2012年12月29日土曜日

今年を振り返る

気が付けば、一年も終わろうとしています。
家族のこと、仕事のことは置いといて、自分に関わることで今年思い出深かったことをまとめてみましょう。

今年は久し振りに、自分の作品の演奏機会が多い年でした。といっても思い付くのは4つだけですが。
まず、東京で開催された混声合唱団LOCUSの演奏会で「わらははわらべ」が久し振りに再演。それから、浜松少年少女合唱団の演奏会で私が編曲した「唄・今昔物語 -にほんのうた-」が初演されました。この編曲作品は夏休みにドイツ演奏旅行に行った際にも演奏してくれたそうです。

それから、6月には松下耕さん率いるブリリアントハーモニーの演奏会で、女声合唱曲「ほね」が初演されました。この日は、その後の打ち上げで松下耕さん始め、信長さん、相澤さんなど多くの方々とお会いしお話しする機会があったことも嬉しいことでした。

そして4つ目は、先日のヴォア・ヴェールの演奏会です。
私の指揮で弦楽と合唱のための「うろくずやかた」を初演。詩を書かれた西野りーあさんとも初めてお会い出来ました。
年初めから音取りを始め、9月からオケ合わせを数回。器楽と合唱を並行して練習しながら何とかステージを仕上げるために、練習スケジュールなどいろいろと苦心したことも自分にとっては大きな収穫だったと思っています。

音楽活動以外では、何といっても大きなトピックはフィリピン英会話。
1月には会社の長期休暇を利用して、フィリピンの語学学校に1週間滞在。英語だけでなく(というか、1週間では正直あまり身に付かない)異文化交流とか、フィリピンの猥雑さとか、いろいろなことを体験することができました。同じく語学学校に来ている若者からも大きな刺激を受けました。
その流れで、5月くらいからオンラインのフィリピン英会話を始めました。月5000円で一日25分のレッスンが受けられるという仕組み。こちらは始めてから7ヶ月が経ちましたが、依然としてそれほど語学力は上がらないけれど、英語に対する慣れのようなものは付いてきたような気がします。

英語学習はこれまで何度もいろいろやっては挫折しての繰り返しでした。
Twitterや多くの識者の言説に接していると、英語が出来るか出来ないかで自分の可能性は大きく変わってくるような気がしています。もともと語学のセンスはあまり無いので、流暢な会話が出来るところまでは無理だとしても、何とかコミュニケーションが可能になる程度にはなりたいと切に願っているのです。

あと今年、ある意味最もインパクトのあった出来事は、8月に水ぼうそうになって入院したこと。
息子からうつされたのですが、子供を持つというのはこういうことなんだなと身を以て体験しました。詳細を知りたい方は、上のリンクの記事を読んで下さい。何しろヒドい目にあいました。

ところで、今年は実はほとんど作曲はしませんでした。
今年の後半はむしろ、プライベートでもエンジニアとしての活動を拡げるような活動を始めています。電子音源のソフトウェアを書いてオープンソースとしてアップしたり、ARMのボードを購入して遊んでみたり・・・
実際に形になるかはまだまだ分かりませんが、一人の技術者として、純粋に自分がやりたいことを追求したい、あるいは技術者として音楽に関わり続けたい、という思いでこの活動を続けていきたいと思います。

さて来年は全く大きな予定が無い年です。
なので次なる飛躍のための準備期間と位置づけ、いろいろな逆境に耐えながらも、自分のやりたいことの素地を作っていければ良いと考えているところです。

2012年12月23日日曜日

ラズベリー・パイで何が出来るか、何がしたいか

3000円で買えるARMボード、ラズベリー・パイを購入。その筋では大変な人気で、私も9月末に注文したのに12月になってようやく入手できました。

写真の二つのキーボードの真ん中にある小さなボードが、ラズベリー・パイです。
写真のように、キーボード、モニター、ネットワークを繋げると、コンピュータとして利用可能。ストレージはSDカードを利用します。この中にLinuxをインストールすると、Linuxパソコンとして使うことが出来ます。

とは言え、CPUはARM11の700MHzなので、昨今のPCからは相当性能も低く、普通のパソコンとして使うにはちょっとパワー不足。
では、一体これは何のために使うためのもので、どうして世界中からそれほど人気なのでしょうか?

