2010年10月30日土曜日

理系度から見る私の変遷

今回も何となく自分史の振り返り。
まあ、どう考えても私はこれまで理系人間として生きてきたわけですが、その気持ちはずっと一様だったわけではありません。
高校時代まで私は完全に理系人間でした。数学、物理は好きだけど、国語、社会は嫌いと公言していたくらい。今の私から見れば、国語や社会の大切さを説教したいくらいですが、頑なに私は理系でありたいと思ったし、曖昧な結論になりそうな学問を嫌っていたのです。
このときの気持ちがほとんど変わっていなければ、私は今でもごく一般的な理系技術者の一人であったことでしょう。

そんな私が大きく変わったのは大学時代。
大学時代、私は完全に文転していたと言っていいくらいなのです。工学部に入った私ですが、サークル活動に明け暮れ、受験から解放され勉強に興味を失った結果、授業に全くついて行けなくなりました。これマジです。高校の頃まで、授業が分からないなんてこと無かったのに、もう物理なんてさっぱりです。講義内容が分からない劣等感を感じながらも、残念ながらその頃の私は奮起することは無かった。

その一方、合唱団での活動が増えるにつれ、文系の人たちに影響され、それまでまるで興味がなかった文学や芸術の世界に目覚めます。もとより小説を読んだり、音楽を聴くのは好きだったけど、高校までの私は推理小説とか、ポップスとか、ごく一般的な流行りのものしか興味がなかったのです。
しかし大学入学後、古典文学や哲学、心理学といった文系学問に興味が移り、音楽もクラシックを多く聴くようになっていきました。理系に属しながら心は完全に文系になっていました。

その後、技術者として就職しましたが、幸か不幸か、私はコンピュータのソフトウェア技術者となります。いわゆるプログラマーですが、多くの人が誤解していると思うのだけど、プログラマーは必ずしもバリバリ理系的な仕事ではありません。
一応、今の世の中コンピュータに関する学問は理系に属していますが、プログラムを書くだけなら、理系文系はそれほど関係無いと思います。プログラミングとは論理思考の権化みたいな技術ですが、ロジカルな思考は文系であっても非常に重要なハズ。通常、コンピュータで解決したい問題領域が理系学問に多いから、理系っぽく思えるだけなのです。
私は、就職以来、プログラミングを覚えていきましたが、理系的な領域には苦手意識を持ったまま、大学時代に心に根ざした文系的生活を送っていました。

とはいえ、私のもともとの性向はやはり理系だったのでしょう。
私の理系としての能力的限界は、すでに大学時代に実証済み。しかし、それを肯定して、専門的なところは専門家に任せることにして、一般的な事柄についてはもっと理系的に処理できないかと思うようになりました。
その大きなきっかけは、たまたま社内の研修の一環でデジタル信号処理を再勉強したことにあります。大学でも多少触りはやっていたものの、当時はやる気もなかったので、全く身についていませんでした。
しかし、冒頭のオイラーの公式で私は目覚めました。えー何だって! 指数関数と三角関数が、自然対数と虚数によって結ばれるなんてスゴ−い、という理系のくせに今まで何してたんだと言われかねないような驚きを感じたわけです。
その後完全に身についたとは言わないまでも、フーリエ変換とかz変換を再勉強し、伝達関数を算出し、各種フィルタ計算を行う方法を知るにつれ、理系的な喜びが再び復活してきました。

とはいえ、日々業務の中でそのような知識を日常的に使うわけでもなく、専門家として習熟するというよりは、広範な知識としての理系への興味を常に持ち続けています。
しかし、思い返せば、今面白いと感じる理系学問は全て大学時代に一度はかじっていたわけで、今の私から見れば、当時の私に数学や物理の楽しさを説教したいくらいなのです。

2010年10月27日水曜日

そもそも合唱をなぜ始めたのか

今回は、ちょっと遠い記憶を掘り起こしてみようと思います。
そもそも、私はなぜ合唱を始めたのでしょう?
多分、あれは高校2年のときだったと思います。私は物理部という超カタそうな名前の部活をしていました。といっても、ほとんど活動の実態は無いに等しい状態でした(私はなぜか部長をやらされていた)。物理部の一年先輩のN氏の「ちょっと音楽部に遊びに来いよ」という言葉に特に何も考えずついていったが最後、ほとんど無理矢理音楽部に入れさせられてしまったのです。
ちなみに、このN氏は大学まで同じになり、大学の合唱団でも一緒に活動しました。昨年の委嘱作品初演のときに久しぶりに会えてとても嬉しかったです。しかしお互い歳をとりました・・・。

