2010年4月30日金曜日

20.声と管楽器の違い

人の声は声帯が震えることで発せられます。
それはか細いけれど、倍音を多く含んだ音です。声が、のど、口、唇を通る過程の中で、その音にいくつかのフォルマントの効果がかけられていきます。
声のピッチが変わると、もちろん同時に倍音のピッチも比例して変わっていくのですが、フォルマントはピッチによる変化がありません。
これまで音色の違いは倍音の含み方の違いと言いましたが、声の母音の違いについて厳密に言えばフォルマントの違いというほうが正しいです。

一見、声という楽器は管楽器に似ているように思えます。
確かにリードを持つ管楽器なら、リードが声帯で、管の部分がのどから口にかけた部分と対を成すように見えます。
音のタネと、それを増幅する仕組み、という意味では上のアナロジーは間違いではないのですけれど、音程や音色の作られ方という意味では大きく異なります。
管楽器では、穴を指でふさいだり開けたりすることによって管の長さを変え、管内で共鳴する音程を変化させます。
ところが、人の声は声帯の張りを調節して音程を作ります。当然ながら、のどから口にかけての距離は大きくは変わりません。舌の位置や形状を変えることによってフォルマントを形成し、音色を作っていくのです。

やや余談ですが、ヘリウムガスを吸って話すと声が高くなりますよね。
ところが、これは声の音程が高くなっているわけではありません。他の楽器と一緒にアンサンブルすることは可能です。しかし音が高く聞こえるのは、音色が明るくなって、カモのような声に聞こえるからです。もう少し正確に言うならフォルマントが高い周波数に移動しているのです。
同じことを管楽器でやってみるとどうなるでしょう。奏者にヘリウムガスを吸わせて楽器を吹いてもらうと、音色は変わらないのに、音程が変わってしまいます。
詳細な理由は省きますが、人の声の音程は声帯の振動で、管楽器の音程は管内の空気の共鳴で作るので、そのような違いが現れるのです。

2010年4月28日水曜日

19.フォルマント

人の声の母音の判断はフォルマントによって行われます。
ではそのフォルマントとは何かというと、特定の周波数域だけを良く通すフィルターのようなものです。
例えば、一握りの砂から直径0.3〜0.6mmの砂粒だけ抜き出すとしましょう。最初に0.6mm以下の直径のツブだけを通す濾過器(フィルター)を通します。そうすると、フィルターを通った0.6mm以下のツブだけを得ることができます。次に、0.3mm以下の直径のツブだけを通すフィルターを通します。そうすると、フィルターの中に0.3〜0.6mmの砂粒だけが残ることになります。
同様に、音でも特定の周波数を通すようなフィルターをかけることが可能です。特に人の声において、このようなフィルターの役割を示すものをフォルマントと呼ぶのです。

人が声を発したとき、その音を分析してみると、周波数のグラフの上にいくつかのこぶが現れます。そのこぶの一つ一つがフォルマントです。それぞれのこぶを、小さい周波数から順に第一フォルマント(F1)、第二フォルマント(F2)・・・と名付けます。図は、私が「えー」と歌ったときのスペクトルです。各倍音のトンガリをつなげると、フォルマントの形が見えてきます。

<図19-1 筆者の「え」の声のスペクトル>

音声認識の学問の世界では、実はほとんどの母音は第一フォルマントと第二フォルマントの二つだけで識別可能だと言われています。例えば「あ」なら第一フォルマントが700[Hz]くらい、第二フォルマントが1400[Hz]くらいになります。この付近にフォルマントがある音は「あ」と識別することが出来ます。下図では、各母音と認識できる範囲を、二つのフォルマントから示しています。


<図19-2 第一、第二フォルマントと母音の認識>

ただしこの値は、人によって、性別によって、住んでいる地方によって、変わりますから一概には言えません。特に話し言葉の場合は、前の母音や子音などによってもフォルマントの位置が変わります。なかなか機械的に、この音なら「あ」と判断するのは難しいのです。
英語で、”o”の発音なのに、日本人には「あ」に聞こえたり、”a”の発音なのに「え」に聞こえたりするのは、フォルマントの分布が重なっているからだとも言えます。英語の”o”のフォルマントの分布が、日本語の「あ」とかなり近いところにあるのです。

