2000年6月25日日曜日

作曲家の世界/パウル・ヒンデミット

ご存知、今世紀の作曲家ヒンデミットによるこの著作は、作曲という行為が関わる全工程に対してヒンデミット自身の考え方を述べたものです。どちらかというと、学術書ではなくて音楽愛好家に向けた内容ですが、話題はいろいろな方面にわたるため、この本を読む人たちにもそれ相応の文化的知識を要求します。ヒンデミット自身、理論家でもあり教育家でもあり、その多方面にわたる知識には脱帽というしかありません。ですから、大作曲家が素人に対して作曲とはこんなもんだよ、というのを伝えている本だと思って読んだら、かなりしんどい思いをして読まなければいけないでしょう。むしろ、ヒンデミットは音楽という題材を使いながら、社会や哲学のようなジャンルさえ視野に入れているように思えます。
そのような内容のヘビーさの他に、もう一つこの本が面白いのは、ヒンデミットが気に入らないと思っていることに対しては相当に辛辣な表現で書かれているということです。もちろん、すでに作曲家として十分なステータスを得たうえで、晩年に書かれた本ですから、これはもう誰も怖くない境地に達していたことは想像に難くありません。だからこそ、ヒンデミットが音楽に対して、作曲に対してどのような考えを持っていたか、率直なことが伝わる、生の作曲家の声が伝わる非常に興味深い本になっているのです。
とはいえ、正直なことを言えば、私自身この本の内容に100%共感するものではありません。音楽家を巡る社会的環境や、演奏家との人間関係など、実際的な面に関する記述ではかなり面白く読めるのですが、作曲家の想像の源とか、作曲家の使命みたいなもの、あるいは音楽は何を目指すものなのか、といった哲学的な考察の部分では、私の思いと相当隔たりがあります。
しかし、一般的なクラシックファンならヒンデミットのような考え方には共感する人も多いでしょう。つまり、私から見ればあまりにもドイツ的で、いわば崇高な物に対するあくなき希求に貫かれているのです。もちろん、ヒンデミットの知性からすれば、作曲に神懸り的な霊感などを認めたりしていませんし、権威主義的に過去の大作曲家を必要以上に持ち上げたりしていません。しかし、音楽に対して「道徳的、倫理的」という表現で相対し、また過度な美しさ、甘美さに陥ることを厳しく警告するなど、音楽の享楽的性格だけが前面に出ることに厳しく警告しています。そして、チャイコフスキーやドヴォルザークを、その理由で批判さえしています。
一歩下がってフフンといっているような諧謔的傾向を持ったフランス音楽が好きな私としては、こういった内容では、やはりフフンなどと思ってしまいます。ヒンデミットにとっては、多分同時代に生きたプーランクなど、批判の対象でしかなかったことでしょう。逆にフランス人もこういったヒンデミットの態度にはどこか鼻で笑ってしまうような態度を取っていたかもしれません。
もちろんどちらの態度がよいか、という問題ではなく、それぞれが考える享楽的なものの意味とか知性への対し方の違いが出ているだけと取るべきでしょう。

さて、それはさておいても、この本は面白いことが結構書いてあります。
上のようなことを言うと、ヒンデミットがかなり現代音楽に近い創作家だったように感じる人もいると思いますが、むしろヒンデミットは和声や旋律の力を信じ、それでいてあくまでそれらは技術的な問題と割り切って創作家の大きな目標とは切り離して考えようとしています。したがって、作曲技法そのものが作曲行為のモチベーションとつながっている現代音楽については、相当な批判を展開しています。ことに12音音楽に対する批判は、私にとっても我が意を得たり、といった感じでした。後半では、こういった現代音楽の潮流がまるで教祖をおがむ新興宗教の様相を呈しているとも言っています(もちろん、教祖様はシェーンベルグでしょう)。特に演奏家と作曲家が分業した結果、このような音楽が多くの人を惑わしていることを嘆き、作曲家自身が演奏できる音楽家であるべきと説いています(ヒンデミットは若い頃有能な演奏家でもあった)。
また、現代における必要以上の指揮者賛美についてもかなり辛辣な表現で書かれています。つまり、今の民主的な世の中で独裁者はゆるされず、指揮者とは聴衆が高いお金を払って自分自身の独裁的傾向を投影し満足するためにある存在なのだ、とのこと。クラシック音楽にありがちな指揮者礼賛、そして意味のない言葉が並べられたその音楽への賛辞に対して、なんとなくいやーな感じを持っている私にとって、ちょっぴり小気味良く感じたところでもありました。
また全体にわたって、合唱、特に小人数のアンサンブルに対して非常に好意的です。人の声が、すべての音楽の元であり、その音楽を極めることがアンサンブルの中にあるのなら、音楽の理想の形態は声楽アンサンブルということになるでしょう。そして、作曲家も社会的な成功が十分に得られないうちは、素人向けのアンサンブル音楽をもっと書くべきだ、と諭しています。それこそが、今の商業主義に毒された音楽業界を健全にする方法だと言うのです。これはヒンデミットが精一杯考えた現実との折り合いの方法なのでしょう。

ところで、この本は1952年に書かれています。ほぼ50年前ですが、意外と現代の音楽の様相を見比べてもその内容が古めかしい感じがしなかったのは、やはりヒンデミットの眼が鋭い部分をついているからでしょうか。そのヒンデミットが、今の状況を見たらもちろんもっと哀しんでいるには違いないのですが、意外と現在あるさまざまな潮流を冷静に判断した上で、クラシックの枠をさえ飛び越して新しい音楽を目指すのかもしれません。

