2020年12月26日土曜日

お金とリバタリアニズム

 後で拙文を読んでみると、本当に考えが浅くて恥ずかしくなる。

いくら立派なことを考えているつもりでも、文章でその程度の内容になってしまうということは、結局のところそこまで立派なことを考えているわけでは無いのだろう。

とはいえ、やはりどうしてもお金って何だろう、ってずっとずっと考え続けている。


みんながお金のために生きなくなったら何と幸せなことだろう、と単純に考えてしまうけれど、世の中はそんな簡単には出来ていない。

仕事ならば、お金が基準になって、誰がいつまでにどのくらい何をしなければいけないかをはっきりせざるを得ない。ところが、趣味の世界になるとこれが全くダラダラになってしまう。もし仮にうまくいったとしたら、相当に人を動かすことが上手い人が、その中心にいるはずだ。

つまり、人は嫌々ながらも誰かに尻を叩かれて動くからこそ、社会が回っているという側面があって、そこには趣味だけでなく、〇〇せねばならない、という義務の世界がどうしても必要だということ。


もちろん、お金以降の世界では、ある種のスコアが人の価値を決めるようになるだろうから、そのスコアを上げるために、人はやはり義務の世界で生きる必要はある。ただし、そういう世の中になってみないと、衣食住が満ち足りた環境で人が義務に生きるインセンティブとなるのか、今のところ全く見当がつかない。


昨日からハイエクに関する本を読み始めている。

ハイエクは一貫して社会主義ではなく、自由主義、市場主義を重んじている。ところが、ほとんどの人は、市場主義を敵視していて、素晴らしい為政者が世の中を良くしてくれると信じている。そんな人は永遠に現れないのに、それでもそれを信じるというのは、もはや人間の遺伝子に刻まれているくらい本能的な感覚なのかもしれない。

そういう意味では、ハイエクのいう、全ては市場、競争環境が世の中を良くするはず、という言説は人の神経を逆撫でし、本能的な嫌悪感を感じさせているのだろう。


ソフトウェアの世界では、もはやオープンソースが一般的になった。

ウチらの職場ではいつまでたってもそのメリットを享受しようとするでもなく、リスクばかりを騒ぎ立てる。その一方で、IT系企業の技術者はサラッと、オープンソースのコミッターとなって、会社自体がそういうコミュニティと関わることを奨励したりする。

あまりの感覚の違いに愕然とするけれど、自分自身が何のコミッターをやっているわけではないので、偉そうなことは言えない。


このオープンソースの世界は、もちろんプログラムがタダで使えるという意味では、お金の世界から背を向けている。今のところ、その周辺の需要を探ることでオープンソースをビジネスにしようとしている人たちは多いが、それでも根の深いところで、ソフトウェア、というか、全ての知的財産はフリーを指向するのではないかという予感がある。

ハイエクのいう市場競争と、オープンソースのフリーの世界は一見両立しないように見えるけれど、オープンソースはどれだけ多くの人に受け入れられているかという意味において、競争もしているわけで、大企業によるルールによって統一された世界より、健全だという気もする。

そう、ITの世界では、商売になればなるほど、なぜか市場性が失われ、一極集中になっていく。オープンソースの方が純粋な競争が起きるような気がする。それもすごく不思議なことではあるけれども。


この考えは、いずれ大企業、或いは国家さえ不要ではないかという、リバタリアニズムの極地に今自分は向かおうとしている。