やや禅問答的な答えですが、それには答えが無い、というのが答え。
元々はプログラミングの教育用に作ったボードということですが、世界中の電子工作マニアみたいな人たちがその安さに惹かれ、何か面白いことが出来るんじゃないか、と考えているのです。

例えば先日紹介したこの本
この本では、3Dプリンタのような機械によって、これまで個人では不可能だったようないろんな製品の試作が、安価に出来るようになってきていることが紹介されています。
これはデジタル回路も同じで、これまでは必要なICの情報を調べ電子回路を設計して、それを元に基板を設計し、その基板を試作し、実際に動かして問題が無いかを検討し、その上で動くソフトウェアを開発してROMデータを作り、基板を製造して製品に載せる必要がありました。とてもこんなことを一人の個人が出来るわけがありません。

ところが、このようにCPUと周辺デバイスがすでに装備された安い基板が出回ると、そこにプログラムを書いて載せるだけで、電子回路を動かすことが出来ます。
もちろん、モニターが必要ないのにモニター端子があったり、ネットワークが必要ないのにLANのコネクタがあったり、といった無駄があるにしても、十分に安くなるのであればこれでいいんじゃない?という判断も成り立ちます。

こういう事態は、20〜15年くらい前にコンピュータ業界で起きたことを思い起こさせます。
それまでコンピュータは大企業しか作れない代物でした。
ところが、マイクロソフトによるMS-DOS、WindowsというOSの出現はハードウェアの標準化を促し、コンピュータのボードがPC/ATという規格に準拠していれば、コンピュータとして成り立つようにしてしまったのです。
結果的に、ハードウェアのコモディティ化が起こり、ひたすら値段だけの競争に陥り、気が付けば誰でも部品を集めればPCを組み立てることも可能になってしまいました。

この流れが、今後は様々な世の中の電子機器に対して起こるでしょう。
様々な機器とは、テレビとかラジカセとかオーディオ機器とかHDレコーダーとか、そういった家庭用電子機器であり、あるいは携帯、デジカメ、スレートデバイス(電子書籍用など)のような持ち歩くデバイスです。

まだ日本の多くの電機メーカーは、そういう機器を作り続けていくつもりのようですが、そのうち世界中の中小メーカーがこういった汎用ボードを使って安い製品を作り出すようになることでしょう。
そして、このようなボードは今やラズベリー・パイだけではありません。
すでに世界中で多くのボードが発売されています。モノも多くなれば、ますます性能は上がり、値段も安くなっていくでしょう。

このようなボードではOSにLinuxを使うのがほぼ標準になってきました。
とりあえず私としては、仕事柄というだけでなく、こういう技術にキャッチアップすることで、何か自分の可能性を拡げてみたいと考えているところなのです。
(まあ、ぶっちゃけ言えば、これを使って電子楽器を作ろうと考えています)

2012年12月9日日曜日

オープンソースでどうやって飯を食うのか?

何度か書いているように、ソフトウェアの世界ではオープンソースという考え方が非常に重要になってきています。
オープンソースはざっくり言えば、コンピュータのアプリやWebのプログラムをそのまま公開してしまうことです。
これまでの価値観で言えば、会社が自社製品の設計図をそのまま公開するなどということはあり得ませんでした。そんなことをすれば、他のメーカーがその技術を盗んでしまい、優位性が無くなると感じるからです。

ところがソフトウェアに関しては、どうもそういう考えは違うのではないか、ということが多くの人に理解されつつあります。
一つにはソフトウェアの量は莫大であるということ。ある技術が以前の技術の上に成り立つような重層的な構造になります。だから、年々ソフトは複雑化し、全ての内容を理解することが難しくなります。設計書を見れば簡単に何をしているか分かる、などということは無いのです。
もう一つは、盗んだ場合、その事実がほぼ明確であるということです。これだけ莫大なソフトウェアの中から純粋にアルゴリズムだけ取り出してそれを拝借するということは事実上無理で、ソフトはほとんど手を入れずに動かさざるを得ません。しかし、そうすれば今度は盗まれたものだということがすぐ分かってしまいます。
ぶっちゃけ言えば、他社の公開されたプログラムを読んで、それを著作権上の問題を回避しつつ、美味しいところだけを盗むということ自体が大変難しいのです。

実際のところ、オープンソースのプログラムを読む人たちは、ほとんど善意でそのプログラムを拡張したり、不具合を直してくれるような人たちです。自分がよいと思うものをより良くしようという健全なモチベーションがなければ、他人の書いたソースコードなんて読みたくもないのです。

しかし、オープンソースは設計書そのものを公開してしまうので、同じものを誰でも作れることになり、そのプログラムを売って商売することが難しくなります。一般的には、プログラム好きな人びとが純粋に世の中の役に立とうと思って、オープンソースを書いていると考えられています。
とはいえ、無収入なのに時間をかけるというのは、仮に趣味と言ったとしても、重要な場所で使われるソフトであれば責任も発生しますから、あまり健全ではありません。それらが広く使われれば使われるほど、本来何らかの報酬があるべきなのです。

