2012年12月29日土曜日

今年を振り返る

気が付けば、一年も終わろうとしています。
家族のこと、仕事のことは置いといて、自分に関わることで今年思い出深かったことをまとめてみましょう。

今年は久し振りに、自分の作品の演奏機会が多い年でした。といっても思い付くのは4つだけですが。
まず、東京で開催された混声合唱団LOCUSの演奏会で「わらははわらべ」が久し振りに再演。それから、浜松少年少女合唱団の演奏会で私が編曲した「唄・今昔物語 -にほんのうた-」が初演されました。この編曲作品は夏休みにドイツ演奏旅行に行った際にも演奏してくれたそうです。

それから、6月には松下耕さん率いるブリリアントハーモニーの演奏会で、女声合唱曲「ほね」が初演されました。この日は、その後の打ち上げで松下耕さん始め、信長さん、相澤さんなど多くの方々とお会いしお話しする機会があったことも嬉しいことでした。

そして4つ目は、先日のヴォア・ヴェールの演奏会です。
私の指揮で弦楽と合唱のための「うろくずやかた」を初演。詩を書かれた西野りーあさんとも初めてお会い出来ました。
年初めから音取りを始め、9月からオケ合わせを数回。器楽と合唱を並行して練習しながら何とかステージを仕上げるために、練習スケジュールなどいろいろと苦心したことも自分にとっては大きな収穫だったと思っています。

音楽活動以外では、何といっても大きなトピックはフィリピン英会話。
1月には会社の長期休暇を利用して、フィリピンの語学学校に1週間滞在。英語だけでなく(というか、1週間では正直あまり身に付かない)異文化交流とか、フィリピンの猥雑さとか、いろいろなことを体験することができました。同じく語学学校に来ている若者からも大きな刺激を受けました。
その流れで、5月くらいからオンラインのフィリピン英会話を始めました。月5000円で一日25分のレッスンが受けられるという仕組み。こちらは始めてから7ヶ月が経ちましたが、依然としてそれほど語学力は上がらないけれど、英語に対する慣れのようなものは付いてきたような気がします。

英語学習はこれまで何度もいろいろやっては挫折しての繰り返しでした。
Twitterや多くの識者の言説に接していると、英語が出来るか出来ないかで自分の可能性は大きく変わってくるような気がしています。もともと語学のセンスはあまり無いので、流暢な会話が出来るところまでは無理だとしても、何とかコミュニケーションが可能になる程度にはなりたいと切に願っているのです。

あと今年、ある意味最もインパクトのあった出来事は、8月に水ぼうそうになって入院したこと。
息子からうつされたのですが、子供を持つというのはこういうことなんだなと身を以て体験しました。詳細を知りたい方は、上のリンクの記事を読んで下さい。何しろヒドい目にあいました。

ところで、今年は実はほとんど作曲はしませんでした。
今年の後半はむしろ、プライベートでもエンジニアとしての活動を拡げるような活動を始めています。電子音源のソフトウェアを書いてオープンソースとしてアップしたり、ARMのボードを購入して遊んでみたり・・・
実際に形になるかはまだまだ分かりませんが、一人の技術者として、純粋に自分がやりたいことを追求したい、あるいは技術者として音楽に関わり続けたい、という思いでこの活動を続けていきたいと思います。

さて来年は全く大きな予定が無い年です。
なので次なる飛躍のための準備期間と位置づけ、いろいろな逆境に耐えながらも、自分のやりたいことの素地を作っていければ良いと考えているところです。

2012年12月23日日曜日

ラズベリー・パイで何が出来るか、何がしたいか

3000円で買えるARMボード、ラズベリー・パイを購入。その筋では大変な人気で、私も9月末に注文したのに12月になってようやく入手できました。

写真の二つのキーボードの真ん中にある小さなボードが、ラズベリー・パイです。
写真のように、キーボード、モニター、ネットワークを繋げると、コンピュータとして利用可能。ストレージはSDカードを利用します。この中にLinuxをインストールすると、Linuxパソコンとして使うことが出来ます。

とは言え、CPUはARM11の700MHzなので、昨今のPCからは相当性能も低く、普通のパソコンとして使うにはちょっとパワー不足。
では、一体これは何のために使うためのもので、どうして世界中からそれほど人気なのでしょうか?

やや禅問答的な答えですが、それには答えが無い、というのが答え。
元々はプログラミングの教育用に作ったボードということですが、世界中の電子工作マニアみたいな人たちがその安さに惹かれ、何か面白いことが出来るんじゃないか、と考えているのです。

例えば先日紹介したこの本
この本では、3Dプリンタのような機械によって、これまで個人では不可能だったようないろんな製品の試作が、安価に出来るようになってきていることが紹介されています。
これはデジタル回路も同じで、これまでは必要なICの情報を調べ電子回路を設計して、それを元に基板を設計し、その基板を試作し、実際に動かして問題が無いかを検討し、その上で動くソフトウェアを開発してROMデータを作り、基板を製造して製品に載せる必要がありました。とてもこんなことを一人の個人が出来るわけがありません。

ところが、このようにCPUと周辺デバイスがすでに装備された安い基板が出回ると、そこにプログラムを書いて載せるだけで、電子回路を動かすことが出来ます。
もちろん、モニターが必要ないのにモニター端子があったり、ネットワークが必要ないのにLANのコネクタがあったり、といった無駄があるにしても、十分に安くなるのであればこれでいいんじゃない?という判断も成り立ちます。

こういう事態は、20〜15年くらい前にコンピュータ業界で起きたことを思い起こさせます。
それまでコンピュータは大企業しか作れない代物でした。
ところが、マイクロソフトによるMS-DOS、WindowsというOSの出現はハードウェアの標準化を促し、コンピュータのボードがPC/ATという規格に準拠していれば、コンピュータとして成り立つようにしてしまったのです。
結果的に、ハードウェアのコモディティ化が起こり、ひたすら値段だけの競争に陥り、気が付けば誰でも部品を集めればPCを組み立てることも可能になってしまいました。

この流れが、今後は様々な世の中の電子機器に対して起こるでしょう。
様々な機器とは、テレビとかラジカセとかオーディオ機器とかHDレコーダーとか、そういった家庭用電子機器であり、あるいは携帯、デジカメ、スレートデバイス(電子書籍用など)のような持ち歩くデバイスです。

まだ日本の多くの電機メーカーは、そういう機器を作り続けていくつもりのようですが、そのうち世界中の中小メーカーがこういった汎用ボードを使って安い製品を作り出すようになることでしょう。
そして、このようなボードは今やラズベリー・パイだけではありません。
すでに世界中で多くのボードが発売されています。モノも多くなれば、ますます性能は上がり、値段も安くなっていくでしょう。

このようなボードではOSにLinuxを使うのがほぼ標準になってきました。
とりあえず私としては、仕事柄というだけでなく、こういう技術にキャッチアップすることで、何か自分の可能性を拡げてみたいと考えているところなのです。
(まあ、ぶっちゃけ言えば、これを使って電子楽器を作ろうと考えています)

2012年12月9日日曜日

オープンソースでどうやって飯を食うのか?

何度か書いているように、ソフトウェアの世界ではオープンソースという考え方が非常に重要になってきています。
オープンソースはざっくり言えば、コンピュータのアプリやWebのプログラムをそのまま公開してしまうことです。
これまでの価値観で言えば、会社が自社製品の設計図をそのまま公開するなどということはあり得ませんでした。そんなことをすれば、他のメーカーがその技術を盗んでしまい、優位性が無くなると感じるからです。

ところがソフトウェアに関しては、どうもそういう考えは違うのではないか、ということが多くの人に理解されつつあります。
一つにはソフトウェアの量は莫大であるということ。ある技術が以前の技術の上に成り立つような重層的な構造になります。だから、年々ソフトは複雑化し、全ての内容を理解することが難しくなります。設計書を見れば簡単に何をしているか分かる、などということは無いのです。
もう一つは、盗んだ場合、その事実がほぼ明確であるということです。これだけ莫大なソフトウェアの中から純粋にアルゴリズムだけ取り出してそれを拝借するということは事実上無理で、ソフトはほとんど手を入れずに動かさざるを得ません。しかし、そうすれば今度は盗まれたものだということがすぐ分かってしまいます。
ぶっちゃけ言えば、他社の公開されたプログラムを読んで、それを著作権上の問題を回避しつつ、美味しいところだけを盗むということ自体が大変難しいのです。

実際のところ、オープンソースのプログラムを読む人たちは、ほとんど善意でそのプログラムを拡張したり、不具合を直してくれるような人たちです。自分がよいと思うものをより良くしようという健全なモチベーションがなければ、他人の書いたソースコードなんて読みたくもないのです。

しかし、オープンソースは設計書そのものを公開してしまうので、同じものを誰でも作れることになり、そのプログラムを売って商売することが難しくなります。一般的には、プログラム好きな人びとが純粋に世の中の役に立とうと思って、オープンソースを書いていると考えられています。
とはいえ、無収入なのに時間をかけるというのは、仮に趣味と言ったとしても、重要な場所で使われるソフトであれば責任も発生しますから、あまり健全ではありません。それらが広く使われれば使われるほど、本来何らかの報酬があるべきなのです。

以前私は、もういっそのことこういう人たちに税金で食べていってもらったらどうだろう、とか思っていました。
世の中のソフトウェアは全て公開され、そういったソフトが体系立てて保管され、なおかつ誰もが利用できるようになれば、同じようなものを二重に作ることも減りますし、進化のスピードも速くなるし、同じ仕様を実装していてもより良いものが残るようになるでしょう。
そのような目的であれば、それはもはや公共の仕事であるわけで、然るべき収入を世界中の人が保証してあげるべきだと思ったわけです。

もちろん、政府が関わるようなそのような仕組みを作るのは大変なことですし、新たな既得権益が発生してしまうかもしれません。
そして現実には、少し違う流れが起きているようです。
オープンソースとはいえ、それを使いたいと思っている人たちは、プログラムに十分詳しいわけではありません。従って、オープンソースを使って、顧客のニーズに合ったプログラムを作るような仕事が必ず発生します。
そのような人びとは、オープンソースを扱うので、オープンソースそのものに対する開発も行ないます。つまり、顧客に対する最適化を収入源とし、その過程で得た知識でオープンソースそのものの開発を行ないます。

つまりオープンソースを使うシステムは、そのプログラムだけをインストールすれば終わるようなものではダメです。オープンソースは常に目的に対して最適化する必要があり、その部分は個別案件となるのです。そして最適化部分についてはオープンソース化はされません(ライセンスに問題無ければ)。
今のところ、それがオープンソースで飯を食う一般的なスタイルであると感じています。

2012年12月2日日曜日

セカイ系でGO!

先ほどエヴァンゲリオンのQを観てきました。
率直に言うと、セリフの一つ一つはほとんど理解出来ないのですが、エヴァの場合、わざとそうしている面もあって、むしろ私としては大枠の設定の作り方、ドラマの作り方、人の追い込み方、そういったものに面白さを感じました。

こういうアニメ作品群をセカイ系と呼んだりします。
私は決してアニメオタクではなく、むしろマンガ,アニメには全く疎い方です。多くの才能のある人たちがアニメ、マンガで活躍しているであろうことは理解しているのですが、私としては表現のフォーマットの幼稚さがあまり好きではないようです。
エヴァとて、そこで描かれる美少女たちは、ある種の(オタクが喜ぶ)フォーマットに従っていて、そういう部分に関しては私の興味の対象外となっています。

しかし、こういうアニメ、マンガの潮流であるセカイ系という方向性は、実は私自身がその内部に持っているものとほぼ同質のものであると感じるのです。
だから、とてもセカイ系な世界観に共感します。こういった創作物が好きだし、もし自分がある種のストーリー性を持った作品を構想する場合、恐らくセカイ系になるだろうなあと思っています(いい例が、拙作「生命の進化の物語」)。

しかし残念ながら、セカイ系は芸術表現のメインストリームにはなかなかなりません。
それは恐らく、そこで表現される価値観が、非常に冷酷で、人間的な希望の薄いものであるからでしょう。多くの人はそういう創作物に嫌悪感を示すようです。
では、なぜ一部の人はそういうセカイ系的な作品に惹かれるのでしょう。

人は、誰しも幸せになることを求めて生きています。
しかし、イジメにあったり、内向的で人と接するのが苦手だったり、いつも目上の人から怒られていたりして、若く多感な時期にアウトロー的な感性が育ち、人生に何らかの諦観を感じてしまう人たちが一定数います。
この人たちは、自分の不幸を和らげるために、この不幸の理由を正当化、あるいはそれほど不幸ではないと感じるための相対化、といった作業を無意識に行なっていると思うのです。
その結果、社会はそもそも個人に対してヒドく無慈悲で、不安定で、非合理で、とても抗えないような大きな力が全てをコントロールしているのだという感覚を感じるようになります。そうすれば、自分の不幸の原因が説明がつくし、嫌なことも仕方の無いものとして処理することが出来るようになります。

この感覚は、自分以外の他人をシャットアウトしてしまう危険性を持つのですが、その分、激しい感情を抑え、どこまでも理知的な態度でモノゴトを探求しようという気持ちを育てます。
多くの研究者や、哲学家、詩人はこういった人たちであり、こういう人たちがやや付き合いづらい傾向にあるのは、そういうモノゴトの考え方をするからなのではないかと思います。

そして、私自身も、こういった素養を少しばかり持ち合わせています。
自分の想いを伝えようとする時、人類滅亡だとか、何万年もの時間が流れるとか、そういう舞台装置を作って、どうしようもならないことを表現したくなってしまうのです。

そして今でも、一般ウケしないそういう世界観をまだ追い求めています・・・。


2012年11月17日土曜日

過激な変化に対応出来るか?

日本人は新しいテクノロジーは大好きなのに、社会の仕組みや人間関係、道徳的なことに関してはとことん保守的だと感じます。
IT技術は、単なる技術であるうちはみんな大好きだったのです。ところが、IT技術の意味するところは、もっと人間社会を根底から変えるような、社会的、道徳的な変化であるように私には思われますし、それが日本人が超えたくない壁になっているのではないでしょうか。

やっぱり本は紙の本でなければダメだ、とか、人と人は結局、直接会って話をしたほうが良い、とか、私も文脈によってはこういうことを人に言います。
しかし、それはAll or Nothingなのではなく、紙の本で無くても良いものもある、とか、直接会わなくても何とかなる場合もある、のであって、そういうことまで否定してしまうと、変化を受け付けない偏屈な態度になってしまいます。

私たちが今、それが自然だと思っていること、常識だと思っていること、に対して、どれだけ「もしかしてそうでなくてもいいのかも』と思えるのか、そういう柔軟性がこれからは大変重要なのではないでしょうか。

常識だと思うことを疑ったら、という身近な例を一つ。
例えば、通常新商品を開発する場合、新商品を開発していることは秘密にされます。
もし今開発中である、ということを公開すれば、現行の製品が売れなくなる可能性があります。何かを製造して販売する会社であれば、多くの人が先行開発に関わっているし、販売する前には工場においてもたくさん製品が作られます。もちろん、お店に流通するまでにも多くの人たちが関わります。こういう人たちに秘密を強要するのは大変なコストがかかります。

それを最も過激にやったのがアップルで、ある商品が発表されると翌日から店で買うことが出来る、というとんでもないことを最近までやっていました。
相当な人数に対して箝口令が敷かれていたわけですが、そのために費やしたコストもバカにならなかっただろうし、そのコストを回収出来ていたのかもやや疑わしいです。
一般的には、発売一ヶ月くらい前に新商品を発表し、そこから流通を始めるくらいが秘密を守れる限界といったところと思われます。

しかし、いっそのこと新商品の開発を開発している間、全て公開してしまったらどうでしょうか?
そんなことをしたら発表時の新商品の驚きも無いし、逆に世間の食いつきが悪くなってしまうと思うかも知れません。また、新しい技術や仕様が事前にわかってしまうとライバルメーカーを利することになると思うかも知れません。

同じ業界にコンペティターが数社の場合なら確かにそうかもしれません。しかし、それが数百社あって、どの会社もそれぞれ固有の顧客を確保している場合はどうでしょう。
また、IT技術の進展で、お客と会社がダイレクトに繋がり、意見や要望を企業が聞いたり、逆に使い方の啓蒙を企業側が直接個人のお客に行なうようになれば、秘密にしていることが逆によそよそしい関係を促してしまうような気がします。

自分の仕事の過程を全て公開することは、仕事の質を高めます。すでにソフトウェアの世界ではオープンソースによる技術が一般的になり、企業で作られているソフトウェアより開発のスピードも速く、十分な品質が得られています。これは常に他人から見られていることが質を上げる効果に繋がっているものと思われます。
また、この過程を公開することによって、それが一種の宣伝効果になる可能性もあります。新しい技術をどのように実装して、どのような問題が起きて、どのように解決したのか、そういうことをリアルタイムで見ている人は開発の臨場感も得られるし、そうやって出来上がったモノに対しても何らかの愛着を感じるかもしれません。

私自身は、大企業でないのなら、新商品開発を秘密にするメリットはほとんど無いと感じていますし、逆にそういうことが一般的になってくれば、大企業こそ秘密で冷たい感じを抱かれるようになり、よほど優れたものでない限りはかえってマイナス効果になるのではないかという感じさえあります。

上の例で言いたかったことは、IT化により「秘密にする」ことがどんどんデメリットになっていくのではないか、ということです。そして、私たちが今、秘密にすることが当たり前だと思っていることでも、いつかはそれが当たり前ではなくなっていく可能性がある、という一つの例として挙げてみました。

IT化はそのような過激な変化を私たちに突き付けているように思えます。
私は結構過激な変化について考えることを好きなのですが、皆さんはいかがでしょう?


2012年11月12日月曜日

未来の音楽

似たようなことは何度も書いているような気がするけれど、またまた、これからの音楽のことを考えてみます。

何を言いたいかというと、一つは楽器のこと。
音楽を奏でるには楽器が必要です。楽器にも長い歴史がありますが、音楽が世の中に広まるためには、楽器の標準化や音楽を伝達するための手段の標準化が必要でした。
その過程で、楽器や編成が世界中似たものになってきたのがこれまでの歴史。クラシックならオーケストラという単位があるし、ポピュラー音楽ではバンドの編成もだいたい決まっています。

ところが、映像と音が簡単に伝えられるようになって、楽譜のような演奏記号でなくても音楽を伝えられるようになり、またネット上でそれらが蓄積可能となりました。これは結局音楽の標準化の歩みを止めさせ、楽器はむしろ多様性を求めるようになり、一度標準化された編成や演奏記号は逆にこれから段々解体していくのではないかという気がしています。

実際、特殊な楽器を演奏したり、そもそも楽器でないものを楽器として演奏したり、ピアニカや縦笛のようなシンプルな楽器を取り入れたり、というような音楽を聞くことも増えてきました。
これからは、演奏する人が、どんな曲をどんな編成でどんな楽器で弾くのか、そういうことをゼロから考えなければいけない世の中になるのではないかという気がするのです。このような時代にはむしろオリジナル曲だけではなくて、過去の音楽の編曲なども流行ることになるでしょう。

よくナンバーワンよりもオンリーワンで、などと言いますが、まさにそういった状況です。みんながピアノを弾いていれば、その中で優れた演奏家であろうとすると、もうとてつもなく上手でなくてはいけませんでした。ナンバーワンの世界です。
しかし、誰もが違う楽器を弾くようになれば、テクニックそのものよりも、その楽器で何をどんな風に表現していくのか、そういう演奏家のオリジナリティが問われるようになります。それがオンリーワンに繋がります。


もう一つ私が思っているのは、商業音楽が終焉を迎えるのではないかということ。
もちろん、今後もある一定の量でアイドルや有名トップアーティストが商業的に成功することはあると思います。
しかし、音楽はこれからますます多様化の一途をたどり、通常の音楽家はそれだけで飯を食っていくことは不可能になるでしょう。ほとんどの音楽家はアマチュアであり、彼らの名声は売り上げでなく、ネット上の再生回数などで競われるようになっていくと思います。

上記の、楽器の自由、編成の自由、それから商業音楽が無くなっていく、というトレンドは、音楽にとってむしろ良いことだと感じます。
世界中に再び多様な音楽が花開き、オリジナリティを求めるために、さらに音楽家一人一人が多様性を押し広げるような未来。
今の音楽とはまた違うけれど、面白い未来の音楽はすぐ目の前まで来ているのではないかと感じています。

2012年11月3日土曜日

MAKERS/クリス・アンダーソン

「ロングテール」「フリー」でITビジネスに関する大きな話題を提供したクリス・アンダーソンの新著。
この本では、インターネットの本当の威力は、それがモノ作りに影響を与えるときだといい、それがこれから本格的に始まると語ります。

ITが世界を変えたといっても、それは所詮ウェブ上のサービスでいろいろな事務仕事が効率化された、というだけのこと。
実際の経済活動で最も大きな要素は、何かモノを作ってそれを売ることであり、モノを作る以上は工場が必要であり、現状ではその世界まではITの影響があまり及んでいませんでした。

ところが、これからはIT革命がモノ作りに及んできて、経済活動全体に大きなインパクトを与えるだろうとのこと。大企業が工場を動かさなくてもアイデアと能力があれば、少人数でもそういったビジネスを起こしやすくなる環境が整のってくるだろうと予想しているのです。それは、産業革命と比較されるくらい大きな変化を世界に与えるのです。

この本の興味深い点は、今現在起こっているたくさんの例が書かれているということです。この例を読むだけで、世の中がスゴいスピードで変わっているということが分ります。
とは言え,これらは全てアメリカのこと。恐らく日本ではこのムーブメントはまだ非常にか弱い状態にあります。それは恐らく技術力とかの問題では無く、政治の問題だったり、大企業のガバナンスの問題です。
つまり、政治や大企業がそのような新しい世界をきちんと理解しない限り、社会全体がなかなかそちらの方向には向かないのではないかという懸念を感じてしまうのです。

では、そのアメリカでは何が起こっているのか。
なんとクリス・アンダーソン自身が自動操縦できる模型飛行機を作って、それを数億円規模の事業に成長させたようなのですが、その例が克明に紹介されています。
ポイントは、開発をオープンにするということ。ソフトウェアを公開してしまうオープンソースはもちろんのこと、模型飛行機の設計図自体も公開してしまいます。オープンハードウェアです。そして、この公開された設計図を多くの人が閲覧し、修正してくれるためのコミュニティを作るのです。

このコミュニティに参加する人は従業員ではありません。
模型飛行機が好きな純粋なマニアであり、むしろ消費者側にいる人たちです。彼らが積極的に開発過程に関わってしまうのです。一人一人がマニアなので、語られる内容も濃いし、本当に自らが欲しいと思うものに近づけようとします。
開発コストはほとんどタダだし、コミュニティ自体が宣伝・営業としても機能します。コミュニティに対する貢献度合いによって多少のサービスは提供されるのですが、それでも自分のアイデアが製品に採用されるだけで、コミュニティに参加している人は大きな満足感を得られます。

開発をオープンにして、消費者を巻き込んだコミュニティを作る、などという発想は今の日本企業には求めるべくもありません。
それは、モノ作りかくあるべし、みたいな古くさい発想から逃れることが出来ないくらい頭が固くなっているからです。

後半では、すでにアメリカで大きなビジネスになっている各種サービスが紹介されています。
例えば、MFGドットコムという企業は、設計図を送るだけで、たくさんの工場からの見積もりを集めるというサービスを行なっています。つまり、自分で設計書まで作ることが出来れば、後は一番安く作れる工場を簡単に見つけることが出来るのです。
ITサービスを使ってこのようなサービスが一般的になるということは、モノを作るあらゆる行程が断片化され、ビジネスとして成り立つような環境に変わっていくということです。

この例のポイントは、設計図のフォーマットが標準化されている,という点です。
モノ作りの行程の各ポイントにおいて、その仕事依頼のフォーマットが標準化されれば、その部分はあっという間にITサービス化することが可能になります。
そして、そこに凄まじい単価ダウンのための効率化が働くことになります。現在大企業において自分の中に閉じている行程が、ある時点でオープン化された環境よりも非効率になると、大企業は瓦解し、世の中は中小企業の集まりだけで構成されるようになるのではないか、という類推も可能になってきます。