2010年4月27日火曜日

みんなクリエーター〜オジさんはアート嫌い

オジさんとは私のような40代以上の中高年世代のことです。もう私もそう言われて否定できない年代になってしまいました。
確かに世の中の仕事を動かす中心世代ではあります。そしてこの世代が、何か新しいモノを考えなければいけない立場にあることも多いでしょう。

何度も言うように「何か新しいことを考える」ことは、芸術家が新作について思い巡らすことと同じような側面を持っており、ある意味、非常に芸術的な行為であります。ですから考えなければいけない当の本人が芸術嫌いであっては、素晴らしいアウトプットを求めることは困難であると言わざるを得ません。

しかし、オジさんはアート嫌いであることが多い。アートというと、ファッションとか、前衛芸術とか、メディアアートとか、何やら怪しげで業界っぽくて、そういう胡散臭い雰囲気をオジさんは嫌います。いい年して、オシャレなスーツを着こなし、外車なんかに乗って、ブランドモノの小物に身を纏う人間なんて嫌悪の対象ですらあります。それよりかは、何々機能搭載とか、何ギガ何とか搭載とか、そういうスペックに憧れます。技術者では、Apple嫌いもこういったタイプの人たち。

それに比べれば若者はいくぶん、アート指向を持っています。それは若くて頭が柔軟だから、と言うだけではありません。恐らくアートへの興味は、外見的な美しさへの興味であり、詰まるところ異性への憧れから来るものと私は思っています。美しいモノに憧れ、それに好かれたいと思う気持ちから自らも美しくありたい、という気持ちが無意識下にあるのです。

アート好き、なんて言うと、いけ好かない、すました野郎だなんて思っているうちは新しいことを思いつくのは不可能でしょう。少なくとも、今求められていることは製品やサービスの機能競争への反省であり(現代音楽も似た問題を抱えていると思う)、もっと新しい基準の美しさです。オジさんたちにも、是非、外観やデザインの美しさを感じて欲しいと思います。
��オシャレなスーツを着て外車を乗り回すことを奨励しているわけではありません。念のため)

関連:
みんなクリエーター〜大事なのは見た目
みんなクリエーター〜コンセプトを作る
みんなクリエーター


2010年4月25日日曜日

1Q84 BOOK3/村上春樹

1q843これを読んでしまった以上、続編も読まざるを得ません。それにしても、発売直後でテレビや新聞で話題になっているこの本を本屋でレジに持ち込むのは、なんとなく気恥ずかしいものですね。

さてこの後は、予備知識ゼロでこの本をこれから読みたい方はご遠慮ください。
一番面白かったのは、幽体離脱したNHKの集金人の話。
こんな集金人がいたらマジ怖いです。執拗にドアを叩き、無視していると「あなたがそこで息を潜めて居留守を決め込んでいるのはちゃんとお見通しです」とか何とかいって、執拗に、公共の電波が云々とか、支払いは法律で云々とか、玄関の外ででかい声で演説していくわけです。
しかも、この小説の中で、集金人攻撃を受ける人物はいずれも、今ココにいることを知られたくなくて、静かに潜伏している人物ばかり。訪問者とは顔を合わせるなと言われている潜伏者宅に、「あなたがそこにいるのはわかっています」と言われる空恐ろしさ。どう考えたって、集金人を装った追撃者だとしか思えないじゃないですか。
読者に、ついに追撃者が・・・と思わせておいて、実は幽体離脱したNHK集金人の魂だった、なんていうのは、村上春樹特有のひねくれた設定ですね。
また、多くの日本人が何とかうまくNHKの料金を払わずに済ませられないか、と思っているそういう隠れた風俗を、こういうストーリーの中にうまく取り入れているそのセンスに唸らされます。

結局、二人の主人公が出会うところで話は終わります。謎は全く解かれないままです。でも、このままこの話が終わっても良いようにもなっています。さらに、別の話が進んでもいいようになっています。しかし、良くできたフィクションとは本来そういうものなのかもしれないとも思います。
いろいろな用語を散りばめ、全く疑問を解消しないまま、登場人物に観念的な議論をさせるってやり方は、ジャンルは違うけれど思わず「マトリックス」とか「エヴァンゲリオン」を思い出してしまいました。


