2006年9月28日木曜日

あり得ない正確さ

映画なんかもCGを使えば、あり得ないような情景や動きだって映像を作れちゃう時代です。
そんな時代、私たちにとって何が大事かといえば、その映像が本物かどうか判断できる能力だと思うのです。もちろん、CGの細かい技術のことを知る必要は無いけど、目の前にある映像を本物だと無邪気に信じたり、逆に、何でもかんでも「こんなのCGだよ」とか言って思考停止してしまうのは良くないことです。ものすごい注意力は必要ないけど、ちょっと考えてみればわかることは、やはりきちっと考えてみて欲しいのです。

音楽の世界でも、もはや私にも区別が付かないくらい、生演奏と変わらないほどリアルなコンピュータの音声合成が可能になっています。
例えば、映画音楽で聴けるオーケストラ演奏なんかも、最近はほとんど生演奏ではないのではないでしょうか。コンピュータ上で音符を打ち込んで、リアルなオーケストラサウンドで再生させれば、かなりのクオリティのものが出来ます。最近の音楽制作用オーケストラ音のサンプリングライブラリーには、楽器独自の奏法(ポルタメント、トレモロ、ピッチカート、ミュートなど)のサンプリング音もたくさん入っていて、これらを効果的に使えば、まるで本物のオーケストラが鳴っているかのような音楽が作れます。(ただし、これらのサンプリングライブラリはとんでもなく高価ですが)

もう一つ、最近のレコーディングでは、ピッチ補正という技術がふんだんに使われるようになっています。
だいたい、歌をレコーディングをすると、テイクを重ねるほど疲れが出てきます。しかし、「このテイク、勢いがあるんだけど、音程が悪いんだよなあ~」という悩みは、いまどき全てこのピッチ補正が解決してくれるのです。
今や、ほとんどのレコーディングでピッチ補正が使われているそうです。ここ数年にリリースされたCDでは、どの歌手も非常に音程が良くなっているはず。
だからこそ、歌を歌っている我々は、あまりにもピッチが正しすぎる歌に対して、もっと懐疑の耳を持たねばなりません。人間の能力は、良く考えれば誰にでもわかります。あり得ない正確さに対して、これからの時代、もっと敏感になる必要があると思うのです。

2006年9月23日土曜日

韓国映画二つ

先週、映画館で初めて韓国映画を見ました。「グエムル」っていう映画です。
突然、グエムルという怪獣が人々を襲い、主人公はさらわれた自分の娘を助けにグエムルと対決する、という内容。グエムルの描写はむちゃくちゃリアルでスゴイ。もちろんCGなのだろうけど、まるでほんとにいるような臨場感があり、人々を襲うシーンはとても良く出来ていました。
しかし、正直言ってちょっとこの映画、焦点の定まらない、奇妙な内容でした。もちろん韓国人じゃないと分からない、という場面もあるのかもしれません。しかし、笑うべきシーンなのか、泣くべきシーンなのか、それさえ分からないようなヘンテコなところもあるし、米軍の扱いとか、賄賂の横行とか、貧困問題とか、そういう社会問題が何のひねりも無く挿入されている感じで、伝えたいことが空回りしています。
とある雑誌には、このようなシュールな設定をすることで、社会の矛盾をあぶりだそうとした、などという監督の言葉があり、確かにその考え方はとても共感するのだけど、残念ながら、そこであぶりだされた物は監督の意図したものとは違うものだったような気がします。本当はカフカの「変身」みたいな感じにしたかったんでしょうかね。

うーん、やはり韓国映画ってそんなものなのかなあ、と思っていたとき、同じく韓国映画「イルマーレ」を家で鑑賞。これ、妻がBSで放映していたのを録画したものでした。内容は時を超えて文通を始めた二人の、ちょっと不思議な恋愛ファンタジー。
この映画はとても素晴らしい。映像も美しいし、ストーリーのアイデアも面白い。それに、そのストーリーが脚本やカメラワークの上手さでとても良く引き立っています。全体的にファンタジック、あるいは寓話的で、リアルな社会問題など一切無いのも私にとっては高得点。
全体的に、事件でどんどんストーリーを動かしていくようなハリウッドタイプの映画でなく、とつとつと静かに時が流れるヨーロッパ的な匂いのする映画でした。かなりシブめですが、これはマジでお薦め。
ちなみに、今週末からハリウッドリメイク版のイルマーレが封切られますね。主人公はキアヌ・リーブス。こちらも見てみたいです。

