2012年5月30日水曜日

世界を歩いて考えよう!/ちきりん

私の敬愛するブロガーちきりんさんの3冊目の本。
なんだかんだいって3冊とも買ってしまった私は、結構なファンということなのでしょう。

しかし、ある意味この本が今までの中で最も私にとって強烈でした。
これほどまでに自分と行動パターンが違っていて、人間としての基本的なタフネスさが全然違う、ということを見せつけられたからです。

だいたい私は出不精です。
家にいるのが大好き。一人でPCに張り付いているのが好きな人間です。「旅が好き」なんて言える人を風流だと羨望の眼差しで見つめながら、一人でどこかに行くことにいつも何となく恐怖を抱いています。

人生、これまで一人旅というものをしたことがありませんでした。
自分で計画して一人で遠い場所に行った、というのは恐らく今年1月のフィリピンが初めてのことです。それとて、マニラ空港での送り迎え付き。
それでも、一人で飛行機に乗って行き帰りをするのは、こんな歳でありながらちょっとばかりヒヤヒヤしていたほどの気の小ささ。

自分のことはさておき、ちきりんさんの海外旅行経験は全く半端じゃないのです。
欧米はもちろんのこと、韓国、中国、東南アジア、インド、中東、東欧、ロシア、そしてアフリカのサバンナからマチュピチュ遺跡、南国の島まで、ほとんど世界中のありとあらゆるところを旅しています。
本の最後に、トラブルはほとんど無かった、と書いてありますが、それは肝が据わったちきりんさんだからこそトラブルさえ逃げていったものと思います。20代の女性が一人で怪しい国を旅するなんて、その度胸だけで私には驚きものです。

さすが、経済通だけあっていきなり通貨ネタが面白い。
通貨の力関係によって労働の価値がここまで違うものだということは、私もフィリピンで感じました。彼らをうまく組織化すればビッグビジネスになるよなとか。
しかし国によっては、そもそも売るモノが無いなんてこともあるのですね。こういうことはその場に行ってみなければ肌で感じることは不可能です。

目に見える貧富の問題とか、従業員さえ疑ってかからなければ商売ができないようなシステムとか、日本人の価値観ではおおよそ信じ難いような現実もたいへん興味深い話です。

とりあえずこの本を読むことで、数カ国旅することを疑似体験出来ました。旅行気分を味わうにも良い本です。

2012年5月26日土曜日

生演奏としての音楽

音楽の活動が二極化し、メインはオーディオ鑑賞という方向にはなっていくでしょうが、やはりホールやライブ会場に出向いて生演奏、コンサートを聴く、という音楽の楽しみは無くならないでしょう。

それはちょっと前にも書いたように、テレビや映画でなく、演劇を見たりする行為とほぼ同じような意味を持ちます。
細部がクローズアップ出来るテレビや映画では、むしろ日常の一コマにようなさりげない演技をどのように映画のフレームに収めるか、という作る側のテクニックが重要になりますが、演劇では俳優がお客に伝えるための技術がほぼ全てで、演技するという行為そのものが鑑賞の醍醐味になるはずです。

全く同様に、音楽制作では曲や詩の工夫、音色、音響的な工夫が重要だけれど、生演奏では歌ったり楽器を弾いたりすることがメインです。
ですから、まず第一に歌がうまくなければいけないし、楽器演奏がうまくなければいけません。あるいは舞台にその人が立っているだけで人を魅了出来るオーラとか、存在感みたいなものが重要です。
そこで必要とされるスキルは音楽制作とはやはり相当異なります。

演奏会を聞いていると、これはオーディオ鑑賞では絶対感じられないと思うようなゾクゾクする演奏に出会うことがあります。
なぜそのような体験はオーディオ鑑賞を凌駕するのでしょうか。

一つには、単純に音の環境の違いがあると思います。オーディオ鑑賞は部屋でスピーカーで聞くか、ヘッドフォンステレオで聞きます。どうしても日常の雑音があるので、ダイナミックレンジの広い音楽を聞くのには適しません。大きな音を出すのも大変です。
生演奏では、特にクラシック音楽の場合、ホールという静音環境に閉じ込められるので、そこにいるという緊張感と、そこで繰り広げられる音楽のダイナミックレンジの広さはオーディオ環境ではやはり得られないものです。