以前私は、もういっそのことこういう人たちに税金で食べていってもらったらどうだろう、とか思っていました。
世の中のソフトウェアは全て公開され、そういったソフトが体系立てて保管され、なおかつ誰もが利用できるようになれば、同じようなものを二重に作ることも減りますし、進化のスピードも速くなるし、同じ仕様を実装していてもより良いものが残るようになるでしょう。
そのような目的であれば、それはもはや公共の仕事であるわけで、然るべき収入を世界中の人が保証してあげるべきだと思ったわけです。

もちろん、政府が関わるようなそのような仕組みを作るのは大変なことですし、新たな既得権益が発生してしまうかもしれません。
そして現実には、少し違う流れが起きているようです。
オープンソースとはいえ、それを使いたいと思っている人たちは、プログラムに十分詳しいわけではありません。従って、オープンソースを使って、顧客のニーズに合ったプログラムを作るような仕事が必ず発生します。
そのような人びとは、オープンソースを扱うので、オープンソースそのものに対する開発も行ないます。つまり、顧客に対する最適化を収入源とし、その過程で得た知識でオープンソースそのものの開発を行ないます。

つまりオープンソースを使うシステムは、そのプログラムだけをインストールすれば終わるようなものではダメです。オープンソースは常に目的に対して最適化する必要があり、その部分は個別案件となるのです。そして最適化部分についてはオープンソース化はされません(ライセンスに問題無ければ)。
今のところ、それがオープンソースで飯を食う一般的なスタイルであると感じています。

2012年12月2日日曜日

セカイ系でGO!

先ほどエヴァンゲリオンのQを観てきました。
率直に言うと、セリフの一つ一つはほとんど理解出来ないのですが、エヴァの場合、わざとそうしている面もあって、むしろ私としては大枠の設定の作り方、ドラマの作り方、人の追い込み方、そういったものに面白さを感じました。

こういうアニメ作品群をセカイ系と呼んだりします。
私は決してアニメオタクではなく、むしろマンガ,アニメには全く疎い方です。多くの才能のある人たちがアニメ、マンガで活躍しているであろうことは理解しているのですが、私としては表現のフォーマットの幼稚さがあまり好きではないようです。
エヴァとて、そこで描かれる美少女たちは、ある種の(オタクが喜ぶ)フォーマットに従っていて、そういう部分に関しては私の興味の対象外となっています。

しかし、こういうアニメ、マンガの潮流であるセカイ系という方向性は、実は私自身がその内部に持っているものとほぼ同質のものであると感じるのです。
だから、とてもセカイ系な世界観に共感します。こういった創作物が好きだし、もし自分がある種のストーリー性を持った作品を構想する場合、恐らくセカイ系になるだろうなあと思っています(いい例が、拙作「生命の進化の物語」)。

しかし残念ながら、セカイ系は芸術表現のメインストリームにはなかなかなりません。
それは恐らく、そこで表現される価値観が、非常に冷酷で、人間的な希望の薄いものであるからでしょう。多くの人はそういう創作物に嫌悪感を示すようです。
では、なぜ一部の人はそういうセカイ系的な作品に惹かれるのでしょう。

人は、誰しも幸せになることを求めて生きています。
しかし、イジメにあったり、内向的で人と接するのが苦手だったり、いつも目上の人から怒られていたりして、若く多感な時期にアウトロー的な感性が育ち、人生に何らかの諦観を感じてしまう人たちが一定数います。
この人たちは、自分の不幸を和らげるために、この不幸の理由を正当化、あるいはそれほど不幸ではないと感じるための相対化、といった作業を無意識に行なっていると思うのです。
その結果、社会はそもそも個人に対してヒドく無慈悲で、不安定で、非合理で、とても抗えないような大きな力が全てをコントロールしているのだという感覚を感じるようになります。そうすれば、自分の不幸の原因が説明がつくし、嫌なことも仕方の無いものとして処理することが出来るようになります。

この感覚は、自分以外の他人をシャットアウトしてしまう危険性を持つのですが、その分、激しい感情を抑え、どこまでも理知的な態度でモノゴトを探求しようという気持ちを育てます。
多くの研究者や、哲学家、詩人はこういった人たちであり、こういう人たちがやや付き合いづらい傾向にあるのは、そういうモノゴトの考え方をするからなのではないかと思います。

そして、私自身も、こういった素養を少しばかり持ち合わせています。
自分の想いを伝えようとする時、人類滅亡だとか、何万年もの時間が流れるとか、そういう舞台装置を作って、どうしようもならないことを表現したくなってしまうのです。

そして今でも、一般ウケしないそういう世界観をまだ追い求めています・・・。