2010年9月30日木曜日

好きな音楽ベスト50(2010年版) 第30位〜第21位

では、30位から。今回は合唱系が多いかも。

30位:交響曲第9番「新世界より」/ドヴォルザーク
こんなベタな曲が・・・と思いますか?
正直言って、熱心なクラシックマニアとは言い難い私は、ベートーヴェンとかモーツァルトとかほとんど聞かないけど、結局巷でよく聞かれるきれいなメロディの曲は好き。聞き所満載で、音楽の気持ち良さに溢れている。

29位:ビートルズコレクション/キングスシンガーズ
キングスシンガーズの1986年のアルバム。先日、NHKで聴いたキングスのライブでも、このアレンジで歌っていて、ついついベースを口ずさんでしまった。大学の頃、合唱団の友人と耳コピして歌ったことを想い出す。

28位:レクイエム/フォーレ
言うまでもない、合唱マニアの永遠の憧れの曲。以前、こんな話題を書きました。

27位:惑星/冨田勲
冨田勲によるシンセ編曲のホルスト惑星。原曲とは違う、新しい魅力に溢れた素晴らしい編曲。これぞ、編曲のクリエイティヴィティ。往年のシンセ好きにはたまらないムーグシンセの音、そしていかにもという冨田サウンドは、聞く者を幻想の世界に誘う・・・

26位:おらしょ/千原英喜
個人的には、千原英喜は最も尊敬している現代邦人作曲家。このオリジナリティはただごとではないと思う。一見音運びはシンプルに見えるけれど、歌う側には徹底的にプロ意識を求められるタイプの曲。今やっている「お伽草子」も好きだけど、とりあえず一番有名な「おらしょ」を挙げておく。以前書いた話題はココ。あるいはココなど

25位:加爾基 精液 栗ノ花/椎名林檎
テレビとかでは、絶対アルバムのタイトルで紹介されない椎名林檎の3rdアルバム。ちょっとタイトル名はやり過ぎたかも。しかし、この凝りに凝ったサウンドと、歌詞に綴られる心象は、普通に聞かれているJ-POPと完全に一線を画している。世間では、まだ看護婦のコスプレをする、危険でアングラなアーティストと思われているのだろうか。このアルバムについて昔書いたのはココ

24位:人間の顔/プーランク
これもいつか歌いたい合唱曲。でも二重合唱だし、しかも6声。ただ、後半のむやみにソプラノが高いところはアマチュアにはほとんど無理で、これはプロ合唱団の演奏で聞かせてもらうのが、正解なのかもしれない。この多声な音楽で、軽快さを失わないプーランクのセンスが好き。

23位:マドリガーレ/モンテヴェルディ
超反則な項目ですいません。どの曲なんだよ〜とか言わないで。どれか一つには決められない。少人数で集まってモンテヴェルディを歌うっていうのは、合唱マニアなら一度は通るべき経験だと思う。端正な演奏である必要は無く、グチョグチョにテンポを揺らそう!

22位:火の鳥/ストラヴィンスキー
オーケストラ音楽の醍醐味を、私に知らしめてくれた曲と言えるかも。クラシックを聴き始めた当時、音楽それ自体が意味を持つ抽象性より、音楽が何らかの情景を描写しているような映像的な音楽が好きだった。スペクタクルなオーケストレーションこそ、作曲家に必要な技術だと思っていた。今は、もう少し複雑な想いを抱いているけれど。

21位:光る砂漠/萩原秀彦
大学で合唱団に入った直後に歌って「ゲ、ゲンダイ音楽だぁ〜」とか最初の頃は思っていた。でも、どんどんその世界に引き込まれていった。多感な大学生時代、詩の世界も強烈な印象を私に与えた。今の私の好みではあり得ないくらいピアニスティックだけど、私の好きな憂いを持っている音楽。

2010年9月27日月曜日

好きな音楽ベスト50(2010年版) 第40位〜第31位

今回は第40位から第31位まで。

40位:Nothing but THE REAL GROUP
スウェーデンのアカペラグループ・リアルグループの1989年のアルバム。私自身はリアルグループをそれほど熱心に追っかけているわけじゃないけれど、近年のアルバムはやや電子処理が多用されていて、アカペラのスゴさより聞きやすさを追求している感じ。この1989年のアルバムは、(もちろん多少の録音処理はされているとはいえ)素朴な録音で、その分リアルグループの歌唱力の素晴らしさがひしひしと伝わってくる。