そういえば、私も以前こんなことを書きました。
私が想像したこんな世界が、もうそろそろ起こると思うと、ちょっと怖い反面、ワクワクしてくる気持ちもあるのです。


2012年10月27日土曜日

楽譜を読む ─守るべきことと守らなくてもいいこと─

「楽譜を読む」と題して、演奏家が作曲家の書いた楽譜をどのように読み解くべきか、私なりの意見を度々書いています。

楽譜にはいろいろな情報が書いてありますし、書いてないけど自明なこともあれば、書いてあってもあまり守られていないこともあります。
しかしそのようなことに自覚的であるか、無自覚であるかでは演奏の解釈に差が生まれてきます。

無自覚に感覚的に楽譜を処理する人たちは、むしろ保守的な演奏しか出来ません。他人の演奏を基準に自分の解釈を考えるからです。
楽譜の意味を丹念に読むことは、逆にエクセントリックな解釈になる場合があります。ある種の原理主義に基づいた解釈は、度々慣例を覆すことがあるからです。何となくみんながそうしているから・・・に対して風穴を開けることは勇気のいることですが、それでもそのような原理主義を通すことは芸術活動にとって尊敬すべき態度だと私は考えます。

では、他人の演奏に影響されず、楽譜に書かれている意味を忠実に読み取ろうとする場合、何を重要視すべきでしょうか。
一部はすでに何回か書いていることですが、私は以下のように考えます。

1.音楽である以上、記譜された音符の音高と演奏タイミングは完全に守るべき。
2.強弱、テンポ、アーティキュレーションの指示は、基本的にその相対性を守るべき。
3.上記の強弱、テンポ、アーティキュレーションの絶対値は、演奏の状況で変化しうる。
4.音価、発想標語、フレージングの指示などはその意味を十分咀嚼した上で、演奏者がある程度柔軟に解釈すればよい。

では一つずつ解説。
1は、要するに勝手に楽譜の音を変えたり、演奏タイミングを変えたりはしてはいけない、ということ。もちろんある区間をまるまるカットするとか、楽曲の構成に関しても同じです。
もし例外があるとすれば、楽譜に誤植の可能性がある場合、また有節歌曲のような構造で途中を省略しても一般的に許されると判断出来る場合、といったところでしょうか。
それでも敢えてそういう行為をやる場合、作曲家の書いた音符・構成を変えてしまうのですから、それなりの覚悟はして欲しいものです。

2は、例えば、あるフレーズAがピアノで、次のフレーズBがフォルテだった場合、Bは必ずAより大きくなくてはいけない、ということです。これが相対性を守るということです。
ただし、ピアノの音量とフォルテの物理的な音量は演奏者数やパートバランス、演奏場所、その他もろもろの理由で十分に変わり得ますし、そもそも物理的に測定して同じになるはずがありません。つまり守るべきは楽譜に書いてある記号の相対性なのです。
同じことは、テンポやアーティキュレーションについてもいえます。
例えば、あるフレーズのいくつかの音符にスタカートがついていたとします。その場合、スタカートがついた音符は、ついていない音符の長さより短くなければいけません。他の音符がもっとスタカートがついてしまっている場合、楽譜で指示されている相対性が崩れます。それは、作曲者が頭で思い描いた音像とは違っているはずです。

3は、上記2を言い換えたものでもあります。
上でも書いたように強弱、テンポ、アーティキュレーションは、絶対的な物理指示とすることはほぼ不可能です。まず、それを演奏家は自覚すべきです。
だから、ホールの音響や演奏者数によって、テンポの全体的な速さは変わっても構わないのです。さすがにテンポが指示より5割増くらいになると音楽の印象も変わるので、そこも程度問題ではありますが。

4.は、まさに演奏者が自分の独自性を発揮できる箇所だと考えます。
例えば、楽譜にMaestoso(マエストーソ)とあったら、どのように演奏すべきかは、演奏家に完全に委ねられます。そしてそこにセンスの差が現れます。
音価は基本的にアーティキュレーションとも絡みますが、音の切り方のタイミングや、フェルマータの延ばし方、フレーズの収め方によって必ずしも楽譜通りでなくても構わないと思います。作曲家にもよりますが、通常はそこまで厳密に音の長さを制御しているわけではないと思われます。
フレージングというのは、スラーの切れ目とか、音符の旗の繋がれ方とか、そういった楽譜上の指示です。楽譜に書いてあるからその通りに、ではなく、一度これが何を言いたいのか咀嚼した上で、言いたいことがきちんと表現できているのであれば、ある程度自由な解釈は許されるものと考えます。もちろん、それが演奏者のセンスになるわけです。

意外と多くの人は、他人の演奏を聞いて、それに影響されているものです。特に名作とされる曲ほど多くの人が演奏しており、楽譜に書いてないのに慣例的に勝手に付けられるような表現もあります。
しかし、みんながやってるから・・・ではなく、やはり自分がなぜそうすべきと考えるのかきちんとした見識を持って判断すべきです。


2012年10月20日土曜日

アマチュア演奏家の創造性

芸術で何が大事かと問われれば、私なら創造性と答えます。

ところが、ほとんどの芸術愛好家はアマチュアであり、音楽でいえば、アマチュア演奏家の演奏レベルは一般的には高くはなく、日々プロのような演奏技術に向かって精進を重ね、プロと同じような演奏が出来るように努力をしています。
このような態度は、良い手本に向かって自分をそれに近づけようとする行為に繋がり、独自であることを追求する創造性と根本的なところで矛盾を引き起こします。

このような表現をすると、技術的に鍛錬することと創造性は矛盾しない、と言われる方もいるかもしれません。ただ、文脈にもよりますが、私は精神論を述べるつもりは無いし、技術論とオリジナリティが不可分であることも理解しています。
それでも、アマチュアであるほど、技術指向であり、硬直的なあるべき論を招くことが多いように感じてしまうのです。

また、一般的にはオリジナリティを追求しようとするアマチュアに対して人々は冷ややかです。
世界中どこであっても、音楽演奏に求められるものは、みんなが知っている「あの曲」を演奏することであり、それによってお客さんの郷愁を得るような行為です。
だからアマチュアが演奏するオリジナル曲などほとんどの人が期待しないし、既存曲をちょっと独自なアレンジなどすれば怒り出す人も出てくることでしょう。

そういうことが当たり前だと思うにつれ、音楽演奏とは既存の音楽をあるべき理想像に向けて、努力して鍛錬して磨き上げていくことである、というふうに無意識のうちに規定していくことになります。
そして、そこからはオリジナリティ、創造性という要素がどんどんこぼれ落ちていく可能性が出てきてしまうのです。

表現者である以上、自分を表現したいという気持ちは誰にもあり、その中に自分ならこうするという要素を盛り込もうとするとき、それを自制する圧力がどのくらいあるか、というように言い換えてもいいかもしれません。
こんなにテンポを変えたら非難されるだろうなあとか、楽譜にスタカートが無いのにほとんどの人がスタカートで演奏してるからなあとか、尊敬する先生はこんな風には解釈しないだろうなあとか、自分の判断を曇らせる要素はたくさんあります。こういう考えにまみれているうちに自分の表現だと思っていたことが、実はほとんど借り物であり、狭い世界の価値観で染められたものになってしまう可能性があります。

一般にプロと呼ばれている人であっても、オリジナリティ、創造性という点においてはあまりパッとしない人もいます。
ポピュラー音楽の世界ではそれが非常に顕著で、世の中には多くのミュージシャンと呼ばれる方がいますが、プロとして生活していても彼らのオリジナル曲は中には非常につまらない音楽もあります。確かに、演奏はプロレベルなんですが・・・
こういう方々は、アマチュアの成れの果てのプロ、のように私には見えてしまいます。

私は優れた演奏技術よりも創造性の高い芸術を好みます。
世の中では必ずしもそうでなく、演奏技術が高いだけで評価されてしまうことも多いですが、テクニックはあくまで手段であり、芸術が精神的な活動である以上、その先に見えるものに価値があると思っています。

だから、私はアマチュアであろうがプロであろうが、その創造性に関心があります。
私が多くのアマチュア演奏家の演奏が面白く感じないのは、そこに創造性があまり感じられないからです。あるいは、そこで表現されるオリジナリティのセンスが低いからです。

演奏家として人前でパフォーマンスする以上、私とは何者か、何を目指して、何を表現したくてこういう活動をしているのか、そういうことを自問自答して欲しいのです。
それが全てのオリジナリティの出発点だからです。
そういう問いかけ無しに作り出す音楽には、芯がありません。確かにキレイに作れば賞賛してくれる人もいるだろうし、技術的な要素だけを褒めてくれる人もいるかもしれません。
しかし、年齢で劣ってしまう技術もあるだろうし、やはり芯のない活動は長続きはしません。
一生音楽活動を続けていくのなら、自分は何をしようとしているのか、自分独自のものは何か、を問い続けて欲しいし、そこから初めてオリジナリティや創造性が生まれてくるとのではないでしょうか。
プロ、アマチュア関係なく、そういう態度で演奏活動をする方が増えてほしいと心から思っています。

2012年10月13日土曜日

私たちが欲しかった技術

今は、技術の価値観が大きく変化している状況ではないかと私は感じています。現状では、古い技術の価値感を持っている人と、新しい技術の価値観を持っている人が混在しているように見えるのです。
どんな価値観が古いのか、そして新しいのか、私の思うところを書いてみます。

これまで科学技術の発展は、より高性能に高機能になることでした。
蒸気機関以来、機械は自動で動くようになり、ひたすらその性能は上がってきました。より速く、より安定し、より効率の高いシステムが作られ、利用する側はその性能の向上を体感することが出来ました。
例えば自動車は、年々スピードが速くなったし、馬力も出るようになったし、乗り心地も良くなりました。こういう価値観は80年代、90年代くらいまでは確実に正しかったように思います。

今でもこの価値観が正しいのはコンピュータや通信網の性能です。
未だにCPUは高性能化を目指していますし、通信インフラもどんどん高性能、高品質になってきています。年を追うごとに私たちはそれを実感できます。

ところが、この高性能、高機能であること、が確実に古い価値観になってしまったものもあると思います。
最も顕著なものはAV機器です。かつては高性能なAV機器が売れていましたが、今ではコモディティ化が進み、AV機器の値段はだいぶ下がってしまいました。AV機器において高性能、高機能が古い価値観である、という考えには異論はあるでしょうが、私見によれば異論をいう方は古い価値観に囚われている人たちのように思えます。

確かにYouTubeでは低品質な映像や音声が溢れています。
しかし、これはほとんどデータをアップした側の問題であり、インフラとしてはある程度の品質を持っているはず。
テレビにいたっては、各メーカーがどれほど高画質か謳っても、もはやその差は好みの域を出ないように感じます。もちろん、何らかの基準上では数値は良くなっているのでしょうが、それは消費者としてそれほど価値あるものとは思いません。

ここ十数年のIT技術の発達は、こういうAV技術の価値観をすっかり変えてしまったように感じます。
当たり前ですが、多くの人は映像や音声の質そのものを楽しむわけではなくて、それで伝えられるコンテンツを楽しみます。だから、コンテンツを楽しむことを阻害する要因が取り除かれていればほとんどの人はそれで十分なのです。
例えば、テレビドラマを楽しむ人は、ドラマの会話が聞き取れれば十分で、超高音質の音声などそれほど必要ありません。
また、画質についても子供向けのアニメを見たい人と、雄大な自然美を映像で見たい人では、価値観が相当違っているはず。もちろん後者の方が古い価値観を持っている確率が高そうです。

ある程度の高音質や高機能が達成された今、ほとんどの人は現状のスペックで満足できるレベルに来てしまいました。
では、今重要な価値観とはなんなのでしょうか?
私が今後技術として重要だと思う価値観は、例えば「すぐに使える」「どこでも使える」「誰かと感動をすぐに共有できる」「自分でも作れる」といったものです。

例えば100型のテレビは素晴らしい映像体験を与えてくれるでしょうが、持ち歩いてどこでも見ることは不可能です。
ましてや、感動をすぐに伝えたいとき、それはPCでインターネットでやればいいからテレビは関係ない、と言ってしまえば、この価値観は追求さえされません。

音や映像の再現技術に関しては、もはや基本性能は人々が十分満足できるレベルに達してしまいました。ですから、こういった領域においては、上で言ったような新しい価値観の技術を考えていくべきだと思います。

全ての高性能化を目指している技術者の皆様へ。
その価値観を改めて、新しい価値観で新しい技術を考えてみませんか。


2012年10月6日土曜日

未来を(ざっくり)予測してみる

先日紹介した「ワークシフト」ですが、そこには2025年という比較的近い未来について、いろいろな予測をしています。
この本を読んで私もいろいろ勉強になったし、自分が思っている以上に世の中は変わるかもしれない、という気になってきました。
そこで、もう少しスコープを狭くして2020年頃の日本ってどんな感じなのか、「ワークシフト」を参考に自分でも考えてみます。

まず悲観的なことから挙げていくと、国や自治体の財政破綻が現実的なものになっていくのではないかと思います。
私は経済については門外漢なので、その結果円がどうなるとかは分りませんが、少なくとも破綻手前になれば支出を減らさざるを得ないため、国や自治体のサービスはどんどん悪くなっていくのではないでしょうか。

あと先日、台風で停電になったのですが、今年になって2回目です。
ここに住んでから3回目。正直言って、確実に電力の環境は悪くなっているように思います。今、日本では電力会社は原発を動かしたくても動かせず、火力発電を増やすため石油の輸入が増えていて、それが電力会社の収支を悪化させています。
反原発運動から電力会社もだんだんと力が衰えてくるような気がします。結果的に起こるのは電気インフラの品質低下です。もっとありていに言えば、停電の頻発や電力の不安定さなどが起きるかもしれません。

今日本のいくつかの電機メーカーは大変厳しい状況にありますが、それは益々拡がっていくでしょう。リスクを恐れて新しいことが出来ない体質がすっかり染み付いてしまっています。いろいろな市場で外国勢が強くなり、少なくとも電機製品の多くは日本製で無くなっていくのではないでしょうか。
また、自動車も電気自動車が主流になって、IT化が進めば、外国の新興自動車会社が一定のプレゼンスを持ち、やや過当気味の日本車メーカーのいくつかは厳しい状況に追い込まれると思います。

街には失業者が増え、犯罪が増えていっても警察も十分に取り締まることが不可能になります。こういった状況は、今まで日本ではお目にかかれなかった、暴動のような現象を起こすきっかけになるのではないかと思います。
こういった治安の悪化は経済にも悪影響を与えます。これまでの安全な日本では想像できないような治安の悪い社会にだんだん移行していくような気がします。


良いことは無いのでしょうか?
一つあるとすれば、IT化、クラウド化が進むことによって、ネット環境が充実するということ。それに伴い、あらゆるサービスはクラウドに移行していくでしょう。
サービスが向上し、ネットさえ使えれば便利な世の中になっていくと思います。また、こういったサービスを提供するビジネスが経済を支えることになるかもしれません。

経済が悪くなりお金をあまり使わなくなれば、モノを買うということも減っていきます。
これは、使いたいときだけに借りる方が合理的だという考えに繋がっていきます。個人は自分が所有するようなモノは持たなくなり、周辺の人と必要なものをシェアするという考え方です。
もちろん、モノを買わないようになれば、それを売っている人たちにとってはモノが売れなくなり厳しい状況になります。つまり、諸刃の刃ではあります。

上で言った良いことは、実は旧来の大企業にとってはあまり良いことではありません。
クラウド化はデータがオープンなら非常にメリットがあるのですが、企業のように閉ざされた環境で使おうとするとセキュリティの問題などがあり途端に面倒なものになります。今や一般のサービスより社内のシステムの方が遅れていたり、使いづらいものだったりします。
こういったことを考えると、大企業という仕組み自体が時代遅れになるのではないでしょうか。すぐに無くなるわけではありませんが、少しずつ有名な大企業が規模を縮小したり、分解されたりするようなことが起きていくと思います。

全体的に言うと、社会は悪くなる感じはするのですが、世の中は常に変化していくのであり、ある社会が良くなったり悪くなったりするのは世界の歴史を考えてみても当然のことです。
しかし、個人の観点で言えば人によって幸せの内容は個別であり、必ずしもみんなが不幸になるというわけではありません。
むしろ、個人を縛っていた集団の圧力が減って、能力のある個人が生き生きと活躍できるような社会になっていくような気がするのです。


2012年9月22日土曜日

未来を予測する力

視野(スコープ)の広さには時間感覚の要素も重要だという話。もう少し、思うところを整理してみたいと思います。
モノゴトの知覚を空間と時間に分けたとき、空間とは同時に存在しているモノゴトの状態を知識として知っている状況であり、時間はそれらのモノゴトが計時的にどのように変化していくかを把握すること、と考えられます。
つまり、空間の知覚とは知識ベースであり、時間の知覚とは未来予測と言い換えることが出来ます。この時間ベースの知覚について、もうちょっと考えてみたいのです。

夏休みの宿題の例での1ヶ月の行動の無計画さの話は非常に象徴的なのですが、これとは逆のパターンもあるでしょう。
例えば、夏休みの過ごし方について計画を立てろ、というような命令を受けたとします。夏休みに入る事前に、各自が自分の夏休みをどう過ごすかについて自分なりに計画を立てるわけです。
そうすると、人によってはとても立派な計画を立てます。立派な、というのは、例えば一日8時間勉強するとか、朝起きて寝るまでのスケジュールがびっしり詰まっているとか、そういう状態です。
本当にそれが実行できるのなら大したものですが、世の中には不測の事態もあるし、いつもの自分の行動を考えればそれが非現実的なものである可能性はあります。

もっとも、立派な計画を立てるとそれだけで見る側も喜んでしまう側面もありますが、計画なのだからその通り遂行されてナンボのものでしょう。本質的に考えるならば、実現不可能な計画を立てることは、もちろん良いことではないはずです。

このような事態は未来予測をする力の不足から来るものです。
ある程度予測する力がある人から見れば、「本当に出来るの?」と言いたくなります。もちろん出来るわけないと思っているわけです。ところが当の本人は、やれば出来るなどと信じきっています。
こういうことは経験を積むことで改善することもあるのでしょうが、やはり根本的に計画を立てることが苦手なタイプの人はいるような気がします。

一つには、計画を立てる、という行為がどれだけ自発的なものか、という尺度はあり得ます。
あるプロジェクトが非常に大きければ大きいほど、その実現性の判断は難しくなるので、内容を分割して計画を立てる必要が出てきます。
この必要性を感じられる人は、自発的に計画を作ります。自発的に作るから内容もリアルです。実現性こそが第一です。
しかし、このプロジェクトを行なうのに、計画書を出さなければいけないから、仕方なく計画書を作る、というモチベーションだと内容は美辞麗句ばかりで、とりあえず文句を言われない内容にしようという意志が働きます。

こういうトラブルは世界中、日常茶飯事なのでしょうが、結局はそれを統べる人の未来を予測する力の有無に関わってくるのではないかと思えます。もちろん、それがその人の力量ということになるわけです。

未来を予測する力には、他人の未来を予測する力を予測する力も含まれます。
ある人の未来予測能力の精度が低いと判断すれば、その人の担当範囲を敢えて小さくしてやり、短期的な目標設定を行ないます。ある人の未来予測能力が高ければ、より裁量を増やして内容の多くを任せるようにします。こういうことを個別最適で行なえば、より効率的なプロジェクト運営が行なえると考えられます。

結局世の中は人の集まりで出来ているので、人による性能差を無視して未来予測をすることは不可能です。ましてや、ある組織や人々を一括りにして、普通こんなことは出来るはずだ、とか、こんな考えはあってはならない、とか、そういう決めつけも非常に危険なことです。
視野(スコープ)の広い人は、そこにいろいろな人がいることを想定した上で、だから人々はどう動くのか、そこまで考えているのではないでしょうか。



2012年9月15日土曜日

視野の広さとは

普通「視野が広い」というのは褒め言葉として使いますが、その意味するところは結構人によって解釈が違うのではないかと思います。

以下はあくまで私自身が(わりと)視野の広い人間であると自負した上で、視野の広さの意味するところを語ろうとする試みですので、そうした偏見が文章にまぶされていることを考慮した上でお読みください。


視野が狭い人は、「視野の広さ」を単に物知りのことだと思う傾向があるのではないでしょうか。つまり、「自分の知らないことを知っている→自分の知らない広い世界を知っている→視野が広い!」という思考パターン。知識は無いよりあったほうがいいですが、それは視野の広さのごく一部を表現しているだけのように思えます。

視野というと「見えるもの」という視覚的な意味が強いので、これ以降「視野」でなくて「スコープ」という言葉に替えます。つまり「スコープが広い」という意味について考えてみたいと思います。

スコープの広さ、には大きくわけて二つの要素があると思います。
それは空間と時間です(相対性理論を論じようとしているわけではないですが・・・)。空間というとちょっと意味が分かりづらいかもしれませんが、私の意図するところは、今みんなが共有している時間で起きていることをどれだけ広く把握しているか、というような感覚。
次に時間というのは、今この場が時間でどのように変化していくかをどれだけ正確に予見できるか、というような感覚です。

なぜこのようなことを言うかというと、多くの人はスコープの広さを空間的なことだけと考えがちなのですが、実際には「時間」の要素を感じられる能力が非常に重要ではないかと思うからです。
最初に言った、視野の広さを知識量だと思ってしまう人は、まさに今この世にある現実をどれだけ知っているか、つまり空間的なことにしか興味が無いように思えるのです。


子供を持って気が付いたのですが、子供は運動能力が増すに従い、まず自分の身の回りの空間の把握をする努力を始めます。しかし、時間という概念を理解するのにはやや時間がかかります。
どんなオモチャがどこにあって、どのように遊んだらよいかとか、どこに危険があってそれを避けるようになるとか、そういうことは脳は早いうちから少しずつ覚えます。ところが、そのオモチャを数時間前にどこに置いたかとか、この場所で転んで痛い想いをしたのはいつだったか、ということは1〜2歳頃までは記憶していないように見えます。
2歳くらいから言葉は話し始めますが「前、〇〇したでしょ」みたいな会話は最初のうちには全く成り立ちません。今自分がどうしたいか、という会話しか最初はありません。

3歳になるちょっと前頃から、「前に見た」とか言うようになりますが、昨日とか今日とか、そういう時間感覚がお互い共有できるようになったのはつい最近のことです。(今3歳三ヶ月です)
しかしまだ、曜日は覚えられないし、当然一月とか季節とかというような時間感覚は持ち合わせていないようです。子供によって時期は多少差はあるかもしれませんが、時間感覚を持つというのは、非常に高度な能力ではないかと私には思えます。

もちろん大人になれば、さすがにそういう時間感覚は持てるようになります。
ところが、もう少し高次なレベルの時間感覚になってくると、人によって差が出てきます。例えばよい例は、夏休みの宿題。時間的なスコープを広く感じられる人は、後で苦労することが分っていれば、そうならないように宿題を早く片付けてしまうか、計画を立てて行ないます。
もちろん宿題をやらなければ夏休みの後半に苦労することは理屈では分っているけれど、ついついそうなってしまう人も(たくさん)います。私は、これはスコープの狭い人の特徴だと感じます。

嫌なことを先送りして上手くいくことはまずありません。たいていの場合、モノゴトを上手く進めるもっとも良いやり方は、嫌なことを先にやることです。
スコープの広い人は、それが分っているから、そういう行動を取ろうとします。また、そういう視点で世の中を見るので、世の中で起きていることが上手くいくかいかないかということを比較的高い確率で予言できます。
あるプロジェクトがきちんと仕事をやっているかどうか、そういう情報の断片が入ってくるだけで、そのプロジェクトがうまくいくかどうか判断出来るのです。
結果的には、世の中がどのように動いていて、何がどのように変わっていくのかを読む力がつきますし、それがスコープの広さとして現れるのではないかと思うのです。

まとめると、夏休みの宿題をついつい後回しにしてしまうような人は、視野(スコープ)の狭い人間になっちゃうよ、というお話でした。


2012年9月8日土曜日

自分の持ち時間

私もだんだんいい年になってきて、これから自分はどうあるべきなんだろう、などと殊勝なことを考えたりします。
仮に何か新しいことを始めるにしても、そこに至るまでいろいろ勉強したり、何かを調べたり、多くの人と知り合ったり、という地道な努力が欠かせないはずですし、もちろん、今と同じ仕事を続けたり、合唱活動を続けたりしていく上でも、自分がどうありたいのか、という目的意識を持つのと持たないのでは将来の自分の在り方に違いが出てくることでしょう。
そう考えると、今自分の持っている時間を何にどう使うのか、ということをかなりはっきり意識した上で意図的に行動すべきではないかとふいに思ったのです。

具体的な数字で考えてみます。
一年は365×24=8760時間。
わざわざ一時間単位にするのは、自分の行動を一時間単位で把握するため。そのほうが現実の行動としてのリアリティを感じると思うからです。
では、この8760時間を私は今どのように過ごしているのでしょうか?