2000年3月12日日曜日

タテ社会の人間関係/中根千枝

日本人について論ずることが良くあります。多分、私の中でかなり興味あることなのでしょう。それで本屋に行っても、ついついその手の本を手にとってしまうのです。たいていは人生指南書的なものがほとんどで、内容的にはたいしたものがないのが常です。そうした本を見るにつけ、もっと学術的に日本社会を論じたものはないのか、という気持ちが私の中で感じていたところでした。

さて、この本「タテ社会の人間関係」は、まさにそういった学術的な観点から日本人を論じたもので、この手の日本人論の古典的名著と呼ばれている本なのです。これを読まなきゃモグリというほどのものらしく、今までこの本を知らなかったことを全く恥じるばかりです。ちなみにこの本が最初に世に出たのが1967年。その反響の大きさからその数年後には英訳版、仏訳版も出され、日本人を知ろうとする外国人にもすでに広く読まれている超ロングセラー本です。
学術的といっても難解な言葉で書かれているわけでなく、非常にわかりやすく、時にあえて俗っぽく書かれており、一般書として十分読める文章です。また、図解も多く、なぜかa,b,X,Yとか表現することが多く、ぱっと見ると数学書と思える部分もあり、もしかしたら結構理系的な本かもしれません。

さて、この本の具体的な内容ですが、なにしろ目から鱗の連続で、私がこれまで断片的に感じていたことが体系的に述べられており、まさに座右の書と呼べる本であったといえるでしょう。著者自身がそのような日本的社会に疑問を感じているのが明白で、自らは学術書といいながら、なかば自虐的に日本人を論じているあたり著者の気持ちがとても出ていて、面白く感じました。

この本の中ではいくつかのキーワードがあります。
一例を挙げますと、集団構成の原理として「資格」「場」の二つがあるということ。「資格」による集団とはその人が持つ能力や資質の共通性によるものであり、「場」による集団とは一定の場所、共通の機関など同じ場所を共有しているものを指します。そして日本は、「場」による集団意識が非常に強いのが特徴なのです。著者によると、最も対極的なのがインドで、こちらは極端に「資格」に重点が置かれています(カーストが象徴的)。中国や欧米はどちらかというとインドよりですが、それほど極端ではありません。
そして、そのように「場」の共有が中心になると、「資格」の違いがあるものを一つの集団に抱え込むことになります。もともと「資格」の違いは人間的な性向や能力の違いであり、そのような異質の人間をたくさん内包することにより、その集団結集力をより強力にする必要が出てきます。そして、それは「そのグループの成員である」というエモーショナルなアプローチによることが非常に多くなるのです。これは何を意味するかというと、絶えざる人間同士の接触が必要ということであり、この傾向が強くなるにつれ個人は生活のほとんどをその集団に捧げる結果になります。

そのように生活の多くの部分において集団に関わるようになると、自然と公的なものと私的なものの区別がつかなくなります。会社を離れても仕事がついて回ったり、逆に会社の中でも私的な楽しみがあったりするのは誰でも心当たりがあるでしょう。また、他の社会に比べても極端に社内結婚や同じ村内での結婚が多いことを著者は指摘しています。
この話だけでも、論理的に集団を論じているのがおわかりになりますでしょうか。
この他、日本的集団の排他性、それに伴う個人の非社交性、それから集団内の序列(集団に関わる期間の長さに比例-私が談話などで書きましたね)、人間平等主義、日本的リーダーのありかた(頭が切れるより、部下を盛り立てる力が必要)、契約精神の不在、などが論じられています。

いずれも著者は、ささいなところで発見できる日本人的な部分を紹介し、それが国際的な場でいかに奇異にうつるかを描いています。著者自身が、そういうことを自分の活動の中で強く感じていることの現われでしょう。それから、著者が女性である、ということはこの本の成立に大きく関わっているのではないか、と私には感じます。もし、この本を男性が書いたのなら、その人は集団内の自分の地位が危なくなるんじゃないでしょうか。学問の世界でさえ日本的社会は浸透しているわけで、まだまだ仕事場では男性社会が中心だった当時だからこそ、女性の手で始めてその現状を糾弾することができたと思えるのです(学術調査団内の人間関係など思わず納得)。

ところで、この本を読んで、今まで自分が感じていたことをうまく表現されていることの快感以上に、日本人に対するある種の救いのなさに襲われたのは事実です。先に言ったように、この本は人生指南書ではありません。したがって、未来に対してこうすべきだなどという提言は全くされていません。ひたすら日本人社会を分析しているだけです。じゃあ、我々はどうしたらいいのか?これは難しい問題です。

確かに、日本人的社会では良い点もたくさんあるのです。人間平等主義は「出来ない」者でも受け入れられ、そういう人たちに絶えざる努力を促します。また、生まれながらの資格に左右されないので、身分や階級の違いがほとんどないわけです。しかし、その一方徹底的な序列により、若い能力の芽を摘んでしまうようなことが往々にしてあり、それが努力より発想が重要な分野において大きく立ち後れる原因にもなっています。
まずはこの日本的な序列(上下関係)と能力主義をどのように折り合いをつけていくのか、これが取りあえずの日本人の課題なのかもしれません。