2010年8月28日土曜日

指揮者と合唱団の関係 学指揮篇

一般合唱団であれば、指揮者はいちおう先生という扱い。団員との立場の非対称性が前提となっていますが、この非対称性が弱く、指揮者の地位の低さが宿命的であるのが学指揮という存在。
私自身は学指揮の経験は無いわけですが、今回は学指揮が指揮者としてどう振る舞うべきか、私の思うところを書いてみましょう。あくまで、私個人の意見ですから、書かれた通りにやったけどうまくいかなかった、といっても責任は持ちませんが。

●怒らない
「怒る」ことが許されるのは、立場の違いが明瞭な場合です。学校で、先生が生徒を怒ってもよいのは、先生が怒っても許されることを社会が一般認識として許容しているからです(最近は、やや様相が異なっているようですけれど)。
学指揮が練習中に怒った場合、同じ学生の分際で、そこまで言われる筋合いは無い、という心理的な反発が起こるのは当然。まあ、とりあえずみんなを黙らせるくらいの空気を作れる人もいますが、団員の何人かは心の中で強い反発を抱いていますよ。
「怒らない」で、うまく問題点を指摘することこそ、前に立つ者が磨くべきスキルだと考えます。

●教えるのでなく下僕として振る舞う
実力がある者が教える、という態度ではなく、みんなを代表して調べたり研究したりして、その結果を伝えるのだという態度を示すべきだと思います。
指揮者という立場になったことで、他の団員より練習している曲のことを多く調べ、音楽全般やテキストの文学的価値について研究することは当然のことですが、自分はそのような係になったのだ、と思って欲しい。いわば、合唱団の下僕です。
それが自分の自尊心を傷つけるのであれば、むしろ学指揮にならないほうが合唱団のためにもよいと思います。合唱団は気持ち良く上手くなりたいのです。

●成果は小出しに
自分が調べたことを一覧にしてプリントして配っても良いのだけど、なかなかみんなは端から端まできっちり読んでくれません。すごいねぇとは言ってくれると思いますが。
外国語の歌詞の意味のように、まとめて配ることに意味がある場合はいいのだけど、自分が調べた成果は練習中に小出しに発言していったほうが、練習も効率的になるし、あなたへの尊敬も日増しに増えることでしょう。

●どうやってあなたらしさを出すのか
学指揮であっても、前に立つのであれば、何らかの芸術的審美眼を表現し、自分なりの音楽世界を構築すべきです。先生の代理、というだけでなく、あなたらしさをさりげなく伝えたい。
その前にあなたの芸術観とは何か、自分探しを最初にすることになるでしょう。あなたの好きな小説は、マンガは、映画は、作曲家は、J-POPは、絵画は、建築は、お笑い芸人は、そういうものを全部洗いざらい出してみる。そうすると、何らかの傾向が必ずあるはずです。自分は音楽で何を伝えたいのか、あるいはどんな表現が好みなのか、それをまず自覚すること。
とはいえ、それを練習中に直接言って強要すると、学指揮らしさを損ないます。練習中にさりげなく、あなたの好きなモノの例を出しながら指導するのです。「ここは、アバターで、鳥に乗って空を飛んでいる感じで〜」とか(まあセンスは問われますが)。あまりマニアックなのもいけませんが、団員の半分くらいは知らないことでも構いません。

学指揮の役割は、合唱団を上手くすることです。学指揮の自尊心を満たすことではないし、ひょうきん者として人気を博すことでもありません。
お金をいただく指揮者の先生はちょっとだけ違います。合唱団を上手くすることで自分の株を上げることが、指揮者としての自分の商品価値を高めることになります。それが本職の指揮者の目指していることです。
その辺りをきちんと理解した上で、学指揮は本職の指揮者を真似るのでなく、合唱団の下僕となる覚悟が必要なのではと思うわけです。