まず睡眠の時間はどのくらいでしょうか。私の場合一日の四分の一強、といったところ。
お風呂やその他もろもろの睡眠前後の時間を引いて、残りの持ち時間を6000時間くらいとしましょう。

食事、会社の休憩時間、移動時間・・・これは、生活に必要なものではあるけれど、内容を工夫すれば役に立つ時間にすることは可能かもしれません。こういった時間が1日に2時間くらい。とすると、700時間くらい。

そもそも、会社で仕事している時間はどのくらいでしょうか。
労働日数220日(?)に、やはり多少の残業はあるので9〜10時間をかけて、だいたい2000時間くらい。

そう考えると、私の場合この時点でまだ持ち時間の半分弱くらいしか使っていません。
もちろん、今は週末は子守りが多く、家族と過ごす時間も2000時間くらいは使っているでしょう。(平日2時間、週末6時間くらい?)
あと、合唱関係は、週一回の練習とときどきある週末のイベント、移動時間や関連する交流時間などをいれて200〜300時間くらい?。今は非常に少ないですが、子供が生まれる数年前はこれが1000時間くらいいっていた時期もあったように思います。

さて、後残りは1000時間くらい。
この時間を、テレビや雑誌からの情報収集、読書、ネット上での情報収集やコミュニケーション、自分の勉強(IT、英語など)、作曲やアプリ開発・・・といった時間にあてていることになります。

今はこの残りの1000時間をどう充実させるかが自分にとって重要だと思っています。
このように考えるとキュウキュウに生きているようにも思えるけれど、まだまだ楽して生きていきたいなどと思うのは早すぎます。
一日当たり2時間強の自由時間を、さてどのように使っていきましょうか。


2012年9月1日土曜日

ワークシフト/リンダ・グラットン

某所で課題図書となっていたので、早速入手して読んでみました。

上のブログでも書かれているとおり、これから数年くらいのうちに社会に大きな変化が起きるのではと私も思っています。
そんな折、私たちはこれからどのように働いていくべきか、について言及したのがこの本。この本では、私たちの働き方において、三つのシフトを実現すべきだと言っています。一つ目はスペシャリストになれ、二つ目は有用な人間関係を築け、最後は消費を美徳とする価値観から転換せよ、という三つのシフトを著者は主張しています。

この本の面白い点は、非常に構造的な内容の構成にあります。
まず最初の第一部では、現在進行している様々な兆候から未来はどうなるかを推測します。著者が予言する未来は、5つの大分類と32の項目として箇条書き的に展開されます。
次の第二部では、「漫然と未来を迎えてしまった人」がどのような未来の生活を送っているかを三人の例で具体的に描写します。その未来は2025年。それほど遠くない未来です。
第三部では、逆に「主体的に未来を築いた人」がどのような仕事の仕方をしているのかを同じく三人の例で具体的に描写します。
そして、最後の第四部で著者が主張したい三つのシフトについて詳細に説明します。

真ん中の第二部、第三部の具体例は、著者の伝えたい内容を表現するには一見冗長のように感じますが、そのディテールの細かさから説得力が増すことにつながり、著者の主張を補強する役割を担っているのです。

この本を面白いと思うかどうかは、ここまで未来がドラスティックに変わるだろう、という主張を受け入れられるかどうかにかかっていると感じます。
例えば、未来予測の要因1の3番「地球上のいたるところで「クラウド」を利用できるようになる」。もちろんクラウドという言葉は、IT界隈では重要なキーワードとなっているわけですが、世間一般の人々にとって実際の生活を変えるほどのリアリティがまだありません。リアリティが無ければ、そんなのただの流行りだろう、と考える人も出てきます。
しかし、理詰めで考えれば、端末さえあれば自分の作業環境がどこでも再現できることは、将来の労働環境を考えると大きなインパクトがあるのは私には明白だと思えます。
同様に未来予測の要因1の8番「バーチャル空間で働き、「アバター」を利用することが当たり前になる」。こういうのがビジネス書みたいな本に書かれると、ネットの風俗と労働することが容易に頭の中で結びつかず、何言ってんの?と思う人もいるかもしれません。
これとて、ネット内で仕事の取引が頻繁になれば、アバターが自分を表すアイデンティティとして重要なるだろうと想像することは出来るはずです。

要因3の8番では「ベビーブーム世代の一部が貧しい老後を迎える」と言っています。
ベビーブーム世代とは、戦後に生まれた私より20歳くらい上の世代ですが、このくらいの年齢の人たちでさえ、例えば政府から年金が十分にもらえなくなり、かなり貧しくなる人が出てくるだろうと言っています。
これはもちろん、あり得る未来ですが、見たくない未来でもあります。誰もが(特に日本では)年金行政の破綻の可能性について心配しています。年金や社会保障はこれから益々削られ、税金も高くなる。これも残念ながら、欧米,日本では確実に起こる現実だと著者は主張します。

その前提の上で著者は、私たちは自分が生涯働き続けるために、専門性を持ったスペシャリストであり続け、多くの自分を助けてくれる人間関係を保持し、消費よりも働くことそのものが生き甲斐であるような人生を送れ、と話を進めていくのです。

たった10年程度で、ここまで世の中が変わる、という事実を今受け入れられなければ、著者のいう「漫然と迎える未来」が待っています。

しかし、それにしても、今私たちは一体どうしたら良いのでしょう?
会社はますます経営環境が厳しくなり、リストラが続き、人が減らされた職場では仕事だけが増え続け、それをこなすために長時間残業が繰り返される。
こういった負のスパイラルに取り込まれているうちには、「漫然と迎える未来」に突入するしかありません。とはいえこの状況から抜け出すこともまた難しいのが現実。

私が感じたのは、今すぐ会社を辞めて云々、という具体的なことではなく、自分の意識を変えることが大事なのだということ。
会社の仕事の中でも自分で変えられる裁量は多少はあるはず。また、業務外の自由時間をどのように使うかは全て自分で決定することはできます。
毎日の小さな一つ一つの選択が、ここ数年の自分の生きる方向のベクトルを少しずつ変えていく可能性があります。

そのように生きていくために、この本の内容を一つ一つ噛み締めることは、これからの自分の人生の選択のあり方を考える上で重要な示唆を与えてくれると思います。


2012年8月26日日曜日

オリジナル楽器を作りたい

これまで、MakerムーブメントパーソナルファブリケーションFabLifeと、個人によるモノ作り関係の話題について書いてきました。
もちろんこれは、自分自身がいずれこんなことをやってみたいと思うからです。私の作りたいものは、ずばり楽器です。

ご存知のとおり私自身、会社では技術者として電子楽器の開発を仕事としているので、業務を通じて自分の作りたい楽器を追求すればいいのではないか、という想いもあります。会社で行なう仕事のほうが社会に対する規模やインパクトも大きく、それなりにやりがいもあることは確か。しかし、20ウン年この仕事をしてきて、楽器に対していろいろと矛盾を感ずることもあるのです。

これは楽器に関わらない話ですが、コンピュータテクノロジーの発達は世の中のいろいろなツールの有り様を変えてしまいました。
特に私が電子楽器において思うことは、音楽製作としての楽器と、人前で弾くことを前提とした楽器の乖離とも呼べる現象です。前者はもはや楽器と呼ぶべきものではなく、ツールと言ってもいいでしょう。
しかし、未だに市場では二つの方向性は未分化であり、商品開発においても二つの用途を考えながら開発せざるを得ません。

私自身はどちらかというと音楽製作が好きな人でしたが、楽器の本質とは、考えれば考えるほど人前で弾くためのものであり、それは一回限りでしか得られない体験が価値であるというように考えるようになりました。

「一回限りしか得られない体験」とはどういうことかというと端的に言えば、再現性の否定であり、場を共有することの喜びということです。
つまり、毎回同じ音が鳴らなくてもいい、場所によって、観客によって、状況によって音楽、音が変わってもいい、ということであり、その体験はその場に居た人たちしか直接体験できなかったという満足感です。
そこに観客も含めたインタラクティブ性があれば完璧です。あとでライブDVDを観たって、そういうインタラクティブ性は絶対得られませんので。

また、誰が弾いても同じ音が出るのではなく、その人とその楽器のセットでなければ出ない音というのがあるべきです。それが演奏家の個性となり、だからこそ、その演奏家とその場を共有したいという想いが観客を動員させることに繋がるのではないでしょうか。

このようなことを考えていくと、本質的に楽器は大量生産に向かないのではないか、と私には思われるのです。
常に楽器から出る音は奏者の身体性と表裏一体であるべきであり、そうであるなら、楽器は少量個別生産であるべきであり、演奏者によるチューニング、エイジングが必要であり、また演奏者もその楽器から音楽性に影響を受けるはずであり、その結果楽器製作者と演奏者は個人的な協力関係が生まれる、というのが理想ではないかと思われるのです。

このようなあり方は、楽器が工業製品化する前は当たり前のことだったのではないでしょうか。
世の中が工業化されたとき、楽器もまた大量生産されるようになりました。しかしIT技術、生産技術の発達は、また昔のようなやり方に戻るきっかけを与えてくれているように思えます。

すぐにどうのこうの、という話では無いけれど、生楽器でなくても新しいオリジナル楽器を少量生産するような仕事を将来出来ないものかと、いろいろと想いを巡らせています。

2012年8月16日木曜日

コンペ社会

ふと「コンペ社会」というキーワードを思いついたので、思いつくまま書いてみます。

SNSなどを中心としたネットコミュニケーションの発展が、今後の社会を大きく変えていくのではないかと、個人的にはかなり真剣に考えています。
なぜかというと、ネットでのコミュニケーションが発展すればするほど、関連する人々の結びつきが簡単に、そして強くなり、そういったコミュニティが作り出すものの方が、クローズドな企業活動よりも開発効率、製品、サービスの品質が高くなるような気がするからです。
その結果、より社会は企業が作り出すものよりも、個性的な個人の集まりが作り出すものの方に惹かれるようになっていくことでしょう。
つまり、近い未来にはネット上で個人個人が勝手に結びつき、お互いに自分のスキルを売り物にするような個人商店の集まりに社会が変わっていくだろうと予想しています。

しかし、とは言え、そのようにモノゴトは簡単には進みません。
現実の仕事は、面白いことばかりではないし、誰もがやりたくないような仕事を誰かがやらなければ進まない面もあります。また人が集まれば、意見をまとめたり、お金を管理・分配したり、一緒に仕事をするためのルールを作ったり、ルールが守られているか監視したりというという仕組みが必要になります。この辺りが極限までIT化で簡略されないと、上で思ったような未来には中々近づきません。
最近はクラウドワークスとか、ランサーズというような小さな仕事単位で個人に発注するような仕組みも出来つつありますが、本当に個人商店でこの値段で続けられるかというと疑問はあるし、利用する側も本当にこの人は大丈夫だろうか、という不安がある限り簡単には良い報酬をくれないでしょう。

そうすると、こういった取引がうまくいくためには、何らかの形で個人に信用を付けるような仕組みが必要になってくるように思えます。
簡単に言えば、実績とか、資格とか、そういう肩書き・プロフィールです。
しかし私は、こういうことを重視するのは以前はあまり好きではありませんでした。何故かというと、そういう肩書きが現実の個人の能力と微妙な乖離があったからかもしれないし、単に自分自身のひがみの感情から来ていたのかもしれません。
しかし、社会が変化する過程において、プロフィールの内容が真にその人の実力を示すようになっていくのなら、対個人の何らかの取引において非常に重要な指標になっても良いような気がしてきました。

というのが前置きで、ここでコンペ社会というキーワードが出てきます。
私自身、作曲のコンクールに何度か応募して、何度も落ち、いくつか賞を頂いたりしたおかげで、こういうコンペで自分を試すということにそれなりの意味を感じています。それは確実に自分を高めるためのモチベーションに繋がるからです。
現在は、コンペというと芸術関係(音楽、舞踏、演劇、美術、文芸など)とか、特殊技能とか、極めて限られた才能を発掘するというような使われ方をされていますが、もっともっとたくさんのコンペが現れて、現実の仕事で役に立ちそうなコンペとか、そういうものが増えていけば、個人のプロフィールを飾る要素が増えていくことでしょう。

今は資格というと、非常に狭いジャンルの基本的な技能として認識されていると思いますが、考えようによっては資格も、ある意味コンペに近いと思うのです。
文学賞で一人しか選ばないような超狭き門のコンペでなく、1000人応募して20人くらい受賞できるくらいの賞があってもいいし、そうなるとコンペと資格の差はあまり無くなっていくことでしょう。

当然、コンペ自体にも優劣が生まれるし、どのコンペで入賞したかが、その人の実力を現す大きな指標にもなります。
このように、社会のあらゆるジャンルでコンペが一般的になり、その結果がプロフィールとして個人の信用を裏付けるものとなり、その結果、その個人を売り込むようなスタイルが成り立ってくれば、だんだんと才能のある人が個人商店で生きていけるような社会が生まれていくのではないでしょうか。

もちろんそれは個人の才能や実力が如実に反映されてしまう怖い社会でもあります。
しかし、だからこそ一人一人が自分と向き合い、自分に得意なものは何なのか、それを若い頃から自問自答することが必要な社会になっていくし、それが本当の意味で自由で平等な、そして公正な世の中なのではないかと私には思えます。




2012年8月10日金曜日

FabLife / 田中浩也



前々回も書いたパーソナルファブリケーションについて、現在の状況などを端的に紹介された本が出たので、早速読んでみました。

自分の欲しい物は自分で作ってしまえ、というのがパーソナルファブリケーションの基本的なモチベーションですが、こういった運動が世界的に連携をするようになっています。
工作機械を揃えて、作りたい人たちが集まり情報交換をする場はファブラボと呼ばれ、すでに世界中に多くのファブラボが作られ始めているのです。

各ファブラボは、そのファブラボを運営するマスターの趣味、方向性が色濃く反映されます。
例えば、ボストンのファブラボではたくさんのギークが集まり、電子回路が制作されていますが、そこのマスターのショーンは工作機械をインターネットで遠隔操作するプロジェクトを進めています。
同じくボストンの旧スラム街にあるファブラボでは、地域に住む黒人の小学生たちが学ぶための無料の救育施設として運営されています。

バルセロナのファブラボでは、メインで建築を扱っています。カッティングマシンのみで、プラモデルを作るように組み立て可能な木造建築を発表して話題を集めたそうです。
また、オランダのファブラボではオープンソースならぬ、オープンデザインという考えを進めており、若いクリエータたちが自らのデザインを共有するような試みを始めています。

これだけの事例を見ても分るように、工作機械で自分の好きな物を作る、という行為は、単に好き者がひっそりと集まって楽しむというだけでなく、教育、生活、ファッション、芸術など、これからの文化活動に大いに影響を与えるようなムーブメントになりうるのではないかという予感がしてくるのです。

またファブラボで使うべき工作機械が標準化されていくと、ある場所で作られたモノのデータさえあれば、別のファブラボでも製作可能となります。
今このようなネットワーク化が急速に進みつつあり、世界中のファブラボがネットワークで繋がりデータが共有化されれば、自分のオリジナル作品だけでなく他人の作ったものを自分が再度作ったり、それを元にまた新しいものが生まれたり、という限りないオープンデザイン文化が生まれる可能性があるのです。
それは、もはや工作マニアなオタクの世界ではなく、世界のトレンドの最先端を扱う文化発信基地にさえなり得ることを予感させます。

第二章では、筆者が一通りのモノを作れるようになるために受講した授業の様子が書かれています。ここでは工作機械の使い方はもちろんのこと、電子回路の制作方法、プログラミングの書き方に至るまで、一人でモノを作るのに必要なあらゆる知識を得る過程が描かれていて大変刺激になります。

日本では、現在つくばと鎌倉の二カ所にファブラボがあります。
ファブラボつくばは、元々はFPGAカフェと称して、カスタムICを簡単に作っちゃおうという活動をしていたようです。FPGAとカフェという言葉が結びつくのが個人的には非常にシュールな感じがしました。

このムーブメント、もう少しきちんとウォッチしていきたいと思っているところです。

2012年8月9日木曜日

46歳、大人の水ぼうそう


この歳になってまさかの水ぼうそうに罹ってしまいました。
私が罹る2週間前に息子が水ぼうそうになったので、潜伏期間的にも明らかに息子から移されてしまった形です。
それにしても、大人の水ぼうそうはヒドくなるとはネットなどにも書かれてましたが、息子の状況からあまりにかけ離れた私の惨状を見るにつけ、全くもって大人の水ぼうそうは大変なことになることを身に染みて体験してしまいました。

何がヒドいって、見た目です。
私の場合、ほぼ全身に水ぼうそうが出ました。顔やお腹、背中はもちろんのこと、手足は最初は二の腕や腿どまりだったのが、最終的には手のひら、足のひら、指まで到達。のどの奥や耳の中にも出来て、ほぼ全身完全制覇。
特に顔やお腹,背中は1平方センチの隙間もないほどの密度で出たので、ほとんど見た目は怪物としか言いようが無い状態。しばらくしたら治ると言われても、その精神的ショックは結構なものです。

発症後10日ほど経った現在、ようやく事態は収束し始めていますが、これらがカサブタ化して完治に向かうのにもう数日、仮にカサブタが取れたとしても、しばらくは皮膚に赤い斑点が残るものと思います。
私は皮膚が弱いので、全て終わったあとも身体中に恐らく相当の水ぼうそうの痕が残ると思います。まあ、そんなことを気にする年齢でも性別でも無いですが、単なる伝染病なのに後遺症が強過ぎ。本当に大人の水ぼうそう恐るべしです。

ちなみに母に電話して聞いたところ、私は幼稚園に行く前に水ぼうそうをしたかも、という返事。えーっ、それほんと!?という感じですが、だとすると、子供の頃にやったことが一生罹らないことの何の保障にもならないじゃないですか。医者にも聞いてみましたが、免疫の低下で再度罹るということもあるかもしれない、と言ってました。しかしそうなると、何を信じていいのやら・・・
(後で聞いたら、幼稚園に行く前に水ぼうそうしたというのはかなり怪しそうだった)


水ぼうそうを患っている間、ネットの個人ブログなどでも体験を読んだりして参考になったので、私の経過もここに紹介しておくことにします。(今後の状況も追記していきます)

1日目:
仕事をしていても妙にだるくて熱っぽい。家で熱を測ったら微熱があった。
2日目:
解熱剤で熱は下がっていたので、そのまま仕事へ。やはりとてもだるくて熱っぽい。明らかに調子が悪かったので早めに家に帰って熱を測ると、まさかの39度。
3日目:
額にデキモノがあるのはちょっと気になっていたけど、妻から「まさか水ぼうそう?」の指摘。身体を調べると、何カ所かそれらしき斑点が発見される。朝、近くの医者で診てもらったところ、水ぼうそうに決定。息子と全く同じ薬をもらう。
熱は夜くらいから40度弱が続き、何となく苦しくて眠れない。
4日目:
身体中に一斉に水ぼうそうが出来始める。水ぼうそうだと分っていても、本当に大丈夫か、と心配になる。同じ医者に点滴を打ってもらいにいく。「わぁ、スゴイ出たね!」と驚いてくれる。体調は一向に良くならず。
5日目:
ますます水ぼうそうは拡がる。元気のいいものは透明で半球状に膨らんでいる。
状況を心配した妻の両親がいろいろと医者に相談した結果、夕方に某大病院に紹介状付きで診察してもらうことになる。ここでも、先生方に「スゴいですね!見事に出ましたね」と驚いて頂いた。
家にいても子供がいて休まらないのと、異星人のような姿の病人の世話にも苦労させてしまうだろうという気持ち、そして何より今まで入院経験が無かったということで(やや興味から)、こちらから入院のお願いをした。
幸い部屋も空いているようなので、病状が改善するまで入院することにする。伝染病なので、一人部屋&面会謝絶。常に空気を排出する装置が作動していて、かなりうるさい。
6日目:
水ぼうそうが手の甲、足の甲まで拡がる。依然、熱は38〜39度。入院した夜は、何度も寝たり起きたりしたが、だんだん寝ているのがつらくなって、椅子に座る時間が多くなった。
治療は1日三回の点滴。中には抗ウイルス剤が入っているとのこと。水ぼうそうの活動を弱めるための薬らしい。
7日目:
箇所によっては色が少し黒ずんできて、水ぼうそうの勢いが無くなってきているらしい。
熱が出てつらいというと、解熱剤をくれる、ということを初めて知った。それなら最初から毎晩頼んだかも知れない。私は点滴の中に解熱剤が入っているとばかり思っていた。
8日目:
解熱剤を使ったせいか、37度台が見えてきた。夜になるとまた体温が上がるのでは、と警戒していたが、どうもそれほど熱は上がりそうも無い。
9日目:
熱は完全に平熱に。身体中の水ぼうそうはそのままだが、身体が軽くなり、食欲も戻ってきた。先生と話したら、いつでも退院していいとのこと。なので翌日退院することにした。
10日目:
顔の水ぼうそうの一部がカサブタ化し、手で触れるとポロポロと落ちるようになってきた。顔以外はまだカサブタ化していないが、ほとんどのほうそうが赤黒く変色し、見た目はグロテスクだけれどこれ以上成長しないことを示している。
夕方に退院。ほとんど一週間ぶりくらいに髪を洗う。
11〜13日目
ぷっくり膨らんだ水疱がきっちりカサブタ化するつもりでいたけれど、なかなか進行しない。むしろ、しぼんでいくものが増えてきた。日常生活の中でぶつかって潰れてしまうものもあり、当初予想していたみたいに、カサブタがどんどん増えてパラパラ落ちていくような状況には必ずしもならず。
15日目:
退院後の初めての(恐らく最後の)診察。一部水疱が残っているけれど、ほとんどカサブタ化したので、まぁ後は時間が経ってだんだん元通りになっていくでしょうとのこと。もう他人にうつす危険性もほとんどないとのこと。
確かに、しぼんだもの以外は見事にカサブタ化しており、これが一つずつとれていくと、見た目の違和感もだんだん無くなっていくはず。ただし臑より下、まだ一部水疱の膨らみがあり。
17日目〜19日目:
カサブタポロポロ状態。自然にはげるわけではないけれど、ちょっと身体をこすったり、かじったりすると簡単にカサブタが剥げてくる。カサブタが取れると、その部分の肌は赤くなっていて、結局見た目にはブチブチが残っているのです。
とは言え、ほぼこれで完治ではあるので、これをもって水ぼうそうレポート終了といたします。

2012年7月28日土曜日

パーソナル・ファブリケーション

前回の話の続き。
企業が工場にて大規模にモノを作るのではなく、個人が自分に必要だと感じるものを思い思いに作るような状況を、パーソナルファブリケーションと呼んだりします。

考えてみれば産業革命以前、世の中の全てのモノ作りはパーソナル・ファブリケーションでした。しかし、技術革新により大規模な機械を導入し、一度にたくさんのものを作れば製造コストはどんどん下がっていくことになりました。このような形で近代のモノ作りは進化し、気が付けば個人でモノを作ったとしても、企業が作ったものと同程度の品質を確保するのはほとんど不可能な世の中になってしまいました。