39位:大天使のように/ヤプーズ
ヤプーズとは、主に90年代に活動していた戸川純ボーカルのロックバンド。戸川純の表現は一見キワモノではあるけれど、個人的には好きだった。この曲は戸川純が本質的に持つメランコリイとサウンドがよくマッチした泣ける曲。

38位:ミサ/F・マルタン
無伴奏の二重合唱で、div.が多く声部が多いため、実はまだ一度も歌う機会に恵まれていないのだけど、緊密でポリフォニックな書法と、メロディの美しさで多くの合唱マニアの間で愛されている曲。いつか、何とかして取り上げてみたいものです・・・

37位:やさしい魚/新実徳英
やや個人的な想い出のためランクイン。「やさしい魚」が表現するメタファが、自分に重なる感じがしてひりひり痛かった。

36位:マリニャンの戦い/C・ジャヌカン
同じく個人的な思い出が強い曲。10年前にKOVOXに出演するために暗譜に挑戦したけれど、繰り返しの多さにかなり苦労。直前のリハでベースが落ち、顔面蒼白に。でも何と最終的に総合2位を頂いた。当時、KingsSingersの爆発的な演奏をお手本に練習した。これほど、合唱団のクリエイティヴィティを問われる曲もなかなかないだろう。

35位:Another Mind/上原ひろみ
ジャズピアニスト上原ひろみのデビューアルバム。そしてアルバムタイトルは終曲から取られたもの。アルバム冒頭の変拍子を試聴コーナーで聞いて以来、上原ひろみのファンを続けている。終曲アナザーマインドは本当に美しい。こんなピアノ伴奏を書けたらいいのに。

34位:ピアノ協奏曲3番/プロコフィエフ
第一主題の気持ち良さが、多くの人を惹き付ける佳曲。プロコ独特の断層のある旋律と、古典的な形式がうまくブレンドされ、聞きやすい現代性を実現する。第二楽章の変奏曲形式は、個人的にアナリーゼをしてみたこともあって愛着がある。

33位:海/ドビュッシー
ドビュッシーの管弦楽曲。昔とても良く聞いた。なぜか浮世絵の海の絵が浮かぶ・・・と思ったら、レコードのジャケットがそうだったのを思い出した。夏のキラキラした海ではなくて、曇り空にちょっと湿り気のある生暖かい風が吹いているような情景。

32位:嫁ぐ娘に/三善晃
「地球へのバラード」同様、邦人無伴奏合唱曲の名作。詩の世界観と音楽が不可分であり、和声の甘さと緊迫した旋律とのせめぎ合いによるその音楽は、いまなお独自の地位を保っていると思う。

31位:マタイ受難曲/J・S・バッハ
言わずと知れたバッハ畢生の大作。あまりにメジャーな曲であるが故に、歌えただけで満足的なアマチュア演奏会も多いし、野心的なキワモノ演奏も多い。そういう玉石混淆さがまた魅力とも言える。音楽史を俯瞰するためにも、この音楽を勉強しておく意味はあると思う。

2010年9月24日金曜日

好きな音楽ベスト50(2010年版) 第50位〜第41位

突然ですが、自分の今現在好きな音楽を、ジャンルばらばらのまま50曲集めて、ランキングをしてみようと思います。
50曲といっても、一つが組曲だったり、一つのアルバムだったり、一枚のDVDだったり、単品の曲だったりしますが、その辺りは特に統一無く思い付くままに挙げてみることにします。
では、今回は第50位から第41位まで。

50位:富士山/多田武彦
合唱マニアならおなじみの男声合唱の名作。1995年の静岡県男声合唱の夕べを思い出す・・・(内輪な話ですいません)

49位:ノックスヴィル1915年の夏/バーバー
オーケストラ伴奏によるソプラノ歌曲。郷愁を誘う美しいメロディ。子供の頃の記憶を探る心の旅の描写。

48位:これでいいのだ/筋肉少女帯
超キワモノJ-POP。もうこの曲も20年くらい前の曲なんだよね。もちろん「天才バカボン」の台詞を元にしているのだけれど、この不条理さと、全体に漂う諦観はJ-POPの枠を超えていると思う。