2010年8月26日木曜日

指揮者と合唱団の関係 その2

指揮者と合唱団の音楽性の違いについて考えてみましょう。
同じような年代の集まりとか、学生であるとか、逆に特定のジャンルしか歌わないとか、合唱団にはいろいろなタイプがあります。またそのような属性で合唱団の音楽性は変わってくるものです。例えば、古楽を中心に歌っている合唱団に、ピアノ伴奏の邦人合唱曲を歌わせても面白く感じない人は多いことでしょう。逆にピアノ伴奏が普通だと思っている人は、アカペラに異常に拒否反応を示したりします。
同じように、指揮者にもいろいろなタイプがいます。合唱連盟の中枢にいる有名指揮者、吹奏楽と兼任している音楽の先生、オペラ専門の声楽家、元々ピアニストなどなど。そういった出自によって、指揮者の音楽的傾向も異なるはず。

そういったもろもろの音楽性の要素をベクトルで表現してみましょう。音楽性をm次元のベクトルMで表現するものとします。合唱団の音楽性は各団員の音楽性の総和です。各団員の音楽性は、an×Mnで表すものとします。aは、ベクトルの強さ、すなわち影響度の大きさとでもいいましょうか。
合唱団は指揮者(指導者)があって初めて成り立つものとすると、合唱団全体の音楽の方向性は、指揮者の方向性と合唱団の方向性を足したものになります。
以上の状況を図に示してみます。
Cond
指揮者の影響度acと各団員の影響度anは、重みはだいぶ違います。指揮者は前に立って、指導するので、団員一人一人の影響度よりはるかに大きな値になるはずです。

そのような前提で考えてみると、合唱団と指揮者の関係として、上図の1,2,3のような状況が考えつきます。
1は、合唱団の音楽性と指揮者の音楽性が非常に近い位置にあります。そのため、二つのベクトルが合わさって非常に強い音楽的効果を生むことが予想できます。
2は、合唱団の音楽性が弱い場合です。これは個々の団員にそれほど明確な音楽性が無いか、団員の指向性がバラバラな状態であると考えられます。このような団体では、指揮者の音楽的影響が強く表れ、合唱団が指揮者色に染められていくことでしょう。
さて、最悪なのは3のパターン。合唱団は比較的明確な音楽性を持っていますが、このベクトルが指揮者のベクトルとかなり違う方向を向いています。結果的に二つのベクトルを足し合わせたものは、誰もが望まない、しかもレベルの低いものになってしまう可能性があります。早晩、この関係は破綻するかもしれません。

もちろん、ベクトルの各次元の要素は何?とか、そういう細かいことは検討していません。純粋に概念的な思考です。しかし、ここに具体的なパラメータを入れて計測してみると、学術的に面白いデータが得られるかもしれません。

2010年8月22日日曜日

指揮者と合唱団の関係

まあ合唱団が人の集まりである以上、人間関係に関する問題はどこでも起きうる話ですが、ここでは特に指揮者と団員との関係について考察してみたいと思います。
特にアマチュア合唱団において、指揮者とはどんな役割を持っているのでしょう。当たり前ですが、合唱団の音楽的特徴を一手に握るわけですから、団の魅力の多くは指揮者に負うものが最も大きいはず。人によっては、指揮者の魅力そのものにそれほど価値を感じない人もいるだろうし、地方の場合、合唱団に選択の余地がないといった事情もあるかと思います。それでも、練習の面白さ、歌う楽しさの多くは指揮者に依存しているはずです。

指揮者の魅力とは何か、と考えたとき、一つには音楽的、芸術的な魅力であり、もう一つは人格的な魅力だと思います。まあ、見た目というのもあるかなぁ。
しかし、上記の二つの魅力は実は渾然一体を成していて、どこからが音楽的な魅力か、どこからが人格的な魅力かと分けることは難しいもの。私の見るところ、多くの人が人格的魅力を、音楽的魅力と解しているように見えます。具体例は挙げづらいんですが、ある指揮者を信仰している人は「あの人の音楽は素晴らしい」とたいてい言うでしょう。しかし、端から見ると実際はカリスマ的な振る舞いとか、親分肌的な性格に心酔しているようにも見えます。

