2012年1月21日土曜日

組織にどれだけ規律は必要か?


英語で規律のことをDiscipline(ディシプリン)と言います。
聞いたことある単語だけど、先週初めて意味を知りました。
「近所で迷惑だったことがある?」「そういうのどう思う?」みたいな文脈で英会話していたときに出てきた単語。
意外とフィリピン人が近所で迷惑をかけないように規律を持って生活すべきだと言っていたのは印象的でした。それと同時に、日本人はそういうとき「規律」という言葉を使うだろうかと思ったわけです。

私たちはいろんな場所で集団で活動をしています。
職場でも趣味の集まりでも、集団で何かやるにはルールが必要ですし、集団にはルールを課して守らせようとする人々と、ルールをあまり守ろうとしない人々が必ず出てきます。
マンションのように、お互いの交流が薄いような場所では、むしろ見えない相手に失礼が無いようにルールを比較的守る傾向にあると思うのですが、長い間一緒にいる仲間だとついつい甘えてしまい、厳格にルールを守ることが難しいケースも出てくるでしょう。

合唱団などとても良い例ですね。
いつも口うるさく、ルールを守らない人を糾弾する人がいると、まあ言い方にもよりますが、そういう人を良く思わない人も出てくる。しかし、そういう人が口うるさく言うからこそ、ある程度規律が保たれるという側面もあります。
人は他人から怒られたくは無いから、規律が少なく、いろいろなことが自由に出来るほうが心地良いと感じるはずです。しかし、ある程度規律が緩やかになってしまうと、収拾がつかなくなりその団体の本来の目的を達成することが困難になってきます。規律が緩やかだから良かったと思っていたのに、それが結局、集団や組織の活力を奪ってしまっていた、ということになってしまうのです。

人に嫌な思いをなるべくさせずに、集団や組織に規律をうまく浸透させられればそれが一番良いことでしょう。それには、やはりその集団内に圧倒的な魅力を持ったカリスマが必要なのかもしれません。しかし、そのような恵まれた集団というのは滅多に無いものです。

私は比較的集団のルールは守ろうと生きてきたつもりですが、そういう意識が弱い人は少なからず存在し、内心不快さを感じていました。
例えば、どんな集団でも持っている最も一般的なルールは時間です。
時間通りに来ない人というのは、一般的に規律にルーズな人間であることが多い。こういう人が、集団内のいろいろな活動で無意識のうちにルーズな行動を取ることに不快さを感じます。

もう一つ、ルーズさとは別に、規律を守らせる側に反発し、意識的に規律を犯す人たちも存在します。
この人たちは運営側に若干の敵意を持っているか、あるいは運営側をバカにしているため、運営側もあまりきつく言わず放置気味になりがちです。しかしあまり放置していると、なぜ彼らは規律を守らなくても許されるのかと、他の人たちが不満に思い始めます。
例えば、日本の場合年長者に注意しづらいこともあり、集団の高齢者の何人かが意識的に規律を守らないような場合があります。こういうのも腹立たしいですね。どのように柔らかく注意しようとしても、一度相手の逆鱗に触れてしまうと、非常に嫌な思いをするハメになります。

その昔私は、合唱団の各団員が自律的に活動し、緩やかな規律の上で集まっているような団体を夢見ていました。
しかし現実には、規律が緩むと音楽の質が緩むことが多く、そのような自律性を持った人々は、そうそう多く出会えるわけではないことを日々実感しています(でも確実にいますが)。
どのような集団にも、ルーズな人、確信犯的にルールを守らない人がいる、ことを前提に、ある程度の規律を持って集団、組織を運営すべきなのか、気の小さい私はいつも悩んでいるのです。

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