2019年10月13日日曜日

会社がオワコンな理由

一度、会社のダメなところを挙げておきたい。そうすれば、少なくとも会社の何にコミットすべきかを判断できる。

山口氏の本でなるほど、と思ったのは、会社内は資本主義ではなく、社会主義だということ。それでもスケールメリットがあったから会社が成り立っている。

今の会社の大きな問題は、意思決定のあり方だ。
意思決定のコストが本当にダメダメ。創業社長ならまだ意思決定は早い。しかし、大企業はすでに官僚的な体勢が出来上がってしまい、意思決定の根拠がないと社員が納得しない。だから、文句が出ないようにどんどんルールが厳格になっていき、そのルールに振り回されているうちに、意思決定に掛かるコストが膨大になっていく。

そこに日本独特の無責任体勢が加わり、意思決定が誰の責任でもないようにする仕組みがさらに追加される。稟議のような合議体勢だったり、意思というよりは単なる許可だったり。それならその権限を降ろせよと言いたい。

もう一つは、山口氏も言っていたモチベーションの問題。
徹底的に効率を追求すると、業務分担は細かくなり、さらに無駄が排除される。全体を知る人がいなくなり、そもそもこの仕事を達成したいと思う強力なモチベーションの源が消えてしまう。リーダーでさえ、やらされ仕事だ。
いくら業務を効率化しても、モチベーション不在の業務の質は低く、むしろ生産性は上がらないだろう。何といっても圧倒的にスピード感が違ってしまう。

それから垂直統合を進めたことによる非効率性。
むしろ昔はこれが完全に逆だった。全て自前で持つから、自分たちの事業に最適な形にカスタマイズすることでどんどん効率が高まっていた。
ところが、IT化は汎用性をすごい勢いで進め、気がつくと自己最適化されたシステムより、汎用システムのほうが使いやすく、効率も良かったりする事態が発生している。
大きなことが悪い方に作用していることが多くなっている。

それから、その閉鎖性。
オープンな会社もあるにはあるだろうが、昔ながらの大企業は非常に閉鎖的。
プロダクトベースの事業が多いので、開発情報は秘密にしたいし、そのテクノロジーも公開すべきではないという考えが一般的。
プラットフォーム事業であれば、秘密であるより公開した方が良い場合が多いし、GAFAMもむしろOpenSource化している。
まあ、これは会社のダメなところというより、古い考え方に縛られているだけで、世の流れが分かっている会社ならきちんとやれているのだろう。

そういう意味では、日本の会社のダメなところ、という括りだと、さらにいろいろな面があぶりだせる。
既に日本企業は目先の利益にしかリソースを投入できないマインドになっている。
創業社長でないと、長期的な視野で投資することができない。なぜなら、長期政権がほとんど不可能だからせいぜい3年以内くらいに利益が出ないと、簡単に事業は終わってしまう。

人材が流動化しないのも悪いところ。
人が動かなければ活性化しない。しかし、終身雇用を是としてきた日本企業にそれを望むのはほとんど不可能だろう。

2019年10月12日土曜日

アート主義への現実的な変化

理想社会というものは永遠に訪れない。
社会はいつも理想に対して道半ばの状態でしか存在し得ない。そして、理想へのベクトルは時代によって変わっていくから、つまるところ、理想には永遠にならないのである。

なので、アート主義の理想的な社会を語っても、それは永遠に訪れない。
であるなら、不完全ながらもどのようにアート主義な社会に移行していくのか、現実的な変化についてもっと語るべきであろう。

山口周氏の本を読んだ。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B07SSY4LJ9/ref=ppx_yo_dt_b_d_asin_title_o00?ie=UTF8&psc=1

基本的には、ほぼ私の気持ち通りの内容で、そこをうまく言語化してくれたのが心地良いし、氏の博学さや説明のうまさに対して、とても好感がもてた。

やや、煽り過ぎの面もあるから、そこはある程度差し引いて読んだとしても、アート主義的な考えとはほぼ方向性はシンクロしている。
私が会社で感じる違和感をほぼオールドタイプと断定し、忌み嫌っているのは笑えるが、とはいえ、今の会社のやり方を全面的に否定するのは現時点では難しいだろう。