2010年4月23日金曜日

みんなクリエーター〜大事なのは見た目

内面と外面、どちらが大事?と問われれば、ほとんどの人が内面ということでしょう。
しかし、どんな内面も外面を通してしか表現することはあり得ません。誰からも見えないから内面ということなのですから。
だから最初の言い方は、私にはもう少し別の表現のほうがしっくりきます。物事の本質と、その表現手段ということです。内面とは、そのモノがそうあろうとする本質と言うことが出来るし、外面とは、それを表現する手段のことです。そういう言い換えをしても、意味的には納得してもらえるかと思います。
では、あらためて本質と表現方法、どちらが大事?と聞かれれば、私にはどちらも大事としか言いようがありません。

しかし、それと同時に、もう一つ言いたいこと。
「本質」とは本来備わっている資質であり、そう簡単に個人や団体から引き剥がすことの出来ない、極めて生来的なモノを指していると思います。だからこそ、本質をコロコロ変えることはないだろうし、コロコロ変わるモノは本質ではあり得ません。
また、本質は、みんなで会議で話し合って決めるものでもないし、論理的な思考で組み立てるものでも無いと思います。それを完全に否定するわけではないけれど、話し合われて作られた「本質」には嘘くささが伴います。本来、クリエイティヴィティとは属人的要素が強いものですから、嘘くさいと思われた瞬間に借りモノ感が現れ、クリエイティヴィティが失われます。

新しいモノのコンセプトを決めるときに、本質はいったい何なんだ、ということを話し合おうとすることがありますが、それはかなりの場合、不毛なことが多いです。
ルールや、仕組みや、計画を議論するときは本質論は必要でしょう。
でもクリエイティヴなアウトプットを求められたときには、むしろ本質論は不要。そこから始まっているようでは面白いモノは現れません。そこに集まっている人たちが、すでに何らかの共通の本質を纏っていることが前提になるのです。
そして、そこで話し合われる内容は、むしろ表現方法であり、それは元の言い方に戻せば外見、ということになります。私たちを私たちらしく見せる新しい表現方法を探すのです。

いささか抽象的な話になり過ぎました。
まとめると、本質とは本来備わっているもののことであり、模索すべき新しいモノとは「表現方法」のことです。表現方法が新しくても、芯にある本質が変わっていないことがクリエイティヴィティの基本だと私は考えます。

関連:
みんなクリエーター〜コンセプトを作る
みんなクリエーター
では、心に響くとは・・・
「何か新しい」という罠

2010年4月17日土曜日

18.言葉と音色

音色の違いというのは、つまり倍音の含み方の違いでした。
では人の声はどうか?
人間は言葉を使ってコミュニケーションをします。言葉も音です。声は全て波形に記録することが可能です。でなきゃ、CDも携帯電話も人の声を伝えることが出来なくなってしまいます。

例えば「あ」と話したときと、「い」と話したときは、物理的に何が違っているのでしょう?
今までの話からいくと、当然これも音色の違いであり、倍音成分が違っていると考えられます。実際のところ、大まかに言えばそれは間違ってはいません。
母音や子音などの各音素は、それぞれの周波数成分が違っていて、それで人は言葉を認識できるのです。

人の声は、まず声帯が鳴っているか、いないかで大きく分かれます。
声帯が鳴っている音を有声音、鳴っていない音を無声音と言います。有声音にはピッチがあります。無声音にはピッチがありません。
ピッチが無い、というのは波形に周期性が無く、明瞭な倍音が現れないということです。簡単に言えばノイズのようなものです。通常に話している場合では、子音の一部がこの状態になります。

ここでは、音楽に関わる音と言うことでピッチのある有声音について考えてみましょう。
有声音は当然倍音が現れます。母音毎にその倍音の現れ方が違います。調べてみると、「あ」は倍音が多く、「う」は逆に非常に倍音が少ないことがわかります。
<図18-1 筆者の「あ」の声>


<図18-2 筆者の「う」の声>

上のグラフは私がマイクで「あー」「うー」とEくらいの音程で歌ったときのスペクトルです。グラフ中のとんがった部分が倍音。「あ」と「う」では各倍音の量が違っていることが分かります。
では、単純に何倍音が含まれている、という法則で母音の判断がされている、というと実はそうでもないのです。

2010年4月16日金曜日

新アプリ "Meantone" リリースしました!(有料)