それは結局、合唱団員一人一人の音楽観、人生観の反映でもあります。
私自身はちょっと苦手なのだけれど、中学、高校の合唱部などで顧問の先生をヒエラルキーの頂点とした、体育会系的な厳格な上下関係と、とにかくやれ的な圧力、しかし(音楽そのものより)そういった努力こそ美しいものと考えるようなノリってありますよね。テレビ番組なんかでもそういう部活特集も多いし。
このノリを意外と引きずっている人も多いです。自分が若い頃薫陶を受けた師匠をすべて基準にしていて、たいていの場合師匠は美化されているので、どの合唱団に行っても過去の体験を凌駕できない、と思ったりします。こういう人は、今の練習にもピリッとした規律や厳しさを求めます。

一方、そういうことと全く無縁に、毎週歌を歌いに来ることがシンプルに楽しいという方もいます。そういう人は自分が楽しめることを最優先事項とするので、楽しめない練習、には抵抗を示します。
むしろ厳しさよりも、学ぶ楽しさ、うまくなる楽しさ、が大事で、それを実感できるような練習である必要があります。こういう人にとって個人の吊るし上げなど最悪の練習法です。

上記は合唱団のタイプにもよります。厳しさ重視と楽しさ重視、と簡便に言うのなら、若い合唱団と実績のある指揮者なら厳しさ重視になるだろうし、地方の市民合唱団なら楽しさ重視となるでしょう。
率直に言えば、コンクールなどを見る限り厳しいほうが上手いことが多いです。ただ私が指揮をする場合は、練習での楽しさを忘れないように努力をしているつもりですし、そもそも厳しさはあまり似合いそうもありません。

2010年8月19日木曜日

編曲における著作権についての私見

編曲のとき、オリジナルの作曲者への許可が必要か、ということはネットでも多くの人が繰り返し質問しています。この件について、ややセンシティブな内容ですが、日頃思っていることを正直に書こうと思います。

ちなみに、ネット上にあるこうした質問への答えはほぼ「許可が必要」と書かれます。まあ、そのように聞かれれば、そう答えるしかないのも事実。しかし私流に、もう少し正直な言い方をするなら「許可を得ておけば絶対に間違いはありません」ということだと感じています。

まず編曲が、オリジナルの著作者のどのような権利を侵すかを考えてみます。
私は法律家では無いので、内容は保証しませんが、著作権とは言っても、財産が絡むものと絡まないものがあります。編曲して演奏しても原曲の著作権者には著作権料は入るのですから(ちゃんと申告してあれば)、編曲そのものが著作権者の財産権を侵すものではないことは理解できるはずです。
編曲を許可する権利とは、財産の絡まない著作権、一般に著作者人格権と呼ばれる権利によるものです。つまり、作品を勝手に変えられてスゴい傷ついた、とか腹が立った、といったときに申し立てることができる権利です。
もちろん、人格権は日本では有効ですから、勝手に編曲した後、著作権者から人格権の侵害だと告訴されれば裁判では負けることになるはず。
ただし、ここにはいくつかの「もし」があります。
もし、著作権者が勝手に編曲された事実を知ったら、
もし、著作権者がその編曲に腹が立ったら、
もし、著作権者が編曲者を告訴したら、
この条件が揃えば、編曲者の罪は確定します。

特に三つ目の条件は個人的に重要だと思うのですが、告訴できるのは著作権者のみ、ということです。こういった罪のことを親告罪と言います。例えば、演奏を聴いていたお客さんが「コレは良くない」といって訴えても、あるいは警察が許可を得ていない実態を知って訴えても、著作権者自身が訴えない限りは罪にならないのです。例えば、編曲を聞いたオリジナルの著作権者が「まぁ、なんて素晴らしい編曲なんでしょう」と思えば、罪どころか喜ばれます。
というようなことをつらつらと考えていくと、地方のアマチュア音楽家が勝手に編曲して、地方の演奏会でそれを取り上げたとしても、その行為自体が罪になる確率は極めて低いものであると考えられます。