なので、やはり現実的な変化、を考える必要がある。

おそらく、一匹狼で生きていける人が増えるはずだし、そういった人々が活躍出来るフィールドが増えるはずだ。でなければ、アート主義には全く移行できない。

まずは一匹狼は、既存の大企業から仕事を請け負う形で飯を食うしかない。だから、彼らはそれなりに、人格者でなければならない。古巣から仕事をもらいつつ、顔を広げていって、人のつながりで仕事をもらっていくパターンだ。
その一方で、アイデアでヒット作を出し、ネームバリューを上げる人も出てくるだろう。請負からだんだんと、ヒット作型への移行が始まっていく。これはそう簡単な流れではないけれど、ここが描けないとアート主義への移行は始まらない。


請負からヒット作型への移行のためには、ヒット作を出す人が、とりあえず現状の資本主義の中でお金を得る必要がある。
その仕組みには

  • プロダクトそのものから収入を得る
  • パトロンからお金を得る
  • 不特定多数から寄付を得る
  • 請負の仕事を半分混ぜる
といった方法が考えられる。
いずれにしてもまだまだハードルは高い。

パトロンや寄付が立ち上がるのが理想だ。それこそ、信用の数値化といった世界観に繋がるし、ひとまずはリアルなお金を通すとしても、いずれお金が無くなる布石にはなりそう。


寄付はかなり可能性は高い。
一人一ヶ月100円払ったとすると、1000人で10万円。うーん、まだ苦しいかな。
1000円払わせるのは、まだ厳しい。500円を100人で5万円・・・
もう少しかもね。

2019年9月29日日曜日

お金の回り方

大局的に見れば、自分の考えは筋が通っているとは思うけれど、結局、世の中がお金で回っている以上、それをうまく集められる人たちが力を持つことは避けられない。

だから、お金の回し方を変えていくか、そもそもお金を放棄するしかない。

私がずっと夢想しているのは、後者のお金を放棄する方法だ。

対価は欲しい人から与える人に直接届けられる。そんな、とてもシンプルなやり方が、今のお金では不可能になっていると思う。
お金を扱うときには、債権や証券のような仕組み、それを扱う金融機関が必要で、ルールに則った企業会計がきちんと管理され、それに従ってお金は回る。
お金は常に仕組み、システムの中で管理されており、そのシステムを回す(権限のある)立場の人たちにお金は流れる。

必要なモノを作ったり、サービスを提供したりする末端の労働者と、それに対価を支払う末端のお客様の間には、直接な価値のやり取りは存在しない。必ず、企業の売り上げに計上された後に、給料として労働者にお金は配られる。

お金である以上、この流れは当面変えようがない。

ただし、お金でないものであれば、全く新しい価値循環の方法をゼロから考えていけばいい。もっと今の時代に即した形で。
だからこそ、お金のようなものではない新しい物差しに、私は期待してしまう。


仮想通貨も基本はお金のアナロジーだ。
ただし、使っているうちにお金でなくなる可能性は秘めている。

もっと今のお金ではない何かは何か?
ちょっと前、個人に投資するようなサービスができたけれど、あういうのがより洗練されたような感じ。
多分、株が個人に適用されるようなものなのだと思う。

ただし、それを売り買いして儲けるとかそういうことではなく、どちらかというと、個人の評価システム的なもの。ちょっと考えると、超ダークな社会になりかねない話だけれども。

でも、そういう仕組みがなければ、今のままではスキルのある人に直接お金が届かない。そこが今後の大きな問題だと思う。

先日の、ファブ地球社会コンソーシアムで、スキルをバッジしたらどうか、というアイデアが出てきて、とても面白いと感じている。うまく運用していけば、これこそお金のない世界での、新しい世の中の回し方になってくれれば嬉しい。

2019年9月22日日曜日

アート主義の時代と私がやってきたこと

2012くらいからmakeにはまった。
合唱はそれからまだ3年ほどはやっていたけれど、2015年にやめた。
その間、これでビジネスできないか、ずっと考えてきた。もう7年も。
これだけ長い間、同じようなことを考えて何も行動していないのだから、きっと私はまだ10年も同じことを繰り返しているに違いない。
本当はどこかで行動が必要なのだろうけれど、全く勝算がない行動はどう考えてもとれない。

アート主義の時代がいつ来るのか、その見極めが大事だ。
今の資本主義は当然、そう簡単には終わらない。しばらくはアート主義と並存する期間がある。少なくとも20-30年くらい。

それでも、数年くらいのうちにアート主義が立ち上がる、という楽観的な見通しの上で、自分の計画を立てるしかない。

アート主義はどんな形で立ち上がるのか?
GAFAMに代表される巨大ITプラットフォームが世界帝国化する。彼らは納税義務さえ軽々飛び越え、利益を出し続け、先端テクノロジーに投資し続けるだろう。
その一方、ほとんどの企業は才能を吸われ、抜け殻のようになり、プラットフォームにしがみつくしか生きる術がなくなる。