47位:ピアノソナタ第7番/プロコフィエフ
この曲については以前ブログで書きました

46位:地球へのバラード/三善晃
三善晃の無伴奏混声合唱の不朽の名作。音の難しさに囚われがちだけれど、音楽が持っている軽快さに素直に乗れば気持ち良く歌える。邦人合唱曲の一つの様式を確立してしまった、と言えるかも。後続の作曲家に与えた影響も大きい。

45位:惑星/ホルスト
一発屋と言われようと、この曲で表現される宇宙的な壮大さ、幻想性は比類するものがない。表題が作曲に与える影響をとても良く示した例。

44位:ヴェスパタイン/ビョーク
映画ダンサーインザダークを観てビョークを知り、その後買ったアルバム。ガラスとハープとストリングスで独特の音世界を作り、粘り気のあるビョークのボーカルが纏わりつく。本当の音楽の美しさを追求している、希有なアーティストだと感じる。

43位:クリムゾンキングの宮殿/キング・クリムゾン
プログレの往年の名アルバム。イギリス的哀愁を漂わせつつも、テク追求のプログレ感がかっこいい。

42位:弦楽四重奏曲/ドビュッシー
ベートーヴェンとかじゃなくてすいません。オーケストラでない分、虚飾の無いドビュッシーのコアな音世界を堪能できる。4つのパートが独立した役割を持つというより、4つのパートが一つになってうねっている感じ。

41位:展覧会の絵/ELP
もちろんオリジナルはムソルグスキーなんだけど、この名曲をプログレ(ロック)にアレンジした、という事実だけで十分聞く価値があると思う。

2010年9月19日日曜日

Appleの何がスゴいのか?

何度かAppleネタ書いているような気がしますが、もう一度あらためてAppleのすごさについて書いてみたいのです。
というのは、こういう話をするとほとんどの方は、Apple社の特定の製品、技術、あるいはアプリの使い心地などの個別の話を始めてしまいます。個別の話になれば、Apple以外でもやっているところはあるし、Apple自身がゼロから作り上げた技術は実はそれほど多くはありません。そのような議論そのものが、どうも本質とかけ離れてしまうような気がするのです。(社内でもそういう議論が良くあります)
それでも、Appleは先進のデバイスで世に衝撃を与えているし、洗練された製品やサービスで多くの人から賞賛を受けていて、そのスゴさは誰もが認めるところ。では、その根本的なスゴさはどこにあるのでしょう。

こんなにバカ売れしている状況からは逆説的だけれど、彼らが「儲け」を第一に考えていないことではないか、と私には思えます。
それは日本人が好きな嫌儲主義とは数段違うレベルの話。アメリカなら、少なくとも経営者が利益を追求しないのは悪です。追求して簡単に利益が出るなら誰も苦労しません。利益を出すために、多くの人が頭を捻って、捻って・・・それでも出ないのが利益なのです。
しかし、本来企業が最も追求すべき利益を犠牲にしてでも、大事にしている何かがある、というのがAppleのやり方のように思えます。その何かとは「Apple的理想体験の実現」とでも言うしかない、特定の芸術的審美眼に基づいた生活感のようなもので、もっと端的に言えばスティーヴ・ジョブスが描く未来の体現ということでしょう。
無論、Appleの技術の何から何までをスティーヴ・ジョブスが決めているわけではないのでしょうが、Appleという会社全体がジョブスイズムとも言うべき、特定の審美眼に染まっているのだと思います。

そのように考えたとき、なぜアップルが、OS、主要アプリ、ハード(Mac,iPod,iPhone,iPad,その他アクセサリ)、そしてWebサービス、さらに販売店までを自前で揃えようとするのか理解出来ると思います。
お客の視点で見たとき、お店でパソコンを購入し、箱から出してセットアップし、Webに接続し、アプリを使って自分の作業を行う、あるいはコンテンツを製作する、これらの一連の作業が全て洗練された一つの世界観に統一されているべきです。その流れに、ひとつでも無粋なものが割り込んでくるだけで、その統一された世界観が崩れてしまいます。Appleはそれが嫌なように見えます。

