2008年8月31日日曜日

ピアノ伴奏とアカペラ

自分自身の合唱活動がもう10年以上アカペラ中心になっていて、ピアノ伴奏で合唱することが最近は全くといっていいほど無くなってしまいました。
たまにはピアノ伴奏もいいかなとは思うけど、いまやっている団では団員数も多くはないし、一度アカペラ中心になってしまうと、お抱えのピアニストを雇うのも経済的に効率的ではありません。
そんな流れの中で、自分が作る曲もほとんどアカペラ。すっかり合唱=アカペラという体質になってしまいました。
そういう環境の中にいると、邦人のピアノ伴奏付き合唱曲というのが、ますますほど遠いジャンルになってきて、幸か不幸か、そういった音楽を客観的に見られるようになった気がします。

もちろん世間一般ではピアノ伴奏付きの合唱曲を歌うのがまだ大多数ではありますが、コンクールに参加するような団体や少人数の団体が徐々にアカペラを歌うようになってきているように思います。
昔ながらの大人数市民合唱団とか、大学合唱団とか、ママさんコーラスなどが今でもピアノ伴奏の比率が高いのは、音楽的な問題というよりはむしろ団の運営や活動方法に由来しているのではと思います。お抱えのピアニストを遊ばせるわけにはいかないし、何より指揮者とピアニストのセットで練習を進めていくスタイルが定着しているということがあるのではないでしょうか。

もちろんピアノ伴奏の合唱スタイルを否定する気は全くないのだけど、まだまだアカペラ合唱の魅力というのが広く世間には広まっていないのかな、ということを感じたりします。
少人数合唱団が扱うアカペラ合唱曲も海外の宗教曲や、ルネサンス音楽がどうしても多くなり、一般のお客さんに聴いてもらうにはどうしても硬派な選曲になってしまいます。そう考えると、アカペラの邦人合唱曲がもっと充実する必要があるし、あるいはポップスの編曲などもアカペラの楽譜でもっともっと出ていいのかなと感じます。(唱歌をアカペラに編曲した「ノスタルジア」のヒットなどもそういう背景があるのでしょう)
そして、何よりそういったアカペラのオリジナル曲や編曲が合唱の楽しさ、美しさを引き立てるもので無ければなりません。個人的には現状ではまだまだそういう側面が足りないという気持ちを持っているのです。
良質なアカペラ曲の条件とは何なのか?自分なりにいろいろと考察してみたいと思います。(続くつもり)

2008年8月24日日曜日

PD合唱曲に男声曲追加

PD合唱曲シリーズに男声合唱曲を追加しました。
テキストは大手拓次の「秋」という詩です。
ふいにポリフォニーっぽい感じの曲を作ってみたくなって、今日一日作曲していました。3分弱のそれほど長くない曲ですが、ポリフォニーなのでやや渋めに感じるかもしれません。

ちょっぴり涼しくなり、秋の気配が漂い始めたこの頃、大手拓次のちょっと寂しげな秋の雰囲気を歌ってみてはいかがでしょう。
MIDIも同時に作ったので、楽譜を見ながら音を聞いてみてください。
��実は、他のPD合唱曲のMIDIも少しずつ手を加えたりしていますので、他の曲もときどき聴きに来てみてください。何か新しい発見があるかも。)

2008年8月20日水曜日

芸術論〜売れるモノと残るモノ

もちろん、こんなふうに二つ並べれば、商業主義に毒されたモノより、後世に残る本物の芸術の方が価値が高いものだと誰もが思うでしょう。
商業主義の弊害のようなものは当然あるとは思うのですが、だからといって売れることに背を向けるのは正しい考え方だとは思いません。なぜなら、今現在評価されないことを正当化することは、独りよがりになる危険性を孕んでいるからです。
確かに売れているモノの中には、うまく時流に乗ったり、芸術本来の力でなく付随する属性によって評価されたりすることも多い。しかし、それと同時に内容が確かだからこそ評価されているもの、というのも確実に存在します。
私たちが本当に鍛えるべきものは、売り上げとか、ランキングとかに翻弄されず、現在評価されているものの中から本物を探し当てる自分自身の審美眼だと思います。
注意深い鑑賞者は、今流行っているものの中から後世に残るモノを嗅ぎ分ける力を持っています。また、なかなかそこまでの審美眼を持っていなければ、自分自身を導いてくれる評論家の意見に頼るという方法もあります。直接的にしろ、間接的にしろ、自分が何かの判断をしなければいけないのは確かではありますが。