ところが、その一方かゆいところに手が届くとか、一見無駄な装飾であるとか、あまり一般的には使われない機能だとか、工業製品にとってコストメリットの無いものが少しずつ省かれていくことになりました。
工業化は大規模化の競争であり、市場がグローバルになるに従い、地球規模で寡占化が進みます。寡占化が進むほど製品のバリエーションは少なくなり、世界中の人が同じものを使うようになります。こんなものがあったらいいのに、がある一定の規模にならないと、新商品には全く反映されないのです。

工業製品でなくても、そういうことを体感することは多くなったように感じます。
例えば、日本全国にユニクロがあって、安くてそこそこデザインもいいのでみんながユニクロで服を買うようになります。もともと服にこだわりのない人は一定数いますから、例えばある地方にしかなかった衣服文化とか関係なくユニクロが売りまくれば、そういった小さな規模の文化をベースにした商品は採算が取れなくなり、結局消えていくことになります。
その昔、適当な店で服を買ったとしても、他人と着ている服が同じだったなどということはほとんど無かったのですが、最近は「ユニクロかぶり」現象が頻発しています。私でさえ経験してしまいました。
ちなみに、個人的に最近ヒドいと感じるのは男性の靴が良くかぶる現象。これも郊外のアウトレットモールでみんなが同じようなものを買うようになった結果です。


他人と同じものなんて滅多に無い衣服でさえ、この有様。
今、スマホだと半分はiPhoneだし(まあ、これは別の理由で歓迎すべきことではあるのだけど)、ある商品群なら、日本中ほとんどの人が、同じような選択肢から商品を選ぶ状況になっていると思います。

これは皆が望んでそうなったのではないのです。
経済的に寡占化が進み、買う方も経済的な選択をした結果、そのような状況になっているだけなのだと思います。もしたくさんの選択肢が適度な値段で供給されれば、そちらのほうが良いに決まっています。特に身につけて持ち歩いたり、人に見られるものについては、人とは違うものを持っていたいと誰もが思うのではないでしょうか。

パーソナル・ファブリケーションに経済的な解決さえ見つかれば、世の中はそちらの方向に向かうと私は考えます。
そのためには、逆に極限まで各レイヤーの標準化が必要だし、様々な部品の情報公開が必要です。そうなることで、外見部分や、外部仕様に独自性を出すことが容易になっていくのです。

今、ファブラボと呼ばれる活動があります。
これは、自分が作りたいものを自由に作るための工場貸し出しのようなサービスを世界的に展開しようという活動です。
その活動の憲章の中に、自分が作ったものは他の人が活用出来るように必ず複数つくること、とか、その設計図も完全に公表すること、といったルールがあるようです。
これは、まさにソフトウェアでいうところのオープンソースと全く考え方が同じ。
個人的にこの活動には大いに賛同しますし、一度は関わってみたいものだと今思っているところです。

もし少量でも製造するコストが今後下がっていくのなら、企業が自分の技術を守るために秘密を大事にし、商品に関する全てを自力で設計・開発・製造するようなやり方より、ファブラボの方がずっと面白いものが作れるようになっていくと私には思えるのです。

2012年7月22日日曜日

Makerムーブメント

日本なら、こういうサイトがありますが、個人が趣味で日常で使うような機器を作って楽しもうというムーブメントが起こっています。
趣味というと本業とは別で、それによる収入を期待せず、というようなイメージになりますが、そういうムーブメントが新しい需要を作ったり、新しい人の繋がりを作り出したりすれば、そこに何らかの仕事は発生するはずです。
私の予想では、いずれいくつかの企業がこういうムーブメントをサポートするようになり、それなりに産業として成り立つようになっていくのではないかと考えています。

電機製品は企業が工場を使わないと作れないと多くの人が思っています。
しかし、例えば身体のサイズは一人一人違うから、本当に自分にフィットする服はオーダーメイドで作る、という感覚と同じように、自分の暮らしに合った、あるいは自分の利用の仕方に合ったような電機製品がオーダーメイドで作られたり、あるいは自分で作ってしまえばきっと便利なはずです。

それが可能になるような技術が少しずつ増えているように感じます。
特に、音や映像、ネットワークについては、PCで何でも出来るようになってしまったので、逆に超小型のPC用基板に自分の好みの筐体を組み合わせれば、好きな機器が作ることが出来ます。
今、ちょっとしたPC並みの性能を持った電子基板は数千円レベルで購入が可能になっています。もちろん、この中で動作するプログラムを作らなければいけませんが、これもOSにLinuxを使うなど、ゼロから作らなくても世の中には多くのオープンソースソフトウェアが存在します。
自分の好みの筐体は、3Dプリンタで作成します。好きな形のものを実際に削り出して作ってしまう機械です。3Dプリンタも数十万円で買えてしまうようになってきました。

もちろん、そういう汎用部品やカスタマイズする手段が手に入るようになったとはいえ、個人が全て行なうにはハードルが高いのは事実。
しかし、企業が大量生産するしか方法が無かった電機製品の作り方が、こんな形で多様化することが分かってくれば、趣味で作った個人が小さな工房となって、オーダーメイドで電機製品を作るという事業が可能になるのではないかと思うのです。

それが事業として成り立つには、作る以外の部分においてもまだまだ多くのハードルがありますが、少なくとも自分で作って自分が使う分には、技術的なハードルはかなり下がってきました。
そういう人たちが自分の作ったモノを持ち寄って、自慢するような集まりも開かれています。そういう集まりから、新しい協力関係が生まれて、何かの流れに結びつくこともあることでしょう。

私個人に関していえば、やはり音楽、楽器が好きですし、自分がこういうムーブメントで何を作るかといえば楽器ということになるでしょう。何か面白いことが出来ないか、そんなことを日々考えているところです。

2012年7月14日土曜日

何かに応募するということ

もちろんこれは前回の対になる記事なわけですが、応募する立場になると、考え方は全く逆でなくてはならない、というお話。

最初に結論を言ってしまうと、どのような募集であっても公平な審査などというのは最初から不可能であり、自分の応募内容がきちんと理解された上で判断されたのかなどということをグジグジ考えても仕方が無いと思っています。

もちろん、それはなぜ落選したのか考えても仕方が無い、と言っているわけではありません。そういう反省は常に必要。だけれども、その際に、常に審査が公平に行なわれていると言う前提で考えても仕方がないし、そのくらいの現実は受け入れるべきだということです。

例えば自分の例で言うと、すでに書いたように私は何度も作曲コンクールに応募しています。当然ながら、賞を頂いた数よりも圧倒的に落選した数の方が多いのです。
しかし、幸い1次審査通過とか入賞したこともあるので、落選した場合の自作品における差異を多少感じることが出来ました。
若干誤解を恐れずに言うなら、意外とそれは表面的な差が強かったように思います。特に冒頭部分の面白さ、譜面の見た目、は重要な要素だったと感じました。

例えば百近い作品を評価しようというときに(それ以上ならなおさら)、それぞれの作品の最初から最後まできちんと見てもらうなどというのは現実不可能です。
特に審査の最初の段階で、ある程度数を絞ろうとする段階では、作品のごく一部だけで(恐らく冒頭で)判断されているとしても全く不思議はありません。
従って、作品の冒頭があまりに凡庸な出来だった場合、その後にかなり自分の良い部分があったとしても引っ掛からない場合があります。これは私の得た教訓の中で,もっとも普遍的なものと今でも思っています。

同様な理由で見た目も重要です。
文学賞ならば、手書きかワープロか、というのは重要でしょう。もっともほとんどの人は現在ワープロでしょうから、筆跡に自信があれば敢えて手書きで挑戦するというのも一つの戦略。
作曲も、手書きか浄書か、という問題はあります。まだ手書きの方はそこそこいるとは思いますが、楽譜の手書きはかなり読譜が大変だし、時間もかかります。浄書の場合もワープロと違って、ソフトによってかなり見栄えが違うので、安物は使わないことを私はお勧めします。
電子化してあるかどうかだけでなく、全体のレイアウトとか、大きさとか、鮮明さとか、見た目を左右するあらゆる要素において、細心の注意を払うべきでしょう。

やや具体的な話になってしまったけれど、応募する立場としては、なぜ自分が落選したのかとても知りたいものです。私もその気持ちはとても良く分かるのです。
でも、それは結局分からないし、最初からコンクールで選ぶことに完璧な公平性を期待しないほうが良いです。
それを理解した上で、自作品を自分の許容出来る範囲内で、狡猾にコンクールで通るような形に仕上げていく、という戦略もまた必要だと私は考えます。まぁ普通はそういうことは言わないのでしょうが、正直な私は、敢えてそういう意識も重要だと言っておきたいです。

2012年7月7日土曜日

何かを募集するということ

私はこれまで大学時代以来、ウン十年にわたって作曲コンクールに応募し続けている応募マニアでもあります。もちろんそのほとんどは落選、なのですが、何度か入選を頂いたおかげでちょっとばかり作曲家らしい活動もさせて頂いております。

実はそれ以外にも、あまり大きな声では言いたくはないけれど某文学賞とかに応募したこともありますし、つい最近また全然別の募集にも参加しました。

自分自身が募集をかける側には回ったことはありませんが、いろいろな応募をしていると、募集をかける側にもそれなりに覚悟が必要だと感じたりします。
そして、その覚悟が足りない人たちが、何となく募集をかければいいものが集まるだろう、という単純な思いで始めてしまった企画は、結局なんだかなー的な結果しか出せないものです。そういう痛々しい企画も残念ながら日常茶飯事です。

最初にざっくりした結論を言ってしまえば、「イイもの」を判断する目が評価側に無ければ、いくら募集をかけてもいい結果は現れません。集まった作品や提案の中には素晴らしいものがあるはずなのですが、判断する側にそのセンスが無ければ、それらは見落とされます。少なくとも募集された中で一番良かったものを見落とす可能性があります。
芸術系のコンクールやコンテストにも質があります。それらの質とは審査結果そのものです。審査した結果、素晴らしい才能を発掘すれば、そのコンクールの権威が高まります。
従って、コンクールはどれだけ質の高い審査が出来るかが、その企画の質になっていきます。
定期的に開催される音楽系のコンクールなどは、審査プロセスに一般的なフォーマットがあるため比較的品質は安定するのです。しかし、地方自治体や企業などが単発である種の募集をかける場合、たいへんお粗末な審査しか出来ない場合があります。

例えばあるアイデアコンテストを開催したとします。
最終的に最優秀賞や他の賞を決めたりするわけですが、そこに500近い応募があったとします。500というのは、もはや一人で判断するのは不可能なレベルです。
審査に1年もかけるわけにはいかないでしょうから、その場合、応募にふるいをかけるために複数人の手を借りる必要があります。
その場合、ふるいをかける人のレベルを高めるようにするか(コストは高くなる)、逆に選別基準などを作って誰でもふるいをかけれるようにするか(もちろんコストは低い)という方法が考えられるでしょう。

しかし芸術、アイデア、といったクリエイティビティが要求されるものを選別する場合、誰でもふるいをかけられる等という選別基準を作ることなど不可能です。そもそもそんな判断基準は学校で教えられる程度のもので、優れたものを見つけるためのものではありません。
またふるいをかけることを指示された担当者にしてみれば、自分の判断でもしかしてすごいものを落としてしまうかもしれないという恐怖に耐えられないのではないかと思います。

とはいえ500近い応募があれば、正直言ってそのうちの7,8割はゴミのようなものです。言葉は悪いですがそれは真実。
ゴミレベルの作品をゴミ、と断言するにはそれなりのカンが必要ですし、判断する側にもそれなりの知識と経験が絶対的に必要です。
そういう判断が出来る人に500近い作品を判断してもらうには相応のコストがかかります。このコストを全く考えずに募集をかけてしまうと、結局募集をかけた事務局のスタッフが微妙な判断で無理矢理選別を行ない、結果的に非常に凡庸な作品を選んでしまうことになりかねません。

全く先例がない場合、コストも全く検討はつかないでしょうが、少なくとも関係者で見れば良いものは分かるだろう、などという気持ちで始めれば、あとで痛い目に合うことになります。
結局は良い作品やアイデアが欲しくて募集をかけるのですから、それが見つからなければやった意味がないのではないでしょうか。
(要するに痛々しい募集は止めましょう!という応募側のささやかな忠告です)

2012年6月30日土曜日

いい音って何だろう

最初に結論を言ってしまうと、いい音楽を作ろうとしたことの無い人が、いい音を作り出せるわけがないのです。
ちまたには、少なくとも私の周りでは、そういった事例を感じてしまうようなことが多々あり、その度に私は心の中だけで声を大にして叫んでいます。口に出して言えって? まぁそれが出来れば苦労はしないのですが・・・

前回も書いたことの帰結として、これから音楽は産業としてはもはや魅力のあるものでは無くなっていくと思います。
しかし、だからこそ好事家が好きなものを追い求めるようになり、金銭的価値とは無関係に音楽を楽しむようになっていく。そういう状況になって、初めて音楽そのものの価値を音楽を聴く人が考えるようになると思います。
むしろ、ここ100年くらいのレコード産業による音楽ビジネスが異常だったのです。
一旦、音楽ビジネスは100年以上前の世界に戻り、いい音楽を作り出すアーティストと、それに熱狂する人々、というシンプルな世界に戻っていくことでしょう。

ところが、これまで「いい音」にこだわり、それに関わってきた人々がいます。
彼らの仕事は個別に見れば素晴らしいものでした。正確に言えば、素晴らしい仕事をしている人たちもいますが、そうではない怪しい人もいる。
私の見るところ、怪しい人の特徴は音によって紡がれる音楽の価値に疎い人たちです。

音楽家はいい音楽を作ろうとする。それがミクロに向かえば向かうほど、個々の音のアーティキュレーションや音質などに向かっていく。それでも、そういった全てはいい音楽を作るための作業の一部なのです。
ところが、分業化が進んでくると、いい音を作る、ということだけに注力せざるを得ない仕事が発生します。
分かりやすい例がオーディオの世界です。以前、オーディオについてはいろいろ書いたこともありました。
基本的には、オーディオ装置で聴くものは音楽ですから、どれだけ音楽が良く聞こえるのか、あくまで音楽の気持ち良さから考えなければいけないでしょう。

その他には、私の関わっている楽器の世界があります。また、音楽制作の世界で言えば、レコーディングエンジニアとか、録音技術を極めるような職種もあることでしょう。
これらはみんな、元をただせばいい音楽を作るために、いい音を作り出そうとする行為です。

私は、いい音を出すために出来るだけ時間やお金をかければいいという考えには賛成しません。それは一見、音のために妥協しない高邁な態度のように思えますが、この考えはむしろ人の心を堕落させます。
最高の音のために、最高のツールが必要だ、最高の計測器が必要だ、最高の人材が必要だ、最高の環境が必要だ・・・などというのは、仕事をする人の甘えでしかありません。
どのような仕事であってもある制限が存在する。その存在の中でどれだけの良いものをつくるかというのが仕事だと思います。
音楽を作るにはたくさんの制限があります。特に人がたくさん集まるほど、いろいろなことが思い通りにならなくなります。だから言葉を尽くして説明し、議論し、妥協点をさぐりながらそういう制限の中で音楽を作っていくのです。

最高の録音で録って最高のスピーカで聴いたからといって最高の音楽にはならないのです。
それは必要条件ですら無いと私は思っています。ラジカセで聴いたって音楽に感動することは出来ます。
本当に音楽の世界で求められているものは何か、その本質を常に考え続けることが音に従事する人にとっても求められることだと私は思います。

2012年6月23日土曜日

コンテンツビジネスの未来

違法ダウンロード禁止法案関連のツイートがたくさん流れてきています。
多くの人が憤っているように、法律を作る動機のあまりの時代遅れ感に、当然のごとく私も幻滅しています。
なぜなら、それが禁止しようとすることは、ユーザーの便利を阻むことであり、IT技術やネットの存在意義に対する真逆の価値観による行為だからです。

もちろん、実際にお金をかけてコンテンツを作って、それを売っている人から言わせれば、タダでコピーされたらたまらない、といったところでしょう。
しかし、残念ながら時代はあっという間に、そういうビジネスモデルを否定し始めてしまいました。インターネットが出現した15年前からそれに気付いていた人はいたし、私自身も10年くらい前には今のような事態を予想していました。
すでに、ネットの最前線にいる人たちにはそういう感覚は常識ですが、未だにこの常識を受け入れられない人たちがいるのも確かです。

この事態を受け入れられるかどうかは、もう頭の柔らかさ、としか言いようが無いと思います。特に我々の年代あたりがその分水嶺となっていて、この世代では見事に二手に分かれます。
CDが売れなくなって、音楽業界が完全に衰退しているのはもはや常識ですが、そういう状況で今のネット時代を恨み、昔のCDが売れていた時代を懐かしむのか(つまり未来の否定)、これから起こることを肯定していくのか、という態度の違いです。

ネットでほとんどタダで音楽が聴けるようになって、誰もがCDを買うなんてバカバカしいと思っているのは事実です。これは一消費者からしてみれば、全く当然の感覚です。
仮にCDを買ったとしても、自分はこの音楽を自宅のオーディオ機器で聞いたり、家のあらゆるPCで聞きたかったり、カーステレオで聞きたかったり、iPodで聞きたかったりします。今の技術を持ってすればいちいちCDを持ち歩かなくても、どこかにデータを置いておいたほうが便利だと普通は考えます。
それが自宅PCでなくてクラウドならさらに便利です。もっというなら、自分でリッピングする作業をしなければもっと便利です。

CDはiTunes Music Storeがやや強引にそういう世界を作りつつありますが、DVDはもっと悲惨です。こちらは再販制が無く値段が安くなった代わりに、かなり強力なプロテクトがかかっており(もちろんリッピングは可能ですが)、誰もが簡単にクラウドに置いておく、という状況にまではなっていません。
そこそこの値段で買ったのに、子供がDVDを破壊してしまったら、もう二度と観れなくなってしまうんです。私にはかなり深刻な問題です。

こういう事例が示していることは、もはや、データのパッケージを買うという感覚が古いということです。
私たちが買っているのは、その曲を聞ける権利、その映像を観れる権利、なのです。だからモノを買っているのではなく、サービスを買っているのです。
権利を買っていると考えるのなら、それをどんな形態で聴いてもらっても構わないし、むしろ1ヶ月だけ聴けるとか、永遠に聴けるとか、そういうところで値段設定を変えることも可能でしょう。
もちろん、データそのものはネットにあり、どのデバイスからでもアクセス出来るようにしておけばいいのです。
とは言えデータである以上、リッピングの問題はつきまといます。金を払わねば聴けないようにするには技術でプロテクトを書ける必要がありますが、いくら技術で押さえてもそれらはすぐに破られるものだからです。

今の時代、マネタイズはもう一歩先を行き始めています。
クラウドファンディングといったような言葉が流行り始めているようですが、例えばアーティストが直接投資、あるいは寄付を受けるというようなやり方です。
私もこちらのほうがずっとスマートに思えます。
それはいわば、大昔の流しの世界です。その場で音楽を勝手に演奏していて、聴いた人がいいと思ったら投げ銭を入れるということです。これをネットで世界規模でやってしまえということなのです。

そう考えると、IT、ネット技術が進むほど、私たちの文化はむしろ原始的な価値観に戻っていくように感じます。恐らく文化はモノの経済学と結びついたときから一度歪んでしまっていたのです。その歪みが、今ネットという技術のおかげで、ようやく無くなろうとしているのではないか、とそんな気がしているのです。

2012年6月16日土曜日

構造と変化

どのような創作物にも構造が必要です。
構造というのは、別の味方をすれば「繰り返す」ことでもあります。逆に言えば、二度と繰り返さないものには構造がありません。
繰り返しは、小さな部分から大きな部分まで様々な局面に現れます。例えば音楽なら、基本ビートとしての八分音符や四分音符が最小の繰り返し単位。これに小節という単位の繰り返しがあり、8小節程度の楽節という単位があり、最後に本当の曲構造としての繰り返しがあります。

文章には繰り返しは無いでしょうか?
繰り返したくなくても、どんな文章であっても「文」という単位の繰り返しがあるはずです。これは句読点の繰り返しとも言えるかもしれません。
ある程度の文章が長くなれば段落が作られます。これも書いているうちに、段落の大きさにパターンが生まれ、そこに一定の繰り返し感が生まれます。

繰り返しというのは、似ている、ものが並置されているということです。
同じものが並置されている、ことは一見「変化しない」ことのように見えます。
しかし、その変化させないやり方に表現者としてのセンスの違いが出てくるように思うのです。

変化する、ことは創造的活動にとって最も重要なファクターです。全てのモノゴトは変化します。変化しないということは死を意味します。
創造的な活動というのは、常に新しい生命を生み出すことであり、その基本に若々しさや生命感を必ず内在しています。変化の無い創造物は全く面白くありません。

ここで構造が指向する繰り返しと、創造物が内在すべき変化が対立します。
例えば、こういう対立は日常生活でも見られるのではないでしょうか。ルールを守る厳格さ、規則正しい生活を送る几帳面さ、が必要である一方で、新しいことを始めたり、新しい人と合ったり、新しい場所に行ってみたりする、といった生活の変化としての要素がないと人生面白くありません。
こういうと、構造は規則・厳格といったイメージで人を縛る感じがあるけれど、変化は自由・新鮮というイメージで人を楽しませるように思えてきます。

心理学的に言えば、構造は超自我(SuperEgo)で、変化はES。超自我は自分を律しようとする無意識、ESは欲望の固まりのような無意識。

もちろん人は規則通りにしか動けない堅物では面白くないけれど、好きなことばかりしている適当な人も困り者。
人には、常にルールを守る厳格さと、新鮮なものを楽しもうとする気持ちの両面が必要なのです。
そして、それは創造物もまた同じ。構造と変化は創造物が持つべき大きな二つの対立するベクトルで、そのバランスの良さが、創造物の価値を決めていきます。

素人が初めて何らかの創作活動を行おうとすると、最初の作品には構造性が欠ける場合が非常に多いです。それが素人臭さを醸し出します。
基本的な生命感としての変化の要素はもちろん重要なのですが、それを整理し、的確に伝えるための構造こそ理性で制御する部分であり、芸術の質を高めることに繋がるのです。

2012年6月9日土曜日

構造への希求

音楽にしても、小説・エッセイにしても、建築のような構造物にしても、あるいは仕事でソフトウェアを開発したりとか、パワポの資料を作ったり、長文の論文を書いたりする場合も含め、創作物を作るためには、構造性を重んじる姿勢が必要だと思っています。

特にソフトウェア開発の仕事は多くの人が従事しているわけですが、この構造性という点で創作物全体を俯瞰出来る人と出来ない人がいて、それが突き詰めればソフトウェア開発の生産性に大きな影響を与えていると考えられます。
文章も同じ。最近はメールなどで多くの人が短時間に大量の文章を書く機会が多くなっていると思います。文章がきちんと書ける人というのは、構造性の感覚を持っています。

私たちは一人一人が芸術活動をしていなくても、日常のいろいろな機会に創作物を作り出しているのです。
その創造物の規模が大きくなればなるほど、構造性を持っているかいないかが、その作り上げた創作物の質になって現れます。
日常的に創作活動をしていない人には、その感覚の正体に気が付いている人はあまりいないように思います。しかし文章やプレゼ資料、ソフトウェアなど個別のジャンルについてはハウツー本などもたくさんありますし、その中には創作物の構造性に繋がる考え方もよく書かれています。

もちろん、これは訓練すれば向上するスキルなのかもしれないのですが、元々個人が持っている性向にも大きく左右されるように思います。
構造性を重んじるような人は、俯瞰的な考え方やマクロ的な視野を持っているし、そういう人同士では話の内容も響き合います。構造性思考を持っていない人は、細部にこだわり過ぎたり、個別最適で考えたり、全体の整合性が取れていなかったりすることが多く、全体で見ればという視点を共有出来ないので、議論が平行線になりやすいのです。

以下、私が構造を重んじるような感覚として、思い付くものを挙げてみましょう。
一つは、全体を感じたいと思う感覚。
例えば一つの大きなプロジェクトがあったとします。このプロジェクト全体についての成果物、及びそれを作り出すための仕事を洗い出します。もし納期が厳しければ、ブレークダウンした仕事の粒度を揃えて、順序を考えた上で、時間軸上に仕事を置いていきます。
もちろん、会社で行なうどんな仕事も上記のような方法で計画を練るわけですが、構造性の思考が弱い人が作る計画というのはとにかく内容が甘いわけです。会社で複数人でやる仕事なら有能な部下が何とかしてくれたりしますが、芸術の創作の世界では誰も手伝ってくれません。
そもそもこういう作業をある程度正確に行なえる人しか、創作には向いていないと思います。