Meantone初めて有料アプリに挑戦です。マニアックなアプリなので、売れるとは全然思ってませんけど。
新アプリの名前は "Meantone" です。一言でいえば、古典調律のアプリ。Well Temperedと言われるキルンベルガーやベルクマイスターを入れても良かったんですが、ここはミーントーンだけにこだわってみようと考えました(バージョンアップで他の音律も入れるかもしれませんが)。
ちなみにアプリのアイコンは、初期バロックの巨匠、モンテヴェルディの肖像です。

ミーントーンとは、完全五度を犠牲にして、長三度を美しく響かせようとする音律です。バロック時代に音楽は旋律主体から和音主体に変わりました。その時代の要請に合わせて出てきたのがこの音律。
「音のリクツ」のこの話題で書きましたが、ミーントーンの計算は、シントニックコンマをどのように各五度に分配するかという考え方で行います。シントニックコンマを1/4にして、各五度に分配するのが通常のミーントーン。ただ、これでは、長三度は純正ですが、完全五度がかなり狭くなります。シントニックコンマを割る数を大きくしていくと、だんだん純正の三度から離れ、完全五度に近づくようになります。
その程度具合で、1/5、1/6、1/7まで用意してみました。
ちなみに、現在のバロック音楽の演奏においては1/6シントニックコンマで調律されるのが、最も一般的だと聞いています。

また純正律については、12音固定ではなく、調によって全ての音程が変わります。異名同音も別の音程として扱います。プログラムの仕様で言えば、一つの調あたり、ドレミファソラシの7つと、各音の#とbで、合計21音程を持ちます。また、調はb側に7つ、#側に7つなので、合計15の調を扱えます。
ちなみに、各音の音程はプログラム中にテーブル(データ)で持っているのではなく、発音時に各音律の定義に合わせて浮動小数点演算をしています。まあ、だからどうした、というお話ですけれど。

もちろん、このアプリで実際にチェンバロなどを調律してくれると嬉しいのですが、いわゆるチューナー機能は無いので、それは無理かもしれません。まあ、一部の好事家が、各音律の音を聞いてみたり、実際のセント値や周波数を確認するために、使ってもらえれば幸いです。
ということで、iPhoneを持っている皆さん、よろしければご購入ください!

2010年4月13日火曜日

みんなクリエーター〜コンセプトを作る

なにはともあれ、何かを作り上げるにはコンセプトが必要です。
しかし、これが難しい。何かを明瞭にしようとすると、横やりが入ってきて、結局スタートラインが非常に曖昧になってしまうのは良くあること。私の思うに、プロジェクトはこの時点で終わってます。このような状態で創造的なアウトプットを出すことは難しいでしょう。私の周りでも、非常に不安なものは多いわけですが・・・

じゃあ、明瞭なコンセプトって何なのでしょう?
これは逆に不明瞭なコンセプトというのを考えてみればよいと思います。私の思うに、これをあぶり出す方法は比較的簡単です。そのコンセプトの内容を全く逆の意味にして成り立つかどうか、考えてみてください。成り立つなら、かなり明瞭なコンセプトだし、成り立たないのならコンセプトとしてやや危険だと思います。(ただしコンセプトそのものの善し悪しとは関係ありません)

では、具体的に考えてみましょう。
「環境にやさしい」というコンセプトはいかがでしょう。逆にすると「環境にやさしくない」となり、少なくとも今のご時世では成り立ちませんね。なので、これではコンセプトとしては弱くなってしまいます。
「家族がいつも笑顔でいられる明るい生活」を反対にすると、「家族がいつも睨み合っている殺伐とした生活」・・・こんな生活、嫌ですね。誰もが否定できない当たり前のことしか言っていないコンセプトは、確かに多くの人が同意するでしょうが、それは創造的なアウトプットとはかけ離れたものになる可能性が高くなります。

ではどんなコンセプトがあり得るのか。
例えば「白」。逆にすれば「黒」です。これは十分、コンセプトが明瞭で限定的です。そのため、特徴のあるアウトプットが出る可能性が出てきます。
「Sharp & Solid」だったら、逆は「ソフトでふわふわした」みたいな感じ。両方ともあり得ます。だからコンセプトとして非常に明瞭です。

出てきたコンセプトを真逆の意味に変換してみてください。逆にしても成り立つなら、そのコンセプトは明瞭で特徴があり、創造性の高いアウトプットを期待できる可能性が高くなると私は思います。