もう一つは、インタラクティブ性とでもいうべきもの。聴衆とのやり取りによるその場限りの体験ということです。ライブが完全に予定調和に終わる場合はそういう要素が少ないですが、例えばMCをしているときのアーティストの感じとかは、その場のノリというものに支配されることでしょう。ジャズではインプロビゼーションがどの程度盛り上がったり、長くなったりするかはその場のノリで決まることも多いと思います。
特にエンターテインメント性の高い音楽では、こういったインタラクティブな要素があるほどお客さんの満足度は高まるものと思います。

後はやはり、非人間的なテクニックを同じ場所で直接見れるということでしょうか。
確かに演奏テクニックはビデオ再生でも楽しむことが出来ますが、その場にいることによって、そのスゴさは完全にリアルなものになります。
あまり大きなホールだと、奏者が遠くなり過ぎリアルさは減りますが、目の前でとんでもない演奏テクニックを堪能出来れば、それはビデオ再生で見るよりは感動するに違いありません。

とはいえ、本当に生演奏、ライブを聞きに行きたいと思う人はやはりそれほど多くはありません。
そこそこチケットの値段も高いですから、そこに集まる人たちはそれなりに意識の高い人たちです。というか、これからはその傾向がどんどん強まるような気がします。
そうなると、お客を楽しませられないアーティストは淘汰されていくでしょう。
そして、本当に音楽の実力が高いアーティストがきちんと残っていくことになるのではないでしょうか。

2012年5月22日火曜日

誰でも音楽が作れる時代

詩や小説を書いたり、絵やイラストを描いたりするように、音楽好きの人が自分だけの音楽を自力で作れるような時代がやってきつつあります。

私は楽器メーカーにいるので、例えば楽器の新しい機能に何があったらいいか、といったようなブレストの折に「思い付いたメロディを楽譜にしてくれる」とか「メロディに勝手にコードを付けてくれる」とか「最適な伴奏を付けてくれる」というようなアイデアを出す人が出てきます。
まあ音楽理論的には突っ込みどころが多いので実現も難しいでしょうが、そもそも日常的に曲を作る人に言わせれば、そのようなものは作曲行為を冒涜するような機能であり、おおよそ役に立つものにならないことは私には明白なのです。まぁ角が立つので、そうは言いませんが。

これを小説、イラストなどに適用してみればそのおかしさが分かると思います。
「季節や場所を設定するだけで、情景を描写してくれる文章を出力してくれる」「登場人物の性格を設定しただけで、会話文を自動生成してくれる」「輪郭を書いただけで色を勝手に付けてくれる」「描きたいものを決めただけでネットから自動的に画像を拾い出してくれる」・・・そんなワープロや、お絵描きアプリが欲しいでしょうか。


その一方、音楽を作る方法がどんどん簡単になっていくのは個人的にはとてもいいことだと思っています。
そうやってたくさんの人に作曲をしてもらいたいし、世の中にたくさんの質の低い音楽が溢れて欲しい。そしてその質の低さに容赦無い批評が与えられて欲しいです。その結果、作った人にはつまらない曲を作ったことを後悔して欲しいし、それで成長するか、挫折するかして欲しいのです。
表現するためには、絶えざる向上心を持ち続けることが必要です。私の見るところ、多くの方にはそういうメンタリティは無いものです。芸術家というのは、誰にも頼まれないのに向上心だけがめらめらと燃えているような性向を持っている人のことです。無から有を生み出すその心的パワーこそがクリエーターの活力の源泉なのです。

ツールがどんどん向上し、モノを作る作業が効率化すればするほど、人間の能力が丸裸になっていきます。
音楽の場合、一般的に音楽活動は楽器を弾くことと共にあり、たまたまいい楽器を持っていた人がいい音楽をやれる環境にあったりとか、近くに素晴らしい音楽家がいて薫陶を受けたとか、家庭環境のせいで音楽にのめり込んだとか、楽器を弾けるといった要素が作曲行為においてもこれまでは重要でした。
しかし今では、楽器を弾けなくても、ちょっと理論をかじるだけで相応の音楽を作ることは可能になってきています。そうなったときにその音楽を作った人のセンスが作品にそのまま投影されます。こういうことが普通になっていけばいくほど、本当の音楽の価値とか、本当のクリエーターの価値とか、そういう音楽の本質が問われるようになってくると私は思うのです。

