2004年2月29日日曜日

MIDIを使う

いきなり結論なんですが、やっぱり生の音楽が一番いいんです。
自分が書いた楽譜を生で演奏してもらったとき、やっぱり望外の喜びがあります。それは、何人かの人が自分の作品のためにわざわざ練習して、演奏してくれたという気持ちだけではなくて、実際に音を生で聞いたその音像そのものに感激するのです。合唱の場合、耳が肥えてしまったせいもあり^^;、その度合いは若干減るものの、それでも生の音響で聴く音楽というのは、それだけで人の心を揺さぶる何かが絶対にあります。
自分が初めて合唱に快感を感じたのも、恐らくそんな経験から来ているのではないかと思うのです。決められたスコアどおりに歌えば、それらが有機的に結合し、大きな意味のある音が生まれる、そんな快感が音楽のアンサンブルにはあります。

前置きが長くなりましたが、私のこのサイトではいくつかのMIDIデータが聞けるようになっています。
もとよりMIDIの表現力は生に比べるべくもありません。しかし、パソコンで音楽を聴く人は、そんなことを考慮してくれるはずもなく、チープなMIDIの奏でる音楽を聞いて、「なんかつまんない音楽だなあ」なんて思ってたりしないだろうか、とすごく不安になってしまうのです。
これは、実際にMIDIの打ち込みをしたことのある人なら分かってもらえると思うのですが、例えば自分の大好きな音楽を打ち込みで再現したいとき、ベタ打ち状態(テンポもボリュームもほとんどいじらず、音符だけを入力した状態)だと目も当てられない、つまらない音楽にしかならないものです。
ここから、どれだけ時間をかけて、こまかくテンポを揺らしたり、ボリュームをいじったり、タイミングをずらしたりするか、によってMIDIデータが少しでも聞けるレベルになるかが変わるわけですが、もうこれはDTMマニアの世界です。
私のように作曲の道具に使っている程度だと、はっきり言ってそこまでやる気にはなれないし、実際、MIDIを作曲、編曲、あるいは教育などのツールとして使っている人なども同じような想いを感じていると思います。

以前もMIDIについての談話を書きましたが、MIDIそのものの敷居の高さもあり、実際には多くの人がMIDIについて理解してはいないし、パソコンで簡単にMIDIが聞けても、その音楽のショボさがどこに由来するのか気付くべくもありません。
私としては、仕事でもこの世界に関わる身として、いろいろと思うところがあるのですが、実際のところ、多くの人がMIDIを理解して使いこなしてもらうような方向に市場が向いていないのは確かなのです。現在の電子楽器にはたいていMIDI端子はついていますが(もっとも最近はUSB端子でMIDIをやり取りします)、MIDIを活用しているのは、ポピュラー系の音楽製作の用途がほとんど。これらはDAW(Digital Audio Workstation)と呼ばれるシーケンス&波形編集ソフトをホストアプリとしたシステムの中で使われるのが今のトレンド。
MIDIが依然こういった市場向けにしか考えられていないのは残念なことで、私は結構、楽譜をベースとしたクラシック系の音楽にももっとMIDIが使われるようなシチュエーションは存在すると思っているのですが、あまり一般にはそうは考えられていないようです。

合唱で言えば、MIDI音源による音取りテープの作成なんて活用法があります。私は大学時代、選曲のために、当時のシーケンサで合唱曲を何回か打ち込んだことがあります。今は、当時よりずっと楽になっていますし、合唱団でMIDIによる音取りテープを作るというのも、そこそこ広まっているように思いますが、それでも、もっとMIDIの使い勝手や表現力が高まれば、さらに使われるようになると思うんですけど・・・。

2004年2月22日日曜日

4度堆積和音とその理論化

新しい音楽を作るために4度堆積で和音を作ったらどうか、などと言いましたが、実際のところ、この試みは、古くは既にドビュッシー、スクリャービン、シェーンベルグ等によって試されたと言われています。要するに100年も前から、いろいろな作曲家が考えていることなんですね。

私なりに、4度堆積ベースで作られる音楽を、ちょっと類型化してみましょう。
一つは、3度堆積ベースの音楽の補完的に使われるような場合。簡単に言えば、テンション音を4度堆積で追加するというような方法。結局は3度堆積和音を4度堆積的に記述するわけで、ドミナント、トニックなどの和音の関係性は通常の機能和声内で把握できる範囲となります。もちろんこの場合、テンション音の度合いが高くなり、ジャズっぽい雰囲気になっていくと思います。
たいていの理論書で出てくる4度堆積というのは、この方法が記述されていることが多いのですが、基本的にはアッパー・ストラクチャー・トライアドみたいに、テンション音の加え方を類型化して手グセ化するための、ジャズ・フュージョン的、インプロビゼーション的な理論になっているように感じます。

