2013年1月19日土曜日

音楽の記号的側面 -記号の要因-

音楽が記号化する要因はどのようなものがあるか考えてみましょう。
ざっくり考えてみると大きく二つくらいが思い付きます。一つは権威筋や他人の評価による記号化、そしてもう一つは、繰り返し反復されて刷り込まれることによる記号化です。

権威筋や他人の評価による記号化、というのは、音楽を聴く前に誰かがレッテルを貼って、そういうものだと思い込むことです。例えば、誰かがこの音楽が良いと言ったことによって、それならきっと良いものだろう、と思ってしまうようなことです。
これは創作物を公正に評価するという点では、正しい方法とは言えないとしても、これを否定しては社会生活することは不可能です。人は全ての事物の専門家になることは不可能であり、自分の不得意なことについては他人の評価でモノゴトを判断する必要があるからです。

しかし、音楽の評価に権威筋や他人の評価が非常に大きな影響を与えていることをもっと直視しなくてはならないと思います。
今や権威的な指標ではなくなりましたが、オリコンチャートとか、もっと昔ならテレビ番組でやっていたベストテン、トップテンといった音楽のランキング情報は、以前は大きな影響を持っていました。
自分の若い頃を考えると、こういった番組が音楽を楽しむ窓口になっていたと思います。このような時代には、ランキング外の音楽は全く相手にされませんでした。今思うと、恐ろしく音楽の多様性を排除していた時代だったのではと感じます。

個人の視点で考えれば、テレビや雑誌だけでなく、自分の友人や知り合いからの情報や、身近な尊敬すべき人の愛好するものに影響されるということは良くあることです。
そして、他人から影響を受けたにも関わらず、人は知らないうちに自分の意見だと思い込んでしまったりします。まぁ、それは悪いことではないのですが、以前言ったことと全く正反対のことを平然と言っているのを聞いたりするとのけぞってしまったりします。

ただし、人の意見に影響されることを記号化というのは微妙な部分もあります。
「今みんなが聞いている良い音楽」という記号化は、いつしか自分も好き、に変わっていきます。その曲が好きだと思っている人は、記号的な価値ではなくその音楽が持つ本質的な価値を評価しているのだと主張することでしょう。
従って、記号的であることを検証することは不可能ですし、大ざっぱな印象以上の議論をすることは難しいと思います。
それでも、人々の多くにとって音楽の価値を公正に判断することなどほとんど不可能なことなのです。


さて、もう一つの反復による刷り込みについて。
例えば、小学校の何かの時間のテーマソングとか、よく見るテレビドラマの主題歌とか、もういやを通り越して空気と同じくらい日常で聞かされている音楽というのがあるのではないかと思います。
その曲に特に思い入れがなかったとしても、頻繁に聞くことによってそこに何らかの意味が生まれます。その記憶が楽しいこととして残るのなら、その音楽も楽しいことと付随した印象を持って覚えられることでしょう。

自分の子供が音楽を聴いている様子を見て、この反復による刷り込み効果の大きさを感じるようになりました。
確かに客観的に見て、あるメロディが名曲である必然はあるのかもしれませんが、名曲だからという理由で何回か聴いているうちに、その音楽がどんどん特別なものに変わっていってしまうのです。

ちょっと大げさな話かもしれないけれど、人間が音楽芸術を持っている理由はまさにこの特性に依存しているのではないかと感じるのです。
人間は人と共感して仲間意識を作り、一人では達し得ない大きな仕事を成し遂げる動物です。この共感して仲間意識を作るために、音楽は非常に大きな役割を持っているのではないかと思うのです。
ある集団で、みんなが鼓舞するようなタイミングで演奏される音楽があるとします。
こういう音楽を何度も何度も聞いているうちに、その音楽は人々を鼓舞する機能を与えられることになります。
こうやって人々は何かを成し遂げるために音楽を利用し、音楽で集団的な陶酔状態を作り出したのではないかと考えたりします。

このように音楽の記号的側面を考えることは、音楽が人間にとってどのような役割を持っているか、ということを考えることに近づくような気がしています。
音楽は絶対的な論理的な構造のみで説明されるものではなく、人々の意識に何かをもたらしその心を刺激するものであり、そのために音楽を論じることは人間を論ずることに繋がるのではないでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