2013年1月5日土曜日

音楽の記号的側面

記号的というのは、ざっくり言えば、あるコンテンツが内容そのものとは別に特定の意味を付与されて理解されてしまうような状態のことを言っています。
例えば、AKB48の曲を楽曲分析したり歌詞を読んだりせずに音楽的なレベルを云々と批評するような行為です。もちろん、何かを批評しようとするときに内容まで完全に理解するまでも無い場合、モノゴトを記号的に理解することによって、ざっくり傾向を把握することも必要なことです。

音楽を理解しようとするときに、実は多くの人がこの「記号的側面」に知らず知らずのうちに影響されている、ということを私は言いたいのです。
概言的に言えば同意される人も多いとは思うのですが、個別の話になるとやはり別。みんなが何となく常識で思っていることが、非常に記号的なコンテンツの把握の仕方だと感じることも多く、そういうこと一つ一つに疑いの目を向けていると、逆にこちらのほうが奇異な目で受け取られてしまうこともあります。

しかし、そもそも音楽とは非常に根深いところで人から記号的な判断をされ易いものではないかと感じるようになりました。
例えば私の息子の場合。彼はいま3歳ですが、順調に音楽好きになっているところです。クラシックのいろいろな名曲をYouTubeで聴いているうちに、お気に入りの曲がたくさん出来ているようです。
しかし、実際に好きになる過程を見ていると、好きだから何回も聴く、というより何らかの理由で何回も聴いているから好きになっているような気もします。
その何らかの理由とは、例えば私が「この曲キレイだよね〜」と言ったとか、テレビCMで何度も聞いたとか、何らかのBGMで使われていたとか、そのようなたわいもないこと。最初のきっかけは実はそんなものではないかという気もするのです。
そして、音楽的な内容とは別のところで彼の音楽の好き嫌いが醸成されているようにも見えます。

上記のように「音楽に絶対的な美しさの基準がある」という考え方自体を否定せざるを得ないようなことが多々あります。
このような場合、音楽の価値はその記号的側面に非常に影響されます。歌謡曲の場合、誰が、どのようなシチュエーションで、誰に向かって、どこで、どんな方法で、演奏するのか?ということが記号化され、それが時代の波にうまく乗ったときに、大量消費されます。このような状態において、その音楽的価値を純粋に評価することはナンセンスなことです。
しかし、芸術的と言われる純音楽というようなものでさえ、多くの人は単に記号的に把握していることが多く、何度も名曲と刷り込まれることによって、誰も疑わずに名曲と言っているに過ぎないように思えます。

すでに記号的意味が確立しているコンテンツに対して、その本質的な価値を説明する人は世の中にやはり必要ですが、それは専門家としての立場で当然のことをしているに過ぎません。
逆にすでに価値が確立しているもののその価値に疑問を投げかけたり、全く価値が確立していないものに対して賞賛するような行為は大変勇気がいるし、たいていの場合、そういう言説は否定されやすいものです。
しかし、記号的意味からどれだけ解放されるか、ということがモノゴトの本質に近づく方法だと思いますし、そういう態度を継続することが長い目で見て、良質なコンテンツを見つけたり作り出す能力を育むことに繋がると思うのです。

そのためには、我々がどのように記号的意味に束縛されているのか、それを認識するのは必要なことのように思われます。
というわけで、そもそも音楽にはどうしても記号的意味が付かざるを得ない側面があるのではないか、という最近の私の考えを少しずつ整理してみたいと思います。

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