2005年7月26日火曜日

アイランド

人によってはB級映画とか言われそうだけど、私は好きです。こういうの。
土曜日から公開された「アイランド」見に行きました。時は近未来、人々は施設の中で、アイランド行きを唯一の楽しみにしながら管理された生活をしている・・・というところから始まります。実は、彼らはクローン人間だったということが段々わかってくるのですが、普通は気持ち悪く描かれるはずのクローンが今回の主人公というのがミソでしょう。クローンであってもれっきとした人間であり、喜怒哀楽を持ち、人を愛する。そして、納得のいかないことに疑問を感じ、自ら行動しさえする。クローンが主人公になったために、余計に生命をモノのように扱う会社側(マッドサイエンティストとも言うべきか)の非人間性、非倫理性が際立つわけです。
とはいえ、そんな深いテーマを直接聴衆に投げかけるというよりは、どちらかというとアクションやSF的ガジェットの数々のほうが楽しめます。派手なカーチェイスや、ビルから落ちるところとかなんか、マトリックスの二番煎じ的な感じもしました。空中を走るバイクや、RENOVATIO(ラテン語で「復活」)という名前のクルーザーも近未来的な乗り物として、なかなかいいセン行っていると思いました。
クローンと本物が並んで「こっちが本物だ」と両方が言うという場面、結構好きですよ。クローンだから出来る演出だと思います。施設にいたクローンの友人たちと同じ顔の人間が、実際の社会の中でちらほら出てくるあたりも小技が効いています。
最後はあまりに派手なカタルシスを迎えるわけですが、まあ、こういうのはハリウッド映画としては仕方のないところでしょう。
設定の中に今ホットな倫理的テーマが潜んでいるために、単なるアクションムービーになっていることに不満な人もいるでしょうが、いや、このくらいで問題提起するというのもアリかなと私は思います。

2005年7月21日木曜日

芸術家論 「身を削る」度

何かと物事を二つのベクトルに分けて考えるのが好きな私ですが、今日は、ちょっと変わった視点で、芸術家を分けてみましょう。
名付けて、芸術家の「身を削る」度。
芸術作品を仕上げようとする場合、その芸術家がどのような態度で創作活動に向かうか、その心境を考えてみてください。例えば、創作しようとしている作品世界がどこまでもその芸術家の精神世界とつながりを持っているような人、逆に言えば、その人の精神的世界の束縛から作品が離れることが出来ないようなタイプの芸術家を「身を削る」度が高いと呼びましょう。
なぜ、これが「身を削る」かというと、こういったタイプの人々は、あたかも一生のうち使い果たせる生命力の総量が決まっていて、その生命力を削りながら、作品を作っているように思えるからです。
逆に、様々な技法を駆使し、作品を鑑賞する人たちへのサービス精神が旺盛で、なおかつ依頼主の要求に良く答えることができるようなタイプの芸術家は、職人性が高いと言えるでしょう。
もちろん、最初のような「身を削る」タイプと職人タイプが、全く別方向のベクトルを持っているとは言いませんが、かなりの確率で、その方向性は背を向き合っているような気がします。

「身を削る」タイプの芸術家は以下のような特徴があると思われます。
基本的に短命。あるいは病気持ち。精神疾患がある。自殺する人が多い。寡作である。自分の身の回りの事件が作品の内容に大きく影響する。どの作品も雰囲気が似ている。内向的で人間嫌い。なぜか貧乏。
逆に、職人タイプのイメージはこんな感じ。
多作。生命力が強い。子供をたくさん作る。テレビにも良く出る。社交的で社会的にも成功し、金持ちになる。様々なタイプの作品を作る。

まあ、誰もがはっきりどちらかに分かれるわけではないけど、誰がどちらか考えると面白いですね。
普通、自分の幸せを考えれば職人タイプに憧れるけれど、「身を削る」度が高いと、妙に卑屈になって、どんどん職人から遠ざかろうとする気がします・・・