Appleにとって無粋なこととは、例えば、DRM(著作権保護のためのプロテクト)だったり、Adobeのフラッシュだったり、ペアレンタルコントロールだったりします。
iPhoneのアプリ開発者なら良く知っていますが、ちょっと前にお色気アプリ一斉削除事件というのがありました。お色気系のアプリが審査中のものだけでなく、すでに販売済みだったものまで、一斉にApp Storeから削除されてしまったのです。妙なペアレンタルコントロールを入れるくらいなら、最初から青少年に害のあるアプリは一切認めない、ほうがAppleの美学にかなっているというわけです。
これは、利益を求めようとする企業なら、そう簡単に決断できる内容ではありません。作り手からは、表現の自由が奪われたと言って批判もされています。一般的な企業の論理からいえば、Appleの判断は理解しがたいものです。

それでも、そういった世界観に熱狂する人々は多いのです。Appleフリークがある種の宗教信者のように見えるのは、経済的合理性よりも特定の美学を追究しようとするその態度に由来するのでしょう。それはまさに新興宗教のようなものだからです。
だから、Appleのような洗練された製品やサービスを作りたいのなら、まず会社のあり方、組織のあり方から見直す必要があると私には思えるのです。

2010年9月16日木曜日

プロトコル/平山瑞穂

「プロトコル」といっても技術書ではありません。文芸書です。恋愛小説とも言えるし、家族の物語ともいえるし、IT社会の危険性を訴えている小説とも言えます。純文学のようでありながら、エンターテインメントとも言え,笑えつつ、かつ泣けます。
そんなわけでまたしても平山瑞穂の本を読んでしまいました。全く重厚感の無い、明日になればすぐに物語の内容を忘れてしまうような影の薄いストーリーながら(なんか貶しているみたい・・・)、この著者の、ささいな日常への観察眼とか、偏狭なこだわりとか、気になったことを捨てておけない神経質さとか、そういう社会を生き抜くのにマイナス要因になりそうな性格にとても共感を覚えてしまうのです。

主人公、有村ちさとは、そんな著者の分身的存在。彼女から見える世界において、がさつで、おおざっぱで、無神経なあらゆる行為は憎むべきものです。
そして、文法や綴り、読み方が間違っている英語、フランス語も彼女にとって(著者にとって)憎むべきものの一つ。日常見ることができる、間違った文法のレストラン名、意味不明な英語の歌詞、間違った読み方のフランス語の商品名をあげつらって、こと細かく記述するくだりは、どうしてここまで本筋と関係ないことを延々と書くのだろうと思い、そんな作者の感性がますます気に入ってしまいました。

さて肝心のストーリーですが、とあるネット通販会社に勤める主人公が、ひょんなことから社内抗争に巻き込まれ、それが個人情報漏洩事件に発展してしまうという話。結末は思わぬオチで終わるのだけれど、誰も傷つかない爽やかな読了感にやや拍子抜け。
それに、登場人物がいちいち愛らしい。平山瑞穂はダメ人間を記述させたら天下一品だと思うのです。影山次長の情けなさはまるで救いが無いのだけど、心のどこかに「こんな人いるいる」感が拭えません。ちさとのダメダメな妹も、最後の最後には救ってあげたくなるような気持ちにさせられるのです。
そして半ば精神障害者でもあるちさとの父の言動は、しかし、彼女の心のあらゆるところに根を生やしています。

というわけで、私にとってこの小説、本筋よりも人物描写や、著者の神経質さ、言語への拘り、のほうが楽しく読めてしまいました。途中、主人公が新しい顧客管理システムのチェックでへとへとになるくだり、ソフトのバグ取りと全く同じで思わず苦笑。結局、ソフト開発って几帳面さとの勝負で、まさにこの主人公こそ、システム開発をする側にいて欲しいと思いました。
そんなわけで、平山氏の今後の活躍を期待しています。
ちなみに、著者が本書の出版について語ったブログの記事はこちら。なかなか笑えます。

2010年9月13日月曜日

お金より名誉のモチベーション論/太田肇

なんだかビジネス書っぽいのですが、別の本で太田氏の著作に触れ、勢いで買ってしまいました。確かに、会社で社員をやる気にさせるにはどうしたら良いか、という視点で書かれているので、リーダー級のビジネスマンを対象にしているのでしょうが、本書では特に日本的組織についての一般論が多く、そのあたりは大変興味深く読めました。