次に、構造の中からパターンを拾い出す感覚。
同じような作業をしていれば、そこに繰り返しのような何かが似た感じが出てきます。
しかしどんな仕事でも,完全に同じということはありません。ちょっとだけどこかが似ているのです。どこかが似ていることをきちんと抽出できれば、そこから汎用的なルールを導き出すことが出来ます。
創作家の場合、それは明文化されずに経験値として作家の内部に溜まっていきます。しかし、そのような抽象化されたパターンの引き出しを持っている人は、毎回内容が違っていてもゼロから悩んだりしなくなるのです。

最後に構造性の感覚でもう一つ挙げるなら、分類と命名のセンスでしょうか。
全体を分けるのも、その中からパターンを拾い出すのも、必要になるのは分類する能力です。例えば100曲の音楽データをどういう軸で分類すれば良いか、これを利用する際のことを考慮に入れて分類軸を決定します。どんな場合でも例外はありますから、何を例外にするかも考えなくてはなりません。
分類したら、その分類に命名をしなければなりません。
その命名が不適切だと、新しいモノが現れたときに最初に思ったような分類にならなくなってしまう可能性があるからです。

ある程度、大規模な創作物を作る場合、全体を感じること、パターンを見いだすこと、分類と命名を的確に行なうこと(他にも考えれば出てくると思いますが)、というようなことは構造性を重んじる態度そのものだと思います。
このような態度を持っているかいないか、は表現者にとって重要な資質では無いかと私は考えます。

2012年6月3日日曜日

楽譜を読む ─ 強弱記号 ─

楽譜には、通常フォルテ、ピアノとかの文字による記号や、クレシェンド、ディミヌエンドのような図形的な記号が書かれています。
書いてある以上、もちろんこのとおりに演奏すべきなのですが、私が一般合唱団員の気持ちを察するに、二つの相反する態度を感じます。

一つは、そもそも強弱記号に対する意識の薄さ
もう一つは、意味を考えずに盲目的に強弱記号に従うような態度です。

最初の意識の薄さは、もう意識しろとしか言いようが無いのです。しかし音程や微小なピッチ精度にこだわる人の多さに較べると、強弱記号に関してはほとんど無視してるんじゃないか、というほど気にしていないような人が少なからずいます。

確かに声楽の場合、楽器の不自由さから音域によっては大変音量制御が難しいという側面はあるでしょう。
そういう声楽的資質といった不可抗力的なものはまだしょうがないとしても、長く合唱をやっている人の中には自分が気持ち良く歌うことだけを第一にしていて、強弱記号がまるで見えていないような人も散見されます。
歳を取るほど自分を律することが難しくなるものだと自分も最近感じます。特に昔から合唱をやっていて環境に慣れきってしまった方には、ぜひ楽譜をきちんと見て、強弱記号に反応するよう努力して欲しいものです。

逆にまじめな人に多いのは、楽譜の強弱記号に盲目的に従おうという態度です。
音量というのは、そもそも非常に曖昧な指示です。
ピッチや音程というのは計測可能だし、いくらでも精度を高めていくことは物理的に可能です。テンポについても絶対値的な計測はできるし、rit. や accel. などはみんなが同じテンポを共有しないと音楽が揃いません。
ところが、音量というのは少なくとも音楽において物理量を規定することはほとんど不可能に近いパラメータです。声楽の場合、人によっても声の大きさはかなり違います。
合唱団によっては、ソプラノが多かったり、ベースが多かったり、声の大きい人がいるパートが偏っていたりするわけです。つまり、合唱曲の場合、最初から理想の音量バランスというものが再現される可能性は非常に低いのです。
だから、本来絶対値としての音量表記は不可能なのです。

音量はどうやっても相対的な指標でしかありません。この事実を感覚的に理解しているかいないかで強弱記号に対する態度も変わってくるのではないかと感じます。
書いてある強弱記号を絶対音量に単純に換算するような態度は、曲の本質に辿れないことでしょう。
つまり強弱記号こそ、なぜ作曲家がそういう指示をしたのか、という理由を読む取りそこから個別事情に敷衍していく必要性が高いのです。

このような作業がきちんと行なえる指導者の演奏には説得力が増します。このセンスの差が、団員の歌の上手い下手とは別のベクトルの、団の音楽性の高さに結びつくと思います。

2012年5月30日水曜日

世界を歩いて考えよう!/ちきりん

私の敬愛するブロガーちきりんさんの3冊目の本。
なんだかんだいって3冊とも買ってしまった私は、結構なファンということなのでしょう。

しかし、ある意味この本が今までの中で最も私にとって強烈でした。
これほどまでに自分と行動パターンが違っていて、人間としての基本的なタフネスさが全然違う、ということを見せつけられたからです。

だいたい私は出不精です。
家にいるのが大好き。一人でPCに張り付いているのが好きな人間です。「旅が好き」なんて言える人を風流だと羨望の眼差しで見つめながら、一人でどこかに行くことにいつも何となく恐怖を抱いています。

人生、これまで一人旅というものをしたことがありませんでした。
自分で計画して一人で遠い場所に行った、というのは恐らく今年1月のフィリピンが初めてのことです。それとて、マニラ空港での送り迎え付き。
それでも、一人で飛行機に乗って行き帰りをするのは、こんな歳でありながらちょっとばかりヒヤヒヤしていたほどの気の小ささ。

自分のことはさておき、ちきりんさんの海外旅行経験は全く半端じゃないのです。
欧米はもちろんのこと、韓国、中国、東南アジア、インド、中東、東欧、ロシア、そしてアフリカのサバンナからマチュピチュ遺跡、南国の島まで、ほとんど世界中のありとあらゆるところを旅しています。
本の最後に、トラブルはほとんど無かった、と書いてありますが、それは肝が据わったちきりんさんだからこそトラブルさえ逃げていったものと思います。20代の女性が一人で怪しい国を旅するなんて、その度胸だけで私には驚きものです。

さすが、経済通だけあっていきなり通貨ネタが面白い。
通貨の力関係によって労働の価値がここまで違うものだということは、私もフィリピンで感じました。彼らをうまく組織化すればビッグビジネスになるよなとか。
しかし国によっては、そもそも売るモノが無いなんてこともあるのですね。こういうことはその場に行ってみなければ肌で感じることは不可能です。

目に見える貧富の問題とか、従業員さえ疑ってかからなければ商売ができないようなシステムとか、日本人の価値観ではおおよそ信じ難いような現実もたいへん興味深い話です。

とりあえずこの本を読むことで、数カ国旅することを疑似体験出来ました。旅行気分を味わうにも良い本です。

2012年5月26日土曜日

生演奏としての音楽

音楽の活動が二極化し、メインはオーディオ鑑賞という方向にはなっていくでしょうが、やはりホールやライブ会場に出向いて生演奏、コンサートを聴く、という音楽の楽しみは無くならないでしょう。

それはちょっと前にも書いたように、テレビや映画でなく、演劇を見たりする行為とほぼ同じような意味を持ちます。
細部がクローズアップ出来るテレビや映画では、むしろ日常の一コマにようなさりげない演技をどのように映画のフレームに収めるか、という作る側のテクニックが重要になりますが、演劇では俳優がお客に伝えるための技術がほぼ全てで、演技するという行為そのものが鑑賞の醍醐味になるはずです。

全く同様に、音楽制作では曲や詩の工夫、音色、音響的な工夫が重要だけれど、生演奏では歌ったり楽器を弾いたりすることがメインです。
ですから、まず第一に歌がうまくなければいけないし、楽器演奏がうまくなければいけません。あるいは舞台にその人が立っているだけで人を魅了出来るオーラとか、存在感みたいなものが重要です。
そこで必要とされるスキルは音楽制作とはやはり相当異なります。

演奏会を聞いていると、これはオーディオ鑑賞では絶対感じられないと思うようなゾクゾクする演奏に出会うことがあります。
なぜそのような体験はオーディオ鑑賞を凌駕するのでしょうか。

一つには、単純に音の環境の違いがあると思います。オーディオ鑑賞は部屋でスピーカーで聞くか、ヘッドフォンステレオで聞きます。どうしても日常の雑音があるので、ダイナミックレンジの広い音楽を聞くのには適しません。大きな音を出すのも大変です。
生演奏では、特にクラシック音楽の場合、ホールという静音環境に閉じ込められるので、そこにいるという緊張感と、そこで繰り広げられる音楽のダイナミックレンジの広さはオーディオ環境ではやはり得られないものです。

もう一つは、インタラクティブ性とでもいうべきもの。聴衆とのやり取りによるその場限りの体験ということです。ライブが完全に予定調和に終わる場合はそういう要素が少ないですが、例えばMCをしているときのアーティストの感じとかは、その場のノリというものに支配されることでしょう。ジャズではインプロビゼーションがどの程度盛り上がったり、長くなったりするかはその場のノリで決まることも多いと思います。
特にエンターテインメント性の高い音楽では、こういったインタラクティブな要素があるほどお客さんの満足度は高まるものと思います。

後はやはり、非人間的なテクニックを同じ場所で直接見れるということでしょうか。
確かに演奏テクニックはビデオ再生でも楽しむことが出来ますが、その場にいることによって、そのスゴさは完全にリアルなものになります。
あまり大きなホールだと、奏者が遠くなり過ぎリアルさは減りますが、目の前でとんでもない演奏テクニックを堪能出来れば、それはビデオ再生で見るよりは感動するに違いありません。

とはいえ、本当に生演奏、ライブを聞きに行きたいと思う人はやはりそれほど多くはありません。
そこそこチケットの値段も高いですから、そこに集まる人たちはそれなりに意識の高い人たちです。というか、これからはその傾向がどんどん強まるような気がします。
そうなると、お客を楽しませられないアーティストは淘汰されていくでしょう。
そして、本当に音楽の実力が高いアーティストがきちんと残っていくことになるのではないでしょうか。

2012年5月22日火曜日

誰でも音楽が作れる時代

詩や小説を書いたり、絵やイラストを描いたりするように、音楽好きの人が自分だけの音楽を自力で作れるような時代がやってきつつあります。

私は楽器メーカーにいるので、例えば楽器の新しい機能に何があったらいいか、といったようなブレストの折に「思い付いたメロディを楽譜にしてくれる」とか「メロディに勝手にコードを付けてくれる」とか「最適な伴奏を付けてくれる」というようなアイデアを出す人が出てきます。
まあ音楽理論的には突っ込みどころが多いので実現も難しいでしょうが、そもそも日常的に曲を作る人に言わせれば、そのようなものは作曲行為を冒涜するような機能であり、おおよそ役に立つものにならないことは私には明白なのです。まぁ角が立つので、そうは言いませんが。

これを小説、イラストなどに適用してみればそのおかしさが分かると思います。
「季節や場所を設定するだけで、情景を描写してくれる文章を出力してくれる」「登場人物の性格を設定しただけで、会話文を自動生成してくれる」「輪郭を書いただけで色を勝手に付けてくれる」「描きたいものを決めただけでネットから自動的に画像を拾い出してくれる」・・・そんなワープロや、お絵描きアプリが欲しいでしょうか。


その一方、音楽を作る方法がどんどん簡単になっていくのは個人的にはとてもいいことだと思っています。
そうやってたくさんの人に作曲をしてもらいたいし、世の中にたくさんの質の低い音楽が溢れて欲しい。そしてその質の低さに容赦無い批評が与えられて欲しいです。その結果、作った人にはつまらない曲を作ったことを後悔して欲しいし、それで成長するか、挫折するかして欲しいのです。
表現するためには、絶えざる向上心を持ち続けることが必要です。私の見るところ、多くの方にはそういうメンタリティは無いものです。芸術家というのは、誰にも頼まれないのに向上心だけがめらめらと燃えているような性向を持っている人のことです。無から有を生み出すその心的パワーこそがクリエーターの活力の源泉なのです。

ツールがどんどん向上し、モノを作る作業が効率化すればするほど、人間の能力が丸裸になっていきます。
音楽の場合、一般的に音楽活動は楽器を弾くことと共にあり、たまたまいい楽器を持っていた人がいい音楽をやれる環境にあったりとか、近くに素晴らしい音楽家がいて薫陶を受けたとか、家庭環境のせいで音楽にのめり込んだとか、楽器を弾けるといった要素が作曲行為においてもこれまでは重要でした。
しかし今では、楽器を弾けなくても、ちょっと理論をかじるだけで相応の音楽を作ることは可能になってきています。そうなったときにその音楽を作った人のセンスが作品にそのまま投影されます。こういうことが普通になっていけばいくほど、本当の音楽の価値とか、本当のクリエーターの価値とか、そういう音楽の本質が問われるようになってくると私は思うのです。

2012年5月19日土曜日

制作としての音楽

音楽が二極化し、オーディオデータを楽しむということと、生演奏を楽しむということの二つの方向性に分かれていくだろうという話の続き。
とはいえ、多くの人はオーディオ(あるいは動画)を楽しむだろうし、生演奏している様子もデータ化されるわけですから、音楽を楽しむメインの活動はやはりオーディオを聞くことです。

聞かれるために作成されるオーディオも、生演奏を録画したものと、専用に制作されたものに分けられます。
生演奏を録画する方向については生演奏をいかに上手く録音録画するか、ということがもっと民生レベルでいい方向に向かっていくとは思いますが、何といっても、制作としての音楽がこれから益々大きな存在感を示すのではないかと私は考えます。

私自身、昔から音楽制作するのが好きな性分でした。
現実には楽譜を書くことそのものが中心になってから、制作することはなくなりましたが、今でも制作する人の気持ちは分かるつもりでいます。
もちろんこの世界もトレンドがどんどん変わっていきますから、今では私の思いもよらぬような便利で面白い方法があるのかもしれません。

そもそも音楽を制作するというのは、どういった行為なのでしょう?
まったくここに音楽が無いところから音楽を作り出すわけですから、それは詩や小説を書いたり、イラスト・絵を描いたり、動画制作をしたりといった創作活動とモチベーションとしては全く同じことです。
ただし、詩や小説なら、コンピュータを立ち上げ、いきなりワープロアプリで文章を書いて、保存すれば作品が出来ることは想像出来ます。しかし、何も分からない人にとって、音楽の場合具体的に何をしたら良いか想像が難しいかもしれません。

それは何故かと考えていくと、文章は文字を入力すれば成り立つのですが、音楽の場合、文字のような記号化された単位みたいなものが確立していないからだと思えます。
音楽を構成したり表現したりする最小単位の記号を、仮に「音楽素」という言葉で表現してみます。
一番分かり易い音楽素は、数秒で構成される音楽のオーディオのフレーズです。このようなフレーズ型音楽素を組み合わせることによって、ブロックを積み上げるように音楽を作っていくという考え方もあり得ます。
ただ、想像すれば分かるとおり、各フレーズのリズムやテンポが一致していないとなかなかブロックが積上らないし、そのフレーズ自体をゼロから作り出したいという欲求に答えることが出来ません。

旧来から、電子楽器の音楽素としてMIDIという記号が使われていました。
これはまさに小説における文字と同じで、音楽における演奏情報という言い方ができます。ところが、MIDIはそれだけの可能性があるにも関わらず、健全な発展をしなかったように思います。例えば、MIDIは通信フォーマットの十六進数をそのまま一般ユーザーが扱わなければいけないという代物です。そのような状況になっているのは、MIDIを扱う人は専門的な人たちだけだと、それを扱う人たちが勝手に思い込んでしまったせいだと思います。

しかし音楽を制作する場合、このMIDIをうまく扱えば、本当に自在な音楽が作れます。
今は多くの人がMIDIを嫌うため、オーディオベース(フレーズ型)の音楽制作ツールが一般的ですが、もう一度MIDIを見直すことによって、もっと自由度が高くかつ制作も容易な環境が出来ていくと思います。

そんなわけで、一般からすれば音楽を制作することに対する敷居が高いのが現状です。
もう一度、多くの人が分かり易いような音楽素、音楽制作の記号化、が進むことによって、音楽制作プロセスが一般化するような方向性を我々技術者が考えねばいけないと私は思っているところです。

2012年5月13日日曜日

音楽の二極化

音楽の未来についてまたまた考えてみます。
例えば、絵画に対して写真、そして演劇に対して映画という関係にどのような意味を感ずるでしょうか。
写真はカメラが発明されたから可能になった芸術であり、映画も同様で映写機という技術の進歩によって新たに生まれた芸術分野です。

昔は、絵に描いて何かの情景を伝えるという意味合いもあったかもしれません。しかし、そういう用途はほぼカメラで写真を撮ることで置き換えられてしまいました。法廷の様子とかはまだ似顔絵を使ってますけど。
しかしカメラが出来たからといって絵を書く行為が無くなったわけではありません。絵なら現実に無いものを書くことも出来るし、抽象画の世界は、写真で真似することは出来ないでしょう。

映画と演劇の関係もまた然り。
映画が出来るまでは、あるストーリーを演ずるのは演劇しか方法がありませんでした(もちろん広い意味でオペラとか、ミュージカルとか、歌舞伎とか、音楽と一体化したようなものも含めての話です)。
しかし、映画が出来たことにより、その場に役者がいなくても演じられた劇を見ることが出来るようになりました。物語を伝える方法は演劇から映画へとメインストリームが移行したと思いますが、未だに演劇が残っているということは、演劇でしか伝えられない何かがまだ残っているということです。

ここまで言ってしまえばだいたい想像できるように、音楽の楽しみ方も生演奏とオーディオ再生があります(CD、レコードももはや時代遅れなので、オーディオ再生と言います)。カメラや映写機と同様、オーディオ再生は技術が生み出したものでした。
ところが、音楽の場合、写真と絵画、映画と演劇のような二極化があまり起こらず、同じ音楽家がCDやレコードを出し、それをライブで演奏する、という二つのことをやっていたのです。それは音楽においては、人前で演奏してなんぼという感覚が非常に強かったのではないかと思います。
経済的な意味もあったでしょう。音楽ビジネスはレコード以前は、コンサート収入だったのが、レコード以後はレコードの売り上げが主な収入になりました。
しかし、ご存知のとおり今やCDが全く売れない時代になり、音楽ビジネスが大きく変わろうとしています。

オーディオ再生の音源製作では、もはや演奏不可能な音を入れることも可能です。むしろ、ライブでは音源のクリックに合わせながら演奏者が楽器を弾くということも非常に一般的に行なわれています。
とはいえ、本来音楽ライブでは見事な名人技を聴きたいのです。
それこそが生演奏を聴く醍醐味ではないでしょうか。

それとは別に楽器を演奏することから全く離れて好きな音源を製作するという表現方法があってもいいでしょう。
例えば、ここ数年日本の音楽シーンを賑わせているボーカロイド音楽においては、ボーカルがライブで演奏することが不可能であり(まぁライブっぽいイベントもあったようですが)、まさに音源製作としての芸術と言えるものです。

ボーカロイドに限らず、世の中にあり得ない楽器、あり得ない音を使って音楽を作ることが一般的になる可能性はあります。
そうすれば音楽も、写真と絵画、映画と演劇といった関係と同じく、オーディオとライブ、というような音楽の楽しみ方の二極化が起こるかもしれないという可能性が出てくるのではないでしょうか。

2012年5月9日水曜日

電機メーカーの何が問題なのか? ─ソフトが苦手─

メーカーってモノを作るわけだから、部品を集めて加工して組み合わせて、工場で完成品を作っていくわけです。今では電機製品のほぼ全てにマイコンが入っていて、そのマイコンを動作させるためのプログラムも作らねばなりません。しかし、そのプログラムはモノでは無いので、工場の中ではどうしても形が見えません。

どんな電機メーカーもマイコンのプログラミング無しにはモノは作れません。
そして、まさにそこが日本企業にとってアキレス腱ではないかと私には思われるのです。

自分がプログラムを書いていて不満を感じやすいからかもしれませんが、メーカーという仕組みの中では、プログラムを書くという仕事はなかなかうまく回らないものだと感じます。
メーカーは工場を持っています。いろいろな社内の慣習が工場をベースに成り立っていることがまだ多いです。今では、工場を海外に移す企業も増えてきましたが、それでも工場をいかに回していくか、ということがメーカーの最も重要視する点です。

しかし、ソフト開発は工場ベースの仕事の仕方となかなか折り合いがつきません。
以前はそうでもなかったのでしょうが、現在多くの人がコンピュータで仕事をするようになり、人々がソフトウェアに触れるようになればなるほど、PCでのソフトウェアの世界とメーカーのマイコンプログラムの世界との乖離が酷くなってくるのです。

その流れにとどめを刺すように、iPhone/AndroidといったモバイルOSが現れました。
なぜそれがとどめかというと、手のひらに乗るような小さなデバイスがPC並みのUIや性能を持つようになってしまったのです。それもかなりの安価で。
人々の基準がスマホになってしまい、それ並みの性能も出せない高価な電子機器に人々が疑問を持つようになってしまいました。

ならば、iPhone/Androidのように作ればいいじゃん、などと軽く言ってはいけません。
それは、自社が工場を持たず中国等の下請けに製造させ、何百万も販売出来る製品力を持った企業だけにしか出来ないのです。
そして、その代わりに彼らは、その心臓部であるソフト開発にふんだんの開発費をかけています。
しかし、一方ほとんどの日本の電機メーカーの人間には、どのようなソフトウェアが優れていて、どのようなモジュールや行程に工数をかけたら良いかが分かっていないのです。

ソフトを書ける人にしか、ソフトのどの部分が大事なのかが分かりません。
何が大事か分からないと、人員をどのように組織化し、どのような仕事を割り振るかという判断のレベルが低くなります。残念ながら、多くの電機メーカーではソフトウェアのプロフェッショナルがソフト開発のマネージングをしていないように感じられます。これほど大きな電機メーカーがたくさんあったにも関わらず、ついに携帯用OSは、日本から全く現れませんでした。
いくら現場に優れた人がいても、ソフト開発に最適化された優れた組織構造を持ったソフトチームが作られていなければ、いいプログラムは開発出来ません。
良いソフトは良い組織から生まれます。そこに気付かない限り、アメリカ製のソフトウェアに席巻されていくばかりになってしまうのです。

2012年5月6日日曜日

テルマエ・ロマエ

ネタの面白さにつられ、話題の映画テルマエ・ロマエを観に行きました。
ローマの浴場設計技師だったルシウスが現代日本にタイムスリップし、そこで得た知識を元にローマで斬新なお風呂を作っていき、それが評判になります。その後ルシウスは次期ローマ皇帝の争いに巻き込まれて・・・といったストーリー。原作は同名のマンガですが、私は読んだことはありません。

何といっても、「お風呂」というテーマで古代ローマの風呂の設計技師が日本にタイムスリップしてしまう、という設定が秀逸。いちいち日本のお風呂に感動する設計技師ルシウス、というのがこの話の面白さの基本にあります。

元々日本人は温泉好きだし、お風呂に対するこだわりというのも恐らく世界では類を見ないのでしょう。同じように公衆浴場が人々の暮らしに浸透していたローマ時代と無理矢理繋げてしまうことが、これほどの喜劇性を持ち得るというのは新鮮な驚き。
また、恐らく原作のアイデアだと思うのだけど、日本で一般的なお風呂グッズに一つ一つ驚きの声を上げるルシウス、というのは日本人の自負心をくすぐると同時に、日常のたわいもないことに感動することがなかなか面白おかしいことだと気付かされます。

また、このおかしさは主人公阿部寛の演技によるところが大きいです。
この人は、硬派なドラマでカッコいい役もいろいろやっているのに、なぜかこういう喜劇でとてつもない存在感を示してくれるのですが(前笑ったのはこの映画)、正直個人的にはやや残念なイメージ。ちょっと俳優としての品格を保つべきでは、と他人事ながら心配してしまいます。
今回はストーリー上、裸のシーンが多く、どちらかというと下品になりかねない男の全裸を、笑いに使われている感じがしました。

ローマ時代の映像なども決して手抜きをしておらず、全体的には非常に楽しめる映画にはなっていました。恐らく今年の邦画で最も興行収入があるのではないかと今から想像出来ます。
しかし、その一方フジテレビ映画的な低俗さを感じたのも事実。
内容より仕草で笑わせるやり方、狂言回し的な無駄にひょうきんな脇役の作り方、ストーリーの一貫性の無さ、わざと映像をチープにする可笑しさの多用(こういう笑いは映像制作として逃げではないかと思う)、意味が分からないシーンの挿入(山の中で歌うオペラ歌手)など、これまでの日本映画で私が疑問を感じるような場面にいくつか出くわします。

この映画はイタリアでもウケた、との評判ですが、上記のような場面をもっと洗練させ上質な映画作りにすればもっともっと世界的にも評判になる映画になるだけの可能性を秘めていたような気もします。
とはいえ、こういう笑わせ方が日本人のツボにハマる部分もあり、ビジネスとして考えた場合仕方が無い(というか、よく心得ている)と言うべきなのかもしれません。

本作ではイタリアオペラを中心にたくさんのクラシック音楽が流れます。フォーレのラシーヌ讃歌はローマとはどう考えても関連性が無く、なぜこの曲をバックミュージックに使ったのか、ついつい考えてしまいました。

2012年5月3日木曜日

電機メーカーの何が問題なのか?