2010年4月10日土曜日

浜松少年少女合唱団の演奏会で初演です

来週日曜日の18日、浜松アクトシティ中ホールにて、浜松少年少女合唱団第11回演奏会が開催されます。その第4ステージで、私が編曲した作品が初演されます。題して「唄・今昔物語」です。興味がありましたらぜひご来場ください。入場料は800円です。

編曲した曲は「大きな古時計」「竹田の子守唄」「アルプス一万尺」「ふるさと」の4曲。
いずれも誰もが知っている曲ばかり。なるべく難しくならないように注意しながらも、アカペラ合唱っぽい楽しさを追求するような作品にすべく、編曲を心がけました。
声部は3声。ほぼディビジョン無しです。ですので、分厚い和音ではなく、旋律と副旋律の対比とか、ポリフォニックな処理を追求してみました。各パートにメロディが渡り、その度に転調され、曲調も変わります。和音は難しくないのですが、結局、転調とポリフォニーの多用で、曲を形にするにはちょっと難しめになってしまったかも・・・
しかし、先日練習に伺ったところ、かなりの精度で出来上がっていたので、ひとまず安心。

編曲の楽しみは、原曲の知名度を利用して、そのジャンル特有の美しさを付加することにあります。合唱編曲なら、安易にピアノ伴奏で原曲に近い編曲をするより、アカペラで合唱風にしたいと常々思っていました。
今回はそんなコンセプトを形にする機会を頂いて大変嬉しく思います。近場の皆様、ご都合が付くようでしたら、是非ご来場ください。

2010年4月9日金曜日

みんなクリエーター

しつこく書きますが、過当競争になった今、世の中では常に新しいモノが求められており、様々な分野で創造的であることが求められています。サッカーでさえ、創造的なプレーとか、そういう価値観で評価される時代。決まり切ったことを愚直に行うことよりも、一瞬のセンスあるひらめき、のようなものが求められているのです。

すごく一般論化して言うと、人間の有り様というのが、時代によって変わって来ているのでしょう。多くの人々が食べていくのに必死だった時代、重労働に耐えられる体力が必要でした。工業化された時代では、工場で細かい作業を延々と行える集中力が必要でした。
もちろん、いつの時代でも独創的で芸術的であることが重要な職業はありました。しかしそれは全体の中ではごく少数。ほとんどの人はそのようなこととは無縁に生きていたのだと思います。

しかし、時代は変わりました。
単純労働は安い労働力を求めて海外に移り、コミュニケーションもWebで行える時代です。書類仕事もなるべく電子化し、頭脳労働であっても比較的定型的なものなら派遣社員に任されます。知識を得ることさえ、ネットでかなり事足ります。そうなると、もはや社員は新しい価値を生み出す創造的な仕事をするしか無いのです。というか、これだけはどうしても自動化、機械化、合理化できない仕事なのです・・・

仕事とは言え、多くの人が創造的なアウトプットを必要とされている状況は、一人一人が芸術家的資質を兼ね備えていることを要求されているようなものです。
芸術家なんて気持ちはさらさらないかもしれません。でも、芸術を作るとはどういう行為なのか、と考えることは、多くの人に必要になってくるのではないかと思われるのです。
ということで、しばらく、個人が社会活動の中で直面する「創造的アウトプット」について考えてみたいと思います。

2010年4月8日木曜日

17.倍音とハモり

倍音とは、周波数が2倍、3倍・・・のサイン波のことでした。
ここで、周波数が2倍、3倍・・・という話題、ハモる音程のところで何度か出てきたことを覚えているでしょうか。ピッチの周波数が2倍、3倍である音程はハモるという話題です。ということは、ハモる音程と倍音というのは何か関係があるのではと想像できます。

もともと倍音とは一つの音に含まれている音の成分のことです。音程とは二つの音のピッチの違いです。
以下、ちょっとややこしくなりますが、頑張って読んで下さい。
二つの音、AとBがあるとします。AのピッチはA[Hz]、BのピッチはB[Hz]としましょう。
また、Aの倍音の周波数を下から順にa1,a2,a3・・・[Hz]とします。例えば、Aの5倍音はa5[Hz]です。Bも同様とします。
理系はこういう風に、いきなり具体的な数を使わずに抽象度の高い記号を使います。だってこっちのほうが分かり易いんだもの。