もともと日本人論みたいな本は好きなのです。この中でも、日本人論の古き名著と呼ばれる「菊と刀」が何度も引用されていました。
特に著者は、組織内で人がやる気になるには、「承認の欲求」を満たすことが必要だと説きます。組織内の承認には「表の承認」と「裏の承認」があり、日本社会では「裏の承認」が重要視される風土があると言うのです。
「表の承認」とは、その人の能力や業績に対して周囲の人が認める、ごくストレートな意味の承認。ところが日本では「出る杭は打たれる」というように、この表の承認が組織の中ではうまく機能しません。「裏の承認」とは、組織の中で憎まれたり嫌われたり警戒されたりしないように振る舞う消極的な承認欲のこと。この裏の承認は、画一的な仕事をする時代ではうまく機能していたのですが、現在のように新規性、創造性が求められる時代には、逆に悪く機能してしまうのです。
そして、著者は、日本人もそろそろ「表の承認」でうまく組織を作っていくべきである、と論じているのです。

この本の題名だけ読むと、やっぱり大事なのはお金じゃないんだよね〜というように読めます。
確かに結論はそういうことなのですが、そこはきちんと本書の意図を読み解く必要があります。例えばプロ野球選手がなぜそれほど高額な報酬にこだわるのか、それだけもらっているんだから後1000万円上積みしなくたっていいのに、と普通の人々は思うのですが、彼らにとって金額が球団が考えている自分の価値であり、そこに拘ることが本人にとっての名誉、承認欲の現れなのです。
人は金額の多寡そのものを行動のモチベーションにするのではなく、お金が表す自分の価値、すなわち名誉をモチベーションとして行動するのだ、というのがこの題名の言いたいこと。

では、日本の風土を前提にしつつ、少しずつ組織を「表の承認」に変えていくにはどうしたら良いか、が後半でいくつか述べられます。なぜそれが表の承認に関わるか詳細な説明はおいといて、いくつか挙げてみましょう。
・「あなたはコレが一番」というように、各人の得意なことを認めてあげるような多様な承認の軸を作る。
・外の血を入れ、内部で硬直化した常識に疑問を持ってもらう。
・組織外に個人の名前を出す。
・担当者に裁量を与える。
・仕事のプロセスや組織内の功労を公開し、社内の曖昧な基準ではない形で人が評価されていることを担保する。
・客観的な評価に基づいて褒める。
他にもありますが、ざっとこのような内容が書かれています。
もちろん対象としては、会社組織を照準に入れているわけですが、より高いレベルを目指す音楽アンサンブルであっても応用は可能でしょう。
端的に言えば、怒っていても人は育たない、というか、怒る(怒鳴る)ことによって同質性を保とうとするのは「裏の承認」的方法ではないか、と感じました。上に立つ以上、ある程度の毅然さは必要だけど、どうやって人をうまく認めていくのか、そういう意識がリーダーには必要なのでしょう。


2010年9月12日日曜日

合唱団員のモチベーション

今、太田肇氏の著作を何冊か読んでいます。
人間の心理を元に組織をどのように作っていくべきか、について考察し、何冊か本を書かれている人です。詳細については、また別途書籍の紹介をしようと思いますが、今回はそのネタを元に、合唱団という組織について考えてみましょう。

私の見るところ、合唱団員に自発性のある人は少なく、確かに指導者の言うことは良く聞くのだけれど、それ以上の表現意欲を見せてくれない、という雰囲気を感じることは多いです。
こういう状態に対して、指導する側は「もっと表情豊かに、楽しそうに歌って」とか、ついつい言ってしまうのだけれど、そう言われてみんなが楽しそうになるのなら苦労は要りません。結局は、指導する側の注意も徒労と終わってしまうものです。
ところが、合唱コンクールなどでもう少しいろいろな合唱団を見てみると、上手な合唱団ほど楽しそうに歌っているし、表情も生き生きしているように感じるのです。それを聞いて、なぜウチは楽しそうに歌えないんだろう、と思い、演奏が上手くなくてもせめて楽しそうに歌えればいいのに、と指導する人は思います。

