2012年5月13日日曜日

音楽の二極化

音楽の未来についてまたまた考えてみます。
例えば、絵画に対して写真、そして演劇に対して映画という関係にどのような意味を感ずるでしょうか。
写真はカメラが発明されたから可能になった芸術であり、映画も同様で映写機という技術の進歩によって新たに生まれた芸術分野です。

昔は、絵に描いて何かの情景を伝えるという意味合いもあったかもしれません。しかし、そういう用途はほぼカメラで写真を撮ることで置き換えられてしまいました。法廷の様子とかはまだ似顔絵を使ってますけど。
しかしカメラが出来たからといって絵を書く行為が無くなったわけではありません。絵なら現実に無いものを書くことも出来るし、抽象画の世界は、写真で真似することは出来ないでしょう。

映画と演劇の関係もまた然り。
映画が出来るまでは、あるストーリーを演ずるのは演劇しか方法がありませんでした(もちろん広い意味でオペラとか、ミュージカルとか、歌舞伎とか、音楽と一体化したようなものも含めての話です)。
しかし、映画が出来たことにより、その場に役者がいなくても演じられた劇を見ることが出来るようになりました。物語を伝える方法は演劇から映画へとメインストリームが移行したと思いますが、未だに演劇が残っているということは、演劇でしか伝えられない何かがまだ残っているということです。

ここまで言ってしまえばだいたい想像できるように、音楽の楽しみ方も生演奏とオーディオ再生があります(CD、レコードももはや時代遅れなので、オーディオ再生と言います)。カメラや映写機と同様、オーディオ再生は技術が生み出したものでした。
ところが、音楽の場合、写真と絵画、映画と演劇のような二極化があまり起こらず、同じ音楽家がCDやレコードを出し、それをライブで演奏する、という二つのことをやっていたのです。それは音楽においては、人前で演奏してなんぼという感覚が非常に強かったのではないかと思います。
経済的な意味もあったでしょう。音楽ビジネスはレコード以前は、コンサート収入だったのが、レコード以後はレコードの売り上げが主な収入になりました。
しかし、ご存知のとおり今やCDが全く売れない時代になり、音楽ビジネスが大きく変わろうとしています。

オーディオ再生の音源製作では、もはや演奏不可能な音を入れることも可能です。むしろ、ライブでは音源のクリックに合わせながら演奏者が楽器を弾くということも非常に一般的に行なわれています。
とはいえ、本来音楽ライブでは見事な名人技を聴きたいのです。
それこそが生演奏を聴く醍醐味ではないでしょうか。

それとは別に楽器を演奏することから全く離れて好きな音源を製作するという表現方法があってもいいでしょう。
例えば、ここ数年日本の音楽シーンを賑わせているボーカロイド音楽においては、ボーカルがライブで演奏することが不可能であり(まぁライブっぽいイベントもあったようですが)、まさに音源製作としての芸術と言えるものです。

ボーカロイドに限らず、世の中にあり得ない楽器、あり得ない音を使って音楽を作ることが一般的になる可能性はあります。
そうすれば音楽も、写真と絵画、映画と演劇といった関係と同じく、オーディオとライブ、というような音楽の楽しみ方の二極化が起こるかもしれないという可能性が出てくるのではないでしょうか。

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