もう一つ、文化的な側面で考えてみたいのです。
その昔の音楽では、「○○の主題による○○」みたいなタイトルの曲とか結構ありますし、原曲をリスペクトした上でその音楽を自由に編曲していた時代がありました。
あるメロディが別の創作家にインスピレーションを与え、それがまた新しい音楽の世界を生み出す、ということは極めて自然な行為だし、芸術的に何ら後ろめたいことは無いと私には思われるのです。
もちろん、中にはオリジナルよりダメダメになってしまった曲もあったかもしれません。でも、それはその音楽を聴いたお客さんが判断すれば良いだけのこと。少なくとも私は、自分の曲を別の人が編曲してくれるなんて、それだけ自分の曲が人に何らかの影響を与えたことを意味しているようで、とても嬉しく感じます。
自分の作品は一切編曲してはいけない、という創作家の態度を私は好みません。あまりにナルシスト過ぎます。芸術はもっと自由であるべきです。溢れ出る創作意欲を止めようとすることこそ悪ではないでしょうか。

と、ここまで書いてきましたが、私は許可なく編曲しても全然問題は無いと考えている、とここで断言するつもりはありませんよ。ブログに書く以上、公な意見ですからね。
後は、編曲したいと考えている皆さん一人一人が自分の行為を決定してください。

2010年8月16日月曜日

歌と踊りのある生活2

さて、実際に書きたいことって実は、今回の方。
前回も言ったように私には踊りを楽しむ文化はありませんでした。そして、多くの日本人もまた同じではないかと思います。もちろん各地で行われる祭りとか盆踊りとかあるけれど、それって若者が熱中するような踊りとはちょっと違う感じ。
生活に根付いた踊りというのは、伝統だからやらねばならぬものでは無くて、もう何しろ踊りたい、という基本的な欲求によるものです。若者が夜の街でハチャメチャになって踊り狂いたい、とか思う気持ちとほぼ同じというべきか。

日本にそういう文化があまり根付いていない一方、世界を見るとむしろ生活に踊りが根付いているほうが一般的。例えば欧米の国々にはパーティ文化があり、パーティには必ず音楽と踊りの時間がある。それは社交ダンスのようなものだけでなく、流行歌の場合もあるし、地方の民謡の場合もあるし、DJのようなクラブミュージックという場合もあるでしょう。TPOによって踊りの種類が違うだけです。
欧米だけでなく、中東のアラブ系、インド、中南米、そしてアフリカといずれも歌と踊りが生活に根付いているように思います。人が集まれば、必ず生バンドが演奏し、それに合わせて皆が踊るわけです。

なぜ、そんなことを感じているかというと、私が仕事で関わっている電子キーボード類は、そのようなパーティの場で使われることが多いからです。例えば中東で音楽のプロというのは、CDをリリースしてコンサートを開くようなアーティストというよりは、結婚式や祭りなどのイベントでお金で雇われて演奏する音楽家のことです。バンドだけではなく、予算に応じてリズム内蔵の電子キーボード一台でも生演奏は可能です。左手でコードを指定するような楽器は日本では全く用途がありませんが、外国では非常に大きな需要があるのです。
もちろん彼らは単に黙々と楽器を弾くだけでなく、様子を見ながら曲調を変えたり、踊りを盛り上げるように扇動したり、歌を歌ったりと、その場のエンターテインメントの中心にいる人になります。演奏家に要求される才能は音楽だけではないのです。