しかし、上手いからこそ楽しそうに歌えるのでは、と私には思えるのです。
これはどちらが先なのかは分かりません。しかし、表現意欲と、実際の演奏レベルの高さはある程度比例しているように思えます。
恐らく、それは団にある程度実力があることが団員の自負心となり、そのように世間から認められることが彼らをさらにやる気に駆り立てるのだと思います。いわば正のスパイラルが生じているわけです。

組織が生き生きとし活性化するには、そこに所属する人のモチベーションを高める仕組みが必要です。太田氏によると、そのためには個人は他人から認められるという「承認」が必要であると説きます。
すごく単純に言い換えてしまうと、個人がその団に所属して、合唱を続けるためのある種の優越感みたいなものを与える必要があるのだと思うのです。

団員が「優越感」を感じるのはどんな時でしょう。
一つは、団内で他の人より上手いと思う優越感。もう一つは、団そのものが他の団より実力が高いという優越感が考えられます。
上の二つをうまく使い分けるなら、団内の何人かの核になる力のある人には、あなたが団を引っ張っているという優越感を与え、団員全体に対しては、ウチはヨソとは違うんだという優越感を与えていくのが組織論的にうまい指導のやり方ではないでしょうか。

2010年9月8日水曜日

Twitterの続け方

夏休みの暇つぶしに(?)自分でもつぶやき始めたわけですが、早くも失速気味。
まあ、いずれにしてもやってみなけりゃ分からないこともあって、Twitterというサービスの面白さと同時に危うさ、怪しさも感じたりしています。

基本的なアイデアがシンプルなため、応用範囲が広く、使い方を特定することが出来ないという印象。有名人の日常がわかるとか、友達の連絡に使えるとか、趣味の仲間の繋がりが作れるとか、最新情報を手早く伝えるとか、そういった使い道がいくらでも考えられ、一括りに何に使うかという表現が難しい。
テレビではビジネスで活用し始めたり、ボランティア活動のきっかけになったり、社会的なツールとして機能しているといった例も報道されています。
しかし、当然ではあるのですが、メディアの紹介ではそういった良い面が強調され過ぎるきらいがあります。実際にはTwitterに費やす時間と、そこから得られる情報の質から考えると、決して利用効果は高くないのかもしれません。

Twitterの斬新なところは、相互関係の非対称性を前提にしたところだと考えています。
多くのSNSでは、お互いに友人の契りを結び、ネット上で対等な関係となる仕組みがほとんど。しかしTwitterでは、人と人の繋がりが一方向で、双方向が前提ではありません。だから、有名人はたくさんのfollowがついても、一人一人に相手をする必要も無いし、むしろfollow数が人気のバロメータにもなるわけです。
それはある種、非情なメディアとも言えます。もちろんTwitterとの関わり具合にもよるけれど、自分という人間のあり方をfollow/followerの人数が示してしまうからです。だから、ハマればハマるほど、follow数を増やすために、多くの人をfollowし、時には返信しながら大量の時間を費やすことになるのでは、と想像します。

バリバリやっている人から見れば、バカみたいなことを言っているように思われるかもしれないけど、私としては20程度のfollowでも暇なときに見続けるのが精一杯(まあ、無茶苦茶つぶやき数の多い有名人とか外せばいいのだけど)。100を超える人って、どの程度見ているんだろう、というのはささやかな疑問。
私から見ると、followされたら必ずfollow返しするのが当然という感覚は、Twitterの基本的思想と違うような気もします。全部見ないことが前提なら、followなんてしても仕方ない、と思うのは私の考えがドライ過ぎるのでしょうか。それとも、頑張ってみんなのつぶやきを全部追っているのかなぁ。

まあ、私のことですから、つかず離れずにダラダラやりながら、特に自分のfollow数を増やす努力もせず、自分に必要だと思う発言をする人だけをfollowするというスタンスで続けたいと思います。
つぶやく、ということも一つの自己表現であり、Twitterで発言することも、自分にとっては創造的活動の一つだと思っています。時に日常の様子を書きながらも、内容の面白さを追求したいとは密かに考えています。