それにしても、まあ男が合唱を始めるなんてだいたいこんなものかもしれません。
当時の音楽部は十数人程度で、特に合唱有名校でも何でもない我々の学校は、先生が勝手に好きな曲を持ってきて、学園祭や定演でそれを発表するという活動でした。それでも毎週練習しているうちに、物理部には絶対いない女子もいるし、上級生や下級生とも親しくなっていって練習に行くことが楽しくなります。そして先生が弾くピアノの周りに集まって、音を取ってハーモニーを作っていく快感にだんだんと目覚めていきました。
折しもポップス風の作曲を始めた頃で、自分自身も音楽にのめり始めていました。当時練習したのは、廣瀬量平とか大中恩の合唱曲でしたが、これらの曲にコードネームをふって自分なりに曲研究をしたものです。

当時私が好きだった曲は、例えば廣瀬量平の「海の詩」の中の「航海」。歴史の教科書の中だけにあった邪馬台国がまるで生きた風景となって自分の前に現れ、古代日本に文明を伝えようと意気揚々と船を走らせた人々に想いを馳せることに、たまらない感動を覚えました。
その後にやった「山に祈る」も衝撃的。「誠、誠・・・」のナレーションを思い出します。出てくるのはヌーボー倉田だっけ。今となっては、こういう題材もやや品が無い感じがしますが、高校生の私には強烈な印象を残しました。
あと、思い出深いのは3年生のときにやった「屋上の狂人」というオペラ。なぜか主人公であるテナーの狂人役を、ベースの私がやらされることになったのです。後にも先にも、物心ついて人前で演技をしたのはこのときくらい。最後の山場のアリアでは、音が高くて声が出ず、先生から「適当にベースが歌えるように、音を変えて」とか言われました。今、楽譜を取り出すと三度とか五度とか下げて、私が歌えるように小さな音符が書き加えてあります・・・。

結局私は学生時代コンクールに出たことは無かったのですが、かえってそのおかげで、人数は少なく実力もボロボロだったけれど、合唱をいろいろな側面から楽しんでいたのかもしれません。そんな高校時代の経験が、今でも合唱を続ける源泉になっているような気がします。

2010年10月23日土曜日

モチベーション3.0/ダニエル・ピンク

話題の本「モチベーション3.0」を読みました。内容としては、以前紹介した太田肇氏の本とかなりかぶります。同様の考え方を、すでに世界の多くの学者たちが研究しているということなのでしょう。

この本の秀逸なところは、「やる気」論を「モチベーション3.0」というキャッチーな題名にしているところです。人間の心にもコンピュータと同じようにOSがあり、現在多くの人がモチベーション2.0に従って生きているけれど、これからは3.0の時代だからバージョンアップせよ、という主張です。
では、そのバージョン番号は何を意味しているのか。1.0は人間のプリミティブな生きていくのに必要な欲求です。つまり食欲、性欲です。2.0は、近代の工業化された社会において、仕事をすればお金を貰える、というアメとムチの社会です。多くの人に同じ仕事を効率よくさせるのに優れたやり方です。
しかし、近年になって創造的な仕事が重要になるにつれ、この2.0のやり方では良いアウトプットが出なくなってきました。仕事に対して報酬を与えると逆にクリエイティブな発想が生まれにくくなる、などの事例より、本当に創造的な仕事は、「やらされている」という外発的な要因でなくて「好きだからやっている」という内発的要因で行われている、ということを著者は主張します。

元々著者は専門の学者ではなく、ジャーナリスト的な立場の人であり、この本は多くの専門家のインタビューによって成り立っています。専門家が行った多くの心理学実験が紹介され、この考え方を非常に説得力のあるものにしています。
例えば、あるパズルを解かせる前に、うまく解けたら報酬を与える、といった条件を与えます。そのパズルが時間さえかければ解けるシンプルなものであれば、報酬を与えることによって早く解かれる場合もあるのですが、その答えにやや発想の転換が必要な場合には、報酬が逆に悪く作用し、パズルが解くのに時間がかかってしまうのです。

