2008年5月29日木曜日

ポップスの歌い方

編曲話の続きということで、ポップスステージを企画した後、ではどんな風に演奏したら良いか、ということについて。
結論から言えば、ポップスだからこう歌ったほうが良い、などというものは私は無いと思います。
敢えて多くの人が言いそうなことと反対のことを言うなら、せっかく合唱に編曲したのだから、合唱っぽく歌うべきです。みんなが知っている曲を合唱という別の形態で表現するのだから、合唱であることの面白さを伝えなければいけないはず。間違っても、オリジナルの歌手の歌い口を全面的に真似しようなどと思わないことです。(部分的に表現としておいしいところを頂くというのはアリでしょうが)

正直、聞いていて好きでないのは、ポップスステージになると、妙に生声になったり、歌い口もバラバラだったりして適当な演奏になること。それでも、聞いた人は「知っている曲があったから良かった~」とは言ってくれるとは思いますが、それなら「あの曲を合唱でやったら、こんな感じになって面白いんだ~」とか私は言わせたいですね。
ポップスでもジャズでも他人の曲をカバーするなら、自分なりの料理の仕方をして、その料理の仕方を楽しませたいわけで、それは合唱とて同じこと。アレンジにもよりますが、自分たちの魅力を最も良く伝える演奏を本来はするべきなのです。

そもそも、「ポップスっぽい」とはどういうことを言うのか。
裏拍を重視するとか、多少一般的なことはあるかもしれないけれど、現代に作られた音楽なら(もちろん、合唱曲であっても)多少なりともある程度のロックテイストを持っているし、ジャズっぽい和音だって使われます。
だから、元がポップスであろうと何であろうと、今ここで演奏しようとしている音楽の内容を理解した上で最善の表現をすればよいのであって、音楽をジャンルの枠ではめて、ポップスだからこう歌おう、と単純化することは音楽作りの思考停止なのだと思います。

2008年5月23日金曜日

編曲ステージを構想する

もちろん、市販の編曲集をそのまま利用して一ステージにしても、それはそれで構いませんが、どうせなら編曲ステージでは合唱団独自の色を出したいものです。
はっきり言って、このステージの面白さのキモは"選曲"に尽きると思います。この選曲のセンスで、そのステージの成否が決まるでしょう(というと大げさだけど、お客にとっての面白さは随分変わってくるはず)。

選曲のセンスについて、私が云々言うつもりはありません。
こればかりは、選ぶ人の芸術的な審美眼の問題ですし、誰にでも可能なレベルでクリエイティヴィティが発揮できる機会ですから、細心かつ大胆な選曲をしてみたいものです。
問題は、選曲した曲を合唱で歌えるような編曲があるか、ということです。
市販のものでそれなりのアレンジのものがあればいいのですが、選曲でオリジナリティを発揮すればするほど編曲譜が無い、という問題が出てきます。
しかし、そういう事態になったらそれなりの人に編曲を頼むか、自分たちで編曲してしまうか、くらいのバイタリティが必要なのです。そこまで入れ込んだほうが、舞台としても絶対面白いものになると思うのです。
なので、本来、普通の合唱組曲のステージよりも、私には編曲ステージのほうがずっと準備や仕込が大変なものだと思えます。

私が自分で編曲した実例を一つ。
ムジカ・チェレステという少人数アンサンブルのコンサートで、美空ひばりの編曲ステージをやったことがあります。もちろん全部アカペラ。
曲目は、「お祭りマンボ」「リンゴ追分」「川の流れのように」
傾向の違う曲を集め、また原曲から自由に離れて編曲したので、結構自分では気に入っています。
��「お祭りマンボ」は和音を工夫して早口言葉風、「リンゴ追分」はジャズ風、「川の流れのように」はちょっぴりポリフォニー風)

2008年5月17日土曜日

編曲することの意味

J-POP関連の話題の発展ということで。
ポップスの合唱編曲ステージというと、どうも芸術的に一段低いものと感じがちです。やっているほうがそう思っている限り、残念ながら演奏もそういうものになってしまいます。
そもそも、なぜ他ジャンルの音楽を違う編成に編曲することが広く行われているのでしょう。ざっくり言って次の二つの理由があると思います。
1.お客が知っている曲があると楽しいと感じるから
2.耳慣れた曲が、新しい編曲で演奏されることに新鮮さを感じるから