2010年9月4日土曜日

指揮者への共感をもたらすもの

指揮者の魅力には、音楽的魅力、人格的魅力がある、というようなことを書きました。しかし、その二つの境界は曖昧です。例えば、音楽に対する態度とかは、音楽的魅力とも言えるし、人格的魅力の範疇にも入ります。
結局のところ、指揮者に対して好意的な感情を持つということは、歌い手がいかに共感できるか、あるいは刺激を受けたか、ということなのでしょう。では、練習のどのような局面で共感するか、刺激を受けるか、思い付くままに挙げてみたいと思います。

●音楽を極める、ということは崇高な行為であるという態度
これって個人的にすごく重要。場合によっては過剰な厳しさに発展しがちですが、優しい言い方でも十分に伝えることは可能だと思います。
つまり、我々が目指すべきものは非常に高いところにあり、自分たちの現状はそれからほど遠いことを仄めかします。音楽とは一生かかっても決して極めることは出来ない、というような崇高さ、音楽の理想を常に語りながら、その遥か遠い高みに少しずつでも近づいていこう、と歌い手に感じさせるということです。
私は練習における高圧的な態度は嫌いですが、このような高い理想を感じさせてくれる人には尊敬の念を感じます。遥か遠い理想を掲げることで、歌い手にモチベーションを与えることは指揮者の重要な役割ではないでしょうか。

●音楽的能力の高さ
言うまでもないことですが、音楽的能力の高さは指揮者の価値を高めます。
声楽家の場合、歌のうまさ、ということもあるのでしょうが、むしろ指揮者に必要な能力とはソルフェージュの確かさと音楽的な指示の効率の高さです。
例えば、ピアノが上手であるというのはシンプルですが、割と重要な要素。
それから、初見力。全パートへの指示を出すのですから、その場ですぐに各パートを歌えたほうが良いし、そもそも正しい音がわからなければ、合っているか、間違っているかの指摘も出来ません。間違っている音を放置する、というのは指揮者の信頼度を大きく損なうことになります。
もちろん指揮者ですから、指揮の的確さ、というのもあります。入りが明確に示せなかったり、リタルダンドの分割が不明瞭だったりすると歌い手もイライラします。残念ながら、かなり高名な指揮者でもこの辺りが怪しい人は多いです。前回の指揮者類型で言うなら、バリバリアカデミック指揮者の安定感は抜群で、やはりこういう方々の基本的素養の確かさには敬服します。

●本場の知識
これも正直言えば、留学経験のある人が圧倒的有利。
西洋音楽をやるのなら、言語や、発音への造詣の深さは指導者への信頼度を高めるでしょう。また、教会音楽における典礼の知識とか、本場の典礼の雰囲気とか、そこでしか感じられない空気感は、書物の勉強だけでは不可能な場合もあります。そういう経験を聞けるのは歌い手には単純に楽しいものです。
また、ルネサンスやバロック独特のアーティキュレーションなども、古楽の本場の経験のある方の指導はとても為になりますね。

●作曲家の視点で語る
音楽は崇高なものである、ということを語る反面、あまりにも遠い存在になりがちな作曲家を身近な存在に感じさせる、というのも大事な要素だと思います。現代の作曲家でない場合、上記の知識という側面もありますが、それでも例えばバッハ、ベートーヴェン、モーツァルトを単に偉大な作曲家として持ち上げるだけでなく、彼らの人間臭さなどを語ることによって、より歌い手が感情移入し易い状況が作れるのではないかと思うのです。
また、曲中の指示を歌い手に示す時も、作曲家はこのように考えたからこのような指示になっている、というような理由を示されると指示に説得力が増します。その指示が、単に指揮者の好みではなく、作曲家が考えたことなのだという権威付けをするということです。
もちろん、そのためにはたくさんの書物を読んだり、楽譜を見たり、合唱だけでなくオーケストラ音楽も参照したり、といった幅広い勉強が必要です。そういうバックボーンが無ければ、作曲者の想いを汲み取ることも難しくなるからです。

他にもまだありそうですが、とりあえずこんなところで。

2010年9月1日水曜日

日本の合唱指揮者類型

合唱指揮者ネタもう少し続けてみましょう。
基本的に合唱はアマチュア主体ですが、その指導者には本物のプロからアマチュア叩き上げまでいろいろなタイプが存在します。
もちろん、実際の指導の実力や音楽性だけで評価されるのであれば何の問題も無いのですが、アマチュアというのはどうしても経歴などに影響され易いし、そういったことから微妙な劣等感を感じる指導者もいることと思います。
そんなわけで、合唱指揮者として活躍されている方をちょっと類型化してみたいと思います。その出自によって、指揮者としての傾向はかなり違うような気がするからです。