ちょっと本業のもやもやを一般論化して、ここでまとめてみます。興味の無い方は多そうですが、意外と深刻な問題だと私は思っています。

結論を先に言えば、電機メーカーとか家電メーカーと呼ばれる会社は、今後10年くらいのうちにスゴい勢いで凋落していくだろうと私は考えています。
スゴイといっても、加速は後段階になるほど強くなるので、現状でそのようになると思っている人はそれほど多くはないし、仮に状況が悪くなってもきっと我々にはそれを凌駕するような力があるに違いない、という根拠の無い安心感を持っているようです。

すでにそれと同じ例が世の中では一度起きているのです。
それは、PCの世界です。
PCを作ると言うこととは、その昔単体のハードウェアを作ることでした。そのハードウェアに関わることを全てPCメーカーが自社開発していました。
ところが、PCを動かすためのソフトウェアはだいたい機能は同じです。そのうち優れたソフトウェアを集めてOSとしてマイクロソフトが売り出すと、ソフト開発に苦労していたメーカーは喜んでそれを導入しました。
メーカーはモノを売って利益を上げるのですから、そこに添付されるOSも部品の一つ、というくらいの位置づけだったのでしょう。
ところが、時代が進むにつれOSこそがコンピュータの最も重要なファクターになっていきました。CPUも寡占化が進み,気が付くと、OSとCPUを作っている会社が超巨大化して、PCメーカーは彼らが言われるままに作る箱屋になってしまったのです。

同じことが携帯でも起こりつつあります。
日本メーカーは各社独自でソフト開発していましたが、それよりはるかに高性能な近代モバイルOSを搭載したスマートフォンが市場を席巻し始め、携帯メーカーはそれを載せるだけの箱屋になりつつあります。
サムソンが現在いくら携帯で儲けていても、彼らがスマホの重要な部分を持っていない限り、いつかはコモディティ化の流れの中で消耗戦を強いられることになるはずです。

あらゆる電化製品には、小さなマイコンが搭載されています。
その製品が多機能を指向すれば、データを保持したり、それを解析したりすることになります。そしていずれは、いつ誰がどの製品をどのように使ったか、ということまで記録を取りたい(それが奇妙な世の中に思えても、便利なサービスを提供しようと思うと結局そうなります)ということになり、その情報はネットに流れるようになるはずです。
つまり、あらゆる電化製品は、同じプロトコルを使ってネットに繋がることを指向するのです。そのための仕組み(OS)をいずれ搭載せざるを得なくなり、OSを動かすための標準化されたハードウェアはどの製品でも使えるようになっていくでしょう。

先日、家具メーカーのIKEAがテレビの販売を始めた、というニュースがありました。
世の中のハードやソフトのプロトコルが標準化されれば、メーカーではない会社でもモノ作りが可能になってきます。
大事なのはモノ作りそのものではなく、それを使ってどのようなサービスを構築するのか、どのような楽しみを提案するのか、ということです。そういうソフト戦略が無ければ、いずれ現在の電機メーカーは沈んでいくしか無いと思うのです。

2012年4月29日日曜日

唄・今昔物語の初演

昨日、浜松少年少女合唱団の演奏会にて、私が編曲しました「唄・今昔物語─にほんのうた─」が初演されました。「唄・今昔物語」の編曲シリーズは第二弾。第一弾の話題はコチラ

今回は題材が日本の歌で、唱歌などを中心に7曲選びました。曲は「ふじの山」「シャボン玉」「砂山」「あめふりくまのこ」「青い目の人形」「汽車ポッポ」「夕焼小焼」。
最初はメドレーにしたいという合唱団の意向でしたが、私のほうからそれは止めたほうが良いとお話ししました。以前も同じような唱歌系の曲をアカペラでアレンジしてメドレーにしたとき、想像以上に難しくなってしまった反省もあって、児童合唱だと厳しいと思ったからです。
結果的に今回のステージは、最初の「ふじの山」と最後の「夕焼小焼」をちょっと派手なアレンジにして(というか、前回程度の難しさ)、その他の曲は声部も少なく、曲も短くし、曲間は合唱団のアイデアによる演出によってつなぐことにしました。
昨日の演出は、さすがに児童合唱に慣れた皆さんだけあって、お客さんをちょっとクスッとさせるような面白い繋ぎが出来たと感心しました。

しかし、改めて思ったのは、多くの人が知っている日本の唱歌系の編曲ものはやはりウケが良いということ。演奏会後にアンケートを読みましたが(基本的に全て好意的な感想ですが)特に「唄・今昔物語」には多くのお客さんが楽しく聴いてくれたのが良く分かりました。
いいと思う理由を大別すると、「子供の頃を思い出して懐かしくなった」系、「オリジナル合唱曲で無くて知っている曲だから良かった」系、「聞き慣れた曲を違ったアレンジで聴いて面白かった」系の3パターンくらい。
最初の二つは普段合唱を聴かない方々ですから、まさにこういう方々に気持ち良く聴いてもらえるためのレパートリーとして、やはり唱歌系のステージは重要なものだと再確認。
三つ目は、もうちょっと音楽的な聞き方をしてくれた方で、ポリフォニックにしたり、転調したり、和音を変えたりしたことで喜んでくれた方々。もうそんなことなら、いくらでもしてあげますよ!

浜松少年少女合唱団は今年の夏にドイツ演奏旅行の予定があり、ドイツの教会でこの編曲を演出付きで演奏するそうです。
原曲を知らない人はどのような反応をするか若干不安はあります。そのとき初めて純粋に編曲の面白さを聴いてもらえるのかもしれません。

オリジナル曲ではないので、このページには紹介を載せていませんが、興味のある方がいましたら楽譜をお送りすることは可能ですので、ご遠慮なくお問い合わせ下さい。

2012年4月25日水曜日

作曲とアイデア

創作活動はアイデア出しの連続です。少なくとも、私にとってそういう観点で曲を書いています。今回はアイデアについて、作曲という観点から自分の感じることを書いてみようと思います。

まず曲の構想段階でのアイデアはどうでしょうか。
合唱曲の場合、一般的には既存の詩を選んでそれに曲をつけることを選択します。これが曲の構想とほぼ一致する行為です。詩が決まれば、曲の雰囲気も、規模感も、楽曲の起伏もだいたい決まってくるからです。

自分がよく使っている詩人から詩を選ぶ場合、この段階でのアイデア度は低くなります。
逆に、完全ヴォカリーズであるとか、切れ切れな言葉の断片をテキストにするとか、長い文章から言葉を抜き取るとか、もちろん自分で詩を書くとか、テキスト自体を創作するということになると、そこには多くのアイデアが入る余地が出てきます。

そういう意味で作曲=アイデアとでも呼べるのが、マリー・シェーファーの一連の合唱曲です。Magic Songsでは動物たちの生態のようなものが音楽化されているし、ガムランでは器楽を敢えて口三味線で歌わせます。
それは音のでるものなら、何でも声で真似しちゃえ、という態度がベースになっていますし、その上で作曲家が何を主張したいのかがより明瞭になるわけです。

大切なのは、「これを声でやったら面白い」というアイデアだけでなく、その中にどんな主張を込めるかという点です。アイデア優先のとき、それが目的になってしまうと、そもそもなぜそうなのかという視点がすっかり抜け落ちることが起きてしまうからです。
主張というとややお固い感じを受けますし、平和とか愛とか、そういうありきたりで抽象的なものをイメージする人も多いですが、そういう部分にももっと独自性があるべきでしょう。この辺りが凡庸なものと面白いものの分かれ目になると思っています。

次に実際の作曲過程のアイデアはどんなことが考えられるでしょう。
これは現実には、手癖との戦いとも言っていいと思っています。鍵盤を叩きながらフレーズを考えたり和音の展開を考えていくと、どんどんいつもの自分のパターンに陥っていきます。
もちろんアイデア自体、自分が思い付くものには限りがあるし、自分のパターン化があるわけですが、それでもマンネリな曲展開に刺激を与えるために、時々意識的なアイデア投入が必要です。

例えば、最低音のパートであるベースに和音の第三音を持っていくとか、突然ユニゾンにするなど和音感を逆に薄くしてみるとか、ビートを四分音符ベースから二分音符ベースにしてみるとか、変拍子を挿入してみるとか、いろいろな方法で曲に刺激を与えていきます。
今書いたことは自分が思い付いて書いていることなので、私の曲に顕著なのですが、もちろん他の作曲家にはそれぞれ自分なりのパターンがあるものと思います。

こうやって考えてみると、作曲におけるアイデアというのは、マンネリ打破のための積極的な刺激投入策という言い方が出来るのかもしれません。

2012年4月21日土曜日

PCも携帯も無かった時代

気が付けば私も40代半ば。昔のことを考えてみると、やはり歳を取ったんだよなあと実感します。

自分の息子はまだ3歳前ですが、PCでYouTubeを見たり、iPhoneやDSのタッチパネルで遊んだりしています。
翻って自分のことを考えてみれば・・・私がPCに継続的に触れたのは、就職してからのこと。大学の研究室には置いてありましたが、もちろん個人用ではありませんでした。
携帯が一般化したのは90年代の後半。恐らく私が初めて買ったのは30歳頃でしょう。

そうやって考えてみると、物心ついた頃にすでにPCも携帯もあった今どきの新入社員とか、ましてや物心つく前から電子機器に囲まれている息子の環境などは、自分の経験からは思いもよらぬ状況であり、そこで形成されるモノゴトの考え方なども当然変わってしかるべきなのかもしれません。

私は、多感な学生時代、PCも携帯もなくどうやって生きていたのでしょう。
そう考えると不思議な感じがしてきます。今や、PCや携帯無しには生活もままなりません。そんなのは文明以前の世界に思えます。でも、確かに私が若かった時代にはそんなハイテク環境にはなかったのです。

PCが無かった時代、自分が見たり聞いたりすることが世界の全てでした。
ネットで会ったことも無い誰かの生活を知ることも無かったし、自分の考えをネットで書くなんてことも無かった。
何かを伝えたくても、家に電話をかけるしかなかったし、もちろん電話をかけても家にいるとは限りません。女の子の家に電話をかければ、まず必ず親が電話に出てきます。長電話すれば家の人にも迷惑がかかるし、家族にも「いまの人、誰なの」みたいな詮索をされることもあったでしょう。

私たちの世代は知らないうちにそういう時代の常識が刷り込まれていて、それが若い人たちとの意識のギャップになっているのかもしれないと思ったりします。
何かを伝えるためにそれ以前のことで苦労した時代。しかし、物理的に他人に伝えることがいとも簡単にできるようになった現代。
私は昔は良かったなどと言う気はありません。正直言って、今のほうが断然面白い。それでも、PCも携帯も無かった時代に自分は生きていたということは、これからの人生においても何かしら影響を与えるのではないかと感じます。

2012年4月17日火曜日

ダサいアイデアにならないために

良いアイデアを考えよう、と思うほどなかなか良いアイデアは出ませんね。
私が、心の中で「それ、ダサい」と思う場合、いくつかパターンがあります。これを反面教師にすれば、アイデアがダサくならないようになるかもしれません。

1.意味から攻めてしまう
例えば何かの名前を考えたり、キャッチフレーズを考えようと言う場合、多くの人が「何をしたいのか」という意味を考え、そこから思い付く言葉を使おうとします。
これは、目的に対して非常に合理的な方法のように思えます。
しかし、名前とかキャッチフレーズとかって、もっと感覚的でナンセンスなものだったりします。そこに重々しい意味が加わると、妙に暑苦しい雰囲気になってしまいます。
特に合唱系では、そういう傾向が強いです。

2.無駄に横文字にする
外国語にするのが全部いけないわけではないけれど、意味もなく英語にしたりフランス語にしたりするとダサいことが多いです。
思いがけない組み合わせならいいけれど、誰でも知っている基本単語をわざわざ使ったり、逆に誰も知らないような単語を使ったりというのはセンスを疑われます。
最近、芸能人とかで自分の名前をわざわざローマ字にして芸名にする人がいますが、あれも私的には非常にダサイ行為です。

3.長過ぎる
会社の資料とかでもそうですが、長いほど立派に見える、というややレベルの低い満足感でものを作る人がいます。ものには最適な長さというものがあります。効果的に何かを伝えたいとき、それが長過ぎないかはよく考えてみる必要があります。

4.危険なオヤジギャグ
シャレのセンスは難しいです。思い付いたときはニヤッとしても、改めて人から聞かされるともうオヤジギャグとしか思えないレベルだったりします。
テレビのCMなどではオヤジギャグをうまく使う場合もありますが、それはコンテキスト依存なので素人は止めたほうがいいかもしれません。

5.シュールな世界に飛び込め!
結局、凡人のアイデアはシュールなものからどうしても遠ざかってしまうのです。それは1.でいった意味から攻めてしまうことが大きな要因です。
思い切って、ナンセンスでシュールな世界に飛び込んでみましょう。後は数をこなせばこなれてくるのです。
人の注目を集めるものには、どうしても適度なシュール感が必要です。なぜソフトバンクのCMでは犬がお父さんなのか、それに理由をつけたらちっとも面白くない。そういう荒唐無稽な設定を現実にしてしまったクリエータのアイデア(のベクトル)が非常にレベルが高かったのだと思います。

2012年4月14日土曜日

アイデアとは何か?

今やどんな活動をしていても、何か新しいアイデアを考えなければならない、という状況にある人は多いのではないでしょうか。

私は幸か不幸か、アイデアを出せ、と言われて追い詰められるような(幸せな)立場にあまりなったことはありませんが、日頃からアイデアを考えるのが大好きな性分で、自分の領域ではないことまであれこれ意見を言いたくなってしまう、ちょっと面倒な人です。最近は、歳を取って発言し易くなったせいか、そういう性格がさらに加速している気もします。

私から見ると、いろいろな場所で本来アイデアを出すべき人が全くというほど出していないように見えます。
あるいは、そういう立場の人が「みんないいアイデアはないか?」と尋ねるようなこともしばしば。残念ながら、そのような場でいくら優れたアイデアが出されても、それがうまく実行されることはないでしょう。

そこに、アイデアに関する一つの真理があります。
つまり、アイデアの実践は、アイデアを出した者が中心になってマネージしなければ本当の意味では達成できない、と私は考えます。
それはなぜかというと、アイデアとは抽象的なイメージでシンプルなキーワードで表現することは可能ではあるけれど、逆にそれだけで全てを伝えることは不可能だからです。
アイデアを考えた人も、もちろん細部にいたって完璧に考えているわけではありません。しかしアイデアとは座標ではなく、ベクトルとでもいうべきものです。だから、それを作る過程でアイデアを出した者が全ての決定権を握らなければ、本当の意味でそのアイデアを達成したことにはならないのです。

またアイデアとは、基本的には既存のものの組み合わせです。
逆にその程度のものでなければ、一般の人はついて来れません。人に何か影響を与えるためにアイデアを考えるのですから、一般の人がついて来れないモノを考えても意味はないのです。
ところが、既存のありものというだけで、「新しくない」と判断するセンスのない人がどうしても存在します。逆に、今までに無い新しさを追求するあまり、非常に痛々しいモノを作ってしまうようなこともままあるものです。
クリエイティビティの質とは、「既存のものの組み合わせ」のセンスの善し悪しなのです。そのためには、既存の優れたアイデアを常日頃から摂取するような生活をしなければなりません。その人がアイデアの宝庫であるためには、そのセンスを研ぎすますために、他人の作品から刺激を受け続ける必要があります。その蓄積が、組み合わせの可能性をさらに増やしていくことになるからです。

2012年4月11日水曜日

作曲者と演奏者の関係

先日の日曜日、拙作「わらははわらべ」が久し振りに演奏されることになり、それを聴きに東京に行ってきました。とても素晴らしい演奏で、作曲家として大変幸せな時間を過ごすことが出来ました。

しかし、この作曲家という立場は考えてみればおかしなものです。
自分では全く演奏に関与していないのに、多くの人が必要以上に尊敬の念を抱いているように見えます。
例えば演劇で言えば、作曲家は脚本家に該当し、指揮者は演出家に該当する、といった感じでしょうか。
確かに脚本は芸術家っぽいけれど、作曲家ほど表舞台に出ているような存在ではない気がします。どちらかというと、演劇の主役は圧倒的に役者です。

私は音楽についても同じような感覚をずっと持ち続けています。
つまり音楽で一番賞賛されるべきは、演奏者ではないかと思うのです。もちろん、賞賛されるに値するような演奏したときの話です。
お客さんは人並みはずれた、素晴らしい演奏技術を楽しみたいのではないでしょうか。音楽の楽しみの第一はやはりヴィルトゥオーゾにあるのではないかと思うのです。
演奏技術でなかったとしても、舞台に立つヒーロー、あるいはカリスマの声を聞いて酔いたいという気持ちもあるでしょう。音楽の感動からはやや離れますが、それは宗教に熱狂する気持ちとそれほど変わらない気持ちかもしれません。

だから本来は、作曲家・作詞家がそのまま演奏者であることが一番良いのです。
それが最も自然な形で出来ているジャンルは、ロック・ポップスであり、ジャズです。そしてそういう考えから一番ほど遠いジャンルがクラシックです。
しかし残念ながら、演奏技術に優れていても作曲技術に優れていない場合もありますし、逆の場合もあります。だからこそ、両方を備えた才能は全く類い稀な芸術家ということになるわけですが、こういったミスマッチを解消しようとしたのが、作曲と演奏の分離ということなのでしょう。
クラシック音楽ではなぜかそのような分業体制が長い歴史の中で確立されてしまったのです。

しかし、それでもなお私が言いたいのは、本当に伝えたいことはその人にしか分からない、ということ。作曲や作詞をした人が自らの歌で演奏で伝えることが、最も効率的に音楽に込められた想いを表現できるのです。
作曲家が書いた楽譜に書かれたことは、音楽演奏に必要なメッセージ全体から見れば遥かに少ない量なのです。そのことに演奏家は自覚的であらねばなりません。

それでも分業体制が続くのであれば、作曲・作詩の創作家はその想いを楽譜に上手に織り込んでいくべきですが、それ以上に演奏家は楽譜に書かれた情報をはるかに超えたメッセージを音楽に込めなければなりません。
楽譜に書かれる情報には限界があるのですから、演奏家にはもっともっと楽譜に書いてある以上の想いを演奏に込めて欲しいのです。

2012年4月6日金曜日

音楽とはパフォーマンスである

J-POPから、ロック、ジャズ、クラシック、そして現代音楽まで俯瞰してみたとき、一言で音楽といってもとても一括りには出来ない幅の広さがあります。
単に楽器を使って音を鳴らせば音楽というのでしょうが、そもそもそういう括りで特定の芸術活動をひとまとめにしてはいけないのかもしれません。
とはいえ、舞台の上で音楽を演奏する、という行為にはある一定の共通点があることは確かなことだと思えます。

例えば、物音一つ立ててはいけない緊迫感の中で聞く音楽があります。
奏者の音楽観、世界観を全身で受け止め、一瞬たりとも気を抜いてはいけないような時間密度の高い音楽体験です。聴く側にも厳しい緊張を強いるのですが、内面に訴えるその力は、ときに強く心を揺さぶり、演奏後に深い感銘をもたらします。

しかし、世の中はそのような音楽ばかりではありません。
演奏会であったとしても、自らも身体を揺らしたりして、もっとリラックスして聞くことが出来、気持ちを高揚して人々を夢の世界に連れてってくれるパフォーマンスもあります。
没入感を高めるため、音量は上げられ、照明も暗くなったり派手な色を使ったり様々な工夫が凝らされます。舞台に立つ人の強力なカリスマ性は、観る者を一種の宗教的興奮にさせるのです。

これらは、いずれも周到な用意で準備された音楽をベースにしたパフォーマンスです。
どのような形であれ、観客は高額なお金を払って観るのですから、その様式に従った鑑賞態度を取るのは当たり前のこと。つまり聴衆さえ、そのパフォーマンスの共犯者であり、パフォーマンスの一部であると言えるでしょう。

しかるに音楽のプロでない者というのは、お客さんまで共犯にしてしまうようなパフォーマンスが出来ていないのです。
そもそも自分のパフォーマンスが上の例のどちら側に属するのかも明瞭ではないし、自分が望むパフォーマンス空間が自分で分かっていない可能性があります。

音楽の練習をしていると、アマチュアは自分たちが奏でている音楽そのものにしか目にいかないものですが、本来聴衆が求めているものは演奏者との一体感であり、それを感じさせるためのパフォーマンスなのです。
そのような自覚を持たないと、練習の意味も方向性も迷走してしまうのではないか、そんな気がします。

2012年4月3日火曜日

音楽の未来

音楽ってこれからどんなふうに変わっていくのでしょう。

この前、テレビで20〜30年前のヒット曲を流していて、確かに当時の楽器の音とかはちょっと時代を感じるのだけど、基本的なリズム感とか、メロディとか、歌詞の雰囲気とかってほとんど今と変わっていないような気もしたのです。
ところが、その前の70年代、60年代・・・と時代を遡ると音楽性そのものが変わってきます。いや、私には違って聞こえるだけなのかもしれません。でも私には、80年代以前は単純に音楽がどんどん変わり続けていたように感じるのです。

音楽が進化せずに停滞し始めたと私が思うのは90年代以降でしょうか。
もちろん,厳密な意味で言えば音楽は変わっています。しかし、それまでの変化幅に比べると明らかに変化量が小さくなった感じがするのです。

一つには電気楽器の発展が一段落付いたことが挙げられます。
ギターやベースがエレキ化された後、電子鍵盤楽器が70年代に登場すると、録音技術の向上もあって音楽の質感があれよあれよという間に変わってきたのがこの時代。
しかし、シンセサイザーで出来ることが一通り開拓されると、音楽性に大きな変化が見られなくなりました。
結果的に、音楽で語られる言葉も、それを歌う歌手のあり方も、ここ20年それほど変わってきた感じがしません。

しかし、これから大衆音楽がどのように変わるか考えたとき、いくつかのポイントは挙げられると思います。
一つは、音楽文化の中心が欧米、日本から、アジア、中東、南米などに変わるのではないか、ということ。それは単に、経済の中心がもはや欧米ではなくなるということに起因しています。
今後、BRICsと言われるような国々が経済発展すれば、それらの国々の文化が世界に向けて発信されることが多くなるでしょう。そのとき、今まであまり聞いたことのないエキゾチックなものがあれば、世界規模で流行るようになる可能性もあります。

もう一つは、音楽製作がよりパーソナルになった結果、バンドといった演奏形態が一般的では無くなるかもしれません。むしろ、録音された伴奏をバックに、弾き語りしていくような演奏が増えてくるような気がします。
その場合、リズムも普通のドラムセットである必要もなく、ここ数十年続いたバンド的な音楽の音像はだんだん少なくなっていくということはないでしょうか。

