2006年6月26日月曜日

ルフトパウゼ/篠崎史紀

Luftpauseとある方からN響コンマスの篠崎さん(その風貌よりマロと呼ばれているらしい)の初エッセイの本を頂き、早速読んでみました。
最初にこんなこと言うと申し訳ないんだけど「ウィーンの風に吹かれて」という副題が、何となくキザっぽいし、モーツァルト礼賛とか、わが街ウィーン、などという目次を見ると、ナルシスティックでいかにもクラシックオタク向けに書きました、と言う雰囲気をちょっと感じて引いていました。
ところが、読み始めるとこれが面白い。
すいません、第一印象からかなりイメージが変わりました。やはり何はともあれ、N響コンマスなのです。単なるナルシストに務まるもんじゃありませんよね。著者の音楽に対する姿勢というのに、大変刺激を受けました。

特に面白かったのは、指揮者論のところ。いくつか引用してみましょう。
「指揮者とは、音楽を再構築する人、そしてそれに即興性をプラスする人だから、たとえば本来、四拍子をどう振るとか、ここでこうやったら見やすいから分割するなどというのは指揮者の仕事ではない。」
「目の前の欠点、今起きたミスを直すことに終始する指揮者など、弾き手の誰も望んでいない。」
「たとえばピアノなら、バイエルしか弾けない腕で演奏会を開こうという人はいないのに、バイエルひとつ弾けなくても指揮者はできるから不思議な職業だ。」
「いわゆるマスコミが取り上げる世の中の有名指揮者と、私たち奏者が尊敬する指揮者のあいだにはそれなりのギャップがあるのも本当だ。」
「言葉が多すぎる指揮者はありがたくない。リハーサル中、際限なくしゃべられたのでは、「で、一番おっしゃりたいことは何なのでしょう」と聞きたくなってしまう。」
「抽象的な言葉を並べるのではなく、自分のイメージを奏者に向かって具体的に提示できなければ、その曲をよく理解していることにはならない。」

ずいぶん、書き連ねてしまいましたが、どうでしょう。面白そうだと思いませんか?プロの世界ですから、我々アマチュア合唱の世界と違うのは当然としても、プロとは何なのか、一つの指針になると思います。

2006年6月23日金曜日

アマテラス/坂東玉三郎・鼓童

昨日、京都南座で公演中の、坂東玉三郎と鼓童のコラボレーションによる「アマテラス」を観てきました。とりあえず、なんで平日の昼に京都にいるのという疑問はスルーしてください。
以前こんな話題を書いたのですが、それ以来なかなか鼓童のコンサートには行く機会がなくて、実は今回がついに初めての鼓童体験となったわけです。
それも、2年前にテレビで見たときと同じ、坂東玉三郎とのコラボレーション。そして、題材が日本神話によるものと、気になる要素がいっぱい。これは何としても見てみたいと思ったわけです。

で、やはり想像を違わぬ素晴らしい公演でした。
生で聞く和太鼓の迫力もさることながら、彼らの卓越した打楽器アンサンブル能力、そしてアマテラスのストーリーの面白さ、それを和太鼓と踊りのみで表現するその方法、演出上の様々な工夫、演奏だけでない鼓動のメンバーの演技力、これら一つ一つが印象深く、全く新しい芸術空間を表出していました。
この公演は、単なる音楽の演奏ではありません。しかし、演技はあるけどセリフがないので、芝居とも言い切れないのです。基本的には、打楽器を中心とした音楽は常に鳴り続けていて、それに合わせて、役付きの人たちが演技あるいは踊りを踊る、といった感じのステージです。
舞台装置は、演劇のような明確なセットがあるわけでなく、オペラの前衛的演出のような、抽象的、象徴的な簡素なモノでした。そういう意味では、一般受けする大衆的な舞台芸術とは一線を画しているかもしれません。

アマテラスのストーリーは、いわゆる天の岩屋戸の神話をモチーフにしたものです。玉三郎はもちろんアマテラス役。個人的に面白かったのは、アマテラスとスサノオの兄弟の会話のようなやり取りを打楽器だけで表現したところ。会話の調子やその雰囲気を、会話の具体的内容抜きに、踊りと音楽のみで表現し、結果的にスサノオがアマテラスの言うことを聞かなかった様子をとても良く表していました。音楽の表現方法の一つとして、興味深いものを感じました。
実演の鼓童を聞いて、ますます鼓童ファンになりました。また機会があれば見に行きたいです。