2012年5月19日土曜日

制作としての音楽

音楽が二極化し、オーディオデータを楽しむということと、生演奏を楽しむということの二つの方向性に分かれていくだろうという話の続き。
とはいえ、多くの人はオーディオ(あるいは動画)を楽しむだろうし、生演奏している様子もデータ化されるわけですから、音楽を楽しむメインの活動はやはりオーディオを聞くことです。

聞かれるために作成されるオーディオも、生演奏を録画したものと、専用に制作されたものに分けられます。
生演奏を録画する方向については生演奏をいかに上手く録音録画するか、ということがもっと民生レベルでいい方向に向かっていくとは思いますが、何といっても、制作としての音楽がこれから益々大きな存在感を示すのではないかと私は考えます。

私自身、昔から音楽制作するのが好きな性分でした。
現実には楽譜を書くことそのものが中心になってから、制作することはなくなりましたが、今でも制作する人の気持ちは分かるつもりでいます。
もちろんこの世界もトレンドがどんどん変わっていきますから、今では私の思いもよらぬような便利で面白い方法があるのかもしれません。

そもそも音楽を制作するというのは、どういった行為なのでしょう?
まったくここに音楽が無いところから音楽を作り出すわけですから、それは詩や小説を書いたり、イラスト・絵を描いたり、動画制作をしたりといった創作活動とモチベーションとしては全く同じことです。
ただし、詩や小説なら、コンピュータを立ち上げ、いきなりワープロアプリで文章を書いて、保存すれば作品が出来ることは想像出来ます。しかし、何も分からない人にとって、音楽の場合具体的に何をしたら良いか想像が難しいかもしれません。

それは何故かと考えていくと、文章は文字を入力すれば成り立つのですが、音楽の場合、文字のような記号化された単位みたいなものが確立していないからだと思えます。
音楽を構成したり表現したりする最小単位の記号を、仮に「音楽素」という言葉で表現してみます。
一番分かり易い音楽素は、数秒で構成される音楽のオーディオのフレーズです。このようなフレーズ型音楽素を組み合わせることによって、ブロックを積み上げるように音楽を作っていくという考え方もあり得ます。
ただ、想像すれば分かるとおり、各フレーズのリズムやテンポが一致していないとなかなかブロックが積上らないし、そのフレーズ自体をゼロから作り出したいという欲求に答えることが出来ません。

旧来から、電子楽器の音楽素としてMIDIという記号が使われていました。
これはまさに小説における文字と同じで、音楽における演奏情報という言い方ができます。ところが、MIDIはそれだけの可能性があるにも関わらず、健全な発展をしなかったように思います。例えば、MIDIは通信フォーマットの十六進数をそのまま一般ユーザーが扱わなければいけないという代物です。そのような状況になっているのは、MIDIを扱う人は専門的な人たちだけだと、それを扱う人たちが勝手に思い込んでしまったせいだと思います。

しかし音楽を制作する場合、このMIDIをうまく扱えば、本当に自在な音楽が作れます。
今は多くの人がMIDIを嫌うため、オーディオベース(フレーズ型)の音楽制作ツールが一般的ですが、もう一度MIDIを見直すことによって、もっと自由度が高くかつ制作も容易な環境が出来ていくと思います。

そんなわけで、一般からすれば音楽を制作することに対する敷居が高いのが現状です。
もう一度、多くの人が分かり易いような音楽素、音楽制作の記号化、が進むことによって、音楽制作プロセスが一般化するような方向性を我々技術者が考えねばいけないと私は思っているところです。

2012年5月13日日曜日

音楽の二極化

音楽の未来についてまたまた考えてみます。
例えば、絵画に対して写真、そして演劇に対して映画という関係にどのような意味を感ずるでしょうか。
写真はカメラが発明されたから可能になった芸術であり、映画も同様で映写機という技術の進歩によって新たに生まれた芸術分野です。