ですから、私の感覚としては、売れるモノというのは、残るモノになるための必要条件であり、少なくともこれだけ情報が氾濫する現在、本物が誰の目にも留まらない、ということはほとんどあり得ないことです。
売れることは重要ですが、「売れる」ために本来の中身以外の属性を強調してしまう人たちが少なからずいます。鑑賞する側は、それをきっちり見極めなければいけないし、創作する側は、売れるためにどんな努力をするのか、その質が問われているのです。

おおざっぱな傾向として、正直日本人は流行りに弱い部分があると思います。それは、結局「売れる」けれど「残らない」ものを大量に排出してしまうことに繋がります。
そのような傾向を嘆く人たちもたくさんいます。悪く言えば、近視眼的な真面目さを持った人たちです。しかし最近思うのは、どのような状況においても、泰然としながら、しっかりと我が道を進める人がもっとも強いなあということ。スポーツなんかも同じですよね。

2008年8月13日水曜日

ダークナイト

ノーラン監督によるバットマンのシリーズ二作目の映画を観ました。ちなみに一作目は渡辺謙が出ていた「バットマンビギンズ」。
ダークナイトのナイトっていうのはknightの方で、バットマン自身が「暗黒の騎士」だという意味。
この映画、アメリカではかなりのヒットだったそうですが、日本では恐らくあまりに世界観がダークすぎて受け入れられないのではないでしょうか。
ダークというのは、単にならず者が現れてドンパチをやっている、というような意味ではなくて、悪とは何か、正義とは何か、を捉え直しながら、勧善懲悪というアメリカが好きな価値観をわざと揺るがせようとしている製作側の態度から来ているように思えます。

悪役のジョーカーは、バットマンがいるからこそ自分の存在意義がある、と言い放ちます。全ての物事は二面性を持っている。悪があるからこそ正義も生まれる、そして正義を通そうとするからこそ悪も生まれるという矛盾をあぶり出すのです。今のアメリカの状況に対する辛辣な告発ともとれます。
その結果、正義であることの苦悩を表現するために、この映画は爽快なヒーロー映画では考えられないストーリ展開となります。重要人物がことごとくジョーカーの手にかかって殺され、善人さえ悪人に変わり、信頼していた周辺の人々も裏切りをしていく。信じられる物が無くなるくらい、観ている者の倫理観を侵していきます。

ジョーカーという人格の不気味さも際立っていますし、もちろん派手なアクションシーン、爆発シーンなど激しいシーンも盛りだくさん。2時間半近いかなり長い映画ですが、ジョーカーの執拗な攻撃の連続に息つく暇も無く見せた映画の流れも見事でした。
"Why so serious?" シリアスにならざるを得ない流れを嘲笑うようなジョーカーの名台詞です。

2008年8月11日月曜日

スティーブ・ジョブズ 神の交渉力

JobsAppleのCEOであるスティーブジョブズの生き様を紹介した本。いちおう、ビジネス書とか、リーダー論的な論旨にはなっているものの、あまりのジョブズの性格の無茶苦茶ぶりに、どう書いても彼個人の奇行歴にしかなっていません。
これまで、Apple製品の洗練されたセンスにはスティーブジョブズの大きな影響があると書きました
そもそも、Appleなどという大企業において、CEOとはいえたった一個人の影響力がそこまで商品の隅々まで及ぶのか、という疑問を持つ人もいると思います。もちろん、普通の人間だったらそれは無理でしょう。世のたいていの会社は、社長が変わったくらいで、製品の洗練度が変わるなんてことは無いのです。
しかし、スティーブジョブズならそれが可能なのです。それはこの本を読んで痛いほどわかってきます。