2006年6月21日水曜日

アマ論、プロ論

アマチュアとプロの差はなんだろう、とは良く言われる問いだと思います。
最近、私はこんなふうに考えています。アマチュアとは、演奏者自らの歓びを追求する人たちであり、プロとは、聴衆の歓びを追求する人たち、であると。
演奏者が楽しんで演奏すれば、きっと聴衆も楽しいはずだ、という意見もあろうかと思います。が、それは恐らく、きわめてアマチュア的な発想でしょう。
むしろ、聴衆の歓びと演奏者の歓びの差は何なのか、という問いをするべきです。例えば、演奏する曲目にそれは大きく反映されるでしょう。
アマチュア合唱の世界ならば、長い練習期間をかけて演奏会の準備をしますから、演奏者がその練習期間に耐えうるだけの曲を選びます。そういった曲には、テキストの格調高さ、シリアスさ、気持ちの込めやすさ、といった要素があるでしょうし、団の実力にもよりますが、歌謡性の高いものよりも厳格な音楽性を求めるかもしれません。また、編成の大きさも歌い手の満足感を高める大きな要素です。もちろん、こういう音楽が鑑賞に堪えうる物であるならば、アマチュア的であるとしても、十分価値のある音楽活動です。

しかし、日本中にこれだけの合唱団が存在し、そして毎年数多くの合唱曲が生産されているにも関わらず、合唱をしている人以外に、合唱音楽が聴かれないのはなぜでしょう?
それは、まさにプロの不在ゆえではないかと思うわけです。もちろんプロ合唱団は存在しますが、数が少なすぎです。これだけ合唱人口があるなら、それに見合う数のプロ合唱団があったっていいのに。
プロであるなら、演奏家がその音楽に満足しようがしまいが、聴衆の歓びを満たすことが要求されるはずです。だから私は、そういったことを基準にした合唱曲、合唱表現のあり方、指導者、そして演奏家がもっと増えて欲しいと思っています。そして、市場原理の中で、プロ同士が切磋琢磨するような状況が出来ないものでしょうか。

合唱界の有名指揮者の方々には指導者であるよりも、アーティストになって欲しいのです。

2006年6月14日水曜日

フェルマーの最終定理/サイモン・シン

Fermat別に本物の数学の論文を読んだわけではありません。見ればわかりますが。
これは、フェルマーの最終定理に挑戦した数学者たちのドラマを描いたノンフィクションです。
数学だなんて難しい、と思う必要はありません。数式は多少は出てきますが、その部分に関しては中学程度の学力で分かる程度。それをこの著者サイモン・シン(訳:青木薫)は、素人にもわかるようにうまく説明しています。
何といっても、三百年以上もの間、解かれることのなかったこの定理に、どんな人たちが挑戦し、そして敗れ去ったか、そしてどうやってついにこの問題が解かれたのか、その過程を読みながら追体験していくことはスリリングだし、謎を解くために一生をかけた男たち(女性学者もいましたが)のロマンがこの本からひしひしと伝わってくるのです。
私も数学の世界は詳しくないけど、へぇ~と思うような事実もたくさん知り、勉強になりました。登場人物もなかなか魅力的です。ピュタゴラス、ケプラー、オイラー、ゲーデルといった有名人も出てきます。決闘で死ぬ前の晩に、自分の研究を一晩でまとめて手紙を残したガロアとか、女性にふられて自殺をしようとするがフェルマーの最終定理のアイデアを思いつき自殺を延期したヴォルフスケール(結局、自殺した彼はその遺産をフェルマーの最終定理を解いたものへの懸賞金とする遺言を残す)といったドラマティックな逸話の数々。これだけでも、十分楽しい読み物です。この物語の最後、アンドリュー・ワイルズが1994年に最終定理の証明を完成するくだりは感動のクライマックスです。

実は、そのような大問題であるにも関わらず、フェルマーの最終定理というのは非常にシンプルな問いです。xのn乗+yのn乗=zのn乗(nは3以上)を満たす、x,y,z の整数解は存在しない、というもの。
正直言って、ワイルズが証明した筋書きの説明については全くわからなかったけど、素数の話とか、パズルの話とか、数学的な小ネタに満ちているのもこの本の面白さの一つです。

2006年6月10日土曜日

E=mc^2を歌おう

せっかくハーモニーに載ったんだから、旬のうちに歌おう、ということで「E=mc^2 PartII」 をウチの団(ヴォア・ヴェール)で、静岡県の合唱祭(6/18)において歌うことにしました。
この楽譜を見て、「うわー、変な曲!」と思っている方も多いかと思います。確かに、世の中にこういう曲はあんまりないかもしれませんが、歌ってみると、それほど難しいわけではありません。
というか、この曲を歌うと、まるでソルフェージュの練習のような状況になります。# や b はそれほど多くないし、割と普通のダイアトニックスケールの感覚で音は取れます。ただ、テンポが速いのと、シンコペーション、3連符などリズムのバリエーションが結構あるので、パッと見て歌うには難儀するようです。そんなわけで、歌う側もかなりソルフェージュ力を試されます。逆に言えば、ソルフェージュ力を試すために、この曲を使ってみるというのもアリかも。
ほんとうは、もう少し曲の仕掛けを曲作りに繋げていきたいのですが、まだまだ音符を追うのが精一杯で、恐らく本番で十分に曲の面白さを表現できるかは厳しいかもしれません。それでも、「lae lae lae lae」を強調することで、聞いた感じの面白さは出てきますし、中盤から後半にかけての盛り上がりも、それなりに印象は与えられるような気がしています。あとは、各パートが落ちないことを祈るばかり。