本書の中盤からは、このモチベーション3.0の三つの重要な要素が紹介されます。
「自立性(オートノミー)」「熟達(マスタリー)」「目的」です。
「自立性」とは、管理されずに自ら進んで行動する、ということ。有名なグーグルの20%ルールなどは、この応用です。会社にいる時間の20%は業務以外のことを好きにやっていい、というルールですが、現在のグーグルのサービスの中で、この20%ルールから生まれたものもたくさんあるのです。
企業がそれなりのコストを支払ってでも、自律に任せることによって素晴らしいアイデアが生まれる可能性があり、それは結局会社の成長に繋がるわけです。
「熟達」とは、一つのことに熱中することで、それがどんどん得意になっていく、ということ。スポーツ選手、芸術家、研究家などがある種のトランス状態の中で、優れた業績を残しています。このような心理状況のことを心理学者チクセントミハイはフローと名付けました(この件について、以前書いたことがあります)。熟達はときに苦痛でもあるのですが、このフローこそが個人が創造的なアウトプットを出すことの必要条件となるのです。
「目的」とは、個人が一生をかけて達成しようという誓いです。それは金銭的な成功ではなく、世界に対する貢献です。誰だってお金が欲しいし、そんな高邁なことを考えていない、と思うかもしれません。しかし、実は誰もが世に貢献したいという漠然とした希望は持っているし、それを顕在化させればいいだけなのです。それが達成できることは、個人の心に大きな充実感が得られることでしょう。

実は、ちょっと解せないのは、この本が一見組織や社会のあり方を見直すような方向性を見せながら、結局個人の生き方に落とし込んでいるという点。個人の生き方に対する提言はあるけれど、組織や社会はどうあるべきか、まで踏み込んでいません。だからよく読まないと、自己啓発本以上の効果が得られないのです。
しかし、多くの人がこの内容に共感を得るならば、社会は少しずつ良くなるのかもしれません。残念ながら、日本はアメリカ以上に2.0になっているように感じます。むしろ昔の日本は3.0に近かったような気さえしてきます。

世の中がグローバル化すればするほど、仕事がルール化され、定型化されてきています。それは効率化のためやむを得ないことなのだけど、日本ではそれが個人への押し付けとしか機能していません。全ての仕事がプラスを生み出すのではなく、マイナスを0にする仕事と化しているのです。
そういう意味で、この本は私にとって大変刺激的な内容でした。個々人が芸術家であることが求められる社会が目の前まで来ています。私は、もっと早く世の中がそのように変わって欲しいと心待ちにしているのです。

2010年10月18日月曜日

十三人の刺客

三池崇史監督、ベネチア映画祭で評判だったという「十三人の刺客」を観に行きました。
内容は、明石藩の暴君を暗殺するために結成された十三人の刺客と、それを守る家来との戦いを描いたもの。後半の1時間にわたるチャンバラアクションシーンがこの映画のウリです。
外国の映画祭で評判だったように、確かにこれは、時代劇なのに邦画離れした映画。普通に売れ線を狙って作られた映画とは一線を画します。私が行ったとき、レイトショーで男4人しか観客いなかったし。(at浜松ザザTOHOシネマズ)

どんなところが邦画離れしているかというと、北野武ばりの暴力や残虐シーン満載。切腹も首切りも、血しぶきも、その他おどろおどろしいシーンも写実的でリアル。というか、今やこういう暴力シーンは海外から見ると日本のお家芸らしい。売れ線ではそんな映画全然無いんですけどねぇ。
それから、ストーリーの容赦無さも売れ線映画とは一線を画します。嘘くさい正義感とか、よい子的なスローガン連呼(愛する人のために云々など)のような甘いセリフは一切無し。つまらない優しさも無し。どこまでも、リアルな人間描写。そしてリアルな生活感や、人、モノの汚さ。こういうところはやや洋画っぽくてちょっと嬉しかった。
時にややバカバカしいシーンを挟みつつも、全体を覆う、硬派なリアルさの追求は賞賛すべきことだと思いました。