韓国映画といっても一括りにはやはりできません。グエムルは韓国でヒットしたと聞きましたが、イイものとヒットするものが違うっていうのは、これは世界中どこでも、どんなジャンルでもあることですしね。

2006年9月18日月曜日

フューチャー・イズ・ワイルド

Future500万年後、1億年後、そして2億年後、地球上にはどんな生物が住んでいるのだろう。
この疑問に対して、十分な科学的検証を用いながら、未来の生物というものを空想してみたというのが本書の内容。一見、科学読み物のように見えて、そこに書かれているのは全て実在しないものであるわけで、これはある意味、大掛かりなファンタジーなのだと思いました。
この本には、一切、人類は描かれません。あくまで一つの動物種としての人間は、多くの動物と同じように絶滅しているのが前提。私たちが未来を描こうとするとき、無意識のうちに必ず人間の未来を考えるものだと思っているのだけど、そこから離れて考えると、何とスリリングでダイナミック、そして夢に溢れた未来があるのでしょう。逆説的だけど、そもそもこの本のそういった基本姿勢は、科学的にすごく健全な感じがします。

あくまで科学的、というのがミソで、時代が進むほど、現在からは想像もつかないヘンテコな生物が出現します。最終章の2億年後がやはりスゴイ。地球環境の激変で、脊椎動物はほぼ絶滅し、巨大化した昆虫が活躍しています。シロアリの末裔、テラバイツは巨大な巣を作り、その中で藻類を栽培します。
また、陸でも海でもイカが勢力を振るいます。体長20メートルの巨大イカ、レインボースクイドが身体の色を変えながら海の王者となる一方、陸に上がったイカが熱帯雨林の中で、体重8トンのメガスクイドへと進化します。
コンピュータグラフィックによる挿絵もたくさんで、空想上の動物がたくさんのイラストで楽しめるのも、本書の楽しさ。想像力への新しい刺激が欲しい方に最適。
結構流行っているようで、公式サイトも充実しているようです。

2006年9月12日火曜日

指揮で悩むこと

しつこく指揮ネタで・・・
人の指揮をアレコレ言うのはできても、なかなか自分でうまく実践できないこともあります。練習の方法とか、団員の集中力を高めるとか、そういうのでなくて、あくまでバトンテクニックとして。

例えば、すごくゆっくりなテンポの6/8は、2拍子みたく円運動で振るか、それとも6つに分割するか。もちろんケースバイケースなのだけど、どちらとも言えない微妙なテンポの場合、困ったりしますね。円運動で振って、なんか間が持たなかったり、間を持たせようとして体まで棒について行ったりして、ちょっとダサい感じになったり・・・。だけど分割すると、歌っている側がすぐに固めに反応してくるので、それで困ったり。
それから、何といっても指揮の一番難しいところ(それゆえに、一番指揮が重要な場所)は、rit.して、次の出を指示するところ。もちろん、これもどんな拍子で、どんなテンポかによってずいぶん違います。例えば、次のテンポがとても遅いとき、アインザッツも長めになってしまい、コンパクトに次のフレーズに入れなくて、違和感を感じることがあります。ルネサンス物なんかはたいてい2/2拍子で、二分音符のアインザッツだとちょっと間が空きすぎるような場合がありませんか?そんなとき、私は四分音符のアインザッツで指示したりします。もっともその場合は、歌い手に口で説明して「こうしたら出てね~」とか言っちゃうんですが。
あと、指揮初心者が苦手なのは、弱起の指示。
もちろんそれなりに長い経験があったって、最初にその部分を振るときは、ちょっとばかりぎこちなかったり。振りながら、次のフレーズの頭が弱起であることを発見して「あっ、やばい!どうしよう」みたいな。実際、弱起の指示って、単に棒の動きだけでなくて、表情での促し方とか身体の浮き具合とか、そういう部分が意外に大切。そして、それこそ、経験の賜物だったりするわけです。