ちなみに、この曲は、以下のようなイメージをもって作ったものです。
相対性理論の説明をするような本には、大概、ロケットが話の中に出てきます。ロケットでなくても、何らかの非常に高速で動く乗り物です(電車とか)。そして、このロケットから出した光はどうなるのか、というように話は展開します。その説明の中で、ロケットは観測者に向かって光速に近い速度で近づき、そしてすぐ横を通り過ぎ、また光速で去っていくのです。
この曲はいわば、自分に近づき、間近を通り、そして去っていくロケットの描写です。まるで、ある駅を通過する新幹線をホームで見ているような、そんなスピード感を想像してみてください。

実際、ハーモニーに載ったとはいえ、そうそう歌われるとは思えません。どうせ、変な曲だし~。
もし少しでも興味があるようでしたら、6/18に浜松のアクトシティ中ホールで、この曲が響き渡るはずですので、よろしかったらいらしてください。

2006年6月2日金曜日

嫌われ松子の一生

かなり前から、しつこいくらいに映画の予告編で見せられて、最初のうちはバカバカしそうだなあ、と思っていたんですが、どうもなんか気になるんです。公開が近づくにつれ、メディアなどから面白そうな雰囲気が漂ってきて、ちょっと見てみるか、という気持ちに変わっていきました。
そんなわけで見てしまいました。「嫌われ松子の一生」。
何といってもタイトルがインパクトありますね。原作は読んでいないけど、不思議な吸引力のあるタイトル。

映画を見終わっての率直な印象は、もう~濃すぎる、という感じ。映画全体が超ハイテンションです。役者の演技が、というわけでなくて、ストーリーの展開、映像効果(色彩、アングル、魚眼の使用、花の氾濫などなど)、音楽(まるでミュージカル)といったいろんな要素が、全てテンション高いんです。はっきり言ってやり過ぎです。もうちょっと抑えるべきだとは思いますが・・・、それがこの映画の売りとも思えるし・・・うーん。
それに、このくどいとも言える各種効果の割りに映画全体が長いです。観ているほうもくたくたです。私は後半、このテンションの高さにちょっと付いていけなかったかなあ。

しかし、それでも、この映画にはクリエータ魂が炸裂しているのを感じました。外見上のバカバカしさに惑わされると気が付かないかもしれないけど、かなりの芸術センスを感じます。
特殊映像効果ばかりで、映画が平坦になってしまったキャシャーンと違うのはそういうところ。ストーリーに破綻がなく、(私がよく言うところの)構造性がきちんとしており、小ネタの仕掛けもうまい。
それに、陰惨でショッキングなシーンと、バカバカしいくらいのファンシーなシーンを共存させるという大胆さ、シリアスなシーンの中にも笑いを失わないこと、それでいて、きちんと役者の演技で思わずほろりとさせられること、一つ一つがプロの作りです。「ダンサーインザダーク」の陰鬱さ、「チャーリーとチョコレート工場」のバカバカしさを高度なレベルで結合したとでも言いましょうか・・・

中学教師から風俗嬢、殺人犯、そして最後はほとんど浮浪者、といたる転落そのものの人生。人々から後ろ指を指される一方で、男たちに愛を捧げ続ける神のような存在でもあったことを仄めかせて、人生の幸せとは何か、結論の出ない命題を見る者に提起します。
そういう意味では内容は極めて重厚です。しかし、その表現方法は、そうとう軽薄です。そして、そんな芸術のあり方に個人的には共感を覚えてしまいました。

2006年6月1日木曜日

パソコンはなぜ腹が立つのか

パソコンを使っていて何が腹立たしいのか?
パソコンを擬人的に考えると、その動きの不自然さが理解できるように思います。
例えば、朝一番に会って「おはよう」と声かけても、すぐ返事するわけでもなく、少し経ってから「しばらくお待ちください」などと言われたらどう思います?
何か反応してくれるならいいんです。声をかけたり、物事を頼んだりすると、いきなり全く動かなくなったりして、10秒ほどたってからようやく動き出したりすると、こちらもイライラしてきます。10秒経って必ず復帰してくれるならいいけど、1分待っても戻ってこなかったらどうしますか? あきらめてリセットする場合もありますよね。
実社会でそんな人がいたら、まあ相手にしてもらえないでしょうし、まともなコミュニケーションなんかできません。私たちは、そんなコミュニケーション不全のパソコンを一生懸命なだめながら使っているわけです。

要するに、パソコンには人間にとって当たり前の「反応」というヤツがないんです。
もちろん、アラートのウインドウとか出てくることもありますが、おおよそ、リアルな人間の反応とは違う他人行儀な言葉ばっかり。
私も技術者ですから、どうしてパソコンってそうなっているのか、多少は理解しているつもりです。
パソコンに人間らしい「反応」を求めるには、恐らく今のままで不可能で、ハードウェアやOSレベルの対応が必要になってくるでしょう。そういう部分をきっちり考えたパソコンやOSが出てくれればいいんですけどね。(まあ、Mac は Windows よりはまだマシですが)