しかし、それにしてもSMAP稲垣吾郎をここまでの汚れ役で使ったのはすごいです。もうジャニーズってSMAPの出る映画まで口は出さないのかなあ。この悪役ぶりは見事ですよ。
それから、村全体を戦場として仕掛けるのは面白かった。しかし仕掛けが派手な割には、敵へのダメージが少ないように見えたのは流れ上仕方ないのでしょうか。もう少し、互角になるところまで敵が減った方が、戦闘としてリアルな感じがします。
あと個人的には、無意味に不死身な伊勢谷のキャラは今ひとつ馴染めませんでした。シリアスな物語の中でどんな役回りをしていたのか、どうも分かりづらいのです。

基本的には、女性やお子様にはお奨めできません。男が一人で見る映画です。野蛮な題材ですが、シンプルな道徳観によるストーリー展開が心地よい映画でもありました。

2010年10月15日金曜日

再び piu f について

だいぶ前ですが、こんな話題を書きました。この中で私は、「piu f」「meno f」などは、音の相対的な指示である、と書いています。
しかし、楽譜の表記に正解、不正解は無いもの。自然言語と同じで、皆が違う使い方をしてしまえば、それが正しい使い方になってしまいます。
そして、この「piu f」の表記については、現在ではかなり多くの作曲家が絶対音量として利用している、と感じています。
例えば、f周辺で言えばこんな感じ。
mf < meno f < f < pif f < ff < fff
p周辺ならこんな感じ。
mp > meno p > p > piu p > pp > ppp

作曲家とすれば、f, ff, fff とか、p, pp, ppp といったように f, p の数のインフレーションを抑える、という利点もありますし、単純にフォルテを増やすより、中間を定義したほうが、音量制御に繊細なイメージを感じさせることができます。
ですから、現実には、絶対音量のバリエーションを増やす方向に使った方が誤解も少ないし、使いやすいのです。しかも元の定義からも、それほど間違った感じもしません。
とはいえ、相対音量の意味もある、ということを覚えておかないと、作曲家の国や時代によっては、間違った解釈をしてしまう可能性もあります。いずれにしても、この表記は絶対この意味、というように決めてかかるのは危険ということです。

ある意味、日本の作曲家の楽譜表記は繊細かつ過剰、な感じがします。洋物のほうがもっと淡泊な感じがするし、明瞭で潔いのです。だから、日本の作曲家の方が音量指示もきめ細かいし、アーティキュレーションも過剰。どちらかというと「事実を伝える」というより「気持ちを伝える」というニュアンスが強いのですが、その「気持ち」が実はなかなか伝わってなかったりするのです。
演奏の現場では、むしろ楽譜の表記についてあまり真剣に咀嚼されていないことが多く、こと細かい楽譜表記への対応は歌い手個人の裁量に任されています。たいてい指揮者より歌い手の方が音楽的知識は低いわけで、結果的に作曲家の「気持ち」が伝わっていないような気がするのです。
これは、演奏家の問題だけでは無いと思います。気持ちを伝えるために、過剰になり過ぎた指示が、逆に読み手の感覚を鈍らせている可能性もあります。いろいろ書いてあって良くわかんないけど、誰も何も言わないし、どうでもいいや、みたいな。

piu f のような指示はそういった微妙さを増やす要素にもなり、あまり多用するのは、楽譜を読む歌い手にとって必ずしも有効ではないような気もしています。そういうところにも、創作家としてのセンスが問われるのではと感じます。

2010年10月12日火曜日

好きな音楽ベスト50(2010年版) 第5位〜第1位

では残りです。1位までをご紹介します。やはり長くなりました。

5位:ピアノトリオ/ラヴェル
一般的には、ドビュッシーはピアノ曲、ラヴェルは管弦楽みたいなイメージがあるけど、私はわりと逆。ドビュッシーは管弦楽で、ラヴェルは室内楽。そして、このピアノトリオはラヴェルの室内楽曲の中でもとりわけ好きな作品。
何といっても冒頭のテーマが美しすぎる。音色で飾り立てられない素の音素材として、これほど透徹したものはないと思う。その後のヴィルトゥオーソ的な展開もラヴェルならでは。時間密度の濃さとその毅然とした必然性。全ての音が正しく配置されている、としか言いようがない。
2,3,4楽章とどれ一つ外れがなく、楽章の流れも見事。3楽章のゆったりしたフーガはそのまま声楽曲にしたいくらい。そこからアタッカでなだれ込む4楽章のアップテンポの5拍子が変拍子好きの心をくすぐる。