上記より編曲は本来、一粒で二度おいしい演奏効果を持っています。
合唱で言えば、純粋な合唱曲は普通の人にとって一般的ではないけれど、流行歌なら知っている人も多いでしょう。そういった曲を合唱独自の編曲で聴かせることは、演奏会をより楽しんでもらうために重要な方法の一つだと思います。
だからこそ、編曲そのもののクリエイティヴィティが問われるわけですが、残念ながら出版されている編曲の楽譜は、なるべく多くの人に歌ってもらうために(あるいは、商業的に楽譜をたくさん売るために)あまり編曲に個性を発揮したものは多くはありません。
既成の編曲楽譜を用いるために、編曲の面白さがあまり無くなってしまい、しかもそれがピアノ伴奏付きだったりすると、合唱の演奏自体が単なる集団カラオケ状態にしかならなくなってしまいます。

そういう意味では、オリジナルの合唱曲を演奏するより、ポップスの編曲ステージをやるほうがはるかにその団の芸術センスを問われます。しかし、本来そういう覚悟を持って編曲ステージを作るべきだと思うのです。もちろん、団内で編曲が出来るのなら、それが一番良い方法でしょう。

2008年5月10日土曜日

ゴールデンスランバー/伊坂幸太郎

Golden本屋大賞受賞作っていうので、思わず手が伸びてしまいました。
しかし、伊坂幸太郎という人、すごく活躍しているみたい。本屋大賞にも毎年ノミネートされていたようだし、何作も映画化されています。

基本的にはこの手のサスペンス、アクション+ちょっと社会派みたいのは私の守備範囲外なのだけど、さすが大賞を取るだけあって、非常に面白い。最初から最後まで次の展開が気になって読むのを止めることができません。
内容はざっくり言えば、首相暗殺の濡れ衣を着せられた男がひたすら逃げ回る数日の記録、といったところ。何しろ逃げ回るっていうのがこの小説の基本的な設定なので、最後までドキドキハラハラの連続。映像でなく活字なのに、こんなに逃亡しているリアリティが伝わるってのが、この作家の筆力なんでしょうね。

もう一つ、小ネタや伏線の張り方なんかもこの人の面白さの一つ。
そういう意味では非常に技巧的。読んでいて、あれそう言えば、と思い返し、前のページをめくることが何度もありました。こういう技巧が常にいいわけではないけれど、長大な交響曲の堅牢な構築性と共通のものを感じます。
そういうのも活字好きの人からマニアックに支持されている要因なのかもしれません。

私の予想では、きっとこの小説も数年の間に映画化されるんじゃないでしょうか。いや、それを狙って書いてるような気さえします。

2008年5月6日火曜日

ラフマニノフ ある愛の調べ

ラフマニノフと彼に関わる女性を描いたロシア映画を見ました。
これまであまり馴染みのなかったラフマニノフという作曲家について、見終わったあと、かなり興味を抱くようになりました。何といっても、彼の作り出すメロディは美しい。生きている時代からすると、その作風の保守性ばかりが指摘されがちだけれど、後世に残るメロディを作れるというのはそれだけで類まれなる才能だと思えます。

内容としては、ラフマニノフを愛する妻のナターシャが、いかなるときもラフマニノフを支え続けたその献身的な姿を描いています。時には他の女性に心を移してしまうことさえ許しつつ、気が付けば彼女のところに戻って来ざるを得ない母のような包容力は、(男性から見れば)ある種理想の女性像なのかもしれません。
映画で表現されるラフマニノフは、恐らく実際とそう違わないのかもしれないけど、神経質で小心者で、それでいて喜怒哀楽が激しく、強い主張で周りを翻弄し、絶えず追い詰められた切迫感の中で生きているといった性格。こういったいかにも芸術家肌的な男性に、母性本能をくすぐられるという側面もあるのでしょう。しかしそれも献身的な愛を捧げる価値があるほど、彼の紡ぎだす芸術は神聖かつ比類ないものだという芸術至上主義があってこその行動です。
まあ、ラフマニノフは(後から見れば)十分スゴイ芸術家なので許されますが、売れもしない芸術家の才能を信じて一生を捧げるというのは、世間的感覚から言えばかなりリスキーで、もしそんな人がいるのならイタい女性と思われるのがオチかも。

ロシア映画ということもあり、20世紀初頭の雰囲気を出すのに昔の映像を使ったのは恐らく撮影が難しかったからでしょう。ハリウッドなら金かけてそういう映像を作っちゃうだろうし。また、アメリカ舞台でもみんなロシア語をしゃべっているとか、まあそういった辺りはそれほどシビアには作っていない感じもします。
その一方、師匠との決別とか、精神科医との交流とか、スタインウェイ社の商業主義への反発とか、史実をうまく織り込んであるのは伝記的映画として面白く見ることができます。
またラフマニノフの言動とか、一家のゴタゴタの描写とか、そういう人物描写は妙にリアルで、演技の良さもなかなかのもの。ラストもさりげない家庭の一コマなのに感動しました。