国よりも強くなったITプラットフォームは、便利さで人を操作する。
法律よりも強く人の行動を制御できる力を持つようになる。
中国は国家権力で、EUはGDPRなどで対抗する。どこが勝つかは分からない。
意外と中国かもしれない。その可能性は常に心の片隅に置いておく必要がある。

なぜなら、中国ほどオープンソースの精神が進んでいるところもないからだ。ITプラットフォームも依然として大事な技術は抱え込む。しかし、SDGs的な価値観からいえば、優れた技術は囲い込むのではなく、公開すべきだ。そのためには、自分たちが儲ける、という価値観を越える必要がある。

GDPRについては、いまひとつ筋が悪いと思う。
倫理的なルールで人を縛るのは無理だ。人の欲望を使って、人を制御するべきだ。

データをどう扱うのか、そのあたりの展開は注意する必要がある。それにより、ゲームを先導する主体が変わってくるからだ。
できれば、ITプラットフォームでもなく、国家でもないほうがいい。オープンソースをべーすにしたものであってほしい。

つまり、自分のデータはどのプラットフォームからもオープンなフォーマットで吸い出すことができるようになっていればよい。技術的に難しくても、誰かが簡単にできるようにしてくれる。
例えば、Gmailが嫌になったから、別のメールシステムに乗り換えたいとき、Gmailを全てオープンフォーマットで吸い出せればよい。(今でもできるとは思う)

そういう仕組みが無ければ、そのサービスが廃るような価値観になってくれれば、ある程度自分のデータを自分で制御するすべは手に入ると思う。

で、アート主義にどう繋がるかはまた別途。


2019年9月14日土曜日

さらに資本主義の終焉について

同じことを何度も考える。

地球上にフロンティアが無くなった時点で資本主義は終了する。
イースター島で起きたことと同じことが、世界全体で起きる可能性がある。だからこそ、SDGsが叫ばれる。でなければ、人間社会がどこかで文明崩壊する。

もう一つ、資本主義の限界の理由の一つとして、時間差、距離差が極限まで小さくなっていることが挙げられるかもしれない。
時間差や距離差があるからこそ、富の偏在が発生する。ある人は持っていて、ある人が持っていなければ、それを交換して両方がハッピーになる。これこそが資本主義の大元の原理だと思う。

ところが情報は瞬時に世界を駆け巡り、モビリティや運送の発達で、世界は非常に狭くなった。まだ文化や言語の壁はあるが、それらは少しずつ少しずつ崩れていくことは間違いない。
時間差、距離差が無くなることで、モノは瞬時に世界に流通し欲しいものを誰もが手にできるようになった。全てはコモディティ化し、珍しいものがなくなることで、価格は極限まで下がる圧力を受けるようになる。

逆にそのような社会ではコモディティにならないことが大きな戦略の一つとなる。
コモディティは博打のようなもので、当たらなければ大きな投資が無駄になる。だから誰もが買うような必需品は大きな会社が大規模な製造手段と流通手段で世界に販売し、薄利多売を目指す一方、ほとんどの小さな会社はコモディティにならないもの、よりアート性の高いものを販売するようになるだろう。

資本主義的な発想なら、たくさん売って利益を出すことが正義だけれど、たくさん売れなくても、自分を支持してくれる世界中の少数のファンが自分に必要な分だけ投資をしてくれればいいということになる。
自分の活動に世界中の人が投資、というより寄付してくれるような世界。これこそがポスト資本主義な世界だ。

アーティストであることが一番価値のある社会。
芸術作品を作ることだけがアートではない。人へのサービスにもアート性は宿る。というより、全ての人の行為には常にアート性が宿っていて、どのような職業であっても、そのようなアートセンスが必要とされるような社会になっていく。

このような社会のことを何と呼ぼうか。
ポスト資本主義でもいいけれど、とりあえずアート主義の時代とでも言うべきか。

アート性の高い人が評価され、そのような人はいろいろな職業で優遇されるようになる。
人の流動性は高まり、必要とされる人とそうでない人の格差は高まる。ただ、その格差は貧富の差というより、人間力の差だ。
貧者が富めるものに使われる時代から、少しずつ愚者が賢者を祀り上げる時代になっていきそう。

***

そういう時代には、そもそもお金がいらなくなる。
お金こそ、資本主義の象徴だ。
お金は、数量を増やすことを肯定する。お金は持っている人ほどお金がさらに集まりやすくなる。お金で時間差や距離の差も買うことができる。