2005年7月18日月曜日

百年の孤独/ガルシア・マルケス

Solitude1967年にこの小説「百年の孤独」は、コロンビアの作家、ガルシア・マルケスによって発表されました。この本は、当時スペイン語圏で大ベストセラーとなったようです。1982年、ガルシア・マルケスはノーベル文学賞を受賞します。
多くの人に絶賛される名作ということで読み始めましたが、正直言ってちょっとしんどかった。いや、つまらない、ということではないのです。むしろ、十分面白い本だと思いました。ただ、かなり分量があるし、翻訳文体もちょっときついし、同じような人物名が多くて理解するのが大変。
また、この小説の独特の語り口や、話の進め方が、とても面白いのだけど、一般的な小説とちょっと肌触りが違うのです。一言で言えば、叙事詩的です。ひたすら、出来事中心で述べられていきます。事件の細かい描写とかがほとんどない。ぽんぽんと時系列に出来事が羅列されます。結局、この小説はマコンドという街の百年間の出来事をひたすら記した小説というコンセプトなのですが、風景描写や心理描写が普通の小説と比べるとかなり少ないのです。

しかし、だからこそ、この小説の面白さが成り立っていると言えるのでしょう。
百年もの長い間の出来事がひたすら書かれることによって、時はすすんでも人々の営みは延々と繰り返されるのだという当然の事実を私たちに想い起こさせます。別に心理を描かなくても人物は描けます。誰がどんな事件を引き起こして、どのように行動したのか、それをひたすら書き綴るだけで人物像は浮き上がります。貪欲な冒険心を持つ人、男を狂わすほどの色香を漂わせる女、人の世話を見続けることで満足する人、放蕩に明け暮れひたすら浪費してしまう者、どこまでも保守的で厳格な規律を尊ぶ者、そして革命に身を捧げる男・・・こういった様々な登場人物が現われ、ブエンディア一家の盛衰が語られていくのです。

もう一つの傾向は、非現実と現実が、全く何の断わりもなく無造作に並置させられている、という点があります。これはマジックリアリズムと呼ばれますが、こういった幻想性が、現代を舞台にしてもなお、神話的なイメージを残します。
何しろ、長大なこの叙事詩は、もう力技で読者を幻想の世界に引き入れます。その世界での不思議な出来事の数々はしかし、私たちの日常とまた、それほど変わらないものでもあるのが、この壮大な話の魅力なのだと思います。

2005年7月12日火曜日

朝日作曲賞・佳作を頂きました

昨年に続き、今年も朝日作曲賞の譜面審査を通過することができ、いろいろと期待しつつ、妄想を膨らませつつ、演奏審査の日を指折り数えていました。
昨年のハーモニーでの堀内さんの記事によると、朝日作曲賞の知らせは当日夜11時頃、電話で来るらしい。お願い、電話来て!と思いながら、家でひたすら待っておりました……。しかし結局、連絡は来ず。もしやと思い、夜11時頃 asahi.com を見てみると……朝日作曲賞決定の記事が!
そこで、私は落選したことがわかりました。朝日作曲賞は、埼玉の山内さん。何と、吹奏楽の朝日賞と同時受賞。いけませんねえ、両刀使いは…^^;。実際、作曲家としてかなり活躍されているようですね。

しかし先ほど、正式に手紙が届き、幸いなことに拙作が佳作に入っている旨、連絡がありました。
朝日作曲賞まで手が届かなかったのは残念だけど、佳作を頂けたのは素直に嬉しいです。今後の励みになります。新潟の全国大会では、賞状を頂きに行くことになります。
受賞作の情報に関しては、また掲載したいと思いますのでお待ちください。

2005年7月6日水曜日

芸術家論 その2

前回言った二つのベクトルをもっと分かりやすい言葉にするなら、「技術力」と「独創性」ということになるでしょうか。むろん、こういった価値基準の提案は、単に話を明快にするためのもので、現実にはそんな単純に物事を分析することは難しいことです。なので、あくまで抽象的な想念上の概念だと思ってください。