昔は、絵に描いて何かの情景を伝えるという意味合いもあったかもしれません。しかし、そういう用途はほぼカメラで写真を撮ることで置き換えられてしまいました。法廷の様子とかはまだ似顔絵を使ってますけど。
しかしカメラが出来たからといって絵を書く行為が無くなったわけではありません。絵なら現実に無いものを書くことも出来るし、抽象画の世界は、写真で真似することは出来ないでしょう。

映画と演劇の関係もまた然り。
映画が出来るまでは、あるストーリーを演ずるのは演劇しか方法がありませんでした(もちろん広い意味でオペラとか、ミュージカルとか、歌舞伎とか、音楽と一体化したようなものも含めての話です)。
しかし、映画が出来たことにより、その場に役者がいなくても演じられた劇を見ることが出来るようになりました。物語を伝える方法は演劇から映画へとメインストリームが移行したと思いますが、未だに演劇が残っているということは、演劇でしか伝えられない何かがまだ残っているということです。

ここまで言ってしまえばだいたい想像できるように、音楽の楽しみ方も生演奏とオーディオ再生があります(CD、レコードももはや時代遅れなので、オーディオ再生と言います)。カメラや映写機と同様、オーディオ再生は技術が生み出したものでした。
ところが、音楽の場合、写真と絵画、映画と演劇のような二極化があまり起こらず、同じ音楽家がCDやレコードを出し、それをライブで演奏する、という二つのことをやっていたのです。それは音楽においては、人前で演奏してなんぼという感覚が非常に強かったのではないかと思います。
経済的な意味もあったでしょう。音楽ビジネスはレコード以前は、コンサート収入だったのが、レコード以後はレコードの売り上げが主な収入になりました。
しかし、ご存知のとおり今やCDが全く売れない時代になり、音楽ビジネスが大きく変わろうとしています。

オーディオ再生の音源製作では、もはや演奏不可能な音を入れることも可能です。むしろ、ライブでは音源のクリックに合わせながら演奏者が楽器を弾くということも非常に一般的に行なわれています。
とはいえ、本来音楽ライブでは見事な名人技を聴きたいのです。
それこそが生演奏を聴く醍醐味ではないでしょうか。

それとは別に楽器を演奏することから全く離れて好きな音源を製作するという表現方法があってもいいでしょう。
例えば、ここ数年日本の音楽シーンを賑わせているボーカロイド音楽においては、ボーカルがライブで演奏することが不可能であり(まぁライブっぽいイベントもあったようですが)、まさに音源製作としての芸術と言えるものです。

ボーカロイドに限らず、世の中にあり得ない楽器、あり得ない音を使って音楽を作ることが一般的になる可能性はあります。
そうすれば音楽も、写真と絵画、映画と演劇といった関係と同じく、オーディオとライブ、というような音楽の楽しみ方の二極化が起こるかもしれないという可能性が出てくるのではないでしょうか。

2012年5月9日水曜日

電機メーカーの何が問題なのか? ─ソフトが苦手─

メーカーってモノを作るわけだから、部品を集めて加工して組み合わせて、工場で完成品を作っていくわけです。今では電機製品のほぼ全てにマイコンが入っていて、そのマイコンを動作させるためのプログラムも作らねばなりません。しかし、そのプログラムはモノでは無いので、工場の中ではどうしても形が見えません。

どんな電機メーカーもマイコンのプログラミング無しにはモノは作れません。
そして、まさにそこが日本企業にとってアキレス腱ではないかと私には思われるのです。

自分がプログラムを書いていて不満を感じやすいからかもしれませんが、メーカーという仕組みの中では、プログラムを書くという仕事はなかなかうまく回らないものだと感じます。
メーカーは工場を持っています。いろいろな社内の慣習が工場をベースに成り立っていることがまだ多いです。今では、工場を海外に移す企業も増えてきましたが、それでも工場をいかに回していくか、ということがメーカーの最も重要視する点です。