そんなことをいろいろ考えてみると、我々日本人の音楽には踊りが足りない、と思います。もちろん、だからと言って「さあ,みんな踊ろうよ」などといっても浮くだけ。我々が音楽で踊るようになるには、欧米的なパーティ文化が根付く必要がまずあるように思います。
日本では居酒屋で宴会、というのが人が集まった時の楽しみ方ですが、この状態で踊るのは難しいし、もしやったらかなり迷惑。
残念ながらそういう意味では、日本人が踊るようになるのは一朝一夕では無理そう。まだまだ何十年もかかるのではないでしょうか。それまでは、我々は外国の歌と踊りの文化を羨望の眼差しで見つめるしかないのかもしれません。
それとも果敢に、率先して踊ってみますか。(私は無理そうです)

2010年8月14日土曜日

歌と踊りのある生活

日頃、私たちは生活の中で歌や踊りを楽しむことは稀なことです。私に関して言えば、確かに合唱では歌っているけれど、カラオケにはもう最近全然行っていませんし、普段の生活で歌う機会はそう多くはありません。しかも踊りなんて恥ずかしくてそうそうやれるもんじゃありません。盆踊りだって最後にしたのはどれほど前のことか。今でも、大学生の頃(バブル全盛期)、研究室の面々でディスコに行った時のノレなかった感を思い出します。残念ながら、自分の周囲には踊って楽しむという文化は無かったようです。

しかし、最近、いろいろなことで「歌と踊り」の意味について再確認させられます。
少なくとも、私たちはプロフェッショナルな人々の歌と踊りを見るのは好きなようです。人間には、心の深い奥底に歌と踊りを求める遺伝子が存在しているのではないかとも思います。
ウチの1歳2ヶ月になる子は、もちろんまだまだ言葉なんて全然でないし、会話によるコミュニケーションは不可能ですが、「おかあさんといっしょ」のような番組で歌と踊りがテレビから流れてくると、食い入るように見つめています。
言葉よりも早い段階で、音楽は幼児の心を掴むのは確かだと思います。そうでなければ、幼児番組があれほど音楽を流している理由がありません。そして、その音楽に合わせて誰かが踊っている、というのは極めてストレートに人の心を刺激するように思えます。
考えてみれば、10代、20代が熱中するようなアイドルは、歌と踊りのカリスマであると言っていいでしょう。低俗だと冷ややかな視線を浴びせる人もいるでしょうが、舞台で歌と踊りを披露し、それを見て熱狂する、という風俗は時代、人種を問わずもう人類普遍のものではないかと私は思います。
ちょっと前に書いた南アフリカのカースニーカレッジのコンサートでも、歌と踊りのエンターテインメントで私たちを楽しませてくれました。まさに、歌と踊りは人種と文化を乗り越えて、直接人の心に響く表現手段なのではないでしょうか。

かなり前に、「歌うネアンデルタール」という本を読んで、その中に書いてあったのだけれど、人類が進化していく過程で、現在の言語よりも前に歌のようなコミュニケーション手段があったのではと推測しています。
もし、そうだとするならば、歌と踊りはもう本当に根源的な人間の基本的欲求であり、人々をエンターテインするのであれば、そこを究めねばならないということに繋がるのではないか、そしてそれはあらゆる表現者が立ち向かって行かねばならないことではないか、と最近感じています。

2010年8月9日月曜日

英語公用語化

楽天の社内英語公用語化って恐らくいろんなところで議論が巻き起こっていることでしょう。
当然、ほとんどの人が反対派でしょうから、あまのじゃくな私としては、ちょっと賛成してみたくなります。もちろん、基本英語苦手な私が賛成しても全く説得力無いですが。

まあ、誰もがそんなの無理だと心の中では思ってます。私もそう思います。だって、日本人が普通にたくさんいる場所で、英語で仕事しなきゃダメって言うのはかなり無理な話。
しかし、日本人は日本語しか話されない場所に慣れ過ぎていて、それが当たり前だと思い過ぎているというのもまた事実。マルチリンガルな環境であれば、取りあえず意思疎通を図るため、良い悪いはともかく英語で話すのが手っ取り早いという事実はあるでしょう。
実際、中国人や韓国人と話すのだって英語が一番簡単だと思います。