4位:交響曲第5番/プロコフィエフ
結局これを入れてプロコフィエフは50位以内に4つランクイン。ちょっと入れすぎたかなと後で密かに後悔。そんなに好きな作曲家か、と言われると、まあ好きなんだけど愛憎半ばって気もしないではない。
プロコフィエフはもともと抽象度の高い分かりにくい部分はあるものの、この交響曲第5番は前衛性と叙情性、そして音楽の美しさが見事に結合した素晴らしい作品であると思う。一般には、プロコフィエフなりに、多くの人に理解されるよう分かり易く書かれた音楽とも言われている。
第一楽章、主題がフーガっぽく畳み込まれるように盛り上がる壮大さ、そして第二楽章のロックのようなビート感、第三楽章の緊迫した叙情、そして再び軽やかなビート感を持つ第四楽章。いずれも、隙間無く構築された精密機械のごとき音楽空間が展開される。

3位:夢のあと/椎名林檎
もともと東京事変のアルバム「教育」の中の1曲だけれど、その後ソロアルバム「平成風俗」にも収録。大好きな曲なので単曲でのランクインとしました。
平和を歌うミュージシャンは多い。そりゃ誰だって、平和な世の中がいいに決まってる。そのような手垢がつきまくった主題に対して、アーティストはどのように対峙すべきか? そこで芸術家としての非凡さが試されるのだと思う。
「手を繋いで居て 悲しみで一杯の情景を握り返して この結び目で世界を護るのさ」
泣けるじゃないですか。繋がれる手は誰のものかは明らかではないけれど(恐らく自分の子供)、手と手が繋がれたその結び目こそ、悲しみで一杯の世界と戦う唯一の力なのだと訴える。世界の巨悪と比べるとあまりに小さい結び目。でも、それが世界と対比されることで、この上なく大事なことだと思い起こさせる。
この感受性は、凡百のJ-POPアーティストには求めるべくも無い。自分の身の回りにある小さくて大切なもの、それの集積こそが愛と平和の世界を実現するのだ、ということ。それは永遠に無理かもしれないけれど、そういう気持ちを持ち続けることの大切さが切々と心に刻まれる。

2位:牧神の午後の前奏曲/ドビュッシー
クラシックを聴くようになって最初期の頃によく聞いた想い出の曲。
神話と幻想の世界。そしてそのイメージを膨らませる美しい管弦楽法。ドビュッシーの作曲当時の音楽状況からすれば、技法の異端さは群を抜いていた。しかし、私にはその異端さは単純な音楽技法なのではなく、そこから醸し出される音風景総体のイメージが、当時多くの人が良しとしていたものと相当かけ離れていたのだと思う。
既存の価値観をひっくり返す天性の芸術性がドビュッシーにはあった。すでにドビュッシーの中に確立されていた芸術観があり、彼はただ自ら信ずる価値観のまま、自分の求める音風景を楽譜に書き連ねただけだった。そして、初めて世に出たその音風景はまた、多くの人の心を魅了するに足る音楽だったのだろう。

1位:鉄への呪い/トルミス
そしてついに好きな音楽第一位は・・・、合唱曲です。しかもかなりマイナーな。国内ではほとんど聞くことが出来ない。数年前に某男声合唱団が全国大会で演奏したのは驚いた。しかも、内容を咀嚼した素晴らしい演奏! いつか何らかの形で私もやってみたいけれど、これは無理そう。
この曲の難しさは、音やリズムの難しさではない。むしろトルミスだから、音素材は実にシンプル。しかし、曲があまりに過酷な世界観を表現しているため、その表現にアマチュアが追いつくことが大変難しいのである。もちろん、振り付きのこの曲で、大量のエストニア語を暗譜しなければいけない、ということもあるけれど。
この曲の主題は一言でいえば反戦である。しかし詩はかなり寓話っぽい(実はまだ内容をきちんと把握してないけど)。それをシャーマンドラム、叫び、所作など、一般的な合唱表現を超えた方法で表現しなければいけない。合唱と言うより、もはやパフォーマンスに近い。
そして、トルミスがこの曲で書いた音符には、複雑な和声は全く現れない。土俗的な荒々しい旋律と、半音進行のフレーズ、ほとんど四度、五度程度の単純なハモり。どちらかというと、音楽的というより音響的な作曲だと言える。
だから、私がこの曲を好きだということ自体、自己否定に繋がりかねないのだけど、私にとっては音楽の視野を広げることの重要性とか、合唱の根源的な力を思い起こさせるといった点で、敢えて自分に自戒の念を想起させるため、この曲を好きだと言いたい(なんかややこしいですか?)。