とは言え、若者がいる限り、力強いビートのある音楽、ダンスで必要な音楽は無くなるはずもありません。むしろ、こちらのほうはDJっぽいコラージュ的な音楽作りがより発展していくような気もしています。

2012年3月31日土曜日

組織がパフォーマンスを上げるために


会社にしても、趣味の合唱にしても、ある組織がいろいろな問題を解決しパフォーマンスを上げるためには、そのための仕組みづくりが必要です。
何か問題があったとします。技術的な問題であれば、すぐに考えるのは、技術力を上げるために何か講義を受けたりレッスンを受けたり、という取り組みをすることが思い付きます。
例えば合唱団で言えば、発声が良くないと言われたらボイトレをやろうというような取り組み。これは合唱でなくても、いろいろな組織で通常行なわれることです。

さて、そのような取り組みをした結果、成果は出たでしょうか?
たいていの場合、個人のスキルが向上したかどうかを判断するのは大変難しいものです。これだけ練習したんだから、これだけお金をかけたのだから、これだけ特別レッスンしたのだから、自分のスキルが向上したのだと誰もが思いたい。もちろん、それを企画した人もそう思いたい。
そういう気持ちが前に立つと、取り組みをしたことだけで自己満足してしまい、本当にスキル向上があったのかが曖昧にされてしまいます。少なくとも、みんなが決めてやったことなのだから、意味が無かったとはとても言いにくいでしょう。

それを判断出来るのは、客観的に判断できる第三者です。
それは能力の問題とかではないのです。同じ組織内にいたら感情的な問題もあるから言いづらいこともあるでしょう。だからこそ、外部に何らかの客観的な指標を求めなくてはなりません。
それは合唱団の場合、コンクールというような方法もあるでしょうが、それだけではありません。とある有識者に定期的に意見を伺うだけでもいいのです。同じ人なら、前と比べて良くなったとか判断してくれます。いわば定点観測というやつです。

つまり組織が何らかのパフォーマンスを上げようと思った場合、内部で直接的に技術向上のための取り組みをするだけでは足りないと思うのです。
組織がパフォーマンスが上がったと判断するための客観的指標を用意し、その状況を内部に対して報告する必要があります。こういうフィードバックがあればこそ、個々人がどのように技術向上に取り組んだら良いかの判断となるし、どのような取り組みが有効だったかを検証できるはずです。

もちろん、これは概念論です。じゃあ具体的な指標はというと実はかなり難しいです。しかし指導したりチームを主導する立場なら、自分たちの取り組みを自画自賛するだけでなく、謙虚に周りの人からの意見を聞き、それを自分なりに咀嚼した上で、チームメンバーに伝えるだけでもいいのです。
リーダーにあたる人が常に客観的な判断を外部に求めるような態度が重要だと思います。

2012年3月26日月曜日

音律と音階の科学/小方厚

私も前に「音のリクツ」と題して類似の話題の連載をした身として、この手の本は大変気になります。さっと見渡して、内容的には自分にとって既知のものではあったものの、説明の仕方とか、そこから滲み出る音楽観とか、そういう部分において刺激を受けた本でした。

ただし、この本、ブルーバックスだけあって、理系人間を主な読者として想定しています。
数学的な話題もある程度突っ込みますし、数式やグラフを使って分かり易くさせようという意図が、かえって理系的になってさえいます。
しかし、それらは単純な物理的理屈だけではなく、必ずそこに音楽文化としての側面や歴史的側面があり、また一般にはそれほど知られていないような試みへの言及なども記述されるなど、著者の音楽に対する造詣の深さが伺うことが出来、なおかつ読み物として大変面白く書かれていました。

特に第4章からのアプローチは私も全く初めて聞くことで興味深かったです。
どんなアプローチかというと、倍音構造を全く持たない(純音)二つの音がどのような関係にあるとき、人は心地よく感じるか、という研究結果から音階の協和度を考えていくという方法。
まず、二音の関係からのアプローチのグラフは実に面白いです。音楽的な解釈無しでこのグラフを見るならば、二つのピッチが近いほど心地悪く感じ、ほとんど同じピッチになる直前で(同じ音に感じるようになるので)、また心地よく感じるようになります。
実際の楽音での音階上での二つの音程の心地よさは、このグラフを倍音毎に計算し全てを足し合わせたものになると考えます。そこで、一般的な倍音構造を持った音から1オクターブ内で心地よくなる音を探す計算を行ないます。
そうすると、そこで現れるのはいわゆる純正律の音階となります。
この論旨の流れは、私の理系センスをいたく刺激しました。音楽理論とは全く別の観点から、気持ち良い音階が純正律であることを計算で導いているのです。

最終章の音律の冒険も興味深く読みました。全く新しい音律を作ってしまおうという試みがいろいろ紹介されています。今のように電子楽器が発展している時代なら、このような楽器は簡単に実装できそうです。何かネタとして面白そうな予感を覚えました。
個人的には、これはお仕事で使えないかななどと考えています。楽器設計をする若い人には読んでもらいたいからです。

2012年3月22日木曜日

マジメに電子楽譜について考えてみるーコピー制限について


音楽出版社を巻き込んで、オンラインの電子楽譜データショップが出来たら電子楽譜の存在意義も高まるでしょう。
その際、避けて通れない話題は買ったデータのコピー制限の問題です。

例えば、自分がショップで買ったデータがPDF書類だったとします。このPDF書類にコピープロテクトの仕組みが全くないと、人にタダでコピーしてあげることが可能になってしまいます。
もちろんこの話題は、もう10年以上に渡って議論されたことです。特に音楽配信については、厳格なコピー制限(DRM)をかけることが行なわれてきたのが、だんだんとDRMフリーの流れに変わってきています。また、機器に対する私的録音補償金精度と称して、著作権料を製品価格に上乗せするような仕組みもありますが、これに関しても補償金を払いたくないメーカーの抵抗で、十分に機能しているとは言い難い現状があります。

購入したデータのコピー問題というのは、そういう意味で大変根の深い難しい問題です。
しかしこの件を事前に解決しておかないと、出版社との交渉の際、理解を得ることは難しいと思います。
確かに世の流れは、DRMフリー、補償金フリーなのですが、電子楽譜という新しいハードウェアと新しいデータ市場に関していえば、まずはDRMのような仕組みを作るべきだと考えます。

その理由は、まず楽譜の市場はそれほど大きくないという点です。
音楽データや書籍は、ある人気商品が何十万、場合によっては何百万という単位で売れることがあります。しかし楽譜は万単位で売れることはまれだと思います。特に演奏の難しい楽譜になれば、その販売数は激減するはずです。このような大きさの市場においては、データの価格も多少高めにせざるを得ず、コピー可能であることは音楽出版社にとって死活問題であることが予想されます。
次に、類似商品の少なさです。これから初めて電子楽譜のハードウェアを作ろうとしているのですから(え、誰が?)、まずはそのハードウェアに最適化されたデータが売られるはずです。音楽みたいにステレオの音声が出ればいい、という単純な仕様ではありません。表示の形、ピクセル数、表示速度などハードの性能に合わせたデータ作りが必要になるかもしれません。音楽はどんな環境でも聴きたいと思うからDRMフリーが歓迎されますが、デバイスとデータが密接に紐付けされるのなら、DRMがかかっていても文句を言う人は少ないと思われます。
もちろんこの問題は、実際に端末が売られて数年後に顕著になる話です。DRMはまず対応しておいて、その後に問題が生じたら対策を考えるくらいでも良いかと思っています。

具体的なDRMの方法はどうすべきでしょうか。
これは少々技術的な話になりますが、購入されたデータが例えばPCを利用しても簡単にファイルとして抜き出せないようになっているのであれば、それでも良いと思います。
ただし、PCはやる気になればいくら隠してもファイルを見つけることは出来そうなので、その方法をやるなら少々工夫が必要かもしれません。
もう一つは、データを暗号化することです。暗号化を解除するためには個別のキーが必要になります。個別のキーを作るためにあまり面倒なことをユーザーに強いたくはありませんので、出来れば電子楽譜の機器に固有のIDを振りたいところです。
機器に固有IDを振るのは、製造工程にちょっとだけ負荷がかかりますが、暗号化する場合はそれが最もスマートなやり方のように思えます。

2012年3月18日日曜日

マジメに電子楽譜について考えてみるー新しい楽譜の買い方


ずっと電子楽譜のハードウェアの話をしてきました。
この辺りから、私の専門のソフトウェアの話を書いてみます。

ソフトウェアと言っても、この電子楽譜の機能についてではありません。機能についてはまた別途機会を設けますが、むしろ大事なのは楽譜の入手とこの機器への入力方法です。
そんなの、楽譜の画像をグラフィック用のファイルか、PDFにしてUSBで転送すればいいじゃん、と言って話を終える人もいるかもしれません。多分多くの人はそういう感覚を持っていると思います。

しかし私は電子楽譜にとってむしろ一番大事なのが、この部分ではないかと考えています。
なぜなら、ここにはとてつもないプラットフォームビジネスの芽があるからです。それは一言で言えば、iPodとiTunesでAppleが確立した方法です。AppleはiPodを作り、たくさんの音楽を持ち運べるようにしました。iTunesを使って手持ちのCDをPCにリッピングし、それをまとめてiPodに送るようにしたのです。そこまでならそれほど大きな話ではありませんでした。
しかし、次にAppleはiTunesの中にオンラインのレコードショップを作りました。多くのレコード会社がそれに参加し、iTunes Storeで音楽を電子のまま購入することが可能になりました。確かに、CDの質感とか、リーフレットとか、モノを持っているという満足感は得られませんが、聴ければ十分という人たちのニーズは確実に満たせたわけです。
そして今では、iTunes StoreはアメリカでNo.1の音楽小売りショップとなってしまいました。

もちろん、上記のことはご存知の方も多いことでしょう。では、これと同じことを電子楽譜で出来ないものでしょうか。
つまり、楽譜をスキャンしてPDF化する(リッピングする)ソフトや、そのような楽譜データをまとめて電子楽譜に送るようなPC上のソフトを作ります。そして、そのソフト内にて、オンラインの楽譜ショップを作るわけです。
もちろん本当にそれを実現しようと思ったら、多くの音楽出版社に電子楽譜を売りませんか、という交渉をしなければなりません。これは、世界規模でやろうと思ったら簡単な話ではありません。
しかし、楽譜は一般書籍と違ってそれほど数が出るわけではないけれど、長い間売れ続けるというタイプの商品です。合唱のように団単位で同じものがどっさり売れるというのはレアケースで(そのため合唱は楽譜のコピーが多いのですが・・・)、個人が楽器の練習用に買うケースがほとんど。またオーケストラであればパート譜をレンタルで、というような形でしか演奏用の楽譜を入手出来なかったりします。

このような状況においては、楽譜出版社にとって、楽譜を電子化するのはむしろ大変嬉しいことだと思うのです。
何しろ印刷楽譜の在庫を持たなくていいのです。そのくせ、電子データは将来にわたって売れる可能性がありますから、一度版下さえ作れば、その後は大きなコストがかからずに売り上げが入ることになるのです。
もっともこれは楽譜ビジネスを良く知らない、一技術者のたわごとなので、もしかしたらそんな単純な話ではないかもしれませんが・・・

2012年3月15日木曜日

マジメに電子楽譜について考えてみるー表示やスイッチ


肝心の表示部はどういうデバイスを使うべきか?
これは、液晶ではなく電子ペーパーを使うべきでしょう。今のタブレットは基本液晶です。液晶はカラーも容易だし反応速度も良いのですが、電子ペーパーは省電力であり薄くて軽いです。より紙に近い感覚はむしろ電子ペーパーのほうです。
楽譜の場合、カラーでなくても商品としては成り立つし、動画も基本は必要ありません。電源を切っても表示され、かつ低消費電力である電子ペーパーは電子楽譜の表示デバイスとしてほぼ完璧な特性を持っています。現状、これに勝る選択肢は無いでしょう。

次にスイッチですが、これはちょっと悩ましいです。
電子機器である以上、何かの操作をする場合、全くスイッチが無いというのは難しいです。iPadを始めとするスレートデバイスのようにタッチパネルにするかは微妙なところ。タッチパネルにすれば確実にコストアップするし、Appleみたいにガラス製にすれば楽譜が重くなってしまいます。また電子楽譜の場合、タッチパネルでなければ操作が出来ないわけでもありません。もちろん、ペンで楽譜への書き込みはしたいところですが・・・
ただ、今の時代タッチパネルでないことがそろそろ許されない状況ではあります。この辺をどう考えるかは製品化の際、重要な判断となるでしょう。

仮にタッチパネルを諦めた場合、ページをめくったり、各種機能を呼び出すためのスイッチが必要になります。その場合、電子楽譜の下側に左右スイッチや十字キー、Enterなどが必要になるかもしれません。
ページめくりについては、別途ペダルや外付けスイッチなどがあると、演奏の現場では喜ばれるかもしれません。

ということで、ちょっと恥ずかしながら、これまで書いてきたことを絵にしてみました。

2012年3月12日月曜日

マジメに電子楽譜について考えてみるー軽さについて


本体を別にしてまで軽くする理由はあるでしょうか?

そもそも楽譜ってどのように置かれて使われるものでしょう?
一番多そうなのは、ピアノ、オルガン、キーボードなどの譜面台に置くという使われ方。鍵盤楽器にはたいてい譜面台がありますから、ここに置かれるというユースケースは非常に高いでしょう。
次に、単独の譜面台に置かれるというケース。オーケストラでは、ほぼ全ての団員が譜面台の上に楽譜を置いて演奏します。
そして最後に手に持つというケース。これはほぼ歌う人に限られるでしょう。声楽家や合唱団など。

手に持つ場合は軽いほうが良いに決まっています。
その一方、譜面台の場合は、電子楽譜は重くても良いような気がします。でも実際のところどうでしょうか。世の中の多くの譜面台は製本された楽譜を置かれる前提で作られています。そういった華奢な譜面台に重たい電子楽譜を載せるというのは、かなり不安です。上が重くなって譜面台が不安定になるので、ちょっと触れただけでもすぐに倒れそうです。倒れた時の音の大きさを考えると、音楽的には勘弁して欲しいです。

妙な言い方をするなら、譜面台というのは、楽譜にとってのインフラです。
すでに世の中には大変な数の譜面台が普及しており、これを生かそうと思えば、現状の楽譜レベルの重さであるほうが好ましいはずです。
譜面台の色や形状などもアンサンブルでは揃えたいでしょうから、電子楽譜だけ別の譜面台というのは見た目的にちょっと受け入れ難い選択です。
本当に電子楽譜が普及し尽くしたら、それにあった譜面台というのも考えられるでしょうが、一番最初に電子楽譜を普及させようと思うなら、今の譜面台を使わざるを得ないだろうし、そのために軽さは絶対条件だと感じるのです。

目の前に重い楽譜があると、音楽まで重くなってしまいそうです。そういう見た目や質感というのも演奏行為には重要な要素と考えます。
ですから私としては、電子楽譜にはそこそこの軽さを求めたいのです。紙と同じとはいかなくても、A4のアクリル板くらいの重さくらいにはなって欲しいと思います。

2012年3月10日土曜日

マジメに電子楽譜について考えてみる


この手のネタは以前も書きましたが、マジメにというのは、単なる思いつきだけではなく、本当に商品として成り立つのか、ということを今の私の知識や体験をフル稼働して考えてみようという試みです。同じようなことを考えている人がいたら、意見をもらえると嬉しいです。

現実的に演奏に使うなら、まず大きさと重さがあるラインを超えていかないと実用にならないと考えます。
私の考えるところ、大きさはA4×2が最低でしょう。楽譜は本を読むのと違い、顔の位置と多少の距離が必要です。顔を近づければ読める程度の大きさでは実用になりません。
ピアノの楽譜でもA4版が一般ですし、それを通常見開きで使うのですから、電子楽譜のハードウェアもA4を2枚使うべきだと思います。残念ながら今のiPadでは、大きさもA4の半分くらいですから、本当に見たい領域の1/4程度の広さしかないのです。

次に重さ。これも現在のiPadやタブレットの重さでは厳しいと思います。
もちろんもっと軽くしたいわけですが、それが技術的に無理ということになると、やはりまだ電子楽譜は難しいという結論になります。
ただ、ここでちょっと発想を転換すれば、今の技術でも不可能ではない方法もあるのではないでしょうか。一つには重くなってしまう部分を分離する方法があるでしょう。分離してそれを無線化できると良いのでしょうが、最初は邪魔にならない程度に細いケーブルで繋ぐという手もあります。
一番重いのはバッテリーなので、電源は楽譜から外すことになるでしょう。また楽譜にCPUやメモリを積むのも重くなる要素なので、出来れば表示に関わる部品だけにします。
というわけで、現状楽譜の重さを軽くするのであれば、電子楽譜部分と本体部分を分けてケーブルを繋ぐ、という方法が考えられます。もちろん、使うのはちょっと面倒です。これが耐えられないとなると、この方法では商品化は難しい。無線なら随分楽にはなりますが、結局楽譜側に立派な電装が必要になってしまうのでなかなか難しいです。

楽譜と本体がセパレートになっていてケーブルで繋ぐ、というコンセプトはもちろん実使用上では不便ではあるけれど、それを補うほどのメリットがあるのなら、こういう形もあり得るのではないでしょうか。
(続くかも)

2012年3月5日月曜日

ヒューゴの不思議な発明


なんと半年も映画を観てなかったんです。すっかり映画から離れた生活になってしまいました。
日曜日、急に映画を観たくなって、同時にやっている「TIME」とか「はやぶさ」も気になったけれど、歯車で動き出す機械の美しさに惹かれるようにヒューゴを選んでしまいました。
マーティン・ スコセッシ監督。アカデミー賞でもたくさんの部門賞を取った非常に高評価な映画だけあって、細部まで配慮がされている非常に完成度が高い映画。何でもないことなのに、出てくる人たちの心の動きがとても良く伝わってきて、何度も泣けてきます。

さて、大雑把にストーリーを説明すると、ヒューゴは父を亡くしたあと、叔父に連れられ駅の中に住みながら駅の時計を調整する仕事をしています。半分ホームレスのような少年。その少年が、父の形見である自動機械を直すために部品をくすねるのですが、それを知ったオモチャ屋に捕まるところから物語が始まります。
その後は、オモチャ屋の娘と仲良くなり、二人でまるで謎解きをしていくように、オモチャ屋夫妻の過去がだんだん明らかになっていく、という感じ。

何といっても、ロンドン駅の内側にある時計を動かすための機械たちが美しいのです。
表からは見えない薄暗い裏の世界。そこに無機質に並んだ歯車やゼンマイ、振り子。子供心がくすぐられるような壮大な秘密基地。そこを朝から晩まで縦横無尽に駆け巡るヒューゴは、貧しい少年ではあるけれど,多くの子供たちからみたら羨望の的でしょう。
この少年が生きている世界観を、この映画では実に美しく表現しています。時計台からみる街の夜景も美しい。それはこの少年しか観ることの出来ない絶景なのです。

それから、もう一つこの映画が面白いのは、映画そのものへの愛情に溢れているということ。
後半は実は映画黎明時の映画製作者の情熱を表現するシーンが多くなるのですが、CGや特殊技術がなかった時代にどのように面白い映像を作るのか、そういうことを創意工夫しながら考え続けることの面白さ、まさにエンジニアとしての喜びをうまく伝えていたように思うのです。
機械が自動に動くことへの飽くなき想いと、そのような創意工夫はエンジニア的な喜びの発露であり、そんな気持ちを余すところなく表現していたこの映画は、私のような人間にとってもう感涙ものです。

ちょっと大したことでは無いのだけど、冒頭オモチャ屋の主人が子供を捕まえる場面だとか、駅の公安員が子供を追いかけたりするところとか、子供であってもこのように厳しく対処する、というのはちょっと日本じゃないよな、というか、日本の映画じゃ無いよな、と感じました。
彼らは彼らなりに人間味に溢れているのに、悪いことに対して毅然とし、誰であっても職務を果たそうとする感じはヨーロッパ的な香りを感じたりしました。

実はこの映画、3D版もあったのですが、時間の関係もあって通常版にしてしまったのです。
後で考えると、妙に奥行きのある映像とか、汽車が迫ってきたりとか、背景が非常に広がりのある風景とかがあったので、3Dで観たらまたそれなりに気持ち良かったかもと思いました。
まぁ、アクション映画とかじゃないし、SFや壮大なファンタジーでもない、どちらかというとヒューマン系なので無理に3Dで観ることも無いわけですが。

2012年3月3日土曜日

私たちが好きな音楽


マイケル・ジャクソンやホイットニー・ヒューストンといった有名シンガーが不慮の死で亡くなった後、多くの人たちが二人に弔意を示し、また偉大なアーティストを失ったと嘆きました。
確かに彼らは圧倒的なCD売り上げを誇っており、それは取りも直さず多くの人々がその音楽を聴きそれに感動したということに違いありません。

私自身は、実際のところ興味を持って聴いていなかったので、喪失感といった類いの感情は正直全く感じませんでした。むしろ若くして有名人になってしまったセレブの末路、というようなストーリーに思いを馳せてしまいました。
他人がある音楽を好きだと言っていることを非難するつもりは全くありませんが、あるところで火が付き大衆化してしまった音楽に対して、多くの人々は無批判に受け入れ、他の人と同じように鑑賞し、同じような想いを持ってしまうようです。音楽に関して言えば、それは決して日本だけの現象ではないでしょう。

この世の中に存在する音楽には、その受容のされ方においていくつかの種類があると思います。
よせばいいのに、それをまたまた独断で分類してみます。
レベル1)最低でも1000万人以上に流通した(耳に入った)超有名曲
レベル2)あるカテゴリー(世代、地方、特定ジャンル愛好家)の中で十分に流通した有名な曲
レベル3)世間的にも、カテゴリー内でもそれほど有名ではないけれど、流通経路を持っており、知る人ぞ知る音楽。
レベル4)一般に流通しておらず、ある界隈だけで知られている曲
レベル5)作った人やその家族・知人くらいしか存在を知らない曲

全く共通点がない一般人同士が会話の中で使っても構わないネタは、レベル1に限定されます。もはやマイケル・ジャクソンなどはこのレベルで、世間常識として知っておくべき状態。
ただし芸術においては「知らなきゃいけないから聴いた」という感覚は心の奥にしまわれ、「世間で流行っているから聴いてみたら素晴らしいと感じた」というように多くの人が自己暗示をかけます。
まあ一種の権威主義なんですが、そうやって時代の感覚に寄り添って生きていくことは、むしろごく自然なことと言ってもいいのかもしれません。
それでも、無批判にレベル1の音楽を礼賛しているのをみると、ややその芸術観に底の浅さを感じないこともありません。テレビのコメンテータなども発言を良く聞けば、どの程度の感性で音楽を聴いているかは何となく分かってきます。

レベル1やレベル2に属する音楽は、そこに属しているというだけで多大なアドバンテージを持っており、メディアが発達した現在では、その他の音楽に対して圧倒的に優位です。
実際世の中のほとんどの人は、レベル2までの音楽があればそれ以上のものは要らないのです。
しかし、それしか知られない文化レベルは専門家的な感性からみれば、ちょっと不毛でもあります。これからの時代、ネットで個人の趣味が増幅されるようになれば、もっと好みは多様化し細分化される可能性もあります。そのとき、レベル3以下の音楽で質が伴うものが、広く受け入れられるようになると面白くなっていくのにと感じます。

2012年2月28日火曜日

意地悪な鑑賞法 その2


合唱団ではまだまだ暗譜することが多いですし、舞台にのる以上、絶対暗譜ということが常識化してしまっている団体もあることと思います。

暗譜を課している団体の演奏をよく見てみるのは面白いのです。
まず一人一人の歌っている様子を見てみて下さい。口や身体の動き、目線など。暗譜のおぼつかない人はいないでしょうか。
大きい団体ほど、暗譜の怪しい人はいそうです。その人数によって、その団体の普段の練習の出席率などが推し量れます。あるいは、その曲がどの程度の練習量で舞台に臨んでいるかも多少の想像がつくかもしれません。
もちろん練習量は演奏の出来から推し量れる部分もありますが、発声などはすぐに良くなるわけでもないし、音楽の細かい詰めは指揮者のセンスによっても異なってしまうので、推理するには難しそう。
高校生などは、時間もあるし上級生の目もあるから、暗譜が十分でないなんてことは無いのですが、これが一般団体になってくると、なかなか強制するのも難しく、その分普段の団の雰囲気などが見えてくるわけです。

あと、ほとんどの人が暗譜なのに楽譜を持っている人がいる、という演奏が時々ありますね。
こういうときなど、私は思いっきり何が起きているか想像を逞しくさせてしまいます。少なくとも、そういう団では指揮者が見栄えを重視していないことは確か。演奏さえ良ければ問題無いというドライな態度を持っているかもしれません。
しかし、それにしても団全体で暗譜と決めたのに、彼らはどういう特権で楽譜を持てるのか。
一つには、持っている人は非常に歌がうまい可能性があります。不公平だと思う以上の演奏上のメリットがあるということです。
もう一つは、持っている人は文句を言えない人である場合。これもその人が歌っている様を見れば、何となく分かりますね。すごく怖そうな高齢者とか・・・。
でも、こういうことを放置しておくと団内の統治が乱れますから、本来は許したくないもの。逆に言えば、一部の人が譜面を持っていることは、団の統治の弱さの現れであると言えるかもしれません。

「うちの団はなかなか伸び伸び、楽しそうに歌ってくれなくて・・・」という不満をいう指導者が時々います。
こういう状況は確かに演奏を聴けば一目瞭然です。身体が硬直していて、もう歌わされているという感じ。高校合唱団や児童合唱団はこういう事態に陥り易いのですが、これは申し訳ないけれど、ほぼ指導の問題です。
練習が楽しくないから・・・では無いのです。むしろ、こういう団では指揮者が一生懸命練習を楽しくしようと悲壮なほど笑顔で指導していたりします。
私の思うに答えはシンプルで、歌に自信が無いからです。あまりたくさんの曲を練習したり、非常に難しい曲を練習しているとどうしても演奏に自信が持てません。出来れば身の丈にあった、それほど難しくない音楽を使って、音楽の表現を深く掘り下げてみて欲しいのです。的確に指導者が音楽の魅力を伝えていけば、歌う側はだんだんとその曲を、伸び伸び楽しそうに歌うようになるのではないでしょうか。

2012年2月25日土曜日

意地悪な鑑賞法 その1


他人の演奏から学ぶべきことは多い、とは言うけれど、単に「上手かったね」という感想を持つだけでは学ぶことも少ないのではと思います。例えば、合唱祭のような玉石混淆状態であっても、様々な演奏からその合唱団の雰囲気や内情を察することは可能だし、そういうところから他山の石となるように学ぶべき点もあるのではないでしょうか。

実際の演奏の善し悪しから、その音楽の中身について良かったか悪かったか論じるだけでなく、合唱団がステージ上に現れてから消えるまでの様子をつぶさに観察することによって、合唱団がどのような雰囲気なのか、どのように内部統制を行なっているのか、指揮者と団員の関係とか、普段指揮者がどのような指示をだしているのか、とかそういうことを想像してみるのは面白いことです。
いくつか例を挙げて考えてみましょう。ただし、以下はあくまで一般論なので、特定のどこかの団のことではありませんよ!