しかし、ソフト開発は工場ベースの仕事の仕方となかなか折り合いがつきません。
以前はそうでもなかったのでしょうが、現在多くの人がコンピュータで仕事をするようになり、人々がソフトウェアに触れるようになればなるほど、PCでのソフトウェアの世界とメーカーのマイコンプログラムの世界との乖離が酷くなってくるのです。

その流れにとどめを刺すように、iPhone/AndroidといったモバイルOSが現れました。
なぜそれがとどめかというと、手のひらに乗るような小さなデバイスがPC並みのUIや性能を持つようになってしまったのです。それもかなりの安価で。
人々の基準がスマホになってしまい、それ並みの性能も出せない高価な電子機器に人々が疑問を持つようになってしまいました。

ならば、iPhone/Androidのように作ればいいじゃん、などと軽く言ってはいけません。
それは、自社が工場を持たず中国等の下請けに製造させ、何百万も販売出来る製品力を持った企業だけにしか出来ないのです。
そして、その代わりに彼らは、その心臓部であるソフト開発にふんだんの開発費をかけています。
しかし、一方ほとんどの日本の電機メーカーの人間には、どのようなソフトウェアが優れていて、どのようなモジュールや行程に工数をかけたら良いかが分かっていないのです。

ソフトを書ける人にしか、ソフトのどの部分が大事なのかが分かりません。
何が大事か分からないと、人員をどのように組織化し、どのような仕事を割り振るかという判断のレベルが低くなります。残念ながら、多くの電機メーカーではソフトウェアのプロフェッショナルがソフト開発のマネージングをしていないように感じられます。これほど大きな電機メーカーがたくさんあったにも関わらず、ついに携帯用OSは、日本から全く現れませんでした。
いくら現場に優れた人がいても、ソフト開発に最適化された優れた組織構造を持ったソフトチームが作られていなければ、いいプログラムは開発出来ません。
良いソフトは良い組織から生まれます。そこに気付かない限り、アメリカ製のソフトウェアに席巻されていくばかりになってしまうのです。

2012年5月6日日曜日

テルマエ・ロマエ

ネタの面白さにつられ、話題の映画テルマエ・ロマエを観に行きました。
ローマの浴場設計技師だったルシウスが現代日本にタイムスリップし、そこで得た知識を元にローマで斬新なお風呂を作っていき、それが評判になります。その後ルシウスは次期ローマ皇帝の争いに巻き込まれて・・・といったストーリー。原作は同名のマンガですが、私は読んだことはありません。

何といっても、「お風呂」というテーマで古代ローマの風呂の設計技師が日本にタイムスリップしてしまう、という設定が秀逸。いちいち日本のお風呂に感動する設計技師ルシウス、というのがこの話の面白さの基本にあります。

元々日本人は温泉好きだし、お風呂に対するこだわりというのも恐らく世界では類を見ないのでしょう。同じように公衆浴場が人々の暮らしに浸透していたローマ時代と無理矢理繋げてしまうことが、これほどの喜劇性を持ち得るというのは新鮮な驚き。
また、恐らく原作のアイデアだと思うのだけど、日本で一般的なお風呂グッズに一つ一つ驚きの声を上げるルシウス、というのは日本人の自負心をくすぐると同時に、日常のたわいもないことに感動することがなかなか面白おかしいことだと気付かされます。

また、このおかしさは主人公阿部寛の演技によるところが大きいです。
この人は、硬派なドラマでカッコいい役もいろいろやっているのに、なぜかこういう喜劇でとてつもない存在感を示してくれるのですが(前笑ったのはこの映画)、正直個人的にはやや残念なイメージ。ちょっと俳優としての品格を保つべきでは、と他人事ながら心配してしまいます。
今回はストーリー上、裸のシーンが多く、どちらかというと下品になりかねない男の全裸を、笑いに使われている感じがしました。