そんなわけで、50曲それぞれについて書き続けてまいりました。
多種多様とも、偏っているとも言える私の音楽の趣味です。クラシックもジャズもJ-POPもロックも全て中途半端に好きで、かつ好きなものだけが好きなんです。これから、私の趣味にどんな新しい音楽が加わっていくのか、それが楽しみです。

2010年10月10日日曜日

有村ちさとによると世界は/平山瑞穂

先日、平山瑞穂の「プロトコル」について書きましたが、この本はそのプロトコルの外伝的作品。プロトコルで出てくる魅力的な4人の登場人物のエピソードを拡大発展させ、それらをおのおの4つの小話にまとめています。
著者にとっても、読者にとっても、このまま放置するには惜しいほどの個性的なキャラたち。そんな彼(女)らのストーリを堪能するほど、プロトコルで示されたパラレルワールドへ読者の想いを誘います。

さて、その4つの小話とは、主人公有村ちさとの父、元女性上司、妹、そしてちさと自身の後日談、となります。
ちさとの父、騏一郎は十何年もアメリカを放浪して暮らしています。ブラントン将軍との二人旅なのですが、ブラントン将軍とは幻影であり、恐らく騏一郎の分身的存在です。最初の話は、騏一郎がアメリカ放浪を止めるときのエピソード。ここでは、口からでまかせの騏一郎の話を真面目に信じる田舎のアメリカ人のバカッぷりが笑えます。特にアメリカで超有名な日本人イチローとの関係を話すくだり、そのデタラメさ、それを「本当なのか?」と聞いてくるアメリカ人との会話のナンセンスさはこの著者の真骨頂と言えるかも。
��つめのちさとの後日談も思わぬ展開で楽しく読めました。プロトコルで、最後にハッピーエンドになったはずのちさと。その格好良さそうで博学な好青年は、実はマザコンでボンボンだったという話。そんな彼氏に疑問を抱いているさなか、ふとした弾みで知り合った彼氏の知り合いとちさとは・・・というふうに展開します。あれほど厳格で、ルーズなものを嫌っていたはずのちさとなのに・・・、というオチです。

何しろ、平山瑞穂は、神経症的なまでの人々に対する細かい観察眼が秀逸だと思うのです。特に今回、全く性格の違う4人のストーリを並置して読むことにより、この著者の人物描写のバラエティな引き出しに全く驚かされたのでした。妹ももかだけは、平山瑞穂的繊細さで描写するにはいろいろ無理があるところはちょっと感じたけれど、でも「頭が弱い感じ」の人の行動パターンや思考法を論理的に解釈するという作業には敬服します。
しかし、この著者の小説には面白さとともに、常に副作用が伴います。いつも次のような気持ちにさせられるのです。「あぁ、ダメ人間万歳! みんなルーズに、それでも逞しく生きているじゃないか。そんなダメな人生をみんなで謳歌しよう!」と。

2010年10月8日金曜日

好きな音楽ベスト50(2010年版) 第10位〜第6位

ちょっと引っ張ってゴメンなさい。この辺りから、語りたいことも増えてくるのです。

10位:氷の世界/井上陽水
まさにシュトルムウントドランク。どうしようもない衝動と焦燥感。世の中の現実は、強すぎる感受性にとってあまりに厳しい、そんな心の叫びが集約されている。優れた芸術として後世に残るアルバムだと私は思う。
表題作「氷の世界」のシュールさはすごい。記録的な寒さの冬に、窓の外でふざけて声を枯らして林檎売りの真似をしている人がいるだろうか? そんな歌詞を意味のまま解してはいけない。そこから感じられるのは、"氷の世界"にいる追い詰められた人間の妄想そのものである。「声を枯らす」「記録的」という言葉遣いも文字通りの意味ではなく、単なる気持ちの強調表現のように感ずる。最前線の現代詩のような、強い表現を持ったアート性のかたまり。