ちなみに今日、私が何を言いたいかというと、創作家の本当の価値は、一般大衆が判断するには難しく、専門家の長い間の評価の蓄積があってようやく定まるものであり、流行り廃りで音楽、芸術を消費する今の時代は、創作家の真の価値が理解されるのに、かなり危険な状況であると感じるのです。
情報があっという間に伝わる今の時代、「売れる」ものがあれば人々はすぐに飛び付きます。消費者だけじゃありません。「売れる」もの周辺からさらに新しいビジネスを狙っている人もたくさんいるのです。そんな時代、大衆が火をつけたひとときの流行りで、とたんにあるモノが売れてしまう、という現象が最近多いように思います。これは、音楽でも同じ、クラシックや合唱というマイナーなジャンルでさえ、その傾向があります。後で思うと、なぜみんなこれほど同じ曲を歌ったのか、不思議に感じるほどです。

このように情報が早い時代に、的確に創作家の価値が評価されるためには、結局、我々大衆が、消費者が十分な審美眼を持つ必要があります。そうでないと、能力のある創作家が報われないことになります。
創作物を享受する人たちは、少しでもどんな「技術力」があって、どのような部分に「独創性」を感じるのか、的確に判断する眼を持つことが大事なのです。そして、そういう意見交換がもっと活発になれば、また面白いことになるなあと感じます。

2005年7月2日土曜日

芸術家論

前回の記事で、「天才」などという言葉をいささか軽く使いすぎたような気がしてきました。実感からすれば、その通りなのだけど、ちょっと誤解されそう。

それで、そもそも芸術家の価値って何だろう、という、これまた答えが無いような話をちょっと書きたくなりました。私たちは、それぞれ自分の好きなアーティストに心酔したりするとき、どんな心理があるものなのでしょうか。そして、多くの人に支持される芸術家には、どんな特質が備わっているんでしょう。
芸術家の価値を現すのに、私は二つのベクトルを考えてみました。一つは「技術・能力・才能」というべきもの、もう一つは「個性・唯一・斬新さ」というようなものです。
最初のベクトルは、その創作家の純粋な創作における技術力のことです。何をもって技術力と呼ぶかは議論があるにしても、芸術家、創作家の価値に、その人の技術力、あるいは広義の才能のようなものが大きな影響を与えていることは誰もが認めることでしょう。例えば、私はラヴェルの書法を素晴らしいものだと感じます。自分がどんなに考えても、あんなに響きがきれいでツボにはまっていて、しかも理路整然としている音符の羅列を作ることができないと感じます。これは純粋に能力の差だと、自分が曲を書く人だからこそ思うのです。そこには、個人の能力の超えることの出来ない壁というのが、悲しいかな厳然と存在します。
さて、もう一つのベクトルの個性の問題は、ちょっと扱いが難しい。芸術家である以上、その作家、作曲家ならではの個性があるはずです。それがあるからこそ、そのアーティストを好む人が現われるわけですから。ですが、「個性的」という言葉はときに独り歩きし、最先端のアーティストであるために「個性的」な自分がどんどんインフレーションしてしまう危うさを孕んでいます。つまり斬新であること自体が自己目的化してしまうのです。誰もやらなかったことを初めてやるということは、確かに価値あることです。しかも、一般大衆はそういう果敢な態度の芸術家を、いわゆる芸術家的な人間だと認めやすい。この場合、芸術家が遺した作品よりも、芸術家のカリスマ的な人格自体が権威を高めているなんてことも起きてきます。

実際に創作活動を行ってみると、芸術家に対する価値観が若干変わってくるように思います。
上のように、世の多くの人は(一見)個性的であるアーティストを支持したい傾向があります。しかし、その個性の怪しさに気付くと、やはり創作家としての純粋な技術力こそが重要な問題に思えるようになります。同じく創作に関わるからこそ、技術力の有無とか、自分よりスゴイ能力差があって愕然としたりとか、そういうリアルな感想を抱くものだと思います。
ところが、ある程度の技術力を持っている創作家の価値は、今度こそ「個性、唯一性」のような尺度で測らざるを得なくなります。そこで問われる個性とは、一般の人にはなかなか気付かない、非常に微妙なものかもしれません。それでも、やはり芸術家の価値は、最後には個性のようなもので問われるべきなのだと私は思うのです。