クラシック音楽的に4度堆積といった場合、もう少しアバンギャルドな雰囲気を漂わせ始めます。
ただし、その中でも保守的な使われ方としては、ダイアトニック音のみで(要するに#やbがない)音楽を構成するときに、この4度堆積を使うやり方。うーんと、うまく説明できないんですが・・・、ドビュッシーの「沈める寺」みたいな感じというか。
まあ、この曲も3度堆積の和音中心で出来ているのですが、時折「ソ、ド、レ」みたいな、sus4っぽい和音が出てきます。通常、sus4は長3和音か短3和音に解決するわけですが、もし解決されないsus4が出てきたら、4度堆積的な発想をする必要が出てきます。なぜなら、4度堆積和音を展開すると、sus4和音になるからです。
ダイアトニック音中心で音楽が構成されれば、そこには明確な調が存在します。調性を感じさせながら、浮遊感のある4度堆積を使うことによって、和音というよりは、スケールで音楽が作られているようなそんな雰囲気を感じさせます。個人的には、結構好きな響きなので、いろいろと研究してみたいとは思うのですが。
ときに、解決されないsus4和音は日本的な雰囲気を漂わせたりします。これも多用するとセンスを疑われますが、上記のダイアトニック的4度堆積が、場合によっては民族音楽的な感じを出すようにも思えます。

類型化といっても残るは、その他のもっと複雑な使い方。ダイアトニック音中心でなければ、もはや響きはますます抽象化の一途をたどり、かなり現代的な雰囲気を醸し出します。こうなると各作曲家のいろいろな方法が出てくるわけですが、果たして聞く側がそのような音楽を期待しているかは疑問の余地はあります。
例えば、4度堆積で構成音が3つまでなら上記のようにsus4的に捉えられるのですが、構成音が4つになるともはや3度堆積ベースで換算することが出来なくなり、既知の響きからは遠ざかっていくでしょう。

そう考えてみると、4度堆積和音は100年以上前から使われているにもかかわらず、ポップスなども含め必ずしも一般化している響きとは言い難いのではないでしょうか。
確かに、音楽のスタイルに関する流行り廃りは当然あるものですが、音楽が理論的に進化したといえるのは、もしかしたら古典期くらいまでで、現在のほとんどの人々が新しい音楽に求めている気持ち良さというのは、音の複雑な構成や抽象化した響きではないような気がしています。100年経っても公式化され得ない理論は所詮メインストリームにはなり得ないのかもしれません。
音楽理論というのは、それ自体で独立した世界観を作ってしまいがちです。しかし、理論などとは無縁に音楽を楽しむ大多数の人々がいることは厳然とした事実であり、この4度堆積の利用に対しても、常に音楽の気持ちよさを忘れない程度の節度を持って使うべきだとあらためて思います。

2004年2月15日日曜日

4度堆積和音

通常、和音は3度の堆積によって作られます。
まずはわかりやすく表にしてみましょう。

和音の構成音 root 3rd 5th 7th 9th (11th) 13th
階名 ド ミ ソ シ レ (ファ) ラ

13th の3度上は root(根音)から2オクターブ上のドになるので、3度堆積の和音の構成音は13thまでということになります。
見てわかるように 13th まで、3度重ねで全部の音を使うと、結局「ドレミファソラシ」の音階の全部の音を含むことになります。ちなみにファはrootに対してアヴォイドノートとなるので、テンション音で11thが使われることはまずないと言っていいでしょう。
と、ここまで読んで、今日読むのはやめるかと思ったあなた、ちょっと待って!とりあえず面倒なところは読み飛ばしても話はわかるようにするつもりですので。

さて、新しい音楽を作曲してみたい、と思う人なら、コンテンポラリーな音楽にも多少は興味はあるはずだし、自分なりの新しい音の組み合わせ方を開発してみたいと思うものです。広く知られているものとしては、シェーンベルクの12音技法とか、そこから発展したセリー音楽などがあります。
それならば、先ほど言ったように現在の和音の作り方が3度の堆積なら、3度以外の堆積があったっていいじゃない、というアイデアが浮かびます。
ちょっと具体的に考えてみると、2度堆積はほとんどクラスターみたいになって和音の識別が難しそうです。5度を超えると3度あるいは4度の組み合わせで記述できることになり、堆積していることそのものの意味が希薄になります。そう考えると、4度堆積ベースで和音を作ろうというアイデアが、残されることになります。