9位:太陽と戦慄/キング・クリムゾン
キング・クリムゾンは60年代末から活躍したプログレバンド。43位の「宮殿」もいいのだけど、私的には「太陽と戦慄」が一押し。何と言っても邦題の「太陽と戦慄」という言葉が秀逸。原題はなぜか、全く意味が違うのです。
特に終曲「太陽と戦慄 Part2」の変拍子による切迫感は大好き。恐らく、当時のミニマルな現代音楽にも影響を受けているのではないだろうか。ちなみに拙作「だるまさんがころんだ」冒頭の10/8拍子のリズムの原型は、実はこの曲だったりする。クリムゾンの方が、暗くて陰惨な感じだけど。

8位:Place to be/上原ひろみ
今、私の好きな音楽を語る際に上原ひろみは外せない。ジャズピアニストではあるけれど、彼女の音楽はいかにもといったジャズでは全然無い。むしろ、私の好きなプログレテイストがふんだんに入っていて、それがたまらない。プログレ、上原ひろみ、プロコフィエフなどに共通するのは、メカニカルでメタリックな肌触りの無機的な構造性なのだろう。そしてそれを達成するための圧倒的なテクニックによって、上原ひろみの音楽は唯一無二なものになっている。
さて、このアルバムについての記事はこちら
この曲集の楽譜も入手。もちろん弾くためじゃないです。どちらかというと、ピアノの譜面を書くときの参考のため。

7位:月の光/冨田勲
高校の時、冨田勲を初めて聴いた。その時のアルバムがこの「月の光」。ドビュッシーのピアノ曲を独自の解釈によってシンセサイザーで編曲したこの音楽、当時の私は、すごく前衛的に思えてすぐには熱狂しなかったのだけど、何度も聴いているうちにだんだん好きになっていった。
何と言っても、その夢見心地なサウンドが、まるでこの世ではない別の世界にいるかのように響いた。今思うと、10代、20代の私の好みのキーワードは「幻想」だった。何しろ夢のような世界が好きだった。シンセサイザーはその世界に自分を誘う魔法の機械のように思えた。そして、その魔法の箱を自ら作ることになろうとは・・・

6位:ロ短調ミサ曲/バッハ
31位のマタイを遙かに超えてのランクイン! いくらマタイが名曲とは言え、出番の少ない合唱団は、どうしても曲全体を熱心に聞くことが出来ない。それに比べたらロ短調ミサは歌いっぱなし。ドイツ語に苦しめられることもなく、バッハの壮大かつ緊密な音の世界に浸れる、究極の合唱曲のように思える。
2001年のドイツ演奏旅行で、恐れ多くもこのロ短調ミサ曲を歌った。アカペラのところで、合唱団全体が半音ピッチが下がった事件が心に残る。そのときの旅行記はこちら

2010年10月5日火曜日

好きな音楽ベスト50(2010年版) 第20位〜第11位

20位から11位まで。私の趣味がだんだん明らかに・・・

20位:レクイエム/モーツァルト
モツレク、結局今まで4回歌いました。自慢するほどじゃないけど、浜松のような地方都市に住んでいて珍しいことじゃないかと思う。なぜか、いろいろなところで歌う機会に恵まれ、もう好きとか嫌いとかよく分からなくなった。

19位:バイオリン協奏曲第一番/プロコフィエフ
元はといえば、冨田勲のシンセバージョンを先に聞いてしまったのだけど、その時以来のお気に入り。とても幻想的な雰囲気。自分にとって、協奏曲的なヴィルトゥオーソの世界ではなく、きれいなメロディやふんわり漂うような和声がこの曲の魅力。

18位:ダフニスとクロエ/ラヴェル
20代の頃は、こういった幻想的な管弦楽曲が大好きだった。神話の世界、壮大なオーケストレーション、ヴォカリーズによる合唱・・・。しかし、映画の世界でバカみたいにファンタジーものが流行り、こういった世界観の粗悪品が氾濫するようになると、最近はファンタジックなものについつい反発したくなってしまう。