では、この辺りで上の記号に具体的な数字を入れてみましょうか。
A=400[Hz]、B=600[Hz]はどうでしょう。
BはAの1.5(3/2)倍の周波数ですから、完全五度の音程であることが分かります。それぞれの倍音の周波数を以下に書き出してみます。



Aの3倍音(a3)とBの2倍音(b2)が同じく1200[Hz]で、ピッチが同じですね。これはその昔数学でやった最小公倍数の問題でもあります。
つまり完全五度の音程は、双方の倍音に共通したピッチを持っている、ということがわかります。

「ハモる」理由については、所詮人間が脳の中で感じることですから、厳密なことはわかりません。ただ、比較的低い周波数に共通の倍音を持っている、ということが「ハモる」と感じる原因であるとは考えられるのです。

2010年4月6日火曜日

16.倍音と音色

倍音という言葉は、どうも音楽家の間で情緒的に用いられているような気がしてなりません。もともと、前回書いたように「倍音」には非常に明確な物理的定義があります。
純音でない限り、どんな音にも倍音は存在します。倍音が多ければ多いほど、高次の周波数成分が含まれていることになり、耳障りなきつい音になっていきます。リコーダーやオカリナのようなシンプルな笛の音は、かなりサイン波(純音)に近く倍音をあまり含みません。
おおよそ、音楽的な音の美しさと倍音の量とは単純な比例関係では決してないのです。

しかし、倍音の含み方は音に様々な表現を与えます。
例えば、ピアノは鍵盤を叩いた瞬間にはたくさんの倍音が発生しますが、高次倍音は時間とともに減っていき、音を伸ばしているとだんだん倍音が少ない音に変わっていきます。
オルガンは楽器そのものが倍音的な発想で作られていると言えます。8フィートの音に4フィートの音を足せば、2倍音が加えられたような意味合いに近くなり、当然音がきらびやかになります。

音の中にどのように倍音が含まれているかが音色を決定します。
そのような状況を可視化するために、周波数を横軸にとった周波数成分を示す図が用いられます。ある音には、どんな周波数がどれくらい入っているか、ということを表す図です。こういった音の固有の周波数成分をスペクトルと呼びます。
以下は、筆者の合唱団のとある瞬間の音をスペクトルにしたグラフです。倍音っぽいトンがりが、グラフの中にいくつか見えますね。



スペクトルというと光が虹色に分解された様子を思い浮かべる人もいるかもしれません。光がプリズムで七色に分解されるのは、まさに光を周波数解析したのと同じ状況なのです。
光や電波の周波数成分も、音の周波数成分も同様にスペクトルと呼ばれます。スペクトルを調べると、その音がどんな性質を持っているかある程度想像することができるのです。

2010年4月4日日曜日

15.倍音の意味

突然ですが、三角関数は波形を解析するのに欠かせないアイテムです。サインとかコサインとかいうやつです。
三角関数のお話をするつもりは無いのですが、純音とか、サイン波と呼ばれる波形については知っておく必要があります。



この波形がもっとも混じり気のない純粋な形である、と思ってください。そこに何故、とか言われても困ります。サイン波が最も基本的な波形なんだ、と頭ごなしに覚えて欲しいのです。

さらに、もうちょっと頭ごなしなお約束についてお話しする必要があります。
引き続き数学的な話になってしまいますが、フーリエ級数展開という定理があって、それによると周期的な関数は、整数倍の三角関数に分解することが出来るのです。
これを音の物理の言い方で言い直すと、ピッチのある音は、周波数の整数倍のサイン波の組み合わせに分解することが出来る、ということになります。これも物理法則なので、なぜと問われても困ります。

ちなみに上で言うところの「周波数の整数倍のサイン波」のことを、倍音と言います。整数倍なので、2倍、3倍、4倍・・・といくらでも上のほうに存在します。それぞれ、倍音も2倍音、3倍音、4倍音・・・というように表現します。

もう一度、上の定理を分かり易い言葉で表現すると、「ピッチのある音は、倍音に分解することができる」ということになります。
これはなかなか感覚的に分かりづらいのですが、どんな複雑な波形であっても、全てサイン波の組み合わせで出来ています。
前回、音色の違いとは、波形の違いであると言いましたが、これはさらに別の言い方をするならば、音色の違いとは、倍音の構成比率の違いであると言い換えることも出来るのです。
以下の例は、一つの波形が、1倍音、2倍音、3倍音の足し合わせで出来ていることを示したものです。