だから、無理矢理でも外国人が多い職場になれば、英語公用語化は議論するまでもなく起こりうる話です。社長が日本人だから日本語、なんて意味ないのです。
ただ楽天の全ての職場に外国人がいるわけでは無いでしょうから、日本人ばかりのところでどこまで英語を話すかっていうのは難しいところでしょう。現実には、なあなあで適度なところに落ち着かせるとは思いますが。

実際、普段しゃべる言葉を英語にしたら何が変わるでしょう?
まず、否定が簡単に言えるようになりそう。会議中、日本語なら「私はそうは思いません」とはなかなか言いづらいもの。もちろん状況にもよりますが、出来るだけ否定語を使わずに、発言しようと思ったりしませんか。英語なら、"I don't think so"とか、簡単に言えそう。っていうか、英語だと良く言われるし。他人の意見を否定する、という行為の敷居を下げるのに一役買うのでは、という期待はあります。
次に、大きな利点は敬語の問題。丁寧語とは違うのです。歳下に「〜だよね」とは言えても、部長には言えない。せいぜい「〜ですよね」。でも、そういう言葉を今度、歳下に言うとそれはそれで奇妙。私たちは組織の中での上下関係を知らず知らずのうちに言葉で表現している。でも、英語になればそれが無くなります。偉い人も、若い人もより対等の関係になるのでは無いかと思います。
いずれも文化的な問題なのですが、もう一つ文化的なことを言えば、日本では「沈黙は金」、でも海外では"Silence is evil"です。日本の会議でよく沈黙が流れることがある。ところが外人が混じった途端、しゃべりまくる外人、うなづくだけの日本人という構図になります。言ったが勝ちの世界。言わない方が悪い。「言わなくても分かる」文化からの決別です。だからこそ、より言葉の内容が重要な意味を帯びてきます。

どうせみんな、大してしゃべれないでしょうから、早急に自分の周りで英語公用語化は無さそうですが、そういうドタバタが起きるなら、英語公用語化も悪くないと密かに思っています。
あとそれから、日本語や日本文化が失われる・・・なんて議論もあるかと思いますが、別に日本語を話すな、と言っているわけじゃないのだから(公用語ってそういうことじゃないだろうし)、それは過剰反応かと私は考えます。むしろ、日本語を見直すいいきっかけになるんじゃないでしょうかね。

2010年8月7日土曜日

Twitterの始め方

Twitterは、随分前からアカウントだけは持っていたんですが、今の今まで、おおよそ使いこなしているとは言い難い状況です。
Twitterってシンプルそうなわりに、妙に難しいんですよね。実際に見てみると、何でこの発言が自分のタイムラインで読めるのか良く分からなかったり、返事なのにフォローされてないと読まれないとか、今ひとつ要領が飲み込めません。
そんなわけで、しばらく読むことに徹していました。当初は新聞社のニュースなどをフォローしていたら、とんでもない量のつぶやきがやってきて、他のものが読めなくなってしまったので、止めてしまいました。「名言」ってのも楽しかったんだけど、これもちょっと量が多すぎ。中身が濃いので、一日一回くらいにして欲しい。
結局今読んでいるのは、ブログも大変楽しく購読させて頂いているこの人。ここから派生して何人か有名人のつぶやきを読んでみようかと思っています。

しかし、人のを読んでいると、自分も何か書きたくなるもの。
サラリーマンの日常なんて全く面白くないし、子育てネタ書いてもしょうがないし・・・。なんて思っていたんですが、楽譜を書きながらそのとき考えたことをつぶやこうかなと思い付きました。自分にとっての備忘録になるし、孤独な作業だからこそ、ついつい独り言を言いたくなるっていうのがTwitter的な感じがします。
作曲の仕方は人それぞれでしょうが、どんなふうに楽譜が書かれているのか興味のある方もいるかもしれません。詩選びから、詩の読解、曲の構成の検討、実際の作曲作業・・・と、今自分がやっていることをちびちびと垂れ流していこうと思います。
いろいろと迷いながら考えているライブ感が伝わると幸いです。私のプロフィールページはこちら