●アマチュア叩き上げ派
音楽を専門に学ばず、趣味で合唱をしていた人がそのまま指揮者になってしまったというタイプ。その多くは、高校、大学と合唱経験があり、特に大学時代に学指揮などを経験して、音楽の魅力に取り憑かれ足を踏み外してしまった、みたいな人が多いです。
あくまで副業として指導する人もいますが、中には意を決して専業とする人も。専業化した場合、合唱団にあまり選り好みはできず、反骨心みたいなものが逆に削がれる可能性もありますが、そこから先はもうそれを肯定できるような人間力でやっていくしかないと思います。
いずれにしろ、強い情熱を持ち、高い理想を掲げている人が多く、全体を見渡せばこういう方々の活動には本当に敬意を表したいと思いますし、日本の合唱を牽引している大きな力となっています。

●学校の先生がコンクールで頑張った派
毎年のように、合唱コンクールの中学、高校の部で良い成績を取れる学校があります。そのほとんどは指導者の功績といって良いでしょう。日本全国、たくさんの学校がコンクールに参加する中、そういった指導者の何人かがカリスマ化し、有名な指導者として名を馳せるというのは日本特有の現象かと思います。
こういった方々が、学校だけでなく一般合唱団の指導をしたり、連盟の仕事をしているうちにプロ的な地位を得るというパターンはかなりあります。
普通考えれば、そういった方々は音楽の先生と思うのですが、そうでない人もたくさんいます。数学の先生とか、国語の先生とか、その人なりの背景で音楽を作っていくので、逆にそれが面白い感じもします。
アマチュア叩き上げと同様、ある種の上昇志向と、強い熱意を持った人が多いと感じます。

●地方の声楽家派
一般合唱団としては圧倒的な多数なのが、こういった指導者ではないでしょうか。特にコンクールに出ていないような団体においては。
もちろん、声楽家として活動していても、普段は学校の先生というパターンもあります。ただ上のコンクールで頑張った先生、というのと元々声楽家だった人というのは、その出自の違いは明白で、またその指導態度の違いもかけ離れているように思います。
声楽家指導者の良い点は、歌って指導できるということ。もうこれは素人に対して圧倒的な効果があります。プロが目の前で「こう歌って」と、そのまま歌ってしまうわけです。理屈じゃない説得力があります。
もちろんこれは裏返せば悪い点でもあって、歌い手を思考停止に陥らせ、合唱が単なるおうむ返しになる危険性を孕みます。それに気付ける指導者と気付けない指導者の違いが、合唱団の善し悪しの境目となるでしょう。
声楽家には温和な方が多く(あくまで私見ですが)、ほのぼのとした団となることが多そうです。

●バリバリアカデミック指揮者派
音大で音楽を学び、海外留学で専門的に音楽を学んで、音楽で生活するプロの指揮者。どんなに若くても、経歴だけで先生と呼ばれるだけの貫禄をもちます。
アマチュアは、上のように目の前で直接歌われる声楽家や、専門で勉強したという経歴にも弱いのです。やっぱり教えてもらうには、自分の師匠がどれだけ優れた人か、ということにこだわるからでしょう。「私の歌の先生は、芸大出てドイツで本場の音楽を学んできているのよ〜」みたいな。
叩き上げと正反対のその出自は、合唱団の方向性に大きく影響します。こういう人はたいていコンクールが嫌いです。恐らく、アマチュア叩き上げのパワーを良く知っていて、そういう人と同じ土俵で勝負することに微妙な違和感を感じるからでしょう。プロとしての自負とでも言うべきか。
また、オーケストラ共演ステージなど大規模な演奏会を行う団体ではこういう指導者が多いですね。人を束ねるのにやはり経歴が必要となるのでしょう。
個人的には、このタイプの方々はやや保守的で、だから安心できるという人も多いでしょうが、どん欲な表現意欲とか、斬新な音楽表現とかからはやや離れるイメージがあります。

他にもいくつかパターンがあるとは思いますが、大まかに言えば、上の四つの類型でかなりの指導者を網羅できるのではないでしょうか。