正直、一消費者としてはApple製品の洗練度に感銘することはあっても、ジョブズを個人崇拝の対象にするにはためらわれます。
あまりに、人間として酷すぎます。何が酷いかは、本を読めばわかるけれど、しかしだからこそ、多くの才能ある人間を従えてあれほどの製品群を作れるのだということがわかるのです。彼らも、どんなに無理な要求でも、ジョブズの元にいるからこそ、世界を動かす仕事ができる、という気持ちがあるからこそやっていけるのでしょう。
作曲家で言えばワーグナーみたいな人なのかなあ、と思ったりします。借金を踏み倒したり、人の奥さんを横取りしたりする一方、自分の曲を演奏するための劇場を作らせるほどの辣腕ぶり。ワーグナー好き、いわゆるワグネリアンは、こういった行動力に憧れている人も多いのではないでしょうか。

これを読んで、スティーブジョブズは絶対日本には現れないだろうなあと感じました。
このような個人がプロジェクトを率いればみんな造反するだろうし、上のほうも難癖をつけて重要な仕事をさせないでしょう。だいたい、日本では苛烈な独裁者はたいてい暗殺されてしまうのです(織田信長とか、井伊直弼とか)。

2008年8月7日木曜日

iPhone、早くも二台目

昨夜、ファームのアップデートがあるというので喜んで作業を行っていたら・・・、リセットしてiPhoneが立ち上がった後に「緊急電話」の画面しか出なくなってしまいました。この画面、SIMカードを指していない状態でしか出てこないモードのようです。
iTunesを立ち上げると、「アクティベーションに必要な情報をiPhoneから入手できなかったため、iPhoneをiTunesで使用することができません」というアラートが表示が出て、その後iPhoneは全く無視されたまま。これでは、全くiPhoneを使うことが出来ません。
その後、何度かiTunes上で「復元」を試してみたけれど、症状は変わらず。

それでネットを見てみたら、同じ症状の人が何人かいるじゃないですか。彼らがSoftbankに持ち込むと、どうも不良品として、交換してもらっている様子。
というわけで、早速私も変えてもらいました。先代はわずか一週間の命でした。
しかし、まさか持ち込んだその日に交換してもらえるとは思わなかった。もうiPhoneも品薄状態では無くなっているのかな。とりあえずは良かった〜。
恐らく、検索でこの記事にあたる人もいるので、情報として載せておきますね。
やはり、初期ロットは避けるべきだったかな。こういうところがアップルらしいと言えば、そうなのだけれど。

2008年8月5日火曜日

芸術論〜合唱の場合

とりとめも無く書いてきましたが、ここで無理矢理合唱の話と結びつけてみます。
そもそも、これまで私がいろいろ書いてきたことは、創作の最前線に居たいと思う人間の一人として、芸術活動とは一体何なのか、と自問自答してきたことです。
それは一つには、合唱というジャンルが非常に保守的で、かつ、芸術活動の最前線にあるとは言い難い現状に対するいら立ちのようなものがあったからです。
私自身がそんな大げさなことを言えるほど立派な活動をしているわけではないけれど、自分の出来る範囲で何とかしてみたいという気持ちだけは持っているつもりです。

漠然とした不満を一つ具体的に言ってみるなら、合唱界にアーティスト、クリエータと呼べるような人が少ないという点が挙げられると思います。それは、一つにはアマチュア中心、コンクール中心の活動が、個性やオリジナリティよりも、保守的な価値観における優劣に終始しているという状況と無関係では無いでしょう。
だいたい、先進的な取り組みには常に賛否両論があるものです。そういったものの評価はコンクールというシステムとはたいてい相性が悪いのです。合唱に関わる多くの人がコンクールというシステムに関わっている限り、異質で破天荒なものを排除し、狭い世界で評価を得るために全体が均質化する危険性から解放されることがありません。
もう一つは、合唱の教育的な側面。合唱世界で名をなす方々は、私にはアーティストというより教育者を指向しているように見えます。率直に言えば、私は歌い手の情操教育のようなものはほとんど興味が無くて、舞台上でいかに観客をエンターテインできるような演奏を繰り広げられるか、その最も基本的な舞台芸術の原点がおろそかにされていることのほうが問題だと感じてしまいます。
尖った芸術家が合唱の世界にもっと必要だと思うし、私自身も(性格は全く尖っていないけれども)そうありたいと思っています。
そして、そのためには合唱という狭い範囲の価値観だけではなく、幅広い芸術作品を(観客として)鑑賞することによって、汎用的かつ根源的な審美眼を養うことが重要なのではないでしょうか。