2010年8月6日金曜日

楽譜のコピー方法

普通の合唱団なら、ほとんどの場合、市販の楽譜を練習で使っていると思いますが、それでも時々何らかの原因で楽譜をコピーして使うことがあると思います。
例えば以下のような場合です。
・市販楽譜のコピー(良くはないけど、現実よくあるハズ)
・誰かが編曲した楽譜を配る
・初演時の作曲家の直筆楽譜を配る
・古い記法を現代楽譜に書き直す
・小節やパートを削除した特製版
などなど・・・他にもいろいろありそうですね。

こういった状況で、やけに読みにくいコピー楽譜を手渡されることがあります。
読みづらい楽譜は、歌い手の集中力を欠くことになるので練習の効率が落ちますから、それは合唱団にとって立派な罪です。楽譜をコピーする時、どの用紙に、どのくらいの縮尺で、どのページと一緒にコピーするか、という点だけであなたのセンスを問われますよ。

例えば、ほとんどの楽譜は見開きで使うわけですから、配られたコピーも見開き状態であることを期待します。ところが、A4の紙に一ページ分コピーされた楽譜を、ページ数分だけ配られるとちょっと嫌になります。
それから、合唱団の年齢層にもよりますが、縮小コピーも考えものです。私も最近老眼気味なので、字が小さくて読めないとかなりフラストレーションが溜まります。もともと字が小さいのなら、それ以上の縮小コピーは止めたいものです。

例えば、4ページある楽譜をコピーして渡すとき、皆さんはどうしますか?
まあ、ほとんどの人は、1、2ページを見開きに、3、4ページを見開きにして、紙を2枚配ると思います。
ちなみに私は、4、1ページを見開きに、その裏に2、3ページを見開きに両面コピーして、紙1枚にして配ります。別にエコってわけじゃなくて、楽譜をもらった人にしてみれば、譜めくりも自然だし、製本もせずに済むし、そちらのほうが便利だと思うからです。
楽譜をコピーする時でさえ、そのような気配りが出来ると練習の密度が上がると思うのですが、いかがでしょうか。

2010年8月3日火曜日

街の編曲屋さん

このところ、嬉しいことにいろいろな方から編曲を依頼されることが多くなりました。昨日も、私の編曲モノを演奏会でやって頂けるというので聴きに行きました。(恐れ多くも)プーランクの歌曲を連弾に編曲してしまいました。編曲も本業の合唱はもちろんのこと、器楽の楽譜もいろいろと書かせて頂いています。すっかり街の編曲屋さんです。

今まで編曲した編成をざっと挙げてみると・・・
・歌&ピアノ
・ハープシコード&ヴィオラダガンバ&バロックバイオリン&ソプラノ
・チェロ&ピアノ
・マリンバ&ピアノ
・フルート&オーボエ&ピアノ
・馬頭琴&ピアノ&歌
いろいろ、風変わりな編成もあります。いずれも一度きりのものばかりですが、たまたま集まったメンツで好きな曲を自由に演奏出来るというのはイベンターにとって嬉しいはず。

実際いろいろな楽器の人が集まって何か曲をやろう、と言っても、編成に合った編曲が無いのは世の常。合唱でも、J-POPを歌いたいのに、編曲が無くてあきらめる方も多いことと思います。
自分がやるから言うわけではないけど、もっと皆さん、自分で編曲するなり、身近な人に編曲してもらえばいいと思うのです。クラシックの有名曲だって、オリジナルの編成でなくちゃいけない理由はありません。音楽はもっと自由だし、そんな自由さが巷に足りないと思います。やや危険な言い方ですけれど、著作権などお堅いことを言う人も多すぎます。