ところが増えることが難しくなり、誰もが時間差や距離差を克服できる時代、お金を人間活動の唯一のものさしにするには都合が悪くなってきた。
アート主義の時代には、アート性の高い人が評価されなければならない。
現状では、そういう人にお金は流れない。

アート性の高さは、まさに評判を客観的に数値化して評価するしかない。数量では評価できない。
評判の数値化、これこそが未来の貨幣だ。と言いつつそれはもはや貨幣ではないのだろう。なぜなら、貨幣みたいに交換したくても評判は減らないからだ。むしろ、株価のようなものだ。
そういえば、個人を株式化するようなサービスがあったっけ。何となくわかる人にはわかっているのだと思う。

2019年8月11日日曜日

サステイナビリティ

サステイナビリティとかSDGsみたいな言葉は、単なる資本主義へのアンチテーゼではなく、本当に地球から資源が無くなっていく、あるいは資源の確保が難しくなっていく状況から生まれているっぽい。

資本主義というのは、未開のフロンティアがあり、そこから資源がどんどん採掘されるような状況において成り立つ経済システムであり、世界中からフロンティアがなくなりつつある今、資本主義自体が見直しを迫られているように思える。
お金はジャブジャブ作ることが出来るが、モノはある分しか使えないわけで、その限られた分量を世界中の人が取り合うわけである。

ある未来予測で、2025くらいまでは先進国はデフレが進むが(途上国での生産コストがやすいため)、それ以降はモノ不足が起きてインフレになるという。

あれー、限界費用ゼロ社会と逆の現象じゃん!
今まで信じていた話が微妙に崩れていく。
どこまでもモノの値段は安くなっていって、いずれゼロになるって話だったのに、どうも資源が足りなくなって、逆にモノの値段は高くなるのである。
もちろん、人は代替案をどんどん見つけるので、長い目で見れば、またコストダウンの方法を考えるだろうけど、限界費用ゼロ社会はそう簡単には起こりそうもない。

サステイナビリティとFabLab、あるいは個人によるFab活動は割りと相性がよい。
というのは、個人でFab活動することは、企業による大規模な生産のアンチテーゼであり、ハードウェアの地産地消という意味でも 、最適な生産が可能になる方向なのは確かだ。
であれば、長い目で見れば個人のFab活動はサステイナビリティを進めていくエンジンになる可能性はある。


2019年5月3日金曜日

Maker Movementの挫折

Maker Faireは確実に広がっている。出展者も増えているし、毎年観客も増えている。そういう意味では、Maker Movementの広がりは確実に進んでいるとも言えるのだけれど、当初、私が熱狂したような広がり方の予想からすると、随分歩みは遅い。むしろ、幻滅、あるいは挫折に近い感覚を持っている。
Maker Movementはある意味、個人の経済的、社会的自立を意味していた。
しかし、2012年にMaker Movementの可能性を感じて以来、Makerは単なる趣味でしかなく、それ以上のものになっていない。

ファブ地球社会コンソーシアムで田中先生曰く、ほとんどのmakerの興味はMaker Faireに参加することであり、現実はそのためのプロジェクトを回すことで精一杯であり、社会的な問題解決のための活動とは程遠いところにいる。
問題解決は社会に役立つということであり、それは必ず経済的価値を生むはずなのだけれど、そこに至らないのだからMakerは社会の経済的循環の中に位置を見いだすことができない。

確かに私は楽観的過ぎたかもしれない。
自分のつくりたいものを作って、それが売れて商売できたら嬉しいのは誰もが思うことだけれど、それが成り立つためには、人が欲しいものを売らなければいけない。
ほとんどのMakerにとって、それは全くリアリティに欠ける現実で、どうせ売れないんだから一発ギャグ的な作品でいいじゃないか、という逃避の姿勢を生んでしまう。
結局、Maker Faireは一発ギャグの消費の場にしかならない。
持続的にMakerが自立するためには、もっと綿密なマーケティングと、譲歩の姿勢で市場にコミットする意識が必要だけれど、そうなるともはや趣味でなくなり、日常のお仕事と変わらなくなる。それが嫌だからこそ、Maker活動してきたのにである。

まだそこには大きな隔たりがある。
その隔たりは何か、それを超えるにはどうしたら良いか、そこについてもう少し考えなければいけない。
他人に対する価値提供として、いくつか軸があるのだと思う。
例えば、アートと機能軸。マーケットのベクトル軸(マスかニッチか)。社会問題と趣味軸、ローカルとグローバル軸。このくらい考えればいいかな。

とりあえずここまで。