実は、上のような筋道でなくても、4度堆積というのはジャズ的にも使われることがあるようです。以前書いたモードの話と関連が出てくるのですが、調性を曖昧にする象徴的な方法として、モード的旋律と共に良く使われます。
例えば、「ミ」「ラ」「レ」と和音を弾いたとき、rootが「ド」でも「レ」でも「ミ」でも「ファ」でも、どんな音でもそれなりのテンション音(7th,9th,13th)に当てはまります。4度堆積による和音構成が、どのrootの和音でも使えるということは、逆に各和音の機能上の意味が希薄になることに繋がります。その結果、4度堆積を連続することによって、機能和声感が減ることになるわけです。

この4度堆積の一つの魅力というのは、決して耳障りな不協和音にならない、ということがあると思います。調性から離れるというと、へんてこで汚い和音が連続する現代音楽的なものをイメージしますが、4度というのは5度の裏返しであり(「ド」「ソ」は完全5度、裏返った「ソ」「ド」は完全4度)基本的に協和音程だと言えるでしょう。
協和音程をベースにしつつ、既存の機能和声から離脱できるということは、新しくかつ美しい響きを求めようとする作曲家のチャレンジ精神を刺激するのに十分なものです。

私が、4度ベースで作られた合唱曲を初めて意識したのは、数年前に某男声合唱団で歌ったヒンデミットの曲。かなりシブい音がして、一般ウケはしそうにはないものの、ちょっと興味を感じました。
最近、鈴木輝昭氏の楽譜を何冊か買ったのですが、この人のハードなアカペラ曲も、かなり4度堆積ベースの香りが漂っています。以前より、一体この音の組み合わせ方は何なんだー!ワケ分からん!と思っていたのだけど、これに気付いてから、ちょっとばかり親近感を感ずるこのごろ。


2004年2月9日月曜日

子供文化の精神的故郷-遠足-

日本は子供の文化だ、という先週の話、一人一人が子供に対して、どんな思いを抱くのか、そんなところにも反映しているように感じます。もし、自分の人生の好きな年代はと聞かれたら、多くの人が子供時代と答えるのではないでしょうか。社会全体でも、子供を見る眼差しというのは基本的に暖かいものです。

時々、会社に向かう電車の中で、小学校低学年、あるいは幼稚園と思われる大量の子供集団と遭遇することがあります。身なりからすると、遠足というわけでもなさそうなので、なんらかの課外授業なんでしょう。それにしても、もうその騒ぎといったらありません。もっともうるさいのは、ほとんどはあちらこちらで騒いでいる子供を先生が大声で注意している声だったりするのですが。
いくらうるさいと言ったって、あれだけの子供相手に、一般客はどうすることも出来ませんから、ただ黙って耐えるしかありません。そういう光景をほほえましく感じて、思わず子供に話しかけてしまう人徳のある人なら良いのですが、私のような狭量な人間は、窓を見てしょうもないことで奇声を上げたり、吊り輪でぶら下がってたりするのを見るたびに、一人イライラを募らせているわけです。

自分が子供の頃、どうだったかなと思えば、遠足で電車に乗ったりするのは、ほんとに楽しいことだったように思うのです。
そりゃ、たくさんの人数で、学校以外の場所に行ったら、一人で行くよりも絶対楽しいですよね!
もちろん、子供の頃なんて、自分がどれだけ周りの大人に迷惑をかけてたかなんて思いもしなかったことでしょう。先生に注意されたって、それで周りの人の迷惑まで思い至るような賢い年齢であるはずもありません。

それで、もしかして、遠足、あるいは修学旅行といった学校での行事って、日本人的メンタリティの醸成に非常に大きな影響を与えているのではないかとちょっと思ったりするのです。
もし、あれを文字通り、街に出ることは、電車の乗り方や公共のマナーなどの社会勉強をするためだと思っていたら大間違いだと思います。皆さんは、遠足で、自分の社会性、公共性が向上したと思いますか?事実は逆じゃないでしょうか?
つまり、自分が大きな集団の中にいて団体行動を取るならば、何でも許されてしまう、という感覚を身に着けてしまったりしないでしょうか。逆に、遠足に遭遇した側は、大挙して人が押し寄せれば何も言えないわけで、子供が大量に公共の場にいたらほほえましく思うことを強要されることにつながります(ちょっと被害妄想的^^;)。
まあ、日本人の海外旅行といえば団体の旅行で、大人になっても修学旅行気分は消えないものです。それでも、旅行の準備やもろもろを何から何まで自分でやるのは面倒だし、たくさん人がいれば安心だし、などと思って、ついつい団体旅行で行ってしまうのはやはり学校時代に育てられたメンタリティの賜物ではないかと思ってしまうのです。そういう行動は、欧米的な洗練された旅行のスタイルとはやっぱり違うものでしょう。