最近なら出来た楽譜をPDFファイルにしてメールでお渡しすることも可能ですから、楽譜のやり取りやら編曲者との連絡などもそんなに大変では無いでしょう(いまどき手書きで楽譜を書くアレンジャーはあまりお奨めできません。それは、かなりの化石な方です)。
編曲作業をめんどくさがったり、あきらめてありきたりな曲をやるより、面白い演目でお客様を楽しませたい、という気持ちを大事にすべきです。もっともっと編曲ステージを増やしましょう、皆さん。
もちろん、余力のある限り私もご協力いたしますよ。

2010年8月1日日曜日

終わりに

これまで「音のリクツ」を愛読して頂きありがとうございました。これにて、私が書きたかった内容は終わりです。

実際書いてみて、まだまだ説明が足りないところとか、文章が今ひとつ良くないところとか、たくさん心残りはあります。記事自体はネット上に残るわけですから、気がついたときに内容を少しずつ修正していきます。それから、なるべく図をたくさん入れるつもりでしたが、ちょっと面倒になって結局字が多くなってしまいました。これも、暇を見つけて図を足していこうかなと考えています。
そんなわけですので、一応終わりますが、まだまだ内容は修正していきます。今後もご意見ご要望がありましたら、何なりとご連絡頂きたいと思います。

私自身、音についてまだまだよく知らないことが多いですし、音声については研究も盛んですから、これから新しい事実がさらに出てくることでしょう。
一般の人が思っているほど、音声に関してはリクツが明瞭になっているわけではないのです。人の話した言葉をコンピュータが理解する(音声認識)という研究では、まだまだ人の理解力よりコンピュータの方が断然劣ります。
音楽を認識させようとしても、複数の音のピッチを取り出すこともコンピュータではまだ上手くできません。意外と基礎的なことも、まだ技術的には出来ていないことは多いのです。
まだまだ、音には私たちの理解出来ていない領域があります。そういう事実がこれからどんどん明らかにされるのを私は楽しみにしています。こういった情報も必要あれば、また追記したいと思います。

今まで書いた内容が皆様の音楽活動にプラスになることがあれば大変嬉しく思います。リクツを駆使して、良い音楽を奏でてください!

35.データの圧縮

同じように音声データを聴けるのなら、データ量は少ない方がダウンロードの時間も少なくても済むし、パソコンでコピーの時間も少なくて済むし、メモリの容量も食わなくて済みます。
特に動画、音声のデータは大きくなりがちなので、一般的にはこれらのデータは圧縮されることが多いのです。

これまで説明してきた音のデジタル化は全く圧縮されていない方法です。CDはこの方法です。これをそのままコンピュータのファイルにすると、WAVという形式になります。
圧縮したデータのファイルとしては、MP3AACWMV等があります。これらは非可逆変換といって、一度圧縮されたデータを元に戻すことは出来ません。
元に戻せない圧縮なんてアリなの、と驚く方もいるでしょう。音声の場合、人間の耳の特性を利用すると、元に戻せなくても(つまり情報を削っても)ほとんど違いが分からないくらいに音を再生することが出来ます。そうすることによって、データのサイズは1/10程度まで減らすことが可能なのです。

では、どうやって音声データを圧縮しているのでしょうか?
一つは、ラウドネスカーブを利用しています。「22.音の大きさ」でも書いたように、周波数の低いところと高いところではレベルが低いと人の耳には聞こえなくなります。この辺のデータを間引きます。聞こえないなら消しちゃえ、ということ。
もう一つは、マスキング効果を利用します。人間は同じ周波数くらいで鳴っている複数の音のうち、音量の大きいほうを聞くという特性があります。これを利用すると、大きな音の周波数周辺のデータを少しくらい削っても、人間は気付くことが出来ません。
とはいえ、圧縮の比率を大きくしていくと、やはり音はだんだん悪くなっていきます。WAVのままが一番良い状態です。自分で録音したデータを後で加工するつもりなら、保存用には非圧縮の状態で取っておくことをお勧めします。