個人的には納得できちゃうんです。
合唱は、少なくとも日本では閉鎖的な音楽ジャンルなので、作曲家も聴衆より演奏家に向けて書いている側面があるように思います。歌い手は器楽的なフレーズや、単純な音符を嫌い、メロディを歌うことを指向します。だから、とりわけピアノ伴奏の比重は高まります。そういう歌い手の心理からすれば、メロディの単純な繰り返しや、白玉音符でひたすら和音作りを強いられる音符は敬遠されるでしょう。
ところが、聴く側から合唱を捉えたとき、トルミスのようなシンプルさ、繰り返しの執拗さ、コーラスによる単純なハーモニーの美しさというのは、どれも美点のように思えてきます。いわばヒーリング系の気持ちよさなのかもしれませんが、良く作られていれば飽きるということはありませんし、シンプルだからこそ人の声のデモーニッシュな側面が強調されるような気もしてきます。
シンプルな楽曲の芸術性云々は置いておくとしても、聴いて気持ちいいものをもっと演奏していきたいな、と思います。歌い手も、歌う側の論理だけに凝り固まっていないか、素直な気持ちで音楽を捉えなおしてみて欲しいのです。

2005年2月7日月曜日

ぎっくり腰

正月にちょっと腰を痛めて、少し良くなったかなと思いつつも何となく違和感を感じ続けていたのですが、金曜の朝、突然ぎっくり腰に襲われたのです。
こりゃやばいと会社を休んで、しばらくベッドに横たわっていると、それ以降、立ち上がることもままならないほどになってしまいました。腰が痛くなって、こんなに動けないのは初めてで、本当にそのときは救急車でも呼ぼうかとマジで思いましたよ。
そんなわけで金曜日は寝たきり状態でした。土曜日に医者にいってブロック注射してもらったり、座薬を入れたりして、ようやく動けるほどにはなってきました。
こんな時期に、なんと今日はチェレステの演奏会で本番。結局、長丁場の1ステージはパスし、2,3ステージはお辞儀もままならない状態でしたが、なんとか舞台に立ちました。皆さん、ご迷惑をおかけしました。まあ、それでも今日は大分よくなってはいましたが。
トイレもままならないほど、動けないというのは本当に情けないです。介護してくれる人がいないと生きていけない人の気持ちがちょっと分かった気がしました。

2005年2月4日金曜日

脳が聞く音楽

意外と音楽そのものを大学などで研究している人は多いようです。
最近は脳の研究もさかんなので、脳がどのように働いて我々の意識を作るのか、そういうことを考えるのに音楽というのは結構いい題材なのかもしれません。
音楽を耳で聞いてそれを脳がどのように分析するのか、そしてそれに対して私たちはどのように反応するのか、楽器を練習しているときはどのように脳が反応しているのか、どうやって人は音楽演奏に習熟していくのか、これらを知ることは人間というものを知る上で重要なことであると同時に、音楽とは何者なのか、ということを明らかにすることに他ならないと思うのです。
最近の研究によると、音楽を聞いたり演奏したりするときは、特定の脳の部分だけが使われるわけではないそうです。音楽を楽しむときは脳の様々な領域が反応します。音楽というのは、脳に対していろいろな働きかけをしているのです。音楽を論理的に聞く部位があったり、あるいは感情的に聞く部位があったり、テンポの違いで反応する脳の部位が違ったりするそうです。また音楽体験によって、脳そのものの回路が変更され、より興味の強い音響に反応するように変わっていきます。
こういった話は、音楽が人間生活の諸相に対して様々な影響を与える力があることの証左のようにも思えます。逆にだからこそ、音楽の神秘はそう簡単には解き明かせそうにないかもしれません。

2005年2月1日火曜日

静岡県のアンコン

昨日、静岡県のアンサンブルコンテストに参加。昨年はヴォア・ヴェールが念願のグランプリ受賞だったので、今年はちょっとシャレで男声と女声で分かれて出ることに。結果は推して計るべし・・・。女声は銀賞、男声は銅賞でした。今年は混声のレベルが高くて、とても太刀打ちできませんでした。
とはいえ、男声組、1月になってからたった四回の練習しかしてないし、結局全員揃ったのが当日だったし・・・というあんまり自慢できない状態だったのは確か。もう少しみんながこなれていれば声も出てきたかな、とは思いましたが。
それにしてもアンコンというのは、人数が少ないだけに、人数差や発声の力の差で露骨に順位が付いてしまいます。レベルが高いコンクールならともかく、静岡県のアンコンくらいだと曲作りって大した影響が無いような気がしたりして。