オバサンになってもオジサンになっても、集団になれば子供のようにうるさくなるものです。たくさんの人の中にいることによって、気分も大きくなります。傍から見ると迷惑なものですが、中にいると気が付かないものなのでしょう。
日本人が集団でいるときの社会的、公共的なモラルの低さは、実は遠足に起因しているのではないかと、ちょっとばかり私は疑っています。

2004年2月1日日曜日

大人の文化、子供の文化

今や、日本発のアニメ、マンガは世界中に輸出され、一つの文化として日本が世界に発信できる重要なものの一つになっているような気がします。
当然、日本でアニメ、マンガがこれだけ流行ったのは需要があったからであり、何か日本人の心にフィットするものがあるのかもしれません。なぜ、日本でアニメやマンガの文化がこれほど発達したかは、いろいろな論がありそうですが、私は日本人が根本的に持っている幼児性指向みたいなものの反映ではないかと思ったりするのです。
日本人の幼児性といってもにわかには同意してもらえないかもしれませんが、それでも人々が好んでマンガを読んだり、女性がキャラクターグッズを集めていたり、10代のアイドル歌手がもてはやされたりするのを見るとそんな気がしてしまいます。
子供は社会性がまだ低いので大人がいろいろな場面で注意してあげる必要があります。そう考えると、子供に注意してあげるような余計なお世話的仕組みというのが、社会全体で見て結構多いと思います。横断歩道をはじめ、交通関係など、繰り返し繰り返し注意を促すような音が出されます。「クルマがバックします」とか「左に曲がります」とか、そんなことを言いながら走っているトラックも時々あるし、電車内でも、映画館でも、演奏会でも必ず「ケータイの電源は切ってください」とか、まめに注意されます。まあ、それで気が付いて切ることも多いわけですが、こういった公共の場での過剰な注意は、あたかも学校で先生が子供にこんなことはしちゃだめよ、と教えているような気にさせられます。
そもそもケータイがこれだけ爆発的に広がるのも日本っぽい。しかも、各社が矢継ぎ早に入れる機能というのは、着メロ(最近は歌まで歌う)だったり、毎日キャラクターをダウンロードする機能だったり、ゲーム機能だったりします。ケータイそのものの機能アップというより、子供向けとも思える遊びにつながるものばかりです。カメラ付きケータイもビジネスの場よりはプライベートで使うことが前提となっているはず。同じような小型デジタル機器でも海外ではビジネス向けに使われるPDAはそれなりに売れていますが、日本ではあまり売れません。

私は日本以外に住んだことはないですが、それでも自分の印象ではヨーロッパなど大人の文化の香りがします。
むしろ子供っぽいことが恥ずかしいと思うような感覚です。映画など見ても、何か独特の雰囲気を持っていたりします。
ヨーロッパに比べると、アメリカなどは若者の文化という感じです。アメリカ文化から感ずるある種の激しさ、暴力性、安直なまでの正義感みたいなものは若者に由来するものではないかと思います。

音楽の世界で言えば、それでもポップスやロックが商業的音楽の中心ではあるわけですが、依然クラシック音楽の中心地はヨーロッパだし、日本で売れている音楽というのはアイドル系の歌謡曲といったところでしょう。
実際のところ、日本では大人になると音楽を聞かなくなってしまう人が圧倒的に多いように思います。学生時代なら同年代の歌手のアルバムを良く聞いたりしますが、年を取るにつれ市場に聞きたくなるような音楽が無くなってしまうのです。せいぜい、自分が若かった時代の曲を聴いて、「いやあ、あの頃の音楽の方が質が良かったよなー」などというのが関の山です。どうも、年を取ってから聴く音楽というのは、昔流行った曲を聴いてあの頃は良かった、と思うためのもののようです。

何度聴いても飽きない新鮮さがある、そういう音楽こそ大人の音楽たるゆえんだと思います。
いたずらにヨーロッパ礼賛するわけではないけれど、大人になって文化の担い手であることを放棄してしまう日本人が、少しでもそういった文化の魅力に気が付いて欲しいと思うのです。