2006年9月8日金曜日

指揮雑感

だいたい、指揮なんてとてもあやしい役割です。
重要視される割には、上手い下手といった基準もあるようでないし、歌い手側も人によって好みは様々です。

以前、合唱センターに指揮法を勉強しに行ったことがあって(こちら参照)、これは正直言って今でもためになったと思っています。
その理由の一つは、そこで学んだことが指揮で表現したい音楽性云々といったことでなくて、本当に純粋にバトンテクニックであったということがあります。いわゆる斎藤メソドというヤツ。指揮の手の動きを分類化し、どのような箇所でそれを使うか、という即物的かつ実践的な内容でした。
たまたま、そういう経験のおかげで、逆に世の指揮者がいかに自己流で、場合によっては全く解読不可能な動きをしているか、と思うようになりました。

私にとって、指揮者を見る一つの視点は、いかにその指揮が几帳面であるか、ということです。
指揮者というのは、往々にして感情的、扇情的、表現過多になってしまう危険性があります。それは、音楽が表現しようとすることを表情や仕草で模倣しようとするからで、しかし、そんなことはたいていの場合、指揮者本人の独りよがりである場合が多いのです。
私が言う几帳面さとは、例えば、同じような箇所は同じに振り、アインザッツでなるべく次のテンポの指示をしようとし、音量や入り、切りの指示が明瞭な、そういった振り方のこと。それは自然に出来るといった類のものではなく、指揮者が意識的にそうやろうとしてしている積極的な行為のことです。
本番であってもそういう指揮をきちんとしている人は、音楽作りも良く考えているように感じられますし、恐らく練習時の段取りも非常に良く、効率的な練習をしていると思います。
正直、良い指揮者と呼ばれる人が必ずしも几帳面なタイプでないことは良くあることですが、少なくとも几帳面な指揮者は(几帳面でない人より)良い指揮者である、と私は言いたい。

2006年9月4日月曜日

指揮の練習

前回書いたラヴィアンの指揮ですが、本番前合計4回の練習がありました。私が来る前にすでに音も取ってあり、後は私が振るだけ、の状態から練習が始まったのでした。
私はもちろんプロの合唱指揮者として活動しているつもりではないので、これってかなり厳しいシチュエーションなんです。いつも指揮している合唱団では、音取り段階から自分が前でやっているので、大体音を取っている間に曲のイメージや指揮の方法なんかは自然に出来てきます。ところが、初めて行った練習で音が取れていて(しかも岸先生の指揮で一度本番経験あり)、そんな状態で初めて指揮を振るというのは、身が縮むような思いなのです。
もちろん初めての練習前には、楽譜を読んだり、テープを聴いたりして、指揮のイメージを何とか作ろうと努力してはみました。だけど、やはり最初の練習は随分うろたえてしまったように思います。やはり私の中でしっくりくる振り方が決まるまで、数回の練習は必要でした。

こういう話って指揮をされている方としたこともないので、ほかの指揮者の方はどんなふうに解決しているのか、私には皆目検討がつかないのです。
もちろん歌も、みんなと歌わないとなかなか音が取れないとか、そういうこともあると思います。でもそれって、ちょっと素人くさい。うーん、そういう意味では私はまだまだ指揮者としてはかなり素人クサいのかもしれません。
もちろん初めての練習前に、楽譜を読んだだけで曲作りをイメージし、振り方まで決めてしまう、なんてことを要求されるわけではないのだけど、それでも、ある程度それなりに振りつつ、さりげなく指揮の仕方を修正していくっていうのは経験豊かな指揮者ならきっと自然に出来ているんだなあ、と実感しています。