まずは指揮者です。指揮者は本人が望む望まないに関わらず全身から音楽性が漏れ出てしまいます。
どのような振り方をしているかを見るだけで、指揮者だけでなく合唱団内のいろいろな状況を察することが可能だと思います。
例えば、ピアノ伴奏がある場合、どう聴いても音楽の主導権をピアノ伴奏者が握っているような演奏をみかけます。これは、フレーズの入りや、テンポの変化の様子を見れば分かります。明らかに指揮者の指示があまいと伴奏者が好きに音楽を作り出します。指示があまい指揮者はそもそも音楽を統率できていないので、その伴奏に合わせて指揮をするようになります。
ところが、自分で全て統制したいと思っている指揮者の元では、伴奏者は必死に指揮者を見つめ、特にフレーズの開始、テンポの変化では一生懸命食らいついていこうとします。
これは、演奏を見れば上記のどちらの状態か一目瞭然であり、まずその点において、指揮者の力量が計れるのと同時に日頃の団の練習の雰囲気も推し量れます。

ピアノ伴奏者が音楽を主導するような団では、たいてい指揮者は高齢者で、また団員も高齢であることは多いです。それほど難しくない曲を演奏しているのであれば、生涯学習的なサークルとしての側面が強い団と言えそうです。
たまに20〜30年前に流行った往年の名曲を大振りで演奏されている団体もあり、微笑ましくは思うものの、率直に言ってそういう団では音楽的な満足感を得るのは難しいでしょう。

実際、指揮者がきちんと音楽の主導権を持っている場合は、選曲などもある程度現代的な場合が多いです。
ただしそれがあまりに統制し過ぎている場合、今度は合唱団全体に生気が失われるという現象が現れることがあります。
人は叱られてばかりいると積極的な行動を取らなくなります。合唱団の練習も同じ。指揮者が上から目線であれダメ、これダメという指示ばかりしていると、合唱団員から積極性が失われ、結果的には非常に縮こまった薄い演奏になってしまいます。
またそれに指揮者が腹を立て、団員が悲愴な顔で大音量で歌っているのも、演奏を見れば察することは可能でしょう。こういうところが、演奏から普段の練習風景が見えてくるという所以です。

こういう見方を意地悪な鑑賞の仕方と思うかもしれませんが、結果的にそこから現れる音楽が良いものかどうか、と照らし合わせて考えれば、自分自身が同じ轍を踏まないための反面教師にはなり得るのではないでしょうか。

2012年2月22日水曜日

もう無責任ではいられない


前回、オープンとクローズのせめぎ合いについて書きましたが、もう我々がどうあがこうとオープンな世界に突き進むしかないと私は思います。
そんなとき社会はどうなっていくのか、ちょっと実例を元に考えてみたいのです。

私たち一般人は、通常芸能人でも政治家でも警察官でも裁判官でも、ましてや大学の教授でもありません。自分たちは自分たちのことを無知で非力なか弱い子羊だと思っています。だから、理論武装も何もしなくても許されるし、逆にどのような場でも言いたいことが言えてしまったりします。それは自分が公の立場で話さなくても良いからです。

何を言いたいかというと、例えば、昨今で言えば、沖縄の基地問題や原発瓦礫問題、その他、多くの住民の反対運動のようなものは全国にたくさんあるはず。
昔の成田抗争のように武力闘争みたいなことは無くなりましたが、国や自治体が説明集会を開いた際、ほとんど議論とは言えないような激しい応酬になることがあります。

公を背負っている人と、背負っていない人では、大きく立場が違います。
公を背負っている人たちが怒ったり、力でねじ伏せようとしたり、バカにしたような発言をしたりすれば、話はこじれ、まとまるものもまとまらなくなります。従って、どこまでも低姿勢であることが求められます。
ところが、反対意見を言う側は、どれだけ強く主張したかが問われるので、ややきわどい発言や、怨嗟の声さえ許されるように見えます。その様子は中立的な立場から見れば、双方の非対称さが目立ち、随分不毛な話し合いに見えてしまいます。

ここでもっと世の中がオープンになったらどうなるでしょうか。
住民代表であっても、政府や自治体代表であっても、ネットで発言することが増えてくるでしょうし、そう言った人たちのパーソナルな情報と彼らの発言は常にセットになっていくことでしょう。
住民代表であっても、その人がどのような職業で、普段どのような政治信条を持っているか、もちろん名前やら何まで分かってしまいかねません。
そんなとき、テレビなどの公開の場で不適切な発言をすれば、ネット上で激しい報復に遭うかもしれません。
これはもちろん、公にいる側も同じこと。いろいろな情報がオープンになればなるほど、発言と個人が紐付けされ、全ての発言に個人の良識が問われるようになっていくはずです。

人は丸裸にされて、自分自身の意見を言え、と言われると案外言えないものです。
常日頃、自分の意見だと思っているものは、自分の信頼する他人や知識人の意見だったりします。だから、自分の全く知らない事例について何らかの判断を求められると、他人の判断が参考に出来ず、全く対応できなくなるのです。
世の中には、自分の意志で自分の意見を比較的はっきり言える人がいる反面、他人の意見を聞いてそれを自分の意見のように言い換える人もいます。後者の人はちょっと議論をすると化けの皮が剥がれますが、こういうことがネットのようなオープンの場で起きてくると、自分の考えを持たない人はますます発言できなくなっていくことでしょう。

それは自分の意見にどこまでも責任を求められる厳しい世界です。
世の中がオープンになるに従い、自分の意見をしっかり持っている人だけが発言力を持つようになり、無責任な発言をする人は、今より益々疎まれるようになるのではないでしょうか。
それは良い世の中のように見えて、結構シビアで生きづらい世かもしれません。

2012年2月18日土曜日

オープンとクローズのせめぎ合い


ITの世界ではオープンか否か、というところが多くの人が議論するポイントになっていると思います。
ビジネスの世界だけではなく、個人の活動であっても、オープンかクローズかは重要な問題です。
我々は、毎日の多くの活動にPCを使うようになりました。例えば、友人との連絡や、ショッピング、旅行の計画、ニュースの閲覧・・・こういったことは、webを使って簡単に出来ます。webでなければ、WordやExcelでいろいろな資料を作ったり、写真や動画を管理したり、音楽を管理したりしています。
こういった活動は、全て個人のプライベートな活動ではあるものの、今のIT技術を使えば、今自分がやっていることがwebを介して外に出てしまうことはあり得ます。

それは考えてみれば、恐ろしく気持ち悪いことです。
PCを使っているあらゆる作業が、世の中に漏れる可能性があるわけです。中にはちょっと恥ずかしいこともあったり、特定の他人には見せたくないものもあるでしょう。様々な情報を自由に得ることが出来るようになった結果、自分が行なっている行為もそういった情報の一つになってしまう可能性を持っているわけです。

逆にそれを利用しているのが、FacebookといったSNSの世界です。
例えば5年前の今頃何していたっけ、とか思ったときに、当時の自分がやったことは簡単に分かるようになります。ライフログというようなアイデアです。
もちろん、PCの無かった時代、我々は記憶だけで人生を乗り切っていたわけですから、便利になるとはいえそれが必要なものなのかは微妙な問題。

しかし、自分のために情報を取っておくのではなく、人に知らせたいという欲求も少なからずあります。
というのも、これからの世の中、個人と個人が直接結びつくような組織に縛られない活動がだんだん拡がっていきます。こういった世界では、自分自身がどのような人間か、ある程度公表しておく必要が出てきます。自分の趣味や嗜好、性格など、そういったものが外に対して明確になっているほうが、これからの自分の活動にとってプラスになっていきます。
あまりにクローズドにしたり、そもそもweb世界に何も発信していなければ、この世界での存在感が薄くなり、自分自身の活動の幅も広がっていきません。極端な言い方をすれば、発信しなければ世界にいないことと同じです。
つまり、自分がSNSなどで積極的に情報を発信すればするほど、自分の存在が大きくなっていきます。そういう世の中に我々が移行しつつあるのです。

今自分の情報が知られて怖いと思う人は、恐らく自分の情報をあまり発信していない人だと思います。
まだwebの世界が世の中の全ての活動に占める割合は、絶対的に多くはありません。しかし、その割合が多くなればなるほど、web世界で発信する人が有利になります。オープンを恐れて発信しない人は、世の中の活動に取り残される危険性が出てきます。

そんな時代には、どこまで自分の情報をオープンにすべきなのか、そして何を守らなくてはいけないのか、そういうことを個人が常に考えなければならない、難しい世の中になってきました。

2012年2月13日月曜日

CC合唱曲に「これはフーガ」追加


CC合唱曲シリーズに「これはフーガ」を追加しました。
楽譜はここから直接見れます
また、MIDIはこのページで再生可能です

歌詞はTwitterでもつぶやいてたとおり、ちょっとギャグ風な詩を自作しています。
冗談系の詩なので、歌詞を自由に作り替えても構いません。替え歌をすれば、それなりに歌うほうにも親近感が高くなるというもの。

もともとはフーガを歌いながら、各パートが自分の主題の中で自己紹介的な歌詞を余興っぽく演奏できる曲、というアイデアから作曲を開始しました。絶対にフーガと分かるように、各パートの歌詞は「これはフーガ」で始まります。
あまり曲が長いとシャレでは歌えなくなるので、発展しそうなのをこらえて4ページで1分30秒程度の長さで終えました。しかし終りは、やや無駄に派手です。

そんなわけなので、ちょっとした小さなコンサートや、内輪のアンサンブルなどでウケ狙いで歌ってもらえると嬉しいです。

2012年2月11日土曜日

創作家が成長するということ


ほとんどの人にとって、創作家・芸術家とは自分とは無縁のすごい人々のことで、何か人間的にもずば抜けた知性と判断力を兼ね備えているなどと考えているようです。
だから、ある創作家がその人生の中で作風を変えていっても、そこには常人の及ばない思考の果てに起きたことのように感じるのかもしれません。

しかし、創作家とて人間であり、特殊な技能に若いうちに習熟しただけだと考えれば、驚くほど普通の人と変わらないのではと私は感じています。
実際、創作家にとっての人生の転機は普通の人の人生の転機とそう変わらないと思うのです。大事な人との死別とか、住む環境の変化などはもちろんのこと、仕事をやめたとか、子供が生まれたとか、子供がグレたとか、組織で昇進したとか、表彰されたとか、奥さんと喧嘩したとか、若い子に手を出してバレたとか、全然モテないくせに好きな人にふられたとか、お気に入りの家具を買ったとか、友人に裏切られたとか、侮辱を受けたとか、そんなものです。

創作家は、自分の人生の中でも少しずつ作風が変わっていくものです。
そしてそれは普通の人の人生の流れとそう変わるものでもありません。例えば若い頃は理想主義的です。感受性が高いので感情の高ぶりも強く、たわいもないことを大きく感じてしまう傾向があるものです。また、自尊心も強いので、他人の想いや世間の要求よりも自分の想いや夢が前面に出てきます。

若い世代をちょっと過ぎると、少し世の中が分かってきます。理想だけでは世の中は動かない。現実的な方法や生き方が必要になります。自らの作品を広めたいと思うなら、誰でも世の中はどのような作品を求めているのか考えるようになります。自分のやることを客観的に分析するような態度は、無闇に自分を表現したいという若い頃の衝動とはちょっと異なるはずです。

さらに歳を取ると、世の中を回す世代に入ります。どのような専門を持っていても社会・経済の仕組みと無縁ではなくなります。場合によっては、現実的な政治的メッセージを発信する場合もあるかもしれません。
老年期に入るとどうでしょうか。私はまだそういう境地は分からないのですが、ある種の達観と諦念を持った緩やかな作品が多くなるように思います。

人によっては上記のような区切りが、その人の生き方によって前目になったり後ろ目になったりはしますが、まあだいたいこんな感じになるものではないでしょうか。
また、若い頃にブレークしてしまった人は、中年的な創作態度への移行がうまくいかないことが多くなり、歳をとっても若作りな態度を要求され、自滅していく人も多いと感じます。むしろ、中年以降に有名になる創作家は息が長い活動が出来そうです。

どの世代の創作物が素晴らしいという問題ではありません。
一般的に創作家の作風が変わっていくことは、創作家が成長している、というように思われるかもしれませんが、必ずしもそうとは言えないと思うのです。
若い頃しか持ち得ない感性が作り出したものは、それだけで大きな魅力があります。もちろん、創作家の世代毎にそれぞれ持ち味や魅力があります。鑑賞する側にとっては、それぞれの魅力に自分の感性が揺さぶられればいいだけのことなのです。
また、自分の生きてきた人生の変遷と比較しながら、創作家の精神的変遷を感じてみるのも、また一つの作品の鑑賞の楽しみと言えるのではないでしょうか。

2012年2月8日水曜日

創作活動は無視との闘いである


作曲でも、小説を書くのでも、絵やイラストを描くのでも、たいていの場合、需要より供給過多です。
正確に言えば、ある一定レベルの品質をクリアしていないと需要の対象にさえなりません。一握りの有名人ばかりに需要が集中し、その対象にならない人は供給の列にさえ加えさせてもらえません。残念ながら世の中には、敢えて刺激的な言葉で言えば、クズのような創作物で溢れています。

子供が学校で書いた絵とか詩は、まあ普通はクズとは言われません。
みんなが一生懸命書いたのだから、一般的に言えば教育的配慮からそのようなことを言えるはずもありません。
学校で芸術活動させるのは、何かモノを作る経験をさせることにあるのでしょうが、それでも、作品の質からいえばほとんどの作品は取るに足らないものです。

普通はそこで自分の普通さ加減に気付き、やっぱり私は芸術家には向いてないわ、と諦めるのでしょうが、ときどき逆側に振れてしまう芸術家気質の人たちが一定数います。
気質と能力はたいていの場合別のものであり、気質を持った能力の無い人たちが、むなしい芸術活動を始める悲劇がそこから始まります。

そんな人たちはどうやって生きていったらいいのでしょう?
気質がある以上、作らずにはいられません。でもそこから先はいばらの道です。世間からはたくさんの成功した芸術家のサクセスストーリーが聞こえてきます。聞こえてくるどころか、Twitterで直接生の声さえ聞くことができます。
自分の作る物と、有名な人の作るものを比べて、大して違わないと感じたり、なぜこんな作品が世にもてはやされるのかと憤ったり。草クリエーターはいつも、自分にはとてもかなわない有名クリエーターの作品を批評・批判し続けているのです。

世の中で有名なことと、実際の実力は比例しないことは確かなことです。
偶然何かの拍子で有名になってしまった人たちも実際には多い。J-POPの世界でいえば、音楽的に本当に優れている人はごくわずかで、むしろ彼らにとって重要なのは舞台におけるカリスマ性とルックスと、あとは歌詞の中身でしょう。
とはいえ、自分が認められないことは誰のせいでもありません。ほとんどの創作家は認められないまま生涯を終わります。宮沢賢治は死後認められましたが、これとてラッキーな例だと思います。

こういった事実を創作家は受け入れなければ、自らが作り続けることはできないのです。
それは壮絶な世間からの無視との闘いです。100人中99人は無視されたまま消えていきます。しかし、それを当然のことのように受け入れ、無視されても作り続け、万に一つの可能性にかけて生涯かけて作り続けること、これが芸術家気質を持ってしまった創作家の宿命なのだと思うわけです。

2012年2月5日日曜日

静岡県ヴォーカルアンサンブルコンテスト出場


たまには我々の団の活動のことなど。
昨日の土曜日、静岡県ヴォーカルアンサンブルコンテストが島田にて開催されました。
ウチの団は現在20人を超える団体なので、いつもアンコンには2チームで参加しています。ここ数年は、若手中心のプチ・ヴェールと、残りものの集まりの本体ヴォア・ヴェールの2団体で参加。両方とも混声。ちなみにプチ側にはヴォア・ヴェールの団員でないメンバーも入っており、完全に一つの団体が二つに割れて出ている、というわけでもありません。
今回ヴォア・ヴェールは私の指揮でH.バディングスのMissa Brevisを歌いましたが、おかげさまで金賞受賞(金賞は9団体中3団体)で、3月に福島で開催される声楽アンサンブルコンテスト全国大会に出場することになりました。

団全体のことを考えると、団として練習したい時間が取られてしまうことが嫌だったので、実はアンコン専用の練習はほとんどしなかったのです。プチはもともと別枠で練習していたし、ヴォア・ヴェールの曲は(演奏会でも歌うので)団全体で練習していました。
本当に出場するメンバーだけで練習したのは、本番前の金曜練習に1時間と当日の1時間だけ。それまでなかなかソプラノのメンバーが揃わなかったり、ということもあり、練習のかなりの時間はソプラノの音を揃える作業に費やすことになりました・・・

今回のポイントは、ミサ曲を歌ったという点。
私自身、宗教曲はあまり自分の指揮では避けてきた、ということがあります。本質的にはその考えは今でも変わってはいないのですが、少人数できちんとしたブレスや発声を磨くためには、どうしても宗教曲的な雰囲気を持つ楽曲が必要だと考え、昨年来、そういう選曲をしています。

ですので、いかにも合唱、というようなレガートを徹底的に求めるような練習を自分では進めてきたつもりです。どうしても現代系の曲や、邦人曲では息の長いフレーズを歌うことが少なくなり、合唱的な旋律線の太さがおざなりになることが多いように感じます。
アクセント、スタカート、マルカートなどの細かいアーティキュレーション指定や、ややこしいリズム、音形というのはレガートに歌うことより、一音符毎の表現に注意しがちです。
これまで自分でもそういう選曲が多かったという反省もあり、敢えて合唱的なレガートを求めるためにミサ曲を選んでみたというわけです。

音を取るまでが大変、という練習から、音を取ってからが大変という練習をしていかないと説得力のある演奏が出来ません。難易度の高い曲は得てして練習がソルフェージュ中心になりがちですし、指導側もそれで指導している気分になってしまうことが往々にしてあります。
久し振りに合唱の基礎的な指摘を中心に行なうことで、自分がこれまでこういう表現をちょっと犠牲にしてきたのかなという反省を感じました。実はそういう意味で、自分にとっても今回のアンコンの練習は良い経験になったと思いました。

全国大会の練習も、なかなか専用の練習はしづらい状況ですが、少ない時間で何とか良い演奏が出来るように頑張るつもりです。お近くの人がいましたら、聞きに来ていただけると大変嬉しいです。

2012年1月31日火曜日

リーダー論とメンバーの意識


組織論っぽいことを最近書いているわけですが、先日もNHKでリーダーシップの番組をやっていたのを観て、組織論とリーダー論は切っても切れない関係にあるなあと感じました。

例えば、日本の政治は二流で、最近は政治家の質が落ち、首相を勤められるような人材がいないなどと良く言われます。
政治が二流なのは認めるけれど、私は政治家個人の質が低いとも思わないし、首相にふさわしい人もたくさんいると思います。何が悪いかはそう簡単な問題ではないのでしょうが、それでも私にはあまりに多くの国民が政治家に過剰な期待をしているのではないかと感じます。
政治家だけではありません。自分たちの組織のリーダーに対しても同じです。今、日本人はリーダーと呼ばれる人たちに対して過剰な期待をし過ぎているのではないかと思うのです。

以前読んだこのブログ記事が秀逸です。
かいつまんで言ってしまえば、リーダーの経験のある人は、自分がリーダーでないときにリーダーの気持ちを理解することが出来るようになり、リーダーの補佐的な振る舞いをするようになります。
当然ながら優れたリーダーの周りにそれを補佐する人たちが集まれば、そのチームは素晴らしいパフォーマンスを上げることが出来るでしょう。
しかし、リーダーの気持ちが分からないと、面倒なことに対して自分の不満の感情のほうが先に立ってしまいます。上から命じられることに不満を感じ、言うことを聞かない人がいれば、そのチームの雰囲気も悪くなるし当然パフォーマンスも落ちてきます。

当たり前のことですが、チームが良い結果を上げるためには、リーダーの力だけでなくチームのメンバーの協力が不可欠です。チームはリーダーの努力だけで作るのではないのです。
最近、テレビのコメンテーターやアナウンサーのコメント、自分の身の回りのいろいろな意見を聞く度に(そして、恐らく私自身もついつい)上に対する不満ばかり言っているような気がします。
有能なリーダーが求められている今の時代というのは、実はリーダーの言うことを聞かなくなった私たちの現状の裏返しなのではないかと感じたりするのです。

そう考えると、今我々が求めるべきはリーダーへの過剰な期待ではなく、自分がチームの中でどういう役割を持ち、何をしなければならないのか自問自答する意識ではないかと感じます。
良くも悪くも日本では、たいていの場合個人の意志に反して組織から排除されることはありません。会社もめったなことでは社員を解雇出来ません。
そういう安住の場所にいられることが、自分の努力よりも他人への過剰な期待を生む結果になってしまったのではないかと感じます。

もちろん、そのような時代にリーダーになった人は本当に難しい舵取りを強いられていると思います。今の時代、良いリーダーと呼ばれる方は本当に尊敬に値する人なんじゃないかと私には思われます。