ローマ時代の映像なども決して手抜きをしておらず、全体的には非常に楽しめる映画にはなっていました。恐らく今年の邦画で最も興行収入があるのではないかと今から想像出来ます。
しかし、その一方フジテレビ映画的な低俗さを感じたのも事実。
内容より仕草で笑わせるやり方、狂言回し的な無駄にひょうきんな脇役の作り方、ストーリーの一貫性の無さ、わざと映像をチープにする可笑しさの多用(こういう笑いは映像制作として逃げではないかと思う)、意味が分からないシーンの挿入(山の中で歌うオペラ歌手)など、これまでの日本映画で私が疑問を感じるような場面にいくつか出くわします。

この映画はイタリアでもウケた、との評判ですが、上記のような場面をもっと洗練させ上質な映画作りにすればもっともっと世界的にも評判になる映画になるだけの可能性を秘めていたような気もします。
とはいえ、こういう笑わせ方が日本人のツボにハマる部分もあり、ビジネスとして考えた場合仕方が無い(というか、よく心得ている)と言うべきなのかもしれません。

本作ではイタリアオペラを中心にたくさんのクラシック音楽が流れます。フォーレのラシーヌ讃歌はローマとはどう考えても関連性が無く、なぜこの曲をバックミュージックに使ったのか、ついつい考えてしまいました。

2012年5月3日木曜日

電機メーカーの何が問題なのか?

ちょっと本業のもやもやを一般論化して、ここでまとめてみます。興味の無い方は多そうですが、意外と深刻な問題だと私は思っています。

結論を先に言えば、電機メーカーとか家電メーカーと呼ばれる会社は、今後10年くらいのうちにスゴい勢いで凋落していくだろうと私は考えています。
スゴイといっても、加速は後段階になるほど強くなるので、現状でそのようになると思っている人はそれほど多くはないし、仮に状況が悪くなってもきっと我々にはそれを凌駕するような力があるに違いない、という根拠の無い安心感を持っているようです。

すでにそれと同じ例が世の中では一度起きているのです。
それは、PCの世界です。
PCを作ると言うこととは、その昔単体のハードウェアを作ることでした。そのハードウェアに関わることを全てPCメーカーが自社開発していました。
ところが、PCを動かすためのソフトウェアはだいたい機能は同じです。そのうち優れたソフトウェアを集めてOSとしてマイクロソフトが売り出すと、ソフト開発に苦労していたメーカーは喜んでそれを導入しました。
メーカーはモノを売って利益を上げるのですから、そこに添付されるOSも部品の一つ、というくらいの位置づけだったのでしょう。
ところが、時代が進むにつれOSこそがコンピュータの最も重要なファクターになっていきました。CPUも寡占化が進み,気が付くと、OSとCPUを作っている会社が超巨大化して、PCメーカーは彼らが言われるままに作る箱屋になってしまったのです。

同じことが携帯でも起こりつつあります。
日本メーカーは各社独自でソフト開発していましたが、それよりはるかに高性能な近代モバイルOSを搭載したスマートフォンが市場を席巻し始め、携帯メーカーはそれを載せるだけの箱屋になりつつあります。
サムソンが現在いくら携帯で儲けていても、彼らがスマホの重要な部分を持っていない限り、いつかはコモディティ化の流れの中で消耗戦を強いられることになるはずです。

あらゆる電化製品には、小さなマイコンが搭載されています。
その製品が多機能を指向すれば、データを保持したり、それを解析したりすることになります。そしていずれは、いつ誰がどの製品をどのように使ったか、ということまで記録を取りたい(それが奇妙な世の中に思えても、便利なサービスを提供しようと思うと結局そうなります)ということになり、その情報はネットに流れるようになるはずです。
つまり、あらゆる電化製品は、同じプロトコルを使ってネットに繋がることを指向するのです。そのための仕組み(OS)をいずれ搭載せざるを得なくなり、OSを動かすための標準化されたハードウェアはどの製品でも使えるようになっていくでしょう。

先日、家具メーカーのIKEAがテレビの販売を始めた、というニュースがありました。
世の中のハードやソフトのプロトコルが標準化されれば、メーカーではない会社でもモノ作りが可能になってきます。
大事なのはモノ作りそのものではなく、それを使ってどのようなサービスを構築するのか、どのような楽しみを提案するのか、ということです。そういうソフト戦略が無ければ、いずれ現在の電機メーカーは沈んでいくしか無いと思うのです。