17位:スタバトマーテル/プーランク
これも歌ったことの無い曲(あるいは、歌いそこなった曲)だけど、いつかやってみたい、いや、良い演奏で聴いてみたい。(良くない演奏なら何回か聴いた)
プーランクの神髄が凝縮されているように感ずる。

16位:アマテラス/鼓童
鼓童は和太鼓のグループ。「アマテラス」は、坂東玉三郎とのコラボによる全体がストーリー性のある演目。これを聴きに京都まで行った。その時のことはこちら

15位:ティオの夜の旅/木下牧子
これも、青春時代の想い出の部類に入る曲。1曲目のアカペラの壮大さ、3曲目の音楽の彫りの深さ、5曲目の圧倒的なビート感! どれをとっても一級品の邦人組曲だと今でも思う。残念ながら、木下作品でこの曲を超えた、と感じるものはまだ無い。

14位:フルートソナタ/プーランク
小品なんだけど、忘れがたいほどの旋律の美しさ。力の入らない作曲、というものの価値を思い起こさせる。

13位:幻想交響曲/ベルリオーズ
この辺りも比較的ベタな曲とは言えるけれど・・・、こういう若気の至りのような、恥ずかしいほどのロマンチシズムは好きだし、そういう気持ちは忘れたくない。何が自分をそこまで激しく突き動かすのか、その感情を音楽で表現してしまったその心意気を感ずるだけで、私にとって永遠の名曲。

12位:OK COMPUTER/Radiohead
洋物ロックなど最近ほとんど聴かなくなったけれど、ちょっとしたきっかけで聴いた1997年発表のこのアルバムがすごい気に入った。そのとき書いた記事はこちら

11位:RingoEXPo08/椎名林檎
このコンサート行きたかったけど、この歳で一人で椎名林檎のコンサートなんて行けない・・・。DVDを買って何度も見ながら、コンサートの素晴らしさを堪能している。「神秘でできた美しい獣」衣装から始まり、「さよなら」で奈落の底に落ちる、といった演出も見物。大きな舞台、オーケストラ演奏、しつこいほどの化粧直し、そしていつもの林檎節。椎名林檎の魅力炸裂!
そういえばもうブログで書いてた

2010年10月1日金曜日

iPhoneアプリ "UmanoidVoice" をリリース!

Icn_114新しいiPhoneアプリ、"UmanoidVoice"(ユーマノイドボイス)をリリースしました。"Humanoid"(人間のような)と称するのはややおこがましい気がしたので、Hを取って"Umanoid"です。
これまで楽譜上での音程確認用のアプリばかりでしたが、ちょっとシンセサイザー的なアプリに挑戦です。今回は、アイコンも他の人に頼んで立派なものを作ってもらいました。正直、アプリの中身がアイコン負けしている感じもありますけど・・・

Umanoid_explain_2アプリの画面は一つだけです。
左にある画像は、アプリの画面に操作の説明をオレンジ色で書き込んだものです。赤い輪のような操作子が三つありますが、それぞれ Pitch(音程)、Formant(母音)、Volume(音量)に割り当てられていて、この三つのパラメータを音を鳴らしながら変更することができます。
特に、Formantのコントローラは二次元的に動かすことができます。またどの位置がどの母音に対応するかも記しておきました。ちなみに、このコントローラの理論的根拠ですが、例えばこのページをご覧ください。

一番下にあるスイッチをONにすれば、音が出ます。
また、ビブラートのコントロールも付けてみました。これがあると、ちょっと人っぽい歌声になってきます。
操作子はこれだけのいたってシンプルなアプリです。

音質的にまだまだな感じもありますし、もう少し立派な計算をすれば、もっとリアルな音が出るかもしれません。その辺りは、私自身ももうちょっと勉強してみようと思います。個人的には、人が発声するリクツを知りたいという気持ちで作ったアプリなので、今後も何か思い付く度に計算方法を変えたり、機能アップさせようと考えています。

ご意見、ご要望があれば何なりとお知らせ下さい。
iPhoneをお持ちの方は、是非ダウンロードしてみて下さい。おっと、言い忘れてましたが、もちろん無料です!